後何話投稿できるかわかりませんが…このシリーズだけは完結させたいものです。
拙いものですが、よろしくお願いします。
夏休み到来。クソ暑い日差しは相変わらずで、生命を根こそぎ昇天させそうな晴天だった。
青い空。白い雲。乾いた民家とアスファルト。そして熱が籠った土と生い茂る雑草が視界に映る。
思い返すと、今年になって学級委員長をやるとは露ほど思わなかった。
運動部の、しかも女子陸上部のマネージャーをするとは予想していなかった。
去年は幼稚園で園児の迎えに行くとは考えもしなかった。
そもそも思い出の恩師にも、世にも珍しい五つ子と出会うこと自体が想定外であって。
人生何が起こるかわかったものではない。
「俺は、受験生だぁあああああああ!!!」
高校生最後の夏休み。真夏に畑仕事をやらされている
誰がこのような未来を思い浮かべるだろうか。参考書ではなく鍬を握って滝のような汗を流している。
「風太郎、水飲め水! 働いた後の水道水はうめえぞ! ガハハハ!」
「お、お兄ちゃんが暑さで壊れてる…
一花ちゃん、お兄ちゃんに水筒渡してあげて…」
「はーい」
「フータロー…私が持って行ってあげる…コップに注いであげるね」
「あんた転ぶから、でしゃばんなくていいの、私が持ってくから」
「私が頼まれたんだから、二人は引っ込んでなさーい」
「よいしょっ よいしょっ」
「四葉凄いです、お兄ちゃんより早く畑を耕してますッ」
覚えていただろうか、二乃が以前本屋で物色していた時…家庭菜園が話題に上がった。
辛抱強さが求められる高難易度に嫌煙すると、中野家のアパートの管理人が、畑の所有者で助言を頂けたのだ。
しかも、使わずに放置していた畑を貸してくれるとのこと。アパートの近所に広がる敷地を貸し切り状態だ。
風太郎が来たら始めよう。来ないと始められないと五月は泣いていた。末っ子は泣き落としが得意なのだ。
五つ子たちが貧困を打開すべく画策した大プロジェクトが始まり、今こうして農業を強いられている。
「クソ…まさか陸上部で鍛えた体力に救われるとは…」
「はいお茶、フータロー君
お母さんの為に美味しいお野菜作ってね」
「ああ、悪い…
お茶くれるのはいいがよ、一花、おまえも見てないで手伝え
雑草抜きぐらいできるだろ」
「やってるよー ちゃんと見てるー?」
「ちゃんと見てるぞ
根っこまで抜かずに葉っぱだけ毟っても意味ねえからな
やり直し」
「あー 暑い~ つまんないよ~ フータロー君、もう十分だし遊ぼうよ」
「怠け者
種蒔かなきゃただの土遊びだぞ」
管理人から野菜の種や肥料を恵んでいただき…いざ土作り。
重機は扱えないので鍬やじょうろも借りて準備は整っている。初心者にしては盛大なスタートである。
とはいえ…そんな大仕事を五つ子と母親だけでこなせるわけがなく、助っ人で呼び出された上杉家3人である。
手伝いなのか応援なのか冷やかしなのか、畑を駆け回る五つ子を尻目に水筒のお茶をいただいた。
「上杉君、頑張って! いっぱい植えて、いっぱいお野菜作りましょう!」
「飛び跳ねてないでおまえも手伝え、耕した土を固めるな
つーか何植えるんだ?」
「スイカ食べたいです! 夏といったらスイカだよね!」
「スイカは5月に植えるらしいぞ」
「じゃあメロンです! メロン食べたい!」
「メロンはもっと前で3月だ」
「――
もういいです、意地悪する人なんて知りません」
「お兄さんそんな万能じゃありません」
お高いフルーツが食べれると期待していた五月は、夢を粉砕されて不貞腐れてしまった。
畑を一緒にやろうと泣きついてきたくせに身勝手な末っ子だ。
水筒を返し、鍬で畑を耕していく。この時点で汗だくである。
日差しで肌が焼けそうで、妹と子供たちが体調崩さないか心配だ。
「よいしょっ はふっ」
「四葉、そんな重たい鍬振り回して大丈夫か?
