五等分の園児   作:まんまる小生

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後の後その4 適性のない長距離走

「いらっしゃいませ」

 

 

 

 乾いた晴れ模様が続く7月。風太郎にとって貴重な稼ぎ時であり、この日もバイトに出勤していた。

 

 夏のケーキ屋は売れないイメージがあるらしいがそんなこともなく。年々客足が増えたり新メニューだったり忙しい。

 

 ウェイターとしてホールを忙しく駆け回っていたのだ。若いねーとバイト仲間は消耗しきっていたが。

 

 高校生がきびきびと働いているのだから、長である店長も真面目に働いて然るべきだろう。

 

 うちの店長はさっきからずっと窓の外を睨みつけている。その上ブツクサ何か呟いている不気味さもある。

 

 一向に動かないその銅像に名前をつけるとしたら、見苦しい嫉妬と刻みたい。

 

 

 

「いつまでやってるんですか、悪目立ちして客減りますよ」

 

「上杉君…君も向かいの怨敵を見るがいい

 うちの常連さんが流れてしまっている…由々しき事態だ…」

 

「怨敵…ああ、春にできたパン屋ですか」

 

「そうだ、君が迂闊にも五つ子ちゃんたちと行った、あの糞パン屋だ」

 

「根に持ち過ぎでは」

 

 

 

 バイト先の店長の観察対象は、以前三玖と四葉が世話になったパン屋だ。

 

 店長と並んであの店を注視すると、来店した時は閑古鳥が鳴いていた店内に客が密集していた。

 

 行列もできてやがる…それに主婦層が多いな。

 

 つまりうちのメインの客層。店長が執着するのも商売上致し方ない。

 

 

 

「おのれ…どうせ激安セールとか、一個オマケとか無償セールをバラ撒いたに違いない

 馬鹿め、一時的に効果は出ても長くは続かない、商品で勝負しないとね…

 自分の首を絞めていることを分からないのか、ハハハハ、死に物狂いであがくがいい」

 

「あそこ、結構美味しいらしいですよ

 うちのお客さんが絶賛してた

 あの客たちがリピーターになったら、だいぶ搔っ攫われますね」

 

「………」

 

「店長も行ってみたらどうです? 何か良い刺激貰えるかもしれませんよ」

 

「これ以上刺激されたら、僕はあそこに殴り込みしかねな――

 あああああああっ!! 上杉君、上杉君!

 一大事だ!! 中野さんたちがあそこに並んでいる!」

 

「え…?」

 

 

 

 店長にエプロンをしこたま引っ張られる。何が悔しいのか分からないが、引き裂かれそうで戦慄する。

 

 もう一度パン屋に目を配ると、店の前で…一花と四葉を連れた中野先生がいた。

 

 …あの様子だと、あのパン屋でパンを買うのだろう。当然である。

 

 四葉がしきりに母親の手を引いていた。四葉が勧めたのだろうな、今日の中野家の昼食はパンで決定である。

 

 

 

「上杉君、行くんだ」

 

「…行くって、あそこですか

 いや…営業妨害でしょ、人の客取るなよ

 マリー・アントワネットも、パン買う人間にお菓子を勧めないでしょう」

 

「まだ来店するとは決まっていない! 今しかない!

 生憎僕は糞パン屋に顔が知られてしまっている、君なら中野さんを誘えるだろう

 君が誘えば中野さんはOKを出すから!」

 

「いや、そうはならないでしょう」

 

「中野さんたちが来る度に、君が働いてるか聞いてくるんだ

 うちのケーキ目当てでもあるが、君に会いたくて来ているのは間違いない!

 三人を連れてこれたら賄いを奢ろう

 長めに休憩して良いから、頼んだよ!」

 

「欲望の化身だな、あんた…

 あっちに文句言われた時は弁明してくださいよ」

 

 

 

 店長命令だ。しがないアルバイターに拒否権はない。賄いの為に客引きをするはめに。

 

 宣伝用のプレートを持ち、新作のケーキをアピールすべく外に出た。クソ暑いから室内に籠っていたかったのに。

 

 行列に並ぶ中野家御一行を視認。パン屋の前で誘えば対立を煽るので、ケーキ屋の前から誘うしかない。

 

 

 

「…」

 

 

 

 …先生の顔を見ると嫌でも緊張する。先日のキス未遂の後遺症はでかかった。

 

 声が掠れて上手く発せない。というか…会いたくねぇ…

 

 何で子持ちの女に俺がここまで翻弄されなくちゃいけないんだ…おかしいだろ。バツ1だぞ、あの人。

 

 立ち尽くしていると…視界の奥で、四葉がこちらを指差していた。

 

 先生と一花がこちらを見ているのが分かる。そして一花が手を振って、母親の手を引いて向かってくる。

 

 

 

「フータロー君、こんにちは! お仕事お疲れ様」

 

「お疲れ様です、上杉さん!」

 

「…こんにちは、上杉君

 熱くありませんか、仕事とはいえご自愛なさってくださいね」

 

「…さっき出たばかりなんで」

 

「…」

 

 

 

 日光を遮るべくプレートを掲げる。お陰で先生の視線から逃げれた。

 

 バンバンッと背後の窓を叩く音が。振り向くと店長がサムズアップしていた。

 

 こっちの気も知らずに…子連れのお客様に接待しろと脅迫してやがる。

 

 店長の姿を目視した三人は苦笑している。すみませんね、せっかくの買い物に横槍入れて。これも仕事なんです。

 

 

 

「四葉、お母さん、どうする?

