今後ちょくちょく更新して参りますので、気にかけていただけると幸いです。
三玖編は無駄に長いのでご容赦いただけますよう、よろしくお願いします…
8月16日。夏真只中の青い空と、灼熱のコンクリートから立ち上る熱気が肌をひりつかせていた。
太陽の位置を確かめようと天を仰ぐのが億劫になるほどの気温。用事がなければ外出など避けるのが道理。
夏の日差しによって作られた影は8つある。お盆であるこの日に数日ぶりに集まる約束をしていた。
何もなければ青い空と灰色の石が並ぶ場所。無音と共に死者を忍ぶ安寧の地。
墓地へ繋がる階段で子供たちが陽気にはしゃぎ回る。無邪気な声と蝉の鳴き声が、静かな聖地に色を与えていた。
枯れた空気に汗を垂らし、保護者たちが顔を合わせて頭を下げる。
「実家から戻ってきたばかりなんだろ?
こんな朝っぱらに呼び出されて疲れてはいやしませんかね、中野せんせ」
「お気になさらず、本日のお墓参りは私から申し出たことですので
こう申しますと不謹慎ですが…娘たちも楽しみにしていました」
「そりゃあ良かった…と、歓迎したかったが
せっかく来てくれたってのに、うちの風太郎が不参加だ
色々と世話を焼いてもらっておきながら、すまねえな」
「あれ、フータロー君今日こないの?
お爺ちゃん家のお土産あるのに」
「上杉君、お墓参りしないんですか?
お母さんのなのに」
「わりぃな、あいつ生粋の墓参り嫌いなんだよ
意味のない風習だとか文句つけて、これまで一度たりとも来なかった
まぁ…あまりあいつを悪く言わないでくれ
母さんも無理に来てほしくないだろうしよ」
上杉家の夏の恒例行事。昨年から交流が深くなった中野家も交えた、亡き母親への墓参り。
五つ子とその母親の手にはお供えの花がある。零奈の手には菊、五つ子には色取り取りの花たちが。
その真心に上杉家の父親と娘は礼を述べて迎え入れたが、中野家と一番に仲を深めた張本人がバイトで不在だった。
当然、風太郎を慕う五つ子は残念がり疑問と不満を口にする。
「お母さん、お墓参りに来なくて寂しくないのかな…」
「いつものことだし、お母さん慣れっこだと思うよ」
「…」
「お、お兄ちゃんはお母さんのこと嫌いじゃないよ?
ただ…ほら、お兄ちゃんって凄い面倒くさい人じゃん?
五月ちゃんが気に病むことないよ」
「…」
母親大好きっ子の五月は、母を蔑ろにするような風太郎の振る舞いに賛同できそうになかった。
母親が亡くなったら…そんな例えばの話をして、約束まで結んだ相手だ。不可解で親孝行であってほしい希望が五月にあった。
妹として五月の気持ちは痛いほど理解していしまうらいはは五月の頭を撫でる。
もしも母が強い人なら。
だらしのない息子の理由なき拘り、譲れない我慢も…きっと許してしまうから。妹は何も言わず、その時を待っている。
「フータロー 久しぶりに会いたかった」
「あんた、お爺ちゃん家にいる間毎日電話してたじゃん」
「そうだよ、三玖だけずるいし 四葉がお話しようとするとすぐに切るし」
「だって…会いたいんだもん」
「何で切るのさ」
「四葉は去年、一人でこっそり電話してたでしょ
四葉に言われたくないよ」
「はぐっ」
お兄ちゃん大好きっ子の三玖もまた賛同せず。つれない風太郎によく膨れっ面を見せては、その不満が姉妹に向くこともしばしば。
先日まで中野家は母の実家に泊まっていたばかり。その間、三玖を筆頭に五つ子たちは退屈していた。
美味しいものを沢山食べれたのは当然嬉しかった。が、五月を除く子供には遊び心が勝り、遊び回っては物を壊して怒られたりと散々だった。
欲求を堪えて迎えた今日、さっそく期待を胸に出向けば思い人は来ず。後々面倒事を呼び込むを承知で風太郎はボイコットを決め込んだのだ。
ご厚意で墓参りに同行している立場上、母親の零奈が娘の鬱憤が高まる前に早々にブレーキをかけた。