って、おいおい、ぶん回してるから髪に土が被ってるじゃねえか」
「ししし、これ楽しいです!」
「…いや、まだ植えてすらねえし、破壊活動を楽しまれると今後が不安」
「四葉、料理はできないけど
これなら美味しいご飯作れそうです!」
「…なるほど、適材適所って奴か」
「てきざい…? よくわかんないけど、頑張ります!」
「ああ…疲れたら休めよ、水分もこまめに取れ」
「まだまだいけます! 上杉さんのお父さんに勝ってみせます!」
「やめてくれ、親父と張り合うとあっちが腰痛になる」
「おいこら! 爺扱いすんじゃねえぞ風太郎!!」
ざくっざくっと器用に鍬を振るっている少女に違和感しかない。四葉は溌剌とした顔で勤しんでいた。
件の悩みは多少吹っ切れたか。それとも何かに打ち込んでいる間は平気か。
ともかく四葉は今を楽しんでいる。単独行動多いが…今の状態なら然程気にかけなくていいか。
鍬の先端は鋭利で子供が扱うには注意が必要だ。子供用に多少は小型になっていても心配で、四葉を注意深く見ていた。
ふいに服を掴まれる。見下ろすと三玖が膨れっ面を見せて引っ張っていた。
「…むぅ…四葉ばっかり見てる
フータロー 四葉の味方するの多すぎ、私のほうにも来るべき」
「三玖…おまえは去年より我儘になりつつあるな…
四葉を見ろ、あいつは立派に働いている
働き者を褒めるのは当たり前だろう、おまえも雑草抜きに専念するんだな」
「…私だってクワでできるもん
よいしょっと…
う"…ふ…ふぐぅ…うっ」
「重たいだろ、怪我するぞ」
「触んないで…やれるもん
う…あ、うわ…あっ」
「ほら、小さい割に重たいんだから、無理するな」
取っ手は軽い木材でも先端部分は鋼素材だ。アンバランスな重みを両手で掲げると、三玖はよろよろと転びかけた。
四葉に似て拘りのあるものには無茶をする子だ。ヤキモチを焼いてアプローチをかける姿は愛らしくも思える。
鍬を取り上げて、倒れかけた三玖の肩を抱き寄せる。三玖は固まったまま、静かにこちらを見上げていた。
「…」
「…何だよ」
「…えへへ、やった」
「落とすぞ」
「う、あうっ…お、落ちちゃう…ま、待って…危ないよっ
フータロー虐めないで――あうち」
容赦なく柔らかい土に落とした。腕にしがみつく三玖はごろんと転がり、髪や服に土が付いてしまった。
一瞬で汚れてしまった三玖は少し嬉しそうににやけていた。意地悪されても喜んでいる…だから学校で虐められるんじゃねえのか。
三玖は姉たちと合流し、雑草抜きに勤しむ。らいはの傍で女子たちが膝を曲げている姿は穏やかな光景であった。
「お姉ちゃん、今日のお昼何作る?」
「そうめんにしよ…」
「うーん…手抜き」
「さぼり魔の一花ちゃんに言われたくなーい!
いずれ分かるようになるよ、夏の疲れた日にご飯作る辛さ…」
「わ、私は手を抜かないわよ
お母さんに美味しいご飯作ってみせるもん」
「そういう時期が私にもあったよ」
「おう、せっかくだから俺が作ってやろうか
炒飯ぐらいならお手の物だ! 任せろ!」
「あ、上杉さんのお父さんのご飯気になります!」
「え!? 食べてみたいです! 作って作って!」
「私も食べたい…」
「やめてー! お父さんの炒飯、コショウ多いしお肉の油でギトギトになるから無理!
お米べちゃべちゃだし、零奈さんのご飯で舌が肥えた皆には辛いから! 絶対無理!」
「そ、そこまで言うかー!? 美味しい美味しいって全部食べてくれたよな!?」
「うちはいいけど、零奈さん家は駄目! 門外不出にしてて!」
「お年頃か」
らいは断固反対。残念がる五つ子たちに囲まれて親父は馬鹿笑いしていた。悪目立ちするサングラスに怯える子供たちはいなかった。
入学式以来か、こいつらが勢揃いして親父と顔を合わせるのは。二乃と四葉は度々遊びに来たことはあったが。
仕事で忙しい社会人に休日に畑仕事は拷問でしかないだろう。なのに文句一つなく働いている。
「親父、少し休めよ
こいつらに付き合ってると干からびる」
「おう、適当に休憩するわ
…そういえばよ、おまえは大丈夫だったか?
俺がいない間にしつけぇ勧誘とかなかったか?」
「? いや、借金取りがたまに来るが…何かあったのか?」
「…
あー おまえには伝えておく」
頭を掻いて子供たちから徐々に離れていく。空気が変わることを察して、風太郎もついていった。
鍬を振り下ろしてジリジリと日に焼けていく。親父は一呼吸置いて、鍬を地に刺した。
「下の店をな、買いたいって言ってる奴がいる」
「は? あ?
