もやもやしていた。言ってしまえば不満だった。
思うようにならない。たったそれだけで形容しがたい焦燥感に駆られ、まだ未発達なその思考を巡らせていた。
その回答は単純なもの。至って順当な思考。後に取る行動もまた、子供にとって当たり前な日常。
「おかあさん」
「どうしたのですか、三玖」
「こくはくって、どうやればいいの?」
この子が涙する前日。
自分が抱いたものを察した三玖は、それを成す術を知ろうと母に尋ねた。
風太郎と最後に出会ってから、共に母の拳を頭に受けた日から数日が経っている。
三玖はひたすら思いに耽っていた。二乃にされて自分にはされていないのは嫌。どうすればいいんだろう。
その答えをやっと導き出し、さっそく母親に聞いたのだ。
「…上杉君に告白したいのですね」
「…ダメ?」
三玖は母の表情を見て感じた。困っている。
綺麗に洗濯物をたたむ手を止めてこちらを見る目は優しい。だが三玖の行いを歓迎しているようなものではない。
「ダメではありませんよ
ですが…上杉君は真面目ですから」
「うん、まじめ」
「告白して三玖はどうしたいのですか?」
「?
…?
およめさん?」
「お嫁さんですか、上杉君も喜ぶでしょうね
ですが…三玖にはまだ早いかもしれません」
「じゃあ、やくそくするの
よやくっ」
「…三玖、三玖の上杉君を好きな気持ちはとても大事なものです、私は止めません
上杉君も三玖をとても可愛がっていますから
でも、三玖の好きと上杉君の好きは違うかもしれませんよ」
「…そうなのかな」
「大事にしまっておくのも、良いことだと思いますよ
今言わなくてもいつか、ね?」
「…うーん…」
三玖に母親の言葉の全てを理解することはできなかった。
失敗するかもしれない。それは理解できた。
風太郎と自分は仲良し。それじゃあダメなのか。何がいけないのか。
答えを出した後に再び難題を抱える三玖だった。
膝を抱えて考え直していると、突然肩を揺らされた。
「どうしたの三玖」
「一花」
「おかあさんと、なにはなしてたの?」
「…」
いつも世話を焼いてくれる姉が心配そうにこちらの顔を窺っていた。
いつも頼りになる姉だが、風太郎の話題なら少し話は変わる。
時にはライバルとなる姉だ。三玖は正直に話すか戸惑った。
しかし、母に止められてしまってはもう手詰まりな状況。誰にも頼れなくなった三玖は一花に説明した。
「こ、こくはくっ!?
え…三玖、ええっ!?」
「どうすればいいのかな…」
「え、えっと…」
「一花はしたことある?」
「ないよっ
ないし、だれにするのっ」
「フータロー」
「おにいちゃんは……うん…
…ふーたろーくんに…するの?
やめときなよー」
「一花はやっぱりてき」
「わー! いまのなし!
しゅ、しゅーごー!
みんなしゅーごー! さくせんかいぎ!」
思いも寄らなかった内容に対応できなかった一花は妹を呼び出した。
三玖にとってあまり大勢に知られたくない。特に二乃には関わってほしくなかった。姉をじーと睨んだ。
二乃、四葉、五月が訳を知らぬまま集まった。何でこういう時だけみんな素直なのか。三玖は不満に思った。
一花から説明を受けた三人は姉以上に驚いた。
「ええええ! 三玖がうえすぎくんに、こくはくですか!?」
「ま、まだチューのこと怒ってたの!?」
「こくはくなんて、ふられるにきまってるじゃん」
「二乃にはかんけーない」
「あ、あんたね…
ほんとうだってば
あのね…ほんとうにふられるから、やめときなさい
わたしたちまだこどもなんだからっ」
「…」
二乃も同じことを言う。何がダメなのだろうか。
告白したその先のものを具体的に考えられない三玖にはまだ分からなかった。
だが、やはり二乃に咎められることは腹が立った。それだけは明白。犬猿の仲では助言も煩わしくなるものだった。
「ふられたらどうなるんだろ…
もうあえなくなるのかな」
「や、やっぱりふられるんだ…」
「こくはくがダメだったら、きらいになっちゃうの…?」
「やっぱダメなんだ…」
「うーん、というかね
わたしたちには、はやすぎるとおもうの!」
「はやいんだ…」
「かんがえなくても、わかるってば」
「…」
「あ、あれ、三玖?
