日が空くかもしれませんが、ひとまずその5が終わるまで投稿して参ります。
8月14日は中野零奈の命日なので、また記念イラストをpixivに投稿しようかと思います。
上杉風太郎にとっての夏休みといえばバイトと勉強に没頭できる、清々しい気分にさせてくれるものだった。
この期間に学校に行く機会など皆無。わざわざ登校など、補習に陥った残念な生徒を連想するだろう。
したがって成績優秀な風太郎がそれに該当するはずがなかった。帰宅部故、学校へ赴く日は登校日以外ありえない。
テストでは常に1位。全国模試でも1位の彼には縁遠い。今日もまた家に引き籠って勉学に明け暮れているに違いない。
…2年前の生活が恋しくなってきた。高校最後のこの一年はイレギュラーが絶えず勃発している。
「中野先生はいらっしゃいますか?」
「ん? おお…? 上杉じゃないか
夏休みなのにどうして学校に? それも職員室に」
「まぁ…担任に用が…」
外の熱気にはうんざりするわ、汗をかいて気分が悪くなるわ。ここに至るまでの道中は億劫だった。
静かな廊下を渡り歩いて職員室のドアを開くと、空調の冷気と一緒に学年主任と対面した。珍客を訝しむ目を向けられている…
担任にアポを取り学年主任と共に教員のデスクの一角へ向かう。窓際は冷房では払えない熱気が宿っていた。机も熱されている。
学年主任が部下である一人の女教師に声をかける。日に当たって純白のブラウスがじりじりと焼かれて、触れると熱そうだ。
されど背筋を伸ばす真面目さはこの夏休み期間、生徒が不在でもブレないようだ。
「はい、何でしょう――上杉君…?」
「忙しいところ失礼、中野先生
いやな、上杉が中野先生に用があって来たそうでな」
「私に…? はい、わかりました
お声がけ、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず
…時に…こいつが夏休みにわざわざ来るなんて、また何かやらかしたんですかね
あの本の虫だった上杉が夏休みに職員室など穏やかではありませんな」
「………」
いきなり何吹っ掛けてやがんだこの人。教え子が夏休み中に教師に会いに来ちゃダメなのかよ。
…普通、会いに来ないか。中野先生のファンクラブの連中でさえ夏休みにまで拝みには来ない。
学年主任は赤点常習犯でもない生徒の来訪を猛烈に警戒し、中野先生に忠告を促している。
テストで満点取り続けてるのがどうも気に食わないらしい、このハゲネズミ。相変わらず厄介者扱いされている。
例年では教師の一方的な評価など差して気に留めていなかった。
だが…先生の前で当てつけのように言われると無性に腹が立つ。考えるよりも先に口を開いていた。
「失礼な話だ、俺は何も問題など起こしてないでしょう
成績はこれまで学年一位取ってるし、全国模試一位取ったし、今年は学級委員も担っている
それに、先生らの手が足りてないっていうから、俺が陸上部のマネ引き受けたんだぞ
いい加減問題児のレッテル外してくれますか」
「そう言われると弱るな…まあその通りだ
おまえのお陰で陸上部は良い成績を残せたと聞いた、教師一同感謝している
…なんだ、だいぶ社交的になったんじゃないか、上杉」
「お陰様で」
「いやはや、問題児だった上杉も中野先生の下に下ると借りてきた猫ですな
4月から担任を担って、既に慕われているようじゃありませんか
上杉を手籠められるのは君しかおらんでしょう、流石ですなぁ中野先生」
「し、慕ってなんか…」
「では私はこれにて
上杉、中野先生に感謝するのは当然として、くれぐれもご迷惑になるんじゃないぞ」
「…結局説教じゃねえか…」
「夏休みに職員室に顔を出せば、そうもなるわ
頑張れよ、受験生」
案内を終えた学年主任が離れていったのはいいが、先生を褒め称える題材に俺を利用するな。
腹が立つぜ。先生の手前もあって尚のこと。とはいえ、苛立つ一方で納得もあった。
あの年配教師の態度が気に食わなかったが…この結果に不満はない。
他人からの評価はそう変わらない。人間の根本的な汚点はそう簡単には治らない。
中野先生と再会し、一度は改善しても過去2年の評価を覆すには至っていない。ある意味正当な判定であった。
先生は終始無言。だから俺が悪態をつけばまじまじと見られている。
…言葉に詰まる。とっとと本題に移りたい。
「ここじゃアレなので
暇な時…昇降口前の階段に来てください
…屋上の前の階段で、時間も取らせないので」
「…
お話ならここでも」
「俺が話しづらい
お手数おかけしますが、どうかお願いします
待ってますので」
「…わかりました、すぐに追いつきますから少しだけ待っていてくれませんか」
来訪の目的も、面会の意図も告げず要件だけ述べる。不信感を煽るだけで失礼なものだ。
椅子に座ってこちらを見上げる先生は、待ち合わせの場所を聞いて予想がついたのか…何も言わず頷いてくれた。
ほんの少し声が弾んでいたように聞こえたのは気のせいか。日に照らされる先生の顔は眩しくて見れそうになかった。
「失礼しました」
先生と別れ、汗がひく前に職員室から退室した。
何をもったいぶってんだか、と我ながら情けなく思う。
用など本当にすぐに終わってしまうものだ。あの場で渡せばいいんだ。
廊下を渡り階段を上る。相変わらず暑いし、風通しの悪い階段の踊り場は酷いことになっていた。ここで先生を待つことになる。
…温度が保たれるだけまだマシなのか? いや、夏は菌が繁殖しやすいし…
経験が浅い身では判断がつかず、ぼーっと指定の場所で待っていた。
ほどなくして足音が耳に届く。
「お待たせしました
…ひとまず、ご用件を窺いましょう」
「…お届け物っつーか」
「はい…っ」
「………
先生の言う通り、職員室で渡しても良かったんだがな…こればかりは恥ずい」
涼しい顔をしてやってきた先生は、歯切れの悪い教え子に対しても顔色変えず応対する。
と思い込んでいた。いきなり手鼻を挫かれて、歯切れが悪くなるのも仕方ないだろ。
男子生徒から好かれ、美人で評判の高い中野先生のあだ名は鬼教師。
仕事中は至って冷静。能面を被ったような女だ。
そんな人が微笑んで、はい、と二言の声を上げる様がどことなく子供っぽく見えた。
こう見るとあの五つ子は実に母親似だ。浮足立って生意気なことばかり言うあの態度とそっくりだ。
隠してもつまらない。背負っていたリュックから巾着袋を取り出して、中野先生に差し出した。
「夏休みなら野次馬がいない分、うるさくないだろうからな」
「…お弁当…ですか」
「…め」
「…
…め?」
「迷惑…でしたか?」
「…」
「…」
「…逆に問いますが…
迷惑になるかもしれないと思いつつ
私の為にお弁当を作ってくれたのですか?」
…なに、その質問。
それに答えてあんたにどんなメリットあるんだ…
「…」
「…」
…いや…何この間。答えなくちゃダメなの?