 パン買いに来たけど…」

 

「うん…お昼ご飯にケーキは虫歯になっちゃうよ」

 

「身も蓋もないこと言うな」

 

「そうですね…

 こちらのお店には娘共々何度もお世話になっていますし

 パンを買ったら…帰りに寄っていいですか」

 

「どちらでも、形だけの客引きなので

 出費を避けたいのなら、無理には…」

 

「…」

 

「…なんすか」

 

「…

 やっぱり迷惑、でしたか…すみません」

 

 

 

 母親の発言に一花と四葉が疑問符を浮かべる。先生は沈痛な表情でこちらを見ている…気がする。プレート越しで。

 

 先日の一件を思い返すと、お互い思いの丈をぶつけ合ったと言える。

 

 帰って冷静になれば自己嫌悪。先生もまた己のはしたなさに後悔しているのだろう。

 

 距離感を改めて取り直そうとしている。そして先生は…極めて謙虚な人だ。

 

 

 

「…予約、は承ります」

 

「…します

 選ぶのは、お店の中で」

 

「でしたら、待ってますんで

 いいですよ、こっちのことは気にせず

 あんたらを他のところに取られなくて一安心、のようだからな」

 

「…はい」

 

「わーお、フータロー君ってばヤキモチ焼いてる?

 えへへ、じゃあ後でそっち行ってあげるねフータロー君」

 

「は、離れちゃったからまた並ばなくちゃ

 上杉さん、上杉さんにもパンあげますね!」

 

「俺は店長奢りの賄いあるから、いらん」

 

 

 

 約束は取り付けることはできた。予約は取れたのでノルマ達成。

 

 先生らは踵を返し、パン屋へ向かった。人気の店での買い物を楽しむことになる。

 

 その背を見送り店内に戻る。後にケーキを買いに来るというのに、なおも店長は悩ましげにごちる。

 

 

 

「…事なきを得たが…くっ

 あの糞パン屋と争っている場合じゃないのに」

 

「何かあるんですか?」

 

「噂に過ぎないけど、都内の有名な個人喫茶がこの町に店を置くとか何とか

 ライバルが増える前にうちの店の人気を確たるものにしなければ…」

 

「…店が立つんですか

 店長、その移ってくる店って…もうどこにできるか決まってるんですか?」

 

「いや、まだ決まってないらしいよ

 最近僕も知ったんだ、ここの並びの…ほら、あのコーヒーショップ

 古い個人経営の店主にそういう話を持ち掛けられたらしい」

 

「話って、今も経営している店にですか?

 事業譲渡ですか…?」

 

「いや、コーヒー屋が丸々潰れるんだ

 繁盛しているならまだしも、そうじゃない店もあるからね…迷っているらしいよ

 あそこはうちのの仕入れ先だし…弱ったな」

 

「…」

 

 

 

 店長から聞いた情報と、先日親父から聞いた買取の件が合致してしまった。

 

 つうか店を建て直すのかよ。そうなると2階に住んでる俺たち住めねえじゃん。なら断固お断りだ。

 

 小さな店同士で客の取り合いになっていると潰されかねないらしい。店長は憂鬱そうにキッチンへ向かっていった。

 

 しばらくして来店のベルが鳴った。応対すると…ビニール袋を下げた先の3人だった。

 

 

 

「ケーキのテイクアウトをお願いします」

 

「…いらっしゃいませ

 ではケーキをお選びください」

 

 

 

 常連の中でも五つ子大家族は有名で、見かけた店員が会釈して歓迎している。

 

 見慣れた店員に手を振りつつ、子供二人がショーケーキに手をかざす。

 

 

 

「上杉さん! 蜜柑のケーキありますか!」

 

「いつもそれだよね、四葉…私もたまには食べてみようかな、蜜柑」

 

「では…蜜柑のケーキ5つお願いします」

 

「マジすか…三玖なら抹茶の方が…」

 

「では、1つは抹茶のケーキに変更してください」

 

「…三玖だけ一人別物だと、あいつ寂しがるんじゃ…」

 

「では、上杉君のお任せにしましょう」

 

「あ、いいかも! 私が好きなもの選んでね、フータロー君」

 

「四葉は蜜柑のままで!」

 

「…本当は来たくなかったんじゃないんすか…先生…」

 

 

 

 面倒くせえ客だな、おい。それとも俺が口うるさいだけか。注文にケチつける店員とかいねえしな。

 

 客は大雑把に注文を終えてしまった。仕方ない、五個のケーキを選ぶか。

 

 一花にはレモンのチーズケーキ。二乃には林檎のタルト。三玖には抹茶のムース。五月には苺のショートケーキ。

 

 四葉はご所望の通りに蜜柑のケーキを。ケーキを箱に詰めて、勘定に入る。

 

 五個セットのケーキはセールスで割引がつく。ぴったり2000円だというのに…2500円渡された。

 

 

 

「…あの、お客様」

 

「…プリン代です」

 

「どんだけ見てたんだ、あんた」

 

「貴方も店長さんも抜け目ないから、困ったものです」

 

 

 

 代金を受け取ったのだが、幾らか多かったんだ。プリン320円分。

 

 俺がこっそり入れておいたのがバレた。後でレジ打ちして代金は俺が支払っておけば問題なかったのに。

 

 子供だけケーキを食べて、母親は口にしないらしい。いや別にいいけど。どうせ子供たちが一口譲るだろうしよ。

 

 店長もサービスが多いようで、シングルマザーの目が厳しかった。

 

 勝手に暴発した羞恥心を乗せて、恥ずかしくも商品を渡すしかなかった。

 

 ケーキは昼食後のおやつに召し上がるだろう。先生は子供二人を引き連れて帰ろうとする。

 

 しかし、振り返った四葉が足を止めた。

 

 

 

「…」

 

「どうした、四葉

 何か忘れ物か?」

 

「そ、そうじゃないんですけど…」

 

 

 

 四葉はもじもじとして、ズボンで手汗を拭う。子供の歩みが止まったことに母親が諦観している。

 

 しばらくして立ち止まっていた四葉が歩き出す。何事もなかったかのように店の出口へ。

 

 その四葉の手を一花が掴んだ。

 

 

 

「待った、四葉」

 

「い、一花…な、何? どうしたの?」

 

「言えばいいじゃん

 フータロー君だもん、ちゃんと聞いてくれるよ?」

 

「…」

 

「…私やらいはお姉ちゃんには言えなくてもさ

 お母さんとお兄ちゃんを騙しちゃ駄目、わかった?」

 

「…うん」

 

「なら…ほら、行った行った」

 

「…でも、私…一花のこと…嫌いとかじゃないよ…」

 

