陽光がフローリングの上でくっきりと形を成す昼間の一時のこと。風太郎は教え子の家を訪れていた。
30階の高層マンションから覗く窓の外は雲一つない青い晴天で、お出かけ日和とも言える時間に彼の視線は下を向いていた。
静かなリビングの中、足を伸ばして、日向を避けてソファに腰をかけていても、優雅な休息とは言えなかった。
太陽とは違う光が視界の中央に残り続けている。透明なフィルター越しに映る画面にはカタカタと文字が次々と羅列していく。
4月から転勤してきた高校教師の上杉風太郎は、休日にまで仕事をしていた。教師とは酷な職業である…
タイピングの音だけが耳に届いていた空間に、ドアが開く音と、複数の足音が。
風太郎が察知してノートパソコンを閉じる前に、住人が帰ってきてしまった。
「おかえり、二乃、五月
邪魔してるぞ」
「…」
「…」
午前中から映画を見に行っていたらしい、五つ子のうちが二人、中野二乃と中野五月が帰宅した。
女だけの家庭環境に男が舞い込んできている。先制して挨拶を述べると…二人は驚きとは違う、意外そうな瞳で風太郎を見つめ返した。
十歳年上相手にも手厳しく睨んでくる二乃と、真面目で融通が効かない五月だ。この二人に揃って訝しまれるとつい身構えてしまう。
「…あ? 何だ?
ジロジロと見やがって、先に上がらせてもらってるぞ
昨日メールで教えただろうが
誰もいねーし、勉強したいっつーからここで待ってたのによ」
「いや、別に寛いでくれてていいんだけど…」
「夕方は勉強会ですし、上杉君がいらしているのは織り込み済みでしたが…」
「…? だったら何なんだ」
「それ」
おでかけ日和の午後を堪能してきた二乃の指先には若干の日の温かさが残っていた。つーか爪先が前髪を掠ったわ。
二乃が指で指し示す目元には、無機質なそれ。
派手にカラフルに塗られた二乃の爪先がメガネのフレームをツンツンと突っついてくる。間近過ぎて目に悪かった。
不躾な態度に仰け反って二乃から距離を取ると、女子高生は心底似合わねーと言いたげな細目で見やっていた。
「格段地味なのに、地味さに拍車がかかってるわ」
「はぁ?」
「何を言うのですか、二乃
似合っているじゃないですか、メガネ
上杉君がメガネをかけているところ、初めて見ました」
「あ、あぁ…メガネか
仕事でパソコン使う時はな」
「ブルーライトカットででしょうか? パソコンの光は視力を落とすと聞きます」
「それって本当に効果あるの?
というか…視力がもうおじさん化してるんじゃ…」
「コンタクトしてるおまえも、おばさんに当てはまるってことか」
「今のなし」
帰宅早々、すぐに賑やかになるものだ。これがいつもの6割減だと考えると、やはり五つ子との日常は異常だと思える。
ソファに座って見上げている俺の横に二乃と五月が座ってきた。お陰で窮屈に感じて肩身が狭い。
家主はこいつらで、俺は部外者というか来客なわけで。退けと言えば五月はともかく二乃は不機嫌になるに違いない。
仕方なくノーパソを閉じて膝の上に置いた。横から覗き込もうとした二人に見られる前に。
「もういいのですか?
お仕事なら構わず続けても…
あっ 私たちが見てはいけないものでしょうか」
「そうだな、SNSなんかで写真を上げられたりしたら謹慎
下手したら即クビになる」
「…ちょうどこの位置からだと…
2階からスナイプしたら面白そうじゃない? 三玖の部屋の前なら狙えるわ」
「ほらな、やりそうな悪ガキがいるから辞めだ」
「すみません…軽率な発言でした、常に緊張感を持って取り組むべきでしたね」
「じょ、冗談冗談! しないってば!?
しないから、そこは信じて、ね?」
「信じてる、信じてるぞ二乃、冗談だもんなー?
当然じゃないか、俺はおまえのことよくわかってるからなー」
「そんなこと言って、座る場所変えてんじゃないわよ!?
いいから、あんたはここに座ってゆっくり休んでなさい」
「おまえらに挟まれると落ち着かない」
「せ、狭かったでしょうか…す、すみませんっ」
「あら、何よ、教え子相手に意識しちゃった?
