「かまくらっ」
「積もったらな…」
「つくりましょー!」
雪の日だった。
しんしんと空から落ちる細かな白い粒を子供たちと眺めていた。
1月下旬となり、より寒い一日になりそうだった。
この時期は受験生のセンター試験が終わり、本格的に大学受験に差し迫る時期だ。
高校3年のクラス担任である中野先生は休日なのに学校に出向いたらしい。生徒の相談を受けているそうだ。やはり学校の先生は大変だ。
受験生も大変だが、教師も生徒の願書を大学に提出したりやることは多そうだ。憧れの人の職業だがやはり魅力的とは思えない。
こんな雪の日でも出向かなければならないのだ。窓から覗く景色は凍えるほど寒そうだ。
「ゆきがっせんしたいね」
「積もったらな」
「やりましょうよ、うえすぎさん!」
「ふーたろーくんになげてやるんだから」
「積もったらな」
「えい、えいっ!」
「てい!」
「叩くな、蹴るな
まだ怒ってるのか一花
あと四葉しつこい」
「わっー!リボンがっー!」
「二乃はケーキつくってあげたのに、わたしはそうじってひどいよ!」
「自業自得だ」
「一花がわるい」
「やっぱり、一花にいっぱいとられてました!」
「そうよ、そうじしなかったじゃん
ひざまくら、わたししてもらったことないのに」
「むー
なんかやなんだもん」
お開きとなった菓子作りは二乃にとって受け入れ難いものだったが、ケーキ屋での出来事は相当嬉しかったようだ。
帰ってから姉妹にとことん自慢したそうで、珍しく一花が激怒してしまった。言いたいことは分かるがどれも必要なことだったんだぞ。掃除も。
あれから数日経っているが未だ引き摺っているようだ。子供の嫉妬は根深いものだった。
四葉が頭からぶん盗られて放り投げられたリボンを取り戻して抗議してきた。やってることは犬だった。
「わたしはまだしてもらってません!
まだですか、うえすぎさん!」
「べつにいいが、ほぼほぼ死刑宣告みたいなもんだぞ」
「しけいはイヤです!
まだいいです!」
「準備できてるのなら始めるか」
「ま、まってください!まだいいです!
三玖からどうぞ!」
「四葉、にげないで」
「み、三玖はすごいですね…かくごしてるんですねっ
わたしはやっぱり、いやです…」
「けっこんするからだいじょうぶ」
「…」
「分かっただろ、残りの二人も大変なんだよ
おまえらも手伝え」
「わたしだってやだよ!」
「そうよ、ゆるしてないんだからね!」
「文句は五月に言え」
「えええっ!」
えーっじゃない。おまえから情報が丸々漏れてるみたいじゃねーか。一花と二乃から聞いてるんだからな。責任持って対処しろ。
4月から疎遠になることは三玖には以前話していた。話の内容は察しているようで平然としている。だが結婚はしないって言ってるだろうが。
四葉にはそれとなく伝えているのだが覚えているだろうか。姉妹喧嘩した翌日のことだ。公園で話したのだが忘れていそうだ。
早いところ話をしたかったが、一花がやたら噛み付いて邪魔ばかりされてしまった。本当に困ったお姉ちゃんだ。
「…今日はらいはもこねえし、大人しくしてろよ
テレビでも見てろ」
拗れた長女、姉妹喧嘩しそうな次女と三女、雪の中飛び出したくて騒いでいる四女にリモコンは渡せない。
テレビを付けて五月にリモコンを託した。今日は遊ばないぞ。寒いしな。
五人は渋々テレビを見るなり、各々暇を潰していた。騒いでばかりだと帰ってきた先生が疲れて倒れてしまう。
休みの日ぐらい家で休んでもらいたいものだ。何で他人の自分がこの家で寛ぐはめになっているのか疑問だ。
借りた参考書を読みながら自習に取り組むことにした。
