五等分の園児   作:まんまる小生

28 / 112
後の後その2 あなたの一番に

「娘たちがご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」

 

 

 

 親が子供を守る為に、教育を怠った罰として、親が責任を取り許しを請うのは当然だった。

 

 理事長、校長、その他の教諭の視線を受けながら、恩師は深々と頭を下げた。

 

 その様を見せ付けられた子供たちは…特に一花は、酷く後悔し泣き出してしまった。

 

 母親にかけつけ、守ろうとする子供たちを強引に抑える。無力で馬鹿だと思い知った子供達がしがみついてくる。

 

 大人が並ぶ理事長室では、そんな居た堪れない子供たちの嗚咽の声に怒りを抱く人はいなかった。むしろ同情のほうが勝っていた。

 

 俺と前田、武田、竹林は事の事件の関係者として理事長室にて立ち尽くしている。俺たちもまた、先生の謝罪を見届けていた。

 

 

 

「当校に限らず、どの学校でも部外者の立ち入りは禁じている

 それが子供であっても勝手に入るようでは困る

 親と面会したいのなら、教員に声をかけてくれさえすれば問題はなかった」

 

「はい」

 

「…」

 

 

 

 椅子にどっぷりと座り込む男は溜め息を交えて先生を、そして俺たちへ視線を送る。

 

 あの小太りした男が武田の父親か。なんか胡散臭い奴だな。偏見にも程があるか。

 

 いかにも理攻めして下の者を捻じ伏せような人だ。そんな上司が多いのが教職だろう。かれこれ小学中学で見た風太郎の印象だ。

 

 …理事長の発言を踏まえると、俺が逃げろなんて言わず、駆けつけた教師に事情を話して面会させていたら…

 

 冷や汗が流れる。つまり俺の自爆で余計な罪を先生に被せたのか。急ぎ手を挙げて弁解しなければ。

 

 

 

「一つ、よろしいでしょうか」

 

「何だね、上杉君」

 

「子供たちは最初、人目を盗んで不法に入り込んだ

 ですが、実際に教師から逃げ出したのは俺が――」

 

「上杉君、貴方が娘を連れ出したとしても

 貴方がいなければ娘たちは先生方から逃げて走り出していたわ、結果は同じだったはずです」

 

「…」

 

「全ては親である私の責任です」

 

 

 

 しくじった罪さえ償わせてくれないのか。先生は何もかも背負ってこの件を謝罪するつもりらしい。

 

 だが、中野先生が謝罪の言葉を口にする度に、あの理事長はまた困ったように…溜め息をついた。傍に立つ校長もまた同じく。

 

 …何だ、謝られて困ることでもあるのだろうか。

 

 学校の長として、子供の出来心でこの一件を表沙汰にはしたくないのは分かるが。

 

 そんな奇特な空気が流れる中で、隣の男が爽やかを振りまいて手を挙げた。

 

 

 

「理事長先生

 いえ、この場ではあえて、父さんと呼ばせていただきたい」

 

「…何だ、祐輔」

 

「中野先生のご家庭の事情を、先生方はご存知だったはず

 中野先生に対する業務の負担が明らかに多すぎた

 生徒の僕から見ても、全生徒から人気を集める中野先生は多忙のように窺えました

 先生方が知らないところで、生徒の悩みや勉学に真摯に向き合っていたはずです」

 

「…武田」

 

「僕を含め、この場にいる4人が証言しますよ」

 

「か、勝手に人数に入れんな…」

 

「しっ 男なら度胸だよ」

 

 

 

 風太郎だけでなく、武田もまた中野先生を慕っている。彼は何度も中野先生に教えを求めていたのだから。

 

 お人好しの竹林は言わずもながら。前田も臆しはしたが弁明に乗り気だった。そもそもこいつ、一度中野先生に告白してるしな。

 

 武田の言葉に理事長と先生方は渋い顔をする。武田はその点分かって話を持ち出したらしい。

 

 

 

「それは今に限った話ではなく、僕たちが入学する前から続いていたのでしょう

 その結果、こうしてご家族の方が心配に思われ、足を運ばれてきたのです」

 

「…」

 

「やり方には問題があった、だがこの子たちはまだ子供で、ろくに漢字も読めないでしょう」

 

「…平仮名で案内板でも載せろと言いたいのか」

 

「今回に限っては、子供たちを責める材料は乏しいでしょう

 仮に、この子たちを咎めるなど

 生徒を教え導く立場にある者がしていいことではない…のではないでしょうか」

 

「おまえの言いたいことは分かる

 元より、この件は中野先生…貴方を咎めるつもりはないのだよ」

 

「理事長、ですが――」

 

「すまないが私もそう時間があるわけではない

 後は校長先生、お任せしますよ」

 

 

 

 え…まさか、何もお咎めなし? お騒がせしておいて何も? 減給もなし?

