五等分の園児   作:まんまる小生

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五等分の園児最終話 恩返しと

「お兄ちゃん、そろそろ寝ようよ」

 

「ああ…悪いな」

 

「考え事?」

 

「…らいは

 俺が医者になるって言ったらどう思う」

 

「え?

 う、うーんと…学費高いからもっと節約しないとね!」

 

「すまん、馬鹿な質問だった」

 

 

 

 五月と先生が口論した日の夜。風太郎はらいはに背中を揺らされて意識を切り替えた。

 

 悠長な事態ではないことを思い知らされて、少し考えていたのだ。

 

 あれから夜になった。先生は自身の体調、病に対して既に諦めている節がある。

 

 理由は簡単だが複雑な事情が絡んでいる。子供たちの為に休む暇もなく、病院のベッドに寝込むわけにはいかないそうだ。頑固者め。

 

 入院する金も、子供たちの小学校入学の費用を考えると難しいのかもしれない。

 

 就寝時間となって部屋の明かりを消して布団の中に潜るわけだが、らいはが先の投げかけが気になったようだ。

 

 

 

「どうしてお医者さん?」

 

「…気の迷いだ」

 

 

 

 先生の病を治すためって、この思考は小学生以下だ。

 

 しかし医者になれば子供たち5人の面倒を看ることはできそうだ。

 

 今自分に求められているもの。子供を養う財力。面倒を看る甲斐性。あとは…不倫しない誠実さ? 誠実さなら負けるつもりはないぞ。

 

 …恋愛経験のない自分にだっていかにつまらない人間か思い知らされる。思いだけしかねえのかよ俺。現状の自分がまさにこれである。

 

 先生には恩義がある。邪魔な恋慕の気持ちもあるが早く捨て去るつもりだ。除外しておく。

 

 恩師が自身を蔑ろにして子に尽くそうとしている。子供たちはそんな母親を見て不安を抱いている。

 

 五月が既に支障を来たしているのだ。母親に甘えてばかりのあの子が母親を責め立てたのだから。

 

 当然、自分は助けたい一心だが。あの教師、何を思ったか俺の将来まで背負うつもりでいた。お節介も大概にしろ。本当に死ぬぞ。

 

 入院期間は分からないが、自分が高校を休んで全てバイトに費やしても構わないのだ。先生が助かるのなら留年になろうと構わない。

 

 小学校にはらいはもいる。共に子供たちを支えてあげられるはずだ。

 

 だが無理だ。先生が設けた約束にはこれも制限している。まさかこの考えも読まれていたのか。

 

 やはり考え出すと腹立たしい。こちらの手を封殺してくる。本当に腹立たしい。頭脳戦を楽しんでないだろうなあの人。

 

 自分はあれだけあんたを拒絶したのに、あんたは懲りずに歩み寄ってきたよな。

 

 自分だけやっておきながら、他人のものは許さないなど傲慢にも程がある。しかも仕返しが大の得意だ。性質が悪い。嫌味なことに対して頭回りすぎだろ。

 

 

 

「お兄ちゃん、また零奈さんのこと考えてる?」

 

「ん?」

 

「…零奈さん、最近元気ないんだよ

 昨日かな、お兄ちゃんどうですかって

 心配そうにしてたよ」

 

 

 

 昨日となると、先生と仲違いしたような別れ方をした日の後になる。自分は今日までバイトで中野家とは接していない。

 

 一方的に切り捨てておいて、まだこちらのことを気にかけているのか。

 

 本当に、どうしようもない。どうしようもない人だ。

 

 

 

「ねえ…零奈さん

 お兄ちゃんのことどう思ってるのかな」

 

「…おまえ、それを俺に聞くのか」

 

「私はね…歳の差なんて関係ないと思うよ

 私ね、お兄ちゃんに幸せになってほしいよ

 でも、一花ちゃん、二乃ちゃん、三玖ちゃん、四葉ちゃん、五月ちゃんも

 零奈さんも、幸せになってほしいなぁ」

 

「…ああ」

 

「私はね、大丈夫だと思う

 零奈さんは、お兄ちゃんのことちゃんと見てくれる人だから

 だからね、後はお兄ちゃん次第だよ」

 

「…恋愛未経験者に子持ちの母親を勧めるのか」

 

「それ関係ないでしょー」

 

「勝手なこと言いやがってよ」

 

「あはは」

 

 

 

 本当に勝手なことを言ってくれる。

 

 流石に妹に背中を押されたからって決断していいものではない。あちらの家庭事情があまりにも重過ぎるのだ。

 

 言葉にするのならいくらでも口にしてやる。だがそれだけでは子供の願望でしかないんだ。

 

 もし仮に先生が受けたとして、先生が抱えるものが一つ増えてしまうだろうが。お荷物になるだけで先生は幸せにはなれない。

 

 学生同士の気楽な恋愛にはこんなものないだろう。将来性が確実に問われている。そもそも十歳差の問題も大きい。

 

 憧れの人とはいえ、厄介な人を好きになってしまった。早く忘れてしまいたい。あの人を支えるだけで十分だ。

 

 憧れと恋慕を履き違えると目的が逸れてしまう。もうあんな過ちは犯せないんだ。しっかりしなくては。

 

 自分にできること。それを把握してあの人に伝えなければならない。

 

 あの時の自分のように、あの人を助けたい。

 

 必要とされる人間になる。そう決めたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「五月ちゃんがグレちゃったらしいですね…反抗期かな?」

 

「…どこから聞いたんすか、それ」

 

「五月ちゃん以外の四人からですね

 五月ちゃんとも喧嘩しちゃって、今日は賑やかでした」

 

「あ、あいつら…」

 

 

 

 家の事情を漏らすんじゃない。ママさん方の耳に入ったらあらぬ事を噂されるんだぞ。母親の心労の元である。

 

 翌日、いつも通り先生に代わって子供たちの迎えに幼稚園を訪れると、いつもの職員が困ったような顔をしていた。いつもすみませんね…

 

 しばらくバイトを週1回分削って、放課後は子供の迎えに費やすことにした。あの母親が心配で仕方ない。

 

 だというのにあの姉共、人の気も知らないで面倒事を振りまいたようだ。

 

 昨日は考え事ばかりして眠れなかったんだ。疲れさせるようなことしないでくれ。

 

 教室に着いて、嬉しそうに駆け寄ってくる問題児四人にデコピンしてやった。

 

 何事かと面食らう姉たちに罪状を告げると、頬を膨らませて抗議された。

 

 

 

「だって五月、ぜんぜんはんせーしてないのよ!」

 

「あ?」

 

「フータローかえったあと、またケンカ」

 

「またやったのかよ

 だからっておまえらが喧嘩してんじゃねえよ」

 

 

 

 泣いて母親に縋りついていた子供は、その後も母親と口喧嘩したらしい。あれで仲直りしたんじゃないのか。

 

 母親の身を案じ、泣いて心配する五月の気持ちを汲んでいただろう姉たちだったが、流石に五月の振る舞いは許せなかったようだ。

 

 幼稚園で喧嘩したと職員は教えてくれたが、五月一人孤立させるのは困る。長女を睨むとそっぽを向かれた。おいお姉ちゃん。

 

 一花を非難する視線を四葉が遮った。

 

 

 

「で、でも!