少し時間が経った頃だったか。バラバラに行動していた五つ子が集まってテレビを見ていた。
何に夢中になっているのか目を向け…五月からリモコンを取り上げた。
「…怖いなら見るな」
「あっ」
チャンネルを変えた。
子供たちが見ていたのは、親を失った子供たちがいる施設の特集番組だった。
「だ、ダメですか…?」
「…いいや、ダメじゃない
だけどな………
…
いや、悪い、好きにしろ」
以前この手の話をした五月だけでなく、四人も神妙な顔をしていた。
リモコンを五月に渡すと、黙ってチャンネルを戻した。おまえ死にそうな顔してたのに大丈夫か。
「うえすぎくんは…どうおもいますか?」
「…どうも思わねえよ
家庭の事情は人それぞれでも、大切な家族を失えば不幸になるだろう
だけど一生とは限らねえ、そいつ次第だ」
座って子供たちと一緒に番組を見る。
子供たちは母親のこともあって思うものがあるのだろう。目を離さず真剣に見ていた。
果たしてこれがこの子たちにとって良い影響を与えるのだろうか。悪いがそうは思えない。そもそも人の苦難を参考にすることを自分は好めない。
だが、だからといって、今を苦しみながら生きようとする人たちを腫れ物のように見るなんて、最低な人間のすることだ。
子供たちの顔を見てとっさにチャンネルを変えてしまったが、その行動が正解だったとは思えなかった。
テレビの向こうにある、自分のものとは違う世界を見てどう思うだろうか。
自分と比較して幸せに思うなり、不憫に思うなり人それぞれ。その考えの善悪の審判を下すにはあまりにも難しい。
ただ子供たちは知ることはできる。もしかしたらありえるそんな未来があると。
「…先生はいなくならねえよ」
テレビを見続け、子供たちが寄りそうように固まっている様を見て、つい口にしてしまった。
子供たちは黙っていた。お互いを励ますことも笑って誤魔化すこともしない。
明言することを避けていただろう。怖くても考えないようにしていたのかもしれない。だとしたら無粋な発言だ。
子供たちがこちらにしがみついてきた。不安を拭うように優しく撫でてやった。
これぐらいしかできない。不安と言っても胸を締め付けるものは曖昧にも程がある。
先生が死ぬなど、あるわけないだろうが。
「…おにいちゃん
くすり…」
「あ? 薬?」
「もう、のんでないのかな」
「…飲んでるとは聞いてねえな
まあ、飲んでても睡眠薬だし」
「…ねえ、四葉
ほんとうにみたの?」
「わ、わかんないよっ
きょねんのことだし」
「でも、へんじゃん」
「わたしのせいでころんだときの、おくすりかも」
「…何を言っているんだおまえら」
子供たちの様子がおかしかった。
薬と聞いて、嫌な予感しかしなかった。
子供たちは曖昧な不安からテレビを凝視していたのかと思ったが、何か心当たりがあったようだ。
「四葉、言ってみろ」
「…わ、わかんないけど
おかあさん、おくすりのんでたの」
「…いつの話だ」
「お、おぼえてなくて…
12がつ…よりまえかな
おかあさん、三玖がいえでしてころんだでしょ?
そのときのかなっておもって」
「そうか
ちなみに、どうやって見たんだ」
何の薬かはハッキリしていないが、先生は子供たちを心配させまいと隠れて飲んでいたことがあった。
ここまでバレてるのなら、もうこそこそと隠れて飲むのはやめさせたほうがいい。
睡眠薬ならの話だが。
「ゆうはんのあとね、おふろはいるから
みんなではいってるときに、おトイレいきたくなって…
ぬれたままだから、こっそりいったの」
「体拭いてからいけ」
「ごめんなさいっ」
「それで見たってのか」
「うん…
わ、わかんないよ?