 

 これには俺も先生も戸惑い、空気が和らいだことを子供たちは悟ったようだ。

 

 引継ぎを任された校長先生は二つ返事で頭を下げて、集った先生方も一人一人退散していった。

 

 校長と中野先生を除く教師が退室した後。理事長は立ち上がり、子供たちを見やる。

 

 …この人とて、一児の親だ。

 

 まだ小さい子供が親を思い訪ねてきたことに、心を鬼にできなかったのかもしれない。

 

 

 

「…中野先生、お子さんを怖がらせてしまってすまない

 私が言うのもおこがましいがね

 生徒と接する先生方の尽力には感謝している」

 

「…いえ、滅相もございません

 私も、融通を聞いて下さることに感謝しかありません」

 

「君の生徒への懇親たる姿勢は教師の模範になる

 当校の生徒の風紀が他校より良いのも、貴方のお陰にある

 転勤を留めているのにはちゃんと理由がありますよ」

 

「…ねえ風太郎、転勤って?」

 

「公立の教師は定期的に転勤することを勧められている

 一部の役職であるか、学校側が引き止めない限りはな」

 

「案外優しいじゃん、理事長先生」

 

「話の分かる先生じゃねーか」

 

「人の父を何だと思っていたんだい、君たち」

 

「…大丈夫そうだぞ、おまえら

 だが反省はしとけよ、二度はないぜ」

 

「ほ、本当? お母さん、私のせいで」

 

「ママ、怒られたりしない?」

 

「フータロー…」

 

「ひぅ…ぅぅ…お母さん…」

 

「ごめんなさい、お母さん」

 

 

 

 ガン泣き寸前の子供たちに、今度は俺たちが気まずい顔をする。

 

 嗚咽を零す子供たちに理事長は苦笑し、机に置かれたバケットからお菓子を手に持って歩み寄った。

 

 手に掴んだ物をなぜか俺に手渡してきた。見ればファンキーな紙に包まれた飴玉だった。外国産? ブルジョワめ。

 

 泣いている子供たちにあげてくれ、ということか。せっかくのご好意だから紙を剥いて子供たちの口に放り込んでおいた。

 

 半泣きのままだが、飴玉の味がお好みだったようで、それぞれ感想を口にして涙が引っ込んだ。

 

 

 

「とは言ったものの…中野先生、始末書だけは書いていただきたい

 子供が絡んでいるんだ、何か別の問題が発生しないとは限らないからね」

 

「はい、早急に」

 

「今週中でいいさ

 今日は早く帰ってあげなさい

 上杉君、君たちにも同様に書類仕事をしてもらうよ

 できれば先生が帰られるまでの間、食堂で子供たちと一緒にいてあげてくれないか」

 

「り、理事長、そこまでしていただくのは」

 

「はい、構いません」

 

 

 

 何というかあの理事長、先生の短所を分かってるな。自分から絶対言わないことをあえて上司が言ってくれるとは助かる。

 

 もしや、さっきまで怪訝な顔をしていたのは…こういった珍事が稀ではないからか…?

 

 思えば、この人のオーバーワークは目に余る。子供がいるから早めに帰宅できているのだろうが、それがなかったら…深夜まで仕事してたかもしれん。

 

 上司としても、同僚としてもそんな身を削るような働き方をされたら気を揉むだろう。しかも無駄に仕事ができるから止められない。頼ってしまう。

 

 …先生、もしかして…結構な問題教師なのでは。

 

 

 

「…何でしょうか、上杉君」

 

「いえ…理事長の気持ち、察します」

 

「どういう意味ですか、それは」

 

「助かるよ、上杉君

 もう帰ると言っておきながら、気づけば生徒の相談に乗って帰らずじまいだからね」

 

「なっ…」

 

「ですが、中野先生はそれだけ愛されている先生ということです

 まあ、働きすぎだとは思ってましたが」

 

「子供五人もいるとは知らなかったしな、しかも五つ子とか」

 

「子供たちからも愛されてますねー 先生」

 

「…理事長、始末書を作ってきますので失礼致します

 この度は申し訳ありませんでした」

 

「今週でいいと言ったのだがね…校長に渡しておいてくれ

 さあ、君たちも悪いが退室願おう」

 

 

 

 先生がこの学校に留まる理由が少し分かった気がする。働きやすいのだろう、この学校は。

 

 それも当然か。子供を守る為ならそれなりに我侭を通さないといけない。人並み賢いだろう先生にはいらぬ心配だった。

 

 先生は子供たちに両手を沿えて理事長室を出て行く。子供たちは泣き顔で母親にしがみついた。口の中で飴玉を転がして。

 

 前田と武田、竹林もそれに続いて出て行く。最後に風太郎が退室しようと頭を下げたところで…理事長は手で制した。

 

 

 

「上杉君、君とは前から話をしたかったんだ

 今よろしいかね?」

 

「え? は…はぁ…構いませんが」

 

 

 

 俺だけに話か。疑問を浮かべていると、校長が俺に来客用のソファに座るよう促してきた。

 

 何だ。先生絡みか? それとも成績? それか…まさか学校生活の態度か? 学年主任の困り顔がリフレインする。

 

 理事長は椅子に座り直し、引き出しから取り出した物を校長を介して俺に渡してきた。

 

 

