親からの目を気にし始める年頃とは何歳からか。
雨がしとしとと降る夕暮れを眺めつつ、物思いに耽っていた。
五人の少女が1つのちゃぶ台を囲ってノートに文字を書き込んでいる。拙くも一文字一文字、平仮名を真剣に。
バイトのない放課後は五つ子の家庭教師の時間だ。
風太郎は静まった部屋の中で頬杖をついて窓を見つめていた。何も言わず、監視もいらず、五つ子たちが真面目に勉強していた。
日頃の不真面目さと我侭っぷりを鑑みれば、病気なのかと疑ってしまうレベルだ。
ひとまず宿題を終えるまでは黙っておいた。後で辞められたら困るし。
「で、どういう心境の変化だ
一花、説明」
「あ、やっと聞いてきたッ!
んとね、お母さんにできることないか聞いたんだ」
「できることって…
ああ、お母さん楽できるように手伝うってヤツか」
「そそ、そしたらお母さんがね
勉強頑張ってくれたら、お母さん嬉しいわ
って言ってたから、もう頑張るしかないよね!
今日の私たちはいつもとは違うよ、ふふん!」
「ふーん、頑張れよ
長続きしなさそうだけど」
「何でそういうこと言っちゃうのー!?
やる気なくなったー!」
お兄さん、おまえらが飽きっぽいことは熟知してるんだ。こと勉強に関してはな。
熱意に冷や水をかけられた一花は窓の外を見上げる俺の肘を掴んで引っ張る。
小賢しい長女の説明では物足りなかったらしく、続いて次女が議題の補足説明を担った。
「勉強だけじゃないわ、節約だって始めてるんだから
お風呂もお湯少なめにしてるもん」
「それで部屋の電気までケチってるのかよ
超薄暗いし、日が沈んだら家庭教師終了なの?
いい加減点けるぞ、電気」
「ダメ、フータロー
贅沢は敵だって、フータローもお姉ちゃんも言ってたでしょ」
「この数時間の電気代節約したところで、雀の涙にしかならねーぞ!」
「だ、ダメです上杉君!
せめて、せめて今日だけは!」
「お母さん帰ってきたら明かりつけるから、待ってくださいぃ!」
部外者が掟を破ることに五つ子たちは半泣きになって止めてくる。母親を思うばかり娘たちが必死になっている。
意欲や心意気は賞賛したいものだが非効率だ。観念してその新ルールに則って今日はやり過ごすしかないようだ。
結局、暗い居間の中で宿題は続行となった。あとどのくらいで日が沈んで真っ暗になるのか…また窓の外を眺めるとする。
無言で鉛筆が走らせる音だけが響く中、袖を摘ままれた。
視線を降ろすと、二乃がこちらを見上げて引っ張っていた。
「フータロー ちょっと…」
「ん?」
「ちょ、ちょっと…ちょっといい?」
「わかってる、何も言うな
お兄ちゃんはおまえの気持ち、痛いほど分かるぞ」
「へ?」
「先生はその点、鈍すぎた」
「よくわかんないけど、ママはどんくさくないわよ
勘鋭すぎて怖いし」
何のことか分からず、二乃は俺の言葉に疑問符を浮かべている。こっちの話だからスルーして構わないぞ。
二乃は俺に話があるらしく、勉強に一心不乱に取り組む姉妹を置いて、ひとまず誰もいない風呂場のほうへ向かった。
「えっとね…フータロー
…こんなお願い、しちゃいけないんだけどね」
「?」
「…その
本、買いたいの」
「本?」
二乃の口から本と聞いて訝かしむ。その年頃で本など、漫画しか思い浮かばなかった。
だが二乃の要望は玩具を求めるものではない。赤の他人に物乞いをするあまり、謙虚な姿勢が窺えた。
ひとまず事情を問い質す。子供の願望だけではどう判断すべきか分からない。
「私、知らないことばっかりだし
もっと覚えないといけないと…思うの」
「…それって、料理の話か?」
「う、うん…あ、ごめんっ
そう、料理なの、料理の本が欲しくて」
「ああ、らいはから教わってたな
それで、おまえはらいはから教わるだけじゃ足りないと思ったのか」
「…」
「…怒ってるわけじゃない、あいつだってまだ小学生なんだ
間違った知識もあるかもしれない、本で知識を得たいおまえの考えは正しい」
「そ、そう?
お、お姉ちゃん…もう教えてくれなくなったり」
「俺の妹はそんな意地悪な子じゃない」
「う、うん…」
「しかし、本か
…お母さんには言えないか、買ってくれなんてよ」
こいつらは小学生になったわけだし、中野家にお小遣い制度が設けられる日も近いか。
ちなみに俺の月の小遣いは10円にも満たない5円だ。一年待っても本など買えなかったぜ…!