げんきないですよ?」
「げ、げんきだして!
まだわかんないよ!」
「あんたたちのせいでおちこんだんでしょっ!
てきとーなこというんじゃないわよ!」
「ええええ!?」
「わたしたちのせいですか!?」
全員が振られると言っている。それを聞いて三玖も理解し始めた。これはダメなんだと。
自然と視界が滲んでくる。
「…ひぐ…」
「…」
「…」
「あーあー、もうなかせちゃって」
「あんたもいってたからね」
「はやいっていっただけだよ!?
ふられるっていってないよ!」
「おなじじゃん! というか三玖
あんたも、いもうとになかされてんじゃないわよっ!
…ほら、かいぎでしょ」
ぼやけた視界の中でちゃぶ台の前に座った二乃が厚紙と鉛筆を持っていた。
何かを書き始めて、鉛筆を手放した。
「みにくい…やっぱクレヨン」
「四葉」
「もう! みんなわたしのつかうから、なくなっちゃうよっ」
「なかせたバツよ」
「はいっ!」
「…まあ五月のでもいいけど」
「それわたしのだよぉ!
五月ひどい!」
「きのう四葉に、さいごの からあげとられましたっ!」
「あんなにいっぱい、たべてたじゃんっ!」
「けんかしないでよー」
「…なにかいてるの…」
自分が泣いてるのにこの姉妹はいつも騒がしい。
目元を拭って広げた厚紙を見ると二乃が得意げな顔を見せてきた。
「しかたないから、てつだってあげるわ
フー……うえすぎの、すきなおよめさんになればいいのよ」
「じゃあ、こくはくのしかた、おしえて」
「だから、ふられるんだってば!
でも、かんがえとこっか…
こくはくは、きれいなよるのまちで――」
「はい!
すきだけじゃなくて、もっといいこといってアピールしたほうがいいよ!」
「いいことって?」
「いいことってなによ!
それよりもね、ごうかなレストランでね」
「うえすぎさんにしてあげることとか!」
「四葉ぁ!」
ドラマで見た知識を披露する二乃を遮って四葉が提案した。当然二乃は憤慨した。
四葉に続いて一花が手を挙げた。
「わがままをいわないとかっ」
「うん」
「…あーもう
めいわくかけないとか?
あんたいっぱいかけてるし」
「うん」
「いっぱいやくにたつとか!」
「うん」
「こどもじゃないです!とか
いまがダメでもがんばります!…かな?」
「うん、わかった」
「あとはあんたがいいたいこといえば?」
「およめさん」
「それだけじゃ、わかんないってば…」
呆れた二乃が姉妹の案を厚紙に書いていく。
姉妹がそれにあーだこーだ付け加えようとする。
それを見た三玖は、さっきまで抱えていた不満や焦りが晴れていくようだった。
やっぱりこの姉妹が大好きだ。我侭言って迷惑をかけているけれど、こうして助けてくれる。
「はい、じゃあ…あとは、うえすぎのすきなおよめさんのことね」
「うん、つぎあったらいう」
「…そのまえに、きいてきなさいってば
ほら、かみあげるから、きいたらかいといて」
「でも、はやくいわないと」
「ふられるってば!」
「三玖は、怖くないのですか?」
「…おかあさん…?」
洗濯物をたたみ終えた母親が三玖に声をかけた。全容を聞いていた母親は最後に聞いておきたかった。
子供たちが一人の為に協力し、共に乗り切ろうとする。一生懸命な子供たちを見て微笑ましく思っていたが、同時に結果が心配だった。
この笑顔が曇ってしまうのは分かっている。優しい嘘に誤魔化されて笑うのか。あしらわれて話を逸らされるのか。
子供の拙い願望として終える日常の一片だ。あんなに良くしてくれる年上のお兄さんに好意を抱くのはおかしくない。
だがそれまで。その先はない。まだあると思うのは子供の夢。
母親に同調するように二乃も疑問を投げかけた。
「…わたしたち、こどもじゃん
すきでも…あいつはちがうし
かわらないもん…かわったらいいけどっ」
「二乃もおかあさんも
…よくわかんない」
嘘だ。三玖はもう分かっている。母親も見抜いているし、二乃や子供たちも薄々察している。
年の離れたお兄さんと、まだ子供な自分。たまに子供が口にする愛情表現と変わらない。子供の世界の話。深みのない酷く浅く無知な願望だ。
それでも言うのか。ただ大好きと言うだけならいい。それ以上を求めると話は違うのだ。
これも我侭なのか。先を考えずにただ言いたいだけなのか。
三玖は俯いていた顔を上げて、母親を見て笑った。恥ずかしそうに。照れながら笑った。
「すきなんだもん
すきだからいうの…フータローのすきなおよめさんになるの」
「だからなれないってば!」
ままならない願いを聞いて、じれったくなった二乃は怒った。
何度も教えてあげているのに妹は全然分かってない。軽くキレそうだった。
おかげで手に持ったクレヨンから悲鳴が上がった。
「ああああああああっ!!?