 

「それは生徒会に寄せられた生徒の声なわけだが

 …君と中野先生がプライベートでも親しくしている姿を目撃したというものだ」

 

「…多いですね

 買い物してるところに、祭りの時もか、暇人共め」

 

「…重ねて言うが、私もこの学校も、中野先生には感謝しているし、咎めるつもりはない

 恋愛に発展するのなら話は変わってくるが、息子が言うには君にその気はないのだろう?」

 

「は、はぁ…まあ当然です

 ですが、こうして生徒から揶揄されるようでは…学校側は困りますよね?」

 

「ははは、困るが…

 …中野先生は過去に何度か体調を崩している

 君は聞いているかね?」

 

「…

 子供たちの幼稚園先で

 何年か前は大変だったとか」

 

「幼稚園にも知られているとは…下手すれば汚名にもなっていただろうに

 包み隠さず話せば、先生に頼りきりでありながら、彼女のサポートが不十分なのが現実だ

 他の先生もそれぞれ仕事がある、残業もしている

 中野先生一人を特別視するのは、お子さんの育児絡みでなければ難しい」

 

「…」

 

「高校3年生のクラスの担任を受け持つのも大変でね

 最近では食事の時間を削っているとも聞いている

 スケジュール管理ができていないと叱ろうにも、やらなければ間に合わない仕事ではね」

 

「それをなぜ俺に」

 

 

 

 理事長の目的がいまいち掴めない。そこまで自身の根城の欠点をつらつらと挙げることに何の意味がある。

 

 労働の場として管理が不十分だと、顧客と見て取れる生徒になぜそうも暴露するのか。

 

 

 

「君と交渉がしたい」

 

「?」

 

「君が望む大学…志望校は絞ってあるだろう?

 その推薦枠を私が抑え、君を選ぼう

 君にはこれまでの成績、全国模試で1位を取った功績がある…何らおかしな話ではない」

 

「賄賂ですか」

 

「そう身構えることはない

 不当な取引ではなく、あくまで数ヶ月後に起こる出来事を知らせているだけだ

 私の息子か君、どちらかを選ぶかの確立50%前提の話だがね」

 

「…その確立を少しでも上げる交渉ですか

 その見返りに、何をしろと」

 

「これまで通り…いや、より一層、中野先生を支えるだけでいい」

 

「…」

 

 

 

 …やっぱり胡散臭い人だ。俺にはデメリットはないように見えるが、少し引っかかる。

 

 一流大学からの推薦枠がこの学校にあるのか、そもそも推薦枠自体あるのか疑問だが、ある前提で考えたとして。

 

 恐らく、これまで以上に先生の仕事を手伝えということだろう。時には学級長の範疇を越えて。

 

 時間を削られれば学力テストで点数を落としかねない。それがこの人の、父親の狙いか。息子を勝たせる為に。

 

 恐らく1位と2位の学年順位が入れ替わる。俺が2位に、武田が1位に。

 

 大学の推薦枠という優秀な在校生が選ばれる場には…間違いなく学年一番の成績優秀者が選ばれるわけで。

 

 …確立、と理事長は話した。俺が選ばれる保証は一切なく、武田がその推薦枠に選ばれるわけだ。

 

 別に俺にデメリットはないから良いが、汚ねえ大人なのには変わりなかった。しかもこれ口約束だろ。

 

 

 

「わかりました、中野先生の手伝いなら望むところです」

 

「ならば交渉成立だ

 君には期待している」

 

「いえ、その見返りはいりません…代わりに

 この紙の束、これまで通り誤魔化してもらう」

 

「む?」

 

「中野先生を手伝う、言ってしまえば公にあの人と接することに邪推して

 クレームが来るようなら対処してもらう、これまで通り続けてもらう

 そちらの要望に答えるには最低限の条件です」

 

「…君はそれだけでいいのか?」

 

「あの人に倒れてもらっては困る

 元より、その一点の利害が一致しているのなら俺が求める物はない」

 

「…なるほど」

 

 

 

 学校側としては先生を長く利用したいだけの要望なのだろうが、先生が働きやすい環境が作れるのなら何も言うことはない。

 

 正直、大学の推薦枠を確保できれば死闘となる受験シーズンを楽できるし、子供たちの面倒を看てやれるし、親父や妹の心配も払拭できる。

 

 だが、俺はあの人に約束したんだ。一つ一つ示していく。だから見てほしい。

 

 嘘偽りで得た結果など、あの人には見せられない。

 

 

 

「話は終わりですか

 ならこの紙、処分お願いします

 中野先生に知られても面白くないので」

 

「彼女は既に知っている、かれこれ半年になるか」

 

「…未だにそちらの思惑がまだ窺え切れていませんが

 俺が先生の傍にいることであらぬ噂されるほうが困るのでは?