「俺から先生に言おうか」
「…ッ!」
俺の無粋な提案に二乃はブンブンと顔を横に振る。長い髪が乱れるほど慌てて。
そんな欲があると母親に知られることも、迷惑をかけることも嫌っている。俺の横槍は却下らしい。
となると…この要望はつまり、俺が買って与えろって話になるのか。
仲の良い兄のような相手でも、二乃にとって不安でしかない我侭だったのか。
物を強請る二乃は始終俯いて、唇をきつく結んでいた。ほんの少し、肩が震えているようにも見えた。
「二乃」
「…!
ご、ごめ、ごめんなさ…もう言わないから
嫌いに――んぐ」
「今度買いに行くか
お母さんには内緒だぜ」
「…ッ!
フータロー…!」
脅えて泣きかけた二乃の唇を閉じさせた。
二乃は何度も目を瞬きして大きな雫を目尻に滲ませる。膝をつく風太郎にしがみついた。
嗚咽は風太郎の胸に押し付けて塞いでいた。
金を強請ることに子供が心を痛ませていたのが分かる。
それでも、天秤にかけて…母親を助けたい気持ちが勝って、一抹の希望を求めて声に出したのだろう。
「この前のカレーの礼だ、うまかったぞ」
「ひぐ…うん…うんっ…ありがとぉ…
また作るから、作るからね…!」
「泣くなよ、本ぐらいで」
「だって、高いもんっ」
「…科目は違えど、同じ勉強だ
俺はおまえを応援するぞ、二乃
このぐらい安いもんだ、頼ってくれていいぜ」
「ひぐ…うぇえええぅ…」
「泣くなって、先生帰ってくるぞ」
「…ぎゅっってして…」
もう暗くなってきて、母親が帰宅する頃だ。
仕方なく泣いている二乃を抱きしめて抱え上げた。こうすると泣き止むのが二乃だった。
言った傍から物音が聞こえた。玄関から開錠する音が聞こえ、母親が帰ってきたのだ。
家の中が薄暗いことが幸いした。二乃は慌てて俺の衣服に目元を擦りつけて涙を拭った。
二乃が小声で「ありがと」とお礼を述べ、俺は静かに子供を降ろした。
しかし気恥ずかしさが残っているようで、母親と顔を合わせようとせず、風太郎の背後に隠れてしまった。
「…なぜ真っ暗なのでしょうか」
「お宅のルールですよ」
「…?
怪我しますから明かりは点けてくださいね」
「だとよ、もう終わりだ終わり」
「はーい…」
母親が怒る前に五つ子はそそくさと明かりを点けた。節約は大事だが効率が悪いので当然却下である。
五人の宿題の進捗を確認すると、国語の宿題は無事にやり遂げたようだ。薄暗かったせいで字が汚いけどな。
母親が帰宅したし、今日の家庭教師は終了となる。教材をしまって身支度を済ませて玄関へ向かった。
「上杉君、待って下さい」
「? 何ですか
勉強、もう少し見ていきましょうか?」
「いえ、そういう訳では
今日はお夕飯を食べていかれませんか」
「え」
「らいはちゃんには事前に伝えてありますから
恐らく帰ってもお夕飯ないかと」
「え"」
ちょっと待て、聞き捨てならないこと口走ってないか? のほほんと窓を眺めていたらとんでもない事態になっていたらしい。
俺が中野家で夕飯を食べると知って、母親の背後では五つ子が先立ってはしゃぎ回っていた。
いや、おかしいだろ。何でこの人、他人の家の飯を取り上げて…俺の飯がぁああ…ッ!?
妹は恩師の手篭めになっていたのは以前から察していた。二つ返事で了承したんだろうな…兄は妹の手料理が一番好きなのにな。
さすがに肩を落とす俺の反応が気に食わなかったのか。先生は視線を横に逸らして言葉を濁した。
「…お返しをさせてください」
「…」
「フータロー、食べてこ?
お母さんのご飯おいしいから、食べよ?」
「上杉さん! こっち座って! おもてなしします!」
「上杉君とご飯です! お泊り以来だね、お兄ちゃん!」
「フータロー君、また泊まっていってよ
お姉さんが一緒に寝てあげる!」
「お、お母さんのお手伝いするし
フータローに美味しいご飯作ってあげるから、ね?」
「…飯抜きは困るので、食べていきます」
「はい」
妙な意地など張っていられず、俺は先生に頭を下げてご相伴にあずかるとする。
鉄仮面の恩師はいつもの態度だが、その娘たちの反応は姦しく騒がしいもので、手を掴まれて居間に引き摺り込まれた。
いくら他人の家に慣れ親しみ、その家の匂いが身に染みていても他所は他所だ。我が家ほど落ち着ける空間ではないのが残念だ。
「えっと、上杉君
あのね、まだ宿題残ってるの」
「音読まだ残ってるよね」
「音読か
でもそれ、聞いたら判子押すヤツだろ?