教え子相手に何を聞き出そうとしてるんだよ。
ほら、いつもなら失言だったと頭下げて、質問を取り下げるだろ。
迷惑になると知りながら弁当作るなんて。ハハハハ! そんな奇特な奴いるわけねえよなぁ!
「…」
「…」
…わ…わ
「…く…ぐ…ぬぬ…」
「作ってくれたんですね」
悪かったなぁあ!!! 連絡入れずに勝手に弁当作って悪いかよ!!
迷惑になるかもって自覚しながら作ってましたが、何か!?
どうせ食わなかったら五つ子、もとい五月にあげれば問題なかったしな!
全て計算づくでやってたんだよ! 結構張り切って作ったから五月大喜びだろうなぁ!
と、盛大に勘違いをしている先生にまくし立ててやりたかったが…上手く口が動かず。
…もうタダ飯食えるだけいいじゃねえかよ…何が嫌なんだ。
あ、味は…妹の方が美味いけど…先生、前回美味しいって言ってくれたし…これで断られたらどうすんだ俺。
「…やはり暑いですね」
「うっさいうっさい
はぁ…あっつい…とっとと渡せば良かった…」
別に顔赤くなってねえし、言われなくたって夏の暑さのせいだって分かってる。そういうパスはいらない。
俺の幼稚な態度に、先生は口元に手を沿えて笑みを隠した。
「妙な質問でしたね」
「…意地の悪い返し、しないでくれます?
また食べたいって言ったの、あんただぞ」
「ええ…だからこそ、むしろ…
迷惑か、なんて確認は不要だもの」
「いや、先生が昼食を用意してたらそれこそ迷惑になってただろ」
「学食はやっていないので、今日はコンビニでおにぎりを買う予定でした
運が良かったんですね、私
…いただいてよろしいですか?
お腹、空いてますから、是非いただきたいわ」
「…どうぞ…」
今は昼前。働く社会人にとっての1時間の休憩は貴重なもの。教師の昼休憩前に先生に弁当を手渡せて良かった。
先生の手に弁当が渡ると、突如蝉が鳴いた。空気の読めない奴。うるさく泣くのならもっと早く騒いでほしい。
弁当を作った理由なんて単純明快、らいはが口うるさかったから。先生に作ってやれ作ってやれ、私にも作って、と。
そして理事長から釘を刺されたから。先生の手助けをするあの取引は夏休み中も含まれていて釘を刺された。よもや俺の受験落とす気なんじゃ…
雑念に耽っていると先生が布越しの弁当を丁寧に撫でていた。我が子を撫でるかのような愛でる手つきでこっ恥ずかしい。
「温かいですね」
「まだ作って時間経ってないからな
…ま、前のよりかは…美味くなっているはずだぞ
あと、あまり目立たないように食べてください、また再燃するから」
「…
ふ…ふふ」
「…」
「ふふ、そう嫌そうな顔しないで
嬉しくて、つい
美味しくなっていると言われても喜ぶな、だなんて…あんまりじゃありませんか?」
「あんたが嬉しそうにしてるだけで目立つんです
連日ニュースになってたからな」
「お弁当の送り主が判明しなくてほっとしたわ
娘に知られたら、きっとヤキモチ焼かれてしまうわね
…ふふ」
「…まだ何か? 思い出し笑いはやめてくださいよ」
「去年、夏休みに入る前を覚えているでしょう?
このお昼頃、私は君に逃げられてばかりで、君を探し追いかける時間だった
なのに今日はお休みなのに私にお弁当だなんて…ふふ
あの時、諦めずに追いかけて良かった」
「…
用事は済んだんで、俺は帰ります」
「はい、容器は洗ってお返しします
今日はありがとう、上杉君」
去年の春の話。俺は先生と6年ぶりに再会してすぐに叱咤された。
京都の人、と大切に思い続けていた気持ちが憎しみに変わらないように。中野先生から距離を取ろうとした時期があった。
先生は何度も何度も、俺の下へ通って交流を繋いでくれた。時々鬼の形相で詰め寄ってきて怖かったけど。
先生が挫けずに他者との関係を求めてくれたから、今の自分がある。五つ子とも巡り合えた。先生のお陰なんだ。
去年を思い返す先生は上機嫌。心の底から自分の行いを肯定して笑っている。8月も連日働く社会人はタフなものだ。
「…あの…」
「…ん?」
熱さが増したこの場から離れようと、踵を返すと声が聞こえた。
普段なら気に留めない程の声音、聞き逃さなかったのがおかしなほど。
先生が去り際に声をかけていた。先程の高揚した表情とは違う、やや申し訳なさそうなものだった。
「お盆の予定、なのですが」
「あ、ああ…お盆ね、お盆
なんかあるんですか?」
「去年と同様に、私と娘たちは実家に帰る予定です」
「父親の旅館でしたっけ
前は確か…子供たちが遊び回ってたとか、四葉が不貞腐れてたとか」
8月の中旬。社会人にとっての唯一の夏休み、お盆休みがある。
去年は先生と五つ子たちは実家に帰ったんだ。四葉の奴が遊びたいとか不貞腐れて姉妹喧嘩になった。
「実家の近くに死んだ母の墓があるので…お墓参りも兼ねていってきます」
「…そうですか、そういう時期ですもんね…
しかしまぁ…墓参りっつっても、あいつらが大人しく手を合わせていられるのやら…」
「私の娘は察しが良いといいますか
口にして言わなくても、ちゃんと手を合わせてくれます」
「つまるところ、その間はあいつらの家庭教師はなしってことだな
了解した」
「ええ…それともう一つあります」
もしや…花火か。
行くって約束したからな、去年。半年前は叶うか分からなかった先生との約束。
少し鼓動が早まった気がする。悟られるのが嫌で、黙って先生からの言葉を待った。
「お花を…添えたいのです」
「ん?…ん?」
花? 花? 何の花? 花火じゃないよな?