下って…まさか、お袋の店か?」
寝耳に水の発言に、風太郎は作業を止めた。
家の下…玄関の階段を下って真横にある店。シャッターを下ろしてもう何年になるか。
母の数少ない遺産である、母親が経営していた個人喫茶。手作りパンが人気で、俺も親父も好きだった。
「…」
「おい、風太郎?」
「あ、ああ…悪い、急な話だったからよ
暑さで頭回ってねえな」
母が亡くなり、店主が消えたあの店を買われる。
誰かに盗られるという強迫観念が無意識に迫っていた。
大事なものが知らぬ間に、手の平から零れる。嫌な感覚だ。
今まで然して気に留めていなかったものでも、突然の不快感に苛立ちが走る。
親父は鍬を振るった。その背中は汗まみれだった。
「立地は良いからな、あそこ
母さんが現役の頃は人気だったしで穴場なんだろ、それで狙ってるんだと」
「物好きな…大して広くねえのに」
「…
売りたいか?」
「…
あんたが決めろよ
俺は来年、家を出るし…親父とらいはとで決めればいい」
「…」
「借金丸々返せるのなら良いんじゃねーか?」
「あー…提示された額は借金返済しても余るくらいだな
何なら退去の謝礼に、家も格安で紹介するってよ」
「マジかよ…何かきなくせぇ」
今は大金が絡む陰湿な話題はしたくねえ…子供たちの前で金だの借金だの騒ぎたくない。
親父は現状だけ伝えて離れて行った。大学に受かったら家を出る。あそこに住む二人の意見が重視されるべきだ。
…破格の値段で売れるのなら…売ったほうがいいのかもしれん。
俺の受験もあるし、らいはの中学進学、3年後には受験だ。
俺に決定権はない。親父の意向に沿って協力するだけ。
雑談を終えて畑仕事をしていくとようやく終わりが見えてきた。
十分地面を耕し終えて、石灰を撒いて肥料を混ぜ…。やっと下準備ができた。
これから種を蒔いて………いや、待てよ。
「なあ…確か肥料撒いたら数日は時間置くんだろ?
種蒔くのか? それとも今日の仕事はもう終わりか?」
「えっとね、大家さんがね
2週間くらい前に準備してあるから、そっち使っていいよって」
「あ? もうやってくれてたのか? どこだよ」
「あっち、反対側
あっちのほうが土が良いんだって」
「…
なあ…俺たち、耕した意味なくね?」
「何でそれを早く言わないの、五月ちゃん?」
「は、はわわわ…い、一花ぁ」
「よしよし、五月ちゃんよく言えたねー
私もすっかり忘れてたよ」
「良い汗かいたなぁ!」
訳も分からず怒られる末っ子は長女に泣きついた。その長女は既に過ちに気づいても黙秘していたらしい。
俺たちの数時間の労働は徒労に終わった。雑草抜きしただけじゃねえか。渋々プロが下準備した範囲に種を蒔いた。
後は水やりをして終わり。と最後の締めに入る頃合いで、女子から悲鳴が。
「きゃーっ!? 何してんのよ一花ァ!」
「暑いからちょうどいいじゃん、おりゃー!」
「冷たい…に、二乃…壁になって」
「あんたそうやっていつも私を盾に――ひやぁあ!」
「四葉、四葉ぁ 置いていったらやです!」
「だ、だって一花本気なんだもん
う、上杉さんのお父さん、一花止め――あ」
水を溜めたじょうろを振り回して、妹に水を浴びせようとするガキ大将がいた。さっきまで怠けてたくせに。
怠惰で遊び好きな一花だ。この暑さに嫌気がさして水遊びに興じ始めた。
お陰で四人の妹が全力で逃げている。二乃は既にずぶ濡れに。足の速い四葉は足場の悪い畑の上でも器用に走る。
四葉は年長者の親父の元へ駆けつけたのだが…大人が担ぐ武装に四葉はUターンした。
その背中へ、しなる水の曲線が後を追う。
親父は近くの水道に備わっていたノズル付きのホースを持ち出していた。大人げない。
「ガハハハ! じゃじゃーん! 見てみろ、この最強の装備を!
一花ちゃん諸共、一網打尽にしてやるぜ!
おらおらー! 逃げろ逃げろ!」
「こらー! お父さん!
人の水道で遊んじゃ――ぶはぁっ!?」
親父、問答無用で愛娘の顔面に水をぶちまける。
「ちょ、お父さん…タンマ!
って、何でみんな私の後ろに――ぶ…い、いやぁああ!