「知ってるって、もー…照れるからそういうこと言わないっ!」

 

 

 

 ぱしっと背中を叩いて、一花は妹を咎める。

 

 嘘つきで、噓泣きを演じる不届き者の姉は知っているのだ。

 

 母親は一花の苦言に口を挟まない。一度は下げた言葉を促す長女は手を離し、先に店を出て行った。

 

 

 

「…

 お、お兄ちゃん」

 

「何だ?」

 

 

 

 四葉はおずおずと口を開く。リボンを力なく垂らして俯いていく。

 

 ケーキを買って大喜びしていたのに。これが四葉の本当の気持ちだったのだろう。

 

 悩んで落ち込んで、楽しい時ははしゃいでも…上手く隠している。

 

 先生はこちらを一度見やり、頭を下げて退店した。外で子を待つのも、歯がゆくて辛いだろうに。

 

 風太郎は四葉の前まで歩み寄り、膝を着いた。

 

 

 

「…その、部長さん」

 

「…」

 

「…迷惑かけたの、謝りたい

 転んじゃって、ごめんなさいって…」

 

 

 

 優しくて、妥協できない子はどこまでも真っ直ぐだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、夕暮れが迫る時間に四葉の手を引いていた。

 

 二日目のバイトを早めに上がらせてもらって、高校に顔を出す。

 

 2カ月程続いた女子陸上部のマネージャー業務は、あっけなく終わった。

 

 不在だった顧問が復帰して、若葉マークが付いたマネージャーは解雇されたのだ。

 

 部長だけでなく部員からも継続を請われても断った。バイトと勉強、優先すべきものがある。

 

 だからもう、二度と作ることはないと思っていた。

 

 

 

「上杉さん、その荷物は何? なんか良い匂いがするよ」

 

「マジかよ、おまえの鼻は犬並みか

 四葉も一度食っただろ、レモンの蜂蜜漬け」

 

「…食べてみたい」

 

「…まあ、一個ぐらいは食えるだろ、後でな」

 

 

 

 帰宅部は夏休みに高校に用などないが、他は違う。運動部や吹奏楽部が練習に励む音が聞こえる。

 

 炎天下で熱した校門をくぐり、四葉の手を引いてグラウンドへ。

 

 四葉の来訪は事前に理事長に言っておいた。武田を通して。出勤している中野先生にも知られているし大丈夫だろう。

 

 グラウンドでトレーニングに励む部員がいた。以前見た光景よりも覇気が違って、四葉は風太郎の手を握った。

 

 女子陸上部に大会が迫っている。出場する選手たちは最後のラストスパートに入り、練習への熱もひとしお。

 

 思えば、素人が入り込む余地は元よりなかった。なのにこいつらはよく受け入れてくれたものだ。後輩からも慕われて悪い気はしなかった。

 

 その後輩の一人。2年のエースの直江がこちらに気づいた。

 

 遠く彼方から俺と四葉の姿を発見して、全速力で走ってきた。逃がさんと言わんばかりの猪突猛進だ。

 

 

 

「先輩! 四葉ちゃん!」

 

「は、早い…凄い!」

 

「流石はエースっつーか…おまえのせいで目立っちまったじゃねえか」

 

「先輩、やっぱりマネージャー復帰に?

 もう…ツンデレですね、先輩 私は信じてました!

 出場の二日前に登場だなんて、青春漫画みたいですね!」

 

「何勝手に決めつけてんだ

 マネージャーはもうやらないぞ」

 

「と…言われましても先輩…それ、先輩が毎日作ってくれたレモンでしょう?」

 

「…」

 

「…ほら、ツンデレさんじゃないですか」

 

「都合の良い奴…四葉、こういう大人になるんじゃないぞ」

 

「四葉も食べたいです!」

 

「はい、四葉ちゃんも一緒にどうぞ

 あちらのベンチ空いてるので使ってください」

 

 

 

 直江に案内されグラウンドを横断する。四葉の来訪に部員たちが手を振っていた。

 

 俺何しに来たんだっけ… 肝心の江場部長がいねーし。あいつはまた外を走っているのか。

 

 江場が大会で走る種目は長距離。大会は明後日であって…休んでいる暇などないのだろう。

 

 四葉にちやほやしている女子たちも、すぐに練習に集中しく。案内を済ませると直江もまたすぐに走っていった。

 

 緊張感のある光景に四葉は次第に口数が減っていった。

 

 さらに、ベンチの横に立つ教師を見て、初対面である四葉は風太郎の背後に隠れた。

 

 

 

「君が上杉君か

 僕が不在の間、迷惑をかけてすまなかった

 マネージャーを引き受けてくれてありがとう、お陰で助かった」

 

「いえ」

 

 

 

 顧問って男だったのか。女子の部だからてっきり女性職員かと思ったぞ。

 

 運動部らしいゴツイ図体で頭を下げられた。体の大きさに臆していた四葉だったが、顧問の態度に顔を見せた。

 

 

 

「…その子が中野先生の娘さんだね

 中野先生にも負担をかけてしまって、申し訳なかったな…」

 

「代理の顧問に関しては、先生方がローテーションで顧問を代わっていました

 中野先生一人ではないですよ」

 

「そうなんだけどね…

 君は校長から話を聞いているんだね?

 学生の君たちの手を借りてしまい申し訳ないが…中野先生の業務量は他の先生方よりも多くてね」

 

「存じます」

 

「生徒から慕われる一方で、中野先生を頼る声が多い

 生徒の悩みや問題を押し付けてしまっている

 かといって…僕たち教師が中野先生の業務を引き受けようとすると…逆効果というか」

 

「…」

 

 

 

 …我が恩師よ、厄介者扱いされてます。憧れの人が困った人扱いされて…虚しいです。

 

 真面目過ぎても駄目なんです。周りと協調性持ってください。

 

 ………

 

 俺が言えた義理じゃねえ…! というか今分かった。絶対これ、四葉に遺伝してやがる…!

