「お母さんいないのかー それは大変だ、うん
それじゃあお姉さんとお兄さんと一緒に待ってよっか」
「じっと待ってるなんてもったいないよ! せっかく遊びに来たんだから!
スキーで一緒に滑りませんか? 雪だるま作るのも楽しいですよっ
かまくら? 雪合戦? 犬ぞりも楽しいよ!」
「………せ、せんせ…おなじひとがいっぱい…」
「怖がってるから雁首並べるな」
「…何で鬼教師のほうが懐かれてるのかしらね
私ら妖怪扱いか」
「上杉君はやっぱり優しい方です
昔の私たちも、傍から見たらこうだったのでしょうね」
カフェのテーブルに残る姉妹四人が揃った。スキーウェアに着替えた五つ子には急遽予定を変更せざるをえないことを説明した。
迷子は顔そっくりの女五人に囲まれて萎縮してしまっている。テーブル席のソファに膝を立ててこちらにすり寄ってきた。俺が来る前にこの五つ子と出くわしたら一発ノックアウトだったな。
五つ子の登場に怖がる子の頭を撫でると、よろよろと俺の太ももの上に転がり込んできた。まだまだ小さい身体では俺の上を跨ってもまだ余裕がある。
母親がいない、他人しかいないこの空間が落ち着かないのだろう。
どう声をかけるべきか…って、そういえば、まだ聞いていなかったな。
「なあ…名前、何て言うんだ?」
「?」
「名前」
「…
ミク」
「ん?」
「みっ…!?」
子供の返答につい耳を疑ってしまった。
向かいに座る三玖も過剰に反応して声を上げるところだった。姉妹たちも驚いて三玖とミクを交互に見やる。
ミクか。ま、まあ…珍しい名前というわけでもないし、俺の過去の生徒にも同じ名前がちらほらいた。
子供が…ミクが戸惑うような視線を向けてきている。せっかくまともに話せるようになったのだ、あまり警戒心を高められては困る。
「…ミクだな?」
「? ミクっていうの」
「…なら、ミクちゃんだな」
「…フータローッ!」
「何だ、ミクをちゃん付けで呼ぶことに何か不満があるのか?
こんな小さい子供相手に? 何がおかしいと言うんだ中野」
「し、白々しい…あと苗字なんて駄目、ちゃんと…名前で呼んでほしい」
「ふーん、良い名前じゃないミクちゃん」
「ミクちゃん、よろしくねー」
「ミクちゃん、一緒にあーそーぼっ」
「ミクちゃん、そういえばお腹空いてたりしませんか?」
「連呼、禁止」
「?」
同じ名前を持つ人がいることを知らないミクはただ不思議がっていた。視線が向く先がミクから三玖に変わったことで少し落ち着いたようだ。
今はこの子を一時的に保護している身になっている。施設のほうで母親の捜索を始めてくれているが…いつ見つかるのか定かではない。
この件を既に上長に知らせてはいる。今回の行事は合宿であり、宿泊先の寮には管理人含む職員が常駐している。合宿中は人手は足りている…夜の見回りと授業以外は。
その授業も他の先生方が協力して、俺が抜けたとしても対応してくださるようだ。つまり最悪エンドレスで子守可能…これはこれでしんどい。そこまでいったら事件を疑うレベル。
なので今日は子守に付き合うことに問題はない。それに子供を見離せば我が校の名に泥を塗ることになる、と学年主任からは別の意味で釘を刺された。美談で終わらせろとのことだ。
母親が来るまでの間はカフェで冷たい外の景色を眺めて、コーヒーでも飲んでいようかと考えていたのだが…
「…遊びたい、か?」
「…うん、ゆき…いっぱい」
「…せっかく来たんだ、建物の前でなら母親に言い訳もできるだろう」
「きましたー! 遊ぶのならこの四葉にお任せください!
子供用のスキー借りてきます!」
「四葉、犬ぞりも借りてきてよ
子供にはこっちのほうが楽しいでしょ」
「らじゃー!」
まだスキーをするとは決めていないのに四葉の奴行っちまった。しかもスキーはお母さんに教わるって約束だし。
四葉が出て行ったことで姉妹も席を離れて行く。決定のようだった。行動力の高い奴に釣られて行くのはよくあることだ。
「三玖、悪いがミクを頼む」
「?」
「紛らわしいね…でもわかった
ミクちゃん、こっちにおいで」
「…せんせ? せんせは?」
「先生はちょっと用事があるみたい、すぐ戻るよ」
「…うん
おねえちゃん…おてて、いい?」
「うん、手繋ごうか」
「………」
「…一花」
「おっと、私も?
へへ、 いいよ、手繋ごっか」
「…おねえちゃんたち、おなじ、そっくり」
「なんと、お姉さんたちは五つ子なんだよ」
「?」
「同じ日に、お母さんが頑張って産んでくれたの」
「すごい」
屋内から外に出たところで、一旦係の人に連絡を入れる。子供に聞かせても不安を煽るだけなので五つ子にバトンタッチした。
カフェで待つと話をしていたからな。誤解があると余計な問題を起こすきっかけになる。
簡単に報告を済ませて戻ると、戻ってきた四葉がスキー板を持ってきたようで、ミクは苦戦しながらもブーツを履き替えて装着していた。
「でもいいのかな…お母さんとの約束」
「約束?」
「ミクちゃん、お母さんと滑るって約束したみたい」
「う、うーん…」
お母様よ、早く来ないと約束を果たせなくなるぞ。至って四葉の善意でしかないのに…現実は非情である。
俺の不安は三玖も同じく。しかし主張が弱い三玖の声は子供にスキーを教えようとする四葉や二乃、五月には届いてなかった。
がちゃり、とブーツとスキー板がはまったようで。重たい足を見つめたまま動かない子供に四葉は声をかける。
「どうしたの? 歩けるかな?」
「…はじめて、だから
おかーさん…おしえてくれるって」
「そっか…
じゃあ、滑れるようになったら褒めてもらおうね!」
「?」
「一緒に滑れたら絶対に楽しいもん」
「…」
「…あ、あれ? 私変なこと言ってるかな…?」
「…おかーさん、ほめてくれるかな?
