「桃と梨、食べた…甘くておいしいの
お店のと違ってデコボコ…でもおいしい」
「旬の果物か、いいな
お爺ちゃん家ではブルジョア堪能しておけ」
8月半ば。時期的にお盆となるこの日、風太郎は自宅の玄関の冷えた床に座り込んでいた。
「昨日の晩御飯もね、凄かったよ、お寿司がいっぱい…
お母さんは…えっと…あの…貝の…サザエ? カキ? 食べてた
お爺ちゃんがいっぱい食べなさいって…沢山用意してた」
「ふーん、俺はそんなお高いもん食ったことねえな
精がつくし、仕事で疲れた先生には良い栄養補給になるな」
「お母さんはいいけど、五月が食べたら苦かったみたい
凄く嫌そうな顔してた…大人の食べ物」
蝉の鳴き声は夏の間は途絶えない。玄関のドアから漏れる日差しに触れると、汗が滲むより先に火傷してしまいそうだ。
携帯の向こうからも微かに蝉の鳴き声が聞こえる。時折静まる子供との通話、あちらも廊下に座り込んで離しているらしい。
「…」
「…ほら、もう楽しい話ないのか、ネタ切れか?
クラスメイトと仲良くなるきっかけに、夏休みの思い出話はうってつけのネタだ
注意を引く為には大げさに話しても――」
「つまんない…やっぱフータローに会いたい…
特訓とかじゃなくて、普通にお話しよ…?」
「甘えるな、これもおまえの話ベタ克服の為
二学期にあのワルガキ共にリベンジするには必要なことなんだ」
「ふぅたろぉ…」
「だ、ダメだ…頑張れ三玖」
「ひぐ…だったらもう…フータローに泣かされたって言うぅ…」
「俺を出しにして友達作りか、やるな
つーか普通に話してたじゃねえか、順調だったのに」
「フータローのお話聞きたいの!」
通話相手の三玖が半べそかいて降参してしまった。お兄ちゃんに意地悪されるのが一番堪えるようで、すぐに泣かれてしまった。
中野家の五つ子の内が一人、三女の三玖は絶賛コミュ症改善の特訓中である。帰省第一日目の思い出話をしてもらおうとしたら会いたいと縋りつかれている。
恩師である中野零奈と娘五人はこのお盆の時期に実家に帰省。その翌日の昼間、携帯に電話がかかってきた。
知らない番号だったので訝しみつつ応答すると、まさかの三玖だったのだ。どうやらお爺ちゃん家からかけているらしい。
五月から番号を教えてもらい、ジリジリと黒電話の番号を操作してかけたんだとウキウキで教えてくれた…のに、今では泣きかけている…
「…あー、特訓と言えば
おまえの友達の…リっちゃんだったか、よく遊ぶのか」
「うん…一番のお友達
でも一花と二乃とも仲良しでよく名前間違えられる…
一花なんか、私の真似して勝手にお話してる…お友達泥棒」
「顔も背丈もまったく同じなおまえらが、姉妹に変身したらもうお手上げだ」
「むぅ…でも、この前フータローと初めて会って
お兄ちゃんがいていいなって言われた…むふー」
「どや顔のつもりか、それ友達減るからやめとけ」
「大丈夫だもん、リっちゃんもお姉ちゃんいるからいいもんって言ってた」
「それ喧嘩になってない?」
「喧嘩してないし、今度お姉ちゃん紹介してくれるって言ってたもん
リっちゃんの一番のお友達が私なんだって」
「ほぉ…随分と親しくなったんだな」
長々と電話で駄弁っていると三玖は徐々に声を弾ませる。普通にお話ができるとわかるや否やすぐに調子に乗る。
恐らく今は三玖一人で孤立して通話している。寂しがり屋の三女には家族が傍で見守ってほしいものだが本人は楽しげ。これも成長と捉えていいのか。
「あ…あと、お昼前にお墓参りした」
「墓参り?
…ああ、先生のお袋さんか」
「うん…おばあちゃん…会ったことないけど
でも変、お父さんのはない」
「別に死んだわけじゃないからな、おまえらの父親
まぁ…墓があったとしてもわざわざ墓参りする義理はないだろ、気にするな」
「死んじゃったら可哀そう…」
「…なら、お母さんに要相談だな」
「…あ…フータローも…?」
「あ?」
「フータローのお母さんのお墓って…あるんだよね?
お手手、合わせにいきたい…いい…?」
「…なんかその予定らしいぞ、おまえのお母さん
変わった人だよ、まったく」
「え? 行けるの!? 行く! ご挨拶する!
あ、後ね…お祭りも!
海とか山もフータローと行ってみたい! プールも!」
「墓地を遊び場と一緒に並べるな…
まぁ…行けたらな、金かかるし」
夏休み欲張りセットを注文されたが、期限は残り半月。果たして幾つのお願いが叶うんだろうな。
弱虫でお調子者。気弱だけど思い切りの良い子。そんな子からの気持ちはいつだって温かい。
できればその希望を叶えてやりたい。なにせ来年は会えるかもわからない。
たまには会えるだろうが関係は希薄になる。そうすればもう、こうして熱心に誘われることもなくなるだろう。
遊び惚けていられるのは子供だけ。三玖との通話を切って立ち上がり、暑苦しい外へ出た。
カツンカツン…階段を下る。
毎朝繰り返した動作。いつもなら無機質なシャッターが下ろされている1階の様子を見る。
「らいは、見つかったか?」
しかし、今日は違くて…シャッターが上がっている。
埃が被った窓。開いたドアから埃臭さが漂っている。
屋内はがらんどうのそれ。バーだけは残されており、その名残でようやく元々は喫茶店だったんだと辛うじて判断できる。
その傍ら、真新しいものが幾つかある。掃除用具が散乱している…が、いくら掃除しても埃臭さは消えなかった。
ドタドタ、バタン…夏の陽光では照らせない場所、薄暗い店内の奥から物音が聞こえる。陽光の世界には塵が舞っていて肺に悪そうだ。
「お兄ちゃーん レシピ見つからないよー」
上杉家、絶賛大掃除中。
今日この日。一つの思い出の品を求めて十年の封印が解かれた。
当然ながら入り口から見えるバーには母はいない。いつもの笑顔も温かい食事もない。
活気のあった空間は腐り落ち、中途半端な夢を売り払い、残ったのはゴミだけ。
今日この日。十年前によく見た煌びやかな光景が、灰色に塗り替えられた。
昨晩。お袋の後輩さんからレシピの返還の約束を取り付けた後のこと。帰宅した親父に所在を聞いてみたんだ。
余談だが、らいはと夕飯を一緒に食べたという中野家一向は早々に帰っていった。羞恥心が限界まで高まった先生は見ていて面白かった。
一花にからかわれ、二乃は興味津々、三玖はヤキモチを焼き、四葉は自分もしたいからお願いして、などなど。
母親の味方をしていたのは五月だけだったぞ。母親の手を握って姉の魔の手から守ろうと頑張っていた。晩御飯食べた後のあいつは機嫌良いからな。
「レシピ? 知らねえな」
「ちっ、使えねー親父だ」
「帰宅早々、母さんのレシピってあるか? で、わかるかー!!
