上杉君! 知らない人にはついていっちゃいけないんですよ!
アホ毛を揺らす末っ子の声で脳内に警告が響いている。決まり事にうるさい五月がいたら絶対に言っている台詞である。
パン屋から離れ、見知らぬ女の車に乗るのは抵抗があった。高速で走る鉄の箱に閉じ込められているようなものだ。
知らない場所に放り出されたり、黒服に囲まれて縛られたり、海に投げ捨てられたり等など…一花がいたらしつこく問い詰められそうな場面である。
しかし高校生が考える最悪な予感は杞憂に終わり、何事もなく目的地にたどり着いた。
「…レストラン?」
「食事をしながらお話しませんか」
「パンを買っておきながら何で…」
「お昼時ですし、パンなら後で美味しくいただくわ
ライバル店になるし、集中して食べたいの」
「硬くなってなきゃいいけどな」
この女店長、潰す気満々じゃねえか…中野家のお気に入りのパン屋が廃れちまう。パンを研究され尽くしたら店の武器がなくなってしまう。
竹林のバイト先でもあるし、あいつがクビになったら閉店になる兆しだと覚えておこう。週一ならパン一つぐらい買ってみせよう…
車は停まり、助手席の窓からは駅近くの高級料理店が見える。店の外観に費やした額が馬鹿にならねえと一発で分かる店だ。
俺の母親の話を聞き回っていたスーツ女は微笑みつつ、手慣れた様子でその玄関を潜ろうとしていた。
「ちょっと待った」
「何でしょうか
あ…心配しないで、代金は全て私が負担しますよ」
「そりゃあ、俺があんたにとって良い商売相手で帰れたら景気よく払ってくれるだろうな
交渉が決裂した後どうなるか分からん」
「ふーん…すんなりついてきてくれた割に、危機感が乏しいわけではないようね
安心しなさい、高校生の君に会計を請求したとなったら私がこのお店から出禁にされるわ」
「それはあんたの都合で、俺の不安解決にはならないので
ちょっとコンビニいってきます」
「ご自由にどうぞ」
無事に車から地に足を付けられたからといって、すべての不安が解消されたわけではなく。近場のコンビニに走って金を下ろしてきた。
財布が厚い…過去最高額の持ち歩きである。絶対に払いたくねえし、額がやばかったら醜く抵抗してやろう。つーか俺何も食わないし。
服装規定のある店ではないかと庶民はビクビクしつつ店のドアをくぐる。
そんな高校生をリードするスーツ女は案内を辿ってスタスタと店内を歩いていく。ウェイターも特に気にしていないので問題はないようだ。
静かな店内だ。うちのケーキ屋と違ってテーブル同士の間隔が広く、BGMなど流さずとも外部に干渉されない空間ができあがっていた。
昼の陽光を遮断しながらも、煌びやかな装飾が光を反射して微かな明かりを最大限に利用している。なんというか…目に優しい落ち着いた場所だった。
ただ無暗に金目の物を乱用した場所ではないのがわかる…これが金持ちの店。今後一生お目にかかれない場所だろう。お会計怖い。
「飲み物、お好きなもの選んで」
「水で」
「…彼にオレンジジュースを」
「…コーヒーでお願いします…ミルクと砂糖入りで」
社会人から露骨にこけにされたので注文はしておく。コーヒー苦手だけどこれしか頼めるの知らん。紅茶か麦茶があるかもわからん…
テーブルの席に腰を下ろして対面を眺める。スーツ女はウェイターに手早く注文を済ませてしまった。コーヒーの値段教えろという雑念が頭から消えない。
もはや取引以前にこの後提供される料理の方が怖い。て、テーブルマナーも自信ないぞ。
「さて…やっと腰を据えて話ができるわね」
「その前に…これから話す内容は父にも共有します
俺と話したところで何も進展しませんし、いいですね」
「ええ、お父様と違って君は協力的で嬉しいわ、ありがとう」
ガキ相手だからって迂闊なこと言えば交渉は打ち止めだと暗に伝えたが、涼しい顔で返された。あのパン屋で見せた醜態など忘れてるかのようだ。
嘗め腐ってやがる…気の良い笑みで返されてしまった。それとも停滞していた事態が進展してよほど嬉しいのか。
親父には取り付く島もない、一方的に断られているとこの女性は言っていた。
それを聞いた時、意外に思った。
前に俺とらいはに意見を聞いてきた癖に即決じゃねえか、親父の奴。
一応子供の意見を取り入れつつも断るつもりだったのか、子供二人が店を売却することを勧めたら手の平返すつもりだったのか。
何にせよ、店を買い取ることが目的ではないと言った真相を確かめて持ち帰らなくては。
「君たちのご家庭の事情、調べさせていただきました」
「…」
「率直に伝えましょう
私が提示している額は相場以上、破格です
これを断るだなんて、どうかしてるとしか思えないわ」
「それこそ、そっちのアプローチ不足じゃねえか
商談に魅力がなければ断るのは当たり前だ、それとも貧乏人が選好みするなってか?