かってにやって…おこられ…たり」
「な、何で? 何でミクちゃん怒られちゃうの?」
「…お母さんのいうこと…が…」
子供が親に言い聞かせられる教えの中に、離れ離れになるなという絶対的優先度の高いものがある。
離れたら最後、もしかしたら。良からぬ大人がいたらと思うとゾッとする。人に出会わなくても見慣れない土地で冷たい夜を過ごすことになる。
約束もそうだが…それ以上に大切なものを破ってしまったことに不安が高まっているようだった。
ある意味、身の安全を知ったからこそ、他の不安が襲い掛かってきた。
四葉は変わらず太陽のように明るく笑っていた。昔は母親の言いつけを守らず我を通してきた奴だ。
「大丈夫! お母さんがいなくても、こんなに良い子にしてるんだから
私も言ってあげます、ミクちゃんはお母さん思いの子だって」
「…」
「………あはは…ごめんなさい
スキーは…駄目ですか?」
「…ううん
おかーさんに、ほめてもらうの
おしえて…くれる?」
「!
ししし…わかりました!
四葉が責任持って、ミクちゃんに教えてあげます!」
「うん…よ、よつば、おねーちゃん」
「…!
あーん、もう…可愛すぎます! 初めて名前で呼んでくれました!
私もこんな可愛い妹が欲しかったんです!
上杉さんと遊びたかったけど…今日はミクちゃんと遊ばせてください!」
「可愛くないと言われてるぞ末っ子」
「貴方こそ、子供相手に振られてるじゃありませんか」
四葉の明るさに心を開いてくれたようでミクは恥ずかしそうにお願いをした。今ここで一番心開いているのは四葉自身だな、両腕を広げて子供を抱きしめている。
予定は決まったようで、四葉と二乃、一花が子供に付き添ってくれるようだ。あの過保護な二人が付いてくれれば四葉が暴走することはないだろう。
一緒に滑りはしなくても見守るとしよう。寒くて白い雪景色に一歩分の足跡を一つ付けたところで、不意に何かを押し付けられた。
見ればスキー板だった。振り向けば三玖と五月が手に持って渡してきた…スキー板を足につけて。
「講師役…してほしい」
「…」
「三玖に教えると言っていた四葉が行ってしまいましたので
代わりに上杉君、お願いしますよ」
「おまえは?」
「私は先に滑ってきます
後でミクちゃんの見守りを交代しますから」
俯きがちに赤面している三玖は構わずぐいぐいとスキー板を押し付けてくる。まさかガチで滑れない初心者だったのか。
姉の背中を押すのはここまで、そう切り捨てるかのように五月はこの場から退散していった。
雪の上でカリカリと擦らせてスキー板を受け取る。三玖はこちらの顔を窺いながら手を離した。
「わかった、靴変えてくる」
「う、うん…待ってる
…やった…」
冷たく固まった頬を少し緩ませて三玖は笑った。去り際に小さく拳を握って。
楽しみにしてくれているのなら、その気持ちが冷めないうちに。手早く靴を履き替えて準備を済ませた。
毎年来ている合宿のスキー場。回数は人並みより多いかもしれないが特別好んでいない身。
最低限のことしかできないが、基礎を教えることはできる。
「じゃあ少し坂を上るか
おまえ先に上がれ」
「う、うん…わかった」
「…
おい、そのまま直進で登ったら――」
「えっ
あ、あれ…あ…っ!」
ド基礎から教えないといけないようで…三玖はスキー山の坂を登っていた。板を真っ直ぐに。山に対して垂直に。
スキー板の都合上、坂を上る際は傾斜に対して真横に板を伸ばさないといけない。でないと滑ってしまうから。
失念していたのか…顔を赤くしていた頭ではそこまで思考できなかったのか。坂を上っていた三玖が背中を向けてずるずるとこちらに滑ってきた。
仕方なく三玖の肩を掴んで一緒に滑って減速させる。がちゃがちゃとブーツとスキー板がぶつかる。
慌て始めた三玖を落ち着かせようと、倒れかけた背中を胸で支える。
「ふ、フータロー…っ!」
「止まるまでじっとしてろ」
「…う、うんっ」
勢いのない、ずるずると滑り落ちていく中で三玖は身体を縮こまらせて耐えていた。
あまり密着しすぎるのも悪い。ゆっくりと滑る最中、両腕は前に突き出したまま宙に浮いていた。
ガリガリとバックしながら揺れるものだから、その腕を三玖が掴み、杖代わりに握ってきた。
「…ん?」
「こ、転びそう…だから」
その掴んでいた三玖の手が三玖の胸の内側へ運ばれていく。俺の腕を掴んだまま。
両腕を三玖に抱きしめられた。スキーウェアと手袋のごわごわとした感触しかしないのに、三玖に捕まってしまっている感覚が強く感じられる。
…何やってんだこいつは。恥ずかしがり屋の癖にスキンシップを欠かさない三女には恐れ入る。
「…」
「…」
「…止まったな」
「と、止まった…」
「…」
「…う
心臓はずっとうるさい…止まらない」
「…」
もう少し手を沈めれば三玖の胸の鼓動が分かるだろうな。吐息を吐いて上下する感触と擦れる音が目立つのだから。
つーか鼓動が止まったら死ぬぞ…初心で人見知りのくせに、大胆な奴だ。
背後から滑っていた足は止まり、重なっていたスキー板を離す。
「仕切りなおしだ
横向いて上るぞ」
「わ、わかった…ごめん」
周りの視線が気になってしまうが、見れば似たようなものだった。生徒が馬鹿騒ぎしていたり、親子連れが子供に教えていたりなど。
俺の生徒がこの状況を見ればどう思うだろうか。顔は見られたくないもので深々とフードを被る。