まずい、想像していたものとは違った単語に思考が止まっている。馬鹿か俺は。
「お花を手向けてもよろしいでしょうか
君のお母様へ」
「あ、ああ…お花って、お袋の墓参りですか
…い、いや、そこまでしなくても…」
「…娘共々、こんなにもお世話になっていますから
せめて、手を合わせるぐらいは」
「り、律儀…
そうなると俺もあんたのお母様に手を合わせないといけなくなる…」
「来ますか?」
「い、いやいや…行くのはあれだ、旅館に泊まる時ぐらいで」
「是非いらしてください、父も喜びます」
「うち金払い悪いですけどね」
「そこはご心配なく」
お、押しが強くないか先生。お袋に花手向けるのはいいが、ご実家に招かれるのはもう少し先でお願いしたい。
これは俺が先生がどうのとか、受験があるとか関係なく、今の上杉家は問題を抱えている。
「どうぞご勝手に
うちのお袋は人を選ぶほど好き嫌いはしねえ性格だからな
らいはが世話になってるんだ、大歓迎です」
「ありがとうございます」
先生のお誘いはひとまず置いておいて、お袋の墓前で手を合わせるくらい拒む理由がない。
らいはも親父も喜ぶはずだ。五つ子が来るのかは知らないが…あの子たちも手を合わせてくれたら、らいはは泣くかもな。
特に四葉の奴はお袋の事気にかけているみたいだし、母親に関係なく来そうだ。
このあたり、あいつらが成長し自立した行動を始めようとしていると考えさせられる。幼稚園児の頃は母親にくっついてるのが前提だった。
そんなあいつらの成長を見守るのも今年で最後。
来年は受験、受かれば引っ越しして…今度こそ本当にお別れだ。気安く会える間柄ではなくなる。
…顔には出していないはず。なのに先生は静かに俺をみつめていた。
何か訴えかけているような、そんな視線。
「上杉君
君はお墓参りに一度も行っていないとお聞きしました」
「…」
「…私も母を亡くして、心の整理がつくのに時間を要しました
君と私とでは抱く気持ちが違うとは存じますが
…何か悩みや蟠りがあれば――」
「もう昔の話ですよ
悪い、あんたに語れるほど覚えてないんだ
俺は今のままでいいと思っているし、悪いことじゃないと思うぞ」
「…」
またいらぬお節介を…仕事を増やしてどうすんだ、あんた。
もし本当に俺が悩んでいたとしたら、その時は…去年の過ちを繰り返すことなく、先生にきちんと打ち明けていた。
だが、本当に何もない。覚えてない。
もう十年以上前の話だから。俺もまだ6歳とかそんなもんだしな。
強いて言えば、先生が悩みを聞くと言ってくれながら、相談するほどの記憶がないことが…申し訳ない。
俺の苦慮した返答を聞いた先生はバツが悪そうな顔に変わって頭を下げた。
「ごめんなさい
出過ぎた発言だったわ」
「…いや
単に興が乗らないだけですから
そもそも嫌いなんですよ、意味のない風習」
だとしたら、この弁当作りは興が乗ったのか。今もなお先生が抱えている弁当に何の意味があるのか。
先生が毎年実家に赴いて墓参りすることに意味がないというのか。
…意味がないのは、俺の焦りだった。本心だけれども…違う。
その後、先生と別れて帰路を辿る。蝉が鳴き、真夏の日差しに焼かれながら歩いていく。
日差しに抗って真上を向くと、青い空とくっきりとした白い雲が見える。
「…飛行機雲」
青い背景を渡る白い雲。子供の頃にあれを指差して、同じように呼んだ。
昔の俺は、青空と白い雲を背景に…お袋の顔を見上げていた。
暑いね、と構わず見上げている俺の汗を拭って、抱き抱えてくれたっけな。
「行ったことねえのか…俺」
墓なんて全部同じで見つからないものだと思っていた。
ただ金のかかる石で、名前が刻まれていなければそれこそ全部同じで、墓参りに行く理由にならなかった。
家族は花を手向けている。お袋の両親も…親父の両親もまた。
…俺だけかよ。
香るはずがないのに。青空を見上げているのに。夏の暑さが現実を知らしめているのに。
夏を半ばにして、線香の匂いがする。
先生に弁当を届け終えて、正午から午後に差し掛かった。今日は家庭教師の日である。
昼食も考えなくてはいけない。軽くなったリュックを背負って一度家に帰った。
自分の昼食だけでなく、母親がいない家で大人しくしている五つ子の分も用意せねば。
元よりこれは先生には事前に知らせている事柄。たぶん鬼教師が一番喜んでいたのがこっち。
弁当を手にはにかんでくれたが…あくまでも我が子最優先の女教師だ。そのせいで先程は面食らった。
「…ん?」
腹を空かせている五つ子がうるさくなる前に、と小走りで帰る。すると見慣れないものが二つ。
家の階段に二人の子供が座っている。
大きな麦わら帽子を被って顔は窺えなかったが、俺の足音にぱっと顔を上げたことで露わになった。
虫かごを持った四葉と三玖だった。
帽子を被ると余計に分からないな、あいつら。リボンの主張がなければ四葉の見分けは困難だ。
「ふ、フータロー…どこ行ってたの!!」
「遅いですよ、上杉さぁあん!」
「おまえらは家で大人しく待っていられないのか…」
待ち人の帰宅に四葉と三玖が飛びついてくる。いつぞやの五月も単独で風太郎の帰宅を待っていたことがあった。
二人に触れると日陰にいたとはいえ、肌にはじっとりと汗が滲んでいた。
家にいればよかったのに。らいはがいなかったのか…間が悪い五つ子だな。
俺の帰りが遅ければ脱水症になっていたかもしれない。考えると恐ろしいものだ。
次回からは水筒を持参させるとして、早々に二人を家に招いた。
「待ってフータロー
あそこ」
「あ?
あそこ…? 家の前がどうした」
「あそこにいたの」
「いた? 蝉か?
