「すみません」
「…二乃はもう小学生ですから
あの子が泣くことで、貴方を責め立てる理由にはならないでしょう」
「いえ…二乃が泣いたのは俺が――」
「貴方を叱れば、あの子が辛い思いをします
あの子は、何でもないと言っていましたよ」
「…すみません」
二乃との買い物は涙で腫れたものとなり、大切な娘を母親の下へ送り帰した後のこと。
夕刻は影が長く濃く映る。アパートの前では真っ直ぐ伸びたものと項垂れたもの、二つの影が伸びていた。
二乃は家に帰って、今頃武田が渡した本を読んでいるだろう。大人がいなければ漢字は読めないが。
貧乏人が意地を張ってると損するだけだ。武田の言葉を幾分か捻じ曲げて、二乃にとってメリットになるよう伝えた。
子供騙しはその保護者には通じない。
俺は先生に頭を下げたが、先生は認めはしなかった。
「君が娘たちを泣かせる時は、逆にこちらが迷惑をかけていることが多かったわ
…話してくれますか?」
「…ただの喧嘩です、それに二乃を巻き込んじまった」
武田との口喧嘩…もとい勝負は先生に話してもなんら問題はないのだが。
駄目だ。一部、絶対に話せないものを含んでいる。
露呈すれば恐らく…先生は俺から距離を取るかもしれない。
先生の言葉が重荷だったと悟られたら、この人は間違いなく己を責める。
それにだ、その言葉は俺の精神が貧弱であることの照明にもなってしまう。虚勢だとしても絶対に知られたくない。
話題を逸らそう。極めて善意で教え子に寄り添う恩師に絆される前に。
「理事長の家庭って厳しいんですかね」
「…武田君ですか
そうですね、所謂…上流階級と呼ばれる方々でしょうか
友人や親族も有名な企業に勤めていらっしゃる方が多いようです
武田君も将来はお母様と同じ、医者になるとお聞きしています」
「医者っすか…
あいつの勤勉さと親のコネが合わされば最強じゃねえか
ちっ 勝ち組の分際で何が不満なんだ」
「…」
「その、俺は万年テストで1位を独占してるんですけど
…あー、あいつは長らく2位で
こういうのって理事長の息子的にまずいんですかね」
「…どの業界も、数字で評価されることが多いでしょうね
優秀である事が大前提
求められるのは…他にないもの、誰よりも勝っている唯一性です」
「それが上流社会ってもんですか」
「理事長は息子の武田君に大きな期待を抱いています
親の気持ちに関係なく背景が残酷であるほど、親の目に重苦しさを感じてしまう
…子の気持ちを全て把握できる親はいないわ」
「…」
武田の担任であり、理事長の家系についても知っている先生は少し情報をくれた。話して良い程度のものを。
そういえば、俺の舐めプ上等の勝利宣言は父親からあいつに伝わったんだったな。
あの理事長が何を思って息子に話したのかは分からないが、あの結果に繋がることは想定済みだったのだろうか。
…どう考えたところで、他人の家の都合など知ったことではない。
「…」
「…上杉君?」
無言になる俺に先生が怪訝な眼差しを向ける。
二乃を泣かせてしまった。
その涙の理由を気づけなかった俺に、女の子は帰り道に教えてくれた。
「フータロー…
私がやってること、無駄なのかな…?」
「…」
「フータローに迷惑かけていいのかな…
お料理、覚えたって…お母さんの役に立てないのかな…?」
泣きながら、嗚咽を堪えながら二乃は打ち明けてくれた。
…あの子は泣き虫なんだ。
毎日えばって、三玖や男の子と喧嘩ばかりして、調子の良いことばかり言って生意気な奴でもあるが。
根っこは寂しがり屋の泣き虫。家族を守るが為に強がってしまう子だ。
…武田には、一つ誤解を解かないといけない。
「先生、一つ頼みがあります」
「…
窺いましょう」
俺は先生に一つ懇願する。
頭を垂れる俺の願いに先生は意外そうに驚くも、娘の好きなものが再開することに顔を綻ばせて祝福してくれた。
「これよりお菓子作りを再開する」
一度は取り止めた、数ヶ月振りの恒例行事が蘇った瞬間である。
土曜から続く二日目の休日。バイトを休んでまで望んだ約束の日がきた。
場所はいつもの中野家の台所前。バイト先のエプロンを腰に巻き、意気揚々に開始の宣言をする。
これまで幾度も、しつこく喧しい程にお菓子作りを待ち望んでいた二乃は俺の横で両腕を高らかに上げていた。
昨日の涙は完全に引っ込んだらしい。流石子供だ。
「やったー!! うぅ…やったわぁー!!
ずっと待ってたんだから!