坂をある程度上ってところでスキー再開となる。高校一年生の初心者はある程度は知っているようなので、さっそく実戦だ。
三玖の手を掴み、ある程度の速度を保ちながら下まで滑り切ってもらう。
「テールだけを外側に、八の字を維持していれば速度は上がらない」
「わ、わかってる…けどっ
足が広がりすぎて…戻せない時があるから怖い」
「先端だけで止めようとするからだ
自転車のような急ブレーキはない、焦らずゆっくり止めることが大事だ」
「二乃や一花は綺麗に止められるのに…」
「そっちも焦らずにってことだ、慣れれば二の字でも止められるようになる」
「プロ技は無理」
手を握り合って、雪の上を音を立てて滑っていく。強く握ってくる三玖から恐怖と合わさった必死さが伝わってくる。
身体に余計な力が入っているようで、力んだまま徐々に足が広がっていく。これ…ダメな奴…
体勢を意地できなくなってきた三玖は足を定位置に戻す。当然戻せば減速していた速度が上がってしまう。
「三玖、もう少し力を――」
「ぶ、ぶつかっちゃう」
「いや、大丈夫だ
こっちは気にしなくて――うおっ!?」
「ご、ごめ――」
滑る速度が上がり、何としても止めたかったのだろう。踏ん張って止めようと三玖が身体を捻った。
直後、三玖はずるりと態勢を崩し、スキーの板と三玖の足が俺の股を通過する。転倒しかけている。
手を繋いでいる俺も引っ張られ、持ち上げようと踏ん張ったところで…スキー板の位置を変えなければ意味がなく…三玖は加速した。
風太郎も姿勢が崩れて屈んでしまっている。三玖の顔が顔面に迫って、顔と顔で衝突しそうだった。
両者から手で抑えようとして…三玖が顔を真っ赤にして慌てる姿を最後に転んでしまった。
滑り落ちていく様は無様なもので、スキーでは恒例の光景である。
「ぐ…動けない…」
「ご、ごめん、フータロー…
あっ…う、動かないで
は、恥ずかしいから」
「わ、悪い」
衝突し、お互いに顔は避けようとした結果、顔面に三玖の胸が当たってしまった。
背中には雪の硬い感触。前からは冷たい生地の奥に柔らかい感触が当たっている…が…痛いものは痛い。
スキー板が絡み合うと足首の間接が痛い。腕を伸ばしてスキー板を外そうと試みたが…三玖の胸に顔が当たって身動きが取れず。
「…ふ、フータロー」
「三玖、おまえもじっとしてないで起きてくれ」
「…
ど…ドキドキ、してる」
「な、何?」
「…今までよりも、凄く、一番」
「…運動した直後だからな」
痛みを感じるこの体勢は…三玖に押し倒されている形。
その三玖が、がちゃがちゃと足が絡んで身動きが取れないこの状況で…じっとこちらを見つめてくる。
頬も耳も赤くして、息を切らせて。ただ一点のみ。俺を見ている。
「この痛みは…嫌じゃ…ない…かも」
「…俺は足が滅茶苦茶痛いんだが」
「…ねえ、フータローは…ドキドキしてる?」
「…」
「…して、ほしい…」
痛いのに戯言に付き合うつもりはなかった。しかし、三玖もそれは同じ。極めて臆病で控えめな性格なんだ。
そんな奴がここぞという時に踏み込もうとする。それを拒否したら…今後、三玖は…全て諦めるかもしれない。
だから咎めはしなかった…だが、まさか、と身体が硬直してしまう。
「冷たいのに熱い…」
三玖が少しずつこちらに寄ってきた。
慌てて制そうとするが体勢が悪く、腕を伸ばそうとしたら三玖の手で押し込められた。
三玖の顔が近づき、唇からの吐息まで聞こえそうになった瞬間。ガガガガッと荒々しく何かを削る音が迫ってきた。
「上杉さん、三玖ー!
大丈夫ですか?」
「酷い運動音痴ね、ミクちゃんを見習いなさい」
「足捻ってない? ロック外そうか」
四葉と二乃、一花がすっ転んだ俺たちの救助に来てくれたようだ。
三玖も横槍を入れられたことで我に返ったようだ。出過ぎた真似をしたことに羞恥心が芽生えた様子。
スキー板とブーツが離れ、痛む節々を堪えて立ち上がる。三玖も起き上がって、俺から背を向けて離れて行った。
「…ッ」
「…」
「喧嘩?」
「いや、はしゃぎすぎた」
「あー」
「いつものってことでしょ」
…しばらくそっとしておこう。見た感じ熱は冷めていないようだ。
ふと、足に何かがぶつかる。視線を下げるとスキー板をつけた子供だった。小さな手が足に伸びて捕まってきた。
倒れかけた体に手を差し伸べて支える。よちよちとおぼつかない手に握られる。
「せんせっ せんせっ」
「どうしたミクちゃん」
「すべったっ!」
子供は嬉しそうに笑って見上げてくる。足跡を見ると小さなスキー板を器用に滑らせて寄ってきたようだ。四葉と一緒に滑ってきたのか。
母親に教わるという約束だったらしいが、滑れた喜びが大きいようで、さっきまでの不安はどこに行ったのやら。
褒めてあげるのは母親の役目になる。言葉にすることを抑えて、子供の頭を撫でてやった。
「教えるのが上手いな、四葉」
「いえ、ミクちゃんが真面目な子だからですよ」
「擬音語だらけでも、子供には調度良い講師役のようね」
「おかーさん、うれしい?」
「ああ、そりゃあもう大絶賛だろ 見ないうちに成長してたんだからな」
「…やくそく、やぶっちゃったのに?」
「…そこは一度謝ったほうがいいな、うん」
「…
…そりもしたい」
「あら、犬そりがご希望かー
じゃあ一花おねーさんと一緒に滑ってみよっか
三玖もどう?」
「う、うん…行く」
「四葉押してあげます!