お、お兄ちゃぁああああん!! 皆が虐める!」
「先生に報告してくるわ」
完全に遊んでやがる。水やりは任せて兄は退散させてもらう。
親父は逃げるらいはを狙って水を発射し、そのとばっちりを受ける五つ子がきゃっきゃっと駆け回っていた。
畑の上で水を撒くもんだから土が泥になり、既に子供たちの靴やズボンは茶色に変色していく。
母親が見たらゲンコツが飛んでくるぞ。親父にも。
このまま居座っていたら巻き込まれるのは分かりきっているので避難だ。
「先生は家で仕事か」
夏休みに入り、今日は日曜日。マネージャー業務から解放された風太郎はフリーな一日。
教師に夏休みというものはなく、あってもお盆休み。とはいえ、仕事に追われていると貴重な休日も潰れるという。
先生は手が離せず家で仕事を続けているらしい。教師はつくづく無償の奉仕が多い。
階段を上がり、中野家の前まで辿り着いた。
今日は昼食を共にすると約束しているので、夏の猛暑から休ませてもらおう。
「お邪魔します」
「…お疲れ様です、上杉君…暑い中、精が出ますね
もうそちらは終わったのですか?」
「途中で抜けてきた、暑さに参って水遊びしてやがる
帰ったら風呂に直行ですよ、あと洗濯」
「まぁ…それは…楽しそうですね」
「あいつらの無残な姿を見てから言ってもらいたいものだ」
普通子供の服を汚されたら憤慨するものなんだがな…親父はやり過ぎた。
だというのに、母親は子供たちが外で楽しく遊んでくれる嬉しさが勝るようだ。夏の思い出が一つできるのなら。
ちゃぶ台の前に座って先生は仕事に励んでいた。が、風太郎の来訪に物を片付けてしまった。邪魔してしまったか。
そのまま恩師は立ち上がり、冷蔵庫のお茶と冷たい氷をコップに注いでくれた。
ありがたく頂くべく、先生の対面に座った。ハンカチで汗を拭きつつ、火照った身体を冷やした。
暇を持て余しかねて、先まで広げていた書類の量を思い返す。あの仕事量を今日中に終わらせるのか。明日は出勤日のはずだ。
ろくに休めず勤務時間も長い恩師を労わりたい衝動に駆られる。何か手伝いたい…あの畑仕事以外で。
「…」
「…」
お互いに無言になってしまった。強張る身を誤魔化してテーブルに肘をつく。
何も言わず、何もせず、ちゃぶ台に座るだけで…俺も先生も目を逸らしたまま。
カラン…と氷が崩れる音が。それを合図に、頬杖をついたまま…先生を見やる。
「小学生に入って初の夏休みだろ
宿題出たんですよね?」
「ええ…まだ手付かずですね
上杉君にも課題を出していますから
娘たちを気遣ってくださるのは助かりますが…ご自分の分も忘れないでくださいね」
「昨日で終わった」
「…まだ二日目なのに…
…本当に勉強が好きなのね」
「なぜ呆れたような目を…誰のせいだと思ってやがる」
「…」
「…
やることは終わったので、あいつらの家庭教師は続行ということで
マネージャーも引退したし」
「はい、よろしくお願いします
…ありがとう、ございました」
陸上部のマネージャーから解放されて、五つ子たちの家庭教師に時間を割けられるようになった。
先生は恭しく頭を下げる。俺が先生の代替わりになった謝罪も含まれているのだろう。
目を逸らし、気を逸らして手で仰いだ。
室内でも続く熱気に襟や袖にじんわりと汗が滲む。
冷房はあるのに使われていない。扇風機と微弱な風に揺れる風鈴の音が涼しさを表現している。形だけで暑いのだ。
子供たちが戻れば点けるだろうに。冷房の電気代を節約しているのかと勘ぐってしまう。
…一度考え出してしまったら沼にはまる。遮るべく風太郎は恩師に話しかける。
「アパートの庭、広いし…ビニールプールとかあったら喜ぶんじゃないか
だいぶ古いが、家にあったんだ
まだ使えるし、欲しくないか?」
「お気持ちはありがたいのですが…もう小学生になった五人には窮屈でしょうね」
「なぜ5人一気に入る前提なんですかね…」
俺の返答に先生は苦笑した。まあ精々使えても、まだ五つ子が小さい今年か来年くらいだ。すぐに不要になる。
真昼に差し掛かり、蝉の鳴き声が一段と強く聞こえる。
だんだんと床を照らす日向が伸びてきているのが分かる。
眩しいからか、先生は立ち上がって窓のカーテンを広げる。日向は薄っすらと隠れてしまった。
外を眺めて、先生から口を開いた。
「でも、プールか…海…行きませんか?」
「…」
「車を借りて…らいはちゃんや君のお父様も誘って
子供たちが、泳げるようになりたいと言っていたの」
「良いかもな、俺としても受験前の良い思い出になりそうだ」
子供が大きくなれば、それだけ活動範囲は広がる。母親に手を引かれるだけの存在ではなくなる。
時には子が母を引っ張り、望む地へ誘導するのだ。その地で多くの体験を経て成長していく。