またお菓子作りできるなんて、ほんと夢みたい…」」
「なお材料費諸々は先生の自腹なので、節約どころの話じゃなくなった」
「え
ちょ、ちょっとそれ…大丈夫なの?」
「まあ本人が胸を叩いて了承してたから、どうとでもなるだろう
金のことは気にせずやっていくぞ」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ
それよりも気にすべき点があるだろう!?」
大人の事情はこの際放っておく。何かあれば俺の自腹で強行すればいいだけのこと…財布が悲鳴を上げるのは間違いないが。
初心に返って、今日は簡単なチョコレートクッキーを作る予定だ。ボロいオーブンを酷使してな。
居間では母親を囲む五つ子の四人が首を長くして待っているんだ。テキパキと作っちまおう。三玖の分は別に抹茶クッキーを作る予定だ。
俺と二乃、二人揃ってやる気十分に準備を始める中、横で突っ立っているだけの武田が猛抗議してきた。
「何だ、初心者のおまえは準備できるまでちょっと待ってろ
1から全部やってもらうからな」
「ちょっと待ってなさい」
「僕も作るのかい!?」
「おまえ何しに来たんだ」
「来てから話すと言ったのは君だろう!?」
「だから言ったじゃねえか、お菓子作り
おまえには料理一つ覚える面倒臭さ――ごほん、楽しさを教えてやろうと思ってな
塩をくれた礼に万年勝者からの施しってわけだ、いいから付き合え」
「い、言ってくれるね…
だがこんなもの不毛でしかない
洋菓子なら千円もかからずに手に入るだろう」
今、中野家の台所には三人の人間が横一列に並んでいる。
俺と二乃、そして初めてこのアパートに来訪した武田だ。
先生には事前に話してある。かといって武田の顔をよく知らない五つ子は、ハイテンションの二乃を除いてだいぶ警戒していた。
居た堪れない空気に武田は即刻帰りそうな顔をしている。
ちなみに俺だったら帰っていた…こいつ案外人付き合い良いかもしれん。クラスでも人望厚いし、根は良い奴なんだろうな。
今回は特別な日だ。バイト先にて頭を下げて一部調理道具を拝借してきている。銀色のボウルに二乃はご満悦だった。
材料を並べる準備を二乃に任せ、一度武田に事情を説明する。
「俺たちは知識を得るのは得意だ
だが実際にできるかと言われたら、どうだ?」
「…現状、僕たちにとって率先して得る知識じゃない」
「そうだな、だがおまえは一つ勘違いしている」
「?」
「本を読んだだけで良い気になっていられるのはテストの五科目くらいだ
それも…大学に入ればただ教科書に目を通すだけじゃ通用しない」
「…それを、このお菓子作りで補えるとでも?」
「…」
「…」
「…
こいつはあの後、泣きながら帰ったんだ
悔しい思いってのは、おまえも散々してきたんじゃねえのか」
準備を終えて俺たちの話が終わるのを待っていた二乃は、少し肩を揺らして武田から目を逸らした。
今だって正直怖がる気持ちが残っているだろう。空元気で誤魔化している。
子供を泣かせたと知らされた武田も、二乃を一瞥し目を逸らした。先生の目も見れないだろうな。
この話題で武田を責めるのは理不尽だ。あれは俺が泣かせたんだ、語るにはナンセンスだった。
「誰しも…とは言えないんだろうが、見ていないところで努力している
自分に都合の良い物差しで人を計っていると後悔する」
「君がそれを言うのかい?」
「俺はおまえの努力を知らない、見たこともない
重ねて言うが、2位以下は同列だ」
「…」
「…俺とおまえについてはこの際置いておく
次のテストで決着がつく
だが、今は…こいつに付き合ってくれないか」
「中野先生のお子さんに、僕が何をしろと
謝罪なら――」
「やれば分かる
ひとまず作ろうぜ、おまえ真ん中に来い」
子供のお菓子作りに不穏分子が材料として紛れ込みそうだが、続行する。
手を洗った武田が俺と二乃の間に立ち、まな板の上の板チョコを包丁で刻む。
包丁を使って手早く刻んでもらうつもりだったのだが…
「指切り落として救急車呼ばれたいのか
包丁握ったことないのか、おまえ」
「し、失礼だな! 母の手伝いで何度か」
「お兄さん、猫の手じゃないと危ないよ」
「む…む…」
「…
お兄さん、こうやるの、見ててね?」
硬い板チョコを細かく刻もうとする包丁の真横に指を置く武田にストップをかける。
家事能力の低さが暴かれて武田は恨めしそうに俺を睨んでいたが、子供に注意されて意気消沈していった。
そんな不甲斐ない高校生男子に、二乃は持ち前のお人よしでお節介を焼いてくれるようだ。
武田の前で左手を握って、分かりやすく教えようとしている。
「あ、でもチョコならこうして…大きいほうの刃で切ったほうが楽かも」
「た、確かにそうだね、これでやってみるよ」
最初は猫の手を使えと言った二乃も、チョコを削り落とすのに向いてないと分かって方向転換する。
教えられるがまま武田は包丁の峰の部分に手を置いて、潰すようにしてチョコを切っていく。
…小学生以下だぞ、武田。本人は嫌々やりつつ生真面目に取り組んでいるので何も言わないでおく。
お菓子作りはまだまだ続いていく。
「次に溶かしたバターに砂糖を入れる」
「砂糖だね、そこにあるのを使っていいのかい?」
「待った、こっちの砂糖を使ってくれ」
「グラニュー糖…ああ、なるほど
焼き菓子ならこっちか」
「ねえねえフータロー、前から気になってたけど
何で普通のお砂糖よりもそっちのほうがいいの?」
「それは――」
「それはね、上白糖は水に溶けやすく焦げやすい性質があるからだよ
焼き菓子にはあまり向いてないのさ」
「へー」
「へー…」
「へーです」
「…ちょっと、三玖と五月まで何よ
邪魔しないで、あっち行ってなさいよっ」
「私もフータローと遊びたい」
「二乃だけ楽しそうでずるいです」
「…時に上杉君
顔の区別というか…僕、この子の名前が分からなくて…」
「今更かよ、二乃だ二乃、中野二乃
こっちが三玖で、そのアホ毛が五月」
「一気に言われても覚えられそうにないよ…凄いな君は」
ただ待つだけの身だと文句を言うのが五つ子だ。次第に来客がいてもお構いなしに顔を出してくる。
「後は生地をシートの上に並べて焼くだけだ
刻んだチョコを乗っけてな」
「やっとここまで来たね…」
「四葉もしたいです!」
「お姉ちゃんも手伝ってあげる」
「あんた達は来なくていいから!