あー…母さんの遺品か?
んー…押し入れにあったけか」
「らいは、探すの手伝え」
「二人共、先にご飯食べなよ
せっかく零奈さんがおかず持ってきてくれたのに…
それに、私はお母さんの私物触ったことないから知らないよ」
「飯よりも優先するもんがあるの」
「…お兄ちゃん、結婚したらそういうのやめなよ
温かくて美味しいご飯が、帰ってきたらいつもあるんだと思い込まないように!」
埃が被らないように料理を避難させてらいはも参加。家族総出で家捜しをすることに。
母の写真周りから押し入れの中、貴重品類の中など、夜遅くに騒がしい音を立てて捜索した…が、結局見つからず。
「ここにねえとしたら下だな」
「下? お店?」
「全部売ったんじゃねえのかよ」
「売れるもんは売ったが金にならないもんや、廃棄に金がかかるもんは残ってるな
後は店のメニューだったり、明細とかあったっけな…仕事関係の書類があるんだよ、あそこに」
「…なら、そこに一縷の望みをかけるか
なかったら親父が謝りに行け、俺は知らん」
「その前に事情を説明しろ!」
「その前に晩御飯! 下に行くのは明日にしてよね!」
家の中にないのなら店に残っているかも。親父のガバガバな管理に冷や汗を垂らしつつ、翌朝にシャッターを上げたのだ。
久しぶりの店内、変わり果てた十年後の光景に俺と親父は無言だった。らいははというと、おーっと感銘の声を上げていたな。
シャッターを上げたところで親父は仕事で離れ、兄妹で母親の職場で埃と戦いながらレシピ探しを始めた。
「お兄ちゃん、その後輩さんに聞いてみてよ
紙はいっぱいあるけど、レシピがどんなのか分からないもん」
「そうだな…大きさとか聞いてみるか
…
…返信はや」
「電源切って放置しちゃうお兄ちゃんと違って、仕事ができる人は返事が早いんだよ」
「ただただレシピへの執念しか感じないんだが…
ほら、こんな感じだとよ
表紙のない、むき出しのレシピだとよ」
「貸して貸して
…これ、素人目でわかるかなぁ…
それっぽいのはあったけど…かき集めて後輩さんに見せてみよっか」
亡くなった恩師が手掛けた直筆のレシピの回収に大金を惜しまない女だ。事細かい情報伝達を連投し続けてて怖い。
らいはは束になった書類が詰まった箱を発見し、俺のスマホを見ながら一枚一枚丁寧に確認している。
母親の遺品だから、傷つけないよう細心の注意を払っている。時折埃を叩いては、宙を舞う塵を手で払って。
しかしその紙は明細書だったり注文書だったり、事務作業で扱ったものが大半。レシピが紛れているとは思えん。
「…っていうか、大事な紙をそのまま置いとかないよね
ファイルに入れてたりしないかな」
「それはありそう」
「じゃあお兄ちゃん、よろしく
キッチン周りは虫とか出てくるから気を付けてね」
家事に直向きな妹はこの程度の地味な作業は慣れっこのようだ。めげずに紙の山と格闘している。
今いるのはホールの裏の調理場。中央の大きなテーブルを囲むようにシンクやオーブンが並んでいる。
高価なものは売ったと聞いた。床を見れば冷蔵庫などの大きな機材が置かれていた痕がある。
だいぶ広く思えるこの部屋も稼働していた当時は狭苦しかったことだろう。店の主と一緒に仕事道具も消えた。
反面、処分できなかったものは段ボールに詰めて無造作に置かれていた。箱を開けば埃のない色味のある物が覗ける。
「しかし…こんなでかい窯が残ってたんだな
ガスか? 売れたら高そうだな
何百万ってレベルだろ、こういうの」
「メニューにはパンとピザとか、あとドリアもあったんだよ
お母さん、そこで焼いてたのかな」
「何で売らなかったんだ? ぶっ壊れてるのか?」
「お、お兄ちゃん…お金の事ばっかり
いいじゃん、後で綺麗にしたら使えるかもしれないじゃん」
「えー 十年も放置したのを使う気かよ
ガスだぞ、漏れてたりしたらお家なくなるぞ」
「そんなの家のキッチンも同じでしょ! あれもボロボロなんだから!
いいから、私使うから、叩いたりしないでね!」
「頼むから、使う時は呼んでくれよ」
埃が被った機材、元は銀色だったんだろう灰色の窯が取り残されている。
お袋は喫茶店を経営し、パンに限らず多種多様な料理を作っていた。メニューは大半が洋食だが、和食もちらほらと。
その中でもパンのレパートリーに富んでいた。パン屋に弟子入りしていた恩恵なのだろうな。
窯はオーブンよりも高温を保つことができ、ピザなんかはオーブンよりも窯が適している。
パンも同じく、高温で焼くことで外はパリパリ、中はふんわりとしたパンになるのだ。
何百万という高額な出費を必要とされても、妥協せず窯を用意した。母親の店への思いは強かったんだろうなと感じた。
…もしくは、窯のほうがカッコいいとか、映えるとか考えてのことだったのだろうか。ありえそうだ、あの両親のことだから。
「…メモっつーか、ノートっぽいの出てきたな
料理の研究か」
「後で見せてね!」
「この埃だらけで蒸した空間で元気だな、おまえ
ちゃんと水分補給するんだぞ
…らいは、スマホ返してくれ」
「あ、あったの?」
「かもな
明らかにお袋の字じゃねえ、随分と達筆な字だ」
「ほんとだ、じゃあこれがお母さんのお師匠様の筆跡なのかな」
段ボールからファイルらしきものを見つけ、ペラペラとめくるとそれらしきものがあった。
このファイル自体が店の料理の研究資料のようだ。食材の分量や焼き時間、発酵時間など細かい数字が並んでいる。
そんな母親の汗水垂らして書いただろうメモの最期に、やや古い紙がいくつか。
複数枚一気にファイリングされていたページと違い、これらは一枚一枚綺麗にファイリングされている。
紙に直接書くことを控えたのか。付箋をファイルのほうに張り付けてメモを残している。
…お袋の後輩が欲していたレシピだ。スマホの画面と照らし合わると非常に似ていた。
「これで一安心だね、お兄ちゃん」
「ああ、無事に返せそうだ」
「ねえねえ、返す前に読んでみたい
お母さんの先生が、お母さんの為に作ったんでしょ?」
「もうお目にかかれないかもしれないしな
ひとまず片付けて出ようぜ…クソ暑いし、汗で汚しちまう」
首にかけたタオルなど何の役にも立たない。夏の猛暑で冷房のない締め切った部屋など拷問でしかない。
お袋の遺品を元の場所に戻し、俺が探し出したファイルと…らいはは幾つかの料理のメモらしき紙を持って家に戻った。
汗だくだったものだからお互いにシャワーを浴びて着替えた。厚いし埃臭かったし、冷たい麦茶を飲んで一息ついた。
「見よう、ね、見ようよ!」
「疲れた…あちぃ…俺は見つけただけでもう満足だ…」
「えー! お母さんが残していったものなんだよ!?