貧乏な家庭ではそのハードルはとても高く、また母親一人で五人の子供を見る負担もまた厳しい。
遠出先で親一人では面倒を見切れなくても、上杉家の3人が加われば不安要素は減る。
今までしてあげたくてもできなかった欲求だったのかもしれない。3月の約束が意味を成したと感じられる。
手を合わせ、先生は珍しく嬉しそうに微笑んでいた。
「山もどうでしょう
私の実家の近くに山があって、川もあって…子供の頃はよく遊んでました
楽しいですよ、採れたての山菜や魚でバーベキューもできます」
「へぇ…それなら親父が喜ぶな」
「息抜きになれば、よろしかったら是非」
「…ああ、聞いてみます」
海の次は山。ひと夏で2つ行くとは存外アクティブな人だな。子供たちは大喜びだろう。
窓際から離れて、対面ではなくやや斜め…円を描くちゃぶ台からしたら横になるか、先生は腰かけた。
黒い髪を揺らして、具体性のない計画に先生は声を弾ませている。本当に珍しい。
無邪気な子供のように、あの五つ子たちを連想させた笑みから一変。
真剣さを帯びた視線で射抜かれた。胸に手を沿えて、真っ直ぐにこちらを見ている。
「…後…最後にもう一つ」
「まだあるのか、珍しく積極的だなあんた
どんだけ待ち遠しかったんだよ」
「誘ったのは貴方ですよ、上杉君」
「…俺?」
呆れて胸いっぱいだと天井を見上げていた風太郎の手に、上から重ねられた。
冷たい手だった。夏には気持ちの良い体温で、ふいに手を引っ込みかけた。
手は引けなかった。上から重ねられたのではない、抑えられていた。
見下ろせば風太郎の手は恩師の手の平に覆われ、捕まっていた。
「せ、先生?」
「約束したでしょう、去年の夏に…あの公園で」
「…や、約束…」
「覚えてますか?」
「…
夏祭り、だろ」
「…」
「…ふ、ははっ」
笑ってしまった。これは嘘。
先生の真剣な眼差しがちょっと間抜けなものに変わった。
余裕がなくて距離を取りたかった。暴かれるのを防ぐべく、誤魔化す為に笑った。
これほど近いから分かる。
先生はむっとして、眉をほんの少し吊り上げて…怒ってるようで怒っていない表情を作っていた。
嘘はついても、言葉を偽ればこの人にはバレる。だから笑うしかない。
「なぜ笑うのですか」
「去年の秋だったか…あの約束をしてから
あんたの病を知って…3月までは、この約束は果たされないと思っていたんだ」
「…」
「だからか…正直、結構嬉しかった
いや、安堵した
またあんたと行けるんだな、祭り」
「…上杉君、待ってくれていたのですか?
私から誘うのを」
「…まあ、あんたとはその後に別の約束をしたからな
証明してみせると俺は誓った
だが…あんたを支えるにはまだ足りていないのは明白だ
卒業した後は先生とも疎遠になるしな…これまで過度な期待はしないようにしていた」
「………」
「祭り、楽しみだな」
「…そうですね…」
本音を言い切り息を吐く。先生は思案するような視線を床に落とした。
夏祭りに行く口約束にそこまで考えていたのか。先生に引かれてしまっただろうか。
先生には直接は言っていなかった。俺は大学に進学すれば上京する。
引っ越せばこうも簡単には会えない。五つ子とも顔を合わす機会は減り…今度こそ忘れられるかもしれない。
先生は無表情で、風太郎の言葉に何も返さず。静かに手を離して身を引いた。
急激な緊張が去っていき、風太郎は一呼吸置く。
その仕草を面白くなさそうに捉えた先生が一睨み。風太郎は息を止めて目を逸らした。
「約束を果たしてもらいましょう」
「…何?」
「父親代わり…と言ってくれた貴方の言葉を全て受け止めることはできない
君を束縛してしまうから…ですが、一定の拘束力はあると捉えてよろしいですね?
私の質問に誠実に答えていただきます」
「…な、内容によります」
「…変な、内容になってしまうかもしれません」
「…」
「最近の君の態度の変化…といいますか
いえ、今年度から初めて君の担任となったので
…貴方を深く知っていたと、自惚れたりはしません
ですが、それでも…そう受け取れざるを得ない部分が伺えたので」
「と、言われてもな
俺のどこが変だってんだ」
「…
君が私に、よそよそしい…と感じられて」
「あ、あー…」
やばい、体温が上がっていくのが嫌でも分かる。バレるのも時間の問題だ。
去年よりも明確に距離が近づいた高校3年生活。担任に見られている時間が増えて…居心地が悪かった。
先生の目を見て分かった。この二人きりの空間、緊張していたのは俺だけではなかったんだろう。
先程の海や山の誘いは牽制でしかなく、本題はコレだ。
あれから先生と目を合わせるのが苦手になってきている。異変を感知されて問い詰められている。
どう謝ろうか思考を巡らせていると、中野先生は俺以上に項垂れていた。
え、何事…? 何でだ、俺が責め立てられるんじゃなくて?