今大事なところだから邪魔しないの!」
「い、いいんじゃないかな
大勢でやったほうが楽しめるだろうし」
「甘やかさなくていいぞ、つーか四葉がやると生地が潰れて焦げやすく――
うおっ!? おまえら何して――」
「フータロー、抹茶の作って」
「後並べるだけなら、二乃だけで大丈夫でしょ?
フータロー君は私たちと遊ぼうよ」
「二乃が駄目って言ったから、上杉さん返してもらおー!」
「上杉君、一人何個ですか!?」
「おまえら今は大人しく…エプロンを掴むな…!」
「い、いいのかい?
彼、連れて行かれちゃったんだけど」
「今の内にやっちゃお、五月なら焼く前に食べかねないわ」
主に俺が四苦八苦することが多かったが、無事にお菓子作りを成し遂げた。
ちなみに三玖ご所望の抹茶クッキーは俺が追加で作っておいた。自分だけのお菓子を手にして嬉しそうに喜んでいた。
数ヶ月のブランクはあれど1年近くキャリアを積んだ二乃と知識は豊富だった武田の手により、良い出来栄えのクッキーが焼けた。
…まあ、そももだ。料理人の二乃よりもオーブンの前を占拠していた五月のほうが、焼き具合を計る目が長けていたのは言うまでもない。あいつが焦がすことを許さなかったのだ。
焼き上がったクッキーは皿に盛り、少し熱い内に五つ子がそれぞれ手に掴み始める。
「いただきます」
「…」
「…ああ、どうぞ召し上がれ」
俺と武田は食卓に加わらず、輪になってちゃぶ台の前に座る子供たちを眺めていた。
五つ子の母親は時折家事をしながら、頬を綻ばせる子供たちを見つめていた。後で先生にもクッキーを渡しておく。
「おいしいっ チョコがザクザクで今までで一番美味しいかも
やるじゃん二乃」
「当然よ、私は日々成長してるのよ
三玖、あんたもチョコ食べてみなさい」
「いい、フータローの抹茶のクッキーあるから」
「三玖、そっちも食べたいです、一個下さいっ」
「え、だめ――あーっ! だ、駄目って言ったのにっ!
ふ、ふーたろー…! 五月がぁっ! 私の食べた…っ!」
「ふぇっ!? ご、ごめんなさいっ
私の分あげるから、お兄ちゃん呼ばないでっ!」
「三玖だけ作ってもらうのずるいよっ
四葉もオレンジのクッキー食べてみたい」
美味しいって感想を述べてくれる姿は微笑ましいものだが…大人しく食えないのかあいつら。
お菓子作り第一回目と同じく、五月につまみ食いされて泣きかけた三玖がこちらに来ようとしている。その横では怒られる事態を防ごうと五月が必死に謝り倒している。
賑やかな中野家の団欒を姦しいと、疎ましく思うだろうか。
隣に立つ武田は少なくとも違ったようだ。ほんの少し目を細めていた。
「…そういえば」
「何だ」
「母はバレンタインでは毎年、父に手作りのチョコを用意していた
家にはシェフがいるのに、祝い事には母が料理をしていた」
「シェフいんのかよ、マジで金あるんだな」
「…僕にとって、料理はお金で解決するものさ
わざわざ1から腕を磨いて作るよりかは…
そのような時間は不毛なのさ」
「…母親の料理でも、か」
「…」
「俺は母親を早く亡くしているから
たとえ不味くても、もう一度食いてえもんだ」
「…
君は作れば分かると言った
勉学よりも尊重したいものがあることは大体察しはついた
…君は僕よりも上に立っているが、そもそも育ってきた環境と立場は違う」
理解はしても同調はしない。武田は無駄な時間を過ごしたと、疲れに似た溜め息を吐いていた。
武田は中野先生に頭を下げ、早々にこの空間から出て行った。
驚く二乃たちには後で戻ることを伝えて、俺は武田を追った。
お菓子作りは3時頃から始めた。もう夕方となり、オレンジ色の景色の中から武田を探した。
振り返った奴は、俺の姿を視認すると肩を竦めて足を止めた。
「何の用だい、次会う時は僕と君はライバル同士
来る決闘の日まで馴れ合いは不要だよ」
「…確かに、俺とおまえとでは住む環境も価値観も違う
おまえの家族事情なんて知らねえ、俺たち貧乏人とは雲泥の差だ
だが俺の家族は…ずっと味方でいてくれた、だから妬みはしなかった
だからこそ俺は、家族が幸せになることを求めて勉強に費やしてきた」
「ご立派な理由だね
僕もそうさ、親の期待を背負って勉強に尽くしてきた」
「その親に見限られたら、勉強してきた意味はなくなるのか」
「…」
「俺にはおまえの親父さんのことは分からねえ
それでも一つ言えるのは…」
…次の言葉が続かない。
