一度問題が起きると目を離すことが恐ろしくなるものだ。
洗濯物をたたむ風太郎の心中は落ち着かなかった。風太郎の見まねで子供たちも綺麗にたたもうと励んでいる。
二乃が火傷した手は大丈夫そうだ。触れたら痛むだろうから包帯を巻いてやったが冷やさなくても良さそうだった。
風太郎は心から安堵している中、二乃は洗濯物を綺麗にたたんでいた。家事を望むだけあって器用な子だ。
一方で落ち込んでいる一花と三玖は風太郎の両隣にびっしり張り付いている。両脇から挟まれて非常にたたみづらかった。というか一花雑だな、おい。
さっきまで五月と遊んでいた塗り絵や紙が散乱していたのだ。洗濯物をたたむのに邪魔だったから片付けろと言ったが隅にどけるだけだった。整理整頓はダメなタイプか。
子供たちに洗濯物を任せて風太郎は一人でサラダを作りあげ、夕食の準備に取り掛かった。
五月の分は多めに盛ってやることにした。先の火傷で忘れていたがまだ問題があったのだ。
「いただきます」
子供たちには珍しい、母親のいない食事だ。
皆で手を合わせてからカレーを召し上がると、案外上出来なものだった。
しかし張り詰めた精神では純粋に喜べなかった。自分でも肩肘張っているのが分かっている。
「! はぐ…あむっ
おいしい!」
「うん、おいしいよふーたろーくん、すごい!」
「うえすぎっ こんどおしえて!」
「おかあさんのとちがうけど、すき」
「…おかわりしてもいいぞ」
子供達が嬉しそうに食べている光景を見てからは、おかしいくらい力が抜けた。顔を引き締めなくては笑っていたかもしれない。
四葉は口元を汚してがつがつ食べている。ティッシュで拭いてやってもお構いなしにまた汚す。落ち着いて食べろよ。
一花も、二乃も、三玖も。さっきまで落ち込んでいた顔から打って変わって笑顔を見せている。おいしいね、と食が進んでいて好評のようだった。
「…」
「…」
しかし五月が問題だった。
食べてはいるが落ち込んでいる。食べるペースが。
されどその顔はカレーに釘付けになっている。内心葛藤しているのだろうか。鏡でその顔見てみろ。
やはり二日前の太るぞ発言が五月を苛ませているようだ。あの時の自分を殴りたい風太郎だった。余計な一言でなぜこうも面倒になるのだから。ノーデリカシーは重罪のようだ。
風太郎の視線に気づいた五月は食べる手を止めてしまった。
「どうだ五月、カレーの味は」
「…おいしいです」
「そうか、いっぱい食べろよ」
「…おなか、へってないです」
嘘である。目がカレーから離れてないぞ。今だって普段の半分も食べてないのだ。
意地を張っているのは明らか。これは重症だった。
いくつか励ましたり、カレーの良さを説いてみせるが聞いてないようだ。どうしたものか。なんとか食べてほしい。
…やるのもどうかと悩んだがもう他に考えられる手はなかった。
風太郎はまったく触れようとしない五月のスプーンを取り、五月の口元に寄せた。
「ほら、あーん」
「ふぇ?」
「だから、あーんだ」
食べたくない人間には拷問だが五月に限っては違うだろう。こちらは恥ずかしいが。先生がいる前では到底できることではない。
確信がある。なぜなら五月のお腹から悲鳴を聞き取れたから。
本人は羞恥で顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「我慢するな、手が疲れる」
「ぅ…
あ、あー…む」
恐る恐るスプーンを口にする五月に風太郎は笑ってしまった。
恥ずかしそうにもじもじしながら飲み込み、続いて掬ってみせると抵抗なく口を開いた。
顔は相変わらず真っ赤だがな。辛くはしてないぞ。
「どうだ?」
「…おいしいっていいましたもん」
「うまいもん食わないなんて人生損するぞ」
「うぅぅ…」
五月に睨まれるが風太郎は成し遂げられたので笑ってみせた。所詮子供の意地などその程度よ。
スプーンを置いて自分のカレーに手をつけるが、五月は動かなかった。
「…」
「…」
「…
あ、あーん」
「あ、あー…ん」
現金な奴だ。あれだけ睨んで目を合わせようとしない相手に食べさせてもらっていいのか。
仕方なく食べ終わるまで食べさせてやった。お陰で自分の分は手付かずだった。
五月を食べさせ終えたところで脇に何かひっついてきた。
