高校と中学とでは放課後の過ごし方が大きく変化する。
部活に属する者は設備や活動範囲が広まり、夢を後押しされることだろう。
帰宅部も同じく。友人知人と戯れれば、人生の分岐点とも言える大学受験に時間を費やす。
上杉風太郎は娯楽に飲まれず、恋愛に溺れず、友人に流されず、勉強に尽力してきた。
一方でもう一つ。高校と中学で大きく変わる物がある。
高校生は中学生と違い、労働の資格を得ることができる。アルバイトができるのだ。
風太郎はかねがね、勉強を怠り陰口ばかり口にする生徒を嫌悪していた。何も持たない人間にはとことん冷たかった。
問題児な彼にも例外がある。何かに毅然と励む者…部活やアルバイトで苦労している者には一定の賛辞を向けていた。
そんな価値観を持つ者にとって、タダ程高い物はない。受け取った品の重みに頭が下がる思いだった。
「いいのか、奢りなんて」
「修学旅行の礼だ、代金はもうレジに入れちまった」
「なんだ、随分と気前が良い
もしかして、もうキスまでいったのか」
「キ――あちぃーーーーー!!!」
「自らの手を具にするのか、前衛的だな」
「はぁ…はぁ…
はぁ!? おま…はぁ!?」
「キス一つで取り乱しすぎだろ…
おまえらの関係がどこまで行ったかって、竹林がしつこくてな」
「し、してねえよ!
バイト中にそんな質問すんじゃねえ!!」
客の脈絡のない質問に、店員は熱した鉄板を怒り任せに叩こうとした。油が跳ねる鉄板の熱さに悲鳴が上がるのは当然。
住宅地にひっそり佇むたこ焼き屋にて、風太郎はクラスメイトの前田と放課後を過ごしていた。
前田はたこ焼き屋でバイトをしている身。無料でたこ焼きを頂いてしまった。
修学旅行の礼とは、かねてより前田が好意を抱いている相手、松井との間を受け持ったことを指している。
袋にはたこ焼きが4つも段になっていた。大盤振る舞いである。
これほどの量、俺一人が完食できるわけがない。
なので、ずっと下から突き刺さっている視線の元に袋を手渡してやった。
「たこ焼きだ! わーい! お店のたこ焼き初めてです!」
「お兄さん、ありがとね
この前もだっこして助けてくれて、ありがと!」
「ねえねえ店員さん、美味しいたこ焼きの作り方教えてくれない?
コツとかあるでしょ? プロの技教えてっ」
「おかか、いっぱい…
トッピング、豪華で凄い」
「食べたいです! ねえ上杉君、一人何個ですか!?」
「…騒がしくて悪いな」
「ここまで喜ばれるとは思わなかったわ
テーブルねえんだ、俺の休憩用の椅子使ってくれ」
スケールのデカいたこ焼きに五つ子は大喜びだ。一花は以前、高校教師から逃亡した際に負ぶってくれた礼を述べていた。
律儀な子供の言葉に前田は照れくさそうにして、小さな椅子を店の横に置いてくれた。
たこ焼きを椅子の上に置いて、学校帰りで小腹が空いた小学生は輪になってしゃがんだ。邪魔なランドセルを置くことも忘れて夢中になっている。
「上杉君! 一人何個ですか!?」
「食い物が絡んだ途端うるせえなおまえ
小学生なら数えてみろよ、五月」
「ふぇ…お、教えてくれてもいいじゃないですか」
「ほら、計算計算
お母さんなら余裕だぞ」
「うぅ…えっと…えっと
12個入りで…4つもあって…五人で食べるから…えっと…
た、足し算…? でも…あれ?
い、一花ぁ…」
「わ、私? え、えっとね…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…ふ、フータロー君…わ、わかんない…」
「…そういえば割り算はまだだったか」
「子供虐めんなコラ」
一人9個は食える、と前田が教えると五つ子は爪楊枝をたこ焼きに刺し始めた。子供が9個も食えねえだろ…
熱々のたこ焼きを堪能して、小さい身なりで仲睦まじくしている姿は通行人に苦笑を誘っていた。
俺と前田は子供たちを見守りつつ、教室内で普段交えない雑談をする。
「陸上部のマネ、引き受けたんだってな…しかも女子の」
「不本意ながらな」
「その上あの江場だろ、部長は…面倒くせぇ女って聞いてるぞ」
「知ってる」
「あいつが中野先生にうざ絡みしてたのは噂程度には聞いてたけどよ…
顧問が忌引きでいねーからって、中野先生に顧問やれとかやべーな」
「…」
「ま、一部の男子はおまえを褒め称えてたぜ」
「それ、どうせ先生のファンクラブの連中だろ、公に出てくる気配ねえよな
…顧問不在の問題は以前から江場が抗議していたんだ
学校側の対応が不十分だっただけで、江場が悪いって話にはならない」
「なんだ、肩持つのか」
「中野先生に直に駄々をこねたのは誤りだぞ、顧問をやれと強要するのも筋違いだ
だが部長なんて立場では、部員を代表して教師に相談するのは至極当然だろう
江場のやり方が荒かっただけで、この件はそもそも学校側が悪い」
あの一件から、風太郎は女子陸上部のマネージャーを引き受けることになった。
部長の江場は拒否していたが…学校側の推薦もあって正式採用となった。
男で運動能力は平凡以下なマネージャーなど滅茶苦茶嫌がられていた。猫の手でも欲しいくせに選り好みするとは。
女子陸上部は強豪などと言えるレベルではないが、今年は例年とは違うらしい。
夏のインターハイ、3年にとって最後の大会になりえる重大な時期に顧問の不在。不足を補えば頼りないマネージャーしかいない。
陸上部が嘆くのも当然だ。俺も大学受験の勉強を妨害されたらキレるぜ…マネになったことで妨害されたようなものだが。
前田はたこ焼きを焼く作業の手を止めず、何か探る訳でもなく聞いてくる。
「おまえが江場に手を貸すとは意外だったぜ
勉強勉強ってうるさかった奴が運動部に入るとはな」
「…」
「中野先生の為か?」
「…
おまえ、こいつら見てどう思う?」
「ん?」
打算があっての行動だったのか。そう問われれば…違うと答えたい。
前田と共に目を向けたのは、椅子の前に屈んでいる子供たち。
まだ熱いたこ焼きを食べるのに苦戦して、喜んだり悶えたり、悩みなどなさそうな五つ子だ。
時折こちらの様子を窺って、目が合ってはきょとんとした顔をしていた。