親子関係など人それぞれだ。自分の価値観が当てはまると思う程、楽観視はしていない。
…テストで何位だったとか。
学年で、全国で一番だとか。
友達よりも勉強が優先とか。
俺の親父は、そんな話を聞く度に…褒めてはくれど、寂しく笑っていた。
本音で語り合ったことは、俺は一度もない。
あの時見た、小さな子供と楽しそうに笑う姿は…もう見れていない。
「武田、おまえは真面目で良い奴だ
二乃の菓子作りに付き合ってくれたし、初めてにしては飲み込みも早かった
たったそれだけかもしれない、だが俺も同じなんだ、平凡でしかない
…おまえが俺を追い越せなかったことに疑問を感じる」
「…何が言いたいんだ
僕が手を抜いて君に挑んでいたと――」
「勉強なんて言葉で逃げ道を作ると、言いたいことが言えなくなる
おまえ、何の為にそんなに頑張ってるんだ?」
「…」
「俺がやっていることは、誰だってできることだ
おまえにできないレベルじゃねえんだ
おまえが本気で親の期待に応えたいが為に努力していたのなら、結果は違っていたんじゃないか」
自分で何を問い質しているのか…馬鹿らしくて頭痛がし始めてきた。
俺が過剰に武田を買い被っているだけに過ぎないかもしれない。
そもそも他人相手に深入りしすぎている。親子関係が崩壊しようが勝手にしろと見なきゃいいだけ
武田は何も答えなかった。
俺の勘違いだったと、無音が答えてくれた。
無音は長くは続かず、背後から足音が迫ってきた。
「フータローっ」
「二乃…?」
駆け足と共に呼ばれた声に振り向くと、二乃がこちらに走ってきた。
驚く俺と武田の間で止まると、何やら手にはラッピングされ小さな袋を持っていた。
その正体を本人に問おうにも二乃は息が乱れてそれどころじゃない。俺と武田は二乃の回復をじっと待っていた。
「こ、これ…ママがお兄さんにって…」
「…クッキーか
まあ…せっかく作ったんだし持っていけよ、武田」
「…はは
気持ちはありがたいけれど、こんな不恰好なクッキーを僕が焼いたと知ったら…軽く幻滅されるよ」
二乃が手渡した袋を、一度は受け取った武田だったが…その中身を見て何かを諦めた。
か、金持ちは貧乏人のクッキーなどお口に合わないってか。腹立たしいことこの上ない。
しかし、まだ小学生の二乃には幻滅というワードは理解できなかったようで、純粋に渋られていることに戸惑っていた。
「い、いらないの…?
お兄さんが食べなくても、お母さんとかお父さんとか」
「…いや、母と父が相手だと尚更…ね?」
「た、食べてくれないの?
家族が作った料理、食べるの嫌がるの?」
「…」
「…」
「…正直、分からないんだ
作ったことすらないからね」
「そうなの?
で、でもね…私のママはね
焦げてたり、美味しくなくてもね
おいしいって、作ってくれてありがとうねって…言ってくれるのよ?」
「…」
「…お母さん、怖い人なの?」
「いいや、優しいよ
僕にとって…誇りに思う母親だよ」
二乃の問いを返した武田は、自分が作ったクッキーを握り、力んだ腕を下ろした。
「後生だ、頼む上杉君」
「…
付き合わせた俺が悪い」
不要な物を子供につき返すことに心が痛んだのか。武田は二乃の純朴さに完敗したんだ。
武田から手作りのクッキーを受け取る。
突発で作った、目的のない品だった。
武田の心情は窺い知れない。貧乏人ならクッキー一つに大喜びだが、そうでなければ拙い味に不平不満を吐くだろうか。
捨ててしまったほうが気楽だったのだろう。やはり金持ちとは反りが合わなかった。
「…何の為か
君から言わせれば、僕は本気でなかったと言いたいのか」
武田は乾いた笑みを一つ零して、子供相手に敗北したついでに口を開いた。
「上杉君、僕はね…
宇宙飛行士になりたいんだ」
「…」
「…」
「ん? は?」
急に何だ。何だその唐突なカミングアウトは。理解が追いつくまで間ができちまった。
訝かしむ俺の視線に武田はいつぞやの爽やかな空気でフィルターを張り始めた。熱弁はしてくれるらしい。
空気が変わって…どう見ても変人のそれに変貌したことに二乃は急いで俺の背後に隠れた。あの一件から隠れ蓑を覚えてしまったようだ。
「地面も空も空気さえもない、あの空間に憧れているんだ
全てがない…だからこそ全てがある!」
「そりゃあ…そんな大層な目標を立てているのなら親父さんの目が厳しいのは当然だな」
「父には話していない」
「…何?」