おったぁあああああっ!?」
「あ、ごめん」
「だからいやだったのにぃい!
あぁあああああっ! わぁあああああんっ!」
「ごめんってば!
なかなくてもいいじゃん!」
「二乃、ダメですよ!
ひとからかりたものをこわしちゃ!」
「あんたがよこしたんでしょうがっ!
わ、わたしのあげるから…四葉、ごめんね?」
「あれ、二乃のあかのクレヨンって」
「一花がまえにつかっちゃった…もうちっちゃい…」
「あれ、そうだっけ?」
「一花ぁあ!
どうしてくれるのよ!」
「じゃ、じゃあわたしのあげるから」
「なんでもってるのに、わたしのつかうのよ!」
「二乃もじゃぁんっ!
わぁああああっ!」
「だから五月がっ」
「一花と二乃がいったからだよ!?」
「えんぴつでよかったのに、二乃がクレヨンにするからだよ」
「わたしのせいにしないでよっ」
「新しいの買ってあげますから、もうよしなさい…」
いつも騒がしい。こっちは真剣に考えてるのに。
楽しい時も、笑っている時も、怒っている時も、悲しい時も。
こっちのことを考えないで声をかけてくる。時にはやめてほしいと思い、時には泣きたいほど嬉しく思う。
笑っていた。
大好きな家族に囲まれて自分の思いから溢れる幸せをかみしめていた。
しかし、彼と出会って、思いを口にした後にあんなに辛い思いをするとは思っていなかっただろう。
こんなに嫌な気持ちになるとは思わなかった。
雨の中。灰色だらけの冷たい世界で脅えている。
「フ…フータロー…どこ…
どこいっちゃったの…!」
傘を持たず既に全身濡れている。
ここがどこなのか分かっていない。見たことのある場所、ただそれだけ。
走り出した先にはだいすきなひとの背中は見えなかった。だから走るしかない。
後ろに誰もいない怖さに脅えながら、何度も振り返り、走っていた。
「三玖がいないってどういうことだ」
携帯から耳にした言葉に、風太郎は来た道をすぐに引き返した。
「さっきまでいたのにいないの!
靴もなくて…外に出ちゃったんだよっ!」
三玖の告白をぞんざいに振って、先生から傘を借りて中野家から離れたのが30分程前。
考え事に耽っていた風太郎は重い足取りで適当に散歩していたのだ。
降りそう、と先生が言っていた通り、今はもう雨が降っている。だんだんと雨音が強まっている。
本当に三玖が家を抜け出たとして、まだそう時間は経っていないはず。風太郎は不安で慌てている妹にゆっくり伝える。
「俺が出た後、三玖と何かあったか?」
「な…何もないと思うんだけど…特別」
「先生はどうした?」
「探しに出ちゃった
わ、私はみんなを看ててって
け、警察呼んだほうがいいのかなっ」
「待ってくれ、確認させてくれ」
一花にも似たようなことがあった。あの時は無事に見つかったからいいが最悪のことを考えればすぐに警察に知らせて捜索してもらったほうがいい。
まだそれには早い。そう思ってもいいことを祈りつつ風太郎は続ける。
三玖は勝手に家を出るような子ではない。何か理由がある。それが分かれば行きたい場所が分かるかもしれない。すぐにそこに向かいたい。
「俺が出た後どうしたんだ
あいつ閉じ篭もってただろ、出たのか?」
「先生が部屋から連れてきてくれたの
でも気まずかったみたいで、一緒にいなくて…玄関の踊り場にいたの
せ、先生が大家さんと話しに出た時はいたよ!」
「その後だな、何かあったか?」
「な、何も…話もしてなくて
10分ぐらいしたら、いなかったの
どうしよう、お兄ちゃんっ」
「何をしてたんだ」
「三玖ちゃんとは話してないよっ
あぁ…ちゃんと声をかけるんだった…」
「そうじゃない
あいつは寂しがり屋なんだ
一人で家を出る子じゃない
たぶん隠れておまえたちを見ていたんじゃないか」
出逢った時よく見た光景だ。玄関の薄暗いところからこちらを見ていた子がいた。