 

 四葉が家族の言葉を聞かないで向こう見ずなのは母親譲りだった。不器用な者同士で心配になる風太郎だった。

 

 

 

「…五人も娘さんがいるようだし

 君がマネージャーを引き受けたことには本当に感謝しかない

 仕事ぶりも、とても細かく記録してくれたね

 部員が惜しいと言っていたそうだし…受験がなければスカウトしていたよ」

 

「仮とはいえ、一度引き受けたからには当然です

 …流石に周り全員女子は落ち着きませんでしたけど」

 

「はは…それは本当に申し訳ないことをした

 …それと、これまでは教師としての謝罪で

 もう一つ、君にお礼を言いたい」

 

 

 

 顧問と話をしつつ、四葉にはベンチに座って貰った。江場がいたら見つけてもらおう。

 

 座っても地につかずに足をぶらぶらと揺らす子供を見やって、顧問は苦笑する。

 

 

 

「どこまで伝わっているのか分からないけど

 僕は母を亡くしてね…君のお陰で葬儀に行くことができた」

 

「…はい」

 

「その後に親戚と揉めて、その対応でだいぶ時間を取ってしまってね

 遅くなって申し訳なかった…生徒に頼ってしまい、不甲斐ない…

 でも…本当にありがとう、お陰で母を見送れた」

 

「…いえ、お気になさらず」

 

「…お母、さん…?」

 

「…あまり気持ちの良い話じゃなかったね

 何もないけど、ゆっくりしていってくれ」

 

 

 

 顧問の言葉に頭を下げるしかなかった。律儀にお礼を述べた彼は部員の練習を見にこの場を離れた。

 

 しんみりしてしまったか。四葉は静かに足を揃えて、小さくなっていく大人の背を見つめていた。

 

 

 

「お母さん…死んじゃって、寂しくないのかな」

 

「寂しいだろうな」

 

「…」

 

「でも、寂しがったままじゃ心配かけてしまう」

 

 

 

 彼の歳はいくつなのだろうか。先生よりかはだいぶ年上だろうが…母親が亡くなるには早いと思う。

 

 死人に口なし。残された者は都合の良い解釈をして自己満足するしかない。

 

 四葉は耐え難い未来を想像して、膝を抱えてしまった。

 

 

 

「何でずっと一緒にいられないのかな

 何でお母さんもお爺ちゃんも…いつか死んじゃうのかな」

 

「…皆そう思っているだろうけどよ、永遠なんてない

 お母さんも…お爺ちゃんも、ずっと頑張っている人たちだ

 おまえらを守る為に」

 

「うん…」

 

「頑張るのって、ずっとは続かないんだ

 そのうち疲れて倒れちまう

 残念ながら、ずっと子供ではいられない

 今度はおまえたちがお母さんを守らないとな」

 

 

 

 親孝行は恩返しだ。だらしない親も、子を捨てる親もいるだろうが…子を愛した親には恩返しをしたいものだ。

 

 それができなかった人がいる。俺も。恐らくあの人も…足りていないと思っている。

 

 こうあるべき。良くあるべき。そのような常識を問う言葉は誰だって簡単に言える。

 

 そんな言葉が煩わしくて、やって当たり前だと言われて…何も言えなくて、怒りたくなる。

 

 感情を処理する方法は自分で見つけないといけない。自分が悲しまない方法は自分にしか分からない。

 

 それよりも。

 

 

 

「おまえはおまえの悩みに向き合え

 そんな途方もないことに悩んでいる暇はないぜ」

 

「あ…」

 

 

 

 校門からこちらに走ってくる集団。その先頭に江場がいた。練習から戻ってきたんだろう。

 

 四葉は立ち上がり駆け付けようとするが、ひとまず止めておく。俺から挨拶をしたほうがいいだろう。

 

 風太郎が見学していることに驚き、江場はペットボトルで水分を補給しつつこちらにやってきた。

 

 

 

「冷やかしなら帰ってくれる?」

 

「おまえ、マネ断ってからあからさまに態度変えやがって…分かりやすいよな

 用があってきた、四葉がおまえに謝りたいんだと」

 

「四葉ちゃん…?

 …後にしてくれる? 大会終わった後…って

 君、分かってきてるんだよね?」

 

「直江との話題で以前も言ったが

 走って練習メニューをこなす以外にも必要なものはある

 良い息抜きになると思うぞ」

 

「…

 君に悪意はあっても、四葉ちゃんに悪気はないだろうし

 いいよ、少しくらいなら」

 

 

 

 部長の許可をもらったところで、四葉を手招きする。

 

 神妙な顔をしつつ四葉は走ってきた。人懐っこい子供でも正念場では顔が強張るものだ。

 

 風太郎はその場を空け渡し、四葉と江場が向かい合う。

 

 江場は四葉の背丈に合うように膝を着いた。その仕草を見て、四葉は声をかけやすくなる。

 

 

 

「この前はごめんなさい…」

 

「ううん、気にしてないよ

 足は大丈夫? もう痛みはない?」

 

「平気です」

 

「そっか…もう転ばないように気を付けて走るんだよ

 逆に私こそごめんなさい

 君の足に合わせるべきだったのに」

 

「う、ううん…」

 

「足、全快になったら走ればいいよ

 怪我してる間に走ると、また怪我しちゃうから」

 

「は、はい」

 

 

 

 江場が見る四葉の両膝には大きなカサブタが。最近になってようやく絆創膏が取れた。

 

 四葉とは逆に、江場の膝はテーピングされていた。その量も以前より増えていた。

 

 江場が膝を着いた足、内股を避けるように足はやや外側へ向いている。

 

 …人の忠告を聞かずに走り続けていたのだろう。

 

 謝罪を聞き入れた江場はゆっくりと立ち上がり、再び練習を始めようとしている。

 

 

 

「…四葉、お小遣いをやろう」

 

「え

 …え"?」

 

「あそこに自動販売機がある

 暑いと喉がカラカラになるしな、好きなジュース買ってこい

 貴重な百円だ、ゆっくり慎重に選ぶように」

 

「は、はい…ゆっくり行ってきます」

 

 

 

 察しの良い四葉は百円玉を握りしめ、指を指して教えた自動販売機へ向かっていった。

 