ジェットコースター顔負けのスピードにしてみせます!」
すっかり五つ子に打ち解けたようで、次の遊びを求めて子供は手を伸ばした。
その手を一花が掴み、優しくエスコートしている。流石の長女、子供の相手は手馴れている。
居心地悪そうにしている三玖も一緒に連れて行くようで、一花は最後に俺に手を振って坂を上って行った。
三玖と取っ組み合っていたの見られていたよな…茶化さないのは子供がいる手前、楽しんでいる雰囲気を壊さない為だろう。後が面倒な奴だ…
五つ子にばかり任せてしまっては無責任だろう。後を追おうとすると背後から二乃に手を掴まれた。
その手に何かを握らされる。小さな紙のようなもので、風が吹けば飛んでしまいそうだ。
「ん」
「…何だこれ」
「絆創膏
三玖と転んだ時に手を怪我したでしょ
ほらここ、手が赤くなってる 足首も痛めたでしょ」
「ああ…だが足はともかく手首はかすり傷――」
「馬鹿ね、あんたが良くてもあの子が気にするでしょ
庇って怪我したと知ったら、私たちが夜な夜な相談を受けるはめになるの
…ミクちゃんとだって手を繋ぐでしょうが…ちょっと手を貸しなさい」
「…おまえってホント気が利くよな」
「それはどーも」
ぺたり、とカラフルな絆創膏が手の甲に張られた。空気が入らないように念入りに…と、二乃の細い指が労わってくれた。
二乃はスノボで滑っていたらしい。三玖より遥かに上級者だ。同じ五つ子なのになぜこうもスペックが違うのだ…
絆創膏を張ってくれた二乃を見つめていると本人は疑問符を浮かべて首を傾げる。以前と違い不機嫌さはそう見えない。
「…何? 滑りたいの? 滑る?」
「いや…ミクちゃんを保護してる手前、呑気に遊ぶのはな
カフェの前で見てるから、あの子と遊んであげてくれ」
「それもそうね んじゃ、保護者役よろしく」
後腐れなく二乃はスノボを持って一花たちの下へと登って行った。本人も遊びたいだろうに、ミクちゃんの面倒を看てくれることに感謝しかない。
坂を上る二乃と、その奥のミクちゃんたちの背を見ると…時の流れを強く感じさせられる。ミクちゃんと同じ背丈だったあいつらが十年も経ったんだな、と。
感慨深くなると止まらない一方だ。坂を下り、ほんの一時の講師役を終えたことでスキー靴などを返却してカフェの前に戻った。
…母親はまだ見つからないらしい。待っていると時間が長く感じてしまうもの。母親には反感を買われるかもしれないが、子供にとっては遊んでいる方が気楽な時間だ。
寒ければコーヒーでも買って子供たちを眺めても良かったが、生憎とさっきの三玖との滑落事故で体は温まっている。ただぼっーと突っ立っていた。
「…さむっ」
しばらく立って眺めていたと思う。
時々職場の職員と電話でやりとりしたり。生徒が通りかかってはフードを深く被ったり…顔隠してもバレて声をかけられたりなど。
そうやって母親が来るのを待ちつつ時間を持て余していた頃。
べしっ
「あ?」
突如、背中に何か当たった。
ぱさっと少ない雪が落ちていく。雪を投げつけられたのか。
振り向けば…二乃と五月がいやがった。遊んでいたはずの二人がいつの間に背後に…
「ふんっ このっ このっ 日頃の恨みっ!」
「え、えいっえいっ 私は特に恨みはありませんが二乃がしつこくてっ!」
「あんたはいつも私に押し付けて! うらっ!」
「なーにやってんだおまえら…」
ぼすっ ぼすっ と背中や頭に柔らかい雪が当たる。
一人は明確に敵意を持った大振りで雪玉を、もう一人はぎこちなく申し訳なさそうに崩れた雪を投げていた。
こちとら遊び呆けてられないと二乃に言った手前。相手するのも面倒なので無視した。背中に受ける雪玉に耐えて。
「あ、無視決め込む気だわ…その余裕綽々な態度が余計に腹立つわ…
五月、もっとでかいのでいくわよ!」
「あの…二乃、なぜ急に雪合戦を…?
したいのでしたらミクちゃんを誘ってみんなでやればいいでしょう」
「ミクちゃんに血生臭いところ見せられないでしょ
十年ぶりに再会して三カ月…待っていたわ…雪山に来たら絶対にやってやろうと思ってた
私たちを捨てた思い出のお兄ちゃんに雪ぶん投げてやるってね! 仕返しには絶好の機会よ」
「うわぁ…三玖よりも拗らせてる…
やっぱり二乃、なんだかんだ言っておきながら上杉君と離れ離れになったの嫌だったんじゃ――」
「ママに手を出しておきながら消えた男を許せるはずないでしょー!!」
「手は出していないのでは…いえ
逆にお母さんが手を出していたのでは、と勘ぐっていたじゃないですか、一花と二乃は
私の思い出を穢そうとしたの、覚えてますからね」
「うっさいうっさい! あんだけ仲良かったら普通そう思うでしょ!
ママもママで、あいつのこと最後まで好きだったしー!
うりゃー! やるせないのよー!」
「あの…この大きさ、持てるんですか…?」
不穏なこと言わないでほしい。不機嫌じゃないなんて見間違いだった…二乃の隠れた蟠りを発散方法として、怨念の雪玉をぶつけられている…
小さいのでは効果が…もとい母親の思いが伝わらないということで気持ちを切り替えて、二乃と五月がせっせっと雪をかき集めて大玉を作ろうとしている。
完成した大きさは直径1m程…どでかい思いだな、謙虚なあの人には似つかわしくないぞ。固められた雪を二人で持ち上げて、俺の背に向けてじりじりと近づいてきた。
もはや背を向けるのも恐ろしい。二人に向き直ったが接近は止まらず…確実にぶつける気だった。
「せ、せーの…」
「ふ、ふにゅぅう…お、重いです…崩れますっ!」
「こ、こんな時に四葉がいれば…確実に顔面に当てられたのにッ!」
「目の前で堂々としすぎだろ 腕プルプルじゃねえか
…馬鹿らしい」
「うわっ」
「きゃっ」