合点がいったと思いきや的外れ。別の勘が当たっていたらしい。
勉強、テストと親子で話題にしても、子供は腹の中では別のことを考えていたわけだ。
「父は僕が母と同じ医者を目指していると思っている
僕は教職の道、その理事の職に就く父も尊敬している
だけど僕は、ずっと縛られてきた人生で唯一見つけた道を目指したい」
「…その医者と教職の道以上に…いや、そんなレベルの話じゃないだろ」
「無論それは厳しい道
宇宙に行けるのはこの地球で一握りの選ばれた者のみ
世界中の人間がライバルだ
だから僕はこんな小さな国の
小さな学校で、負けるわけにはいかない」
小さな国の小さな学校で一位を取って、ふんぞり返っている俺など踏み台でしかないと武田は語る。
高望みだと鼻で笑っても良かったかもしれない。武田はまだ一度も俺より勝ったことはない。
そんな気は失せた。彼は先の爽やかさで紛らわすものじゃなく、最後にはストレートに青臭い言葉で言い表した。
「夢があるから――」
「…」
「実力で君を倒す
常に勝ち続ける君に勝つことで僕は夢への一歩を歩み出すんだ!」
だから全力で勝負しろ。武田は俺に挑戦状を叩きつける。
これまで、俺が負かしてきた人間は揃って不満を口にするだけで、軽蔑と共に淡々と諦めていった。
中には俺を負かそうと机にかじりついて挑んでいた者がいたかもしれない。
武田は、敗者でありながら夢を語る。
道化だと思われようと。より過酷な世界を目指す彼は怯まず突き進むのだろう。
「だけど、一つ撤回するよ
中野、二乃ちゃん
…で合ってるかな」
「は、はい…」
「…あの時は怖がらせてごめんね
クッキー、教えてくれてありがとう」
「…」
「お詫びを込めて、どうかあの本は受け取ってほしい」
俺の背に隠れて、顔だけ見せる二乃に…武田は頭を下げた。
家事を覚える事が不要だと咎めたことで、それを求める二乃を罪悪感から泣かせてしまった。
そんな奴がクッキーを焼く術を、到底受験には邪魔でしかない知識を教えてくれたことに…武田は礼を述べた。
次は敵同士だ。そう言い残して武田は背を向けて去って行った。
彼を見送る二乃は、もう一度風太郎のシャツを掴んで仰ぎ見る。
「…ねえ、フータロー」
「何だ」
「…あの人、受け取ってくれなかった…
やっぱり、変なのかな…私」
「…人それぞれだ
おまえは、母親が幸せなら…誰が何と言おうと我侭を通せ
少なくとも、あいつは周りが何と言おうと夢を叶えるつもりだぞ」
「…我侭言っても、駄目だったじゃん…」
二乃にとって家族の常識が、自分にとっての価値観が全て正しいわけではないと気づく、良いきっかけになったのかもしれない。
言葉で語るだけでは伝わりきれないことが多すぎる。時には家族が相手でも食い違いに悩む。
だからこそ、気持ちを込めた別の何かで伝えようとする。
二乃はお菓子作りが好きだ。それは家族が笑ってくれる、母親が褒めてくれるからだ。
…二乃が自分自身が変なんじゃないか。そう懐疑的な戸惑いを抱いた。
少なくとも俺は…その気持ちは武田にも通じると思っている。
「…まだ当てはある」
「?」
二乃には一つ大きな借りがある。泣かせてしまった侘びはまだ済んでいない。
「君から来るとは珍しいな
今取り込み中だ、急ぎで頼むよ」
「理事長から聞いたよ上杉君
職員で対応はするが修学旅行中、中野先生の不在の間よろしく頼むよ」
「お忙しいところ失礼します
手短に済むので」
後日、昼休み。俺は理事長室を訪れていた。中には理事長と校長の二人が働いていた。
学校のトップ二人は多忙なようで、一生徒と対談できる時間は極僅かのようだ。
返ってこちらも話を詰めやすくて好都合だった。
かれこれ保存環境に気を配っていた品を理事長の机に置く。
「…何だね、これは」
「武田の御曹司が焼いたクッキーです」
「祐輔が?
…うちのカリキュラムに家庭科はあったか?」
「いいえ」
綺麗にラッピングされたチョコレートのクッキーを、中年の親父二人が物珍しそうに見る光景はやや滑稽に見える。
自分の息子がクッキーを焼いたことに信じられないのか、手に取って観察し始めた。
…素人が作ったものだ。プロが作る品でも、工場で作る市販品の物にも劣る見栄えに顔を顰めていた。
まあ、ここまで来たら言うことは決まってる。
「いります?」
「…いや、君が持っていたのなら君が食べたらどうだい」
「俺は後で飽きる程食いました」
「よく分からないが、本当にこれを祐輔が作ったのか?