「気を悪くさせてしまったのならごめんなさい
でも、君も高校3年生で受験を控えている時期にバイト三昧、お金に余裕がない証拠です
そうですね…こちらの条件に加えて、もっと高額なアルバイトを紹介してもいいですよ
前払い…いえ、今日お話を聞いてくれたお礼、という形でも構いません…この後紹介しますよ
私との交渉、前向きに考えてくれませんか」
「結構です
俺の機嫌を取っても、父の意見は変わりませんよ」
「この話と買取は別に考えてくれて構わないから
ただ単に勤労学生を支援したいだけですから」
「胡散臭い」
「あら…では気が向いたら連絡ちょうだい
不必要だと今は突っぱねても…後に求めてしまうのがお金だから」
きな臭い交渉はあの理事長だけで十分だ。上杉家の貧乏生活を知られている…完全に下に見てやがる。金で懐柔しようってか。
今は受験生、来年は大学生で一人暮らし。金は入用になる。いくらあっても足りないくらいだ。
正直時給の高いアルバイトには興味はあるが警戒心が勝った。注文されたコーヒーが届いて、一口ふくむ。
「…」
「…どうかしましたか? ジロジロ見て」
「いや、別に」
先生ほどの美人ではないとはいえ、金のかかったスーツや香水、整った髪などを見ると美人なほうなんだと見て取れる。一切どうでもいいけど。
ただ…対面して思ったのが、先生は特別な大人だったんだなと実感させられた。
マジであの人美人だったんだな。傍目から見た時の整った容姿とスタイルの良さ。間近で見た時の綺麗な眼差しを思い出した。
金かけてねえくせに恐ろしい女だ。美人でカッコいいし、真面目で礼儀正しい…無敵か、我が恩師。
本題から逸らされてしまった。聞きたいのはもっと別にある。今度はこっちから吹っ掛けてみる。
「うちは借金絡みで金には神経質なんです
父の勤務先の社長がおたくを調べてシロ判定したそうだが、それでも信用ならない
少なくとも俺との話し合いの場はこれっきりです
嘘偽りなく、本音で話してもらいたいものです」
「本音、というと?」
「あなたも言っただろう、そんな大金払ってまであの店を買う価値はないってな
店でも言っていた、欲しいものってのは何なんだ
長話は嫌いだ、この話し合いの場を活かす気がないのならお暇します」
「…少しは談笑を挟めば、その疑った目を解いてくれるかなと思っていたんだけれど
この様子だと料理が届く前に終わってしまいそうね
できれば彼女の事、聞いておきたかったわ」
これまで演技がかった素振りを見せてきた相手が、落胆した様子を見せた。嘘をついているようには見えなかった。
彼女っていうと…やはりこの人、俺のお袋の関係者か。
親父の知らない母親の友人…か?。自分の両親がどういった経緯で結婚したかも知らないので、親父たちの交友関係など一切関知していないのだ。
「その質問に答える前に、一つ聞いておきたいことが
亡くなったお母様のこと、どれくらい覚えていますか?」
「母は…喫茶店を開いた料理人…ぐらいしか」
「お店、どうでしたか?」
「…俺の記憶だと、そこそこ繁盛していたな
とは言っても、そっちから見たら鼻で笑えるレベルだろうけどな
行列はできても、あなたのところほど長蛇の列とはならない」
「そう…いいえ、君が謙遜することはないわ
彼女の腕は確かなもの…それもそのはず
私は君のお母様と同じ場所で、同じ師のもとで修業をしていたのだから」
「…母、知ってるんですか?」
「同僚…いえ、私はあの人の元後輩ですね
同じ時期に、先生の下でパン作りを学んでいました
結構本格的に、ですよ」
…うちの母親、修行なんてしてたのか。
あの親父の妻だ、感覚でパン生地こねていたのかと思っていたぞ。パンを焼くレシピは細かいと聞くし…あの夫婦には想像つかない…
しかし、だからこそあんなに美味しいパンを焼けたのか。
そう思うと合点がいく説明だった。俺たちの家に天才なんていないのだから。
俺の驚きに気を良くしたのか女は続けた…が、どこか寂しげでもあった。
「二人してあの人を師と仰ぎ、パン作りにのめり込んだ…その程度の仲です
会話も事務的なものでしか…暇さえあればパンの研究ばかり
…いえ違ったわ、あー、思い出すと今でもむしゃくしゃする
彼女はたまに恋人とデートしてたかしら…私が連日真面目に研究しているのに、まったく
当時は仕事を嘗めているのかと内心怒りを抱いたわ、恋愛なんて夢の成就の妨げにしかならないもの」
やばい、非常に同調してしまった。恋愛は愚か者のすることである、俺が常々言ってきたモットーなのだ。
お袋、パン職人目指すのなら恋愛を兼ねるな…それ言ったら俺生まれてきてなかったんだろうけれどよ。
「恐らく彼女の記憶には私なんて残っていなかったでしょうね
…亡くなられたのは本当に残念だった
お墓参り、数年前に一度切りしか行ってないなぁ…ちょっと今更感あって、もう行けないけれど」
「…」
…嫌なこと思っちまった。
お袋と縁が薄いあんたですら、墓参り行ったのかよ。
…行くのが普通なのか? いもしない亡霊に何を伝えろと?