「能天気なガキ共だ」
「ま、まあ…そういう表現の仕方はあるな…可愛いもんじゃねえか」
「…お気楽な奴らだが、母親に関しては繊細なんだ
これ以上、母親との時間を奪われるのは困る
先生も、少ない子供との時間を大切にしているんだ」
父親は不在、頼れるのは母親だけ。さらに家は貧乏で贅沢は許されない。
子供ながら思うはずだ。親が元気に帰ってきてくれることを。嫌な思いをしてませんようにと思いを馳せて。
親は子供に悩みを打ち明けない。知らない世界で頑張ってくれる母親の帰りを待ちわびているんだ。
「…これもやる」
「あ? 何だそれ、もう貰うもんは貰ったぞ」
「まだ中野先生に礼できてねえ、渡してくれ」
「先生の分か
…渡すのはいいが、子供たちに全部食われかねないぞ」
「マジかよ、今食ってるじゃねえか
…まあいい、アドバイスくれたお返しだ」
「アレか、おまえのせいでえらい目にあったぞ」
「は? 何で」
「先生が不貞腐れた」
「マジかよ、レアじゃね? 見たかったわ」
追加でもう一つのたこ焼きを受け取った。子供たちに食われないように隠しておかなければ。
ところが五月には既に見られてしまっていた。9個も食えれば十分だろ。どうせ余った3個もおまえが食うんだろ。
たこ焼き12個入りを一つ食べ切ったところで、残りは家で食べるとする。椅子を返して帰宅するとしよう。
「たこ焼きありがとー お兄さーん」
「おう、気をつけて帰れよー」
一花はもう前田の顔を覚えたらしい。手を振ってにこやかに笑う姿は前田の言う通り、可愛いもんだと思う。
美味しかった、歯に青のり付いてるなど、賑やかさと一緒にまだ温かいたこ焼きを抱えて店を後にした。
前田が母親の教え子だと知って、五つ子たちの母親自慢が一つ増えるのだった。
一学期を終えるまで残り一か月。6月と7月は陸上部にとって進路を見定める時期となる。
3年生は大会で残した成績によって大学の推薦枠を確保できる。もはや大学受験と同じ。
当然、7月の末の大会に備えてトレーニングは慎重かつハードになることが予想される。
そんな過渡期に放り込まれる新人には手厚いサポートが必要なのだが……
「…紹介すらされていないよな、俺」
江場め、嫌がらせか。ちなみにあいつは絶賛超真面目に部活に取り組んでいる。部員を連れて汗水流して走ってる。
授業を終えれば帰宅、バイトしていた風太郎は今ではグラウンドに立ち尽くしている。体操服に着替えて運動部の仲間入りをしている。
俺の知らない間にざっくりと説明はされているのだろう。女子部員が時折物珍しそうに振り向きはすれど、追い出す気はないようだ。
「…このマニュアルがなければ、危うく迷子になっていたところだぜ…」
俺が右往左往することを予期して、中野先生が陸上部の顧問と連絡を取って書類を用意してくれた。
顧問の罪悪感がにじみ出ているのか、懇切丁寧にマネージャーの仕事がまとめられていた。
中野先生曰く、陸上部の顧問は身内の葬儀で休暇を取ったのだが、親族ともめているらしく…長期休暇になるとのことだった。
2学期には戻ってくるとは言っていたが…当然大会には顔を出すこともできない。
身内の臨終の際まで各方面に頭を下げて苦労が絶えないものだ…その点は江場も分かっているのだろう。
とはいえ他人に気遣っている暇など俺にはなく、タイムを計れと言われて計測器…ストップウォッチを渡された。
「…ちょっと…これ、どうやって使う――って、もういねえ…!」
声をかけてきた2年生の部員はスタート位置まで走っていた。全力疾走だった。はっはっは、シャイなのかな?
インドア派な俺、ストップウォッチなど小学校の運動会の手伝いしか触れたことないです。
仕方なくその辺に座り込んでいる部員に声をかけて操作方法を教わった。
何でこんなことも知らないのか、という目を向けられたが…走る部員の計測を台無しにするよりかマシだ。
教わったところで、一気に四人も走るのは予想外だったわけで…
四人目の計測をミスって頭を下げることになった。1年の子で、大丈夫大丈夫と笑ってはくれた。
結局ミスは絶えず、マネージャー初日はお世辞にも良い仕事を為せたとは言えなかった。
反省しつつ本日最後にレーキをガリガリと引きずってグラウンドを整備した。終わった頃にはもうあたりは真っ暗だった。
「…備品の整理ぐらいしておくか」
初日ということで、だいぶ疲れが溜まっているが…面倒な仕事があるのなら早く片付けてしまいたい。
備品には部員が各々用意する物が大半であるが、応急処置用の医療具やトレーニングに使うコーン等は部活の費用で賄っている。
不足してから発注しても遅い。この点はケーキ屋でのバイトの知識が活かせている。在庫の確認を取るべく、しばらく部室に籠っていた。
作業が終わりかけた頃、もう遅い時間だというのに部室のドアが開かれた。
「あ…君、まだいたんだ」
「お、おう…お疲れ様」
部長の江場だった。部室の照明が彼女の焼けた肌の暗さ加減を鈍く照らしていた。
…いや、そもそも顔色が悪いか。五つ子がそんな顔をしていたらその額に触れて検温していたぐらいに。
「…」
「…」
お互い、何か口を開きかけたが…江場は構わず部室の奥へ歩み、椅子に座り込んだ。
疲れが隠せていないのか、時折息を吐く音を耳にする。
「…先生は戻ってこれそう?」
「あ? あぁ…顧問か
いや、そういった話はまだ」
「そう」
事務的な近況報告。顧問の復帰は絶望的だと改めて知った江場はため息をついた。
悪いが顧問の穴埋めはマネージャーだけで務まるとは思えない。最終的には部員だけで大会に挑むことになる。
最低限のケア、大会に関する事務作業がマネージャーの務めなのだが…今日の俺の成果を見れば文句は多分にありそうだ。
内心今か今かと身構えていると、江場はもう一度ため息をついた。
「理屈ではわかっているの」
「何?」
「どうしようもない、そう言って見限られる状況
でも私たちにとって、最後の一年だ
どうしようもない、で済まされてちゃ、悔いの残らない走りなんてできない」
「…」
「努力は正当に評価されるべきだッ!