息子は家でも時間があれば勉強をするほど生真面目な性分をしているんだ
女のようにクッキーを焼くなどと」
一口食って貰えれば二乃に良い土産話をでっち上げられると思ったのに。警戒心の強い親父だな。
頑固として息子の手作りだと認める気はないようで、そもそも食う気もないようで。
息子を見誤るなとなぜか指摘を食らったので、仕方なくクッキーを校長へ流す。
「…あの、校長先生
いつも死にそうな顔して働く先生方にお裾分けです」
「…これは何かの意趣返しかい? 上杉君
君、本当は中野先生の手伝い断りたかったとか」
「全くの善意です」
「そういうことなら…まあ、ありがたく
ちなみにこれ、チョコかい?」
「はい」
「…まあ、こうなるでしょうよ
そりゃあ息子さんの物じゃないと疑うわけだ」
何? 校長が一人ごちる呟きを聞き取れなかった。
校長は俺が処分を頼んだクッキーを持って、理事長室から退室して行った。
目的は未遂に終わり、俺もとっとと退散しようかとドアへ向かったが…足を止めた。
…お節介が過ぎると自覚している。尚更性質が悪い。
「理事長、武田の成績をご存知ですか」
「何を急に、当然把握しているさ」
「あいつ、数学と理科、英語は俺と同じ満点ですよ」
「ああ…だが、それ以外の国語と社会が足を引っ張っている
暗記ばかりだと言うのに、その2科目で点数を落として2位から這い上がれていない」
「…これは俺の勘です
武田は…数学と理科、英語に関しては俺よりも勝っているかもしれません」
「…どういう意味だ」
「あいつの夢ですから」
「…意味が分からないな」
今朝、中野先生に頭を下げて過去に掲示した模試の成績を見せてもらったんだ。
学年順位は各学科別の物もあり、そこにはオール1位の俺と並ぶ武田の名があった。
それが数学と理科と英語。100点を取る俺と同率一位ということは…あいつも100点ということだ。
逆に…例えば国語では漢文がやや苦手な傾向が窺えた。
過去の国語のテストで捻った漢文の問題があったが、そのテストでは点数をだいぶ落としていた。
国語と社会が苦手。一方で数学と理科、英語は完璧だ。
その意味は、昨日のあいつの夢を聞けば…これがパズルのピースだったことに気づく。
「理事長、あいつは俺には勝てませんよ
俺は全て100点を取り、卒業するまで1位を取り続けてみせる」
「…」
「だが…あいつは夢を叶える
例え挫折して惨めに敗退しようと…あんた達親を蔑ろにはしない」
「…君は息子の何を知っているんだ」
「聞けばすぐに分かりますよ
だが、勉強と言っても一括りに語れるものではない
試験なんざ所詮、途中経過をを計る為の指標でしかない
目的はその先にある、それを話し合うべきでは」
「何を言うかと思えば
祐輔は妻と同じ医者になると子供の頃から何度も言っていたよ」
「…何度も、それだけですか」
「くどいな
そうだ、何度も――
…」
「…」
言葉を紡げなかった理事長は、何かを思い返して口を閉ざした。
きっかけなど、いつ生まれるか分からない。
俺の親父も明確には知らないだろう。
中野零奈にどう憧れ、変わり始めたのか。染めた髪を黒く戻したのが転機でも、それより前のことは。
昔の言葉で決めつけるのは親の怠慢なのかもしれない。恩師は子の全てを把握する事はできないと咎めていた。
「もしかすると、医者を目指す上での知識も賄っているのかもしれない
あいつ、食材に関する知識も所々あったし」
「何?」
「先程のクッキーは武田が作ったものです
…この前来た中野先生の娘が、彼に言ったんです
家族に渡しても、受け取ってくれないのかと」
「…」
「あいつは手放した
拙い物を見せて幻滅させてはいけないと、貴方が見る虚像を守った
数字だけ見て、自分の子供を話せるのか
あいつが何を考え、何に悩んでいるのか…知ろうとは思わないのですか」
親に甘え育てられているガキが、父親の在り方を問うなどおこがましい。
だが、もしもこの父親が息子を計る物差しが別の物へ向いていたら。
あいつは、あんな不出来なクッキーでも冗談交じりに笑って家族に渡せていただろう。
それができないことが、悪だとは言わない。
「…あれは祐輔が作ったのか」
「ええ、不本意ではあったでしょうけれど
俺が作らせました」
「…
君にそこまで言われる筋合いはない
ないが…」
「…」
それでも、あんたの子供が見せたあの背中は、随分と寂しそうに見えましたよ。
ルールを破り、大人の前で泣いていた子供に飴玉をあげた男は、額に向けた手を下ろした。
溜め息を一つ吐いて、俺へ手の平を向けた。
「…それはどこにある
さっきあっただろう」
「…え?」
好き勝手言っておいて激怒される覚悟はあったが、クッキーの件を蒸し返されるとは思わなかった。
さっきいらないって言ったじゃん、この人。
「いや、いらないって言うから校長に――」
「いらないとは言っていないだろう」
「口にしてないだけでそんな態度でしたけど!?
そういうところじゃないのか、あんた!!」
「余計なお世話だ!
ま、まさか、校長に渡したのか?」
「ええ…まあ、欲しいのならとっとと取りに行きますが」
「校長に、渡したのか?」
「え、ええ…教職員にあげてくださいって」
「何をしてくれたんだ君は!?」
結局俺、怒られるんですね。しかし納得のいかない怒られ方で困惑してしまう。
そうまでして取り返したいのなら校長をとっ捕まえて奪還すればいい。
そう思い部屋を出ようとしたら、理事長が走って先に出て行った。
…あの図体で本気で走ってるな、あの人。何をそんなに慌ててるんだ。急ぎ廊下を走る教員を追った。
俺は露程知らなかった情報だが、後に中野先生が教えてくれた。
うちの学校の職員、疲れてるのか…食い物系の土産は即効で消えるらしい。五月顔負けの物欲だった。
「クッキーは!?」
「り、理事長…?
どうしたんですか、そんな慌てて」
「校長、クッキーは!」
「は、はぁ?