墓なんて全部同じだ。墓石に刻まれた名前は記号でしかなく…そこに本人はいない。
「本音を伝えましょう
私は彼女のレシピが欲しい」
「レシピって…パンの?」
「ええ
彼女しか持っていない、世界に一つのレシピ」
「…その、素人の意見で恐縮だが…何か違うのか?
それこそ、あんたが大金を払ってまで?」
突拍子のない話に面食らってしまった。我が家に隠し財産があると言われたようなものだ。
レシピって…俺も見たことあるぞ。ケーキのだけど。
店長はよく言っていた。レシピ通りに作ったところで味が違うのがケーキだ。
スポンジの生地の発酵具合、季節による気温の変化、湿度、食材の微かな味の差異…ほんの少しの誤差は亀裂を生み味に現れる。
それは恐らくパンも同じだ。スポンジの生地よりシビアだろう。レシピがあるからといって、美味い物が作れるとは限らない。
それともお袋が生み出した斬新なアイディアのパンでもあったのか…この点は本人に聞かなければわからない。
「いいえ…特別珍しいものとか、金になる木とかじゃない
これは私個人の拘りです」
「拘り…?」
「…
去年、私が尊敬する師が亡くなりました」
彼女の声のトーンが変わった。一つ間を置いて、重たく自分に言い聞かせるような発音。
落胆と…拭い切れない後悔が滲んだもの。傍から見ればほんの微かな変化だったと思う。
なぜそれが風太郎には分かったのか。それは、酷く似ていたから。
俺がガキの頃に見た。親父が親戚に頭を下げていたアレに似てたから。お袋を亡くした葬式での光景。
一日だけだ。一日だけ見た、遺影をその手に、俯きがちだった親父の姿。
そんな昔を思い出したことと、先生という響きに少し気持ちが傾いた。
「…その先生の話、詳しく聞いてもいいですか」
「…
夕方…パンを焼いて
放課後の下校中の子供たちに無償で振舞って、とても優しい御婆様でした
お金にならないし赤字になるのに、私も君のお母さんも何度も言いました
…でもあの人は
私にはパンを焼くだけの老いた手しかない、これ以外の他のものを生み出す力はもうない
後はボロボロになっていくだけの手が、誰かを笑顔にできるのなら…ずっとパンを焼いていたい
と…やめることはありませんでした…小さなお店でも人気で、体が動かなくなるまで」
「そうですか…」
「高校生の君には分かりづらいだろうけれど
年老いた人間はいずれ、何かを忘れていくわ…
認知症という病気、聞いたことはあるでしょう?
亡くなるまでの5年間、認知症で家族のことも、教え子である私の事も忘れてしまっていた
十年以上の付き合いも、病には勝てなかった」
「…」
「…何度顔合わせてもあの人は…はじめまして、良いお天気ですね…
あなたはどんなパンが好きかしら、今度焼いてくるから、是非お店にいらしてね…って
私やご家族の事は忘れても、パン作りの熱意も優しさも冷めていない素敵お方で
………ごめんなさい」
虚空を見つめて、一人虚しく、その人との思い出を熱く語る女性は一度だけ目尻を拭う。
俺はどんな顔をしていただろうか。たぶんこの人の視界には俺の表情など写っていないのだろう。
一つ言えるのは、俺はそんな未来を迎えたくない。そう思った。
しかし無慈悲で残酷なことは必ず起きるのだ。されど、あの恩師に忘れられる未来など…到底受け入れられない。
「…忘れていく、失っていく、生み出しても次会えば消えている…
日に日に衰えるその姿を見て死別がいつなのかと計る
そんな日々を、あの人がその生を全うするまで耐え続けた
もう、これ以上失いたくない」
「…それで、レシピの回収ですか」
「レシピは先生の優しさの象徴なの
…変に聞こえるでしょうけれどね、私たち教え子にとってはそう
私は先生のレシピを取り戻したい、彼女が一つ持っているはずなの
人知れず埋もれて消滅してしまうなんて
…二度もあの人が死ぬようなものだわ…せめて、あの人のものだったと分かる場所に置いていたい」
「…」
「あなたの母親が持つレシピ、あれははあの人の直筆のレシピだから
自分を慕う教え子の為に、先生が一生懸命に考えて作った最後の贈り物、大切なものなの
だからお願いよ、上杉風太郎君
もう役目を終えた先生のレシピを、どうか返してください
お金は払います…お願いします…」
頭を下げられた。女の髪がテーブルに垂れていく。
…正直に言う、恩師を思う女の言葉に絆されかけた。真摯な気持ちを真っ向から向けてきた。
どう聞いてもその動機は支離滅裂だと思う。
故人に向けた振る舞いなど、行きつくのは自己満足でしかない。
もしかしたら、その先生自身、贈ったものはお袋のものだと言って返されることを望まないかもしれないだろ。
故人の気持ちは、残った人が決めつけて供養する。俺はそれが嫌いだった。
「…ッ」
自然と唇をきつく噛みしめていた。今、俺の目の前には墓石が二つ…そして、想像で生み出した墓が見えている。
お袋の墓を暴いてそのレシピを。誰かの墓の為に…その気持ちを踏み躙れば遠い未来…俺は恩師の墓前で後悔するだろうか。
この人が我武者羅なのは先生を思ってのこと。その気持ちはわかってしまう。
先生というワードが卑怯だ。
もし…もしもだ、先生が亡くなったとして…俺は五月と約束したんだ。
「俺が助ける」
「―」
「すぐにはできないだろう、だが必ず助ける
必ずおまえ達全員を迎えに行く
寂しくないように何度も会いに行ってやる、好きなもんも買ってやる
例えばの話だがな」
「…う、ぅう…ひぐ」
母親がいない家で、その娘と交わした約束。
形が違うだけでこの人がやっていることは俺と同じなんだ。
…お袋が世話になった人か。俺と同じように、お袋にもそんな人いたんだな。
俺にとっての恩師が、もしお袋にとってのその人なら。この女性にとってのその人なら。
「恩返しは、例え死んだとしても…続いてく」
「え?」
幼子との約束を叶えるのなら。
この思いを否定してはならない。きっと俺も、いずれはこの人と同じような道を辿る。
何十年も生きて、娘たち、新たな家族、優しい人たちと優しい世界の中で…もう傷つかないでほしいから。
…これ言ったら、まだ二十代だとか言って怒られるんだろうけれど。そのじゃれ合いもいつの間にか好きになってた。
「…そのレシピがうちに残っているという確証があるんですか?