近寄りたくない。けれど一人は嫌。人気のない場所が嫌いな子だ。
それに子供たちの声は響くからな。玄関で座り込んでいても聞こえるはずだ。
「そ、そうだよね…え、えっとね
お母さんの話してたんだよ、私達の」
「あ? 母さんの話?」
「う、うん
二乃ちゃんや四葉ちゃんが泣いちゃってね
いけないこと聞いちゃったって、お父さん笑ってたのにって」
二乃は以前仲直りした際に少し話したな。泣く理由は分からないが今は置いておく。四葉は親父を見たから予想外だったのだろうか。
それを聞いた三玖が家を出るわけはない。特別なことはないはず。母親はいるのだし、四葉や五月と違って母親の不調に不安を抱いている様子もなかった。
五月には自分の母親の話はしたか。
「あいつにも話したな」
三玖にも話したことがある。影送りを教えた日に少し話題になった気がする。
三玖に会いたいと言われたのだ。
それで果たして家を出るとは思えないのだが。
泣いている姉妹を見て気まずくてなって出たのか。分からないがもう探すしかない。
「らいは、先生に連絡を取って警察を呼ぶか確認してもらっていいか」
「よ、呼ぶの?」
「雨が酷くなってきてるんだ、騒がしくなるがそうは言ってられん
その判断は先生に任せる
俺も手当たり次第探すからよ、見つけたらおまえに連絡するから」
「う、うんっ」
「らいは、心配するな
俺が連れ戻してくるから」
「う…うん…っ」
自己嫌悪に陥っているのだろう。始終らいはの声は鼻声だった。泣いていたのかもしれない。
考えたくはないが連れ去られた可能性だってある。らいはが全く気づかないうちに。ありえない話ではない。
風太郎は走った。なりふり構っていられる余裕はなく、道中の通行人に三玖を見かけなかったか尋ねていった。
ヘッドホンをしている子だ。そうでなくてもこの雨の中だ。子供が一人でいるのは不自然に見える。
その違和感もあったのか、聞いていくうちにヘッドホンを付けた子を見たと聞いた。心が少し軽くなった瞬間だった。
らいはと通話して30分程経っている。三玖が出てから恐らく1時間程。
何分前に見かけたのか確認してその跡を追いかけていくが、聞いていくと方向がバラバラだった。
「迷ってるのかあいつ…
公園じゃねーのか」
母親の話を聞いて何か思ったのだとしたら、風太郎と話した公園しか当てがなかった。
理由など分からないがそこしか思い当たる場所はない。辿りつく道中の聞き込みで恐らく三玖であろう情報を聞いて道を変えたのだが、公園に向かっているようではないのか。
公園に向かう根拠もない。今は目撃情報を辿って探したほうがいいだろう。
風太郎は傘を閉じて走った。酷くなった雨の中傘を差しながら走るのが煩わしかった。
途中車が真横の水溜りに入って通り過ぎていった。この雨の中飛ばしすぎだろうが。
子供が迷子になっているんだぞ。そんな恨み言を抱きながら風太郎はずぶ濡れとなって走った。
先生は警察に連絡したらしい。三玖が家を出て2時間。まだ見つかっていない。
一花の時と同じ不安が一層迫る。しかも一花より臆病で泣き虫な三玖だ。心配だ。早く見つけたい。
泣いているだろう。慰めてやりたい。悪かったと謝って抱きしめてやりたかった。
通行人からの目撃情報が途絶えた。というか雨の中歩く人間がほとんどいない。
「…あの公園にいるのか…?」
期待はあるが、もしいるのならすぐに見つかっていそうだ。いてほしいようで、それはないだろうと迷う。
行ってみよう。一番可能性があるのはもうあそこしかない。
公園に辿りつくとやはり無人だった。雨が公園の泥を打つ音しか聞こえない。
「やっぱちげーじゃねえか…
そんな馬鹿な話ねーよな…
あ?」
地面を見ると小さな足跡があった。深い。恐らく雨が降って泥になった後に踏んだものだ。
この足跡が三玖なら、ここに来たのか。
ふざけてやがる。もっと早く来るべきだった。
「おい三玖ー!