 五月もわるいとおもうっ

 おかあさん、とってもこまってました!」

 

「うん…五月ちゃん、まえもいってたけど

 きのうはすごかったよ」

 

「しつこいとほんとうにきらわれるんだから」

 

「五月のいってたこと、ダメだもん…」

 

「…今度は何やったんだ」

 

「五月ちゃんがおかあさんにね

 ふーたろーくんとケッコンしてって

 おにいちゃんは、おかあさんがすき――」

 

「五月ィッ!!」

 

 

 

 何てことを言ってくれんだあのガキ。よりによって本人に言ったのか。バレてるだろうが口にしたことなど一切ないのに。

 

 確かにそれは五月が悪い。おまえ達を責めて悪かった。姉たちが怒るわけだ。

 

 不安なのは分かるが全力で俺を巻き込んでくれるな。手伝ってはやるが知らないところで爆弾を投下しないでほしい。

 

 横にいる職員がなぜか歓心していて恥ずかしかった。頼むから誰にも言わないでくれ。

 

 姉たちと喧嘩して居心地が悪かったのだろう。教室の奥で一人こちらを見ていた五月を呼び出す。

 

 

 

「ご、ごめんなさい」

 

「…仲直りしたんだろ、反抗期には早すぎる」

 

「だって…だってぇ…

 わたしだって、おにいちゃんすきだもん…

 いっちゃやだぁ…」

 

 

 

 大好きな母親、優しい姉たちと揉めて寂しかったのだろう。足にしがみついて泣かれてしまった。

 

 頼れるのは兄だけってか。ここに入ってからずっと見てたもんな。

 

 他所の子供たちがいる前で泣いてくれるな。抱き上げて慰めるしかない。

 

 母親の不在で不安定になった時期があった。今もまた母親を思って不安になっている。

 

 可哀想な子だった。母を失う恐怖は分かる。抱き上げたまま頭を撫でてやると、段々大人しくなった。

 

 だからって言ってはいけないことはある。泣き止んだところで頬を引っ張ってやった。

 

 ただでさえ気まずいってのに、余計に会いづらくなっただろうが。

 

 泣いて嫌がる五月に、笑って許してやるとその両腕を首に回された。

 

 

 

「今日の中野さん、少し元気がないように見えたんですけど…

 大丈夫でしょうか」

 

「…」

 

「…差し出がましいこと言ってすみません

 お兄さん、中野さんを支えてあげてくださいね」

 

「…やれることはやりますが

 俺、高校生なんだけど」

 

「あはは、普段通りでいいと思いますよ

 お兄さんは今まで通り、中野さんを支えてあげてくれればきっと大丈夫です

 中野さん、お兄さんのこと本当に感謝してましたよ」

 

「…あの、すみません

 良かったら教えてくれませんか…先生の話」

 

 

 

 前から耳にしていた、自分がここに来る前の先生や子供たちの話。

 

 今では喧しいほど賑やかな子供たちだが、この職員は昔は違うと言っていた。

 

 そして先生も。

 

 職員は快く受けてくれた。忙しいのに申し訳ない。

 

 職員から話を聞くために、子供たちに少し待ってもらうことにした。

 

 外は既に雪が積もっていて敷地内は真っ白だった。子供たちと職員が雪の中遊んでいた。五つ子たちもその輪に加わったようだ。

 

 寒々しいがこちらも外に出た。子供たちの遊具の一つだろう、地面に埋められたタイヤに座って話を窺った。

 

 

 

「五人もお子さんがいるお母さんはいらっしゃいますけど

 五つ子なんて、中野さんが初めてでした」

 

「でしょうね」

 

「やっぱり大変ですよね

 五つ子ちゃんが入園してきた当時はもう、朝から中野さん慌ててて

 事情を窺ったら…お母さんが大好きだから、子供たちが幼稚園を嫌がってたんです

 学校の先生ですし…旦那さんもいらっしゃらないみたいですし

 …子供たちも、寂しくて泣いてしまったり…」

 

 

 

 朝から大変なのは、あの家で子供たちと寝泊りした日に思い知らされた。

 

 入園した当時はもっと大変だったに違いない。毎朝嫌がる五人を説得するなど考えるだけで頭が痛くなる。

 

 器用にやってきたのだろう。それでも子供たちは寂しさを募らせて泣いてしまった。

 

 

 

「…その頃から中野さんから相談を受けることがありまして」

 

「相談?」

 

「…中野さんに言わないでくださいねっ」

 

「もちろん」

 

「…

 親を亡くした子供について」

 

「…」

 

「流石に私なんか、普通の保育士なので役に立つこと言えなかったんですけど

 そういう職場もあるので少しだけ話せたんです

 もう、そんなこと聞かないでくださいって、言い返したかったんですけど

 …中野さんは至って真面目に聞いてて、ビックリしちゃいました」

 

 

 

 先生がそんなことを聞くとは思わなかった。例え悩み苦しみ、不安に苛まされていたとしても。

 

 それほど追い詰められていたというのか。

 

 子供を置いていってしまうかもしれない。そんな未来を見据えていたのか。

 

 

 

「…お兄さん

 普段笑うような方ではありませんから、分かりづらいと思いますけど

 お兄さんが来てから、見違えるように変わってましたよ

 子供たちもですけどね、よく笑ってくれるようになって…本当に私達良かったなって

 って、他人事みたいでごめんなさい」

 

「…それなら良かった」

 