視線を送ると期待の眼差しを向ける三玖がカレーの皿を置いて待っていた。両手を膝の上に置いて。連戦とか勘弁してくれ。
「ずるい」
「おまえに構ってると俺が食えなくなる」
「フータローにはわたしがあーんする
かわりばんこにしよう」
「…」
先生が口数の少ない鉄仮面になるのも分かる気がした。
何を言ってもこいつは引かないだろう。風太郎は黙って三玖のカレーを口に運んでやった。
よく見れば一花と二乃まで手を止めていた。おまえら食べ物で遊ぶんじゃない。
言っても聞かないし五月と三玖だけ優遇すれば拗ねるだけ。やらざるをえない。
二人に注意が向けば、三玖がまだかと口を開けて待っている。親鳥か俺は。
母がいない子供たちは無敵だった。
「おかわりです!」
「はいはい」
「おかわり……いいです、か?」
「一人で食うならな…」
結局風太郎は子供たちが飽きて一人で食べ始めるまで延々と介助することになった。
一人で食べる四葉は天使のようだった。すぐに口元を汚す、手間のかかる天使だった。
予想以上に体力と時間を浪費した夕食だった。
手間取った分五つ子には洗い物の手伝いをさせることにした。五人もいれば食器拭きもすぐ終わる。有効活用せねば身がもたん。
子供達を風呂に入らせて、風太郎は三つの布団を敷いた。
まだ寝れないが少し休ませてもらおうと横になった。バイトもそうだが初日はやけに疲れる。先生の苦労を知れたように思えた。
少しして子供たちが風呂から上がったようで、自分も使わせてもらおうと寝巻きをバックから取り出すと騒がしい音が響いてきた。
「あっついよー!」
「こら四葉! かぜひいちゃうから!
下着だけ穿いた四葉が走ってきたのだ。なにをしているんだこいつは。
続いて一花が四葉を止めようと走ってきた。下着姿で。部外者が泊まりに来てることを忘れていないか。
「フータロー…」
「三玖、おまえも何か着ろ…ってびしょ濡れじゃねーか
タオルあっただろ?」
「かみ、ふいてよ
いつも、おかあさんがふいてくれるの」
「…ん?」
居間で鬼ごっこをしている一花と四葉は置いておき、脱衣所のほうを確認すると奥で恥ずかしそうにタオルを胸に巻く二乃と五月がいた。
ひとまず床にぽたぽたと水滴を垂らす三玖からタオルを受け取って軽く拭いてやる。
しゃがんだ風太郎に好機と見た三玖が首にしがみついてきた。やめろ、濡れるだろうが!
裸の三玖をタオルで包んで抱える。走り回る二人を脱衣所に呼び出してひとりひとり拭いてやった。
風太郎の予定にはなかったことだ。疲れる…
「…わたしも、ながくすればよかったなぁ」
「長いと大変だって聞くぞ」
「…だって…すぐおわっちゃうもん」
短く切り揃えた髪を弄る一花が拗ねていたが知らん。今は短い方がありたがい風太郎だった。
四葉は適当に拭いた後は再び居間を走り回っている。走って乾かすつもりか。
二乃と三玖も終えて最後に五月が残った。
寒いだろうから手早く済ませようとするが髪が長い上に、癖ッ毛でボリュームがあるから時間がかかった。
その間始終顔を真っ赤にしていた。子供だがそれなりの羞恥心があって助かる。
我慢して黙って拭かれている五月に良いことを教えておこう。
「安心しろ五月」
「え?」
「心配していたが、まったく太ってな――あがっ!」
後ろを向く五月からそのまま頭突きをくらった。
悩みを打ち消すアドバイスだと思ったがこれもダメなようだ。終わったからもう行っていいぞ。
怒って脱衣所を出る五月を見送って風太郎も風呂に入った。浴槽に浸からずシャワーで洗身を済ませた。
風呂場の換気扇をつけ、手早く寝巻きに着替えて脱衣所を出る。
脱衣所のドアが不思議と重かった。
何かがぶつかっているようでゆっくり押すと五月が寄りかかって座っていた。タオルだけ巻いた姿で。
「なにやってんだおまえ」
「…」
五月は黙って三角座りをして俯いている。少しずつどいてもらって脱衣所を出たが、立ち上がるつもりはないらしい。夕食でだいぶ元気になったと思ったがダメなようだ。
ふと視線を感じた。寝巻きに着替えた一花が遠目から五月を心配そうに見ていた。
居間に来ない五月を心配していたのだろう。大丈夫だと長女に合図すると頷いて去っていった。
あんなに頼りになる姉がいるというのにこいつは…困った末っ子だ。