いるのかー!」
雨の音で声がかき消される。
風太郎は公園を後にして走った。もしかしたら近くにいるかもしれない。そうであってほしい。
一花の時もそうだった。だから何だと自分でも思ってしまうが縋れるものに何でも縋りたくなる。
あの子はまだ子供なんだ。こんな大雨の中一人で公園に来たのか。何をしてやがるんだあいつは。
先生には良い形で去るとか言った後だぞ。嫁だろうが結婚だろうが何でもいい。してやるから無事でいてくれ。
「ぁ…あ?」
公園に沿った道路の先に何か小さい子が見える。
…この道は呪われているのか。それとも幸運を招いてくれるのかもう分からなかった。どうでもいい。
「いた…
…はぁ…」
首に青いものが見える。ヘッドホンだろう。きょろきょろと辺りを見ている。こんな雨の中何やってやがる。
重い溜め息が漏れる。一花といい、三玖といい迷子を捜すのは心を削られる。
先生が心を病むのも分かる気がした。身がもたない。
小走りで向かう。疲れているが足は軽かった。
「…!
ふ、フータローッ!!
ご、ごめ…ごめんなさいぃ…!」
何か言っているな。この距離で見分けられるのかおまえは。こちらはそのヘッドホンがなければ分からないのに。
雨で薄暗いのに、三玖は風太郎と知って駆けつけてくる。走ると一花みたいに転ぶぞ。
雨音以外の音を耳にした直後、嫌な予感がした。
こちらから三玖が見えるが、それは十字路の先だ。公園に沿った長く直線の道路で周りは木々に囲まれて見晴らしの悪い道だ。
その十字路のほうから車の音が聞こえる。奥からは三玖が走っている。
「止まれ三玖ーッ!!」
声が聞こえないのは分かっている。走って意地でも止めるしかない。だが距離を見れば風太郎より三玖が交差点に着く。
風太郎の真横を通り過ぎた車を思い出す。交差点に近づけば分かる。減速していない音だ。
このままじゃ間に合わない。傘でも投げつけてでも止めるか。三玖が止まればいいし、減速していないだろう車が止まってもいい。迷惑だろうが知るか。
もう三玖が交差点に入っちまう。傘を振りかぶろうとして、三玖の奥に誰かが走っているのが見えた。
「三玖っ!」
「わっ!?」
誰かが交差点に入ろうとした三玖を後ろから手を伸ばして引いた。
その後に車が視界を横切った。やっぱり減速してねえ。車が通った後に三玖が無事なのを確認して安堵した。
「せ、先生じゃねえか…!」
誰かと思ったら三玖を助けたのは先生だった。三玖の後ろから走ってきたのか。
その先生が三玖を抱えて道路に倒れている。引っ張ってそのまま後ろに倒れこんだのは見えていた。
駆けつけると三玖は立ち上がって、先生はそのまま倒れたままだった。背中しか見えず、片方の靴が道路に投げ出されていた。
「せ、先生…?」
「おかあさん…?」
まさか車に当たったのだろうか。先生に駆け寄って上体を抱え上げようとすると異変に気づいた。
先生の頭の下から赤い血が見えた。雨の水溜りの中で揺らいでいた。
悪寒がした。
「せ、先生! おい!