お母さんの子として、しっかり受け継いでいくべきものだよ
ねぇ、お兄ちゃんってば」
「受け継ぐのならおまえが一番だろ
俺に構わず読めばいい」
「えぇ…そこは長男のお兄ちゃんが一番でしょ
…お母さんもそのほうが安心するだろうし」
「…もしや、俺に店を継げと暗に言ってない?」
「う、ううん、そこまでは言わないけど
ほら…あれ、葛湯とかさ」
「葛湯? あぁ…前に風邪ひいた一花に作ってやったな」
「そういうところだよ!
お母さんが、お兄ちゃんが風邪ひいた時に作ってたんでしょ?
そういうのを真似して振舞うだけでいいの
それにお兄ちゃん、自主的に料理始めてるじゃん、零奈さんのお弁当とか
調度いいじゃん、お母さんの料理覚えられるんだよ」
「…まぁ…参考書と違ってタダで読めるか」
「うんうん」
この妹、どうも一人で母親の遺品と向き合うのを渋ってくる。
先の三玖との通話でもそうだ。電話の為に店から出ると言ったら、一人にしないで! と喚いていた。置いてったけど。
寝転がる俺の肩をゆすってくるらいはに根負けし、ちゃぶ台に置かれたファイルを手に取った。
「お袋が書いたメモは後で見るとして
お袋の先生のレシピを確認するか
…やっぱりパンのレシピだな、クロワッサンか?」
「クロワッサンって難しいのかな」
「比較的高めらしい」
「ふーん…お兄ちゃんは食べたことある? お母さんの」
「…あるな
つーか、よく焼いてたな…朝飯の焼きたてのパンの中にたまにあった気がする」
「えー!? 朝に焼きたてのパン!? いいなー いいなー」
「売れ残りの冷めたパンを夕飯に食わされたけどな
調子に乗って焼いたら売り捌けなかったらしい」
「いいなー」
いいなー いいなーと連呼する妹はまじまじとレシピと店のメニューを眺めていた。
…以前の家族会議で、らいはは母親との関係がないんだと嘆いていた。
顔は写真だけ。その声も性格も知らない。接点がない。母親がいた家に住むことで、希薄な関係を保っているんだと。
あまり思い出話をするのは避けたかった。しかし妹は母親の話をしろ、遺品を丁重に扱えと怒ってくる。どうしろと。
「…この人、丁寧に書いてくれてるな
作り方だけじゃなく、ミスに繋がる部分や代替案も書いてくれてる
うむ…あいつらのテスト作りの参考になる」
「お兄ちゃん、五つ子のみんな好きすぎでしょ」
「あいつらがテストに悶え苦しむ様を見るのは好きだな」
「とか言いながら分かりやすい内容にしてくれるんだ」
「うるさいよ」
数枚のレシピをめくっていく。裏表両方にびっしりと書かれたクロワッサンの作り方。
…ここまで書いてくれることに何か理由があったのだろうか。
「あ、これ見て
お手紙みたい」
「手紙? レシピに?」
「だ、だってほら…ここにお母さんの名前」
レシピの最期の一枚に宛名。お袋の名前が書かれている。
最後の一枚は、お袋へ向けたメッセージだった。
夢を応援するような言葉が添えられている。生徒を見送る先生の言葉だった。
恩師が教え子に残す、最後の贈り物。困難が立ち塞がった時…振り返った時に背中を押す手紙だ。
これは教え子を守ってほしいと願うお守りのようにも見える。
「…もうこの人、死んじゃったんだよね」
「ああ」
「…
なんか、悲しくなっちゃった」
お守りの効果はなかったがな…まったく別の障害に妨げられ、持ち主はいなくなった。
らいはは居たたまれず、立ち上がって台所へ向かった。
もう昼飯時だった。食事の準備に取り掛かってくれるのだろう。
「…」
ファイリングされたレシピ、最後のメッセージを眺める。
これは優しい贈り物だ。
お袋、嬉しかっただろうな。励まされたんだろうな。
…今はその両者が、この世にいないことが空しい。
まるで別の世界の出来事のようだ。過去の遺物として扱っていることが、既にこのレシピが死んでいることを現わしている。
師から生徒へ。その生徒から引き継ぐ相手はいなかった。無知は罪、人の夢も気持ちも儚く散るものだ
「…ん?」
手紙を見つめて、気になるワードがあった。
気になるというか、聞いたことのある言葉だったから。
「らいは」
「んー?」
「おまえ、一年くらい前に何か言ってなかったっけ」
「…その質問でどう答えればいいの」
「いや、そうじゃなくて…愛がどうのって」
「愛? あー…愛があれば見分けられるって」
「それ、先生の狂言」
これと似たようなことを聞いたんだ。
手紙を改めて見る。恩師から生徒へ向けたこの言葉に近いことを聞いた気がする。
俺はそれを聞いて鼻で笑って、酷く怒られた。
頭突きを食らって、二度とからかわないと誓ったんだ。当人にとっての大切な気持ちを侮辱したくなかったから。
「愛…愛?