堅物鉄仮面の先生も私たちには弱いのかしら? 可愛がり過ぎでしょ
うちらにその気なんてサラサラないんだから、耐えてもらわないと困るんですけど、せ・ん・せ」
「うぜぇ…子供の夜遊びに付き合ってられん
とっとと彼氏作れよ、林間学校までに――いだだだっ!」
「うっさいうっさい! ウザいのはどっちよ!」
男をからかってばかりで口うるさい二乃に適当に返すと逆ギレされて蹴られまくった。手は掴まれていて逃げることもできず。
教え子の前で教師の仕事ができるわけもなく、暇潰しは結局五つ子との談笑になりそうだった。
元の位置に座らされ、また二人に両隣を占拠されたままだった。五月は何も言わなかったが…こいつもちゃっかりしてるっつーか。
PCをテーブルに置いて、メガネを外した。仕事を切り上げて一息ついて、ついつい吐息が口から溢れた。足の痛みの悲鳴も混じりつつ。
「…お疲れですか?」
「いや、そうじゃなくてな
気になると集中力が乱れるというか」
「?」
俺の溜息に、気配り上手な五月が目敏く反応してきた。
さっきから長くくっついていた亀裂。メガネのレンズを五月に見せると、末っ子はより近く迫ってきた。
…こいつも目悪いんだったか。肩と肩がくっつき、長く癖のある髪が肌にかかる。
もう片方、二乃も一つのメガネを見ようと屈んできて、長い髪にサンドイッチされるはめに。暑苦しい…!
こいつら視力悪い方だし、見ても気づかねーだろ。口頭で伝えてやる他なかった。
「メガネのレンズに傷が付いちまってな
視界に付いて回るもんだから気持ち悪くなってきて…」
「傷? どこ? これ? あ、違うか」
「ここ…うーん、見づらいですね」
「レンズをベタベタ触るな!? 指紋だらけじゃねえか!?」
「ふ、拭くので貸してくださいっ」
「…ってことは、レンズ買い換えなきゃダメじゃない
買うの?」
「ああ、明日買うわ」
「…ふーん」
「メガネですか…」
俺の明日の予定を聞いた二人は思わせぶりな反応…面倒なことになりそうで、俺からは言及しないでおく。
メガネを服の袖で一生懸命拭き終えて、俺に返そうとするが…直前で取り上げられた。人質かよ。
「行きたいです」
「何だって?」
「そうね、そういう買い物ならせっかくだし、私も行こうかしら」
「ちっ おい五月、返しやがれっ…
…つーか、おまえらメガネかけてたか? いらねえだろ」
メガネを五月から奪い返そうとするが、両手を高く上げてかわしやがる。おい優等生希望者。教師をおちょくってんじゃねえ。
強引に奪い返しても良かったが、俺よりも背丈が小さいくせに腕を上げて胸を張るもんだから…ぶつかりそうで手を引いた方が賢明だった。
「私だけじゃないわよ、五月も視力良くないから
私は普段はコンタクトだけど、メガネもあったって損しないでしょ」
「私も勉強用のメガネが欲しいと以前から購入を考えていたので
使い慣れている上杉君から助言を頂けると良い買い物ができそうですのでごめんなさいっ」
「…あーもういい
そういうことなら、まとめて買っちまうか」
「あ、買ってくれるの?
ラッキー お小遣いが浮いて助かるわ」
「よ、よろしいのですか、上杉君?」
「そう高くないしな
明日付き合ってやるんだから返せ」
「これはどうするんですか?」
「あ? レンズ使えねえし、使い古したせいでフレームもガタついてるからな…捨てる」
「す、捨てるのは…」
「御託は良いから返せ」
「は、はい…でも…す、捨てるのはもったいないようなっ」
貧乏生活が身に染みている五月から惜しまれているが…これ使うと疲れるんだぞ。流石にストレスになる。
わかるぞ、俺も捨てるのにだいぶ躊躇った…俺も五月と大して変わらねーし。高校時代の俺だったら割れるまで使ってたぞ。でも頭痛くなるから捨てる。
メガネ買ってやると言ったのに、今は手にしている物に意識が向いてしまうらしい。とっとと返してもらうとする。
すごすごと距離を離す五月と違い、二乃は何やら強調するかのようにずいっと寄ってきた。
「一応前もって言っておくわ
他の三人に知られると色々とうるさいから、このメンツで内密に行くわよ」
「…おまえがそう言うならいいぞ」
「…怪しいです
この流れでそういった保険をかけるあたり
過去に何度も抜け駆けしていそうです、二乃
上杉君も変に理解を示してますし…
美味しいものとか奢って貰ってるのでしょう、私の知らないところでっ」
「藪から棒に何よ
いいの? あんた、それ薮蛇になるでしょ」
「………」
「…」
「…何のことでしょう?」
「白々しいわ~ どうなのよ上杉
五月が男に甘えてるの初めて…って、十年ぶりになるのか
珍しいから私も気になるんだけど」
一緒に映画を見に行っていた程仲の良い姉妹が睨み合っている。元貧乏人故、甘えや買い与えられることに敏感らしい。
不貞を暴こうとする五月と、そんな五月の悪知恵を悟っている姉の攻防は、どうあがいても末っ子の不利である。
何せこいつ、姉に嘘をついて俺の家に泊まり込む家出娘なのだから…近い日に嘘が暴かれることだろう。
「お察しの通り、薮蛇になるだろうな」
「ふーん、ひとまずあんた、こっちに干渉しなければ今はお咎めなしにしてあげるわ」
「良かったな、理解のあるお姉ちゃんで」
「う、上杉君に言われると釈然としませんっ!