俺じゃなく先生に見てもらってくれ」
「そうね…ご飯を作る前に見ましょうか」
五月か国語の教科書を手に寄ってきたら、先生が気を利かせて見てくれるようだった。
家庭教師を終えれば来客であって、迷惑になると知って間に入ってくれたのだ。この点は実に気遣いの出来る人だと思う。
仕事で疲れた母親が宿題を見てくれるのだ。子供たちは急いで国語の教科書を探し、母親の前で横一列に並んだ。
…一斉にやるの? こいつら、教室は2つに分かれてたよな。
「おねえさんはいいました カエルさんは ヘビさんがこわくて うごけなくなっちゃうの」
「あさのおひさまは うみよりもたかい やまからかおをだします」
「ヘビさんはもういっしゅうかん ごはんをたべてません」
「よるのおひさまは やまよりもあおい うみのなかへしずんでいきます」
「おねえさんはいいました ヘビさんはカエルさんをたべれなかったら おなかがすいてたおれちゃうかも」
「………」
「…半分受け持つから、四葉と五月こっち来い」
不協和音、カエルなのか海なのか餓死しそうなのか全く聞き取れなかった。
五人が一斉に音読を始めたら騒音でしかない。先生からの無言の眼差しに折れて、俺は子供二人を手招きした。
四女と末っ子の分は俺が聞き取り、子供たちのノートを先生に渡して判子を貰うことになった。これで音読の宿題は完了となる。
「ねえねえ、フータロー君
フータロー君は国語のお勉強してるの?」
「あ? ああ…国語というより、現代文だな」
「げ、げんだ…よく分かんないや」
「上杉さんも音読してみてくださいよー」
「いいわね、聞いてみたいかも
なんてタイトル? 有名なの?」
「有名っちゃ有名か
だがおまえら、舞姫なんて知らねえだろ」
「まいひめ…?
お姫様のお話?」
「気になります、話してよ上杉君」
「…」
五つ子が純粋無垢な瞳で作品の概要を話せと急かしてくる。
それに俺がなぜ脂汗を流さなくちゃいけないのか。今この場に限っては、こいつらの母親とは目を合わせたくない。
舞姫とは、とある留学生が手記した異国での恋愛物語を綴ったもの。舞姫はその恋人である踊り子を指す名だ。
サクセスストーリーなら子供たちに難なく話せただろう。
困ったことに内容は…男の意地汚い部分が見え隠れしたものだ。出世や帰郷への執着。加えて同僚の言葉から恋人が心を痛めることになる。
さらに突き詰めて考えれば…結果的に主人公は、身篭った恋人を置いて母国に帰ったのだ。
…こいつら五つ子の父親は五人の赤子を身篭った女を捨てたのだ。果たして話していいのか超絶迷う風太郎だった。
ひとまず子供たちが納得する程度にオブラートに話してみるとしよう。
「舞台はドイツ
留学してきた日本人の豊太郎は、貧しい生活を送る美しい踊り子のエリスと出逢ったんだ」
「踊り子? 踊る人?」
「踊り子ってのは綺麗に見えるかもしれないが、安いお金で働く人が多いんだ
エリスはお金に困って、豊太郎が助けたんだ
次第に二人は惹かれ合い結ばれました
…ちゃんちゃん」
「…
それだけですか?」
「…
それだけって?」
「上杉君が嫌がってたから、何かありそうです」
「…良い目をしてるじゃねえか五月…侮っていたぜ」
ええい、人がせっかくバットエンドをハッピーエンドにしてやったのに! 大人の事情を知らぬお子様に憤慨したい。
床に寝転がりながら物語を聞く五つ子たちは続きを急かしている。ここは幼稚園じゃないってのに、絵本読む先生じゃないんだから。
しかも台所に立つ先生も時々こちらを見てる。誤魔化さずに言えってかか、その目は。逞しいじゃねえかバツ1。
「…豊太郎はドイツに留学してきたわけですが、頭が良くて将来お金持ちになれる人でした」
「お勉強できるの? 風太郎みたい」
「それ言っちゃダメ!! 竹林に散々言われてるんだよ」
「…褒めたのに…フータローのばかぁ…」
「…豊太郎はエリスと恋人になったが、女遊びしてると思われて出世できなくなり、仕事がなくなってしまいました
それでも豊太郎はエリスの為に仕事を見つけて、二人で仲良く暮らしました
…ちゃんちゃん」
「それでそれで、どうなったの?」
「…
エリスのお腹には豊太郎との赤ちゃんがいました
そんな時、豊太郎が出世するチャンスが訪れました
豊太郎はエリスかお仕事、悩んで悩んで考えましたが…
…」
「…で、フータローはどうしたの?」
「豊太郎だ!