あ、お料理のこと?」
「料理?」
「その、わ、私のモットーというか
夢の中での話だけど」
「…」
「夢でさ、お母さんと会って
その頃は料理ダメダメで、真っ黒に焦げたお魚を二人に食べさせちゃってて…覚えてる?」
「ああ」
妹は思い出を語る。虚言にも近い、現実にない話。
まだ小さいその背丈。踏み台を運んで台所に立ち、手慣れた手つきで食事の準備を始めている。
らいはの料理はうまい。世界一うまい。俺が一番好きな料理はらいはの手料理だ。親父も好きだとベタ褒めしてうるさいものだ。
でも、最初から上手いわけもなく。失敗しては泣いて謝っていた。もうしない、と後悔すらしていた。
俺も親父も知らないところで頑張って上達していた。その成功の裏側は誰にも語られていない
「夢ってすぐ忘れちゃうし、私の思い込みなんだろうけどね
夢でお母さんに、どうやったら上手くなるのか聞いたの
そしたら、とっておきの隠し味を教えてあげるって
それが、愛情なんだって」
「…」
「愛情があれば諦められないし、手も抜かない、相手が褒めてくれるまで続けられる
お兄ちゃんとお父さんの笑顔を思い浮かべて作りなさいって、教えてくれたの」
「…思い出した」
「あはは、夢なんだけどね…
夢なんだけどさぁ」
恥ずかし気に声が上ずった妹の声。俺はファイルを持って立ち上がり、台所へ向かった。
踏み台を使ってもまだお袋の方が背は高いんだろうな。ガキの俺は見上げてばかりで正確に比較できない。
ただ、いつかおまえが大人になった時に、母親似だな…ってぼやくんだろうよ。
家事に勤しむらいはの視界を遮る。持ってきたファイルを押し付けて。
「え?」
「俺は非現実的な話は信じないけどな
結果として、おまえはちゃんと受け継いでいたんだ」
妹は何が何なのか分からず、強引に渡されたファイルを受け取る。
開かれたままのファイル、最後のページを指差して台所を去った。
らいははおずおずと、その一文を読む。
まだ小学6年生。読めない漢字は沢山ある。
そんな子でもわかりやすく伝わるメッセージがあった。
「…あはは…
隠し味、愛情…!
って…変なの」
ありきたりなフレーズだし、偶然の一致なのかもしれない。
既に死んだ者の気持ちは生きた者に決めつけられる。おこがましく愚かな行為だ。
かといって、そうあってほしいという切実な決めつけが、周りから非難されるのは不憫でもあって。
結局、正解なんて存在しないんだ。恋愛に似て、到底理解できない分野である。
「…
夢じゃ、なかったのかな」
十年も前に置き去りになった母の遺品は娘の手元へ。
聞き覚えのある共通の教え。恩師から生徒へ。母から子へ。大事なおまじない。
…あの母親のことだ。熱意の割にだらしない生徒だったんだろう。恩師を困らせる生徒だったに違いない。
亡くなった後にまで先生に世話になってしまったような、歯がゆい感覚。
らいはは人前では泣かない子だ。泣いた姿を見たのは風呂場で一人、誰にも言わずこっそりとな。
鼻をすすて、ため息をつく音の後、台所から音が届く。
ゆっくりと、ことんことんと食材を切る音。その手つきはきっと、母に教わったばかりの昔を思い出す。
昼飯は遅くなるな。卓上に広がる母が残した夢の痕はもう少し置いておいてもよさそうだ。
その日の夜、レシピを遺品の山から発掘し返却する前に、一度親父にも確認を取らせた。
お袋から何も聞いていなかったのかと問い質したい気持ちもあったが、少し考えれば不条理だと気づいた。
お袋は事故死したんだ。死後の憂いなど語る間もなかっただろう。
「そういや前の職場で懇意にしてもらったとか言ってたな
実物触ったことねえけどな」
「…なんかお父さん、軽い
もうちょっと大事に扱ってあげてよ…
お母さんのお友達が困ってたんだよ?」
「そう言ってもよ、母さんが譲り受けたもんだろ? そこまでするか?
…母さんは店を持つ前、料理人になる為の修行でパン屋で働いてたな
俺も何回か行ってパン食ったことあるわ、優しい婆さんだったな」
「思い出して早々で悪いが、これ…返していいんだな?」
「…おう」
「…疑ってるなら、直接確認したらどうだ?
譲り物だがお袋の私物なんだ、義理はあっても強制じゃない
所詮、俺の感傷から始まったことだしな」
「…おまえの判断を信じるわ
ここで断って、あいつが恩知らずになっちまうほうが嫌だしな」
「まぁ…そうだな」
「じゃあ、正式に返すってことで…お兄ちゃんが返すの?」
親父の確認が済んだので古い紙を封筒に入れる。後はこれを渡すのみとなる。
何の気なしに居間のちゃぶ台に封筒を置いてみたが、誰も手に取る気配はなく。
子供二人の視線が父親へ移る。当人はポリポリと頭を掻いて息子に頭を下げた。
「すまん!
俺が行くと、またいらんこと言っちまいそうだ
頼む、風太郎」
「…それが一番平和的解決だな」
「お父さんだらしなーい
でも、お兄ちゃん頼りになる!」
「変におだてなくていいから」
「いや、マジで助かるわ
この一年ですげぇ社交的になったもんだ」
「零奈さんパワーだね
あのお兄ちゃんが子供に甘々になって、料理までしちゃってるんだもん」
「今年は母さんの墓参りに来てくれるってんだもんなぁ
かっー! 母さんには負けるが良い女だなぁ、泣かせやがってチクショー!