 子供が去って気を配る必要はなくなった。江場は露骨に溜息をついて俺に向き直った。

 

 部長とマネージャー。何度か言い合いになった仲だと気が重たくなる。

 

 

 

「足、辛そうだな」

 

「…」

 

「浅知恵で意見を出すのは避けたかったが…かねてより危惧していたことがあった

 マネージャーではない今、言わせてもらう

 おまえ、足故障してるだろ」

 

「…だとしたら?」

 

「どうもしないが…欠場も考えたらどうだ

 大会、負けるぞ

 俺がおまえたちのマネージャーを引き受けてから、記録はこまめに取っていた

 おまえの記録を見れば分かる、今大会の出場者との競争には勝てない

 …おまえはそれに焦ってこれまでハードな練習をこなしてきた

 逆効果になったな

 …おまえのように出場者が不調を抱えていれば、結果は変わるのだろうがな」

 

「好き放題言って…

 ここで諦めたら、全てが無駄になる…」

 

 

 

 適当な所見を並べると江場は押し黙った。じゃり…と力無く足をずらして。

 

 陸上の知識はほぼない風太郎は図書館の著書を洗いざらい調べ上げ、他校の選手の記録も探っていた。

 

 数字は嘘をつかない。0.1秒を詰めるのに努力するランナーにとって、無機質な宣告。

 

 点数上での勝負を気合で打ち負かそうとする運動部には想像しづらいだろうか。

 

 結果はもう九分九厘出ているのだ、戦わずして。スポーツは過程が結果に結びつくには時間がかかる。

 

 もう勝てる望みはないと、外野に立つ風太郎は判断している。

 

 

 

「大学受験、堅実なものにするのなら学業にも目を向けるべきだ

 おまえは秋も走るようだが…その調子じゃ推薦枠を取るのは難しいだろう」

 

「夢を諦めろと言っているの…?」

 

「大会に出場はともかく、その後は勉強に力を入れるべきだと言っておく

 その後の秋のリレーは形だけにして、模試で合格を掴むしかない

 俺が間違ったことを言っているのなら、聞かなくても結構だ」

 

「く…今更、後に引けない…私がこれまで何をしてきたのか、見てたよね!?

 高校だけじゃない、私はずっと前からこの道を目指してた!

 それを分かって…ああ、そういうこと

 わかって言ってるわけだ、私が落ちぶれていくと分かって

 救いの手を差し伸べても、その手を取らない道化を見て愉悦に浸りたいわけだ」

 

「一度でも面倒を見た奴が、報われない卒業をしてほしくないだけだ

 悪かったな、お節介で」

 

「…」

 

 

 

 江場がキレるのも当然だ…が、競争の世界において、気持ちは点数加算されない。

 

 負けると見込んでいるが確定ではない。足の不調はあっても、勝負をすることで1位をもぎ取れるかもしれない。

 

 どの道明後日の大会は全力で望む他ない。筆記試験を受けるかともかくとして。

 

 しかし、こいつと対面する上で…今言わないと意味がない。

 

 負けた後に教えたとしても。未来の選択ではなく、妥協という選択を取ってしまっては意味が違う。

 

 

 

「あ、あの…上杉さん」

 

 

 

 四葉が戻ってきた。ジュース一つにかけられる時間も限られていた。

 

 江場への忠告は済んだ。身勝手極まりない態度だったが、やり忘れていたマネージャーの仕事だ。大目に見てもらおう。

 

 四葉が世話になったんだ。全快の状態で挑んでくれたらどれほど良かったか。心苦しくもあった。

 

 気まずさから早々に立ち去ろうと四葉の手を取りかけて気づく。

 

 四葉の手には何もない。あるのは握りしめている100円玉のみ。

 

 

 

「お、オレンジジュースがなくて…せっかく買えるから…それにしようと」

 

「…」

 

「…どこにある?」

 

「近くて…学校の外、走って5分」

 

 

 

 拘りが強いとろくなことがない。

 

 せっかく買えるのなら妥協をしない四葉に、渋々道案内をする江場だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり君、筋が良いよね

 姿勢も安定してるし、足の着地もスムーズ

 知らずに身につけたなんて、まさに天性の才能だね」

 

「ししし…天才だって、上杉さん聞きましたか!?」

 

「また転ぶぞ」

 

「う"っ!」

 

 

 

 走って往復10分とは近場と言えるのか。子供の100円の買い物に付き添うべく俺と江場は道路を走っていた。

 

 走る必要ある? 陸上部とはいえ基本走る考えはどうかと思う。四葉が釣られて江場と並んで走ってしまっている。

 

 江場が四葉に合わせているとはいえ、あの小さな成りで高校生の足と並ぶのか。 

 

 

 

「…見つけたの?

 負けた子を泣かせずに走る方法」

 

「…ううん」

 

「そう、見つかるといいね

 でも君がそうして悩んでいる間に練習してる子がいるから

 悩んでも意味がなくなる日がくるかもしれない…

 今度は四葉ちゃんが負け続けることになるよ」

 

「その時は四葉、いっぱい練習する

 部長さんみたいに、頑張って走ります

 褒めてもらいたいから、意味はなくならないです、きっと」

 

 

 

 勝つことが前提の悩みなど、今の江場にとって聞くに堪えない戯言でしかない。

 

 後ろから見る二人の姿。その影を追う。

 

 

 

「思い出した

 君と同じ頃にね、お父さんと走ったんだ」

 

 

 

 江場は四葉を見下ろして、苦笑した。時折引きずる足が回想の妨げとなっても。

 

 疲れたら歩けばいいのに、それが許されない場所まで来てしまった。

 

 

 

「私は四葉ちゃんと逆

 走るのが苦手で、いつもビリ」

 

「そうだったんですか? 部長さんなのに

 なんか三玖みたい」

 

「ふふ、その部長も昔の私には似合わなかったよ

 執着心がないというか…クラスメイトからはつまらない子だと言われてた

 その癖一人が好きだった

 でもその割には、周りからどう見られているのか気になって仕方なくて」

 

 

 