虫かご持ってきても、家の周りにろくな虫はいないぞ
ゴキブリ駆除手伝ってくれるのか?」
「違うよ
フータローのお家の前にずっといたの
知らない女の人」
「…女…? どんな?」
「うんとね…あの…お母さんみたいに、黒いお洋服着てたんです」
早急に室内に入ろうと手を引くと足を止められ、二人は慌てて指を指す。
家の前…というよりも、締め切ったシャッターの前を指し示す。不審者の来訪に懸命に警告を鳴らしていた。
黒い洋服…スーツか。なんだ、何かのセールスか。女と聞いてもピンとこない。
とにかくあれだ…うちには借金取りのスーツを着た大人が来るわけで、待ち伏せはしないよう忠告しておこう。
「四葉ね、上杉さんのお友達ですかって聞いたんです
そしたら、私と三玖のほう見て、らいはちゃんですか?って」
「…それで?」
「知らない人とお話しちゃダメってお母さんに教わったから
ずっと黙ってた あんまり見ないようにした」
「最初に声かけた時点で手遅れだろ
声かけておきながら無視とは、もはや嫌がらせだ」
「だ、だってぇ…」
「女の人、ずっとそこ見てた
閉まってたから困ってたみたい」
三玖が指差す方向はさっきと同じ、締め切ったシャッター。
その奥にはお袋が開いていた喫茶店。その残骸。
…まさか…店を買い取るとか言っていたアレか。それはそれで危険かもしれない、子供たちが。
「そ、そうか…まあ今度来たら俺が対応するから
おまえらは階段上がって奥に隠れてろ、つーかちゃんと会う約束してから来い
飯はおまえらの家で用意するけど、茶ぐらい飲んでいけ
その女の人の話も詳しく聞きたい」
「う…うん
えっと…フータロー…その、ね
フータローにお願いがあって来たの」
「…」
「嫌そうな顔してる!? ち、違うよ! 遊びたいとかじゃなくて!
あ、ほんとは遊びたいけど! カブトムシ取りたいけど!」
「その虫かご持っている時点で嫌な予感しかしなかった」
「だから置いていこうって言ったのに…
フータローにお願いしたいの…五月のこと
五月、帰ってこないの」
「…」
正直、来訪者について情報を集めておきたかった。かといって優先すべきものが別にありそうだ
家の悩みよりも愛くるしい子供たちを優先してしまう。
次は何をしでかしたんだ、と今日もまた五つ子に振り回される一日が始まるのだ。
奇怪とも言える世にも珍しい五つ子の家庭である中野家には自前の畑がある。アパートの管理人から借りた大きな畑だ。
今年の夏から種を植えてすくすくと成長を見守っているのだ。中野家だけでなく上杉家も協力し、親父やらいはも水やりに手を貸している。
美味しい野菜ができれば節約になる。そんな単純な理由から始めた今回の農作業。五つ子の中でも特に末っ子が一番に意欲的らしい。
いつできるのか、大きくなーれ大きくなーれ、と楽しみにしている。もう背中から滲み出てる。
畑の前で座り込んで、じっとしている五月がいる。
長い髪が土で汚れても構わず、ずーっと座り込んでいる。俺と姉二人は末っ子の執念を目の当たりにした。
「金のかからん遊びでも身につけたか」
「五月、土が乾いたらお水あげてる」
「あ?」
「朝からずっとあそこにいるんだよ
お野菜のお世話するって言って、帰ってこないんです」
「一花も二乃も心配してるのに、聞かないの
あ、お昼ご飯になったらちゃんと帰ってくるけど」
「あいつが飯を食い損ねていたら病院行き確定だ」
「フータローの言う事なら聞くはず
らいはお姉ちゃんだと、その時は返事するけど繰り返すから」
「お兄ちゃんの出番ですね!」
「ああ、言う事聞かなければ担いで帰る」
「私も抱っこがいい」
「くっつくな、暑苦しいから…」
「むー…フータロー冷たい」
「夏は勘弁してくれ…」
五月は良くも悪くも真面目というか…馬鹿なんだな。加減を知らない。
いくら風の子と呼ばれるチビっ子でも、夏の暑さには滅入る。しかし食べ物が絡んだ五月には通用しなかった。
三玖と四葉から末っ子を託されたわけで、ちんまりとした子供の背中へ向けて歩いた。
「五月
帽子もなく外にいると干からび――あっつぁああああっ!!?」
「うわぁっ!? う、上杉君!?」
「ほ、星が…星が灼熱の凶器に…ッ!!」
こいつ、炎天下の中じっとしていたのは間違いない。体温を確認しようとデコに手を差し伸べたら滅茶苦茶熱かった。
元凶は星型のヘアピン。マジで滅茶苦茶熱くて火傷しかけた。どんだけ熱されてたんだ…
額に触れて日射病に陥っていないか気にかけた途端に手痛い反撃が飛んできた。経緯が分からない子供は慌てふためいている。
しゃがんだ五月の足元には、先日種を植えた地面が。まだ芽も出ておらず、気の遠くなるお世話に熱中していたようだ。
「放っておいても育つから、とっとと家に帰れ
汗だくじゃねえか、大人でも倒れるんだからな、夏を甘く見るな」
「でも…畑、見張ってないとダメですよ…」
「何だ、畑を荒らされたのか?」
「そうじゃないけど…お野菜さんもお水ないと元気でないから」
「…あの管理人の婆さんも、そこまで面倒見ろとは言ってないだろ
雑草ですら世話いらずで成長してるんだぞ、一日水やれば十分だ」
兄貴分の指摘に五月は困惑し、畑と風太郎と交互に見やって迷っていた。お世話しなくちゃと義理堅く感じているようだ。
畑に植えたのはニンジン、トウモロコシ、さつまいも、小松菜。
野菜が植えてすぐ成長してくれるわけがなく、根気のいる作業だ。
このままでは先に五月がぶっ倒れる。早々に辞めてもらうべく…現実を教えてやる。
「つーか、何日面倒見るつもりだったんだ、飽きるだろ」
「? お野菜が大きくなるまで見ようかと」
「どのくらいで食べられるようになると思ってたんだ」
「えっと…い…
1週間…?」
「…」
「…に、2週間」
「…」
「…え? え?