「高校生のご家族がお迎えに来られるのは、なくはないんですけど

 五つ子ちゃんは有名ですからね、お兄さんのことを聞くお母様方が多いんですよ

 中野さん、お兄さんのことベタ褒めしてましたよ」

 

「知られてたのはそういうことか」

 

 

 

 以前、子供を迎えに来た母親たちに絡まれたり、勉強について聞かれたりしたことがある。

 

 流石に気恥ずかしい。人の知らないところで勝手なことをするのは先生も同じだ。

 

 

 

「中野さんのご家庭は難しい事情を抱えてますけど

 お兄さんはいつも通り、中野さんを支えてくれたらなーって」

 

「…

 仕事熱心だな、あんた」

 

「いえいえ、お節介が過ぎてすみません

 …でも、やっぱり

 五つ子ちゃんには笑ってほしいんです

 三玖ちゃんが笑うようになってくれた時、もう泣きそうだったんですよ

 もう、頑張ってくださいね、お兄さんっ!まだ若いんだから!」

 

「…言われなくても」

 

 

 

 このままで終わるつもりはない。

 

 自分の行いが少しでも先生の役に立てていた。

 

 そう実感できただけで十分得られるものがあった。

 

 この職員から話を聞けてよかった。少しお節介が過ぎるかもしれないが。

 

 何か新しい発見があったわけでも、解決策が見つかったわけではないが。

 

 あの人を助けたい気持ちが確たるものになった気がする。

 

 立ち上がると、待ちかねていた子供たちが駆け寄ってきた。

 

 

 

「ありがとうございました

 また、よろしくおねがいします」

 

「はいっ

 みんなも、また明日ね」

 

 

 

 正直、子供を預かり見守る仕事を侮っていた。苦労しかない仕事だと思っていた。

 

 子供は大人を見て育つ。保育士もまた子供たちの見本になるだろう。

 

 そんなプレッシャーと責任感を持ちながら、家庭を労わろうとするこの人は尊敬する大人だ。

 

 少しでしゃばりが過ぎると思うが、子供を守りたい一心というのなら認めてしまうものだ。

 

 そんな人だから先生も相談をしたのだろう。自分はこの人に負けてしまったようだ。

 

 大変な業界だと聞いている、この人も多くの苦労を抱えながら、子供たちに笑いかけているのだろう。

 

 子供たちに夢と温もりを与えるその笑顔に、子供たちもまた笑顔で手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フータロー、おかあさんおそいの?」

 

「ああ、3年生の卒業が近いからな

 準備とか打ち合わせで残業だってよ」

 

「じゃあ、つくろっ」

 

「…何を」

 

「かまくらっ」

 

「…もう暗いから今日はやめておけ」

 

 

 

 嬉しそうにはしゃぐ三玖には悪いがお断りする。

 

 幼稚園から中野家に帰宅した子供たちは暖を取ろうとストーブの前に集まっていた。自分もそれに混ざる。

 

 2月となれば17時のこの時間も外は真っ暗だ。しかも寒い。ここから離れたくない。

 

 日暮れが早いことを考慮していなかった。毎日ちまちま作ろうかと思っていたが難しいかもしれない。

 

 だが三玖は約束を心待ちにしていたようで、真っ暗で寒い窓の向こうを指差してせがんでくる。この子インドア派じゃなかったのか。

 

 

 

「かまくらぁ…」

 

「休みの日な

 暗いと怪我するぞ」

 

「そうだよ三玖、おにいちゃんをこまらせちゃダメだよ?」

 

「…一花にいわれたくない

 …さいきん、一花フータローにめいわくかけてる」

 

「わたしにまけて、うるさかったわね

 はー、タルトおいしかったなー

 ケーキもつくれたし、さいこーだったわ」

 

「もー!

 二乃なまいきっ!

 あのしろいのにラクガキしちゃおっかなー」

 

「ちょ、やめて!!

 ほんとうにおこるからね!」

 

「たぶん母親も怒るからやめとけ」

 

「ふーたろーくんまでぇ…」

 

 

 

 あれに諭吉が使われてると先生にバレた時は耳を引っ張られてしまった。確かにあれ買うぐらいならレンジのほうが良かったと思う。

 

 二乃の喜び様を見て先生は怒りを収めてくれたのだが、子供たちからのブーイングが凄まじかった。

 

 お陰で一花の我侭が止まらないでいる。そろそろ機嫌を直してもらいたい。

 

 

 

「四葉のばんはまだですかっ」

 

「かまくら」

 

「やりなおしをもとめまーす!」

 

「にかいなんてズルい!」

 

「…はぁ

 おい五月、おまえもこっちにこいよ」

 

 

 

 喧しい姉たちとは対照的に、五月の落ち込み様が酷かった。一度慰めたはずだが帰ったら元に戻ってしまった。

 

 玄関の前に座り込んで母親を待っていた。そこは寒いし暗いし、母親が見たら泣くからやめてくれ。

 

 寒さに熱を奪われるように温めなおす必要があるのか。定期的に慰めてやらないといけないのか。手間のかかる末っ子だ。

 

 名前を呼ぶと五月は振り向いてこちらに走ってきた。そのまま胸元までひっついてきた。

 

 

 

「冷たくなってるじゃねえか…風邪ひくぞ

 暖房あんまり効かねえんだから無理すんなよ」

 

「…あったかいです…」

 

 

 

 脱いで放った上着を五月にかけると、もぞもぞと身を縮こませて膝に座ってきた。

 

 姉たちも上着を五月にかけて温めようとしてくれた。それはいいがこっちが暑さで汗をかきそうだ。ストーブもあるってのに。

 

 こちらの事情に構わず子供たちは五月に集まる。

 

 

 

「なんか五月ちゃん、三玖みたいだね

 よしよし、五月ちゃんのはいちばんごうかにしてもらおっか」

 

「む…」

 

「おお…三玖、なにもいわないんだ?」

 

「…五月、きのうからないてばっかり」

 

「…な、ないてないですっ」

 

「五月…ごめんね

 だいじょうぶだよ、おかあさんはおにいちゃんがたすけてくれるから」

 

「なくぐらいなら、ケンカするんじゃないわよ

 …おかあさん、しんぱいなのわかるけどさ、まったく」

 

「…おまえらも喧嘩したんじゃなかったのかよ」

 

 

 

 姉妹喧嘩はよく分からない。喧嘩したというのに仲睦まじい。

 

 目の前で五月は姉四人に囲まれて照れて笑っている。おまえがそれでいいのなら何も言わない。

 

 

 

「仲直りしたんだろ

 部屋も暖かくなってきたし遊んでろよ」

 

「はーい

 きょうは、おねえちゃんくるの?」

 

「六時ぐらいに来るってよ」

 

「らいはおねえちゃんくるの!?