どさり、と二人がコツコツとかき集めた雪玉が落ちて崩れた。崩れても雪玉は欠片となって残っている…
二乃と五月、二人の頭を胸に抱えて撫でておく。母親大好きな姉妹だ。亡き母親の悲しみから吹っ切れたとしても、母親を重んじる気持ちは薄れることはない。
教員である母を亡くしたことで行先が変わった遠足。娘として何かしら思うものがあったのかもしれない。
二乃には再会してすぐ…先生が亡くなってから間もない日に言われたな。何で泣かないんだと、泣かれて胸を叩かれた。
こいつからしたら、俺がまったく動じずに平穏な日常を生きていることに腹が立つのだろう。自分たちの母親の事忘れたわけじゃないだろうな、と戒めの鎖を掴んでくる。
引っ張っても男は動かない。ならせめて嫌がらせ程度にジャラジャラと不快な音を立てる。陰湿であっても…二乃にとっては大切なことだ。
結局のところ…俺があの人を思って憂いていることで、亡き母親との空いた距離を縮めることができるのだろう。
「…先生と来られなかったのは、残念だったな」
「…!」
「…」
「…俺も思った
俺は四年間、ここのスキー場には仕事で来てた
だったらよ…まだあの高校に務めていた先生とも…会えてたかもしれないんだ」
「あ」
時期が違ければ無理な話。だが、今日のように五つ子とも何かの縁を辿って会えたんだ。
なら先生とだって。
だがそんな日は一度もなかった。俺と先生は卒業式のあの日、あの桜の木の下で会って…終わっちまった。
高校一年生の時、1年間同じ場所にいながら会えなかった。俺と先生はあまり良い縁ではなかったのかもな。
二乃の言う通り先生が俺を思ってくれていたのなら。
俺も先生をずっと思っていたのに。一度も会えなかった。
「…つくづく…間の悪い二人だよな、俺と先生は
京都で一回、再会して一年…最後に卒業式のあの日
それだけだ…思い返せるものが少なくてな、二乃の気持ちには応えづらい」
「上杉君…」
「ご、ごめ…私、そんな風に言ったつもりじゃ」
「いや…だからこそ
縛られてるっつーか…そのほうがいいんだ、本当に小さな縁だからよ
そのくらい思ってくれる方が安心する」
抱きしめられて委縮している二人を開放する。俺と先生の繋がりを大事にしてくれる二人には伝えたかった。
故人に縛られてはいけないと教えた身。大人として子供たちに教えたこと。それに反する気持ちを抱いている。
だが、それも正解なんだと思う。ずっと苦しむことであの人の傍にいることを実感できる。代償なんだ、これは。
少なくとも二乃と五月は肯定してくれるんじゃないかと思って、ここで打ち明けてみた。
結果は…どうだか。二乃と五月も照れてろくに目を合わせようとしない。甘え上手なのか下手なのか、さっぱりだ。
「上杉さーん! 受け止めてあげてくださーい!」
「?」
快活な声に振り向くと、何かがずるずると滑って来た。
小さな子供を乗せたそりが向かってくる。四葉が掴んで押しながら。
ガガガガガッと派手な音を立てて、四葉の手を離れたそりが減速しながらやってきた。
「わー」
「…よっと
楽しそうだな」
「すべった」
「おう、楽しんでて何よりだ」
「おかーさん、おこらない?」
「…心配はしてるだろうけど、おまえが泣いてるよりかはいいんじゃないか」
「…
…ん」
「…?」
「だっこ…」
「…適応力の高いお子様だ」
止まったそりから降りず、手を上げるだけのミクちゃんが抱っこをご所望する。警戒心はどこいったのか。
「あ…」
「…どうしたの、三玖」
「な、何でもない…ッ」
ミクちゃんの脇に手を差し伸べて抱え上げる。この重さは…昔よく感じた重みで、懐かしかった。
「ミクはお母さんにいつもこうしてもらってるのか」
「…たまに」
「ほんとか? 絶対に甘えん坊だろ、おまえ」
「た、たまにだもん…」
ミクちゃんを抱えると器用にしがみついてきた。絶対に抱っこ慣れしてるぞこいつ。
昔、五つ子を抱っこして感覚掴んだからな。三玖と四葉は抱っこに慣れていた。
逆に二乃と五月は不慣れだったな。一花は経験少ないくせに上手くしがみついてきて驚いたものだ。
五つ子全員も合流し、四葉がそりを回収してミクちゃんと笑い合っていた。すっかり仲良しか。
「…」
「…どうした三玖…いや、中野か」
「む…三玖だし」
「とは言っても、今のミクはこっちだしな」
「?」
「…もういい、カフェで休も
お母さんもそろそろ来てるかも」
不機嫌オーラを隠せないでいる三玖が輪から外れて先を歩く。急にどうしたんだ、あいつ。
カフェで一休みとのことで、ミクちゃんを下ろすと四葉と一花が隣に並んで手を繋いだ。子供にメロメロのようだ。
ミクちゃんを二人に任せると、ふいに脇を突かれた。二乃がジト目でアレをなんとかしろと訴えている。
アレとは…三玖の背中を指している。五月も苦笑して頭を下げている。行ってくれってことか。
「…おい、三玖
急にどうした、ミクちゃんの前で機嫌損ねやがって」
「…」
「名前のことか? それはあれだ…気を悪くしたらすまん、三玖とミクちゃんじゃ混乱するからな
仕方なくだ」
「…そうじゃない」
「?」
「…あ、あの子のこと…ミクって呼んだ ちゃん付けじゃなくて」
「あ?
…は?」
ミクちゃんをミク呼び? 確かにさっき一度だけそう呼んだような。
いやだからって…何だってんだ。
「…あと…抱っこも」
「…」
「…」
「…おまえ…」
…こいつ…もしや
「…まさか、おまえ…ガキにヤキモチ焼いてんじゃ…」
「…」
「…」
「…だって…絶対に今、昔の私思い出してたでしょ」
「いや、そんなことない、無意識だったし」
「…
それはそれでむかつく」
「おいおい」
「とにかく…ミクって呼ぶのは駄目
…これだけは駄目、ずっとそうして」
「えー みくって名前、少なくないだろ」
「こ、子供限定でいいっ!