五つ子ちゃん達も可愛いしお利口さんだし、文句の付け所がないよなぁ、風太郎ッ!」
「…何でこっち見てんだ、返却行かせるぞ」
「すまん!」
上杉家では中野家の面々の株がはちきれん程に爆上がり中。五人のチビっ子の魅力に妹も父親も絆されてしまっている。
親父からしたら同じ片親で子を育てる似た者同士であって、らいはからしたら母親代わりか…高評価されるのも頷ける。
封筒を回収し、リュックに入れておく。さっそく明日には後輩さんに渡しに行くとする。
上杉家家族会議の議題も無事に解消されたことだ。これで気兼ねなく自習に取り組めるというもの。
話し合いを終えて各々自由に過ごす時間だ。俺はいつもの参考書とノートを持ち出し、ちゃぶ台を使わせてもらうとする。
「うーん…お兄ちゃん
そのレシピさ、コンビニでコピーしてきていい? 明日でもいいからさ」
「あ? ああ…どうだろうな、商用で使わなければ問題なさそうか」
「流石にそんなことしないよ
もしかしたらさ、いつか作れるかもしれないじゃん」
「作りたいなら止めはしねぇ
じゃあ返す前にコンビニ寄っておく」
「やった」
十年ぶりに母親の仕事場を掘り返した後だ。らいはにとって頗る興味をそそるものなのは間違いない。
現にパン以外のレシピだったり資料は持ち帰っている。ここ数日は勉強三昧といったところか。
親父にとっても懐かしいものだろう。らいはと並んで店の名残を手に取って眺めていた。
「…なあ、風太郎
このレシピがあれば、母さんのパンがまた食えるのか?」
「…いや、作り方が分かったからってプロには及ばないぞ」
「そういうもんかね」
「パンを焼くオーブンだってないしな」
「それなら下に窯があったじゃん!」
「もはやガラクタだろ」
以前親父から、パンを焼いてみてくれ、と言われたことがある。
当時はそんな無理難題を適当に返して終わったが、材料や作り方が分かった今では多少現実的な話になりえた。
まぁ…設備が足りてないんだけどな。家庭的なパンは焼けても、店に出せる程のクオリティのパンは作れっこない。
親父は落胆などせず淡々と妻の遺品を見つめている。
愛した女性の手料理、もう一度食べれるのなら。そんな淡い希望だったのだろうか。
料理ね…食えれば何でもいいだろ。らいはの料理は世界一だが、選好みできるほど贅沢じゃないぞ、うちは。
毎朝お袋が焼いていたパン。もしもう一度食べれたとしたら。
もしもう一度、あの頃に戻れたら。
「なら、焼いてみましょうか」
「え?」
「レシピ通りになら、昔のよしみで焼いてみせるわ」
翌日の朝型。それは念願の品を手に入れた喜びからの、お袋と同じパン職人からの善意だった。
大金という代償がなければせめてのお礼を、とのことで。お袋の後輩さんがレシピに書かれたパンを焼いてくれたのだ。
都内の持ち前の店で焼いて、職人自らの速達で上杉家に届けられた。
レシピ通りの、数値を違わず、妥協のない職人の一品。
後輩さんとの最後の締めになるかもしれないから親父には強制的に同席させた。大人同士のなんとも言えない社交辞令でその場は収まった。
「いただきます」
俺と親父、らいはは緊張しつつ、そのパンを口にした。
まだ温かい、パリッとしたクロワッサン。
市販のパンとは違う、濃厚な風味。無臭ではないが尖った匂いでもなく、パンなんだって雑な感想を抱いた香り。
一家全員でパンに食らいつき…口にした瞬間のらいはの目が輝いて、おいしいと大喜び。
しかし。
「…」
「…」
「…お口に合わなかったかしら」
「い、いや…凄く美味いんだけどな?
パンなんて全部同じかと思ってたんだけどよ、やっぱスーパーのより断然うめぇな」
「…はぁ…パン職人の夫とは思いたくない感想だわ
風太郎君も、遠慮せず率直な感想をどうぞ
なんとなくだけれど、言いたいことはわかりますから」
「お父さん、お兄ちゃん…?
えっと…どういうこと?
十年以来の馬鹿舌を疑うか、職人の腕を疑うか。
「お袋のとは…何かちげーな」
「だよなぁ…あいつのはもっとこう…何て言えばいいのか
十年も経っちまうとな…」
「ええええええええ!?」
別物のようで似ている。思い出補正で認識できていないだけだろうか。
曖昧な感想を述べる俺たちに対し、職人は腕を組んでため息を吐く。
「でしょうね…ご期待に沿えなくて残念だけれど
あの人、レシピ通りには焼かない直感タイプだったから」
「…」
やっぱそういう人だったよな、お袋の奴。発掘した時もよくわからん付箋だらけだったし。
歯の浮くような俺の口ぶりに同調する親父。同じ記憶を持つ経験者も、この類似品に戸惑っていた。
パンの色も匂いも同じなはず。だけれども…何か違う。
毎日毎日…母親の苦労を知らずに過ごしてきた子供には、その差はわからない。
母の手料理は真似しようとしても、何かが違うと首をひねり…もう一度食べてみたいと思い浮かぶ。
何かコツがあるのか、特別な食材を使っているのか…そう教えを請う。
「残念だけれど、作り方は本人の頭の中のようね
…届けられなくて、ごめんなさい」
プロはお手上げ。となればもうどうしようもない。
もう一度あの思い出が蘇るんじゃないかという、そんな淡い期待は死線を越えられなかった。
「昨日は何か良いことあった?」
「ありきたりなネタ
まぁそうだな…昨日は変な期待はするもんじゃないなって我が身を戒めていた」
「いましめ…?」
「その点、おまえはだいぶしつこいよな
遊んでとか、お嫁さんがいいとか」
「? よくわかんないけど…それはフータローが悪いから」
「…俺もお袋の雑な性格を呪ったよ
昼休憩終わりだから、もう切るぞ」
「うん…あっ 明日帰るんだからね?
明日、明日は会おうよ、お土産いっぱいあるから」
「明日? いやいや、おまえらが帰ってくるの夜だろ
会うのは早くて明後日な」
「む~っ! 夜でも行けるもん!」
中野家帰省中の日課になっている三玖との電話は程々に、風太郎は夏休みもバイトに勤しむ。
明日あのアパートに帰ってくるそうで、穏やかな日常はあっという間に終わってしまうようだ。
本日も快晴なり。勉強とバイトだけするという…中野先生に出会う前の日常が少し懐かしかったな。三玖との電話を除いて。
いや、二年前とは大きく変わったことがあったな。
「…俺はケーキ屋でバイト
お袋は人気喫茶店の店長
…お袋が生きてたら、あの店でこき使われてたんだろうな」
あの大掃除から家の下にある店のシャッターが開きっぱなしであること。
開いていると家の前を通る通行人に声をかけられるんだ。店を再開するのかと。昔よく食べに来ていたんだと。
そんな期待を向けられる度に否定し、店主が死んだことを告げていた。この夏は本当に母親の話ばかりだ。
「休憩から戻りました」
「ああ、午後もよろしくね
上杉君、つかぬところ窺うけど
五つ子ちゃんたち、近々帰ってくるのかい?」
「ええ…まぁ…ってか、電話盗み聞き…」
「ならば、君に新たな任務を与える」
「え、何ですかこれ…チケット?」
「僕が以前作ったのは三玖ちゃん用の抹茶ケーキだった
残るは四人、この数日練りに練って生み出した、五つ子ちゃんそれぞれのケーキを振舞いたくてね
これはその招待券さ
もちろんお母さんの分はあるよ…流石に専用のケーキはないけど」
「この店、ケーキをガキの舌に委ねすぎてて不安でーす」
「何とでも言うがいい、これは店長の特権さ
僕の好きなようにさせてもらうよ
無事に誘ってきたら1月分の賄いをタダにしようじゃないか」
「お任せください」
なんなんだ、職人ってのは変人しかいないのか。金に糸目をつけない店長が二人もいて呆れるわ。賄いが浮くならむざむざ言わないが。
店長から手書き感バリバリのクーポンを6枚受け取った。律儀に五人分の名前とケーキがセットで書かれている。ガキんちょのあいつら大喜び待ったなし。
休憩を終えた16時のこの時間は客は少なめ。おやつ時のピークを過ぎた今はディナーに備える貴重な時間だ。さっそく仕事に取り組む。
食器を回収し、洗浄し終えた皿やグラスを拭いていく。その作業がてら、厨房のスタッフは何やら忙しげだった。ホールは手が空いてるし…
「店長、洗い物入りましょうか?」
「ああ…お願いできる?