や、やっぱり、いたみどめ?かもしれないし」
「…おにいちゃん
たしかめようよ」
「あ?」
「くすり、さがしましょうっ」
四葉が説明してくれるが、その心中は否定的だった。認めたくない。そうであってほしくない気持ちが声に出ていた。
五月は何かを決心したのか、立ち上がって母親のバックの下まで走っていった。
ポーチを取り出してきた。先生から以前、その中から錠剤を見せてもらったことがある。
子供が母親の私物を勝手に取り出してきた。母親に怒られるようなことは避ける子だ。相当思い詰めているようだ。
姉たちも五月の真剣な顔を見て立ち上がった。
「おにいちゃん、これってほんとうに、ねむれるおくすり?」
「…」
五月がポーチから薬を取り出して確認を求めてくる。四人も同調するようにこちらを見つめている。
他人の家を漁るなどやってみろ。間違いなく出禁にされる。
1月も終わろうとしている。約束の期限が近くなってきた。先生には余計な気を遣わせたくない。
だが思いつめた顔をする子供たちを見て、選んだ。
「…前に見たことあるな、市販の睡眠薬だろ」
「…そうですか」
「調べるぞ
薬置いてる場所あるだろ、どこだ」
「こ、こっちだよっ」
もしバレてしまったら、せめて子供たちだけは守ってみせよう。
この子たちはあんたを思って、真実を突き止めようとしたんだ。
つーか、隠すならもっと上手く隠し通せ。考えると腹が立ってきた。
一花の案内で薬が入ったケースの中を確認した。
「風邪薬…胃腸薬…頭痛薬…ねえな
それっぽいのは」
「…ふーたろーくん、あると思う?」
「おまえらが心配しているものがあるかは知らんが
一つ探さないといけないな」
「え?」
「痛み止め」
あの教師。意地張って処方された痛み止めを毎日飲まなかったそうだ。
完治したら飲まない人だろう。自分もそうだ。大抵の人がそうだろう。
余ったからって捨てるとは思えない。ちゃんと置いてあるはずだ。
市販の風邪薬などが入ったケースには一緒に置かれてなかった。
「たんていみたいだね」
「やってることは泥棒と一緒だぞ
俺が一番怒られる」
「ご、ごめんなさい」
そもそも睡眠薬を飲んでいたと去年の夏頃に言っていたが、何で止めたのかハッキリしていなかった。
飲んでも効かなかったそうだ。効かないと知って止めたわけではないだろう。旦那の事を考えて眠れなかったくせにキッパリ止めたみたいなことを言っていた。
まだ飲んでいるんだろう、と指摘したら笑われたのだ。何で笑いやがったあの教師。思い出すと非常に腹が立つ。あの時の自分はなぜ問い詰めなかったのだ。
仮に、市販のものが効かないとなったら医者から強めの薬を処方してもらう必要があるだろう。
それはそれで構わないが医者にはかかっていないと言っていた。気休め目的で市販のものを飲んでいた可能性だってある。
「フータロー、あった」
「あ?
…どこにあったんだそれ」
「つうちょうのよこっ」
「俺じゃあそこまで手出せねえわ、よくやった」
大事な物の傍に置いていたそうだ。
探し回っていた子供たちが持ってきたのは白い紙袋が入ったビニール袋。見慣れたものだ。
医者に処方された時に貰うものだ。
過去のものもあるのだろう。目当ての痛み止め以外にも子供たちの薬も入っていた。
「ど、どうですかっ」
「ちょっと待ってろ」
「フータロー、おしえて」
「おかあさん、だいじょうぶなの?」
「うえすぎさんっ」
「ママびょうきじゃないよね?」
「…待てって、お母さん元気だったろ、落ち着け」
不安から急かす子供たちを宥める。宥めるので精一杯だ。
三玖を助けた際の痛み止めの袋はあった。やはり錠剤が残っているようで少し重みを感じた。
一花が風邪をひいたときの薬もあった。この二つは時系列順に重ねていったのだろう。
だからその二つより、上に積まれている二つの袋に嫌な物を連想して仕方ない。
「…」
また、嘘をつかなくてはいけないようだ。
「痛み止めの薬の後は医者から薬を貰ってねえな」
「ほんとですか?