「いえ、思い当たる節はあるのです…
…い、幾つか…」
「はい?」
「…馴れ馴れしく…触り過ぎ…ましたね…背後から」
「…」
すぐに思い出した。河原で先生に肩を抑えられて、その胸が後頭部に当たりかけて肝を冷やした日があった。
肩に触れられる先生の手の感触が蘇ってきた。長い髪から漂う香りも。
俯いて揺れる恩師の髪からも同じような香りがする。手を伸ばせばその髪に指を這わせることもできる。距離が近すぎる。
「手も繋いでしまいましたし…下校中に堂々と」
「…」
夜遅くなった帰り道。街頭の明かりなど気に留めず教師と生徒が手を繋いでいた。
握られたというか、握り合ったというか…捻られたっつーか…
「舞姫の話に触発されて、君を…
ですが、知りたかったんです…」
「も、もういいです…言いたいことは分かった」
身籠った女を見捨てた男の物語。男に赤子と一緒に捨てられた女は、男に媚びずに一人で努力していた。
あの時は逞しい恩師に惚れかけた…が、後に子供のように不貞腐れやがった。俺に片思いの相手がいると誤解して。
先生と約束を交わし、3年になり…色々とあった。
総じてこの一連を評価すれば…近すぎたに決まってんだろ、先生。
思い出して顔が赤くなるなんて馬鹿馬鹿しい。隠すのが大変で、手で先生の視線を遮るしか手段はなかった。
先生に見られている。見てほしくない。証明し続けると言ったのに…拙い部分を見ないでくれ。
せめての抵抗として、教師に常識を突きつけるべく冷静に返してやろう。
「…意外、だな
あんた、それなりに意識してたんですか、俺のこと」
「…」
「あまり声に出さない方が…」
「そ、そうですが…」
「…
いや、すみません
あんたは悪くない」
「え?」
「俺が不調なだけですから…気にしないで下さい
いつかは元に戻りますから」
「いつか…とは」
「………」
「…卒業した後、よね…君の門出を見届けたらもう…
そうよね、私よりも素晴らしい大人や教師に出会い…君は前に進んでいくんでしょう
私は貴方の通過点でしかないわ」
「…そうじゃない、あんたは俺にとってただ一人の先生だ
もう忘れない、先生のことは…もう忘れない」
「…上杉君」
「よそよそしかったのは…
俺が、あんたを貶していたからだ」
言いたくないからと言って、この人に全て言わせて逃げてはいけない。己を恥入り、頭をかきむしる。
確かに卒業すれば、先生を意識せずに普通に接することはできるだろう。成人すれば学生時代の気持ちも風化する。
しかし何も解決にならない。いつかは思い出すんだ。罪悪感は消えない。
言ってもいいのか。侮辱でしかないのに。本意ではないのだから…胸の内に隠すべきだ。
建前がいくら頭の中を占めても、吐露したい気持ちから続けてしまった。
もう先生の目は見れない。
「くだらない邪推なんだ
あんたが…
金に困って、水商売に走らないかと」
「…」
言ってしまった。男と夜を過ごすのではないかという、女性に対して酷く…失礼な物言いだ。
先生は驚き、言葉の意図を汲み取って、唇を強く噛みしめている。
辱められたから気を害したのではないのだろう。子供を育てるには力不足だと指摘されて心を痛めたのなら。
いくら稼いでも教育費が嵩み、金が足りない。
多忙でこれ以上働けば倒れる。子供を愛する母親だ。
ならばこそ、短時間で多額の金が稼げる術がチラつくことだろう。エゴや理想で金は増えない。
「考えると…なぜかイライラする
想像したくねえ」
「――」
暗に辞めろと言っている。他人が言えることではない。
勝手に妄想し、辱め、気が狂い、可能性を否定し咎めている。俺は何をしているんだ。
上杉風太郎は壊れてしまったのか。恋愛など愚かだと言い続けて、こんなことになるとは思わなかった。
「これはあんたを見誤っている…
だが、あんたが子供を庇う覚悟の重さは知っている
体を壊してまで努める先生なら、身売りする可能性はゼロじゃないだろ…?」
「上杉君…」
幾人の男が見惚れる美人だ。バツ1の女にファンクラブができる意味を考えてほしい。
2年の時に先生の存在を知り、3年で先生と近しくなり、周りの声を認知して分かった。
男子高生が向ける中野零奈の女としての価値を。美人でスタイルが良い女教師は男の目を集める。
交際したいだの、一度切りでいいから体の関係を持ちたいだとか、見苦しい欲求に利用しようとする男は大勢いる。
学生以上に成人した男の欲望は生々しいだろう。
俺が知らないところで恩師は男に言い寄られている。
以前の俺だったら、勝手にしろと言って子供たちの視線を逸らすくらいの気遣いはしてやったさ。
だが今では…一度は男に裏切られ、子供ごと捨てられた女を…これ以上苦しめないでくれと怒りが湧きだす。
「あんたは、俺の憧れの人だ
もう傷つくことも…穢れてほしくもない」
「う、上杉君…」
「先生、俺は…求められる人間になりたい…
その為に努力してきた、これからも変わらない
だから、先生
俺にできることがあるのなら、何でも――」
俯いていた視界の端で、黒くて長い髪が乱れ、揺れている。
視線を上げれば、目の前の恩師が顔を横に振り、顔を手で覆っていた。
取り乱すところを見たことがない、わけではなかった。
だけれども、これほどに先生が気持ちを露わにする姿は知らなかった。
違う、こうなってはいけない。先生は何かを呪った。
「待って、お願いですから…それ以上は言ってはいけません
…だから貴方はマネージャーを引き受けたのね…」
「だったら何だ、約束はその為に――」
「やめなさい、上杉君
誰かに求められる為に、自分を偽らないで」
「偽るも何も…俺はもうそんな場所にはいたくねえ!