さ、さんしゅうか――」
「2ヶ月、ざっと10週間だな
しかもおまえが大してそそられてない小松菜が一位でやってくる」
「がーん!!!」
五月、大地に崩れ落ちる。日光に照らされてなお、元気が有り余っているようだった。
こいつの原動力は食欲である。農業の現実を知った以上、もう通うことはないだろう。
「お、お芋…お芋は…?」
「さつまいもは…11月だから4ヶ月だな、ニンジンも同じく」
「――」
今度はぺたりと地面に突っ伏した。髪が汚れるからやめてほしい。いい加減懲りろ。
「フータロー 説得終わった?」
「五月ー 帰ろうよー 上杉さんとご飯だよー」
「ふ、二人は…!? 三玖と四葉は…皆はヤだよね? 秋になっちゃいます!!」
「え? だって…時間かかるし、仕方ない」
「愛情込めてお野菜さんを待ってあげるんだよって、お母さんもお爺ちゃんも言ってたよ」
「お、お…お兄ちゃんっ!」
「だから俺に頼っても早くはならないっつーの
良い機会だ、農家の有難みを知れ」
「う"…ぅ、ううううううううう!!
ぅうううわぁあはぁあああああああん あ"あ"あ"ああああああ"っ!!!」
「マジ泣き…」
困った妹に三玖も四葉も呆れている。大抵食べ物が絡むとろくなことがない末っ子である。
涙で水やりでもする気か。ポロポロと大粒の涙を零しては手で拭おうとする。
その手を見て、風太郎はすぐに手を差し伸べる。五月の手は畑の土まみれだった。
…まったく。ほとほと甘やかされやがって、五月は。
仕方なく五月の目尻の涙を拭い、抱え上げてやった。
「よっと…あ"ー前より重いッ!」
「うわぁああああああん! 重いって! うわぁああああん!!」
「ガチ泣き」
「これは上杉さんのせいです」
「おまえらは成長が早くて何よりだ…
ほら、五月、美味いもんなら野菜だけじゃねえだろ」
「ひぅ…う…ぅ…?」
「…いつぞやぶりだが…肉まんぐらい奢ってやる」
「!」
白いシャツが五月の手で汚れるか致し方ない。抱っこしてやると五月は徐々に泣き止んでくれた。
一度だけ食べさせてやったコンビニの肉まん。当日に先生にバレてげんこつくらった一品である。
禁止されたものが食べれると予感した五月の目がキラキラとしたものに変わっていく。
「に、肉まん! いいんですか!?」
「今度こそお母さんに内緒にするのならな、今度こそ」
「内緒にします!」
「…まぁ、今回は信用してやりますか」
「あれ、上杉さん…今日のお昼ご飯は…肉まん?」
「なんかやだ、パンがいい」
「肉まんもパンです!」
「なわけない お昼に肉まんは反対だもん」
「うぅ…でも関係ないです、上杉君は買ってくれるって約束しましたー
三玖が嫌がっても決定なんですー! 意味ないんですー!」
五月、調子に乗って三玖を煽りやがる。肉まんが食べれるのがそれほど嬉しいか。もう涙は引っ込んでいる。
自分を差し置いて五月が抱っこされているこの状況。煽り耐性の低い三玖は頬を膨らませて怒っていた。
三玖が風太郎のシャツの裾を掴んでは引っ張ってくる。ギュッと掴んでしわになってもお構いなしだった。
「むぅ~…! フータローとあのパン屋さん行きたかったのに
五月だけずるい」
「あ! あのパン屋さん!? 四葉もそっちがいいです!」
「に、肉まんなの! 今日は肉まんなんです!
美味しいよ? 柔らかくてふわふわで…!
ね、上杉君? 肉まんだよね? ね?」
「あのな、肉まんは一個だけだぞ
昼飯は安くて冷たくて簡単なそうめ――」
「「「やーだー!」」」
「節約するって話はどこいったんだ」
このクソ暑い中、騒がしい五つ子たちだった。我儘ばかりで。本当に。
半ば強制でパン屋で昼食を買っていった後に、コンビニで熱々の肉まんを一つ買って中野家へ。
良い子に待っていた一花と二乃は、買ってきたパンを見て大喜び。中野家はあのパン屋がお気にだからな。
五つ子とちゃぶ台を囲んで、色取り取りのパンを争ってジャンケン大会が始まった。
「抹茶ぁ…抹茶は店長さんが私の為に作ってくれたのにぃ…!
フータロー…!」
「おまえやる必要なかったのに、ジャンケンしたいって言うから競りに出したんだろうが…
二乃、悪いけど三玖と交換してくれ」
「私カレーパンは嫌なんだけど、一花の甘いのがいい」
「カレーパン…カレーパンが食べたかったのにぃ…
み、三玖…わ、私と交換…」
「五月とはヤだ! 今日フータロー盗ったもん!」
「はわわ…」
「私もカレーパンと交換は嫌でーす しいたけ入ってるし」
「…じゃあ四葉、おまえの焼きそばパンを一花にやって…って」
「あ、ごめんなさい! もう齧っちゃった!」
「じゃあ交換なしってことで…食べちゃおーっと」
「あぁああ! 一花がもう食べたぁ! いただきますしてからでしょ!」
「抹茶ぁ…」
「か、かれぇぱん…」
目当てのパンを取り逃がした五月と三玖を慰めたりと今日もまた喧しい一日だった。
夏の夜は虫の音が囁き、人混みの喧騒とは違う風流な体験を与えてくれる。
壁が薄い我が家は屋内でも虫の合掌を聞くことができる。蝉やコオロギ、時たまにカエルなど。
テレビがない環境では季節感を演出してくれる貴重な音色だ。その演奏を傍らに上杉家はとある会議を開いた。
「第一回、上杉家家族会議だ!!
議長は俺、副議長はらいは、書記は風太郎で開催する!」
「はーい 議長、お題はなんですかー」
「おう、議題はな!
…議題は…!
…」
「…」
「…」
「…
あ、あー…あれだな、うん
らいは、おまえちょっと先に風呂入ってきな」
「家族会議なのにしょっぱなから家族追い出すの!?」
「親父、らいはも事前に知っといたほうがいい
出くわす可能性だって高い」
薄暗い明かりを頼りに、ちゃぶ台を囲んで俺たち3人は話し合いの場を設けた。
お題は当然、今日やってきたというスーツ女について。
親父に伝えたら件の喫茶店買取の相手と一致した。家族全員揃ったところで緊急会議となった。
「風太郎から…というよりも、四葉ちゃんと三玖ちゃんからの報告だ
俺たち三人だけの問題なら、まだ深刻なもんじゃなかったがよ
あの子らを巻き込むのはまずいからな…」
「借金のお話じゃないんだよね?