なんかやだ…
やだよ…私との思い出が…他の子で上書きされるの」
「…」
「…フータローが他の人と結婚しても
私がそれを祝福しても
それだけは一番やだ…せめてそれだけは、私だけがいい」
…謙虚なくせに図々しい奴。
子供の頃の三玖はまさにそういう性格だった。確かに、昔のあいつがさっきの光景を見たら頬を膨らませて
「フータローは私のなの!」
って…駆け寄って抗議してきただろうからな。三玖とミクちゃんが喧嘩してしまう。
当時と違うのは、三玖はその感情を恥じらい、拙いと自覚して自己嫌悪に陥ること。
困った子供という認識はそう変わっていない。少し嬉しいという気持ちもまた、変わらない。
背を丸めてしょんぼりしている三玖の頭を乱暴に撫でる。昔の思い出を占有したいだなんて、なんつう我儘だ。
「~ッ」
髪が乱れるからやめろ、と言いたげに腕を両手で掴まれた。
掴まれたまま三玖の頭に手を置く。優しくしろってか。子供扱いではなく大人の女として慰めろってか。生意気。
「なあ、三玖――」
「ミクッ!!!」
自分の声を遮って、女性の悲鳴が上がった。
三玖はビクッと震えたがそれも一瞬。背後を振り向けば人違いだとすぐに自覚した。
一花と四葉と手を繋ぐ子供。ミクちゃんに駆け寄って抱きしめる女性がいた。
大事に大事に、抱きしめてはその頭を撫でている。
一花と四葉、二乃と五月が驚くも…ようやく親子が再会できたことに安堵する。
「おかーさん すべった」
「あはは…すべったねぇ」
「うんうん、すべった」
親の心子知らず。子供は楽しかった思い出を伝えようとする。
数年後には気づく、子供ながら親を心配させたという過去に苦笑いする。
そんな年頃である一花と四葉はミクちゃんの言葉に苦笑しながら優しく返したのだった。
「ミク! 一人で勝手に行かないでって言ってるでしょ!
何で…言う事を聞いてくれないのッ お母さんがどれだけ探したのか分かってる!?」
「…」
娘が迷惑をかけて申し訳ありません、と頭を下げたシングルマザーを見たのは数分前。
今はお説教タイムと言えばいいのか…俺や五つ子の前で、ミクちゃんに詰め寄る親の姿を眺めている。
さっきまでの楽しい空気は全然ない。ミクちゃんのさっきまでの笑みはなく、俯いて母親の言葉をじっと耐えていた。
「うーん…叱るのは当然だけど…ちょっと見ていて辛いわね
ミクちゃん、お利口さんだったのに…同じ名前の誰かさんと違って」
「一言多い」
「ですが…繰り返さないように叱るのはお母さんにしかできないことですから
お父さんもいらっしゃらないのならお母さんがするしか…」
「ずっと探してたんだと思うよ、あのお母さん
私たちもお母さんによく叱られたよね…お母さんは大変だ」
「…でも、ちょっと違うよ
…私たちのお母さんは少なくとも…」
五つ子たちは親子を静かに見守っていた。
まだお別れは伝えていないから。この光景を見てしまっては尚の事…最後はミクちゃんには笑ってお別れをしたい。
何も言わず、俯いて母親と目を合わせられない子供を見て、放っておけなかった。
助けを求めるような視線もなかった。黙っているだけで母親のお説教はヒートアップしていく。
…黙っているからといって聞いていないわけじゃない。あの子なりにお母さんと向き合おうとしているが…子供ながら難しいのだろう。
「お母さん言ったよね、お外に出る時はママの言うことちゃんと聞いてねって
聞いてくれたら連れて行ってあげるって
約束を破るなら、もう連れて行かないって」
「…」
「…もう…どうして
何でお母さんにばかり迷惑をかけるの…?」
「…」
隣から服を掴まれた。見れば四葉だった。
「上杉さん…」
…こいつの言いたいことは何となくわかる。
もしミクちゃんが母親に何か言われた時は、代わりに説明するとも言っていたしな…今すぐ駆け付けたいのだろう。
四葉もまた、母親に伝えたいことがありながら、言えずに終わってしまった子だ。
誤解されたままの親子関係が惨く惨めであることを知っている。
「…どんな時だって私たちのお母さんは
自分を理由にして、私たちを叱らなかったよ」
「…」
「…」
「…」
「…」
「でも…間違ってはないよね
だって、自分のこと知ってほしいって思うのは当然だから
こんなにも大好きなんだよって伝えるのは…」
「…なら、部外者の俺たちは諦観する他ない」
「…でも…でも
そういう気持ちは、あの子にはまだ早いよ…」
「…ああ
言葉が足りないだけで、子を思う気持ちに偽りはない」
見ていられず、風太郎は親子に歩み寄る。四葉は力なく手を離して見送った。
自然と五つ子たちの強張った表情は崩れた。安堵すらしていた。
一花はやれやれと照れ臭そうに笑い、二乃は自慢げに見つめている。
三玖は思い出の背中に心が満たされ、五月は静かに目を閉じて亡き母へ一言贈る。
四葉はそんな姉妹を見て…ししし、と笑った。昔と変わらない、大好きなお兄ちゃんを思い出して。
五つ子に見送られた風太郎は親子の間に手を差し入れる。子供を庇う、そんな手だった。
「お母様がずっとこの子を探していた、その不安は理解できます」
「…ごめんなさい、みっともないところをお見せしまして
でも…この子は…一人にならないでと言っても、何度言っても…
すみません、今日はもう帰らせていただきます」
「貴方が傍にいなかった間のミクちゃんを、知っていただきたい」
俯いている白い視界に手が差し伸べられている。
それを知ったミクちゃんが顔を上げて、傍に風太郎がいると知り…その服を掴んだ。
その仕草に母親はほんの少しショックを受けたようだ。怖がらせていると自覚しても、頼れる一番の存在は母親である自分だと思っていたのなら。
「俺がこの子は発見した時、ずっと一人だった
歩く大人にぶつからないように逃げて、近寄ってくる大人を怖がって、その場から動けずにいた
怖がりながらも貴方を探していた
子供の低い視線で、親の顔を探すのは大変だ
見上げてばかりでは疲れる、それでもこの子は諦めずにずっと探していた
繰り返したくない気持ちは一緒です
過ちを犯したことを指摘するのは母親としての責務ですが
そのミスの中にはこの子なりに考えた正しい行いもある…それだけは汲み取ってくれませんか」
「…叱るなと、言いたいのですか
貴方…子供を育てたことがあるのですか? 子供を育てる大変さを知らないからそんなことを平然と」
「貴方がいない間の頑張っていたミクちゃんを知っています
その子供の努力を、子供だからと軽んじないでくれ
俺はこの子の味方です、ミクちゃんが頑張って掴んだ関係なんです
俺はミクちゃんの声を聞いて話しました
貴方はできているのか?」
「できていますよ、ええ…できてます
今日一日会っただけの貴方に、とやかく言われる筋合いはありません!」
赤の他人が親子の在り方に説教など滑稽だ。母親は明らかに不信感と不快感を向けている。
俺に育児経験はないし結婚したこともない。ただの教師でしかなく、その相手もまた成長して大人になる手前の子供ばかり。
親の苦労は計りかねている。だが言うしかないだろう?