全部貴方絡みじゃないですか!? 上杉君にも問題があるでしょう!
そのうち、私たち五つ子全員を誑かすのではないか警戒してますからね、私は!」
「そうね、そこは概ね同感だわ」
「ほう、随分な言い草だな
ちなみに俺絡みで隠し事が多いのは
一位、二乃
二位、五月だ
一番少ないのはなんと、あの一花だ
あいつは自分が一番に厄介事を持ち込んでいると思い込んでいるだろうよ」
「…」
「…」
お互いに後ろめたさ、もとい爆弾を抱えているから牽制しあっているのだろうが…厄介なことに比較的誠実なのはあの長女である。
まああいつの場合、女優業始めて遊んでいる暇がないからかもしれないが。金もあるし、面倒看る機会もそう多くないし。
というわけで、一番迷惑かけてると思い込んでいる一花が、二乃と五月が好き勝手やっていると知ったらどんな顔をするか。
母親の血を引いた鬼の説教が待っているだろう。想像して視線を逸らす二人は沈黙してしまった。
「この順位、公表してみるか
今度の五つ子会議の議題に取り入れ――」
「正直者は損するだけね、内密にいきましょ五月」
「私よりも多いんですね…二乃」
「引かないでくれる!?
あんたこそ、どんだけちゃっかりしてるのよ!」
「必要に迫られてですから、妙な勘違いはしないでください」
「えー あっやしー 前から思ってたけど、こいつのこと好きすぎでしょー
ほんと地味でつまらない男好きよね、あんた」
「…墓穴掘ってませんか
私より上杉君との秘密が多いんですよね、二乃は」
「………」
「そうですね、二乃の口調で返すとしたら
えー こほん
二乃ってば、私と張り合っちゃって、あんなに上杉君のこと毛嫌いして――」
「上杉ィ! 五月が超生意気になってるんだけどぉ!」
「両隣で騒ぐな…
五月も、そんな頭の悪そうな会話してると母親から遠のくだけだぞ」
「う"っ…だ、だって私より多いなんて…二乃ずるいですよ…」
次女は自身の悪事が露呈しないよう圧力をかけまくっている。不遜な姉に弄られる末っ子は保護者にまで叱られて悔しげだった。
明日は二乃と五月との買い物に付き合うことになった。少しして帰ってきた五つ子の三人には秘密裏に。
談笑しならがも、平気な顔して姉妹に隠し事をする二乃と五月を見て、やっぱ女子は信用ならないと改めて思う風太郎だった。
軽くて繊細な一品をかけると、視界がクリアになる。フロアを照らす照明を反射する棚の煌びやかさが増した気がする。
ついでにちょうどこちらを見上げる女の顔もくっきりと。嫌そうな顔をした不届き者の顔も明瞭に見て取れてしまった。
「地味に地味さが掛け合わさってるわ…
なしなし、やめときなさい」
「これで8個目の没になるんだが」
「あんたに似合いそうなの探すだけでこんなに苦労するとは思わなかったわ」
「なぜ俺が選ぶ物を取り上げるんだ…
前のデザインでいいし」
「こっちなんかどう?」
「前のでいいって」
「ちょっと、目に当たっちゃうから
上杉、かがんで」
「俺のことは放っておいて、自分の探せよ…これでいいか」
当日、駅前の百貨店に並ぶメガネ屋を訪れた。デザインもさながら、色とりどりの商品がショーケースにずらりと並んでいる。
メガネの厳選などするつもりはなかったのに。買い物の同伴者がさっきから妨害してきやがる。かれこれ1時間経過している。
俺がかけたメガネは全て二乃によって落選。異性相手でも拘りが強すぎる二乃の検問を越えたものが目元にかけられた。
膝に手を沿えて、二乃の背丈に合わせてかがんでいるのだが…距離が近いっつうか、もはや恋仲の二人に見えてしまうぞ。五月に助けを求めたい。
「あ、いいかも…ちょっと雰囲気柔らかくなったわね
でも顔面の暗さが増したような…あんた、髪染めてみたら?」
「メガネの為に髪染める奴がいるかよ
メガネの色を変えろよ」
「…ぷふ、ずっと目を閉じちゃって
傷つけないから安心しなさい、優しくしてあげてるでしょ?