豊太郎は…お仕事を選び、エリスを置いて日本に帰って――ーいててててっ!!
だから俺じゃないって言ってるだろ!」
「だって名前似てるし」
「トヨタロー、酷い人…エリスが可愛そう」
恋人を捨てたことに腹を立てた五つ子全員が俺に突撃してきて至る所を抓られた。おのれ豊太郎、大不評である。
だいぶ端折って話したが、豊太郎の決断には彼の同僚によるエリスに対する冷淡な物言いが関わっている。
豊太郎は最後に、良き共は得難い物であるが、同時に友を憎む気持ちが今日まで残り続けている。と語っている。
男がいくら悩み苦しもうと、捨てられた女を思えば独り善がりでしかなく…どう足掻いても身篭った女を捨てた行為は罪深い。
「おまえたちには分からないだろうが
女一人か故郷での栄えある将来、どちらを選ぶか考えたら即決はできないもんだ
出世してからエリスを迎えに行ったとしたら、おまえらだって考え方変わるだろ」
「えー お父さんにはお母さんを守ってもらいたいです…」
「そうよ、そんなの理由にならないわよ
ねえママ、そんな男お断りよね」
「…
上杉君なら、どちらを選ぶのですか」
「………」
「もしもの話ですよ
赤ちゃんができた恋人と裕福な生活、どちらを取りますか?」
「…」
…一つ言っておきたい。俺は高校生で、あんたは俺よりも十も年上の教師だ。
身篭った途端に旦那に捨てられたあんたに、俺はどう答えろと?
左手の薬指には指輪を通していない女が詰め寄ってきている。
母親がいつもと違う雰囲気を曝け出していることに五つ子は危機感を抱いたのだろう。ゆっくりと俺達から距離を置いて隠れてしまった。
「俺は…いや、そもそも先生
あんたはどんな答えを期待しているんだ」
「期待など…
ただ…憎みはしなくても、恨み…その理不尽さに悔やんだ身としては…
君の意見を聞きたい、それだけよ」
「…もしもだが、俺がさっき言った…
後で迎えに行くとしたら、あんたはどうした?」
「受け入れません
私にとって確かに得のある行為であるかもしれません
恋人を愛しての、努力かもしれませんね
ですが、少なくとも子の親としては無責任であって…失格です、断じて認めません」
「そ、そうですか…」
俺の浅はかな妥協案は恩師にとっては失笑に値するものだったらしい。発言を取り消したくなった。
しかし先生の受け答えから、あくまでも冷静であることは分かった。何か気に触れてしまい怒らせてしまったのかと肝を冷やしたぞ。
ならば、正直な選択を答えるとしよう。
あくまでも、恋愛は愚か者がすることだと。一時の気の迷いは、その人間のピークを決定付けてしまうのだ。
「子を身篭っていなければ、出世を選んでいた」
「………」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…お、お兄ちゃん…」
俺の率直な返答に沈黙が。末っ子が静寂に耐え切れなくて既に慌てふためいていた。
俺から一つ言わせて貰えば…交際すれば何もかも添い遂げる必要はないはずだ。不貞を働くことを除いて。
片方が幸せになれるのなら一考するべきだ。明確に豊かな生活を送れるとなれば…祝福したい気持ちが勝るのではないか?
恋人に求められることを怠らずにいれば、相手がいかに得難いものと天秤にかけても…恋人を選んでいただろう。
努力を怠り、求められるずに終わるのなら自業自得。相手を恨むものじゃない。
…果たしてこの考えは恋愛たりえるものなのだろうか。
求められる人間になる、そう目指してきた俺には…求められる行為そのものが、とかく朧気で不明瞭なものだと知っている。
「…」
「…あの、先生
近いんだが…怒ったか?」
恋愛など崇高なものじゃない。そう捉える俺は間違っているのか。
先生は何も答えてくれない。ただ黙って俺を見つめているだけ。
そんな女教師が、鉄仮面の無表情を崩さずに…座っている俺を押し倒してきた。
音を立てずゆっくりと、母親の乱暴に子供たちが肩を竦めて静観していた。
「せ、先生…?」
「上杉君」
「つ、掴まれると痛いんだが…」
「理屈ではないのよ
選ぶ時、いつだって…冷静な思考なんてできなかった
後悔すると知っていたら、選ぶはずがなかった」
「…」
床に倒れる俺を見下ろす先生は、少しだけ…俺を挑発するような眼差しをしていた。
肩を掴まれ、組み敷かれたまま。先生の長い黒髪が頬に当たって、距離の近さを思い知らされる。
…何がおかしいんだ。
恩師はこの体勢で、教え子を押し倒して…笑っていたんだ。
「似たようなことを言ったわ、私も昔」
「―」
「いつか分かる日が来るといいですね」
男を見下ろす、子を身篭った女からの視線に負けた。
…勝てるわけがない。いくら着飾った言葉を吐いても。
金だろうと権力だろうと、男はこの人には勝てない。
男に見捨てられても、五人の子供を抱えて育てた女が…弱いわけないだろうが。
失恋し、子供共々捨てられた先に立つこの人には――男からの愛情なくとも、そうあり続けられる。
俺が憧れた人なだけある。俺は安堵してしまった。
その恩師が、愛する子供に突き飛ばされた。
「ふ、フータローを虐めないで!!」
「フータロー君大丈夫? お姉ちゃんが守ってあげるからねっ」
「け、喧嘩しないで…お母さんと上杉君はダメですから…!