 忙しかろうと、教師に頼んだほうが…」

 

「いいや、君が適任だと判断した

 …これは私の一存ではなく、先生方の意見もあった」

 

「せ、生徒に雑用を押し付けることにですか…」

 

「悪いとは思ってはいる

 だが、先生方の強い要望があったのだ

 …生徒を導く教師でも、青臭くとも目指したいんだ、上杉君」

 

「?」

 

 

 

 何を言っているのかわからず、ただ困惑するだけ。

 

 他の先生が何だ? 生徒に雑用を押し付けることに賛成しているのか。どんだけ忙しいんだ教師。

 

 呆れて何も言えずにいると、先程まで黙って見守っていた校長が口を開いた。

 

 教師たちの責任者である人物は、記憶を巡らせるかのように視線を下ろしていく。

 

 

 

「上杉君

 中野先生は…生徒たちのクラス替えを話し合う際にね

 頭を下げてまで、君の担任を引き受けようとしたんだ」

 

「…え」

 

 

 

 

 

 先生が頭を下げただと…

 

 それも、俺のクラスの担任になる為に? あ、あの人はあの時、俺の質問には何も…

 

 …俺が不出来な生徒だからか。そこまで心配かけてしまっていたのだろうか。

 

 あの人の支えになれていると自惚れていた自分が、どうしようもなく情けなく。

 

 

 

「…クソ…」

 

 

 

 俯き、微かに呟く。

 

 あの人に、文句を言ってやりたかった。

 

 余計なお世話だ。余計な…

 

 

 

「…生徒の君にお願いすること自体、あってはならない事態だ

 それも大学受験を志す生徒に

 けれども…上杉君、どうか頼みたい

 中野先生の気持ちを汲んでやってほしい」

 

「…

 わかりました

 …失礼します」

 

 

 

 交渉は済んだ。これまで通り、あの人の手伝いをするだけの何ら変わり映えのない話だった。

 

 先生に頭を下げさせた。

 

 そんなもの、今日五つ子たちが泣いて悔いていたものと同じことを…俺はしでかしていたんだ。

 

 とんだ恥知らずだった。なのに俺はあいつらに偉そうに好き勝手に。

 

 やはり、俺は去年から変わっていないのだろうか。

 

 先生と再会し、後悔して、変わろうと誓ったんだ。

 

 誰かから求められる人間になるために。

 

 そんな夢を執拗に抱くものだから、過ちを否定しようと…もう失敗しないようにと力のない足取りで恩師の下へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

「あ…上杉君

 もう理事長との話はよろしいのですか?

 貴方にはまた迷惑を…」

 

「…」

 

「上杉君…いつもごめんなさい

 貴方には…」

 

 

 

 もう日が沈む。窓から覗く夕暮れとは逆に職員室の照明は明るく、人の気配が消えそうになかった。

 

 教師一人一人が苦労されているのは知っている。この学校の評判は良いし、進学率も高いほうだ。

 

 それに大きく貢献しているだろう、中野先生は職員室に顔を見せた俺に駆け寄り、再び謝っていた。

 

 手を胸に沿えて。その仕草は隠し切れない焦りと戸惑いからしてしまう癖だった。そのくらい知っている。

 

 この人は自分に非があれば心から謝る。その相手が子供だろうと、年下だろうと平等にだ。

 

 だから…赤の他人である俺がこの人に頭を下げさせたなど…あまりにもおこがましい。

 

 

 

「先生、校長から聞きました」

 

 

 

 もう、そんな姿をさせたくはない。

 

 嫌だったんだ。嫌いですらいた。

 

 恩師が頭を下げる姿など、見たくもない。

 

 

 

「校長先生から…も、もしや…

 上杉君に何かご迷惑を」

 

「…あんたが

 俺の担任になるべく職員室で頭下げたって」

 

「――」

 

 

 

 息を呑む先生に、事実だと明確に知らしめられた。

 

 

 

「…すまなかった…」

 

「え」

 

 

 

 俺は姿勢を正して、あの時の先生と同じように頭を垂れる。

 

 

 

「俺は一年前と変わらず問題を抱えた生徒だ

 正直…改善する意識は希薄だった」

 

「上杉君…」

 

「それは…責任も負担も全て、俺個人が受けてこそだ

 自業自得で笑われるのは平気だった

 だが…」

 

 

 

 自分一人我慢すればいい、それだけの簡単な話だった。

 

 だったら良かった。

 

 

 

「あんたに、頭を下げさせていたとは思いもしなかった」

 

「う、上杉君…」

 

「…すみませんでした、先生」

 

 

 

 今日も、子供たちを巻き込んでしまった。

 

 俺は求められる人間にはなれていない。まだ程遠い。

 

 日々結果を示していくと誓った人に許しを請う。

 

 見離されたくないと必死な醜い願望が嫌になる。惨めで、嫌気が差す。

 

 

 

「誤解だわ…」

 

「…」

 

「顔を上げなさい、上杉君

 君が私に謝罪する理由は…ありません」

 

 

 

 恩師が俺の謝罪を受け入れるとは思っていなかった。

 

 しかし、謝らせてくれなければ叱ってもらうこともできない。

 

 それが無性に空虚で、顔を上げても恐らく自分の目は腑抜けていただろう。

 

 先生が風太郎の肩を掴む。

 