君も学力で評価されているのだから、分かっているはずだ
実力があるのならそれに費やす、才能や実力のある人間にとっての義務だ
わかるかい?」
「…
おまえ、もしかして…随分と遅いと思ったら
また教師に直談判してきたのか?」
「…生憎、今日の君はマネージャーとしては余りにも不十分だった」
「そっちの直談判かよ」
こ、この野郎…俺に直接言う前に先公に報告してたのか。一日で見限るとは恐ろしいぜ、陸上部。
しかしながら、江場の顔色を見ると…俺のマネージャーは続行のようだな。
…正直運動部など明らか不向きだと自覚している。
それでも、使えない、不要だと見下されるのは一番嫌いなんでな。
「やれることはやってみせる、全て」
「…」
「その代わりおまえら、文化祭は全面的に手伝ってもらうからな」
「文化祭…? ああ、日の出祭か
…君、文化祭好きなの? なんか意外だ」
「いや、俺、学級委員長…
クラスの催しとか、設営準備とかあるから手伝ってもらうぞ
俺よりも力あるし存分に働いてもらう」
「…」
「…」
「…ああ、学級長! そういえば君だったね!
あれ? 学級長と陸上部って兼任していいの?」
「おまえ、俺のこと一切知らなかったんだな! 部長だろ!
マネージャーになったんだから少しは知っておけ!」
「一日で分かるわけないよ、理不尽だ」
「その言葉、そっくりそのまま返すからな!」
ダメだ、こいつの相手は疲れる。アレだ、こいつ俺と同じで拘りの分野以外は興味ない奴だ。ただの陸上馬鹿だ。
心身共に疲れているってのに、もうこれ以上いらん苦労はしたくない。
しかし、軽く言葉を交わせるようになったのは良い兆しだ。
さっきから探しても見つからないから、部長様に所在を聞くのが手っ取り早い。
「…君は先から何を漁っているの?
まさか…女子の下着じゃないよね?」
「おまえ、間違っても性質の悪い冗談はやめろよ
部員の記録、自己ベストとか知りたいから…どこにあるのか教えてくれ」
「…
一応、やる気はあるんだね」
「俺からやると言った手前、手を抜くわけにはいかない
…というか、おまえこそ何やってるんだ
帰るなら早く帰ったらどうだ」
「………」
「…?」
「君がいるから着替えられないんだよ!」
地雷踏んだ。そう悟った時には江場はロッカーからファイルを手に持ち、早々に風太郎を追いやった。
風太郎の胸元には押し付けられた分厚いファイルが。これがお目当ての書類のようだった。
ドアは既に施錠され戻ることは許されず。そもそも部室は更衣室化しているようだし、あまり出入りしないほうがいいか。
「…帰るか」
風太郎は男子更衣室で着替え、ファイルをバックにしまって帰宅することにした。
運動部の部室はちらほら明かりが灯ったままだ。熱心なのもいいが、近いうちに試験期間に突入する。
大会も良いが、試験は大丈夫なのだろうか。やはり勉学に比重が傾く風太郎だった。
「上杉君」
「…?
って…先生か、今から帰りですか」
まだ敷地内を歩いている途中、後ろから声をかけられて振り向いた。
薄暗い夜道ではわかりづらかった。背後から歩いてくるのは中野先生だった。
今から帰りか。確か今日は…らいはが中野家に顔を出している日だ。
夜遅くても子供たちの寂しさは紛れているか。妹が夕食を作って子供たちと待っているだろう。
「一緒に帰りませんか」
「…」
「…上杉君?」
「いや、なんか珍しいと思っただけ
…まあ、帰りますか」
「ありがとうございます
少し話したいこともあったので」
「説教は勘弁です…」
「…君は私を何だと思っているのですか
それとも、私に叱られるようなことを隠しているのですか?
白状しなさい、上杉君」
「え?
だって今日の俺のマネージャーの仕事散々で、江場がボロクソ言ってたんでしょう?」
「………ごめんなさい」
「あんたが謝ると俺が惨めになるだけだ…」
鬼教師の角が伸びると思いきや、俺の暴露を聞いた途端に意気消沈し項垂れていった…この人脆すぎる。
中野先生経由で俺がマネージャーを引き受けたのだから、俺が苦戦していると知れば先生も負い目を感じるか。
改善は目指すが初日は大目に見てほしいぜ。そう甘く見ていたら江場に雷を落とされたわけだが…
先生の謝罪を宥めて、肩を並べて夜道を歩いていく。夏と錯覚した虫の鳴き声にかき消されないよう、隣に。
「…意外に思いました
マネージャーとはいえ、上杉君が運動部に所属するとは…しかも3年になってから
何か事情があるのでしょうか?
困っていることありましたら…私では力になれませんか?」
「いや…」
恩師と教え子の関係にしては過剰な気遣いだった。先生はそう捉えて、善意から生徒の真意を問い質そうとしている。
とはいえ、先生には話せそうにない。
理事長との交渉は…断りはしたが、推薦枠を抑えるとか、だいぶきな臭い餌を撒かれた。
あの理事長と校長も、中野零奈という堅物教師に手を焼いている。生徒に頼ったのも苦肉の策だ。
中野零奈が知れば当然糾弾する。最悪、俺の助力全てを断って、一人で何もかも抱えてしまうかもしれない。
言えるわけがない…が。偽れば後に看破される。この人はそういう人だ。
怪しまれたら納得するまで睨まれる。恐ろしい教師だ。去年追い回された経験上、誤魔化すと後が怖い。
だから事情ではなく、理由を話した。
「あんたの手助けがしたかった」
「…そんなことの為に…」
「元より約束しただろ
困っていることがあったら、俺だって力になりたい
罪悪感を感じるのは分かるが、俺はあんたにとって…無関係な生徒ではない」
「…」
「…心配してくれるのは…嬉しいがな…」
不慣れな発言から、顔が熱くなっているのが分かる。
しばらく無言が続いて…ちょん、と…先生の手の先が、風太路の手の甲に当たった。
極めて礼儀正しく、プライベートでも背筋を曲げることもない鬼教師が…隣の生徒との距離を誤るだろうか。
やがて風太郎は、触れた指先へ向けて手の平を向けた。
「暗いですね」
「もう遅いからな」
「早く帰らないといけませんね」
「まあ…な、あいつらもあんたを待ってる」
意識していたというのに、気づけば先生と手を繋いでいた。
すんなりと…静かに。気づいた時にはすぐさま、逃がしたくない思いから先生の指を包んでいた。
先生の肩と、先生の髪がシャツ越しに肌に当たっている。異性の匂いが鼻にかかり、沁みついてしまいそうだ。
ここがまだ影となって、暗いから。
長くは続かないだろうな。
街頭の明りが近づいてきて、あの下をくぐった時にはもう…離してる。
「上杉君?」
「…暑いな」
「もうじき夏ですから」
「ッ」
目的のない言葉に拒絶の意思はない。だが、先生は謙虚な人だから…この言葉に手を放すかと思った。
先生とは手を繋げたままだった。先生は弱々しく笑ったまま。
…果たして俺は、どちらを偽ればいいのか。
できるのなら、情けない話だが自分の気持ちを偽りたい。
「そもそも陸上部の引退って6月じゃないのか」
「…総体は6月でも、全国インターハイや地区大会は8月までです
それに、江場さんは長距離を選んでいましたね
彼女は秋も走るのでしょう
大学のスポーツ推薦枠を考えると、次のインターハイが要なのでしょう」
「…あいつのあの態度って、入試の話が絡んでたんですか?」
「…それだけではないのかもしれませんが
運動部の生徒にとって、推薦とは軽視できないものですよ
特に江場さんは部長まで担った方ですから」
「…まあ、運動部の連中は大方、テスト全滅ですもんね
焦るのも当然だが…勉強ぐらい必要最低限しておけって話です」
「…上杉君?」
「いてててっ!