父から聞いたとか」
「私も君のお母様も独り立ちする際に、先生からレシピを譲り受けた
彼女も店を開く時には先生のレシピを持って行っていたはず
捨てるはずがない、先生から譲り受けたものだもの
彼女も先生を慕っていたし、巣立った後も顔を見せた仲だったから
捨てるなんて、そんな不義理なことするはずがない」
「…あるのならいいんですが」
「…っ
協力、していただけるのですか?」
テーブルがでかくて良かった。バンッと叩いて詰め寄ってきそうなほど興奮している女にびびる。
つーか、お袋の遺品の中にレシピが残っているかの保証はないんだな。それこそ店ごと買い取って洗いざらい調べるつもりだったのか。
…親父、燃やしてたりしてねえだろうな。諸々捨てたか売ったとか言ってたしよ。
一気に不安になってきた。俺、逆にこの人に頭下げるかもしれねえ。
「父に言えば…もしかしたらレシピぐらい無償で渡すかもしれません
父が固執しているのはあくまで、母の店なので
そもそも…借り物なら返すのが筋だ」
「…最悪、それだけでも構いません」
「…最悪?」
おい、レシピ渡して終わりじゃねえのかよ。それだけって何だ。
すんなりと話がまとまるかと思いきや、お袋の後輩はまだ何か企んでいるらしい。
この際すっきり吐くのはいいが、俺は本来の目的さえ分かれば満足なの。
「レシピ…もとい、飲食店にとって料理はその店の顔、命のようなもの
同じ日々、同じ仕事を繰り返しても、料理人は丹精込めてお客様に料理を運ぶ
血が巡っていなければ腐っていくように、魂と言えるレシピを奪って店を廃れさせたくない
私は彼女の品の魂を盗みたくない
だから…できれば店ごと買いたいと思っています
別の形に変わってしまいますが…蘇らせてみせます」
「店、買うつもりですか…レシピの有無に関係なく」
「彼女の夢も、先生の夢も、私が引き継ぎます
それが最善です、彼女の夢が儚く終わるのは見ていられないもの」
「…
一つ言っておきます
あの店は"うえすぎ"です
どれほど恩恵を授かったとしても、貴方の先生は関係ない
俺の両親の店です、夢は何年も前から途絶えているんだ
その夢を引き継ぐのは俺たち家族の意思で行う、外野のあんたに口を挟まれる謂われはない」
「押しつけなのは百も承知ですが…私は納得いかないし、きっと彼女もそうは言わないわ」
「な、何でですか…いや、聞く義理もないな」
「子供の君に言っても仕方ないでしょうけど…
彼女は成功したんです! 自分の夢を叶えたんです!
なのに…交通事故でだなんて…たった一つの不運で壊されてしまって…
それで全部なかったことになるなんて、あんまりじゃない!」
お袋の夢が事故死で潰えたことを不憫に思っているらしい。後輩として救いの手を差し伸べようとしているのか。
お袋がこの場にいたらどう答えるんだ。もし繁盛せず仕事にならないほど落ちぶれていたら…譲っていただろうか。
…あの人は自分の夢が借金の原因となってどう思う? 俺に目もくれず仕事ばかりだったあの母親は何を思った?
…わからない。母親の考えることなんて。
だからいくら母の夢を尊重する言葉を並べられたところで…耳障りだった。
夢を語るのに綺麗事で包み込んで…子供を騙すな。
「腐るくらいなら、私が引き継いで輝かせてみせる
それに見合う代償は払うと言っているのに…
君たち親子は、彼女の夢をなんら分かっていないわ!