それともこの私に意識しちゃって恥ずかしくて見れないのかしら、お兄さま?」
横暴で乱暴なくせに、メガネをかける二乃の手つきは丁寧で慎重。前髪を整える手間も忘れず。この子の面倒見の良さが表れていると思う。
瞑っていた目を開けると…またもや二乃に真正面からしかめっ面をされた。
「あ、やっぱダメだわ、目が大きくなるともう駄目だわ、もう全然駄目、気持ち悪い」
「目は傷ついてないが、男心はズタズタだ」
「あんたと写真撮って目を加工すると化け物になるのよね
ちょっとショックだったわ」
「作者はおまえだろうが」
「にしてもほんと冴えない顔してるからメガネ一つでも悩むわー 喉乾いちゃった
私良いの探しとくから、ちょっと飲み物買ってきて」
「こいつ話聞かねーッ!!」
一人で買い物したほうがマシだ…拘りとかないから、機能と値段で選んで手早く終わる予定だったのに。
思い出のお兄さんまでパシリにする礼儀知らずなガキには小銭渡して追い出した。散々文句言っていたが、俺と五月の分も買いに走っていった。
大して広くない店内の、その角っこで二つのメガネを手に悩んでいる末っ子にようやく声をかけることができた。
こいつ、俺が二乃の相手をしている間、どれを買おうか延々と考え込んでいたのだ。こいつに二乃をぶつけるべきだと心底思う。
「う、上杉君…もう決まりましたか?」
「まあ…目星はな、二乃は気に入らなかったようだが
自分の好きなものを選べよ、おまえも」
「それもそうですが
上杉君はどちらにするつもりですか?」
「俺は…これだ
フレームは軽くて太すぎず細すぎず、無難な奴」
「わぁ…良いですね
…お値段が比較的安めなのも流石です…」
「…で、おまえは何か良いの見つけたのか?」
「う…わ、私は…えっと」
「おう、値段とか気にするな
ざっと見ていたが馬鹿高い奴はないし…まあ、勉強頑張れってことで
俺からのプレゼントだ」
「…で、でしたら」
五月は気恥ずかしそうに俯いて、メガネが並ぶ棚へ向き直る。
さっさっと落ち着きなくメガネをチラチラ見ては、行ったり来たり。少し徘徊した後に風太郎の隣に戻ってきた。
そして、風太郎の前へ手を伸ばし…先程注目していたものを手に取った。
「…う、上杉君とお揃いで…」
「マジ? 何それ、ペアとかどんだけ仲良しアピールしたいの」
「うわっ!?」
二乃が戻ってきた。俺だけでなく五月のチョイスにも口出しするつもりのようで、末っ子の背後から顔を覗かせていた。
「お、親子のようなものですから
いえ、兄妹です、兄妹! なんら不自然なことじゃありません!」
「それもどうなのよ」
「ほら、二つ買えば割引ですよ! お得です、贅沢は敵です!