先生、ちょ、痛ッ! 離してください!?」
「反省が足りていないようなので、懲りるまでこのままです」
少しでもこの手を離したくないと思っていた俺が阿呆だった。以前、改善の思いは希薄だったと吐露したのも仇となった。
容赦のない捻り方で俺の指が拷問されている。鬼教師ィ…!
これでは不良生徒が下校中にまで教師から説教を受けているだけだ。お陰で街頭の明りの下を堂々とくぐってしまった。
江場が必死な理由、大学の推薦枠を背景にしたあのプレッシャーは相当だ、他の部員は何も思わないのか?
しかし、悪いが今は江場の事情など知ったことではない。今の俺はマネの仕事で手一杯だ。
「…なあ、先生」
「…?」
相変わらず手は痛い。この人は怒らせると本当に面倒くさい。親身になってくれているから無碍にしにくい。
風太郎の手は相変わらず逃げ腰。女教師の指から逃れようと身をよじる。
細い女の指はまだ絡みついたまま。その上での申し出は徐々に平静さを削っていく。
「…一つ、頼みがあるんだが…」
「…」
「約束しておきながら…情けな――」
高校2年の冬に約束した。支えてみせる、守ってみせる、示してみせる。そう約束した。
にもかかわらず、今も…その前もそうだ。
恩師に頼ってばかりいる気がする。無力な自分を嘆いている暇などなく、今は求める他ない。
不甲斐ないと思われないだろうか。そのような不安は一瞬で晴れた。
痛む手をぎゅっと握られた。それが正解だと教えてくれているかのように。
「上杉君」
月明かりの下で、中野先生ははにかんでいた。
今度こそ流石に手離さないといけないと思った。
逃げかけた手を離してくれなかった。ただ一方的に守ろうなどと、この人が好しとするはずがなかった。
「はい よーいどん」
振り上げた手を下ろし、開幕の合図を告げる。
バイトがある土日はマネージャーの仕事は休ませてもらっている。午後からはケーキ屋で21時までのバイトが始まる。
今はその午前の暇を利用して、河川敷にある広場にやってきていた。
「――ッ!!」
「四葉、はやっ…あんな早かったっけ…ッ!」
「いつもよりっ 早いよぉ…! はぁ…っ!」
「というか、何で私たちまで走んなくちゃいけないのよ…!」
「はぁ…っ はぁっ…ぁ…っ」
俺の掛け声に合わせて五つ子たちが走ってくる。半数以上がぶつくさと文句垂れていたが。
幼稚園児のかけっことはレベルが違う、小学生となって走る姿もだいぶ様になってきたもんだ。
ストップウォッチ片手に五つ子の到着を計った。一位は四葉、次いで一花、二乃、五月…
そして………そして。
「はぁ…っ…ふぅ…はぁ…」
「………」
「………こっち見ないで」
「おまえのゴールを待ってるんだよ」
………最後に三玖となった。というか最後は歩いてた。
あまりにも遅すぎて、遠くから見守っている中野先生の所在を窺う余裕まであったぞ。
当の母親は河川敷の堤防に生い茂る草花の上に、ビニールシートを敷いて子供たちを見守っている。ピクニック気分か。
その横かららいはが声援を送っていた。お弁当を持って五つ子との外出に意欲的に参加していた。完全にピクニックだろ。
非常に不穏な眼差しで三玖がこちらを睨んでいる。温厚な三玖が睨むとは相当である。
姉の不機嫌な空気を読まずに、一着の四葉がリボンを振って駆け寄ってきた。
「上杉さーん! いっちばーん! 見てましたかー!?」
「流石だな四葉、日頃自慢するだけある」
「ししし、かけっこは私が一番ですよ!
上杉さんとも競争したいです!」
「ほお、おまえ、去年俺に負けたこと忘れてないだろうな?」
「あ、あれは…上杉さんがズルしたからだもん!
…い、いいから遊ぶんです! 上杉さん、遊ぼうよっ」
「それだと趣旨が変わるから――あ、四葉!
おいこら、それ返せ! 借り物なんだからな!」
「へへーん 返してほしかったらここまで来――うわぁああああ!?」
「四葉、盗んじゃダメですよっ 上杉君に返してあげてください」
四葉のお誘いを無視していたら、ストップウォッチを奪われて追いかけるはめに。手癖の悪い子供だ。
すばしっこい四葉と鬼ごっこを繰り広げて物を回収した。遠慮がなくなったのは良い変化なのか、不良の兆しと考えるべきか。
頭のリボンを掴んで母親の元へ連行した。流石に人の物を奪おうなどご法度。四葉は先生のゲンコツ制裁を受けた。
…怒られたら手早く解放されて戻ってきやがった。何食わぬ顔して隣に来る四葉が憎たらしいぜ…
「…」
「三玖、あんたはいつまで怒ってるのよ、フータローと遊べて良かったじゃん
何むくれてんのよ、まったくもうっ」
「三玖、今日を楽しみにしてたから…」
「遊べると思ったら大嫌いなかけっこをされたら怒るよ…
ここに来るまでご機嫌だったのに、フータロー君が悪い」
「…ひぐっ…
フータローに…足遅いの…見られたくないもん…」
「…おまえが鈍くさいことは知ってたっつうの」
「…」
「悪かったな、三玖
俺も運動は嫌いなほうだ、無理強いをしてすまなかった」
「…フータローの…馬鹿ぁ
…でも、許す…」
黙りこくって怒り心頭だった三玖の反感は長続きせず…泣きじゃくってしまった。
最初から断ってくれても良かったのだが、他の四人がやるのなら断れるわけなかった。
謝罪を込めて三玖を抱き上げると首にしがみつかれた。お許しはいただけたが、当分離してくれそうにない。
「ちょっとフータロー 私も嫌だったんだけど! 三玖に甘いんだから!