うそじゃないっ?」
「俺まで疑うなよ
見てみろ、ここが処方された日だ
痛み止めと…一花の風邪薬、あとは去年の春頃だな
それより前はおまえらのインフルとか耳鼻科とか色々ある
分かったのはこれぐらいだ」
「…そうですか」
「じゃあ四葉がみたのって、やっぱりいたみどめ?」
「四葉がおぼえてれば、わかったのに」
「ごめん…」
「四葉はわるくないよ…」
「ほら、探偵ごっこは終わりだ
先生にバレる前に漁ったところを元に戻せ
バレたら飯抜きだぞ」
後片付けを促すと子供たちは急いで取り組んだ。
慌てだす子供たちを見送って、薬が入った紙袋を見る。
春頃に処方された薬が一番上に積まれていた。
普通に考えて、手に取る物を取りやすいところに置くだろう。新しく触った物を上に置くだろう。
処方された薬は二種。それぞれの錠剤の数を見ると100を越えていた。朝と夕の二回でも50日分を越える。
毎日飲んでいるわけではないだろう。次の受診日がいつなのか見当がつかない。
もしかしたらこれ以降に受診した際に処方されたものが別にあるかもしれない。
もしかしたら既に完治して、もう飲んでないのかもしれない。
だが長期的な治療を受けていることが丸分かりだった。
自分にはこの薬が何の薬かは分からない。
だが嫌な文字が見えてしまっている。
受診を受けた病院の名前。その横に付け加えられたもの。
精神科。そう書かれている。
「…もう、たくさんだ」
嘘をつかれていた。身を引き裂かれる思いだった。
平然と子供たちに嘘をついた後だ、よく分かる。
嘘をつくのは本音を伝えることより、ずっと簡単だ。
「勝手が過ぎます」
翌日。寒々しい屋上で凍りつくような目で睨まれた。
放課後、先生に呼び出されて問い詰められていた。
「子供たちから聞きました」
「…そうですか」
「あの子たちは上杉君を責めないでくれと謝っていましたが、到底容認できるものではありません
あの薬を見たのなら、もう知っていますね」
「あんたの口から説明されてねえから、分かりませんよ
漁るような事をして悪いとは思っていますが…」
「もうやめてください」
きっぱりと、拒絶の意思を突きつけられた。
ふざけるな。約束を忘れたわけじゃないだろう。
怒りが込み上がってくる。だが…その怒りもすぐに別の物に塗り潰される。
先生の表情は何の感情も見えはしない鉄仮面だが、弱々しくみえる。
怒りよりも、何よりも怖いものがある。子供たちが抱いたものと同じだろう。急かす気持ちも分かる。
「先生…
体、大丈夫なんですか」
「…」
「病院に通ってるんだろ」
「上杉君、やめてください」
「…」
「これ以上、この件に触れないでください」
「勝手なことを言うな
ちゃんと説明してくれ」
子供たちを騙してどうするんだこの母親は。もう拙い嘘が剥がれかけているんだぞ。
先生は伏目がちになって、先ほどまでの覇気が失せてしまっていた。
「誰も良い顔しないでしょう
前にも同じような話をしましたね、覚えていますか」
「…医者にかからず自力で治そうとしたんだろ
だけど、医者にかかってるじゃねえか」
「…」
「責めるつもりはない
子供にも知られたくなかっただろ
あいつらには嘘ついて誤魔化しましたが、そんな嘘いつかバレますよ」
「…不甲斐ない私が全て悪いのです」
「…自分を追い詰めるようなこと、言わないほうがいい
あんた、あのまま隠し通す気だったんだよな
だったら…知ることができて良かった
約束の日を過ぎたらきっと知ることはなかったしな」
「それを望んでいたと言ったら、幻滅するでしょう?」
「…知っちまったから、もうどうとも思わないな」
幻滅はしないが、やはり怒りを覚えてしまうぞ先生。
病に侵されている身を恥だと思っているのか。母親として認め難いものなのか。
そんなもの捨ててしまえ。そうは言っていられないだろうが。
今は人に頼るべき時だ。
目の前から見ても先生は健康そうに見える。五つ子の子育てや教師の仕事で疲れているだろうが、とても重い何かを抱えているとは思えなかった。
不明瞭な危機感が恐ろしかった。子供たちや幼稚園の職員が言っていた不安を一層際立たせてしまう。
つい、今まで心に刺さっていたものをぶつけてしまった。
「それにあんた…
あの時、京都で会った時より…変わってる」
「…」
「…老けたとかじゃないですよ
元気、ないですよ…」
「五年も経てば変わります
今年で30ですから」
「そのまま80、90まで全うしてくれ」
「…どうしようもないことです」
「…」
「…そうですね、楽しい観光でした
元気も出ますよ、上杉君」
先生は優しく笑った。
京都で出会った思い出には、先生の笑顔は一切なかった。