 子供を諭す女性の振る舞いは一瞬だけ。

 

 手を離して、風太郎の目を見つめ返した先生は…胸に沿えた手を口元へ。

 

 

 

「我侭を言わせていただきました、あの日は」

 

 

 

 それは、この人が照れて笑う時の癖でもあって。

 

 その手が、俺の両手を掴み、包んでくれた。

 

 

 

「君は今年度で卒業してしまう

 私に舞い込んできた最後のチャンスだったから

 君の門出を見送る、最後の先生としてありたくて」

 

「…」

 

「君の一番の、先生になりたい

 誰にも譲りたくなかったのよ」

 

「せ、先生…あんた…」

 

 

 

 義務や責務ではなく、ただの我侭なんだと…先生は恥ずかしそうに告白する。

 

 きつく握り締められる。もう勘違いしないように、間違っていなかったと教えてくれるかのようだった。

 

 俺はただそんな彼女の、見たことのない、泣きそうな笑顔を見て押し黙っていた。

 

 ふと、ぱっと先生は手を離す。

 

 …先生が周りの視線を気にし始めたことで我に帰る。

 

 ここ、職員室にはまだまだ教師が働いているのだ。思いっきり見られていた。

 

 先生はいつもの鉄化面を見せる。しっかりと俺の目を見据えて、堂々と。

 

 噂など一切跳ね返す強さが今は滅茶苦茶羨ましい。

 

 

 

「私たち教師は…貴方たち生徒が笑って卒業してくれることを、望みます」

 

「…はい」

 

「…

 君の笑顔が見たい」

 

「―」

 

 

 

 最後に先生は小声で、俺だけに聞こえるように呟いた。

 

 笑顔って…何を言って。

 

 顔が一気に赤くなるのが分かる。たった一人の言葉にここまで心をかき乱されることに苛立ちと焦りが生まれる。

 

 この人はやはり苦手だ。

 

 

 

「し、失礼しました…!」

 

「あ、上杉君…娘たちを」

 

「わ、わかってます!」

 

 

 

 とんだ勘違いをして恥ずかしい思いをした風太郎は踵を返して職員室を出て行った。

 

 憂鬱な思いをしていた行きとは違い、帰りは心落ち着かず、思考が定まらないまま子供たちが待つ食堂へ向かっている。

 

 先生は笑っていた。心から。

 

 何も辛いことだけが、教師の仕事じゃないのか。

 

 赤みが増した色を、窓から差す夕焼けが誤魔化してくれたことに風太郎は少しだけ感謝した。

 

 ちなみに、あの勉強以外は問題児の上杉にあそこまで慕われるとは流石だ、なんて中野零奈の武勇伝がまた一つ噂されることになった。

 

 そしてその話題に対しては、なぜか誇らしげに胸を張る中野先生がちらほら見えるとも噂があったりなかったり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フータロー君、お母さん怒られてなかった?」

 

「ああ、こうして一緒に帰れてるじゃねえか

 …まあ仕事は増えたが…大丈夫だろ」

 

「お仕事増えて…ふ…うぐ…ひぅ」

 

「…ったく、今日はおまえが泣き虫か、一花」

 

 

 

 久しぶりに先生と五つ子たち、並んで一緒に帰るこの日。

 

 もう日は暮れて街頭が夜道を照らす。俺と一花は先生と少し距離を置いて歩いていた。

 

 他の五つ子四人は母親にべったりで汚名返上の為に頑張ることを約束していた。

 

 先生は優しく子供たちを見守っているが、家に帰れば恐らくお叱りがあるぞ。あの人鬼教師だからな。

 

 泣き出しそうな一花を抱え上げる。長女に抱っこしてやるのは珍しく。ひしっと両手両足を使って抱きついてきた。

 

 

 

「…」

 

「…四葉?」

 

「…えっと…

 上杉さんのほう行ってくるねっ」

 

 

 

 前を歩く五人の輪から四葉だけこちらに合流してきた。

 

 既に一花は小学生となって片手で抱えるには厳しくなってきた。片手で四葉の手を掴んでやることはできない。

 

 それでも四葉はにこにこ顔で見つめてくる。きっと泣いている一花を励ましたいんだろう。

 

 一花は四葉の視線に頷いて、俺のシャツで涙を拭こうと擦り付いてくる。お、重い…

 

 

 

「そういえば四葉、おまえら何を観察する気だったんだ?」

 

「えっとね…お母さんには内緒ですけど

 …お母さん、ちゃんとご飯食べてるかなって」

 

「…」

 

「…お兄ちゃんも気づいてるんだよね?」

 

「…薄々はな

 だが、先生だって馬鹿じゃないぜ

 大変になる前にちゃんと食べるし

 それに忙しいと食欲湧かないしな」

 

「うーん…でもちゃんと食べてほしいです…」

 

「らいはが娘なら、弁当ぐらい作ってたかもな」

 

 

 

 他人の家庭にそこまで踏み込んでいいのか分からない俺たちには恐れ多いというか。

 

 しかし、俺の腰のシャツを掴んで歩く四葉は何やら閃いたようで。

 

 

 

「お弁当…いいなっ 食べたい!」

 

「いや、作らせないでくれ、あいつがこれ以上早起きするのは困る

 らいはの弁当なら絶対美味いだろうけどよ」

 

「そっか…残念です」

 

「…」

 

「…お母さんも喜んでたと思います

 あっ 四葉が作ればいいんだ!」

 

「四葉が作ったらお腹壊しちゃう」

 

「一花!? もう、お腹壊さないもん!