ねえ、私も嫌だったぁ! 私にも何かして!」
「三玖だけずるい! えこひーき! 私も…は、ハグ…ハグしないとダメ!
今日だけでいいから! ね? 今日だけ!」
「わ、私も…! みんながしてもらうなら私もです!
私も足遅いもん! 三玖と同じだよ、お兄ちゃん!」
「な、何でみんな、そんなに走るの嫌がるの!?
う、上杉さん、四葉も、四葉も抱っこがいいです」
「おまえら…まだ幼稚園の頃のほうが可愛げあったぞ…
三玖、喧嘩の元だからもう終わりだ」
「…え、も、もう…?
………む~~ッ!!!
みんながフータローに文句言うから…!」
「あんたが一番文句言ってたでしょ!」
どの道姉妹喧嘩は避けられなかった。二乃と三玖がお互いに睨み合って、残りの3人が仲裁に入る。いつもの日常風景だった。
五つ子を走らせたのは計測に慣れるためだった。ついでに最近できなかった五つ子と遊んでやるため。
一人分の記録を計るのは簡単だが、複数人同時に正確に測るのは初めてだった。五つ子なら五人もいるし、良い練習になる。
しかし三玖を泣かせてしまったのは想定外だ。そんな娘の泣きっ面を見てしまっては母親が黙っているわけがなく。
「三玖、二乃、こっちにいらっしゃい」
「…うぅ…だって二乃が、私のこと弱虫だっていつも言うんだよ…?」
「あってるじゃん
それに、クラスの男子に虐められるのもフータローに甘えてばっかだから――」
「あ、待て二乃ッ」
「ん? どうしたのフータロー………あっ」
虐めという不穏当な単語を耳にした直後、先生の顔が変わった。
溺愛した娘が学校で虐められていると知ったら、この人は間違いなく鬼になる。
普段は謙虚でも、臆さず挑む人だ、子供だけの争いが親を交えた戦争になっちまう。
お、俺としてはまだ…保護者が介入するには早いと思っていたのだが…
可愛い娘、しかも気弱な三玖が標的となっては黙っているわけがない。
「…三玖、本当ですか?」
「………だ、大丈夫だよお母さん、あの…」
「え、二乃…三玖が虐められてるのお母さんにバラしたの?
三玖が一番嫌だって言ってたのに?」
「目の前でぽろっと言いました…ずっと内緒にして我慢してきたのに言いました」
「ど、どうしよ…上杉さんとお姉ちゃんにまで内緒にしてもらってたのに」
「あ、あんたたち…! 全部言わなくてもいいでしょっ!」
「二乃も後で話があります」
「ま、待ってお母さん
に、二乃は私を守ってくれてたの、すぐに男の子たちに怒ってくれて」
「三玖…詳しく聞かせてくれませんか」
「ま、ママ、大丈夫よッ ママが心配に思うことなんて全然なくて!
三玖はほら、強く言えない性格だから仕方ないの
三玖が可愛いから、つい強く言われちゃうだけ!
私と一花がちゃんと見てるから、気にしなくて大丈夫! 虐めとかじゃないんだから!」
「…」
涙目に戻る三玖を一生懸命フォローする二乃だったが、次第に二乃まで嗚咽を漏らす。
…先まで賑やかに、ぼのぼのと休日を過ごしていたというのに、先生は顔を曇らせてしまった。
不穏な雰囲気を察して、シートに座って諦観していたらいはが寄ってきた。
「零奈さん」
「らいはちゃん…
らいはちゃんも上杉君も知っていたのですか…」
「うん…ごめんなさい
でもね、零奈さん
三玖ちゃんも、四人もね 強い子たちだから」
「…」
「負けないよ! 貧乏な家の子はそう簡単に負けないよ!!
悪口なんて慣れっこだもん! ね、お兄ちゃん!」
「…上杉君? 君も…」
「まあ…何かと言われやすい身の上だな
だが、内緒にしてくれと言ったのは子供たちだ
女にしては根性あるじゃねえか」
「…」
「三玖も…帰ってから何度か泣いたりはしていたが
泣き虫、なんて悪口は言われなかったらしい…頑張ってますよ、三玖は」
「…三玖」
「…うん、頑張って…る」
「何も言わず見守ってくれ、とまでは言いませんが
帰ったらこいつらの苦労を褒めてやるぐらいが、丁度良いでしょう
子供たちが頑張っても駄目だったら、その時はあんたの出番だ」
「…三玖、その時は…」
「う、うん…ちゃんと言うよ
大丈夫だもん、まだ」
「…」
「そ、それに…なんか…私が言っちゃったら
…お母さん、怖くなるよね?」
「当然よ、貴方たちは私の子供なのだから
何があろうと、守ってみせるわ」
「零奈さんだけじゃないよ! その時は私も怒りに行くよ!
お兄ちゃんも黙ってないからね」
「言っても聞かない馬鹿はいるからな、その時は呼べ
見返してやる方法なんて幾らでもある」
「…
ねえ三玖、これって私たちが我慢しないと大変なことになっちゃうよ」
「この感じだと、フータローのお父さんまで来ちゃいそうね…」
「が、頑張る…」
子供たちは年長者に呆れてしまっていた。余計なプレッシャーを与えているだけで逆効果になっていないか?
まあ冗談はさておき、ここにきて先生の悩みが再燃してしまった。
楽観視をしている俺と妹に、先生は警告を促したいのだろうが、子供たちの事情を知ってしまうと母親の出陣は待ってほしかった。
…俺もらいはも、似たような経験はしている。
知らぬ間に陰口が広まり、貧乏人だと突き放されたことがある。本人には関係なく、背景から見放されてしまう。
そして、親に迷惑をかけたくないという、子として抱いてしまう気持ちも痛い程分かる。
「…不人気な三玖と違って、おまえはクラスの人気者らしいな、四葉」
「不人気…」
「私何も悪いことしてないのに、酷い言い方されてる!?」
「運動ができるってのは、勉強ができる奴よりモテるからな
俺は絶対に御免だが、悩みもそうなくて気楽なもんだ
おまえぐらいは母親を悩ませることなく、能天気に生きてくれ」
「うぅ…全然褒められてないよぉ…
でも、運動好きですからやってみたいです!