女の仕事だからって、軽んじているの!?」
夢なら十分、つくづく退屈になるくらい思い知らされたさ。
子供ながら、本当にくだらないと思っていた。
良い歳した大人が夢とか、やり甲斐だとか。子供がいる手前でそんな御託を並べるのかよ。
「まるで自分の夢が誇らしいように語りますね」
「ええ…私は成功したもの
誇りに思って何が悪いの? 同胞の夢を守って、何が悪いの」
「さっき…女の仕事とか言っていたが
軽んじているかと問われればその通りかもしれない、正直…俺は仕事なんてしてほしくなかった
借金を抱えるだけの夢なんて抱えてほしくなかった」
「それは彼女が亡くなった後の話でしょう?
だから、その借金も全て解決すれば、その夢はこれからも生き続ける
あなたのお母さんの夢が家族を不幸にした原因になっている、そんなの許せされな――」
「綺麗事言って、これまでの失敗すべてなかったかのように終わらせる魂胆がむかつくんだよ
終わり良ければ総て良し…とはならねえ」
俺にとって親の夢とは無責任のそれだった。
「あの二人の夢はどうしようもなくて、中途半端に終わった
俺たち子供にどれほど迷惑をかけてきたか」
「私ならそのしがらみも解決できるのよ!?」
「…しがらみも恨みも消えれば、もう母親のこと考えずに生きていけるだろうな
だから、それが気に食わねえ」
どっちでもいい。楽になれるのなら売った方が賢明だ。
意地を張っても馬鹿らしい。金にならないことばかりする奴が本当の馬鹿だ。
それでもだ。
あの店はうえすぎだ。母だけの夢ではない、夫婦の性を飾る意味。それは決して独り善がりではない。。
「終わらせるのは残った親父だけでいい
あんたのその、人を見下す夢と一緒にするな
俺の両親の夢と一緒にするな」
「見下してなんか…あなた達は私を敵視してばかりで話を――」
「潰えた夢ごと、愛した妻と一生を共にしたい奴の気持ち…考えたことあるのかよ」
「…」
「…あんたは奮起して立ち上がった
その一方で、俺の親父はそうじゃなかった
お袋が死んで諦めたんだ…あの店はもう埃まみれでシャッターも下ろされている」
「…できなくても、その意思があるのなら今からでも遅くないわ」
「…いいや
あのクソ親父…馬鹿だから
本当は考える必要ねえけどよ…
借金…返済しちまったら、親父はだらしねえ大人になってたんだと思う
だから…俺はこのままでいいと思っている…親父が手放さない限り」
「…理解、不能だわ」
無我夢中だった。考えなどまとめられないまま口走っていた。
そして、心のままに言葉にしてようやく、親父が何をしたかったのかが分かった気がする。
これまで考えてこなかった。でも…ずっとその背中を見てきたから、その感情は知ってた。
だから今、言葉にできたんだろう。知りたくもなかったあの背中の本音。
理解不能と吐き捨てられ、女は深く椅子に腰を下ろした。
取引は結局取り辞めだ。親父もその気がないと分かった。
「…先生の思いに準じるあんたの信念は、尊敬する
その先生は、誰かに求められる人間になることができたんだな
…愛されるべき人なんだと思う」
「…」
「レシピは聞いてみます、親父が渋ってても取ってきます
それで終わりにしてほしい
あの店は、俺の両親が持っていく」
相手にとって大金を払ってでも手に入れたい物があるのなら、それぐらい惜しまず譲ってもいいだろ。お袋の後輩なんだから。
まだ注文の品はコーヒーだけ。前菜でもあったら来ていたかもしれないが…店側が気を利かせてくれたのか。
俺はこのまま立ち去ってもいいだろう。コーヒー代ぐらいは払ってやる。
席を立ち、退店しようとすると手を取られた。
「待って、上杉風太郎君」
「まだ何か」
「そう警戒しないでください
送っていきますから、遠いですし…車に乗っていきなさい
…でも、食事ぐらいさせてほしいわ」
「…」
「最初から言っていたでしょ、私が奢るから
…君のお母さんの話、気にならない?」
「…気になりはします…」
「そう…なら座り直して
食事ももうすぐ来るから、楽しみましょう
私はパン専門だけど…美味しいご飯を食べる時はみんな笑顔が一番だもの」
「…」
「…ありがとう…私の先生を褒めてくれて
まるで、彼女が言ってくれた最後の言葉かのようで…嬉しかった
すっと胸に降りてきたの、不思議
ふふ…あの人、恥ずかしいこと平気で言うから」
恥ずかしいことだったか…? 素直に褒めただけなんだがな。
握られた手が優しく包まれる。手の甲に指を這わせて労わるような指先。
女性にしては指が太くて硬い。力を込めてパン生地をこねる職人の指だった。
掴まれた手を振り払い、大人しく椅子に座り直した。お袋もそんな指をしていたのかと、考えが止まなかったから。
素直になれない高校生相手に女性は苦笑した。お互いに張り詰めた空気が和んだ瞬間だった。