 おにぎりなら作れるもん!

 お母さんなら喜んで食べてくれるもん!」

 

「おまえ泣き止んだのなら降りろ」

 

「やだ…まだお母さんの顔見れない」

 

 

 

 …参った。先生が心配そうにこちらを振り向いている。一花の落ち込みようが気にかかるのだろう。

 

 帰ったらちゃんと話をしてもらおう。それまではこの甘えも大目に見てやる。

 

 リボンをぴょこぴょこと揺らして隣をせっせっと歩く四葉は、母親の背を見ながらまだ呟く。

 

 

 

「…お弁当かぁ、良いと思ったのになぁ

 二乃が作れば絶対食べてくれるよね」

 

「お母さん、遠慮するよ」

 

「だよね…作っちゃえばこっちのものなのに」

 

「…夜にこっそりご飯炊いちゃえばさ

 お米はお風呂場で洗って」

 

「おい、非公認なんてもはや悪戯と同レベルだぞ

 二乃の料理当番が禁止になるからやめておけ」

 

「二乃に恨まれるね、それ

 でも二乃一人我慢するならいいかも」

 

「おまえもう元気だろ、降りなさい」

 

「やだやだ、フータロー君に甘えられるの久しぶりなんだもん」

 

「四葉、剥がしてくれ

 昔おまえがしてやられたことをやり返してやれ」

 

「おお…わかりました! 仕返しなら仕方ないよね」

 

「ひどっ 見てくれるって約束ー! フータロー君!」

 

 

 

 悲鳴と苦悶の声を上げる子供たちに、中野先生はくすっと笑って視線を戻す。放置かよ。

 

 しおらしく反省していたところで、生意気さが勝る五つ子は今日も笑って過ごす。

 

 

 

「…」

 

 

 

 突拍子もない四葉の案を頭の片隅に置きながら、俺は五つ子とその母親を家に着くまで送ることになった。

 

 今の五つ子にはできなくても。

 

 赤の他人がそんなことをしていいのか。そんな迷いを抱きながら、風太郎は残り少ないその一日を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の早朝。暗かった外が朝日で眩しい白を見せ始めてきた頃。

 

 風太郎の、小さく無機質な器に奮闘する時間がとうとう終わろうとしていた。

 

 

 

「な、何でこんな早く起きてるの、お兄ちゃん!?」

 

 

 

 居間で並んで寝ていた妹が眠気眼を開いて驚愕していた。

 

 起こさないよう細心の注意を払って取り組んではいたが、この時間になってとうとう起こしてしまったらしい。

 

 しかし、深夜に集中して作業にかかっていた風太郎は、らいはの声を返すことなく。

 

 風太郎は震える手つきで、台所に立ち尽くしていた。

 

 

 

「作っちまった…」

 

「…え?」

 

「何やってんだ俺…マジで作っちまった…」

 

 

 

 まだ眠気が残るらいはが台所に歩み寄る。

 

 み、見るんじゃない。これはもはやお兄ちゃんの恥部と化している。

 

 急いで物を巾着袋に入れて隠そうとしたが、容易にその開け口を除き見られた。

 

 

 

「お弁当?」

 

「…べ、弁当だ」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 

 眠たい妹と、深夜から起きて疲れている兄がこの状況を理解するのにだいぶ時間がかかった。

 

 居間で寝転がる親父のいびきだけが朝の貴重な時間が浪費されていることを知らせてくれる。

 

 らいはは瞼を擦って、ようやく風太郎を見上げる。

 

 

 

「…え、何で?

 お兄ちゃん! お弁当いるなら遠慮しないで言ってよ!

 絶対お兄ちゃんより美味しいの作ってあげるから」

 

「で、ですよね…」

 

 

 

 一言も不味いとは明言されていなくとも、妹のお節介になぜこうも意気消沈しかけてしまうのか。

 

 やっぱ俺が作るよりかはらいはが作ったほうが良いよな。考えるまでない。

 

 

 

「あぁ、びっくりしたぁ…

 早起きしても勉強しかしないお兄ちゃんが、お弁当なんて初めてなんじゃない?」

 

「お、お初です…」

 

「うわぁ…心配だなぁ

 ちゃんと味見した? おかずの詰め方大丈夫かな…」

 

「き、気をつけた…味見した」

 

「ちゃんと蓋もした? 外れてない?」

 

「が、がっちり閉めたしバンドもつけた」

 

「お箸入れにちゃんとお箸入れた? 忘れないでね?」

 

「…」

 

 

 

 台所に立ってから数年、上杉家を支えてきた妹の助言を真摯に受け止めた。

 

 結果、やはり俺が作る必要なかったんじゃね?