五つ子ちゃんケーキは完了したところで、次は男児向けのケーキを考えててさ」
「男児向けのケーキ?」
「夏祭りの後…月末ぐらいに近くでヒーローショーがあるんだよ
地域の男の子とそのご家族が行くわけだが
うちは見ての通り女性客がメイン、新たな客層を得るには絶好の機会だろう? 近々クソパン屋二号店が来るわけだしさ」
「そこまでの危機が迫っているのなら、もう遊んでる暇なんてないんじゃ…?
そっち優先しましょうよ」
「…ごもっともだが…まぁアレだよ
店の経営ばかり気にしてると初心を忘れるというかね
中野さんのように苦労されているご家庭にとって、通いやすいケーキ屋であること
そこからかけ離れるようじゃ、この店は死んでいるのと同義なのさ」
…店長は基本、ハングリー精神旺盛で競争意識の鬼だ。今だって向かいの店を敵視し、客の取り合いになっている。
その一方、あの中野家の五つ子にはとことん甘い。去年の夏祭りから、ケーキ屋に招けとうるさいのなんの。
貧乏人から金を巻き上げるなと内心煙たがりもしたが、そんな杞憂はすぐに晴れた。中野家にはサービスしまくりで、もはや無償の奉仕だった。
一介の店員が店長の動向に口出しするのもおこがましい。でも、事ある毎に俺を巻き込んでくるから文句も言いたくなる。
結局のところ、このケーキ屋はあの五つ子にとって最高のケーキ屋さんであって。店長はその場所を崩したくないのだ。
お人好しが過ぎる。傍から見れば微笑ましい光景に思える…だが。
「店長、不躾に聞いてもいいですか?」
「ん? 何だい? 時給は上げないよ」
「それはもう期待してないので
…店長自身が店の経営から退いた時、そんな未来が訪れた時
跡継ぎに任せてでも続けたいと思いますか?
それとも、自分が携わることがなければ…閉めますか?」
厨房に入り、大量の皿が浸かった洗剤入りの湯に手を入れる。
何ら意図した質問ではない。そんな意味を含めて、店長の顔は見ずに淡々と食器を洗った。
厨房には店長以外のスタッフもいる。聞かれたらあまり良い質問ではないだろうに。
自分が思い描く夢。その熱意が失われた時にどう思うのか。それを知りたい。
店長は少し考え込んで、不快な顔をすることなく回答してくれた。
「店は形だけでも残すよ
僕のいない店の経営はその跡継ぎに委ねるけど、僕の店は潰したくないかな」
「その答えに至る理由を聞いてもいいですか」
「簡単なことだよ、僕のしたいことってのはさ、お客さんを笑顔にすることなんだ
僕のケーキでね…もちろん、僕自身の手で作ったケーキでお客さんに喜んでほしいけどさ」
「それができないのに、店は残すんですか」
「そうだね…できれば生涯現役を貫きたいところだけど
でもさ、上杉君
僕たち店を経営する者、その本人がもし死んだとしても残るものはある
それが店であって…お客さんの思い出でもあり
…僕が考え生み出したケーキもそれに含まれるね」
「…」
少し、優しい声音だった。若人を教え諭す年長者の声に、俺は体を向けた。
「世に生み出された数々のケーキにはそれぞれの歴史や物語がある、それに憧れててさ
僕が作ったケーキが世に出回り
僕のケーキを食べたお母さんが自分で作ってみて
その子供や家族と楽しい一日を過ごせたとしたら
僕はもうそれ以上何も求めることはないね」
「…サービスしすぎて、店が潰れることになれば
その目標は達成できないかもしれないでしょう?」
「その時はその時、職人の本望って奴
いつの時代でも、ケーキは人を幸せにする素敵な贈り物であり続けるべきだよ
お金がないから今年はケーキ食べれないね…なんて言葉は聞きたくもない」
「…
あいつらは、この店を好いてますよ」
「それなら頑張っている甲斐があるね」
聞きたいことは聞けた。ケーキを愛してやまない職人の告白に感服する。
突如パチパチと拍手が。キッチン内のスタッフだけでなく、ホールスタッフが顔を覗かせて店長の夢を聞いていた。
サボると減給するよ、と店長が手で追い払って解散。俺は止まっていた手を動かして皿洗いに勤しんだ。
職人の本望、本懐…お袋にそんな大層な物があったのだろうか。
それを聞いたとして、俺は何をすべきなのか。
…すべき、と捉えている自体…俺は何か…後ろめたさに苛んでいるのだろうか。
店長の語らいを聞いて、租借し…もう一人の顔が思い浮かんだ。
先日迷惑をかけたっきりだ。五つ子のもう一つのお気に入りの場所でもあってバイト終わりに向かってみた。
「いらっしゃいま――あ、風太郎?
どうしたの? もしかしてこの前の罪滅ぼし?