仲良しじゃなきゃ…ふぇえええええっ!!」
「お母さんが大変だったの、上杉さんだって知ってるんだよっ
だからお手伝いいっぱいしてくれてるんだから、喧嘩はやめてよぉ…!」
「フータローはママのことすっごい大事にしてるのよ?
だからね? そんなことで仲悪くなったりしたら嫌よ…」
黙って諦観していた五つ子が俺を守ってくれたらしい。
お陰でその母親が俺の横で床に突っ伏している。愛する娘からの突進に心が砕けてないだろうか。
先生の肩まで伸びる髪が顔を覆ってしまっていて表情が隠れてしまっている。少し怖い光景であった。
恐る恐るその髪に触れると、バシッ!と手を掴まれた。怖すぎるこの人妻。
「イヤー!! ママ手を離してあげて!」
「ひぃいい 上杉さん逃げてぇ!」
「もうホラー映画だよ!?」
らしくない恩師の振る舞いだったが、その掴む手は自然と握り返せた。
一つ分かったことがある。
この人は俺と同じく恋愛など求めていないかもしれない。
この人は去年、一度は俺を突き放した。自分を見離して大学受験に集中しろと。
言い換えれば、自分よりも出世を第一に考えろと言ったんだ。この女は。
俺の先の回答は母親からは振られたが…間違いの0点…ではなかったのかもしれない。
…後に迎えに行くと言った発言は、俺の本音でもあったんだ。
今が無理でも、一緒にいていいのなら諦めたくない。その人にだけ求められるのなら。
「ふふ…ごめんなさい上杉君」
「…」
「…悪戯が過ぎましたね」
「…心臓に悪い」
「私は胸が痛かったです
母である私以上に慕われていますね、上杉君」
「…ほら、おまえら
お母さん反省してるから許してやれ」
肩に手を沿えて、先生を起き上がらせる。
俺の腕に先生からも手を這わせて、体を起こして向き合う。
乱れた髪を揺らして笑う女…やけに艶っぽく見えた。
されど、目の前で向かい合う俺からしたら…子供っぽい無邪気なそれにも見えた。
何で十も年上の女と恋愛談義してたんだか。年甲斐なくはしゃぐ教師に呆れてしまった。
…物のついでだ、恋愛トークなら舞姫のような生々しいものとは別に用意してある。
「俺よりも恋愛上級者の先生には、一つご教授願いたいものだ」
「…はい?」
「高校生のデートプラン、一緒に考えてくれ」
俺はポケットに突っ込んでおいた紙を手渡す。
前田から預かった、松井との修学旅行デートを計画するものだ。是非アドバイスを頂こうじゃねえか。
…手渡そうとしているのに、先生は一向に受け取ろうとしない。
「…デートって、竹林さんとですか?」
「…はい?」
「…すみません、本当に悪ふざけが過ぎたわ…
ごめんなさい、私はそういった知識は疎いの
他を当たってください」
恩師の崩れた表情が一瞬にして鉄化面に切り替わる。
乱れた髪を整えて、スッと立ち上がった先生は台所に向かっていった。
…しばし眺めていても、あの人は振り向くことはなかった。
「先生、誤解です」
「上杉君も、口ではああ言っても男の子ですね
応援しています」
「勘違いです! これは前田からの頼まれ事で」
「…」
「…」
「…冗談です」
「ダウトです、先生」
「わ、私が驚くのも無理ないでしょう…
もう、見ないでください…怒りますよ」
その背の向こうの、恩師の表情を覗き見ると…あの鬼教師の額には汗が。
存外、慌ててくれたらしい。おかしな人だ、まったく。
からかう俺に先生は目を合わせようとしない。逃げながらも器用に夕食作りをする女だった。
「お兄ちゃんッ!!!」
馬鹿みたいに恩師を虐めていられたのはそのくらいで。
デートと聞いて可愛げに嫉妬する五つ子に捕まってしまい。過去一番に騒がしい夕食となった。
「よいしょ…う、うー
ふぬぅーっ!」
「その爪先立ちで届くわけがないだろ」
「見てないで手伝ってよ…!」
「本屋ではお静かに」
「うぅ…意地悪して
何で本屋ってあんな高いところに本並べてるのかしら…