 意外に思えた。クラスに馴染めないのは薄々察しはしていた。

 

 陸上部以外で江場が誰かと親しくしているところは見たことない。本当に部活にだけ心血注いでいる生徒だった。

 

 だからこそ思った。江場は拘りが強くて頑固者。執着心の塊だろう。何度俺と争ったと思っている。

 

 言いたいことはあったが、四葉が真剣に聞いている手前口を閉ざしておく。

 

 

 

「一人なのに落ちこぼれでいることが怖くて

 何か一つ、自信が持てるものが欲しくてね、お父さんと練習したんだ

 まだ勝ててないのに、練習が終わると褒めてくれた

 その時が一番楽しかったかな…」

 

「それからずっと続けてるんですね、凄いです」

 

「そうだよ、それから1位もいっぱい取ったし

 陸上部に入って大会に勝って…トロフィーを持ち帰ると喜んでくれて

 …そのうち、それが当たり前になっちゃった」

 

「?」

 

「負けた時は残念だったね、次は頑張ろうねって

 …四葉ちゃんもきっと、君が勝つことが当たり前に思われる日がくるんだ

 もう一緒に走って、辛いことも悩みも聞いてくれる人はいなくなった」

 

「お、お父さんは…?」

 

「私、早いでしょう?

 お父さんはもうついてこれないよ

 君もそうなる、私よりももっと早くね」

 

 

 

 会話は半ばに、目当ての自動販売機についた。ラインナップにはペットボトルのオレンジジュースが。

 

 四葉はポケットにしまっていた硬貨を取り出して機械に投入。手を伸ばしてお好みの品を買う。

 

 俺と江場はその買い物を眺めていたのだが…四葉の背丈では上段のボタンまで届かず。背伸びでプルプル震えている。

 

 江場は苦笑し、四葉の脇に手を差し入れて持ち上げる。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…どうした、二人して

 買うなら買えよ」

 

「…君、100円で足りるわけないでしょ」

 

「140円ですっ!」

 

「ちっ…わかったよ、入れてやるからボタン押せ」

 

 

 

 見積もりが甘いと二人に罵倒され、渋々硬貨を投入。

 

 四葉は点滅したボタンを押す。ガコンと物が落ちてきた。

 

 

 

「…これも懐かしいな」

 

「あ?」

 

「私、背低くて…お父さんにいつも――」

 

「部長さん、はいっ」

 

「ん?」

 

「ししし、ここまで来てくれたお礼です

 半分こ、しませんか」

 

 

 

 四葉はまだ開けていないペットボトルを翳してニコニコと笑う。

 

 子供の気遣いに江場は驚き、固まっていた。

 

 四葉のお誘いに誰も返事はなく。焼き付ける夕暮れと夏虫とカラスの鳴き声が響いていた。

 

 

 

「こんなはずじゃないのに…」

 

「え?」

 

「…ううん、大丈夫

 ありがとう、四葉ちゃん…優しいんだね」

 

「?」

 

「はは…はぁ

 明後日で…終わりなのかな…」

 

 

 

 江場は四葉の前でしゃがみ、力なく項垂れた。だらんと手も首も下げて。

 

 ポニーテールの髪がコンクリートに落ちていく。江場は俺が言うまでもなく、悩んでいたんだろう。

 

 父親と練習し始めた陸上の世界。理想と想像が違い、理想においつけない足を恨み、諦めかけている。

 

 四葉は恐る恐るとペットボトルのキャップを外し、江場に手渡した。

 

 

 

「…あのね、部長さん

 私もたぶん同じなんだよ」

 

「?」

 

「私は五つ子だからね、同じ顔してます

 だからか、皆は私の事覚えてくれなくてね

 でも、走るとすぐに分かってくれるんです

 あの子は四葉だって、五つ子で一番早いのは中野四葉だって

 お母さんも褒めてくれて…一番好きなんです」

 

 

 

 四葉は悩みを打ち明ける…のではなく。

 

 落ち込む江場を励まそうと、寄り添う言葉を一生懸命に探している。

 

 

 

「それで家族を泣かせちゃったんでしょ?

 また泣かせることになったら…辞めるんだ?」

 

「…もしかしたら怒られちゃうかもしれないけど

 辞めないよ」

 

「…そのほうがいいと思う、私も」

 

「はい…

 私も部長さんと同じだもん

 大好きだから、辞めたくないです

 1位取れなくなってもいいんです

 気づいてくれる人がいれば、もういいんです」

 

「…でも、目立たないと見分けるのは大変なんじゃ」

 

「そうだけど、決めたんです

 皆じゃなくて、誰かに気づいてもらうというか

 上手く走れなくて、負けちゃって落ち込んでる人がいたら

 その子のところにビューッて駆けつけて、一緒に走るんです」

 

「え?」

 

「その子が、私が四葉だって気づいてもらえたら…いいかな

 だから1位とか、もういらないよ」

 

「…」

 

「部長さんは1位を取るのが目標かもしれないから

 …怒られちゃうかもしれないけど

 もしもね、三玖がね…部長さんみたいになって

 苦手なことでも、好きになってもらえたら…いいなって思ったんです」

 

 

 

 欲しいものは変わらない。四葉は上手く言葉に言い表せない気持ちを告げた。

 

 好きなものは好きなままでいたい。四葉はそう在りたいと願い、手放さない道を選んだ。

 

 江場は四葉の意気込みを見守っていた。子供が語る夢物語がどれほどの信憑性があるのか。

 

 

 

「私は当然、1位を目指すから

 似た者同士だったんだね、私も君も…誰かに評価してもらいたくて始めたんだ

 なら…先に走る人間として、負けてられないね」

 

「おい、江場

 こいつの話に乗ることはねえぞ」

 

「君は黙って

 四葉ちゃん、大会の日は是非来てほしい

 1位を取って、カッコいい姿を見せてあげる」

 

「はいっ」

 

 

 

 

 待て、待て待て! おまえ本当に勝てるつもりでいるのか!? 子供にそう安々と宣言していいのか。

 

 こちらのことなど眼中にない江場は四葉の応援を聞いて微笑んでいる。

 

 シンスプリントの疑惑がある選手がポテンシャルをフルに発揮できるか? 対戦相手を嘗めてやがる

 

 子供の言動にマジになって果たせない約束を交わす。江場の目を見て、言いかけた言葉を踏み留めた。

 

 

 

「君は強制参加

 四葉ちゃんの引率して」

 

「最後まで受験生を酷使するのか…廃部しちまえ」

 

 

 

 彼女を止めてはならない、俺は。

 

 これまで五つ子たちに約束をしてきた中で、他人に止められていいものはあったか?