いつだって能面のような表情で。強くて、優しかった。
笑顔を見たかった気持ちはあった。だが今では笑顔より、あの時の元気な先生を見たいと思ってしまう。
「…病院には行っています
子供たちにも、貴方にも、教えたとして…不安を煽るだけです
皆が不幸になるだけでしょう」
…夫がいれば話は全く変わるのだろう。
母親が倒れかけている。だが倒れるわけにはいかないのだ。母親には大切な子供がいる。
甘えられる状況ではない、そもそも頼れる人がいない。一人で抱えて生きていくしかない。
不安も痛みも誤魔化して生きていかなければならない。家族を騙すのなら休める場所などない。
夫がいれば休めたはずだ。助言を求めることもできた。
頼っていいと思っていた人を失ったこの人は誰にも頼れない。こんなはずじゃなかったと悔やんでいたのかもしれない。
「俺が来る前、休んでたって子供たちが言ってました」
「はい」
「例外はあるが、俺は先生が休んだ日を知らない」
「貴方が手伝ってくれるようになって、本当に助けられる思いです
…お医者様も驚いていました
この調子なら、ゆっくり快調へ向かっていくでしょう、と
薬も止めて様子をみていました
…そんな、都合の良い体ではありませんでした
入院して集中治療を勧められましたが…断りました」
子供たちのことを考えると、そんなことはできないだろう。
タイミングが悪いというべきか、子供たちは小学校に上がる。支えは必ず必要だ。
それにお金の面もあるだろう。治療費と小学校にかかるもの。あまりにも大きいだろう。
自分が社会人だったら、何か手伝えたかもしれない。自分の家も借金を抱えていることを踏まえるとできることは少ないだろう。
それでも、見込みでも願望でも。この人を安心させられる言葉を伝えられたかもしれない。子供の自分は無力だ。
「諦めているのか」
「…」
「それとも、子供たちのことで精一杯で…頭が回ってないのか」
苛立ちが増す。
思い出すのは自分の母親。死んでしまった母のことだ。
自分のことを蔑ろにして、子供のことばかり。笑ってばかりで肝心なものは何一つ見せてくれなかった。
優しい嘘なんて、もうたくさんだ。大人は勝手だ。子供だからって見下して強がってばかりじゃねえか。
「吐露して…慌てふためけばいいと言うのですか
親のすることではありません
惨めなだけでしょう」
「…
親って何だよ、そんなのあんたのエゴだろう
そのつもりなら…上手くやってくれ
自分がちゃんと幸せになれる人生を生きてくれ
まだ幼い子供の気持ちを無視するのなら、そうあるべきだ」
「…」
「…俺は、あんたの子供じゃねえ」
「…貴方に泣きつけと?
現実的ではありません」
「そんなのあの時から知ってるわ」
約束を設けた時に思い知らされたわ。あの時からずっと悔やんでばかりだった。言われなくても分かっている。
…自分にこの人に意見する資格はないのかもしれない。
これ以上は不毛なのかもしれない。
だが、あんたを諦めることはできても、あの子達を不幸になるような問題を見過ごすことはできそうにない。
「あのまま嘘をついたまま、貴方には安心して卒業してほしかった」
「…安心してって」
あの時、先生は何と言っていただろうか。
安心して見送れる人間になってみせる、そう言っていた。あの時の先生の顔は今まで見たものと違ったものだった。
まさかと思うが。
「安心して見送れるようになるって、そういうことかよ」
「…それしかないでしょう
言いましたよね、私は臆病者です
逃げられると思ったら逃げます、とても母親を名乗れる女じゃありません」
「変わるんじゃなかったのかよ」
「…変わってみせます」
「…」
「貴方に甘えたいと思ってしまった、弱い自分を変えてみせます」
「…ふ、ふざけ――」
「貴方は、私の大切な教え子です
幸せになってほしいと、願います
…たまにでもいいから、思い出してくれるだけで幸せです」
本当にこの人は意地悪な人だ。あの時もこうやって自分の言葉を返された。
思い出してほしい、それだけでいい。自分が子供たちに言ってきた言葉だ。
言われる側は何て答えればいい。相手は既に諦めているんだぞ。
自分が子供たちに酷い言葉を吐いていたことを、痛感させられた。母親が怒るはずだ。
自分と一緒にいて縛られたままではいけない。離れてほしい。
やはり、三玖に自分の気持ちを重ねてしまったのは的外れではなかったようだ。
先生も自分と同じ気持ちだった。否定できなかった。
「…よくわかった
もう俺からは何も言いません」
「…」
「あんたが勝手にするのなら
俺も勝手にやらせてもらう