うちにそれ以外に何かあるの?」
「おう、ずばり、下の母さんの店のことだ」
十年も前に亡くなったお袋の店、と聞いてらいはは訝しむ。一方で親父は快活そのもの。
家では母親の話題は避けがち、ということもなく。親父も引きずっている様子もなく健全なそれにしか見えない。
ただ金が関わるとなると正直気が重たくなる。妹にきな臭い話に触れてほしくない。すくすく健やかに生きてほしいぜ。
「お母さんのお店?
あの "うえすぎ" の喫茶店だよね?」
「風太郎は知ってるよな、ガキの頃よく見てただろ」
「まあ…少しは」
「人気あったの? もう開店早々に潰れかけてたり…」
「いや、ボロい店の割に景気は良かったんじゃないか」
「おう、母さんの料理は絶品だからな!」
「えっと、もう開いてないお店がどうしたの?
リニューアルオープンとか?
それとも…もう潰しちゃう…とか?」
「…どっちかっつーと…潰すほうだわな」
「え…」
「買い取りたいって言ってる奴がいるんだ
下の店、結構な高額で」
「え、えぇえええ!?
…そ、そんな良いお店なの?
なんというか…本当にボロボロだよね? 十年ぐらい使ってないんでしょ?
そんなの…って言い方、お母さんに申し訳ないけど…売れるの?…」
「それでも買いたいって言ってるからな」
「物好きだよなー!」
らいはが信じられないと言った風に親父を睨んでいる。これは裏があるんじゃないかと勘ぐっているぞ。
立地は良いらしく、本当にこじんまりとした喫茶店の癖に集客は良かった記憶がある。
お袋の帰りが遅かったのもそれが原因。俺は一人で上の階で留守番。
下の笑い声やパン生地を叩く音が、真っ暗な部屋にも聞こえてきて、落ち着かなかった思い出だ。
「親父、その話ってどこまで進んでるんだ?」
「俺が開口一番に断って終わってるはずなんだけどなー!
それが尋常じゃねえくらい、しつこくてよー
俺の両親や母さんのご両親に連絡いってるわ
うちの会社の社長にまで声かけやがって…一度面倒くせーことになったな」
「…マジかよ」
「ああ、社長は俺が借金抱えてるの知ってるからな
身軽になる良いチャンスだろってよ…外堀埋められかけて恐ろしかったな…
母さん以来だぜ、あんなことされるの」
「お母さんはそんなせこいことしないでしょー!」
「い、いや…だいぶエグいこともしてたからな、やると決めたら容赦ない女だったぜ…
そこも惚れちまったんだけどな!」
「社長が勧めたからって絆されるなよ?」
「とは言っても、至って善意だぜ? うちの社長は
裏を取ったら闇金とかその手の取引じゃねえってよ
相手先の店も分かったし」
「店…?」
親父は仕事用の鞄からパンフレットを取り出して見せた。一目で分かる、パン屋のパンフレットだった。
…これを見たところで俺もらいはもチンプンカンプンだ。こういう類はケーキ屋の店長に聞くのが一番。
あとパン屋なら、三玖のお気に入りのパン屋の店長さんにも聞いてみるか。パンフレットは俺が預かることにした。
「その話、断って終わりとはならないのか?
取引なんてこっちが蹴れば話にならないだろ」
「俺はてっきりそれで終わると思っていた
だってのに…今日来たんだろ? その女」
「らしいな」
「…あのさ、その人…乱暴な人なの?
もし五つ子の皆に迷惑が…」
「いや、流石にそんな雰囲気はなかったが…
…子供相手じゃ、誰だって暴力触れるもんな…
こればっかりは零奈さんに頭下げるしかねえな」
「ま、まだ怪我とかしたわけじゃないし…!
で、でも…あってからじゃ遅いか…どうしよ」
「…とまぁ、概要は伝えたところで
こっからが本題だ」
うちに入り浸る五つ子に危害が及ばないか、俺もらいはも、親父もそれを危惧した。
善人だと信じ切って何も対応をしない、そんな甘さは大人には許されない。子供を守るのなら全力だ。
五つ子にも注意を促すとして、事のあらすじを話した親父はらいはと俺を一瞥する。
…察して目を逸らした。どう転ぼうと、結果は同じだと思う。
「以前、風太郎には軽く話したな」
「ああ…畑仕事中にな
でも断ってるんだろ? それでいいじゃねーか
しつこいなら警察呼んで終わりで」
「…」
「…」
「…あ?
まさか…売るの?」
問題は至ってシンプル。断っても迷惑被るなら警察にふんじばってもらえば良いだろ。
なのに親父からは同意の返事はなく。もしやと問い質す。
「…俺一人で決めるもんじゃねえしな」
「…今更何言ってやがる…」
「お、お兄ちゃんっ」
2人の子供に選択を委ねるのか。店を開いた最後の発起人として一人で決めるべきなんじゃないか。
俺もらいはも、喫茶店については記憶なんてほぼほぼない。らいはに至っては生まれてすぐに閉店だ。思い入れなどない。
重大な選択を迫られることになったらいはが冷や汗を流している。お袋の形見だと常々言っていた店だ。
金に換えてしまったなんて…良心が悼むんじゃないか。
らいはは亡くなったお袋の事を知らない。それでも慕っているのに。
「風太郎はどうなんだ」
「…」
「お、お兄ちゃん…」
…あれは。あの店は。
両親が始めた店。失敗して借金を抱えた元凶であって。お袋の夢でもあって。
母親がそんな夢さえ抱かなければ…俺はともかく、らいははもっと自由な時間を得ている。借金なんてなかったはずだ。
勝手に死んで、その尻拭いを俺とらいはにさせた挙句…その後始末までも子供たちに関わらせようってか
…ふざけるな。
あんたの夢の道具の為に、俺もらいはも生きているわけじゃねえだろ。
ふつふつと…怒りが湧いてきて、自然と拳を握っていた。ちゃぶ台の下で…微かな反抗心を隠して、二人に言ってやった。
「どうだっていい
俺は来年ここを出る、らいはと話し合ってくれ」
「この白状者がー!