 

 内容はともかく、真剣だった。江場もまたそうだとしたら。

 

 母親が亡くなった時助けると、五月と約束をした風太郎には止める術はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 過程の努力は評価されない。常々思っていたことだ。

 

 頑張り続ける理由と、結果を残す為に努力し続けること、それに一生費やすとしたら意味が変わる。

 

 才能がないのなら尚更心掛けないといけない 勝つこと以外に得られるものを。

 

 現実的じゃないんだ、勝ち続けるなんて 一握りの天才でしか。

 

 大抵の人間は失敗し挫折して諦める。自分がその大抵の人間に含まれていないと思い込む者が多い。

 

 これまで…行きつく先を見つけられずに、過程で積み重ねた目的に翻弄されていった。

 

 自分がこれまで費やしてきたものが間違いだと知った時、無駄なことをしたと知って辛い目にあうんだ。

 

 

 

 

「あ、お母さん」

 

「ああ…先生

 …に、何であいつらが」

 

「君の友達じゃん」

 

「上杉さんにお友達…!」

 

「何でおまえが意外そうな顔するんだよ!」

 

「賢いね、四葉ちゃん」

 

 

 

 オレンジジュース片手に帰還すると、校舎前には四葉の母親がいた。

 

 普段の風太郎ならスルーしても特別何も言われないが、子供を預かっていれば話は別。

 

 四葉に手を掴まれてダッシュ。小さい体でここまでのパワーが出るのが不思議である。ぎゅっと掴まれて痛いくらいだ。

 

 

 

「四葉、皆さんにご迷惑はかけていませんか

 上杉君も、今日は四葉に付き添っていただきありがとうございます」

 

「大丈夫です!」

 

「何を根拠に…

 つーか何すか…そいつらの補習ですか」

 

「この僕が補習だと? はははは! 君のライバルが補習など…受けるはずがない!!

 僕は父の手伝いで、ついでに補習を受けていた彼の様子を見に、ね」

 

「なあ上杉、おまえも何か言ってやれ!

 俺が中野先生から補習受けてるってのに、横から何度も質問ばかりよぉ!

 家で勉強してろやコラ」

 

「先生には事前に許可は頂いている

 中野先生に教えを請うことができ、実に有意義だったよ

 自主勉強するよりも遥かに身に付いた、ありがとうございます、先生」

 

「いいえ、教師として力になれて嬉しく思います

 前田君も、地頭は決して悪くないのですから

 諦めずに取り組むことができれば受験も希望が持てるでしょう」

 

「…う、うっす…ありがとうございます…ッ!」

 

「まだ見込みが持てるって段階…」

 

「上杉君…?」

 

「な、なんでもないです…」

 

 

 

 母親と娘の再会の間に立っていたのは、クラスメイトの武田と前田だった。

 

 夏休みになぜこいつらが先生と…と訝しむと前田の補習を思い出して納得。

 

 武田がいたのは予想外で、補習に割り込んで中野先生に勉強を教えてもらっていたらしい。どんだけ真面目なんだ。

 

 前田は松井と同じ大学を狙っていて、今は絶賛勉強に向き直っている。からかってやると先生から超睨まれた…

 

 一睨みで黙った俺に前田と武田がいい気味だと笑っている。クソ…先生を味方につけられると分が悪い。

 

 男同士が睨み合っていると、背後から足音が。

 

 

 

「中野先生」

 

「江場さん、娘が迷惑をかけてすみません」

 

「いえ…息抜きにちょうど良かったくらいだ

 それと…彼にも言いましたけど

 明後日の大会、四葉ちゃんに来てほしい 構いませんか?」

 

「それは…はい、娘が良いと言うのなら」

 

「上杉さんと行きます! 部長さんを応援しますね!」

 

「うん、絶対に勝つから」

 

 

 

 江場からの申し出を聞き、娘の本意だと知って保護者は許可を出した。

 

 …どこか行き急いでいるように感じられるのは気のせいか。

 

 四葉の期待に応えなければ、という自負を背負って負けるビジョンを誤魔化しているのか。

 

 江場の絶対なる勝利宣言を聞いた武田と前田がこちらを見やる。行けそうなのか?と。

 

 正直…無理だろう。後輩共は江場にビビって何も言わないし、俺の後ろに隠れて文句言う贅沢な奴らだし。

 

 顧問がどう伝えるか…だが、忙しいのか反応が伺えない。もどかしい。

 

 

 

「中野先生、四葉ちゃんには間違いなく走る才能があります」

 

「…才能、ですか」

 

「この子が陸上…ううん

 スポーツの世界へ望むのなら、その背中を押してあげてください」

 

「気がはえーんだよ

 そもそもおまえに人を見る才能でもあるのか、思い込みで子供の将来を狭めるなよ」

 

「君も大概でしょ、私の明後日の大会にケチつけてくるし

 …でも君の言う通り、思い込みはあるかも

 私にそんな才能はないし」

 

「…おまえ、本気で四葉の前で走るのか?」

 

「勿論だよ、私は勝ってみせる

 …足の具合なんて関係ない、勝つしかないんだ

 もう私には後がないからね」

 

「…」

 

 

 

 確実に勝つと言い切った癖に、江場は自虐の笑みを浮かべる。

 

 ちなみに才能があるとか褒めちぎられた四葉は右往左往して、母親の腰にひっついていた。

 

 周りが年上だらけで落ち着かないのだろう。そんな子供の涙目を見て武田と前田は苦笑している。

 