 じゃあ、にがおえのつづきっ!」

 

「…似顔絵?」

 

「おねえちゃん、ようちえんそつぎょーのおいわいに

 おねえちゃんもかいてくれるの

 そのおれい」

 

「おまえら似顔絵好き過ぎだろ」

 

 

 

 幼稚園の卒園の祝いか。卒園して小学校の入学ばかり考えていたが祝うべきだろうか。

 

 他人の祝い事を考えるなんて自分も随分変わってしまったものだ。しかも子供相手。金が減っていく…

 

 

 

「え、はね

 おかあさんがおしえてくれたから、みんなすきよ」

 

「…そういや、めちゃくちゃ上手かったな」

 

 

 

 写真かと思わせるぐらい人物画が上手かった。過労の疑いのある教師にあんな特技があるのかと驚いたものだ。

 

 思い出していると気を良くした子供たちがそれぞれ宝物を持ってきた。所々折れてしまっているが大事に持っていたようだ。

 

 

 

「ふーたろーくんのも、かかないのかな」

 

「かいてほしい…」

 

「ね、かいたらいいのにねー」

 

「…4がつになるまえに、かいてもらおうよ」

 

「…いやです

 そんなの、ダメなんだから」

 

「五月…」

 

「…ごめん、いまのなし」

 

「その前に描かれるのが恥ずいわ」

 

 

 

 勝手に喜んで落ち込んでもらっては困る。

 

 似顔絵を持った手で五月にしがみつかれる。三玖まで加わって倒れてしまった。

 

 

 

「そういえば、それってだれだったのかな」

 

「これ?」

 

「…まさか、わたしたちのおとうさんとかじゃ…」

 

「ええええっ!?

 あ、でも、かっこいいし、ありかも」

 

「やだよー

 でも、なんでこれだけ、いろついてるんだろうね」

 

「きんぱつだからでしょ」

 

「うーん

 うえすぎさん、これだれかわかるー?」

 

「燃やしてしまえ」

 

「な、なんでですかっ!?

 ダメですよっ!おかあさんのだいじなものなんですっ!」

 

 

 

 寝転がる風太郎に子供たちが見せてきたのは金髪の少年の絵だった。

 

 誰って、それは俺だ。やはり恥ずかしいものだ。

 

 睨んでいるような、どこか不安そうな視線で見上げている子供が描かれていた。

 

 五月に話したせいで少し思い出してきた。この場面、恐らく最後に手を引かれた時のものだ。

 

 やはり頼りなく見えるよな。先生から見て自分はやはり子供なのだろう。見ていて恥ずかしい。

 

 

 

「…なんかあやしいです」

 

「何がだ」

 

「もやしちゃえって、うえすぎくんならいわないです」

 

「…」

 

「…これ、フータロー?」

 

「はっはっは、俺の髪を見ろ

 こんな不良を代表するような金ぱ――待て待て待て!そのクレヨンはやめろ!」

 

 

 

 何を思ったか一花と二乃、四葉がクレヨンを持ってきて焦った。塗るつもりか!

 

 寝転がっていた体勢が悪かった。三玖と五月に拘束され、三人からもなぜか掴まれる。

 

 

 

「わ、わかったから

 俺だ、悪いか!」

 

「いいじゃん、いいじゃん!

 かっこいいじゃん、おにいちゃん!」

 

「おまえからお兄ちゃんなんて初めて聞いたわっ!」

 

「二乃はめんくいだからねー」

 

「フータロー、ちょっとこわい」

 

「あ、じゃあ、おかあさんとあったときのですか!?」

 

「なにそれ、うえすぎさん、おかあさんとあったことあるの?」

 

「え、なになに

 おしえてよ五月ちゃんっ」

 

「そのまえにもっとみせてください!」

 

「ちょ、ちょっとひっぱらないで!」

 

 

 

 やっと離してもらえたが、二乃と五月が騒ぎ始めた。遊ぶのはいいが引っ張ると破けるぞ。

 

 起き上がると三玖がここぞとばかりに隙をついて膝の上に座ってきた。

 

 喧嘩し始めた二人に一花が仲裁に入った。落ち込んだり騒いだり、本当に忙しない子供たちだ。

 

 

 

「フータローだったんだ…

 おかあさん、だいじにしてた」

 

「おかあさんのたからものだってっ!」

 

「…そうかよ

 つーか、あれだけ上手いならもっと描けばいいのに

 他にねーのか」

 

「うーん、おかあさんいってました

 マネしちゃダメなんだって

 みんなひとりひとり、じゆうにかいてって

 いっぱいあったけど、すてちゃったんだって」

 

「…ほー」

 

「おかあさん、おしえてくれたの

 むかしね、わたしたちみたいにね、びんぼーだったんだって」

 

「先生がか」

 

「うん、いろえんぴつのセットがたからものだって

 かみと、えんぴつがあれば、ひとりでもさびしくなかったんだって」

 

「…そっか

 子供の頃から描いてたから上手くなったのかもな」

 

 

 

 思えばこの家は厚紙だったり、色鉛筆やクレヨンが欠かさず置かれている。先生の趣味もあったようだ。

 

 先生の子供時代か。気になるな。先生はどんな風に過ごしていたのだろうか。貧乏と言っていたがやはり苦労されていたのだろうか。

 

 子供たちの個性を重んじているようで、見たかった作品は全て捨ててしまったようだ。確かに母親がこれだけ上手いとマネしたくなる。

 

 少ない作品を破かれたら困る。燃やしてしまってもいいと思っていたが二人の喧嘩を止めておこう。

 

 そう思って止まない口喧嘩をする二人に目を向けたところだった。嫌な音を耳にした。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…おい」

 

 

 

 

 見事俺の顔が真っ二つに引き裂かれてしまった。酷いことをしてくれるな。恨みでもあるのかこいつら。

 

 二乃と五月が固まってしまい、一花が破れたものとこちらを見て顔を青ざめている。

 

 四葉は目を逸らし、三玖はただ諦観している。感知せずといったところか。薄情な奴め。

 