 

 

 

「えー でも美味しそうだなー

 ねえねえお兄ちゃん、一生に一度のお願いがあるんだけど…」

 

「一生に一度は何年か前に聞いてあげたことがある気がするが…

 何だ」

 

「えへへ

 お昼には食べられないけど、帰ってきたら食べたくて」

 

「え、かか、間食は良くないぞ」

 

「うぅ…だってお兄ちゃんのお弁当凄い食べたいんだもん!

 うーん 貰いっ!」

 

「―」

 

 

 

 普段見せない我侭な言葉だった。その気持ちに嬉しく思わないわけではなかった。

 

 台所に置かれた弁当箱に手を伸ばすらいはよりも先に回収して、取られないよう胸に抱えた。

 

 可愛くて甘えることなど滅多にない妹であっても、これだけは譲れなかった。

 

 

 

「お、お兄ちゃん…?」

 

「…す、すまん

 …これだけは…ダメだ」

 

「あ、うん

 …それって、やっぱ…零奈さんに?」

 

「…」

 

「…」

 

「…わ、悪いかっ」

 

「…ううん、顔洗ってくるね」

 

「あ、ああ」

 

 

 

 お、大人げなかったか…? らいははそそくさと洗面所に向かってしまった。

 

 洗面所から水が噴出す音がやけにうるさく聞こえる。や、やっぱ不機嫌になってるな。

 

 こ、今度作ってやるから…おまえほど美味しくないかもしれないが、お兄ちゃん作ってあげるからな!

 

 しかし、バシャバシャと顔を乱暴に洗う妹は全く別のことに気分を損ねていた。

 

 

 

「…お母さん

 不覚にも実の兄がかわいいと思ってしまいました」

 

 

 

 あの兄がお弁当? 夢なら覚めてほしい。

 

 何度も顔を洗っても現実は変わらず。

 

 だらしない兄と父を持つ妹が母性愛というものを知るきっかけになったのは、当人とその母親だけの秘密の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、今いいですか?」

 

「あら…いかがなさいましたか、上杉君」

 

「…いや、ちょっと

 …こっち」

 

「?」

 

「ちょ、ちょっと…ちょっといいですか」

 

「はい?」

 

 

 

 その日の昼休み。

 

 決戦の時がやってきた。もはや風太郎の気分は合戦に赴く武将。または一端の百姓が領主に上納品を納める気分。

 

 とにかく普段のふてぶてしい態度を失っている風太郎は、さっそく恩師に怪訝な目で見られていた。

 

 場所は職員室前。つい昨日恥をかいた場所でもあって、他の教師に見つかる前に場所を変えたかったのだ。

 

 だが、その意図を汲んでくれないニブチンな女教師は静かに見つめ返すだけ。

 

 仕方なく二の句を繋げる。が、直球勝負はできず、言葉を濁すばかり。

 

 

 

「で、ですから…

 ちょ、ちょっと…」

 

「…ちょっと、とは…?

 何かご用があるのですか?」

 

「ちょ、ちょっと場所変えませんかッ」

 

「と…申されましてもご用件は…そもそも上杉君、お昼ご飯は食べましたか?

 私もこれから食堂に――」

 

「きょ、今日は食べるのか…!?

 待った、まずは場所を変えましょう!」

 

 

 

 何で今日に限って飯を食う!? あんた連日昼飯抜きだっただろ! 理不尽な憤りを抱く風太郎だった。

 

 公然の目の前では、ちょっと…としか言えなかった。もう察してください先生。

 

 そこまでムキになる己の行いが恥ずかしく、下らないと見下ろす気持ちが騒ぎ始める。だがここまで来て引き下がれない。

 

 場所は変わって人通りの少ない階段の踊り場。ようやく落ち着いて話せそうだった。

 

 

 

「人前では話せない内容でしょうか?

 申し訳ありません、気が利かなくて

 何かお困りごとでしょうか、上杉君」

 

「困り事ってわけでは…」

 

「はい」

 

「…」

 

「…上杉君?」

 

 

 

 …子供の思いつきから始めたものだ。お節介が過ぎると分かっている。

 

 さらに性質が悪いのが、明らかに拙いものということ。

 

 高校生男子が作る平均よりも上だとは思うが、日頃家事を担っている先生やらいはの足元に及ばないだろう。

 

 拙い物を渡すのは勇気がいる。次の機会へ後回しにして勇気を得たいのだ。

 

 恋愛など愚か者がすること。そう、これは決してそんな不純な動機ではないのだから。

 

 

 

「あの…恐らく、いらないかもしれませんが…

 これ」

 

「私に、ですか?

 …お弁当かしら」

 

 

 

 手渡したものに先生は驚く。ただの生徒が教師に弁当を作ってくるなど珍事のそれだろう。

 

 最初は驚いた先生だったが、やはり遠慮がちに申し訳なさが募る表情に変わっていく。

 

 

 

「まさか、らいはちゃんから?