中学校は部活?…が、あるんだよね? らいはお姉ちゃんが言ってました」
「ああ…と…なると、おまえが志望する部活は…」
「はい、陸上部です!」
「陸上はやめておけ
入ったら絶交する、いいか、陸上部はやめておけ」
「えぇえええ!?」
「お兄ちゃん、もう陸上部が嫌になってきてるよ…」
「毎日遅くまで学校に残っていますから…」
しばらくは体操服姿の女子を見たくないぜ…何が嫌って、徐々に遠慮を捨てたあいつらにこき使われ始めたからだ。
マネージャーの仕事の範疇だが、マネージャーと顧問不在の間に積もり積もった問題をぶつけてくるのだ…
まだ学生の苦労を知らぬ小1のガキに何言っても理解されず。四葉は大好きなかけっこを再開しようとスタート位置まで走った。
一花と二乃、五月も四葉に続いていく。渋々と。
姉妹が参加するのなら三玖もついていくしかない。至極嫌そうに。そんな子供の後ろ姿を俺と先生、らいはは苦笑して見届けた。
一年前は四葉が無双する鬼ごっこを拒否していた連中だ。四葉に付き合ってやるあたり、成長したと捉えて良いのか。
「…しかし、三玖の足の遅さはどうにかならないか
運動会の度に嫌な思いしそうだな」
「お兄ちゃんも大概嫌がってたけどね、中学」
「…三玖が意欲的になる方法でしたら…」
「…え、何? 何ですか、先生」
「失礼します」
ゴールの真横に立つ風太郎の背後に回った先生は、彼の脇に手を差し込む。
くすぐったさを感じて振り払う前に引っ張られ、ゴールの真ん中に立たされた。
そして最後に肩に手を添えられ、座らされた。立つんじゃない、と言いたげに抑えられてしまった。
…この人、実は怒ってるんじゃ… 周り全員から隠し事をされた八つ当たりなのでは。
というか抗おうとすると、屈んだ先生の胸が頭に当たる。マジで心臓に悪いから離れてほしい。
らいはの合図によって五つ子が一斉に走り出した。当然順位は前回と同様。
「三玖を呼んであげてください」
「え? まさか…いや、それで何か変わるか?」
「お兄ちゃん大好きな子ですから
きっと頑張ってくれますよ」
「…転んだらまた泣くぞ
三玖、こっちだ」
「――ッ!!」
「おー 三玖ちゃん加速した」
小学生相手に通じるかと疑問に思ったが…あいつの学校生活と家庭環境を鑑みると、五つ子は何かに飢えているのは間違いなく。
風太郎の呼びかけに三玖の目の色が変わった。明らかにフォームが変わっている。前項姿勢で後ろ足の踏ん張りが段違いだ。
四葉は加減をしていたのだろう。三玖は全抜きを達成して、見事風太郎の胸の中へ突撃した。
三玖のあまりの勢いに仰け反って後ろに倒れるところを、背後の先生が支えた。
風太郎の胸にしがみついて、ゆっくり顔を上げた三玖は息を荒くしつつも不適に笑った。
「…呼んだ?」
「…随分と機嫌良さそうじゃねえか
一位は初めてか?」
「…えへへ、呼んだでしょ?」
「…はいはい、呼んだ呼んだ」
「呼ばれちゃった…」
何を嬉しそうにニヤニヤしてるんだか。三玖は早く走れた高揚感が合わさってご機嫌だった。
普段こっぴどくあしらわれてしまう塩対応のお兄ちゃんに呼ばれてしまったら、嬉しさも相まって飛びついてしまう三玖だった。
らいはが見込んだ通り…五つ子は強い子だった。良くも悪くも。
「つーか四葉と並ぶスピードだったぞ」
「やればできる子ですから」
「怠け者とも言いますけどね
三玖も、苦手でも最後まで諦めないで」
「う、うん…次からそうする…」
背後に立つ先生は三玖の傍らに寄り、その頭を撫でた。三玖は母親の賛辞にVサインで返した。
珍しい上機嫌っぷりだった。普段物静かな三玖にはない珍事で、後から追いついた一花たちも意外そうに見つめていた。
「…むぅ…っ!」
「…」
いや、一人だけ…頬を膨らませてご立腹具合を主張している子がいる。リボンをゆらゆらと揺らして。
追い越されたことが気に食わないのか、2着の四葉が三玖の手を掴んだ。
続いてスタート位置を指差す。きょとんとする三玖に四葉はそっぽを向いて口を開く。
「もう一回っ!」
「…う、うん…」
「四葉、本気じゃなかったからね!」
「う、うん…」
これは…一年前の夏の再現か。普段優しい性格の四葉が不満を爆発させた時があった。
止めようか迷ったが、先生に止められてしまった。この事態を快く思っていないだろうに。
…あの場合、四葉の不満を消化せず帰宅すれば拗らせてしまう。一人で悩んで誰にも相談しないのだ。
スタート位置に戻った二人を確認し、らいはが再び合図を送る。
駆け出した二人だったが、その差はすぐに開き始める。
あっという間にゴールに辿り着いた四葉が、風太郎の下に駆けて飛びついた。
その表情は俯いて見えなかった。
「…」
「…」
「…なに怒ってんだよ、馬鹿」
「…だってぇ…っ」
リボンと髪の毛と一緒に四葉が額を押し付けてくる。
湿った感触が伝わる前に、咽び泣く声が伝わってきた。
「うぅ…ひぅ…うわぁあああああああんっ!!」
「み、三玖…っ」
四葉の鳴き声を聞き取る前に、三玖が泣いてしまった。ゴールもせず、足を止めて。
それも、今までにない大泣きだった。
大粒の涙を拭いては零して、空へ向かって一人で泣いていた。
駆け寄る先生とらいは、一花と二乃に五月。先まで笑っていた三玖の泣き顔に困惑していた。
四葉は身動きできず、風太郎に縋ることもせず、立ち尽くしていた。
「あぁあああああっ!!
どうしてっ…どうして…っ!