それでしたら、そこの来賓用のテーブルの上に」
辿り着いた職員室では理事長の強襲により軽く騒ぎになっていた。そりゃあ上司がキレていたら宥めるしかない。
理事長の剣幕に校長が即座に目当ての物へ指を指す。
テーブルの上には確かに武田のクッキーが入った袋がある。
だが、それを食おうとするうちの学年の学年主任が…間違いなくあのハゲネズミは疲れている。
目で捉えた理事長の動きは俊敏だった。学年主任に食われる前に袋を奪い、大口開けて中身を全て口に放り込んだ。
「――ッ――ふぐぅッ…!!」
ふぅ…ふぅうっ…!!」
…間違いなく、俺では一口で収まらない量のクッキーだった。
それを一気に食せば呼吸困難、最悪嘔吐するぞ。理事長は口を抑えてバリボリと音を立てて懸命に砕いていた。
顔が青い理事長に職員室にいる教員の殆どが集合する。
「…上杉君、君までどうしてここに」
「な、成り行きです…」
教師だらけの空間だと居心地が悪く、瞬時に見つけた中野先生の隣に逃げてしまった。
多くの教師が見守る中、隣で死にかけている理事長に学年主任が恐る恐る質問を投げかける。
「り、理事長…あんた
確か…チョコが大の苦手だったんじゃ…」
「…え"」
あれ、確か理事長って甘いものが好きなんじゃ…武田からそんな話一切聞いてないんだが。
息子が自分が嫌いな食い物を作るはずがない、そう思って最初認めなかったのだろうか。今更聞けるわけがなかった。
しかし今目にしているのは。嫌いなものでも息子が自分の為に作ったのなら、黙って食う男の奮闘する姿だった。
「…ッ!」
バリボリと、息苦しさだけではない滝汗を流しながら俺のほうを向いて…理事長は親指を立ててサムズアップしてみせた。
あの人、ヤケクソになってるな。
だが、カッコいいと思ったのは俺だけではないだろう。
昨日見たあのクッキーで分かっただろう。隣で見つめる、同じ親である先生はふっと笑っていた。
「お、お疲れ様です…」
その不恰好ながらも、父親としてやりきった理事長に。
俺は顔を引きつらせて、並ぶ男性教諭たちと同じく親指を見せて彼を称えるのだった。
「父がチョコ嫌い? は、初耳だ…」
「おまえな…母親がバレンタインでチョコ送ってるって言ってたから不意を突かれたぞ」
「いや待ってくれないか
なぜ君が僕の父にあのクッキーを渡したんだ…」
「貧乏人に食べ物を捨てる選択肢はない」
「…やれやれ、君という人間は
昨日のはそういうことだったのか
…父は君に礼を言っていたよ」
翌日、放課後に俺は武田と屋上で顔を合わせていた。
また何か隠し事をしているだろう。何も根拠もなく武田にいちゃもんを付けられて、渋々屋上で打ち明けたのだ。
あの理事長が死ぬ思いでクッキーを食った日の夜に、武田は父親と少し話をしたらしい。
まだ武田は宇宙飛行士の夢を話せていない。
それでも義務的なものとは違った、久方ぶりの父との会話だったと少ない言葉で教えてくれた。
「君が何か要らぬことをしているのではないかと危惧していたら、正解だったね
…君に渡しておくよ」
「…何だこれ、随分と大荷物だな」
「不要物の持込は厳禁
生徒指導の目から逃れるのに苦労したよ」
「…」
「中野二乃ちゃんに渡してあげてほしい
あれ、借り物だったんだろう?」
「…調理道具か
新品だろ、これ」
屋上に上がる前から視線を集めていた袋。
投げ渡され、中身を見ると…銀色に輝くボウルやホイッパー、バットなどの一式が入っていた。
何のつもりかと問うのも野暮か、これは。
貧乏人には随分と洒落た品だ。
シンデレラが履くガラスの靴のように、二乃には煌びやかに映るだろう。
「…馬鹿みたいに喜ぶぜ、あいつ」
「中野先生には僕から伝えておくから」
「…おまえが二乃に渡せよ
あいつ、おまえのこと気にかけていたんだ」
「やめておく、僕は多忙な身なんだ
君のように余裕があるわけじゃないんだ、ね?
僕と君がライバル同士であることに変わりはない
あの子の前でも僕達は気高く正々堂々戦うのさ」
「そうかよ」
舐めプ宣言は根に持っているようだな。何にせよ次の試験が楽しみだ。
ただ、こんな物を受け取って二乃が黙っているとは思えない。お礼がしたいから連れて来いとうるさくなりそうだ。
「…武田、おまえ修学旅行の班は?」
「ん? そういえばまだ決めていないね
誰でも構わないから、最後の班に加わろうかと思っていたんだ」
「こっち一人枠空いてるからどうだ
竹林と松井、前田がいるんだが」
「…君から誘われるとは思いもしなかったよ
しかし良いのかい、僕達はライバル同士」
「最近、前田と松井が勉強教えろってうるせーんだよ
俺の時間削られるからおまえも手伝え、フェアプレーの精神だ」
「なるほど、それなら致し方ない
いいだろう、僕達学年1位と2位の力が合わされば、あの前田君を学年3位に」
「そこまで求めてない」
気まぐれの誘いに、案外とすんなり承諾を得ることができた。
聞きたいことも聞けた、渡すものも渡した。用が済んだ武田は出口のドアへ向かっていった。
…こいつには言っておいたほうがいいかもしれない。
「今年で終わる」
「…何がだい?」
人を見下してきた人間が、いつまでも密のように甘い思いをさせてくれる子供に溺れているわけにはいかない。
「大学に受かれば俺は上京する」
「…」
「恐らくそれでもう、あの五つ子とは疎遠になる」
「…そうか、それは残念だね」
受験生が勉強するのは受験の為。受かれば当然、大学へ通うことになる。
高校に入学する前から決めていたことだ。大学に受かれば引っ越して、都会で暮らす。
卒業すれば、中野先生の教え子でもなくなる。
父親代わりになるという恩師との約束は果たす。それでも、距離が開いてしまうのは避けられない。
知ればどう思うだろうか。また泣かれてしまうのだろうか。
まだまだ心配が絶えない五つ子には打ち明けられそうになく。来るその日まで、小さな幸福が続いてくれることを祈るばかり。
思い思いの修学旅行が終わり、三日間はあっという間に過ぎ去った。
行事が終わればいつもの日常。勉強に費やす日々が再開されると思っていた。
「なぜですか、中野先生!