 バタンッと玄関のほうから音がした。

 

 らいはがきたのかと思って目を向けると、真っ暗で何も見えなかった。

 

 以前もこんな状況があった気がした。

 

 よく見るとやはり…先生だった。鞄を落としてこちらを見ていた。

 

 破れてしまったものを見て、へたり込んでしまった。

 

 

 

「せ、先生っ?」

 

「…」

 

「…」

 

「ただいま…帰りました…」

 

「お、おかえり…」

 

 

 

 そんな死にそうな顔して言うことじゃない気がするんだが。

 

 先生は破れてしまった絵を見て落胆してしまったようだ。

 

 破った張本人二人が慌てて謝ろうとするが、先生の目は俯いてしまっていた。

 

 

 

「早かったですね…遅れるんじゃなかったか」

 

「上杉君に任せきりですから…

 …破けてしまいましたか…」

 

「…」

 

「…残念です…」

 

 

 

 顔を上げず落ち込む先生に自分も含め、子供たちが震えてしまっていた。

 

 怒られたほうがマシである。また描けばいいだろう。

 

 肩を落とす先生を見ていられず、つい子供たちにするように抱きしめてしまった。

 

 子供たちのようにはいかず、心臓はうるさいし、手は震えるし緊張する。

 

 いつか先生に抱きしめられたことを思い出した。あの時と同じ匂いがして余計に意識してしまう。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 先生の手がゆっくりと背中に回されて、力なく掴まれた。

 

 自分からやっておきながら、もうどうにかなってしまいそうだ。

 

 

 

「あれ、開いてる?

 お邪魔しま……零奈さん?」

 

「い、いらっしゃい、らいはちゃん」

 

「お、お邪魔します…

 お兄ちゃんまで何してるの」

 

「な、何も!?

 いや、暖房が効きすぎてな!

 少し涼んでいたところだ!」

 

 

 

 先生の背後のドアが開いた時の動きは凄まじかった。

 

 雷に打たれたかのように先生が跳び上がり、鞄を持って立ち上がっていた。

 

 お陰でこちらは突き飛ばされて冷たい床に寝転がっている。本当に勝手な人だな。

 

 

 

「…どうしたの、みんな」

 

「な、なんでも…だいじょうぶになったというか…」

 

「ちょ、ちょっとしゅうりちゅう…」

 

「…おかあさん、ずるい」

 

「…」

 

「ごめんなさいぃ…」

 

「い、五月ちゃん、何で泣いてるのっ

 大丈夫だよ、お姉ちゃんに話してみて」

 

 

 

 鎮まっていた子供たちが慌てて誤魔化してくれた。母親には甘いようだ。

 

 お陰でらいはの意識が泣いている五月に向いた。五月は本気で泣いているが、よくやった。

 

 

 

「すみません、取り乱してしまって」

 

「…まあ、大事なものだったのなら仕方ないでしょ」

 

「…」

 

「…お返しってことで」

 

「え?」

 

「やられたの、忘れてませんよ」

 

 

 

 あの時、先生も仕返しだと言っていた。

 

 言葉遊びでしかないが、そんな気分だ。まだ少しだけ体が温かい。

 

 先生の表情は暗くて分かりづらいが、快く思っていないようだ。当然か。

 

 甘えてしまう自分を変えると言っていた先生にとって、到底許せるものではないだろう。

 

 唇を噛みしめているように見える。軽率だったかもしれない。

 

 だが…事故みたいなものだが、さっきので火が付いてしまった。

 

 弱みを見せたあんたが悪い。突き飛ばすのなら最初からそうするべきだ。

 

 悪いが覚悟してもらうぞ先生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…子供みたいですね…」

 

 

 

 掠れた声。破けてしまった絵をそっと指で撫でる。

 

 夜も遅いこの時間。子供たちが並んで眠る中、零奈は起きていた。

 

 風太郎に悪いと思って残っていた仕事を切り上げて帰ってきたのだ。

 

 プリントの作成や、生徒たちの卒業に向けた書類も作らないといけない。

 

 やらなければいけないことがある。だが今はこの絵を失ってしまったことが悲しかった。

 

 テープで繋ぎ止められた少年の絵。二乃と五月が申し訳なさそうに謝って直してくれたもの。

 

 子供たちを責める気持ちはない。やってしまったことは仕方ない。

 

 だけど、ただただ悲しくて仕方ない。何度も手に取って観賞するほどのものではないのに。

 

 子供たちには、貴方達の絵と同じ宝物だと教えていた。口にしただけだった。

 

 失ってから、大切なものだったと気づかされる。

 

 年を取り、子を持つ母になっても自分はまだ子供だった。

 

 

 

「おかあさん…ねないの…?」

 

「…ごめんなさい一花

 起こしてしまいましたか」

 

「…

 ううん」

 

 

 

 眠そうに瞼を擦る一花。一度、一緒に眠る五月を見て間が空いた。

 

 あの子はまだ起きている。もう夜の1時なのに。

 

 眠れないのは私のせい。まだ幼い子供の心に負担をかけてしまっている。

 

 

 

「おかあさん、それ…ごめんね」

 

「直してくれたでしょう、ありがとう」

 

「…それ、ふーたろーくんだったんだね」

 

「知っていたのですか」

 

「きょう、おしえてもらった

 きんぱつでビックリだよ」

 

「…私は今の上杉君にビックリしました」

 

「えー?」

 

 

 

 目が覚めてしまったのだろう。一花はこちらへ歩み寄って、隣に寄り添ってきた。

 

 並んで一つの絵を見る。自分で描いた拙い絵だ。恥ずかしさを感じる。

 

 

 

「…おにいちゃんも、ウソばっかり」

 

「…」

 

「…おかあさんも

 なんでかな」

 

「ごめんなさい、一花」

 

「う、ううん

 そうじゃないのっ

 そうじゃなくて…なんでかなって…

 お、おかあさん…わたしたちのこと、き、きらいじゃないよね?」

 

「当たり前よ」

 

「じゃあ、なんでなのかな」

 

「一花?」

 

 

 

 一花は佇まいを正そうと、目の前で正座した。

 

 真剣な目だった。唇を引き締めて、正目からこちらの目を見つめている。

 

 私も、座り直した。

 

 我が子を見誤っていたのかもしれない。こんな真剣な一花を見たことがなかった。

 

 同い年なのに長女として妹たちを守る立派な娘。

 