なんでわたしだけ、あし、おそいの…っ!」
「―」
「なんでわたしばっかりぃ…!」
束の間の優越感は劣等感に変わった。自分が抱いた幸福が無価値になる瞬間だ。
自分が得たものを簡単に取られてしまった。
情に訴えても譲ってくれない。真剣勝負に負けたのだから。
他人がいくら慰め、称賛しても…忘れることはないだろう。
三玖は泣いて、母親の胸の中でかき消せない声を上げていた。
あの子は感情を表に出すのが苦手だから。さっきの1位は本当に嬉しかったんだろう。
「…」
四葉は黙って家族が慰め合う光景を見つめていた。その輪から一人離れて。
勝つ者がいれば負ける者がいる。
敗者は惨めなもの。勝者は栄光の輝きに目が眩み、暗がりに目を向けるのは後になってから。
四葉はしばし見つめたまま、ようやく風太郎を見上げた。
その目はもう…泣きそうだった。
そんなつもりはないのに。すれ違いから喧嘩が始まる。
四葉もいずれは知ることになる。泣いて俯く敗者がいれば、勝者を恨み背中を睨みつけている者もいる。
「頑張っても、四葉に勝てない…」
「…」
「…変だもん」
「…」
「…言ってやれ四葉
努力しない奴が悪いってな」
「あ、あわわわ…」
「フータロー…どっちの味方なの…!」
「一歩大人になったってことで、ひとまず足で勝つのは諦めろ」
「最初から勝負してないもん…四葉が勝手に怒ったからだよ…」
「み、三玖…」
三玖、大絶賛不貞腐れ中。
剣呑な空気に居た堪れない子供たちを思って、気分転換に三玖と四葉を連れて街中を歩いていた。
三玖が咽び泣いた後。気まずい空気になりながらも仲直りはした。一応。
本来なら二人の距離を置いて、ほとぼりが冷めるのを待っていたほうが賢明だったが…
二人がこぞって風太郎の隣から離れなかった為、結局は風太郎を挟んでの散歩に勤しむことになったのだった。
ようやく会話が成り立ってきたところだったのに、ケーキ屋の前に着いてしまった。もうそろそろバイトの時間だ。
「…上杉さんはお仕事ですか?」
「ああ、おまえらも戻って昼飯食べな
ここからは二人で帰れるよな?」
「…」
「…」
「…おまえら、ここで仲違いしてたら戻れなくなるぞ」
仕方ない。らいはを呼んで保護してもらうしかないか。今頃河原の近くでお弁当を食べている頃だろう。
強引に二人並ばせてはいるが、お互いに視線を合わせず意地の張り合いだった。仲直りとは何だったのやら。
三玖はしょっちゅう二乃と喧嘩するが、仲直りは早いものだ。四葉が相手だと難しいのか。
…いや、二乃が先に折れて仲直りするからか。あの子の面倒見の良さは随一だ。
四葉は気持ちを隠してしまう。三玖から謝れば和解は早いのだが…本当に怒っていると疑ってしまうと声をかけるのが怖いのかもしれない。
そもそも三玖が悪い話でもない。ならびに、ただ競争に勝っただけで四葉も悪くはない。
…一花を連れてくるんだった…五月でも良かった。末っ子の前なら三玖も四葉も姉らしく振舞おうとするからな。困った。
「…フータロー
お向かいさん、お店あったの?」
「あ? ああ…パン屋な
今年の春ぐらいにできたんだ」
「…美味しそうな匂いがします」
「…お母さん、喜ぶかな」
「…買ってかないぞ」
「あはは…前に三玖があげた学校のパン
お母さん美味しいって言ってたもんね」
「…うん」
「三玖、優しいもんね」
「…
でもちゃんと学校で食べてねって言われた」
「お母さんは三玖が大事だもん」
「…」
四葉による必死な歩み寄り。今まで天然で発してきた台詞を意図的に伝えるのは心底苦手なのだろうな。
三玖は気恥ずかしさから、ガラスに手を沿えてウィンドウ越しに並ぶパンを眺める。
…じっと見てるとだな。中にいる客や店員にモロバレなのだ。買う気もないのに物欲しそうに見ていると気まずい。
しかもこのパン屋は、うちの雇用主のケーキ屋の店長がライバル視している店だ。来店などしたら後でしばかれる。
五つ子という大切な常連を盗られたら最悪泣くぞあの人。五つ子が目移りしていると知れば、あの店長は急いで蜜柑と抹茶のケーキを振舞うだろうよ。
「えっと…良かったら中へどうぞ」
「…」
さっそく店員にバレたし。販売員ではなくパン職人か、コックコートを着た女性がドアを開けて来店を促してきた。
比較的臆病な三玖が俺の背後に回って隠れようとしたが…
「三玖、中に入って見てみよ?」
「え、四葉…でも、フータロー買わないって」
「み、見るだけはタダだもん!」
おい四葉ァ! 三玖に優しくしたい気持ちは分かるが、後先考えろ! 罪悪感から暴走してしまう四女であった。
愛らしい2名のお客様の来店に、店員はほっと胸を撫で下ろしていた。子供を放っておくことはできず、風太郎も店の中へ。
ちょうどパンを買った客と入れ違いになり、室内には他に誰もいなかった。
昼間のパン屋は客が集中する時間。パンはだいぶ売れはしていても、今は客足が途絶えてしまっているようだった。
不思議そうに見る視線に気づいてか、店員は苦笑した。
「まだうちの店、周知されてなくて…最近知ったお客さんばかりなもので」
「はぁ…」
「良かったら試食用に焼いたパンがあるので、食べてみてください」
「!」
あー、試食と聞いて三玖と四葉が振り向いてしまった。タダで小腹を満たせるのは構わないが…品を購入する流れになるのが問題である。
しかも店員さんはにこやかなもので、一口サイズに切ったメロンパンやきなこパンなどが詰まったバスケットを持ってきた。
だが残念なことに…三玖は甘い物が苦手だ。
せっかく用意してもらったパンの中に好めるものはなく、伸ばした手を引っ込めてしまった。
「…」
「…えっと、いらない…のかな?」
「…」
「…ご、ごめんなさい
三玖はね、甘いのダメなんです」
「あ、あー…そうなんだ」
三玖が意気消沈していく。せっかくの厚意に応えられないことで、四葉の背に隠れてしまった。
今日の三玖は気分の上がり下がりが激しい。そういった日は一日中、とことん上手くいかないものだ。
そんな子供の姿を見かねた大人は、子供の目線まで屈んで…自分が焼いたパンへ視線を移す。
ちなみに四葉はちゃっかり試食用のパンをいただいていた。五月だったら全て平らげていただろう。
「それじゃあ…ミクちゃんはどんなパンが好きなのかな?」
「…」
「…甘くないパンがいいのかな?」
「…」
「…」
「…ミルク…パン…とか」
「ミルクパンかぁ…!