嘘だろ先生ッ!!」
「ご、ごめんなさい上杉君」
「ええええ!?」
「お、おかあさん、いたそう…ごめんなさいっ」
慌てて起こして顔を確認しようとしたら、はっきりとした声で謝罪された。
驚いて危うく先生の頭を手放してしまうところだった。何なんだこれは。
思いっきり血が出てるじゃねえか!手が血で汚れるが、先生の体はちゃんと動いている。
顔が見えなかったから反対側に回った。三玖は最初から顔を見ていたからその心配していなかったのだろうか。
先生を抱えなおす。その表情は苦悶を浮かべ、辛そうにしていた。
「先生、血がッ」
「血は…掠っただけです…ッ
で、ですが…つい無我夢中だったので…受身が…」
「…
で、でしょうね…」
「おかあさん…っ」
子供はしっかりと胸に抱えて守っていましたよ。車が横切って見えなかったが盛大にアスファルトに体を打ちつけたらしい。
痛みで動けないのだろう、自力で起き上がれないようだ。
なんにせよ、無事でよかった。ついさっき一瞬でも思った事態を避けられて、安堵した。
先生の肩を抱えてゆっくりと体を起こさせた。痛みに震えているが我慢してくれ。
「申し訳ありません、情けない限りです…」
「子供を助けておいて、何を言ってるんだあんたは…
三玖、傘差してくれないか」
三玖は黙って頷いてすぐに傘を拾い、差してくれた。子供には大きめで少し重たいだろうが頑張ってくれ。
「怪我は…?」
「額の出血と…足を、挫いたかもしれません
あとは打ち身ぐらいです」
「…なら、よかった
先生がいなかったら三玖は轢かれてましたよ」
「…三玖」
「ご、ごめんなさい…」
「先生にお礼言っとけ
こんなボロボロになっちまってよ」
「三玖が無事でよかった…本当に」
「おかあさん…ごめんなさいっごめんなさいっ!」
傘を差してくれていた三玖だが、傘を手放して母親に泣きついてしまった。
先生も心底安堵したのだろう。三玖の頭を震える手で撫でていた。痛みで動けないくせに。
「救急車呼びますか?」
「いえ…病院には明日向かいますが…今は帰りたいと思います」
「…」
「…」
「…?」
「濡れるのは勘弁してくださいよ」
「か、肩を貸していただければ」
雨に打たれ、痛みに動けないはずの先生の目は強かった。
…さっきまでこの子の安否に気が気じゃなかった。
今は子供の傍にいたいのだろう。無茶な希望をしてくれる。
ハンカチで先生の額の傷を止血しているがなかなか止まらない。
ろくに歩けないくせに肩を貸したぐらいで帰れるのだろうか。無理だろう。
緊張が解けたり、背筋が凍ったり、腰が抜けそうになったり脱力してしまったがこのぐらいやらなければ示しがつかない。
三玖には傘を持ってもらおう。先生と自分のもので二本あるがこちらは差せそうにない。
「三玖、帰ったら話聞かせてもらうぞ」
「ごめんなさい…
でも、おかあさんが」
「ああ、ちゃんと帰って手当てしよう
先生、辛いでしょうけど背中に」
「…すみません…」
痛む体を動かして先生が背中に乗ってくる。このまま背中に負ぶって帰るしかない。
お互い衣類が濡れている身だ。ごわごわして気分が悪い上に水を吸っていつもより重たくなっている…ような気がする。
先生の腕が首に回り、しっかり足を抱えたところで立ち上がろうとする。
「…ぐ…ぬ」
「お、重いのでは…」
「た…立てば…後は楽っす…ッ」
「ふ、フータロー…がんばって」
三玖が先生を後ろから押して、どうにか膝をついた体勢から立ち上がることができた。
三玖に落ちている先生の片方の靴も回収してもらって歩く。
「先生、携帯でらいはと警察に連絡しましょう」
「は、はい、おかあさん」
「そうですね…ごめんなさい、電話します」
風太郎のハンカチを額に当てていた手を下げて、先生は三玖から携帯を受け取った。
雨に打たれているのだが話せるのだろうか。三玖が背伸びして濡れないようにと、傘をこちらに向けてくれた。
三玖の目は赤かった。やはり泣いていた。探している最中、慰めたいと願っていたが両手は先生を支えるのに精一杯だった。
「…手繋げなくて悪いな」
「!