「長話は嫌いなのに、付き合わせてしまってごめんなさいね」
「いえ…あれは挨拶みたいなものなので」
「ふふ…相当緊張していたようね」
「場所が悪すぎたんです」
亡き母の話、後輩さんの恩師の話を聞きながら食事をしたりドライブしていたら日が沈んでいた。
つーかこの人…マジの金持ちだった。ただの人気店のベーカリー店長だと思ってたら、デザイナーやら講師やら…肩書多すぎ。
買ってあげると言われた品の額見て驚愕したわ。何万もするシャーペンとかいりません。
そんな寄り道に付き合っては夜も更けて、高級車の助手席に座って夜道を眺めていると我が家まで送ってくれた。
静かなエンジン音で物音はドアを開く音のみ。蝉の音のほうがうるさいくらいだった。
「送ってくれて、ありがとうございます」
「ええ、もし何かわかったら連絡してくれる?」
「はい、まぁ…無かった時は怒らないでくださいよ」
「それはそれで君のお母様に責任を取って貰わないといけないわ
でもそれはその時に」
「怖いこと言ってくれる…」
「それと最後に…少しこっちに寄って」
「…?」
ちょいちょいと手招きされ、開いた窓に歩み寄ると…胸元のポケットに何かねじ込まれた。
よく見ると…現金。
なんと…一万円札が…五枚? なぜか贈呈されてしまった。
後輩さんは始終ニコニコ。ぽんぽんと胸を叩かれている。
「…」
「…」
「…えー…いや、あの…賄賂ですか」
「今日付き合ってくれたお礼に
何も買わせてくれなかったんだもの」
「いや、受け取れないし…そういうのはよくないと思います」
「私の先輩の息子がひもじい思いをしているなんて耐えられないわっ
今度は娘ちゃんにも是非会わせて
お金の額は気にしないで、私こういうので遊んでるから、慣れっこだから」
「ママ活じゃねーか! お袋の同期がそんなことしないでくれよ!?
一番聞きたくない情報だったんですけど、それ!」
「稼げるアルバイトの話も考えてくれる?
君みたいな真面目で静かな子は人気よ」
「高額のアルバイトの紹介ってそれかよ…! 絶対にやらねえ!」
「お金に困ったら呼んでね
君のお母さんと違って独り身だから、遊ぶくらいのお金はあるもの
あなたのお母さんのような既婚者とは違って、自由気ままに生きてやるって決めてるんだから」
「僻みの境地がそれってどうなんだ!」
健全な受験生に何をさせる気だ! 俺の大学受験が危うくなるだろ!
しかも既に胸ポケットにねじ込まれてるし…バリバリ違法だろ、主に税金。お年玉? お年玉扱いならセーフ?
つーかきっちり返さないと。しかし返金の気がないと見える。
それが目当てか。返す為にはもう一度会わなければ…やべぇレシピなかったら逃げるつもりだったのに…退路絶たれた。
…しかし、たった数時間、食事を一緒するだけで数万円稼げるのなら…考え物か。マジでうち貧乏だし…
五つ子にも何かしら買い与えているからな。先生の弁当だって作っているし…らいはの進学だって――
「風太郎君」
「…え?」
視界が揺れた。がしっと肩を掴まれ、強い力で引っ張られた。
ここは家の前だ、他に誰もいないはずなのに。掴まれたその手を見ると…細くて白い肌、整った爪先。見覚えのある指先だった。
振り向く前に視界の片隅に長い黒髪が見えた。抱き寄せられているのか、首筋に髪が当たって少しむず痒い。
この髪の色も…匂いも覚えがあった。まだ顔を見ていないのに自然と体が熱くなる。今日一番の緊張である。
「私の生徒に何をしているのですか」
「せ、生徒…?」
長く風になびく黒髪。白のブラウスに黒のラップスカート。鮮やかさなど皆無の見慣れた姿。
…やばい、先生だ。
中野先生。鉄仮面と恐れられる女教師。うちの学校の担任である。俺の隣に立って後輩さんと対峙している。
「…」
…な。
何でここに先生がいるんだ!? ここ俺ん家の前だろ!?
突然の恩師の登場に俺も後輩さんも驚愕している。声を上げられずに固まっている。
まずい。非常にまずい。
何がまずいかって…仮にも如何わしい金銭のやり取りをしていたのがバレたってことだ。
返すつもりだったんです…と言っても信用してくれそうにない。先生の目が完全に据わっている。鬼教師のそれである。
肩を掴む手が痛い。近すぎて背中に先生の胸当たってる。夏の気温とは違う肌の温もりと下着の硬い感触まで伝わって心臓に悪い。
…が、先生に羞恥心など一切ない。教師としての責任感から教え子を守っている。
その目は愛する五つ子を守る母親に近い。外敵を撃退せんばかりの剣幕。つまり一番怖い状態。
「女性が未成年の男子に貢ぐ、そういった活動は褒められたものではありません
その男子が私の生徒ならば尚の事…看過できません
私の生徒を汚さないでいただきたい
少々長くなりますが…お話を聞かせていただきます
よろしいですね?」
「え、えっと…貴方は彼の…?