 少しやんちゃで、時々無茶をして、はぐらかして、きっと…一番早く私の下から離れていくと思っていた子。

 

 そんな娘が心の内を一生懸命伝えようとしている。

 

 もう、逃げてはいられないと思った。

 

 

 

「おかあさん、わたし…ウソがきらい

 きらいでも、ついちゃうときがあるの」

 

「…はい」

 

「なんかね…その…ウソついたら…なんとかなるけど

 そのあとに、すごいイヤなきもちになるの

 五月ちゃんや四葉がね、それでわらってるとね…ごめんねって」

 

「…いけませんね」

 

「でも、つかなきゃいけないの

 おねえちゃんだから

 二乃と三玖にも、ゆずらないといけないのっ」

 

「…」

 

 

 それは上杉君のことでしょうか。

 

 目にしたことがあった。四葉や五月が一花を気遣う光景。

 

 お姉ちゃんだからと、口では好意を伝えていても身を引いていた。一歩引いて妹たちの背中を押していた。

 

 四葉と五月が気づいて、声をかけてもこの子は笑っていた。

 

 

 

「わ、わたしは…二乃と、三玖…妹がいるからウソついたよ

 おかあさんは、なんで?」

 

「…」

 

「お、おしえてよっ

 もう、しらないのも

 おかあさんがないちゃうの、やだよ

 わたしね、お姉ちゃんだから

 妹も、お母さんも守るから、大丈夫だよ」

 

「…一花…」

 

「もう…作り笑い、駄目だからね」

 

 

 

 たどたどしく、視線を泳がせ、言葉を選びながら、子供は母を諭した。

 

 貴方もしていたことでしょう?

 

 なのにこの子は、偽る自分を許さず、自分の為に偽る母を許そうとするのか。

 

 不安と緊張に挟まれながら子供がその思いを告白している。まだ小学生に満たない子なのに。

 

 

 

「…立派に、育ってくれましたね、一花」

 

「おにいちゃんとやくそくしたもん

 もう、おあそびはおしまいっ

 みんなでね、おかあさんをまもるんだから

 あ、あそばないとかじゃないからねっ!

 しょうがっこう、いってもね、おにいちゃんとあそぶんだからっ」

 

「…約束をしたのではありませんか」

 

「…しーらない

 四葉と三玖がね、おにいちゃんち、しってるもん

 おねえちゃんにもおしえてもらうんだ、だからだいじょーぶ!」

 

 

 

 この子は…困った子だ。

 

 胸を張って約束を破ろうとするなんて、悪い子だ。

 

 それでも逞しくて、強い女の子だ。

 

 自分と上杉君、二人で決めたものを上手く出し抜こうとしている。

 

 貴方にはよく手を焼いたものだった。

 

 困ったものですが、貴方を誇らしく、愛らしく思います。

 

 

 

「って、そうじゃないよっ

 おかあさんっ」

 

「はい」

 

「ウソはダメなんだから

 五月ちゃんにも、おにいちゃんにも、ウソはダメだよ」

 

「…そうですね」

 

「もーっ

 はい、だよ、おかあさん」

 

「お母さんにも事情があるのです」

 

「だから、おしえてっていってるのにっ」

 

 

 

 さっきまで正座していた足はもう崩れてしまっている。

 

 娘はこちらの腕を取り、何かを揺れ起こそうと引っ張ってくる。

 

 

 

「ウソついたら、だいじなことも、ウソつけるようになっちゃうんだから」

 

「…一花はあるのですか」

 

「…いっぱいあるよ?

 おにいちゃん、どっかいっちゃうから

 二乃と三玖がきらいーっていっちゃったもん」

 

「…」

 

「…へんになっちゃうもん」

 

「そうですね」

 

 

 

 嘘をつき、その嘘を守る為に嘘をつき、やがて言ってはいけない領域まで達してしまう。

 

 この子達にも、上杉君にも、らいはちゃんにも偽ってばかり。愛想を尽かされて当然の人間だ。

 

 何をしたって、甘えている。

 

 強くあろうとしても、もはや自分の力では全て抱え切れそうにない。

 

 抱える問題に対処するにはあまりにも遅すぎた。

 

 求める母親としてあろうとすれば、子供に見透かされている。

 

 大切な教え子を見送るには、あまりにも無力。

 

 何も得られそうになかった。捨て置いてほしかった。

 

 せめての救いは彼と五月の約束。

 

 私がいなくなっても、彼が助けてくれる。

 

 酷い親だ。子に見離されたと知って失望した後に、喜んでいた。

 

 

 

「私も後悔しています

 でも、ついたからには、責任を持たないといけません」

 

 

 

 嘘など、つかなければよかった。

 

 あの時、あの子と約束した時についた嘘。

 

 あの子を見送れる人間になるなんて…望んでいなかった。

 

 後になって後悔して…本当に子供だ。

 

 成り立たないこの身を呪っていた。近い未来、子供たちを置いていくことが怖くて仕方なかった。

 

 それでも毎日を生きることで精一杯で、体調を崩してしまい、子供たちに心配をかけてしまった。

 

 

 

「お母さんは、貴方達に数え切れない嘘をついていました」

 

 

 

 仕事を終えて帰れば家事と育児が待っている。子供たちが待っている。

 

 弱音を吐いてはいけないと考えるだけで辛かった。重荷だと思いたくない。考えてしまっている時点でそう捉えているんだと気づいて悔やんだ。

 

 理想の母親とはいわないが自分なりの目標はある。それを掲げて自分を律しているつもりでも…そんなできた人間じゃない。

 

 

 

「上杉君にも酷い嘘をついてしまいました」

 

 

 

 あの子と出会って、温かい時間ばかりだった。

 

 子供の面倒を看てくれる。何も言わなくても気遣ってくれる。

 

 助けてくれる。一緒に考えてくれる。それが何より幸せだった。

 

 当然、彼がいない日はある。

 

 けれど気持ちが違う。

 

 今日はやらないといけない。今日も、やらないとでは違った。

 

 こんなことを思ってしまった時点で母親失格なのだろう。

 

 けれど、心が救われた。一人じゃないことが嬉しくて幸せだった。

 

 

 

「もう、やめようよ」

 

「いいえ、一花…そうはいかないのです

 …ごめんなさい、一花

 私の我侭に付き合わせて…ごめんなさい…

 お願いです…許してくれませんか…」

 

「お、おかあさんっ」

 