…
う、ううん……ううんっ…ひぐ…うぅ…」
一人で走って、怖かっただろう。後ろに誰もいなくて寂しかったかもしれない。
先生が電話を終えるまで、三玖は風太郎の上着の袖を握っていた。
三人してずぶ濡れの格好だ。よく見れば三玖の手や膝は擦り傷だらけだ。転んだのか。痛かっただろう。
この手でその手を包んでやれないのが口惜しいが、この子を助けてくれた母親を守りたい気持ちもある。
「…三玖、もうちょいこっちきてみろ」
「ぐす……っ…
う、うん…?」
「そのまま正面」
「こ、こう…?」
「…まあ、あれだ
悪かったな三玖、今はこれで許してくれ」
いつの日か、してほしいと喧しかった時があっただろ。
今は手が塞がっているが、何かしてやりたい気分だ。これでいいのならしてやろう。
「…
…ぁ…わ…っ」
「今日は厄日だな、なあ三玖」
泣いている子の額に口付けする。また黒歴史になってしまう。まさに厄日だ。
人を背負っているから余計に疲れる。それでいてこの辛さを隠して笑わないといけない。
子供の本気など計り知れない。これを望んでいても、気まぐれで簡単に変わる。
だが、もしこれで、この子が辛いことだらけだった今日この日を、少しでも幸福だと感じてくれるのなら。幸いだ。
「…う…ぐす…うぅ、ぅううっ…えへへ…ひぅ…っ」
分かりづらい。泣いているが嬉しそうにも見える。
添えられた部分を手で覆って口から嗚咽が漏れている。
「泣くんじゃねーよ、俺が警察のお世話になっちまうだろう――がーっ!?」
「一度警察の方が家に来られるようなので、自首するのなら調度良いですね」
思いっきり両の耳を引っ張られている。非常に痛い。引っ張った上に捻ろうとしたり爪が食い込んでくる。本気である。
電話は終えたのだろうか、先生は器用に風太郎の胸ポケットに携帯を入れ、空いた両手を耳に伸ばしてきたのだ。
一人で家を飛び出して泣いていたんだ。叱る必要もあるが慰めたい気持ちが勝る。
いつものように手を繋げないのだから今回だけは大目に見てほしかった。
大雨の中、濡れてるし、泣いてるし、怪我してるし悲惨なものだが。なぜか今の心は晴れているような、雨なんてどうでもいいように思えた。
「本当に付き添わなくていいんすか」
「はい、所々痛みますが歩けないものではありません」
翌日。先生は病院で一度検査を受けてもらうことになった。
先生を抱えて三玖と一緒に帰った後、子供たちとらいはは目に涙を溜めて出迎えてくれた。が、母親が怪我していると知って慌てふためいてしまった。
警察もすぐに来たのだが、こちらは3人共ずぶ濡れ。母親は痛みで動けない状態で、らいはと婦警に着替えや体を拭く手伝いをしてもらった。その間風太郎が警察に事情を説明していた。
警察が帰った後は寝込んでしまった母親に代わり、らいはが夕食を作ったり、また明日も来ると約束したり。
そんな慌しい一日が過ぎた今日。日曜の朝早く窺ってみれば母親はけろっとした顔で家事をしていた。逞しい人だな。
「おかあさん…わたしもいくっ
わたしのせいだもん…っ」
「わ、わたしもいくよっ
おてつだいするからっ!」
「おかあさんの、つえやくになりますっ」
「わたし、ちからあるもん!
おんぶしてあげる!」
「むりでしょ!
わ、わたしはめいわくかけないから…いいよ?」
「…今日もらいはちゃんが来てくれるでしょう
せっかく来てくれるのですから、遊んでもらいなさい」
三玖、おまえも膝にでかい絆創膏を張っているだろうが。手も擦りむいてるしおまえは安静にしてろ。
玄関前でタクシーを待っている母親を労わろうと子供たちが志願している。軽く断られてしまったが。
頭にガーゼを付けている母親は痛々しいものだ。挫いた足も一応テーピングしているが一日で完治できるわけがないだろう。痛み止めを飲んでいるから歩けるだけだ。
心配である。風太郎が先生の真意を窺おうと睨んでいると苦笑された。
「…途中で倒れたら上杉君を呼ばせてもらいましょうか」
「救急車呼んでくれ
…まあ、いいけど…行きますし」
「冗談です
今日は…三玖と一緒にいてあげてください
…この子、あの時…ごめんなさいって、謝っていましたから」
「あの時?」
「貴方を見つけて、走っていた時ですよ
ね、三玖」
母親の言葉に三玖は俯いていた。
三玖とはこの後時間をかけて話すつもりだ。昨日のことはまだ何も話せていないからな。
「…目を離さないでくださいね」
「おい三玖、おまえ昨日のアレで一花と同じ前科持ちだからな
母親に目付けられてるから気をつけろよ」
「…ごめんなさい…」
「なんでわたしのこといったの!