3つなら50%引きです、これは狙うしかないでしょう!」
「いや、お揃いにする必要ないし、選び放題だし
同じ物を二つも買わせるなんて誰得セールスよ、在庫処分でしかないわ」
「に、二乃は決まってるんですか? 私が選んであげましょうか」
「え…いえ、いいわ、遠慮しとく」
「遠慮しなくていいですから! 二乃はこういうものよりもっとファンシーで、レンズも大きいほうが――」
「あんたが選ぶと夕方になるからいいわ!」
他人の物を決める時はやたら口うるさかったくせに、自分の物を買う時は大雑把なほど呆気ない二乃だった。
フレームは決まり、視力を計って完成を待ち…買い物袋を三つぶら下げて俺たちは帰路につく。
がさっと袋を胸に抱いて次女はご満悦といったところ。一番忙しなく動き回り、一番楽しんでいたのがこいつである。
「買ったわー
なんか最初は微妙じゃない?って疑心暗鬼になるけど
いざ買うと愛着増して関係なくなるわ」
「俺のメガネ散々取り上げておいてそれかよ
そんな悪趣味なメガネで勉強するつもりか」
「…何よ、文句あるの? 気分萎えたんだけど
私のお気にに駄目出しなんて良い度胸じゃない
口煩い保護者がいることだし、プライベート用にするわ
今後あんたにお目にかけることはないから」
「…まさか中野家出禁か、俺」
「…あたしの部屋に入ってきたら引っ叩くわよ
あんたとの勉強会なんて裸眼でいったるわ、勉強の効率激減よ」
「悪かった、悪かった
目悪いんだからコンタクトはしてくれ
愛嬌はあると思うぞ、人は選ぶだろうが良いんじゃねーの」
「…ブサかわ犬と同類に見てるでしょ、あんた」
「被害妄想だ…」
似合わないと冷ややかな意見を述べられ、俺の前では使用を控えるとのこと。むっと頬を膨らませて睨まれてしまった。
コンタクトを外したら教材なんてまともに読めないだろうに。成績悪化の一途を辿るだけなのでご機嫌取りを試みたが逆効果だった。
二乃が前を軽快に歩き、それについていく俺の後方。五月は先程から静かであった。
「で、あんたは黙りこくってどうしたの」
「…その…ペアに、してしまいました…」
「何を今更…買った後に後悔したのか
だがしかし、それはオススメの一品だぜ
使い心地良いし、フレームは頑丈、軽い、安いの文句なしだ」
「いえ、私も気に入っていますが…」
「何だよ、釈然としねえな
二乃がだせぇ奴でも愛着湧いたって言ってたし、試しに外でもかけてみたらどうだ」
「ダサいって直球で言ったぁ!? 被害妄想じゃなかったじゃん!」
「いえ、そこまでしなくても
それにここで箱から出すのも…誤って転んで壊したりしたらと思うと怖いです…」
「なら…レンズに傷があるが、俺の使ってみるか
参考用に持ってきてあるんだ、ほら」
せっかく買ったというのに釈然としない五月を見かねて、風太郎は持参したメガネを五月に見せた。
レンズには小さな傷が付いているが、似たような形状のものを買ったのだ。悪い買い物じゃなかったんだと知ってもらいたい。
困った子供が慌てて顔を振るもので、逃がさないようその頭に指を這わせる。
「…うぅ…は、恥ずかしいですから…」
「あ? じゃあ、ほら…自分でかけてみろ」
「…」
「…?」
「こ、ここまでして、やめないでくれませんかっ」
「目を瞑らないとは良い度胸だ」
長い髪の中を探って耳に触れ、メガネをかけてやった。
メガネをかけてやる最中、レンズ越しからこちらを見上げている五月は目を伏せたり、逸らすことはなかった。
「どうだ?」
「…度が足りてないので、あんまり…」
「おまえ、ほんと視力悪いんだな
この距離で視認できてるか?」
「ッ」
「もしかしておまえ、俺の顔とかまともに見れてなかったんじゃないか?」
「そこまで悪くないですし!
う、上杉君を…間違えるはずがないですから…!