私に買わせる気ないでしょ…
ねえフータロー、あれ読みたいの、取ってくれる?」
「はいよ」
本を買ってほしい。我侭とは言えそうにない二乃との約束を果たしにデパートの本屋に来ていた。
目的の品はカテゴリーで言えば料理。分厚く堅苦しい物もあれば、カラフルでお手軽な物まで多種多様な本が陳列していた。
二乃は目に付いた本を片っ端から読み漁るつもりでいる。俺はそんな背丈の低い子供の視線を辿って本を取っていく。
「…」
「…」
「…漢字読めない、教えて」
「素直に頼れって」
小学生にはまだ早すぎた代物だ。保護者役は本を開いては二乃に内容を伝えている。
イラスト付きが望ましく絶賛厳選作業中…二乃のお気に召さないようで数十冊が没食らっている。
本屋は会計の音以外は静かなもので、二乃は母親以外の人間との買い物は不慣れなのだろう。俺の横から離れず、時折手を伸ばして袖を掴んでいた。
「…節約ね、大体がその準備を整える為に初期費用がかかるんだよな…
あー これ、家庭菜園だな」
「かてい、さいえん…?」
「庭や植木鉢で作物、野菜を育てるんだ
育てる手間はかかるが種は安く買えるから、結果的に節約になる
庭はないから、植木鉢でやるしかねーな」
「えーなにそれ!? いいかもいいかも!」
「簡単だと侮るな、こういうのは上手く育たずに枯れるのがオチだ」
「なんかね、管理人さんがね
アパートの近くに畑持ってるんだって、昔育ててたんだって!
フータロー、それにしましょ?」
「マジか、近くにプロいたのかよ、絶好のアドバイザーじゃねえか
ならあの婆さんに話聞いてみるか」
本のページを二乃に見せると受けが良く、読めるはずがない本を熱心に解読していた。
小学1年生の横で、たどたどしく読み上げては詰まっているところに解説を加えていく。
二乃はこれで決まりと大絶賛していたのだが、早計な点があり、どうせなら博識な管理人に聞いてからでいいだろう。
気の良い人だ。騒がしい五つ子を優しく見守ってくれている管理人なら助言は頼みやすい。
先人の知恵があれば本もいらないかもしれないしな。ひとまず購入する本は別のものにしよう。
買い物はまだまだ続く。しかし子供の体力が限界だった。
二乃はフラフラと俺の腰を掴んでは寄りかかってくる。
「もうかれこれ2時間ぐらい経ってるな
あっちのベンチで休むか?」
「い、いい、まだ探せるわ
フータロー、次あれ!」
「焦る必要はない、つーか俺が休みたい
自販機でジュース奢ってやるから付き合え」
「ふ、ふーん…フータローが休みたいなら仕方ないわね
つ、付き合ってあげる」
「お優しいことで
ほら、手」
「…えへへ
フータロー、やっぱ優しい」
「そうか」
目を離せば転んでしまいそうな二乃の手を取り、デパートのホールに並ぶベンチに腰かける。
気になった本は幾つかあったが、一冊に絞るとなると決めあぐねている。体力が消耗しただけで不毛な時間だったかもしれない。
隣でちょこんと座り込む二乃も俺の金で買うことにプレッシャーを感じている。確実に身になる教材を得ようと妥協はしなかった。
自動販売機で紅茶のペットボトルを買い、二乃に手渡しておく。
しかし二乃は受け取りはすれど俯いて、小刻みにこちらを見ては目を逸らしていた。何か言いたいことがあるらしい。
「ごめんね、フータロー
私が選ぶの遅いから」
「気にするな」
「…フータローだって忙しいのに
ごめんなさい」
「…これ、渡しておく」
買い物に付き合わせておいて、長々と選定していたら良い顔はしないものだ。
気遣いができる二乃は、小学生ながら不躾なことをしていると気づいてくれたようだ。
だが杞憂だ。何も無駄な時間ではなかったことを教えるべく、二乃にメモを握らせた。
「…? 何が書いてあるの?」
「さっきまで読んだ本、買いはしなかったが使えるものもあっただろ
読んだ分は書き写しておいたんだ、おまえ持っておけ
いずれ役立つはずだ」