俺はあんたに咎められたあの時から、変わろうと…!」
「それは…私が言いたかったのはそうじゃなくて
変わってほしかったんじゃない
元の、私が知る風太郎君に――」
「あの時の俺には価値がないと言ったのは先生だろ
だから俺は誰かに求められる人間に――」
「もうやめてッ!!」
肩を掴まれた。強引に言葉を遮ろうと、先生は風太郎の口を手で覆った。
手を伸ばして突き飛ばさんばかりの勢いで、風太郎は後ろに仰け反りながらも…従いはしなかった。
恋愛など愚か者がすること。ピークはそれまで。自身が過去に言い放った言葉は間違っていなかった。
見上げる先で、俯く先生の目尻には涙。教え子の言動に傷付いたのかと驚く前に、先生は訂正した。
乱暴な手つきが、やがて頭へ。先生に頭を抱かれた。
胸に強く抱きしめられて、暑苦しくて、胸が苦しかった。
「私のようにはならないで…お願いだから」
「…
俺は先生のような人間に――」
「私も、同じだった
あの人が求める自分であろうとして、私の為に言ってくれる言葉を信じて…好きになった」
「え」
「何も考えずに、その生き方が正しいと信じた
あの人との人生を求めて…子供もできて
でも…でもッ
そんな人形のような女が、選ばれるわけないでしょう…!?」
「せ、先生…」
女の手が降りていく。か弱い女が泣き崩れかけている。
懸命に教え子を導く姿は、俺が求める理想像だった。
でも、痛ましくて、嘆きを堪える恩師に熱は冷めていく。
「私は捨てられた
だから、風太郎君…私のようにならないで…
私の気持ちが歪んだ愛執であり、呪いなのなら
君の気持ちは祝福になって」
過去、失敗ばかりだった恩師は教え子を導く。
「君が憧れると言ってくれたから…風太郎君
私にとって何よりも…一番の祝福だったから
救ってくれてありがとう…だから感謝と…恩返しを
どうか、幸せになってほしいと…願っています」
涙を拭い、前のめりになっていた先生は姿勢を正す。
中野零奈と同じ道を目指したかった。不出来な自分から変わりたかった。
だが、その先に幸福はないんだと、先を歩む人は必死に押し戻そうとしている。
もう戻れないことに泣いて、笑って手を振れる人間になれるように…教師を続けている。
先生に求められる道に固執すれば、いずれ失敗する。今もそうだ、案じている一方で人の気持ちを傷つけている。
「勝手、だな」
「…」
誰が、とは言わない。
中野零奈の言葉は…間違っていないかもしれない。だが…何もかもがそうだとは言い切ってほしくない。
風太郎は俯く。失言に続いて恩師の心を傷つけた。謝罪しても重い罰に、戸惑いが勝っていた。
見苦しい姿を見せてしまったことに中野零奈は一度心を落ち着かせる。
「…」
お互いに沈黙を。時の経過による沈静化を求めて、何も言わない。
…女教師は教え子を見やる。
その目から徐々に律したものが欠けていく。
一度見せた醜態。もはや修復はできない。あと半年で疎遠になる。
教師でなければ。教え子など関係なければ。
懺悔の告白をした心に従って、零奈は床に指を這わせて腰を浮かせた。
「体を売る、ですか…」
「…」
「正直に申し上げますと…男性からのそういったお誘いは幾度もありました
夜の相手をするのなら、それなりの金額を貢ぐと」
「…だが、あんたは断って――」
「どうかしら…今までは断っていてもこの先はどうなるか分からない
私にとって娘が一番だから
もし困窮に陥った時には…考えなければならないわ
私も五人の母親になったからと言って…枯れているとは言い切れないもの」
「は――」
「疲れた時には、男の人の腕の中で、守ってほしいと思う時もあります
少なくとも、貴方が憧れる人間ではなくなる」
一度愛した男に捨てられた女は、容易にその壁を越えてしまう。風太郎が常々抱いていた危機感だった。
いくら鉄仮面と恐れられる女でも快楽を切り離すことなど不可能で。
赤子五人を捨てた男より良い男は星の数はいる。自分より優れた男も同じく。
そういった意味でも…体を許すことで得られる至福があるだろう。
風太郎は浅ましくも思ってしまった。
求められないのなら潔く身を引く。至極利己的な考えだ。自分は不要なんだ。
もう何も言うべきじゃない。無力だったんだ、俺は。
「ですが」
また…いつの間にこんなに近づかれていたんだ。
目の前に恩師の顔が。慌てて後ろへ下がると、背に壁が当たる。
これ以上は下がれなかった。なのに先生は近づいてくる。
開いている足の間に先生の手が。四つん這いになって迫る女教師に硬直してしまった。
「私にも目指すべき目標があります
貴方が憧れる教師で在り続けたいから
…それ…に」
「…それに?」
「…」
「…?」
先生の髪が首筋と胸を掠める。少し寄れば先生の指先が太ももに触れる。
女の膝が足裏を押しやってくる。壁をこじ開けて入り込んでくる。
普段は堅苦しい姿なのに。家の中、夏の暑さで開けられたシャツの第一ボタン、その隙間から胸元が覗けてしまう。
何をされるのか、風太郎は予想できても…あまりにも恩師の行為から逸脱していて、思考が止まっている。
零奈の右手がズボンからシャツを這い、風太郎の頬を撫でた。
「…もし、もしも…そのような情事に手を出すというのならば
先に支払うべき男性がいるもの」
「な、何言――って………」
憧れている女の顔が、より迫ってくる。
俺の腰の上を跨いで。意識すれば嫌でも目についてしまう胸が当たっている。
力を緩めればきっと覆いかぶさられる。
「私の娘の家庭教師の先生に」
「――」
「ちゃんとお金を払っていないもの」
は…?