可愛い妹が困るの分かってるから、お兄ちゃんも参加しろって言ってんだ!」
「もう答えは決まっているようなもんだろうが…
らいは、言っていいぞ」
「…なに? 決まってるのか、らいは」
「…わ、私は…
で、でも…お兄ちゃんは…」
「どっちでもいい」
「わ、私…お母さんの事何も知らないんだよ…!
お、お兄ちゃんしか…私に決める権利なんか…」
「おまえも母さんの娘だ
俺はあの店に拘りはない
だからもし、おまえにあるのなら…素直に言ってみればいいんだ」
「…らいは、言ってみてくれないか
おまえには俺も母さんも…頼りきりだからな
言ってほしいんだ、言ってくれ」
兄のおざなりな言い分に妹は頭を抱えた。肝心な時に頼りにならない兄だと呪っているに違いない。
そんな難しいことか? 重大な選択とも言ったが、売る場合のプレッシャーであって。
…存続させたいという願いなら親父もお袋も、喜ぶんじゃないか。
「売りたく…ないかな
お母さんの形見だもん、あのお店は
他の人の名前で上書きしたくない」
「…お、おう」
「へ、変な妄想かもしれないけど
私が大人になって…誰も使わないなら
私が…開いてみる…とか、考えてたり…」
「…ああ」
らいはのいじらしい希望に親父は言葉を詰まらせて頷いた。らいはもまた恥ずかしさから下を向いている。
…お袋のご両親が聞いたら泣いて喜びそうだな。あの二人とはあまり会えてないが…この店のことだって気がかりなはずだ。
らいははふと立ち上がり、とてとてと重たげな足取りでお袋の写真立てを手に持ち、ちゃぶ台の上に置いた。
会議に参加でもさせるのか。あの人ならどう答えるんだろう…
されど、反対意見が明確に上がったことで決定したわけだ。親父がうじうじ悩むこともなくなっただろ。
「大方、大金用意するって言われて、社長にも説得されて迷ったんだろ
金を気にするなら、借金自体をあんたの親とお袋の親に協力してもらえばいいだろ
利子でどんだけ高くついてると思ってるんだ」
「お、お兄ちゃん…それは言わない約束」
「…
とりあえず、だ
いいんだな…? このまま断って」
「…
お兄ちゃんは、どうなの?」
「ん?」
「もしもさ…本当に売れて、借金なくなってさ
そしたらお兄ちゃんは大学行っても、仕送りなんてしなくていいんだよ?
逆に、お父さんから仕送りができるかもしれないし」
「いらねえし、仕送りなんて」
「こいつ…学生の一人暮らしを舐め切ってやがる…」
「…お兄ちゃんは私と同じ反対でいいんだよね?」
「…」
「風太郎、正直に言ってくれよ」
なぜここで蒸し返す…断る方向で進めるんじゃなかったのかよ。
…察してほしい。分かってほしい。
どっちでもいい、なんて…普通言わないだろ。
言いたくないから、そう言うしかなかったんだ。なのに…
正直に言えと言われて、嘘をつくのも後々何を言われるか分からん。
…らいはめ。お袋の写真をこっちに向けるな。嘘偽りを吐けば呪ってやると言いたげだぞ。お盆の時期にそれやるな。
「…
良い顔しないこと承知で言うぞ
俺は…金になるのなら売ってもいいと思った
…でも、言いたくなかったから…どっちでもいい」
親父は静観。らいはは落胆していた。お袋は…わからん。
「それでも正直癪に障った
腐ってもあの店は家みたいなもんだし
お袋が死ぬまで働いていた店だ、他人に好き勝手されるのはむかつく」
「お、お兄ちゃん…それなら」
「だが、結局は絡んできているのは金だ、借金だ
観賞用にもならねえ店が金に変わるのなら
借金を清算できるのなら、俺は売ってもいい
この狭い家から引っ越すのだって悪い話じゃないしな」
変化を受け入れたくない気持ちはわかる。だがそれは…愚か者の思考でもある。
改善できるのなら費やしたほうがいいに決まっている。
俺たちの生活は底辺に近いもので、決して恵まれたものじゃないんだ。
…ここだけの話、中野家やその五つ子に対しての支援もあって散財が増えている。裕福でもない家が他人に施しなど馬鹿げている。
だが、それでも手を伸ばし助け合いたいと思う気持ちは、何よりも大切だと思っている。
貧乏な家でも培って生まれた価値観。誰かに求められる根本的な素質。
それが俺にとって…唯一、この家で育って良かったと思えるもの。居心地の良い家であってくれる理由だから。
「…
保留、だな」
「え?」
「らいは、おまえも来年は中学だしな
こんなボロい家にずっと縛り付けるのもかわいそうってもんだ」
「…ねえ、待って
さっきちょっと言ってたけど…
え? 引っ越すの?」
「ああ、下と一体化してるし
退去確定だな」
「…
嫌だ」
賛成と反対で二分したことで親父は保留を言い渡した…が。らいはが一つの要素に目くじらを立てる。
今は小学6年で来年は中学に進学。引っ越しと言っても…クラスの友達が変わることはないと思うぞ…?
そんな懸念など眼中にない、と妹はちゃぶ台をダンッと強く叩く。
ミシッと縦に割れるんじゃないかと危惧した俺と親父が注視する。びびったわけじゃないからな。
揺れたせいで、お袋の写真立ては倒れてしまっている。
「…嫌だ…」
「…」
「…」
「やだよ…」
「らいは」
「二人は…いいよね
お母さんと接点あって」
「…」
「私、ないんだよ
会ったことないんだよ」
握る拳は震えていて。力んだ手で大切なものを手放さないように…らいはは必死だった。
「ここを離れたら私、お母さんの子だった理由が…」
…風太郎は母親の写真立てを手に取り、妹の手に添えた。
力を込めていた指を離して、らいはは写真立てを受け取る。
力んで、強がって、他人を拒絶しても、その手の平に守りたいものはない。らいはが尊重したいのはお袋の気持ちだから。
「お母さんの形見はさ
この家とあのお店しかないのに、全部なくなるの?