パン買うなら半額じゃなくて定価で買ってもらおうか」
「竹林…今日シフトだったのかよ」
「うん、フルでね
だから、昼間フータローがあっちの店で駆け回ってるのをこうやって観察してて」
「サボり魔かよ、仕事しろ
暇なら外で雑草抜きだろ」
「夏にそれは死ぬって…」
ケーキ屋の向かいにあるパン屋。喫茶店のケーキ屋と比べて閉店が早く、19時上がりギリギリで滑り込んだ。
店内にはクラスメイトの竹林が余り物のパンを集めたり、トレイを回収したりと閉店準備に取り掛かっていた。
謝罪と言えば大げさだが、まったくもってその通りなのでここの店長さんを呼んでもらった。
奥の厨房で明日の準備作業をしていたのだろう。わざわざ出てきてもらうと人の良さそうな苦笑を向けられた。
「この前は迷惑をかけました、すみません」
「ううん、君こそ大変だったでしょう?
うちの事は気にしなくて大丈夫だから、幸い何も問題は出てないし…
問題は例のパン屋が開店することだし…あはは」
「それを聞いてひとまず安心しました」
「店長、店長
そんな人が良いこと言わないで、このパン全部買わせましょうよ、定価で」
「あ、良かったら上杉君、売れ残ったパンで良ければ持って行って」
「…竹林、うちとバイト先変わってくれ」
「店長! 何で私には奢ってくれないんですかー!」
先日、お袋の後輩さんが押しかけて醜い問答を繰り広げていたのだ。話題はうちのお袋の店。
その際に店内にいた客が揃って帰ってしまったので、とんだ迷惑をかけてしまった。妙な噂とかされてないのなら良かった。
頭を下げに来ただけで長居するつもりはなかったが、なぜか店長はテーブルへ案内しパンとお茶を振舞ってくれた。
「こんな時間だけど…少しお話をしてみたくて」
「は…はぁ、俺は構いませんが」
「そういうことなら、厨房の作業代わりますね」
「ごめんね、竹林さん」
アルバイターに恭しく頭を下げる店長さん。この物腰であの金の亡者の店長と争えるのだろうか…少し心配だ。
パンを食べながらでも、と勧められたので少しばかりぺちゃっとしたパンをいただいた。
やはりおいしい。半額にするにはまだまだ埋もれていない美味。昔こんな風にお袋に余り物食わされてたな。
パンをつまむ俺の対面に座って店長さんは気まずそうな顔をしている。両の指を合わせては落ち着かない仕草を見せる。
「あの…どうかしました?」
「…うーん…気を悪くさせてしまったらと思うと心苦しくて
うん、でも聞かないとずっとモヤモヤしちゃうから」
「お構いなく、パンを奢って貰ってるんでお気になさらず」
「あはは、そんなつもりであげたわけじゃないんだけどね
…君のお母さんのことで」
「はい」
「うえすぎってお店
私、昔よく通ってたの」
…昨日と一昨日で声をかけられた常連のお仲間だったらしい。
そういえば知ってるような口ぶりだったな。だからあの後輩さんが噛みついてたんだった。知人多いな、お袋。
「お袋が亡くなったのは十年も前になるんですが…学生とかですか」
「そうだね、高校生だったよ
うえすぎの店長さん、マックとか行ってた高校生にはちょっとお高めのお店だったんだけど
静かで落ち着ける空間で、店長さんがね…頑張っている学生さんにはサービスだってジュースやパンを奢ってくれたり」
「そうですか…」
「…でも
亡くなられて…いたんですね…」
「はい」
「…そうだったんですね…
…憧れの人だと思ってここまで来たけれど…亡くなられていたことに気づかなかったなんて
ごめんなさい、上杉君も今更になってお母様のことを言われても困るよね」
「いえ、元より問題になっていたのでお気になさらず
…そちらが良ければですが、お盆の時期ですし
家族が墓参り、行くんです…良ければ」
「それは是非…手を合わせるだけでも」
無性に、膝に置いた手で足を掴みたくなった。強く、痛いほどに痛めつけたくなった。
自分で行かないものを他人に推奨して…何がしたいんだ俺は。
母を慮る人がいて、そんな人がお袋の墓参りをすれば…それは良いことなんだ、お袋が喜ぶんだと思い込んでいる。理由は定かじゃないのに。
気を遣ってくれる相手に無暗に心配をかけるのもみっともない。紛らわせる意味も込めてこちらから質問してみた。
「店ってどんな感じでした?
流石に子供だった俺には当時の記憶とかないもので」
「うーん…なんて言うんだろ…
学生の私にとっては背伸びしても届かない大人の憩いの場って感じだったかなぁ
ランチやディナーの時は忙しそうであまり行ってなかったんだけど
客は沢山いても各々のゆっくり過ごしたい空間ができてたというか…
主婦の方が多かったんだけど、そういう人たちはパンのお持ち帰りが多かったかな
私は居づらいからランチが終わった頃を見計らって、パンと紅茶を注文してね」
「なるほど」
「パン、美味しくて人気でね
私もそのファンになっちゃって…優しい店長さんを見て
こんな大人になりたいと思って、パン屋を開いてみたんだけど
まだまだ足元までが遠いかな」
「…え、マジですか
お袋を見てパン屋を?」
「そうですよ
カッコいいじゃない、自分の夢のお店を開くなんて
お金は二の次で、自分のしたいことをする…みたいな
…だから、儲けばかりに固執するあのケーキ屋には負けたくないな」
最後結構ブラックなこと言われたぞ。商売敵として認識されてるんですね、そちらも。
熱心な常連客がいたのはわかっていたが、まさかお袋に憧れて就職までする人がいたとは…
人の将来を変えちまうほどの魅力があったのか、あの店には。あの貧乏な家を想像すると夢も希望も失せていくのに。
ある意味お袋は誰かに求められる人間になっていたんだ。
俺にとっての先生。お袋の後輩さんにとっての恩師。そして、この店長さんにとっては…俺のお袋。
あの店は潰れたのに、思いがけない副産物を発見してしまった。別に上杉家の所有物ではないが…意外だった。
「…もうお店は再開するつもりはないんですか?」
「ええ、今のところは
店主もいないし、跡継ぎもいなかったので」
「…? でも、君が
う、ううん、引き継ぐべきとか言うつもりはないんだけどね?」
「俺、パン焼いたことないので
親父もその点無力なので、手詰まりですよ」
「あぁ…そっか…それなら無理そうだね…」
「え? パンの焼き方なら教わればいいじゃん」
店の復帰は絶望的だと知って落胆する店長さん。そんな気落ちっぷりを吹き飛ばす能天気な声が奥から聞こえた。