「怒ってるのか?」
「…」
首を横に振った。
「腹が痛いのか?」
「…」
「…お母さんに会いたいのか?」
「…」
沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
すると我慢していたものが溢れてきたのか。鼻をすすってしゃくり上げる嗚咽が響いた。
風太郎は寝巻きの上を脱いで五月にかけてやった。頭を撫でると立ち上がって風太郎にしがみついてきた。
顔を赤くして火照っていた子供の体はすっかり冷えてしまっていた。
「わかった、でもちゃんと帰ってくるからな
寂しかったら皆といろ、俺もついてやる」
「やだよ…やだ、やだ、やだよぉ
おにいちゃん…」
「…」
「おにいちゃん…ひぐ、うぅ…」
嗚咽を堪えようとする五月が泣き止むまで、小さな背中を擦ってやった。
「ごめんなさい、うえすぎくん」
「かまわんが、おまえの変わりようについていけなくなってきたぞ…」
風呂の後に耳掃除をしてやった。五月は風太郎に膝枕をされて大人しいのだが、先程泣きついたことが恥ずかしいようだ。また顔を赤くして…難儀な子だ。
どうも不安定だ。母親が離れる前も元気がなかったが、とうとう我慢の限界を迎えているようだ。正直心配だった。
おまえはどう思うんだ三玖。順番待ちでじーっと妹を見ている三玖に内心疑問をぶつける。急かすなよ。
他の三人は布団の上で寝る位置を決めているようだった。その騒がしい光景を眺め、風太郎は五月に提案した。
「一緒に寝るか?」
「っ…う、うん」
「…きょうは五月ばっかりでずるい…
わたしもとなりがいい…」
「もう隣が空くからおまえも来い」
「うん」
会議の外で三人の寝場所が決まったことに、奥の三人が喧しくなったがもう知らない。
次は私だよ、と五月と交代した三玖が膝に頭を寝かせてきた。寝ないでくれよ。
全員の寝る位置を決めたようで歯磨きを済ませるよう伝えた。しかし何やっても喧しい子供たちだ。
歯ブラシを間違えて言い合いになったり、歯磨きを嫌がって四葉が逃げていた。もう寝るのにテンションが高すぎるぜ。
結局床に就いたのは22時過ぎだった。両隣に五月、三玖。三玖に並んで一花、二乃、四葉と寝ている。
三人の取り決めだと風太郎が真ん中で寝ることになっていたが五月が端に寝始めたので必然とこうなった。
文句が出そうなものだったが、いつにも増して元気のない末っ子に姉たちは矛を下げるしかなかった。
さっきまで布団に潜っても眠りそうにないほどうるさかったが、疲れたのか小さな寝息だけが聞こえる。やっと一日を終えられた。
「…五月」
風太郎は普段この時間は一人で勉強していることもあってまだ眠れなかった。
眠気のない視界の中、常夜灯の灯りの下で薄っすらと五月の顔を眺めていた。
なにせずっと目を開けて眠ろうとしないのだ。
隣の三玖は風太郎の腕に抱きついて既に寝ている。風太郎としては寝づらいが仕方ない。今日限りだ。
四人が寝ていることを確認して五月に話しかけた。
「何を悩んでいるんだ」
「…」
「太ってないと言っているだろう」
思いっきり肩をかじられた。夜中に起きてるもんだからお腹空いたんじゃないだろうな。
反応してくれて嬉しいが痛い。無言の抗議の視線に笑ってやった。
「おまえな、急にバカみたいに食べ始めるから心配だったんだ
過食ってのは良い事ないんだ」
恐らく不安やストレスから現れた過食なのだろう。今日の様子を見てそう捉えられた。
何があったのか尋ねると何分か経っただろうか。
五月は重い口を開いた。
「ゆめ…」
「夢? おまえの目標のことか?」
「ちがう…いやなゆめ
おかあさんがいないゆめ
ずっとみるの」
「…何でそんなもの見るんだ、何か嫌なことあったのか?」
ふと、昨日らいはが話した夢を思い出した。
幼稚な五月にとってそれは真実ではない夢だと切り離せないものなのだろうか。
五月は風太郎の腕を抱きながら続けた。
「おかあさん…さいきん…
おくすり、のんでるの…みんなにないしょで」
「…」
「びょうきなんだ
おかあさんにきいたら、よくねむれるおくすりだって
でも…おかあさん
のんでもねてないもん」
「そうか」
五月がこの時間起きているのは、もしかしたら母親の様子を見続けていたせいなのかもしれない。