ちゃんと見えてます…
…見てますから」
「…」
顔を寄せると後方へ逃げられてしまった。ちゃんと見えてるのなら良いんだが。
黒いメガネをかけた五月はレンズ越しで自分の手の平を見つめたり、あたりを見渡した。
俺と二乃がその奇行を見守っていると…五月はメガネを外すことなく、こちらに歩み寄ってくる。
「あの…これ
やはり古いほうは捨ててしまうのですか?」
「あ? ああ…使うことないしな」
「…厚かましいでしょうが…これを譲っていただけませんか?」
「あ? いや、傷があるぞ
おまえは気にならないのか?」
「め、目悪いですからっ
これなら手元の本を読むのに調度良いぐらいで
ですから…良ければいただけませんか?」
「まあ…いいけどよ
捨てるのも気が向かなかったしな
有効活用してくれるのなら俺としては嬉しい」
「た、大切にします!」
俺の返答に五月はぱっと笑顔を咲かせた。よもやお古を譲り受けただけでこれほど喜ばれるとは。
…末っ子が板についてるんだろうな。同じ五つ子とはいえ姉のお下がりを貰う生活だったに違いない。
日常茶飯事なのだろうか。そう考え至って二乃を見やると…二乃は二乃で渋い顔をしていた。
「…で
中古品を貰って嬉しそうにしてるのは置いといて
おニューの買っておいて、アンニュイになってたのは何でかしら
買ってもらっておいて使わないつもり?」
「い、いえ、不満があったわけでは…」
「そんなこと言って、古いほうで済むんだったら新しいの買う必要なかったじゃない
使わないなら一花にあげたら? 欲しいとか前言ってたし」
「だ、ダメですよ!
そうではなくて…その
い…一番の懸念は…
上杉君とペアのメガネを私がかけて
…三玖に知られたらどんな顔されるか」
「…」
「…」
…五月の沈痛な表情を一瞥している二乃が次第に俺のほうへ視線をシフトしてくる。俺にどうしろと。
三玖が見たら? …たぶん拗ねるぞ、あいつ。
一花相手なら我慢するだろう。二乃なら喧嘩、四葉なら不満、五月なら脅迫である。五月一大事だな。
アホ毛が力なく垂れさがっていく五女を不憫に思ったか、次女が人差し指を上げて一つ提案する。
「…あ、あんた、ペアもう一つ買っといたら?
片方は三玖へのプレゼントにして」
「俺がメガネを2個持つことにどんなメリットがあると?」
「例えば…今日は五月の日で、明日は三玖の日とか
交互に使えば角は立たないわよ、我ながら妙案だわ」
「五月の日、三玖の不機嫌日和じゃないですか
一週間の半分、暗い顔してますよ」
「…
あんた、何でペアにしたのよ?」
「…もう言わないで下さい」
その後。上手い言い訳が思いつかず、観念した三人は中野家へ帰宅するのだった。
「私もメガネ買う
私のも選んで買ってほしい
使うかわかんないけど
できればフータローとお揃い」
「私も私もー 二乃と五月ちゃんだけってズルいじゃん
女優で名が売れたら変装用の用意しようと思っててさー
あとあと、フレームに名前掘れるんだって
記念にフータロー君から何か刻んでもらうのもアリかな、お金はお姉さんが払うから」
「四葉も立候補します! 両目の視力2.0ですが!
あ、それとは別にサングラス欲しいです! ランニング用に!
そうだ、五月とペアならサングラスは私が一緒したいです!
明日にでも買いに行きませんか? 良いスポーツショップ知ってますよ!」
帰宅した俺たちを迎えた一花、三玖、四葉が三つの手荷物を見ると、姦しくごねられることになり。
ソファに座り沈黙を貫こうとしても両隣と真正面。三人に囲まれて逃げ場を失ってしまった。
「必要性を感じないので却下だ
金に遠慮はするなとは言ったが、無駄遣いは許さん」
「えー!? 二乃と五月には買ってあげたんですよね?
再会して一年経たずして、選好みするなんて上杉さんじゃありませんよぅ!
五月だけ依怙贔屓ー!」
「だから私が払うってー
というかお茶しよ、この前の撮影で良い喫茶店見つけたから行こっか
フータロー君が好きそうな落ち着ける雰囲気だったから、ね?」
「フータロー…
…ッ 五月のメガネ見ると…凄くもやもやしそう…
成績下がる気しかしない」
「どういう脅し方だ…」
「上杉君…
恐縮ですが、どうか買ってあげてくれませんか…
3人に見られると、メガネを持ち出しづらくなってきて」
「ほんと、あんた何でペアにしたのよ」
「もう言わないで下さいぃ…
そもそも、二乃が三人で内緒で行こうって言わなければこんなことには…」
「…二乃? どういうことかな? もしかして私たち三人除け者に…?」
「…諸悪の根源は二乃…」
「はぁああ!? ちょ、五月! 私を売るとは良い度胸じゃない!」
ペアのメガネだけで、買い物一つ、それだけで一日中賑やかな休日を過ごす。
疲れもする、暑苦しく喧しくも、飽きることのない時間を風太郎は明日も送ることになるのだった。