「4月からお願いして…これまで滞納している分
お金の代わりに私に払えるものがあるのなら教えてくれませんか
何でも…言ってください
私に求めるものを…」
ぎゅっとシャツを掴まれた。その手が肩を掴み、片方の手が腰元へ回ってくる。
先生は教え子からの返答を待っている。そのはずだ。
なのに…十も年上の女は、徐々に顔を寄せてくる。吐息が唇に当たる。
何も言わなければ好き勝手される。教師と教え子が…こんなことをしていいわけがない。
そう分かっていても、動けずにされるがまま。
「…」
「…」
どたどたと…けたましい足音が聞こえた。
俺と先生は玄関のドアを見やり、ものの数秒で迫る無垢な存在を察して、一斉に立ち上がった。
立ち上がった先生の胸に顔が埋もれてしまった…危惧していた事故が発生してしまった。
感触どうこう言っている場合ではなく、俺も先生も平然とした顔で距離を取った。
「暑いぃいい!! お母さんお風呂入りたーい!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ一花!
泥落としてからにして! 家が汚れるでしょうが!」
「フータロー…6人で力合わせてお父さんを倒したよ、ぶい」
「あはは…お姉ちゃんも上杉さんのお父さんも、泥まみれになっちゃったから
お着替えしに帰っちゃいました」
「上杉君、さつまいもってすぐ育つんですか!?
どのくらい? 明日? 明後日?」
「もうそこで脱げ、おまえら」
「私の娘を何だと思っているのですか…やめてください」
よく知る日常が戻ってきた。日陰から見る日向には子供たちが笑っていた。
五つ子が帰ってきたのだが…全身泥だらけ。髪まで汚れてやがった。
貧乏なんだから服を無駄にするんじゃねえと叱っておく。先生も注意を促して…いつもの風景だった。
「…」
子供たちが来なければ、絶対にしてた…キス。
未遂で良かったと言っていいのか…惜しいと…思っているのか、俺は。
器用に子供たちの服を脱がして風呂場へ誘導する先生から、泥で汚れた服を受け取る。洗濯機に入れる前に手洗いせねば。
…さっきまで男を誘っていた女の指先は、泥まみれだ。
あっという間に、子供を育児に追われる母親のものに変わっている。
「…先生」
「は、はい」
「…家庭教師代の代わりの…話だが」
「―」
五つ子が密集する風呂場が騒がしい。日常は続いていて、俺も先生も壊すのは不本意だ。
…俺も先生も、あいつら五人が大事だ。
もし天秤にかければ…子供たちを選び守っている。
だから、言えるわけがねえ。
「…勉強教えてくれ」
「………
わかりました」
「いいのか…?
教科書は全て網羅したつもりだ
手詰まりを感じていたところなんだ、正直助かる」
「ええ、教科書に載ってなくても大切な知識はありますから
私が責任持って、みっちり教えてあげましょう
貴方が泣いて、やめてと懇願しても手を抜きません
試験前は夜通しやります、覚悟してください」
「受験前に徹夜とか落第するわ…
つーか手…痛いです先生、泥が付着してるんですけど」
「手跡、付いてしまいましたね」
「…狙ってやってる?」
「…君こそ…何ですか、教科書に載っていないものって」
「事実ですし、他意があると思う方がおかし――いたたたっ!!」
家事をこなす女の握力を嘗めてはいけない。腕をギリギリ絞められて降参した。
先生はやれやれ…と言いたげに、変わりつつあった空気を収めてくれた。
…初めて年上の女の恐ろしさを味わった。力とかそんなものではない、もっと別のものだ。
「…あー…恥ずかしい…」
「…」
虚勢が空しい。
我ながらおかしい。心臓がうるさくて、いくらこの感情を貶し見下しても静まりそうにない。
あのままキスしても良かった。迫られて、したいと思ってしまった。
煩悩に犯されて馬鹿になっている。恋愛なんてするべきじゃない。憧れだけで十分だ。
好いていると自覚しても、この感覚は不要だ。
拙さを露呈させてしまう、負の感情だ。処理しきれていない。
約束を果たす、それが最優先なのに。
もう…願えば届くと知ってしまっては、これ以上先生の顔は見れそうにない。視線を感じても返せなかった。
子供の額に口付けするのとでは、まったく違ったことを思い知った風太郎だった。