小さな子供が親のいないところで頑張っていたんだ。それはとても素晴らしいことだ。褒めてあげるべきだ。
その努力を家族に知られることなく、ただ怒られるだけで終わってしまうのは。
…馬鹿げている。この母親がどう子供を育てていようが、大切なのは今だ。
「なら、この子が今何を謝りたいのか、わかってるんだな?」
「何をって…」
少なくとも俺が知るあの母親は…今できる最善の為に、あの夏祭りの夜…俺に頭を下げて子供を託したよ。
どれほど悔しかったことか。自分の不甲斐なさを呪っただろうか。今まで子供に向けた愛情は間違っていたのかと疑ったことだろう。
子を思って、あの母親は何度もやり直したんだ。それはとても大変で、辛いことだ。一からやり直すには勇気と、培ったものを捨てる覚悟がいる
それをせずに安易な道を辿ろうとするのなら、俺は文句を言わせてもらう。育児が大変だからって免罪符にはならねえぞ。
「…ミクちゃん、言ってみろ」
「…」
「…」
「…
…すべ…れた」
褒めてくれるかな、そんな言葉から始まったのが…スキーの練習だった。
「…滑れた?」
「スキー…すべった…お姉ちゃんと」
「…」
「…でも
おかーさんと…やくそく
したのに…」
「…」
「…ごめん、なさい
はなれて、ごめんなさい…」
「…」
「…お母さんに滑れるところ見せたら、きっと喜んでくれる
そう伝えて、滑る練習をした
だが、どんなに楽しんだって約束を忘れてはいなかった、事ある毎に心配していた
むしろ怖がっていた、あんたに怒られるんじゃないかってな
余計なお節介をしたのは俺たちのほうだ」
勝手なことをするな、旅行が台無しだとクレームが飛んでくることも覚悟していた。が、そういう流れにはならなかった。
正直そっちのほうがマシだと思っている。子を思う気持ちの強さを、子供に向けるよりかは。
「子供が目の前から消えれば焦る、もう繰り返すなと叱るのも当然
育児が大変で辛いと、かけてやる言葉を選べくなるだろう
子供はそんな言葉を、親から向けられた感情として覚えていく
約束を破ってしまったことをどう思っているのか、自分の知らない子供の気持ちを知ってあげてください
次からは貴方自身の言葉で聞いてください」
「…何を勝手なこと…言わないでください」
「…おかーさん、きらいに…なった?」
「…」
「…もう…いきたいって…いわないから」
「…」
「この子、泣かないだけで甘えん坊だ」
「…な
…な…泣きません、でしたか…?」
「ああ、一切
ミクちゃんがどういった時に泣くのか、知りたいくらいだ」
「ッ」
母親は顔を覆って俯いた。唇を震わせて隠すのに必死だった。
だいぶ苦労されている方だと思う。子供から目を離すなんて余裕がなかったことが原因なのかもしれない。
母だけが知る子の姿。残酷な一時に子供は泣いて母親を呼ぶはずだ。
この子が甘えん坊で泣き虫だったとしたら。俺は今日、一度もこの子が泣くところを見ていない。
母親の前では泣いても、知らないところでは泣かずに頑張って、母親を探していたとしたら。
泣いていいのは母親の前だけだと思っていたのなら。それが迷惑をかけない子供なりに導き出した答えだとしたら。
辛くても耐えて待っていた。探してくれるのを待っていたと知れば、もうこれ以上知らしめる言葉はいらないのではないか。
…それでも、言わなくちゃいけないのが母親の辛いところなのかもしれないけれど。外野が文句を言うのは本当に簡単で虫の良い話だった。
「…帰らせていただきます」
「はい」
「…
この子…本当は、泣いてばかりで
今回も、沢山の雪が見たいって泣くからから…それで仕方なく…」
「はい」
「…どうしてこんなことに…今日ぐらいは楽しめるかなって思ってたんですけどね…」
「運が悪かったのか、この子が魔を差したのかは分かりませんが
間違いを繰り返した中で、ミクちゃんは貴方との約束を大切にする子に育っている
辛く、まだ先のある道のりですが…良い子に育ってる
自信を持って、余裕ができたら…もっと簡単にこの子の言葉を聞けるはずです」
「…」
「…せんせ、わたし…いいこ?」
「…先生?」
「…これでも教師です」
「…そう…ですか
…そう…先生に褒めてもらえたのね
先生からそう言われたのなら…
良いことばかりじゃなくても、良い子になってくれてるのなら…」
「…せんせ、おかーさんも、いいこ?」
「元から良い子だろ、おかーさん大好きなんだろ?」
「…うん」
「…からかわないでください
何ですか、急に…説教なんて学生以来です」
苦労が滲み出た溜息を漏らして、子を守る母親は我が子と手を繋いで歩いていく。
ばいばーい とミクちゃんは手を振っていた。俺と五つ子たちは見送り、小さく手を振って返した。
「…おかーさん、すべった」
「滑った…?」
「スキー れんしゅー すべれたの
おねえちゃんにおしえてもらった」
「そう…それじゃあ…明日お母さんに見せてくれる?」
「うん」
明日は迷子になるなよ。そうチビっ子の背中に言い聞かせておく。三玖と同じく鈍くさい子だったからな、色々と心配である。
二人を見送ればすっかりスキー客は減っていた。もう暗くなりつつある。
「あぁ…行っちゃいました…せめて最後にハグさせてほしかったです…」
「可愛い妹分ならそこにいるだろ、代わりになってくれるかもしれないぞ」
「五月ぃ…胸にぽっかり空いた穴を塞いでぇ…」
「実の妹を蔑ろにする姉なんていりません、つーん」
「あうっ!」
「穴が二つ…」
「自業自得だわ」
お別れを言いそびれたな。四葉は露骨に残念がって五月に寄りかかるが…末っ子は膨れっ面で逃げた。
白い銀世界に夕日が差し込む。眩しいくらいで目がかすむ。
その光を遮って、三玖がおずおずと声をかけてきた。
「…ミクちゃん、最後までフータローのこと掴んで離さなかったね
あんなにすぐ信頼を得られるフータローは、やっぱり凄い」
「信頼とは違うだろ…あの子なりにどうすれば母親に気持ちが伝わるのか考えたんだ
ずっと我慢してたっぽいからな」
「…そういう気持ちを汲み取って守ってあげたから、ミクちゃんは信じたんだよ
普通、子供相手にそこまで考えないよ…
…今思えば…お母さんもフータローも子供相手に思慮深かった…どうしてなのかな」
「…」
先生の育児方針は知らんが…俺は単に恩師の愛娘だと知って滅茶苦茶気を遣ってただけだぞ…
「…フータローは以前、昔とは違うって言ってたけど
そんなことない…やっぱりフータローは変わってない
私が…好きになったフータローのまんまだよ」
「幼稚園児に好かれてもな…それこそ、昔のおまえらだけで十分だ」
「そ、それはそうかもしれないけど
…私たち、もう大人」
「あれだけヤキモチ焼いてたのに、か?