「竹林、急に何を言いやがる」
「ほら、私だってさ、店長に教わって素人でも焼けるようになったから
学びさえすれば、風太郎がお店を継ぐことだってできるかもよ
何もしないまま決めつけるのは風太郎らしくないな」
「…なんか妙なこと言ってますが、気にしないでください」
「あ、あはは…
でも、もし興味があるのなら教えることぐらいできますよ
あの店長さんの息子さんの力になれるのなら、協力を惜しまないから
頼ってくださいね」
「あ…あはは…その時は、はい…」
な、何か妙な期待させてしまったか。店の復帰など到底考えていないのに。
厨房から首を突っ込んでくる竹林が世迷言をほざいたせいだ。睨むと幼馴染みはそそくさと逃げて行った。
バイト掛け持ちしろってか。五つ子の家庭教師をやっていなければ考えなくもなかったがな。
生憎とあいつらが帰って来た明後日からは、小学生の宿題を見てやらねばならん。夏休み最終日に駆け込みなど許さん。
俺はやんわりと拒否したが、対面に座る店長さんもまたやんわりと乗り気のようだ。
またお袋の店の話を聞かせてほしい、そんな挨拶紛いの言葉で締めくくってパン屋から出た。沢山のパンをいただいて。
「興味がなくもないが…レシピ通りにやってもダメだったからな」
夏の夕暮れは長い…それも終わり、すっかり真っ暗に。
ふと携帯には着信がいくつか。鬼電の主は…三玖だ。
この時間だと夕飯を食べ終えて、風呂も入って、後は遊んで寝るだけってところか。暇人め。
バイト帰り、寄り道からの帰路の途中。携帯を耳に翳していつもの日課をこなすとする。
電話先は先生の実家なわけで…受話器を取ったのは家主の祖父でもない、三玖の母親だった。
「上杉君ですか、こんばんは
三玖とお話ですか?」
「ええ…何度もかけてきてたみたいなので
もしかして、あいつ手が離せなかったりします?」
「いいえ、さっきまで電話の前に張り付いてましたから
電話が鳴った途端に私を呼んで――わかりましたから、三玖
え? 取ったりしないわよ…まったくこの子は
今代わりますね、上杉君」
「面倒おかけします…」
「いえ…それに
少しでも、声を聞けて嬉しいですから」
「えッ」
急に何を言うのかと問い質す暇を与えず、先生は三玖に代わってしまった。
先生の声に混じって、早く代わって、と急かす三玖の声が聞こえていた。呼び出されては追い出される母親には頭が下がる。
通話相手が代わり、えへへと嬉し気に、三玖は今日何があったのかを述べていく。
果たしてこの特訓が夏休み明けに発揮されるのだろうか。ただくっちゃべってるだけで進捗を感じられない。
「フータローのお母さんのパン?」
「ああ、俺の母さんの友達が焼いてくれてな
焼いてくれたはいいんだが、母さんのパンとは違くてなー」
「? 何が違ったの?」
「何が違うのかもわからん
うちのお袋、教科書通りにやらないダメダメな奴なんでな」
「悪い子…最近の二乃みたい
こうしたら美味しいんだって、お母さんやお姉ちゃんの言う通りにやらない…」
「はは…でも美味かったんだぜ?
昔は毎朝食べてたし、もう一度食べれるのかなっと思ってたのに…残念だ、まったく」
「…」
三玖の報告だけで話を済ますと拗ねるからな。こちらからも話題を共有してみた。
小学生相手に愚痴を言っても仕方ないが、あの時の俺と親父の期待は大きかったんだ。本当に美味しいパンだからさ。
まだ子供な三玖からしたら反応に困るだろう。黙りこくってしまった三玖に他の話題を振っておくか。
「食べたい」
「…ん?」
「フータローのお母さんのパン、食べてみたい」
「…残念ながら、再現はできそうにねえな」
「…食べたい」
故人と共に消滅したものを、三玖はねだる。
いくらなんでもその我儘は叶えられない。こんな話をしておきながら断るのは気が引ける…申し訳ない。
「知りたいの」
「何…? 知る?」
「フータローのこと、好きだから…もっともっと知りたい
もう、私のことばかり話すのはやだ…それじゃダメなんだ」
「…」
「大事なのは、相手のこと…わかって…仲良くなって、助けることだって
本当に言いたいこと、言えないこととかをね…
仕草とかでね、時間かけてわかっていくんだって
お母さん、言ってたから」
「へー」
「…本当はよくわかんないけど…えへへ」
はにかむ三玖の声は嬉しそうだった。
フータローも話して。もっと楽しい話をしよう。この特訓において何度も聞いた言葉。
自己主張できない三玖にとって一番足りていない部分かと思っていたが、三玖はそれだけじゃ嫌だと言っている。
大人の意見を聞くだけでは終わらない。ちゃんと自分で考えて活かそうとしている。
「だからね、フータローが好きって言ったパン、知りたい」
「…とは言ってもな」
「うん…食べれないのなら、仕方ないね」
「…」
「残念…」
…一年前のチビっ子甘えん坊な幼稚園児だったら、延々と文句を言っていたかもしれない。
食べたい、フータローが作ればいいじゃん、なんてな。
それでも断れば頬を膨らませて拗ねるか、嫌われたと思い込んで泣きべそかくか。
今日の三玖は駄々をこねることなく、静かに諦めた。これもまた成長ってことか。
「そこまで執着してると、まるで五月だな」
「…
む…そんな腹ペコじゃないもん
五月なら絶対にうるさくなってたよ、私はフータローに気を遣ってあげてるんだよ」
「はいはい、流石はお姉ちゃんだな、三女だけど」
「一花と二乃だって絶対に文句言ってるよ
四葉だって言うから、私が一番フータローに優しいんだよ
今日だって宿題やったの私だけだもん、皆はずっと遊んでたんだから」
「マジで偉い、おまえが一番だ、三玖」
「うん」
「大好きだぞ!」
「…
え、ええぇえええ!?
な、何で急に?」
「あ? だっておまえから言ったことじゃん
好きだからって」
「う…うぅ…そ、そうだけど…そうなんだ…
あ、ありがと…」
「くっくっく…まだまだ特訓必要だな、おこちゃまめ」
「ぜ、絶対に嘘ついてる! 酷いよフータロー!」
単純な奴め。ちょっと気を良くした途端に調子に乗りやがって。
それほど騒いでいたら他の姉妹に気づかれるだろうに。姉妹喧嘩の元になるから静かにしてもらいたいものだ。
本当に単純でわかりやすい。愛らしくすら思えてくる。
口には言ってやらないがな。怒るだろうし。
そんなこと言われて、いとも簡単に気が変わりそうな自分が恥ずかしくて…風太郎はゆったりとした足取りで我が家に帰るのだった。