流石にお母様ではありませんよね?…再婚はしていないはずですし
お姉さんがいたとは聞いてないし…」
「彼のクラスの担任です」
「え"」
みるみる青ざめていく後輩さん。火遊びしてりゃあ咎められるのは当然…あんた結構地盤脆いんじゃねえのか。大丈夫かあんたのお店。
いけない遊びに興じている輩を公務員が快く思うはずがなく。車に乗っていなければ先生は迷わず拘束していたぞ。
俺の先生だと主張するのはいいが…やはり掴む手が痛い。
何でこの人、娘を掴む手は慈愛に満ちているのに俺に対しては扱いが雑なんだ…暗に嫌われてる?
本気で解けば抜け出せる…が、その瞬間何かが終わりそうでされるがままだった。
強気な態度を取る先生だが、根は謙虚で落ち込みやすいから。そんな女に頭が上がらないのが非常にかっこ悪い。
「せ、先生、この人はお袋の後輩というか」
「お母様の…?
…もしや、ご親戚の方ですか?」
「いえ、血縁はないし、今日会ったばかりですけど…
とにかく何もないんだ…ただお袋の話を聞いてただけで」
「…」
「ひ、ひとまず…私はこれで…
そ、そのお金は遅くなったお母様の御香典代わりですから…おほほほ
風太郎君、連絡待ってますからね」
「待ちなさい、高額のアルバイトとも言っていたでしょう――
…行ってしまわれましたか
なら…君に聞くとしましょうか、風太郎君」
「あ"ぁぁぁ…」
肩から腰へ回ったてにキリキリと握られつつ、暗い空を仰ぐ。流石地獄耳…
一番聞かれたくないワード…この状況だとママ活のことを指していると速攻でバレる。
無責任にも後輩さんは車を急発進させて逃げて行った。女癖の悪い男に捨てられた女の気持ちが分かった気がするぜ…
残された俺だけは逃がさないと言いたげに先生は腰を掴む手を離してくれなかった。守ってくれる立ち位置なのに脅迫されてるのが恐ろしい。
「先生、あの…マジでふしだらとか、そういう話じゃないので
大丈夫ですから…あと…痛い」
「…」
痛いと訴えると流石に先生も考え直してくれたようで、腰から肩へ、二の腕へ手を滑らせて掴まれている。
これ、こっそり何かあったのか探られてる? たぶん香水の匂いとか付けられてたら面倒事が増えてたと思う。
一瞬たりとも離してくれなかった。女教師の指が俺から離れない…本気で怒ってる。冷や汗が止まらない。
わ、わからねえ…先生が今何を考えているのかわからない。
掴まれたまま先生の心情を窺うしかない。振り向いても首が凝るので、渋々…先生に背を向けたまま尋ねた。
「…まず、何で先生が俺の家の前にいるんですか
心臓止まりかけたわ」
「三玖が君からパンをご馳走になったと聞いて、お礼にお夕飯のお裾分けに…
そうしましたら、らいはちゃんが兄の帰りが遅いから夕食を一緒しないかと誘ってくれたので」
「そ、それは…ようこそいらっしゃいましたね」
「…家の中…騒がしいですから、少し夜風に当たろうかと思って出てみたら
見慣れない車と…上杉君」
「…」
「…」
「何ですか…睨まないでもらいたい
じ、自分の生徒が信用ならないか!?」
「本当に、何もなかったのですね?
何かあれば必ず力になってみせる…頼ってください
大丈夫だと思い込まず、辛い時は頼る勇気を見せてください」
「ガチで心配しないでくれー!」
先生の手が胸元に迫る。お札を潰すかのように手を当てられて…くしゃりと金を取られた。
俺の代わりに返しに行く気ですか。あんたに取り上げられると二度手間になる…潔く返すので取らないでいただきたい。
怒ってる…滅茶苦茶怒ってる。今までの怒りとはベクトルが違うものだ。
過去の出来事と比較すると…だいぶねちっこい。
学校だったら行き過ぎた指導だと咎められるに違いない。そもそもボディタッチが多すぎるし。
困ったことに、それを嫌がっていない自分がいて…それを隠し通すのに必死なことだ。
「ちょっと家のことで揉めてたんだが、今日話を聞けたんだ
話が通じない相手じゃなかったし、何も心配いりませんよ」
「…ご家庭の事情ということなら、詮索は致しません…が
別れ際に1万円札を数枚渡される理由にはなりませんよね?」
「い、一応…話を聞いてくれた礼らしい
…受け取るつもりなかったんだが、別れ際に強引に」
「ママ活と聞こえたんですけど」
「じょ、常習犯なようで…俺はやりませんが」
「高額なバイトの紹介とは…」
「そ、そっち系の稼ぎを誘われて…俺はやりませんが」
「………」
「…心配かけました、マジですみません」
この場に五つ子がいなくて良かった。だらしない姿を見せるのも気が重たいし…話題が話題だ。生々しいものは避けたい。
どうすれば誤解が解けるのだろうか。支えると約束しておきながら心労の元にならないか心配だ。この人仮にも病人だし。
そもそも先生に水商売をしないでくれと咎めた自分が手を染めたら説得力がない。
誠意を見せるしかないか…と先生の方へ向き直りかけて気づいた。
先生の両方の手が、こちらの胸元へ渡ってきている。
「ごめんなさい…
…こんなのが教師の務めなわけがない」
「…」
「…君は、私の…思い出の子だから」
「…はい
先生も、俺の思い出の人だ
だから、先生の嫌がることはしねえ」
「っ」
長い髪の感触だけじゃない。先生の吐息が首筋に当たっている。
後ろから抱きしめられていた。両腕を広げて包まれて…身動きできずにいた。
俺は先まで冷房が効いた車に乗っていた。が、先生は外にいたせいか…汗ばんでいて、湿った肌の感触が背中に当たっていた。
容姿もその魅力も大人のものだが、その感情は幾分か子供っぽく見える。
先生がここまでする意味があるのなら。嫉妬の根源の感情を暴いてもいいのなら、俺は振り向いて先生の素顔を見ていたい。
…だが、先生が恥じた気持ちを利用するのはフェアじゃない。
大切な人を心配させておきながら、このまま欲に流されてしまうのは…俺が目指す求められる人間とはかけ離れていると思った。
相手に心配をかけて、その不安を払拭しないまま愛の告白など現実逃避だ。俺が一番嫌う、愚かな行為だ。
「父親代わりの約束
俺…まだ先生から信用されてないのか」
「信頼しています、救われています…生きる喜びでもあります…教師の道を続ける理由でもあるくらいで
でも、心配するに決まっているでしょ?