「…焼いちゃうよ、ずっと…これからも、きっと」
「…」
ちょっとした告白のつもりだったのか。三玖ははにかんで隣に立つ足を退けていった。
…あの母親の言葉で思った。俺が知る三玖は泣き虫だった。
俺の知らないところでも泣いてばかりだと思っていた。きっとそれは先生も、他の姉妹も同じように思っていたんじゃないか。
だが、それは決めつけであって。
もしかしたら全く泣かずに、苦しい時も泣きたい時も我慢できる強い子だったのかもしれない。
…難しいことだと思う。
好意や愛情とは相手を深く知っていなければ湧かない感情であって、多少の決めつけは必ず生まれてしまう。
あの母親には酷なことを要望したと気づく。相手が子供に限らず、間違ってはならないものだった。
「…というか…フータロー君、ズカズカと言ったね…見ていてヒヤヒヤしたよ」
「まったくよ
女手一つで育てられた私たちとしたら、ちょっと言い返してやりたいことが多々あったわ」
「こえー これだから育児とかの話題はブルーになるんだよ
さっきの人に限らず、シングルマザーの相手はいつも肝が冷えるぜ」
「…いつもって何…どこで会ってるの…類稀な人たちでしょ、そういうの」
「うちの学校、たまにいるからな…片親の生徒
金持ちが多く通う学校でな…なんつーか…金持ちの愛人とその子供の家庭もあってよ
何の発言が地雷になるかわからねえし、上手く話せたと思ったら食事に誘われたり、家に招かれたり…理解が追いつかない類だ」
「…へぇ…」
「…なんか聞いてはいけなかったことを暴露された気分です」
しおらしく夕日に染まる雪景色の上で、子供の騒がしさが消えた喪失感に浸っていたのに…無性に寒気がする。まだ日は沈んでないのに。
三玖を筆頭に、なぜか冷たい視線をぶつけてくる五つ子たち。何だよ、別に誘われてるだけで行ってないからな。職場からも教員やってる間は絶対に行くなと念押されてるし
「もしやさっきの元から良い子と言い…フータロー君ってマダムキラーだったりして」
「それでうちのママもひっかけたのかしら…ひぃ…鳥肌立った…」
「…むしろ、元を辿ればお母さんが原因じゃ…こればかりは恨むよ、お母さん…」
「子供だけでなくそのお母さんからも好かれてるとは、意外ですし困ります! 上杉さんには健全な結婚相手を希望します!」
「…上杉君、もし…もしも年上の方とご結婚される場合…もしかしたら大反対するかもしれません
ええ…そういう方がお好みですと…きっとお母さんもヤキモチ焼くと思いますので
娘がこう言ってはアレですが…母は美人でしたし…母を差し置いて母と同年齢の方を選ばれるのはちょっと…」
「…先生よりも年上禁止だと…十年以内には結婚しないと厳しいような」
「それまでには結婚してください」
「げー…らいはが増えやがった…」
「こ、候補は…いるんじゃないかな、それまでには」
「やめなさい三玖、今この話題にあんたが立候補しないで…寒気が止まらないわ…
上杉…悪いけど当分結婚はなしよ」
「…何の話をしてるんだよ」
子供がいなくなった傍から恋愛談議か。流石女子高生、そういうのは旅館に帰った後にするんだな。
迷子を無事に母親の下へ届けたことで、俺も五つ子たちも別れることになる。
明日は会えないだろうな。そう伝えると残念がられはしたが、今日がたまたま運が良かっただけのこと。
宿が被ることなんてないしな。五つ子たちは旅館に。うちは学校が管理する寮だ。
そう豪運が続くわけがなく、次に会うのは地元に帰った後になるだろうよ。
「あ」
「…どうしたの、フータロー君」
「…お、置いてかれた…」
「…へ?」
戻ろうと携帯を確認したら着信が幾つか。恐らく先の親子と話をしている間に鬼電があったようだ。
メッセージを確認すれば、俺が子守りしているのを知って、生徒と教員らは先に寮に戻っているとのことだった。
最悪ミクちゃんの相手で一日拘束される可能性も伝えてあって、先にバスで帰るから今日は仕事のことは考えずに対応しろとのこと。
…れ、連絡するの間に合わなかった…バス行っちまった…!
「仕方ねえ…後で請求するとしてタクシーで行くしかねえな」
「というか、そこまでして戻る必要あるの? ほぼお休みもらったようなもんじゃない
バカ真面目に仕事に戻らなくてもいいっしょ」
「も、戻らなくてもいいと言づけられているのなら、今日くらい休まれはどうでしょうか」
「! そうだ! 上杉さん! お泊まりしましょう!
同じ旅館に一部屋借りて! そしたら夜にお忍びで行きますから!」
「は?」
「お、お泊まり…フータローの部屋で…なんか忍者みたい、面白そう」
「おい、俺はタクシーで帰るからな!?
これ以上面倒事はごめんだ!」
五つ子にとっての幸運は二度続き。
その日は眠れない夜をこの五人と共に過ごすことになり。
来年は正式に五つ子との林間学校が待っていると想像して、その地獄の日々に苦笑いするのだった。