「…う、うん」
「知識は得て損はない、俺にとっても有意義な時間だったぜ
あれだけ本を漁ったのは久しぶりだ
おまえがいたから退屈はしなかったしな」
「…っ」
気負う必要はないんだと諭すと、二乃は紙ぺら一枚を大事にポケットに入れた。
受験生にとって2時間の勉強でも馬鹿にはならないのだが、子供の前では見栄ぐらい張っていたい。
少しずつジュースを口にする二乃を横目にぼんやりと通路に並ぶ店舗を眺めていると、足音が近づいてきた。
通行人のそれかと思いきや、俺の足に影を差して止まった。
「貴重な休日に、随分と余裕そうじゃないか上杉君」
「…武田か」
「あ、この前のお兄さん」
「やあ、覚えてくれていたとは嬉しいよ
僕は彼のクラスメイトで、君のお母さんの生徒なんだ」
「あ、はい」
爽やかな空気を振りまいて現れた乱入者は、学校で何度も顔を合わせている武田だった。
こいつも買い物か。既に奴の手にはビニール袋がぶら下がっていた。
…学校ならまだしも、プライベートでこいつと話すことなんて特にないんだが。
子供の手前、会話に困っていると…武田はそのビニール袋をベンチに座る二乃の膝の上に置いた。
「…え?」
「欲しい本があるのなら僕が幾らでも買い与えてあげるよ」
「は? おい、何のつもりだ」
「僕が代わってあげようと思ってね
そのほうが子供たちにとって都合がいいじゃないか、ね?」
「…」
武田が二乃にあげた…いや、買い与えたのは一冊の本だ。
知らない人から物を貰ってしまった二乃は困り果てて、膝の上に置かれた袋に手をつけないでいる。
開かれた袋の口から覗けた品は、料理の本だった。
何のつもりだ。貧乏人に施しでもしようってか。つーかこいつ、見てたのかよ。
「君はこんな事している場合じゃないだろう
もっとやるべきことがあるはずだ」
「何のことだ」
「中野先生への援助を行っているんだろう
その一環で、その娘たちの世話もしている
中野先生はとても真面目な人だ、僕ら生徒に真摯に接してくれる、かけがえのない教師だ
君のその配慮はとても素晴らしいよ、良いボランティア精神だ
「…」
「父から聞いた
君は中野先生を手助けしながら、この僕に勝ち続けると宣言したんだろう」
「ああ」
「冗談じゃない!!」
武田の一喝がデパートのホールに響く。通行人や店員が何事かとこちらを見やる。
隣に座る二乃も脅えて腰元に縋りついてきた。仕方なくその肩を叩いてあやす。
「君の、そんな半端な状態でも僕に勝てるという自信は認めよう!
だけど!! 胡坐をかいた君に勝っても、僕は何一つ報われない!!
「…」
「これまでの時間、血の滲む努力、父からの冷めた目も、母の落胆も、周りの何かが足りてないという散々な言葉も!
何もかも全部!
君に勝つ為だけに、僕は耐えてきたんだ
今の君に勝てたって、僕は何も得られない!」
「知るか
文句なんて俺に勝った後に言え
子供怖がらせてるんじゃねえよ」
怖がって竦んでいる二乃の前に立ち、武田の目を弾き飛ばす。
こいつの言い分を聞くと、俺があの理事長に舐めプして勝利宣言をしたことが心底気に食わなかったらしい。
確かに聞けば腹が立つ。特にこいつは俺をライバル視していたようだしな。
だが、一度も俺に勝てたことがないくせに、俺の足を掴むようなことするんじゃねえよ。何をしようと俺の自由だ。
「そもそも何だ、料理なんて君らしくない!
料理などケーキ屋だけで十分だろう!」
「え"」
「料理一つ覚えたところで何が変わるというんだ!
僕達は受験生で、君は全国一位で…常に頂点を目指してきた
なのに不必要な知識を得て…ッ
怠けている以上の屈辱だよ!」
「いや、見ようによっては必要不可欠な分野だぞ」
「今の君がすることじゃないはずだ
冷静に考えれば分かるだろう? だから言ったんだ
僕が代わる、とね」
「…」
「欲しいお菓子でも玩具でも、何でも買ってあげるよ
悪くない条件だろう?