 作りすぎてしまったのかしら…それとも、悟られてしまいましたか

 …今日は、とおっしゃっていましたね…そういえば」

 

 

 

 普段、昼食を食べていない。それを悟られていることを察した先生は沈痛な面持ちで俯いていく。

 

 気を遣われたと己のミスを悔やんだ先生は、何か一つ諦めがついたのか。

 

 

 

「あの子にはいつも助けてもらっているのに、お弁当まで」

 

「…」

 

「頂いていいのですか?」

 

 

 

 両手を差し出してきた。弁当を受け取る手だった。

 

 手渡すべく、俺は先生に歩み寄り弁当を差し出す。

 

 

 

「ありがとうございます上杉君

 らいはちゃんにお礼を――」

 

「俺です」

 

「…え?」

 

「俺が作った弁当なんだ」

 

「…」

 

 

 

 受け取りかけた先生のその手が下りていく。

 

 どうして風太郎がそこまでするのか。意外に思い、恩師は受け取ることより先に理由を求めた。

 

 ただ受け取ってもらえるだけで満足だったのだが…恥を忍んで言うしかなさそうだった。

 

 

 

「家庭の内情はもう察しています

 だからと言ってこれは、恵んでいるわけでも、恩を着せる為ではなくて

 ただ…」

 

 

 

 ただ、子供の為、教え子の為に毎日頑張っている人が、少しでも楽できれば

 

 僅かでも幸のある一時を過ごしてくれるのなら。

 

 俺にできることとしたら…こんな、小さな贈り物を用意することしか。

 

 精々、一食分の食費を賄うぐらいの。

 

 …本当に不出来な男だと思い知らされる。

 

 

 

「…どうぞ、召し上がってください」

 

「…

 有難く、頂戴します」

 

 

 

 正面から見つめ返す恩師の眼差しは優しく、嬉しそうで、ほんの少し頬が赤く見えた。

 

 その返事を受けてようやく、俺は先生へ渡せた。

 

 用は済んだ。変わらずその瞳で見つめられることに恥ずかしさが余計に増してきて退散したかった。

 

 踵を返そうとして、掴まれた。

 

 胸に弁当を抱えて、俺の手を掴む先生は少し焦っているようにも見えた。咄嗟の反応だったのだろう。

 

 

 

「あの…

 昼食、ご一緒しませんか?」

 

「…

 目立つので…遠慮します」

 

「そうですか」

 

 

 

 誘いを断っても手は掴まれたままだった。

 

 言いたいことは、これから。風太郎は手を握られたまま恩師の言葉を待った。

 

 

 

「その…

 何年…振りかしら

 手作りのお弁当を貰ったのは」

 

「自分で作らないのか」

 

「そのような習慣がなくて

 私の母は早くに亡くなって…もう20年くらいで

 ふふ…まさか、娘に作ってあげる前に私が食べれるなんて…おかしな気分です」

 

「過度な期待はしないでくれ」

 

「…いつも、ごめんなさい」

 

「…」

 

「楽しみ、です」

 

 

 

 その感謝の返事を最後に、先生は手を離して去っていった。

 

 

 

「…食欲、ねぇ…」

 

 

 

 やりきった、疲れた…っ

 

 今日ぐらい、飯抜きでもいいだろう。風太郎は食堂へ向かわず、屋上でぼんやりと時間を潰して教室に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5限目が始まる午後。あるニュースを小耳に挟んだ。

 

 授業が始まる前に教師から教えられた。そのスクープにクラスは驚き、もっと詳しく教えろとざわめき立つ。

 

 授業の手を止めてまで、そうまで騒ぎになるニュースとは。

 

 やはりあの中野先生の話題だった。

 

 

 

「笑ってたんだぞ、あの中野先生が

 一人でお弁当を食べて、あんなにも嬉しそうになぁ…

 人一倍真面目で、顔に出さない人だからな

 よほど楽しみにしていたんだろう」

 

 

 

 鉄仮面のあだ名で恐れられているあの中野先生が、職員室で見たことない程に、上機嫌にお弁当を食べていたという。

 

 職員室の教員の間でもビックニュースだったらしく、どうせ誰かが話すからと教師は胸を撫で下ろしたかのように話してくれた。

 

 そんな教師の安堵も束の間。作ったのは恋人なんじゃないかと大騒ぎする生徒たちの声に呆れていた。

 

 

 

「あの先生がねー クールな人だから想像つかないよ

 ね、風太郎――」

 

「…」

 

「…そっか

 良かったね、風太郎」

 

「…」

 

「はいはい、内緒にしとくよ」

 

 

 

 もう外の音など耳にせず。風太郎は肘を着いて、目元を覆い隠して俯く。

 

 顔を隠さないといけなかった。

 

 横から見る幼なじみにはもう知られてしまっているだろうに。

 

 睨み返せば友は何を嬉しそうに笑うのか。

 

 勘違いするな 俺は…ただ

 

 あの人が拙い贈り物に、幼い子供のように胸を満たしてくれたと想像して。

 

 胸を満たすものを吐息と一緒に零したくなくて、ただただ声を隠すしかなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。