 

 

 このままでは、彼の人生を狂わせてしまうかもしれない。

 

 優しい人なのです。責任感が強く、不器用な人で、目的の為に大切な物を捨ててしまう人だ。

 

 あの子は泣いていた。変わってしまった自分を悔やみ、変わる努力を惜しまなかった。

 

 妨げになりたくない。教え子にすることではない。

 

 努力し続けることは難しい。自分はできませんでした。逃げて、甘えてしまう

 

 あの時よりずっと弱い人間になってしまった。こんなはずじゃなかったと何度も後悔した。

 

 夫に五人の子供を重荷と感じられていることが怖かった。

 

 私も負担になっているのでは。子供たちを産んだことを後悔しそうで己の愚かさを呪った。

 

 夫がいなくなって正直ほっとしたところがあった。子供たちに暴力を振るわないか脅える日はもうなくなったのだから。

 

 一人で育てなければならなくなった。軽視して何度も失敗し子供たちを巻き込んでしまった。

 

 これでは子供たちから恨まれるのではないか。貧しい生活。遊んであげられない母親を嫌いにならないだろうか。

 

 まともに育てられないのに五人も子を産んだ身を、無責任だと凶弾するのではないか。そんな不安がいつまでも拭えない。

 

 

 

「ごめんなさい…ごめんなさい、一花

 私が上杉君に迷惑をかけてしまっているのです…もう駄目なのです…」

 

「…」

 

 

 

 風太郎君は私を、必要とされる人間だと褒めてくれた。私みたいになりたいと憧れてくれた。

 

 赤の他人の子供だった。教師として、母親になる人間としてつい正義感を振り翳してお節介を焼いてしまった。

 

 そんな他人との思い出が支えになっていた。

 

 独りになって、上手くいかなかった時、落ち込んでいた時、必要とされる人間だと励ましてくれる思い出が勇気をくれた。

 

 弱い人間は一人じゃ変われないと教えてくれた。

 

 その通りです、上杉君。でも…優しく強い人を変えてしまうのが弱い人間なのですよ。

 

 貴方を踏み潰して、生きていけるわけないでしょう。

 

 

 

「…おかあさん」

 

「い、五月ちゃん」

 

「おにいちゃんがね、これ…くれたんです」

 

 

 

 起きてしまった五月が紙切れを一つ、手渡してくれた。

 

 番号が記されていた。恐らく、誰かの携帯の電話番号。

 

 この子が知るものは、限られている。

 

 

 

「おにいちゃんに、かけてください」

 

「…こんな時間です、できません」

 

「ダメです

 いってたよ、たすけてほしいときに…よんでって」

 

「…」

 

「おかあさん、おにいちゃんなら、たすけてくれます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「非常識にも程がある

 今3時だよな…」

 

「申し訳ありません」

 

「…まあ、いいけど」

 

 

 

 考え込んで眠れない日が最近多かった。

 

 先生への答えを出して、今日は眠れていたのだが、まさか夜中に電話がかかってくるとは思わなかった。充電しといてよかった。

 

 見知らぬ電話番号だったが、五月の件を思い出して急いで出たのだ。まさかの母親で眠気が飛んでしまった。

 

 電話がかかってきたのに先生は戸惑っていた。何がしたいのか分からなかったが一言だけ教えてくれた。

 

 話がしたい。それだけだった。場所はこちらが決めて、こうして顔を合わせた。

 

 よく子供たちと遊んだ公園だ。迷子と脱走の記憶が根深くて近寄りたくなかったが、深夜に二人で話せる場所などない。

 

 二人で公園のベンチに座る。氷点下を下回ってるんじゃないか。寒すぎる。

 

 長話は堪える。

 

 話をつけよう。

 

 

 

「先生の言うとおり考えました」

 

「…考えたとは、何を…」

 

「進路のことです

 上を目指せって言っていたでしょう

 確かに、それが良いと思った」

 

「…そう考えていただけて、嬉しく思います」

 

「…もっと、上にいく

 将来のことを軽視していた

 先生には…心配させてしまったかもしれない」

 

「…」

 

「…だけど、進学先はまだ考えていない」

 

「そうですか」

 

「あんたも、一緒に考えてくれないか」

 

 

 

 子供だな。ああ、子供が大人に頼っているだけだ。甘ったれた言葉だ。

 

 だが、あんたは俺の教師だ。俺はあんたの…大切な教え子なら我侭を言わせてくれないか。

 

 

 

「…もちろん、考えましょう」

 

「助かる

 いくつか考えたものがあるんだ

 先生みたいに教師を目指すか

 俺に人に教えを説くなんて向いてるとは思えないがな」

 

「どうでしょうか

 私の子供からは好評ですよ」

 

「…あとは、医者になるか」

 

「医者ですか」

 

「あんたの支えになりたい

 金は稼げるしな、なるまでに偉い金も時間も取られるが…将来性は高い」

 

「そんな理由で決めていいのですか」

 

「それしかねえな、今のところ

 だから一緒に考えてほしい」

 

 

 

 目的は変わっていない。先生の力になりたい。それだけだ。

 

 だが、もう真っ向勝負で揺らぐ人ではない。本当に面倒臭い人だった。

 

 こんなに好きじゃなければ、誰がおまえみたいなきかん坊の世話を焼くか。年下にここまでさせやがって。

 

 

 

「ただ漠然と考えるには裁定が難しいだろう

 そこで一つ提案したい」

 

「…律儀な方ですね」

 

「うるせぇ!