 男二人が笑いかけたことで四葉がほっと安堵した。が束の間…母親を見上げるとまた曇った顔に。

 

 俺も武田たちも、四葉の視線を辿ると…先生は鉄仮面のそれになっていた。

 

 

 

「これまで費やしてきたのですね

 来るその日が、これまでの努力の成果を見せる勝負の舞台なのでしょう」

 

 

 

 中野先生が一歩前に。娘はその背に隠れつつ、江場を見つめていた。

 

 心に余裕がない江場を見て、先生は淡々と告げた。

 

 いきなりどうしたのかと不意をつかれた。が、先生は至って真剣で、江場と向かい合っていた。

 

 

 

「高校3年生

 最後に夢を掴む1年でもあれば…

 最後に夢が潰える残酷な一年でもあります」

 

 

 

 これまで多くの教え子の門出を見送ってきた先生は、やるせなさそうに教える。

 

 失敗した者とそうでない者。その差は歴然で、取り返しのつかないミスになる人間が大半だ。

 

 決して華やかなものじゃない。もっと血と汗で汚れた苦節の1年なのかもしれない。

 

 

 

「貴方は導き出さないといけません

 今の今まで見ようとしなかった道を

 好きなこと、やりたいこと、それらを仕事にできれば成功したと言えるでしょう

 ですが、そうはなれない人もいます」

 

「私がそんな人間になるんだと言いたいのですか

 私はまだ負けてない! 決めつけないでください

 誰だって挑戦する権利はありますよね」

 

「…

 江場さん、貴方が救われるのなら私は嘘でも何でもつきましょう」

 

「…」

 

「…もし、そのような未来が見えているのなら

 貴方は変わらないといけません

 選択を強いられる人間と、選べる人間…受け止め方が変わります

 この二つを選ぶには、まだ十分な時間があります…卒業して何年経とうと、間に合います

 夢は潰えても、貴方は将来の道を選べます

 決して遅くはありません」

 

 

 

 先生は江場の顔を見て察したのだろう。切羽詰まって不安定な道を歩もうとしている。

 

 だがこれは…俺も同様に、一方的に決めつけてしまっている。

 

 江場は到底受け入れられない。選び続けるんだ。壊れるまで。可能性がゼロになるまで。

 

 まだ勝負は始まっていないのに、やるだけ無駄と言われる理不尽を心底腹立たしく思っているだろう。

 

 しかし先生は相変わらずの鉄仮面。江場の反感などビクともせず続けた。

 

 

 

「…夢が叶うことを望みます

 応援しています、江場さん」

 

「な、何を急に…さっきまで他の道を考えろとか

 慰めなんていりません! 馬鹿にしないで!」

 

「ええ、ですから…例え他の道を歩むことになっても

 いつかは届くと信じています」

 

「他の道なんて取る気はないって言ってるんです!」

 

「今はそうだとしても…諦めてしまった時に」

 

 

 

 江場の剣呑な態度に怯まず、先生は真っ向から言い切った。

 

 頑なな意思では負けることはない。臆さず、怒らずに冷静に教えてくれる教師に江場は固まった。

 

 決して戒めるものではない。先生はやはり、教え子を守りたいだけだった。

 

 

 

「教師としての言葉が、生徒に届かないことはよくあります

 間違っているのは私なのかもしれません…

 貴方達は今を生きるので必死で、他人の声など聞ける余裕がないもの

 こうしていれば良かったのに、そう言い聞かせておけば良かったと思う一方で

 私たち教師が、貴方達の選ぶ物語を決めることはできない」

 

「…」

 

「…失敗した時、孤独を覚えます

 家族の目が怖いと感じる時がきます

 友達にも言えず抱え込んでしまう時がきます

 その時、思い出してほしいのです」

 

「…何なの…それ」

 

「…いつか思い出してくれた時

 私の教え子たちが、少しでもより良い道を見つめ直せるのなら

 …私は、口うるさい先生で在り続けます

 その代わり、忘れないでくれませんか」

 

 

 

 先生はそう告げて下がる。

 

 過ちに気づいた時、過去を悔やみがちだ。過ちに気づくのが遅かったと時の経過を呪うかもしれない。

 

 それでも遅くはない、と先生は教える。やり直せるチャンスがあることを、いつの日かわかってくれると願っている。

 

 江場は先生の言葉に納得はしなかった。結局は成績を残せずに夢潰えると言われているのだから。

 

 だが…江場は四葉を目にして、頭を下げた。

 

 

 

「…あの時はすみませんでした」

 

「…」

 

 

 

 納得も理解も示さない。江場は一つ謝罪した。

 

 あの時とは… 顧問を引き受けない先生を問い詰めたことか。

 

 

 

「結局、明後日は四葉と一緒に行くべきなのか」

 

「…最後の大会だから、何があっても走り切るよ」

 

「…」

 

「…

 四葉ちゃんと話して思い出せたんだ

 …中野先生…私は」

 

 

 

 四葉が顔を出す。

 

 江場が寂しそうに見つめていることを知って…母親から離れて、江場の前へ出た。

 

 

 

「私、最初は努力賞だけで十分だった

 勿論、そんなもの体育や部活にあるわけないけどさ

 だから、四葉ちゃんが気に病んでいること…分かる気がする」

 

「…部長さん?」

 

「私もね、家族や友達が、そういうものをくれてた

 過程を褒めてもらうぐらいがちょうど良かったんだ

 だから、ひたすら結果が怖かった…楽しい日だけが続いてほしかった」

 

「…」

 

「…今も続けてみせる

 勝つ…勝ってみせる…!

 もうそんなものないけど、ここで終われないから

 また掴んでみせるんだ!

 だから四葉ちゃん」

 

「は、はいっ…!」

 

「…見ていてほしい、お願い」

 

 

 

 …馬鹿だな。馬鹿にも程がある。

 

 見つけてしまったんだな。自分が欲しいものを。

 

 子供に夢を見せようと、走り続けるしかない哀れなランナーに、風太郎は夕焼けに染まった空を見上げる。

 

 時間は止まってくれない。そんな後悔を積み重ねて…勝負の舞台へ赴く。

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