まだなくなるのは…早すぎるよ…」
「…そうなるな」
「私、見たかったんだよ
いつか…お店、開いてさ」
「…?」
「帰ったらお店に明かりがついて…暗いお家を照らしてくれて
私も…見たいんだ…お母さんがいた頃の光景…
私だけ…知らないんだもん…」
写真に写る女性を見つめて、らいはは目元を拭う。
口を開けば、またポロポロと涙が零れて。親父は娘の訴えに黙って目を閉じる。
…男手一人で育てても、母親の存在を補うのは無理がある。
今までケアしてこなかった溝に触れて…親父は詫びるようにらいはの頭を撫でた。
「…保留だ、風太郎」
「ああ」
「…おまえも思うところがあるんだろう
おまえの本心なんだろうけどよ
でもよ」
「…」
「…妹を泣かせてくれるな、頼む
おまえの協力が必要なんだ」
「…
はぁぁ…っ…」
嗚咽を堪える妹をよそに…風太郎は大きなため息を吐く。苛立ちを吐き出さざるをえなかった。
子供っぽい。到底…恩師やその娘には見せられない、拙い気持ち。
それでもやるせないんだ。憤りを感じるのは…親父の態度。
あんたらが始めた物語だろ。
片方が死んだってな、続いているんだろ。俺とらいはを巻き込んで。
貧乏人が子供なんて産まなきゃよかったんだよ。
家族は好きだ。大切な、努力を捧げるに値する掛け替えのないものだ。
だけれど、だからこそ…死んだ者を優先して、俺とらいはが蔑ろにされるのは…むかつくんだよ、親父。
親父も同じだろ? 俺はらいはの泣き顔は苦手なんだ。
「らいは、ごめんな」
「…」
らいははいつも一人で立ち直る。
俺があの五つ子を泣かせたくない根本的な理由は…らいはを何度も泣かせてしまったからだ。
こうなると知っているから。泣いた数だけ女の子は強くなる。
それまで持っていた希望やお願いを諦めて、もう言ってくれなくなるんだ。
それは悲しい成長とも言える。そうさせてしまっているのは俺の力不足もあれば…借金のせいでもあって。
責任転嫁だと思いたくない。それでも言っても良いのなら…
寝静まった夜。横の布団で眠る妹に声をかけられた。
「お兄ちゃんはさ
お母さんのこと、嫌いなの?」
言ってもいいのなら。それは甘えだった。
「…答えたくない?」
誰も良い顔しないと分かっている。
「もういない人を、意味もなく傷つけたくない」
母さんも困るだろ。
またあんな風に笑って謝るんだ。
「おまえが先に生まれなくて、良かったかもしれない」
「それはありえない、かな
お母さんとお話、したかったもん
好きとか…嫌いとか、そういうのとは関係ないでしょ…親子って」
割り切ったような事を言う妹に苦笑する。
そう簡単に、理性的にはなれないんだよ…親子は。
母親の夢を見た。
俺がまだ5歳とかそんな頃。その日は幼稚園もなく休日だった。
お袋は休日も店を開いていて、帰ってくるのは夜遅くだ。
放任主義というか…俺が悪ガキだったからか。家で両親の帰りを待つのが多かったんだ。
一人で暗い玄関の前で座り込んでる。
「…」
むすっとしてたと思う。あの五つ子と違って、可愛くねえガキだったと思う。
当時は親父もお袋も忙しくて、らいはは実家に預けられがち。
俺は留守番できるからと言い張って、家に残っていた。
寂しかった。
それもそうだろ、あの二人が帰ればうるさいほどに賑やかだから。
オレンジ色の夕暮れが沈んで、紫から青…黒と変わり。
怖くなってドアのカギを開けて階段を下りたんだ。
「…まだやってんのかよ…」
階段を下りれば真っ暗な玄関と違う、薄暗い夜を照らす明かりが見える。
喫茶店の窓やドアから明かりが溢れて、煌びやかで、食べ物の良い匂いもして…上と下では別世界。
母親は接客で忙しく、窓から中を覗く俺のことなんて気づきやしなくて。
…ドアを開いて覗き見ることも最初はしてた。開けばドアベルが鳴って気づかれるから一切しなくなった。
帰ってくるのはまだまだ先になる。俺は諦めて、玄関に戻って…音もなくカギを閉めたんだ。
ほどなくして…階段を駆け足で上がる音が聞こえてびびった。見てるのバレてたんだろうな。
「風太郎
風太郎…開けてくれる?」
玄関のドアの先。聞こえたのは母さんの声。いつになく優しくて、子供を慰めようとしているんだとわかる。
ドアのカギを持っているくせに、自分から開けない母親だった。
「だって、風太郎がお家を守ってくれてるんでしょ?
お仕事してくれてる子に私を認めてもらわなきゃ」
認めなきゃ、ずっと外にいるのかよ?
「そうなるね うーん、寒いけど我慢我慢」
…子供相手なのに、子供扱いしないのが妙だった。
俺は開けなかったんだ。殴られてもおかしくないガキだったと思う。。
…きっとあの人なら、子供に暴力を振ってもいい理由なんてない、と断言するだろうけど。
「…っ」
…俺はドアのカギを音を立てないように静かに開けた。
でも言わなかった。開けなかった。カギを開錠しただけで。
最後の抵抗だった 勝手に入ってくれば俺の勝ち。所詮は口だけの見栄っぱり。
でも来なかった。来てくれなかった。
ここまでしても動じない母親に、俺は求められていない子供なのかと思うと、後悔した。
「風太郎…っ!」
泣きだしたら、すぐに開いたんだ。
「ごめんね、風太郎…ごめんね」
「ひぐ…う、うるざい…」
「一人は嫌だよね
…今度から風太郎もお店に来ない? 一緒にいよう、ね?」
「いぎだくない…」
「風太郎…」
「おしごと、してればいいだろ…!
ほうっておけばいいだろ…!」
謝る母親の腕を振り解いて、奥へ逃げた。
子供ながら分かっていた また繰り返すんだ。
所詮は子供だましで、優しくしたら泣き止むから、また仕事に付きっきり。
悪さをすれば怒られる。静かにしていないといけない。かといって母親も構ってくれない。
何もできないあの空間は嫌いだ。だから行かなかった。
嫌いな場所だった。子供の頃からずっと。
「嫌いだ…あんな奴…」
俺を醜い子供のままにして、その後すぐに死んでしまった、お母さん。
覚えているのはあの日ぐらい。ずっと謝られて、許さなかったあの夜。
たとえ墓前に手を合わせても言いたいことはもう伝わらない。
上杉風太郎は、優しい母親への仕打ちを後悔し続けている。