もう! きにしちゃダメだよ三玖」
「一花…」
「うえすぎさんはいじめっこだ!」
「家出組も同じだからな四葉」
「ししし、三玖、いえでぐみだって
わるいことしちゃったね」
「…四葉…」
「…ん」
「うえすぎくんはやさしいですよっ」
後ろめたさが募る三玖の背中を二乃と五月が押した。
隣にきた三玖が風太郎の手を握ってくる。そっと握り返してやった。
それを見て姉妹が嬉しそうにしている。おまえら三玖に甘いな。二乃もなんだかんだ、三玖が好きだしな。
タクシーが来たようで、いってきます、と先生は声をかけて車へ向かおうとする。
三玖と顔を合わせて、靴を履いて、手を繋いだまま先生の前へ出た。
「そこまで送ります」
「…すみません」
「おかあさん、がんばって」
「辛くありませんよ」
風太郎の肩に手を置いて先生は歩く。その手からかかる重みは思ったより大きかった。やはり辛いんじゃないか。
タクシーの後部座席に座らせると後ろから子供たちも走ってきた。結局全員で見送ることになった。
「おかあさん、やっぱりいたい?」
「大丈夫ですよ」
「でも、さっきつらそうだったよ」
「え、そうなの?」
「や、やっぱりわたしもいく!」
「おかあさん、つらいならいってよ!
てつだうからっ」
「おかあさん! わたしもいきますっ!」
三玖の心配から四人の火が付いてしまったようだ。心配で仕方ない子供たちに先生が珍しく断れないような雰囲気になってきた。タクシーの運転手は子供たちの賑わいに驚き、待ってくれた。
特に五月は病院という言葉を聞いてから怖がっている様子がある。母親と一緒にいたいのだろう。
一人か二人ぐらい連れて行ってもいいと思うのだが、母親としては自分のことよりらいはと遊んでほしいのだろう。
らいはも昨日の三玖が家を出たことに対して後悔があるようだった。何度も先生に謝っていた。その妹を先生は優しく抱きしめてくれていた。
子供たちと接することで少しでも自責の思いを紛らわしてほしい、そんな思いがあるのだろうか。らいはが落ち込んでいることに先生もまた気を遣ってしまっている。大人として当然なのだが。
子供たちの厚意は嬉しいが、子供たちもとい家族に優しくしてくれるらいはのことも心配なのだろう。板ばさみになって先生は迷っていた。
眺めていた風太郎と困り果てた先生の視線が重なった。
「ど、どうかしましたか?」
「いや…
もう無理できねえ身なんだし、意地張ってねえで頼ればいいのによ」
「…そ…れは…」
「…」
先生は驚いて、次の言葉を紡げなかった。
約束の時。この人は言っていた。頼ってしまう、甘えてしまうと。それを拒んでいると知った。
この人にとっての最後の意地なのかもしれない。人に頼らず、自分でやり遂げる。それが自信となる。不器用なやり方。
俯いてしまいそうな先生の目を見て、風太郎は少し笑った。そう簡単に頼る人じゃないことぐらい知ってる。
視線を泳がせていた先生は風太郎を見て。
手を伸ばした。
思いっきり耳を引っ張られた。
「あいたたっ」
「無理できない身とはなんですか、私はまだ20代と言ったでしょう」
「怪我人って意味ですよ!」
「目が訴えていますよ、身の程を弁えなかったから無様に頭を打つんだと」
「それは事実でしょうがっ!」
「付き添いは結構です
年寄り扱いされては我慢なりません」
「誰もそこまで言ってねえよ!
…めちゃくちゃ元気じゃねえか…
おまえら戻るぞ、俺みたいに耳取られるぞ」
先生の睨みに子供たちが下がった。その目は見慣れたものだ。鉄拳で痛い目を見ているからな、怒られると分かった子供たちは素直に口を閉じた。
本音を言ったのだが、先生には通じなかったようだ。なんだか笑ってしまう。
ドアが閉じられ、車が走った。子供たちが手を振り、風太郎も控えめに振っておいた。
やっぱりあの人に暗い顔は似合わない。
そうあってほしい。そんな願いに自分でも笑ってしまいながら、見えるはずのないその後姿を見ていた。