不安で眠れない。母親が眠れているのか心配で眠れない。怖い夢を見るから眠りたくないのだ。
子供がここまで心を病ませてしまうのか。それほどまでに追い詰められていた。
「ほんとうは…びょういんにいってるんですか?」
「…」
正直分からない。
何の薬かは知らないが飲んでいるとは知らなかった。もしかしたら風太郎に話した夫の話も嘘なのかもしれない。
嘘だとすれば、風太郎もまた嘘をつかなくてはいけない。
例え自分に嘘をついたとしても、子供を愛する恩師に嘘はないと断言できる。ならば今告げるべきことは。
母親の嘘を守ること。その嘘は、きっと子供達を不安にさせたくない思いでついたものなのだから。
五月の頭を撫でて笑ってやった。
「おまえ、そんなことでうじうじ悩んでいたのか
可愛い奴だな」
「え?」
「その薬一回見たことあるけどな、本当に眠れない人が飲む薬だ
効いてないならやめるように言わないとな
いや、言ったらこっそり見てたことバレちまうな、ゲンコツもらっちまうぜ」
「え?…え?」
「先生はな、本当に親戚のところに行ってる
あの人は嘘をつかないし、申し訳ないと思って俺に頭を下げたんだ
優しいよな、子供の為に他人の俺を引っ張り出してきてよ」
「おかあさんが?」
「当たり前だろ、俺だって妹がいるんだ
普通引き受けねえよ、おまえの母ちゃんが真剣に頼んできたからここにいるんだ
信じろよ」
「…」
「よし、もし違ったら…なんでも言うこと聞いてやる
何でもだ、絶対にありえないがな」
「…うん」
頭を下げて懇願する先生の姿に偽りなどあるのだろうか。ないだろう。先生に限ってそれはない。
全てが真実ではないのかもしれない。だが行き先を偽ったりするだろうか。露呈すれば仕事に響くのに教え子にこんなこと頼むだろうか。
五月はほんの少しだけ笑った。
到底納得はしていないだろうが、そうじゃないかもしれない、と希望は見出してくれただろう。
「でも…おかあさんがいなくなったら
どうなるんだろう…って」
「おまえな…」
「おとうさんもいないもん
テレビでみた…おやがいないこが、いくところ
みんなともはなればなれになって…ちがうおうちに…」
そんなことはない、と言いかけてやめた。
これは違う。五月は母の話をしているんじゃない。
この子は、もしかしたらありうる未来に脅えていた。
幸福な家庭とは程遠いものが現実にある。明日は我が身とは言わなくても、母がいなくなればそうなると知って脅えている。ありえない話ではないのだ。
風太郎には人事のように捉えられなかった。泣きそうな五月の手を握った。
「最初は分からなかった」
「?」
「今のおまえより大人だったがな、わからなかった
母さんがもういないって言われても、昨日会ったのにな
笑ってたし、手も握ったし、いっぱい話した」
「?
うえすぎくん?」
「俺の母さんはもういないんだ」
ありえる現実がすぐ傍にあったと知って五月は驚き震えていた。縋るように風太郎の手を両手で握ってきた。
怖いことはない、そう笑ってみせよう。
「そうだな…やっぱり悲しいさ
いつもそこにいたのにいないんだ
おかえりって…まあ普段のおまえ達は言う側だろうけどな
それがもう聞けないんだってわかった時は泣いたな」
「…どこかいったんですか?」
「いいや、俺には父さんがいるし妹もいる
親父が頑張って俺たちを生かしてくれている、おまえの母親と同じだな
どこかに行くはめにはならなかった」
「…でもわたしは」
「俺が助ける」
「―」
「すぐにはできないだろう、だが必ず助ける
必ずおまえ達全員を迎えに行く
寂しくないように何度も会いに行ってやる、好きなもんも買ってやる
例えばの話だがな」
「…う、ぅう…ひぐ」
「五月、母さんがいなくなったらそれは絶対に泣く、そんなの当たり前だ
だがそんなの…
…ないさ
ないんだよ五月
だから怖がらないでくれ、な?」
「うん…うんっ」
「おまえのお母さんは頑張ってる
先生ってのは大変なんだぞ? 毎日問題起こす生徒の面倒見てよ、俺は絶対になりたくない
だから頑張ってるのに
もしいなくなったら、なんて考えちゃダメだ」
「ひぐ…うん…」
「そうだな…考えるとしたら
いつもありがとう…じゃないか?