ちょっと待っててね」
長い沈黙から、ぼそっと呟いた三玖の返答はミルクパン。
注文にはならない要望を聞いた店員は安堵して笑って見せた。
しかし試食用に用意しているパンにはミルクパンなどなかった。味気もないし、他よりも人気は高くない。試食で押し売りするにも効果は弱い。
店員は売り物のミルクパンを一つ手に持ち、売り場を離れた。奥の工房へ向かって姿を消してしまった。
意図が分からない三玖と四葉が首を傾げていると店員は戻ってきた。布を敷き詰めた小さなバスケットを持って。
バスケットの中身は、試食用に小さくカットされている先程のミルクパンだった。
「どうぞ、一口召し上がって」
「…」
「…ししし
三玖、お姉さんが切ってくれたんだよ」
「…」
「…くれるんだから、試食してみればいいじゃねえか」
「…」
母親から厳しく、礼儀正しく育てられている五つ子だ。
…育てられているはずだ。間違いなく… つい遠慮してしまうのだ、子供でも。
三玖は食べて良いのか判断しかね、四葉と風太郎へ視線を泳がせていた。その二人は気を遣ってくれた店員の厚意に甘えていいと諭す。
一口、三玖はつまんだ柔らかいパンを口に運んだ。
味気のないパンのはず。ところが三玖は大きく瞬きして目を輝かせた。
「…っ!
おいしい…!」
「ほんと?」
「おいしい…学校のパンよりおいしい…!
凄い! 四葉、フータロー、凄いおいしい!」
「そう言ってくれると嬉しいな
はい、リボンちゃんもどうぞ、お兄さんも」
「わーい! ありがとうございますー!」
「いえ、俺は結構です…
つーか、俺たち冷やかしみたいなもので」
「あはは…そこは、はい、いいですよ
宣伝とかしていただけたら…あはは」
苦笑からパン屋の苦難が見て取れる…いくら美味いパンを焼けても認知度が低ければ繁盛はしない。
…ケーキ屋で俺が働いていると知ったらどんな顔されるだろうか。いかん、記憶からすんなり消えるよう無駄口は叩かずにいこう。
大人の都合など知らぬ顔でパンを食べている二人は、普段目にしないパン屋のパンを興味深そうに観察していた。
口数は少なくても、先程会話のやり取りに成功したんだ。三玖は店員の横で質問を投げていた。
「…抹茶のパンって…ある?」
「抹茶かぁ…うーん、うちでは取り扱ってないかな
抹茶は好きなんだ?」
「…うん、抹茶は食べれるから」
「そっか…よし
じゃあ今度焼いてみるね」
「いいの?」
「うん、新作何にしようか悩んでたから
あ、でも…考える時間は欲しいから、1週間…いや、2週間か3週間ぐらい…」
「…
おまめのパン、も…好き
あんまり甘くないの」
「お豆…?」
「…緑色の」
「あ、あー! よもぎパンかな?
うん、それだったら作ったことあるから
明日にでも作ってみようかなっ」
少し、懐かしい光景だった。もう見ることはないだろうなと思っていた。
三玖は人見知りで、人懐っこい性格ではない。
今では風太郎に甘えていても、それに至るまでは酷く怯えられていた。
そんな子と関わり合い、仲良くなるには根気と子供を怖がらせない気持ちが求められる。
三玖の視線に合わせて床に膝をついて、子供の微弱な変化に一喜一憂してくれる店員の姿を眺めて思い出した。
3月でお別れになってしまった女性。三玖を可愛がって、健気に見守ってくれる女性がいた。
「三玖ちゃんは良い子だね」
恐らく、三玖が家族の次に大好きだった人。幼稚園の先生を連想させられた。
どことなくその雰囲気、表情は似ているようにも見える。
三玖も既視感を感じ取ってか、店員の目を見つめ返していた。
「…上杉さん、これなんていうパンなんですか?」
「あ? いや、名札に名前書いて…お、おいっ」
「いいから、上杉さんはこっちですっ」
二人の穏やかな時間を察してか、静かに見守ることができない四葉に引っ張られた。
先まで姉妹喧嘩して泣いていた姉が楽しげに過ごしている。喧嘩相手の四葉にとってこのやり方が限界だったか。
四葉に付き合ってやる他ない。それにあの店員なら気難しい客の相手も難なく対応してくれるだろう。
だから、三玖とパン屋の店員の話し声に聞き耳を立てるようなことはしなかった。
「どうしたら、こんなにおいしいパン作れるの?」
「それはもう、いっぱい練習したからだよ」
「…」
「…あ、あれ?」
「…私、お料理下手で…足も…遅くて」
「う、うん」
「…」
「………」
「…練習しても、ダメで」
「うん」
「…お姉さんみたいに…頑張ってもたぶんできない
…私だけ、みんなみたいにできなくて…」
「…
ミクちゃん、もしかしたらミクちゃんは…一つ間違ってるかもしれないよ?」
「?」
「皆できない子なんだよ?
できるまで頑張ればできるかもしれないけど…大変だよね
だから、無理してできるようにならなくても…いいんじゃないかな?」
「…でも」
「うん」
「…みんな、できるんだもん…」
「あはは…それは…大変だ」
お客様の突然の泣き言に、店員の強張っていた笑顔も限界で引き攣ってしまう。
子供が気落ちしているんだ。その保護者と家族に困った顔を見せて有耶無耶に流せばいい。
店員は床に膝をつけたまま、三玖と向かい合った。
「関係ないよ、ミクちゃん
私だって才能とかないし、失敗ばかりだし…今も現在進行形で失敗だらけだし…」
「…」
「あはは…」
「…」
「…ミクちゃん
昔…私ね、好きなパン屋さんがあったんだ」
「…?」
「もうなくなっちゃったんだけど
私が学生の頃に何度も通ってた…もう十年ぐらい前かな
料理なんて、朝の食パンを焼くくらいしかできなかったんだけどね
今ではこうしてパン屋さんやってるんだよ」
「…凄い」
「うん、凄いかも
でもこれはミクちゃんでもできるよ
だから…ミクちゃんが本当にやりたいことがあったら、諦めないで頑張ってほしいな」
失敗に悔やんで泣きそうな子になら言える。自分の本音と弱音。同じ仲間、お友達だよ。
傷の舐め合いなのかもしれない。でも、泣きそうな子が話を聞いて泣き止んでくれるのなら構わない。
店員が語る思い出に三玖は次第に顔を上げる。
悩みの答えとまではいかなくても。自分に優しくしてくれる、その心配りに三玖は励まされた。
「お買い上げありがとうございました!」
三玖用に試食を用意してくれたこと、その試食を全て平らげてしまったこと。
加えて四葉の猛烈なプッシュのせいで、風太郎は薄い財布から千円札と引き換えにパンを買うはめになった。
しかし、特別喪失感に苛むことはなかった。珍しく良い買い物をしたと思えた。
自分の夢を見続ける。失敗に後悔する暇などない。
パン屋の店員の笑顔に手を振ってお別れをしながらも、三玖は後ろを向いたまま歩き続けた。
一方で、よもや向かいの建物だというのに窓から見ていたとは思わず、後にケーキ屋の店長に詰問される風太郎だった。