…君が私に穢れてほしくないと言ったように
私だって、君が爛れていくなんて嫌です
君には素敵な恋だってしてほしい…」
「た、爛れる予定はないので
金だって、先生も断ってるだろッ
あれだ、先生がそういう話を断っているうちは俺も断る」
「…そうですね
家庭教師代、五人分を4ヶ月も溜まってるんです
取るのなら私の方から取ったほうがいいでしょう?」
「そ、そっすね…お金は取りませんが」
「…」
「つ、つーかお世辞にも俺、異性から好かれるタイプじゃねえし
無理だろそういう仕事
普通に…考えた事なかったぞ」
「…需要があろうとなかろうと…
思い出の子が他の女性に媚を売るなんて…耐えられないわ
穢れてほしくない…私に憧れたまま、卒業していってほしい
…どうか許して、風太郎君」
「の、望むところだ」
痛いほど抱きしめられる。先生の長い髪が首を撫で胸元に垂れる。
先生の髪、いくつかはシャツの隙間を流れて首筋へ落ちていく。高校生男子には初めての感覚だった。
嘘偽りない本音なんだろうな。五つ子に似て独占欲が強いのか…随分な我儘を言われてしまった。
思い出の子、か。
先生にとって俺の存在がどれほどのものかはまだ定かではない。先生の吐露によってほんの少し垣間見えた。
あんな能面みたいな顔をした女が…そんなに入れ込んでいたとはな。照れもあれば驚きの方がでかい。
俺にとって恋愛など皆無の完璧な教師だったから。いつも鉄仮面を被って、微動だにしない美人教師で…
「…ふ、…く、くく」
「…あの
上杉君? どうして笑うのでしょうか」
「いや…もう流石にバレバレだろ
これ、ただのヤキモチじゃねえか」
「…」
「あー めっちゃ恥ずかしい…」
「誰のせいで肝を冷やしたと思っているのですか」
「ちょ、ちょっと胸を掴むのは――ぎぃやぁあああ…!」
ぎっちり絞められた。心臓を掴むかのように両腕に締め上げられて悲鳴を上げてしまう。
交差した腕に抱きしめられ、胸も背中に押し潰されている。
掴まれてくすぐったい。仰け反ったり俯いたりしても離してくれずくっついたまま。
羞恥心はないのかこの女! 制裁のほうが大事なんだろうな。やはり鬼教師だ。
その上首筋に先生が顔を埋めて余計に髪が絡みついてくる。これ以上怒らせたら歯を立てられそうでおっかない。
すみませんでした、先生。と謝る他なく、それでも先生は許してくれず離してくれず。
「…お母さん…フータローにくっつきすぎ」
「お、お兄ちゃん…零奈さんとあんなに近くて大丈夫かな…」
「ねえ、止めなくていいの? 上杉さん苦しそうだよ?」
「お母さんが怒ってるときってヤバいくらい怖いし…」
「たぶん上杉が悪いわ、ママがあれだけ怒ってるんだもん」
「あはは…でもやっぱり、お母さんと上杉君は仲良しさんですね」
何事かと様子を見に来た子供たちと妹にもうバレていた。見られてますよと言ってやりたくても、先生は手を抜かずに締め付けてきた。
「…ッ!」
「…焦がしたな、先生」
見れば…先生の顔は真っ赤だった。ヤキモチが焼けて焦げて、食べられたものじゃない。
騒げば子供に見られるのはわかりきっていただろうに…母親のくせにはしたない。
首に顔を埋めてぎゅっと抱きしめられる。痛いくらいに、わざと強くして。その気持ちでお腹いっぱい。
謙虚な女にしては痛々しい主張。子供っぽくて、むずがゆい。
それが先生なりの照れ隠しだったと気づかされたのは、後の後のお話。