先生に迷惑に思われようと、あの子達を泣かせたくねえ」
「はい」
腹が立つぜ。その何とも思っていないような顔は。
俺はまだ幼稚園児のあんたの子供を振るのに、あれだけ苦労させられたのに。
これだけ心配しても、この人はどこまでも勝手だ。
自分の周りは勝手な奴ばかりだ。心底疲れる。確かに縁を切ったほうが幸せになれそうだ。
あの五人の我侭は、母親譲りだ。
「おかあさんのバカぁっ!」
先生と何とも言えない暗雲とした別れとなった後の休日。
先日は積もるか怪しかったが、大粒の雪が降っては地面を白く染めていた。吐息も真っ白に染められている。
先生とはあんな終わり方をした後でも中野家を訪れることになった。正月は顔を合わせるのを渋っていたのに妙な気持ちだ。明らかに険悪な関係になってしまったのに。
玄関前まで辿り着き、インターホンを鳴らそうとしたら、ドアの向こうから怒声が聞こえた。
何があったのか知らないが、このタイミングで押すのは気が引ける。決して先生と会うのが気まずいわけではないが、話し合う間合いを考えなければならない。
このまま押して中に招かれてみろ。トラブルが起きているのは既にわかっているのだ。その収拾に利用され気まずい先生と話す機会が増えるのだ。嫌すぎる。
治まるのを待っているのだが、中は騒がしいままだ。
寒空に放置されるのも身が凍えてしまって困る。覚悟を決めるべきかと迷っているとドアの鍵が開いた。
「あ、ふーたろーくんっ」
「…何やってんだおまえら」
ドアを開けたのは一花だった。
一花だけでなく、二乃、三玖、四葉も集まっていた。
五月だけがいない。
母親と言い合っているのは五月のようだ。
「喧嘩か?」
「う、うん…」
「止めろよお姉ちゃん」
「…おかあさんがね、いいって
すこしはなすから、むこういってなさいって
ふーたろーくんくるかなって、おそとみようとしたの」
「…おまえらも災難だな」
子供たちがしがみついてきた。流石に子供たちが不憫に思えてくる。
あまり家の空気はよろしくないようだ。今でも奥から五月の泣き声と怒声が聞こえる。
話の内容は分からないが、近所迷惑を考えてほしい。
ドアを閉めて中に入ることにした。
「お邪魔します」
「上杉君…すみません、見苦しいところを」
「いつものことでしょう」
「おにいちゃんっ!!」
先生は見るから困っているように見えた。
一方で向かい合う五月は顔を赤くして泣いている。何やってるんだおまえは。
呆れていると五月はこちらの手を取って引っ張ってきた。やはり巻き込むつもりか。
「おにいちゃん、わるくないのに!」
「…そうですね」
「おかあさんっ!!」
「…お母さんにも事情があるのです
許してくれませんか」
「おにいちゃん、いっぱい、いっぱいやさしくしてくれたのに!
ひどいです!ダメだよおかあさん!」
「…誰か説明しろ」
手を握ってくる五月の指の爪が痛い。めちゃくちゃ食い込んでるからやめてほしい。振りほどけるわけがなかった。
全容は分からないが、五月が自分の為に母親に怒ってくれているのは分かる。
屋上で先生と話した事だろうか。先生は癇癪を起こした五月を宥めることができないでいた。
五月が母親に反対する、まして怒るなど今までなかった。
だから姉たちも驚いて萎縮してしまっているのだろう。影からこっそり見ていた。
部外者でいられては困る。一花を睨むと妹に押し出されてこっちへやってきた。流石に可哀想か。
半泣きの一花の頭を撫でてやると、恐る恐る話してくれた。
「きょうね、ふーたろーくんがくるひだねってはなしてたらね
おかあさんが…もしかしたら、もうこないって」
「…4月までは来ますよ」
「…すみません」
「そ、それでね…五月ちゃんがなんでって
そしたら…
…ふーたろーくんが、4がつからこないのは…おかあさんのせいだって」
「…先生」
「事実でしょう」
この人は何もかも責任を被るつもりのようだ。確かに先生との約束が原因でもあるが先生が背負うものではない。
そもそも先生に迷惑をかけないために、色々と手を回してきたのに、この人はこちらの気遣いを粉微塵にしてくれたようだ。解せない。
先生が子供たちにどんな説明をしたのかは知らないが、とうとう五月が母親に怒ってしまったようだ。
姉たちには五月を止めてほしかった。母親が断ったとしても困っているのだから助けてほしかった。
それとも、この姉たちも少なからず母親に不満を抱いてしまったのだろうか。やめてくれ。この人を一人にさせるようなことをしないでくれ。
「五月、前々から考えていたことなんだ
受験があるのは本当だ、先生は気を遣ってくれたんだ
怒るのはやめてくれないか」
「しらないもんっ!