 もう4月まで一月と少ししかないんだ

 しっかり話しておくからな」

 

「…守っていただけるのですね」

 

「まだやることはあるが、先生との約束だからな

 提案と言っても俺の得意分野で悪いが

 3年の全国模試で一位を取る」

 

「それは…提案なのでしょうか

 上杉君なら可能でしょうね」

 

「簡単に言ってくれる…

 学校の連中が頭悪いだけで、全国となれば今まで通りとはいかねえよ」

 

「…まだ抜けてないようですね」

 

「事実だ」

 

 

 

 先生に耳を引っ張られる。人を見下すな、油断するなと言いたいのだろう。痛い。

 

 全国模試で一位を取ったからって、先生に何の利益はない。

 

 精々、努力したという意思表示にしかならない。誇示するには良い称号だと思うが先生には無縁なもの。

 

 先生もそれを分かってか、疑問を抱いているようだ。

 

 

 

「…提案、とは」

 

「一位取るから、その結果で大学進学を考えてくれ」

 

「はい、わかりました」

 

「…それだけだ」

 

「…提案と言われる程のものでは…当然、考慮するべきものだと思うのですが」

 

「一位を取ったらな」

 

 

 

 簡単に言ってくれるが一位を取った前提だぞ。

 

 俺は確かに今まで全てのテストを100点、間違いなく回答してきたが全国模試となれば範囲も広い。全て満点などレアってレベルじゃないだろう。

 

 調べたんだからな。模試で全て満点など一人いるかいないかの0.1%もない確率だ。それを成そうとしてるんだぞ。

 

 先生には関係ないがな。そんなこと分かっている。

 

 

 

「俺の進路はまだ定まっていないが…

 目的は決めている」

 

「…模試の結果よりそちらを優先するべきでしょう」

 

「そうだな」

 

「…」

 

「…」

 

「…上杉君?」

 

 

 

 このタイミングで言うべきだろうか。

 

 まだ積み重ねてから言うべきだ。ここで断られたら恐らく…もう時間も言葉もなくなる。

 

 もう逃げ道はなくなる。焦って全てを失うかもしれない。

 

 だが、示さなければならない。

 

 今、この人は俺を頼ろうとしてくれたんだ。

 

 あんたがまた逃げるというのなら追いかけるしかない。

 

 見送るというのなら…いいだろう、その願い叶えてやる。

 

 あんたが生きているうちに叶えてやる。

 

 これから全部、あんたの願いを叶えてみせる。

 

 必要とされる人間になりたい、がそれは後でいいさ。

 

 今は一つ一つ、あんたを幸せにしていきたい。

 

 いつかきっと後悔するかもしれない。

 

 それでも。それでもいいから。

 

 思い出になるなら、傍にいさせてくれ。

 

 

 

「あんたが母親なら…俺が父親の代わりになる」

 

「父親、ですか」

 

「あんたから見たら俺はまだ子供だ…

 だが、役割は全うしてみせる

 あいつらも、あんたも担いでやる」

 

「…そんなこと…」

 

「代わりだがな…あんたが再婚するまでの話だ」

 

「言ったでしょう、貴方の人生はどうするのですかッ

 そんなもの、認められません」

 

「認められないだろ

 だから判断してくれ

 認められなかったら、何が足りないか教えてくれ

 俺が嫌なら…そう言ってくれていいんだぞ」

 

 

 

 一つ一つ先生を助けると同時に、先生に示すしかない。

 

 覚悟も信頼も力も富も、この人を救うものを補わないといけない。

 

 模擬はその序盤の通過点だ。4月から疎遠になるだろうこの人との接点を作らなければならなかった。

 

 あまり仰々しく見せつけるとこの人は逃げるからな。最初はこのぐらいでいい。

 

 

 

「…卑怯なことを、言いますね」

 

「あんたに言われたくないわ!

 人の言葉丸々返しやがって!

 思い出してくれとかふざけんじゃねーぞ!」

 

「貴方も言っていたではありませんか…

 私も心が痛かったのですよ」

 

「…こっちは色々と死ぬかと思ったわ…」

 

 

 

 同じにしてもらっては困る。

 

 あの時、先生はまだ病を抱えて、入院だとか見送りたいとか不安なことばかり口にして。

 

 恐ろしかった。お陰で色々考えさせられたぞ。

 

 もうあんな思いをするのは御免だ。

 

 ふと、先生の手が自分の手に重ねられた。隣に座る先生が少し近かった。

 

 

 

「…寒く、ないですか」

 

「…べつに、我慢できるぐらいだ」

 

「なら、少しだけ温めておきましょうか

 勉強する指が凍えては大変です」

 

「…あの、先生

 …あと、どのくらいとか…わかるんですか」

 

「…

 余命は…お医者様にお聞きしていません

 もうわかってらっしゃるのか…わかりません」

 

「…そう、か」

 

「…不安を煽ってしまうでしょうが…

 上杉君と会う前の事を考えると…十年は…

 ……ダメかなって…」

 

「先生…」

 

「体が動かない時もありました…だるさが抜けず…

 いえ、これ以上はやめておきましょう」

 

「…後で教えてもらいますよ」

 

「…病人を怖がらせないで下さい」

 

「だったら早く帰って寝ろよ病人さん」

 

 

 

 …十年は無理か。

 

 曖昧な目測だが…思ったより長くて安心していいのか、余命を悟っている先生に悲しむべきなのか。わからなかった。

 

 認めたくない。十年なら自分が働いて入院費を稼げばいい。子供たちを安心して預けられる人間になればいいんだ。

 

 やることは決まった。一つ一つ繋げていくしかないんだ。今すぐ望むものが手に入ると思っていては破綻する。

 

 慣れているはずだ。重圧に押し潰されながらでも取り組んでみせる。あの時耐えて見せたんだから。

 

 立ち上がって真っ暗な公園を出ようとすると、先生から手を引かれた。

 

 

 

「いいのでしょうか」

 

「あ?」

 

「…わ、私には…貴方から施しを受ける資格はありません」

 

「…

 良い事を教えてやろうか」

 

「?」

 

「努力に泥を塗るな

 家族の為に頑張ってきたんだろ先生

 あんたは…俺の憧れの人だ…大丈夫だ、先生」

 

 

 

 さ迷う子供のように固まってしまっている手を取る。あの時より冷たい手だ。

 

 馬鹿なことばかり言ってくれる。もうあんたの我侭に振り回されるのは懲りたぜ。

 

 失敗したのなら先に進もう。逃げたくないなら進むしかないだろう。

 

 その先の道のりが短く、後がないように見えたら絶望的だろう。前に進む気力はなくなる。

 

 確かめるのも怖い。本当に先がないと知った時何もかも無に感じてしまう。

 

 でも…まだ先があるかもしれない。だから頑張ろう。諦めないでくれ。

 

 こうして手を繋ぐ事しかできないが、あんたはそれだけで十分前に進んでいけるはずだ。

 

 あの時、先生がしてくれたことなんだぞ。

 

 微かな声でお礼を言われた気がした。

 

 目を逸らしてしまう。あんたが強い人だって知ってる。

 

 肩に先生の額が重なる。

 

 頼ってはいけなかった。甘えてなどいられなかった。不器用なほど優しい恩師は、静かに泣いていた。

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