格下と見下す僕に塩を送らせるような真似をさせないでくれよ、ね?」
まず第一に、あの母親がそのような愚策を認めるはずがない。その時点でご破算している計画である。
だが、もはやそんな他人の介入など関係ない。これは俺と武田の問題、喧嘩だ。
こいつは俺を全力で蹴落とす気でいる。その為に努力してきたと言い張っている。
二本先取など、勝ち越しなんて望んでいない。一発で完膚なきまで叩きのめして勝利を牛耳るつもりだろう。
その意気込み、必死さは…昔の俺を連想させる。
しかし、胸から込みあがる気持ちは煩わしさだけで…敵からの塩などいらん。そもそも塩に困ってねえしな。
「…以前の君のほうが遥かにマシだったよ」
「あ?」
「君に勝ちたい勤勉者は僕だけじゃない
君は常に、1位という誰よりも上の座に着いていた
他者に媚びず、俗に犯されず、直向に勉学に向き合う君は時に美しく見えた
まさか二位の僕まで烏合の衆と見られていたとは思わなかったけど…」
「…」
「君を追う者は、完全無欠が故の冷め切った瞳に畏敬の念を抱いていた
だが、君は中野先生と出逢って
その子供たちと出逢って、変わってしまった」
「厚かましいな、俺の勝手だ
先生やこいつらに押し付けるな」
「いいや、君には払ってもらうぞ!
そんな腑抜けた目をするな!
僕達を見下してきた男が!!」
「―」
武田は俺に指を指して、知らしめてきた。
見下していたくせに、勝負から逃げるなと。
勝って、勝ち続けて、負けた奴らを見下していろ。
それでこそライバルだと。上杉風太郎だと、武田は心の底から怒り震えていた。
子供に絆されて甘い顔をする人間は、もはや上杉風太郎じゃない。
「くっ…ふっ
ふふ…ふははははっ!」
風太郎は何が面白くて笑うのか。
笑い死にそうで、目元から小さな水滴が浮かんでは乾いた。
笑う風太郎の背に、小さな手がぎゅっとシャツを掴んでいた。
「あぁ…何だ」
「…」
「武田、おまえは
いや、おまえだけは、俺のことを分かってたんだな
何だ、もっと早くおまえのこと知りたかったぜ」
人を見下しておきながら優しいままだと、恩師は俺に教えてくれた。
その言葉は泣いてしまうほど嬉しかった。
されど、呪いの言葉でもあったんだ。
恩師からそう諭されれば、優しさを取り戻さないといけなかった。俺もそう望んでいた。
感謝もしていた。だがそれ以上に辛かった。
優しくなるな、戯言に踊らされるなと咎める武田の言葉は、道化から悪役に成り変わる最高の言葉だった。
だが、役の変更などもう遅い。
「…おまえの要求は呑まない
家族や周りの低評価を打開しないのなら、自力で変えるんだな」
「…」
「中野先生には大きな借りがある、こいつらにも
俺は俺のやりたいようにやる、邪魔するな」
「…ならその子に渡した本、僕からの貸しにしておくよ
君が僕を負かしたら返してくるといい
たかが家事一つ、うつつを抜かしたことを僕に詫びるんだ」
「一度も勝てたことねえだろ
口だけな輩しかいねえから、俺は1位しか取れねえんだぜ」
「…落ちぶれた君には負けない」
宣戦布告を最後に、武田は去って行った。
去年と比べて勉強時間は減った…それでも100点より上限のないテストでは負ける気がしねえ。同率1位だったらどう勝負するか。
面白くなってきたな。中学以降、芽生えなかった競争心が刺激されて頗るモチベーションが高い。
二乃の買い物が終えたらさっそく勉強に専念して――
「ひぅ…ぐすっ…う…」
「―」
「う…ぅう…
ふーたろぉ…っ!
ぐすっ…お兄、ちゃんっ…っ」
いつから掴んでいたのか。
二乃は風太郎のシャツをずっと掴んでいたのだ。
何がきっかけで泣いたのか、それすら分からなかった。
声を押し殺して、彼が振り返り、優しい声をかけてくれるまで…ずっと耐えて待っていた。
二乃は隠し切れなくなった涙を必死に拭う。それでも床にぽつぽつと水滴が落ちている。
その姿が、昔見た…風呂場で一人泣く、妹の姿と重なった。
風太郎はその日、何も言えず、泣いている子に駆け寄ってやれなかった。
「すまん、二乃
すまない…」
「ふ、フータロー…
わ、わたし…めいわくかな…?」
「二乃、そんなことはない」
「ごめんなさい、フータロー
ひぅっ…ごめんなさい…うぅ
あぁあああ、あぁああああああっ!」
泣きじゃくる子を抱きしめる。
武田との会話の、言葉の端々は聞き取っていたのだろう。
自分が迷惑になっていると言われて怖かったのだ。
慕う兄代わりの男は否定せず狂い笑う。恐怖が増すばかりだった。
忘れていない、大切に思っている。俺はおまえが大好きだ。
上杉風太郎らしくない、甘い言葉を何度も吐いた。それでも二乃は泣き止まなかった。
強く、優しい子を抱きしめる。
胸に顔を埋めても、二乃の泣き叫ぶ声はかき消せなかった。