おにいちゃん、あたまいいもんっ
だいじょうぶだよっ!
おかあさん、おにいちゃんしんじてないんだよ!」
「俺だって勉強しないと受験は無理だ」
「いっしょにいようよっ!
いっしょにいてよっ
おにいちゃんは、おわかれでいいの…?」
「…お別れじゃねえって
約束しただろ、あれ、捨てちまったか?」
「…もってるっ」
あの買い物の後、五月には自分の電話番号を記した紙切れを渡した。
拭けば飛んでいってしまう紙を大事そうにしまっていた。宝物だと小物入れに入れていたのを見た。
お別れじゃないことぐらい、この子は知っているはずだ。
「…もうひとつ、やくそくした」
「あ?」
「おとまりのとき、したもんっ
おかあさん、いなくなったら
たすけてくれるってっ!!」
「―」
「おにいちゃんは、いなきゃダメなの!
とらないでよ! おかあさん!」
五月の悲鳴に似た懇願に母親が目を見開いている。
それは言ってはいけないことだ五月。
だが、五月の不安と恐怖を考えれば…何も言えなかった。
あんたはどうするんだ、先生。
この子はあんたが目を逸らす未来をちゃんと考えているぞ。
「…そのような約束をしていたのですね」
「ありえないと思ってるがな
でも、五月が心配してる
いや、一花も、二乃も三玖も、四葉もだ」
「…」
「お、おいっ」
力なくよろめく先生の手を取った。しっかりしてくれ。
先生は膝をついて、俯いてしまった。
「…どうしようも、ないんです…
五月…ごめんなさい」
「わ…わたしは…」
「こんな、母親で…ごめんなさい」
「お、おかあさん…ご、ごめんなさい」
五月が、子供たちが見たことない程落ち込む母親に駆けつけ抱きしめた。
どうしようもない。それはどれほどの意味を持つのか把握できない。
先生ほど頭の良い人だ。考えて考えて至った結論なのだろう。
治療するには子供たちが心配だ。その治療もどれほどの時間と金を要するのか分からない。
一度でも子供たちから離れれば自分の母親としての在り方を失う。失意に陥ってしまう。
頼りになる人が現れても、その人は自分の教え子で、我が身よりその人の将来を守りたい。それが教師として、大人としての在り方なのだろうか。
ただ耐えるしかない。蝕むその身を奮い立たせて懸命に生き続けるしかない。嘘をつき続けなければならない。
地獄だ。あまりにも幸せとかけ離れている。
「すみません、お恥ずかしいものを見せてしまいました」
「お、おかあさんだいじょうぶなの?
つらいの、がまんしないで」
「ねえ、ママ…フータローにたすけてもらって」
「フータローやさしいよ、おかあさんもたすけてくれるからっ」
「いいこにするから、おかあさんしんぱいしないで
おかあさん、しなないでぇ…もう、おくすりのまないでよぉ…」
「大丈夫ですよ
上杉君のお陰で、本当に良くなっているのですよ」
子供たちと真正面から向かい合えるわけないだろう。
愛する子供に嘘をつき続ける強さを、この人は持っていない。優しすぎるんだ。
京都で見ず知らずの子供を助ける人だ。分かっていたはずなのに気づけなかった。
子供たちが心配そうに見上げている。それでも笑って慰める母親は立派な人だ。謝る必要なんてどこにもない。
謝らなくていいが、このままではいけない。
助けたい。そのためには、ならなければならない。
失ってからじゃ遅い。後悔してからじゃ手遅れだ
いつか。またいつか。そうやって手放していると機会を永遠に失ってしまう。
なるしかない。必要とされる人間に。
泣いているこの人から、必要とされる人間になるしかない。