もう先生しか頼れる人がいないというのに!」
昼休み。担任による4限目の授業を終えた後、事件は起きた。
生徒からの人望の厚い教師が生徒ともめている。
その大声にクラス内だけでなく隣のクラスの連中まで廊下から顔を覗かせていた。
「江場さん、その件は各先生方が交代で顧問を務めることで話がついています」
「それだけでは不十分だと、事前にお伝えしていましたよね
陸上の知識のない教師がいても邪魔なだけです!
マネージャーまで不在の今、大会が近いのに部員が部活に集中できないでいるんですよ
散々言ってきましたよね」
担任の中野先生に牙を向くのは、女子陸上部の部長の江場という女だった。
部活で外を走り込んでいた影響なのか、彼女の肌は浅黒く、よくジャージで授業を受けている生徒だった。
どうやら部活絡みで担任と言い争いになっている。
風太郎はそんな波乱の状況になりつつある光景を見て思考する。
一方で、止めようか迷っている隣の席の転校生が俺に助言を求めてきた。
止めたい気持ちは分かるが…こんな時に武田がいないのが面倒臭い。
「風太郎、江場さんの部活、何があったのか知ってる?」
「女子陸上部の顧問は忌引きで数週間休みを取っている、下手したら辞めるかもって話」
「そうなんだ…でもそれなら、学校側としては顧問の代理を付けることしかできないよね」
「決定はしていないが、それまでローテーションで引き受けているようだな
だが、2年のマネージャーが最近転校したらしい
その補填ができていない状況で近々引退前の大会が迫っている」
「…マネージャーの代わりは?」
「何人かが引き受けたそうだが、ハードで逃げた
唯一の男手の顧問が欠けているからな」
「ま、まあマネージャー大変だもんね…」
「白羽の矢が立っているのは部活の顧問を担っていない中野先生だ」
竹林は八方塞な状況に溜め息をつく。
2年はともかく、3年がマネージャーを引き受けるのは友人関係がなければ気狂いでしかない。
あの陸上部部長が中野先生に苛立っているのはおおよそ検討がつく。あいつは先生に代理を頼んでいたのだろう。
だが中野先生はシングルマザーで大切な娘がいる。部活動の顧問や長期的に縛られる業務は遠慮している。
その分他の業務に手を割いて貢献しているから他の教師は不平不満を口にしないのだろう。そこは先生の力量の凄さを感じるものがある。
一方で江場は怠慢だと罵っている。その言い分には多くの生徒が怪訝な顔をして非難していた。
その外野の空気に屈することなく、江場は教師を睨みつける。
「熱意のある生徒が部活に打ち込んでいるのに、誰も手を差し伸べようとしない
それが教師ですか、先生
困っている人間を見てみぬ振りだなんて」
「…」
打開策はないか、先生は江場の言葉を受け止めながらも首を縦には振らなかった。
娘を守る為だ、あの母親が折れるわけがない。
以前、理事長が見せた告知の紙を思い出す。
手伝えと言われてしまっては腹を括って挑むしかない。
席を立ち、誰も介入できないでいる二人の間に入る。
恩師を背に、江場を見やる。当然、こいつは俺の介入に心底敵意を向けて睨んでいた。
「正当性を唱えるのなら、正式に部として申請を出したらどうだ
学校という組織で下した判断に、教師個人を追い詰めて被害者面するなよ」
「前から何度も申し出たんだよ
全部説明する気ないから、部外者は黙っててくれる?」
「おいおい、学級長に向かって部外者か
ここまで騒ぎを広めておいて、迷惑だと分からないのか」
「…そこ退いて」
「退かねえ」
真っ当な主張をするには弱いと分かるや否やゴリ押ししてくるあたり、八つ当たりだと自覚はしているようだ。非常に面倒臭い。
背後の先生は何も語らない。子供がいるから、というまともな理由でも…教師としては情けない理由にあたるかもしれない。
「上杉君、この件は教師が交代で顧問の代役を務めることで対応致します
江場さんの不安も以前から窺っております
引退最後の大会が迫っていることも」
「分かっていながら、なぜこうも対応がずさんなのですか」
「結局はあれだろ、おまえらが部活に集中できるようにサポートしろって話だろ
日に日に代わったり、マネの不足まで補えてねえから
専属になってやれって無茶言いやがって」
怠慢は教職員側だけで済まされるとは思えないんだが、今の怒り心頭の部長に言っても焼け石に水だ。
兼ねてより考えていた。結局誰も引き受けないのなら諦めるしかない。
「おい部長、中野先生を顧問にするのは諦めろ」
「君が指図する権利はないよね」
「権利は後で貰う」
「…何って言った? 後で貰う?」
「大会までの間、俺がマネージャーを引き受ける」
「…え」
疑問の声は複数重なった。
この際誰の声かは大した問題じゃない。俺自身、滅茶苦茶言っている自負はある。
受験があるってのに。気が狂っていると言われようと否定できそうにない
この夏を。夏休みを面倒事で埋めつくそうなどと…悪夢の始まりでしかない。