眠れない程頑張ってるんだろ? 褒めてやらねえと」
五月はこくこくと嗚咽を堪えて頷いた。
泣き止んで笑ってくれるまでだいぶかかった。
簡単な手紙でもいい、明日作ってみるかと話し込んでいるうちに五月は寝てしまった。握る手を離してもらえなかったが我慢するしかない。
五月の穏やかな寝顔を見ながら風太郎も瞳を閉じた。
ありえると知っても、この先必ず起きることだと知っていても考えないようにしていた。
不毛だと。この先まだ遠い事だからと理由をつけて視界から追いやっていた。
失ってからじゃ何もかも遅い。後悔してからじゃ手遅れだ。
何でって…もういないのだから。
謝罪も。やりたかったことも。伝えなければならなかったことも。いつかと手放した大事なものを見てほしかった。喜んでほしかった。
やればきっと美談となっていただろう。だが、やらなければ全てが後悔として一生残る。
一生悔いて生きていく。ふとしたもので思い出して悲しむのだ。
似たようなものはこの世界に腐るほどあるのだ。その価値を知るのは当事者だけ。自分だけなのだ。後悔すれば救いなどない。
考えないようにしていたことを思い出して涙が溢れた。
酷い嘘をついてしまった。ありえないことなんて、ないのだ。先延ばしにしただけだ。
いつもありがとう、か。
俺は、伝えられなかった。
「うえすぎくん」
寝ていたはずの五月が風太郎の涙をパジャマの袖で拭ってきた。
「寝てろバカ
俺は寝るからな」
生意気なことをする子供にデコピンしてやる。
笑ってしがみつかれてしまった。本当に難儀な、油断できない子だった。
風太郎は油断できないと頭に残して眠りについたことを思い出して目が覚めた。
四葉に頬を足蹴にされながら。一番奥にいたのになんつう寝相をしているんだ。
見れば四葉に布団は荒らされ、一花が寝巻きを脱いで寝ており、四葉に腹を下敷きにされている二乃がうなされている。
三玖は四葉の襲撃から逃れようと風太郎の胸の上で寝ていた。こいつ一度起きたな。
隣の五月もちくちくと髪が当たって痛いようでむず痒い。
朝から散々だ。ズル休みして正解である。お陰で昨晩何を思い出して泣いていたのか忘れてしまった。
その日。中野先生は昼過ぎに帰ってきた。
相変わらずの鉄仮面。例え不眠症でもその程度じゃ到底揺るがないだろう。五月の話を聞いて抱いた不安が玉砕されたぞ。
土産を買ってきたようで、それをテーブルに置き風太郎に申し訳なさそうに頭を下げた。
申し訳ないがこちらは二乃を火傷させたことを謝らないといけないのだが…最後にしよう。
風太郎が促す先。子供達が先生の前に並んだ。
五つ子が畏まって横に並ぶ様に、先生は何がなんだか分からず膝をついて尋ねた。
照れてろくに母親の顔を見れない四人が真ん中の五月の背を押した。
五月が差し出したものを母親が不思議そうに見つめる。
「おかえり、おかあさん…その、ね…」
「…ま、ママ、いつもありがとう…ね」
「いつもおしごと…ありがとう」
「いつもめいわくかけてごめんなさい
…みんなおかあさんがだいすきだよ!」
「あ、あれ、それわたしが…!
そ、その…おかあさんに…これ」
それは不器用で質素なものだった。
しかし幸福な家庭が、愛する子が生む宝物だ。
白い厚紙にクレヨンや色鉛筆で描かれた母親の似顔絵。五人が描いた少し歪で不出来なもの。母親の笑顔だ。
そして、母を囲む五人の子供の顔が描かれている。風太郎の顔も描くと言われたが五人には家族水入らずの意味を教えてやった。
思いもよらぬ子供たちからの贈り物を受け取った母親は子供たちを抱きしめた。
初めて見た。泣きそうで。嗚咽をかみ締めて。
ありがとう…と笑うそれは。
奇しくも、風太郎がよく見る五つ子のそれによく似たものだった。