「来ないかもしれない、前もってそう伝えていたでしょう
お墓参りが終わった後にお話すればいいのでは?」
「うん…でも…見たかったから」
「見たかった?」
「フータローの、お母さんのこと話す時の顔…好きだったから
ほんとは来てほしかったし、もっといろんなお話聞きたかった」
「…どんなお話をしたの?」
「前に写真見た時ね、私がね
フータローとフータローのお母さん似てるねって
フータローは似てないって言うんだけど
笑ってる顔似てるって言ったら…
……」
「…喜んでくれたのね」
「ちょっぴりだけど…えへへ」
三玖は母親に去年の思い出を明かす。勘違いから家を飛び出して、風太郎や母親が探し回ることになった事件があった。
紆余曲折あってお互いに家族の事情を知ることになり、協力し合う今の関係性を築くに至った。
その経緯の中には子供なりに勇気を出して得た拘りがあり、顔がそっくりな五つ子にとって共有しえない個性にもなっている。。
三玖なりに思うことがあって赴いた此度の墓参り。欲張りでも人を困らせない三玖は残念な気持ちは抑えて、花を手に階段を上がっていく。
階段の先から子供たちを見守りつつ、先導する上杉家の父親の勇也がハッと顔をしかめて足を止めた。
「やっべ 何も考えてなかったわ
零奈さんよ、墓前で手を合わせるのはいいが、ちょっと離れててくれ」
「は、はい」
突然距離を置くようにと指示されて、鉄仮面で恐れられる鬼教師も流石にたじろいだ。
家族ぐるみで親交の深い相手、それも墓参りという極めてハードルの高い行事に同行を許されてからの突如の拒絶。取り乱さないわけがない。
母が足を止めたことで五つ子も疑問符を浮かべて立ち止まる。二乃と四葉と手を繋いでいた上杉家の娘、らいはがすぐに零奈のフォローに入る。
「ちょっとお父さん、何で零奈さんだけ? 何かあるの?」
「そりゃあおめー
俺がこんな美人連れてきたら再婚相手とか誤解されるだろ」
「…」
「…
誰にさ」
「母さんに決まってるだろ!」
「…こんな暑い時に変なこと言わないでよ
零奈さんすみません、うちのお父さん今でもお母さんゾッコンで」
「素敵だと思います」
何を言いだすかと訝しむらいはの顔が呆れ顔に変わる。太陽に焼かれながらの惚気話は小学生の娘には消化できるものじゃない。
結婚経験のある零奈はその意思を汲んで称賛を贈るが、娘には受け入れるには気恥ずかしさがある。父を睨みつつ零奈の背を押した。
「そういうことならお姉ちゃん
お父さんとママの間に私たちがいれば大丈夫でしょ」
「四葉たちなら上杉さんのお母さんも勘違いしないもんね」
「う、うーん…知らない間に子供作ってたって誤解されるほうが最悪かもよ」
「じゃあフータロー君の生徒さんって言えばいいよね、これなら大丈夫っ」
「! フータローのお嫁さんになるって言うべきかな、どうしよう」
「ちょ、ちょっと情報量多いとお母さんパンクするから来年かなー?
ただでさえ五つ子は初めてだから、まずはお名前を覚えてもらおうよ」
「適当でいいぜ、お盆はそもそも死んだ奴が家に帰る日みてーだからな
墓にいねえんじゃ話なんて通じねえ」
「えーっ!? お、お母さんそうなのですか!?
じゃ、じゃあ今日のお墓参りも、お祖母ちゃんのお墓参りも意味ないんですか?」
「…そういうところが、風太郎君が嫌がる要因の一つかもしれませんね」
定まらない決まり事に翻弄されながらも一行は階段を上がり、行きついた先の光景を一瞥する。
一帯を灰色の石に囲まれた土地。墓石と塔婆が並び、焼香の匂いが風に飛ばず漂っている。
身長の低い子供たちには墓石がより高く大きく見えるだろう。死者の壁で隔たれた迷路のように。
子供たちは花を片手に、もう片方の手で姉妹の手を握り合う。
途中手桶とひしゃくを借りて、上杉家の二人が案内する。
子供たちは言葉を謹んでそれに続き…一つの墓石に辿り着いた。
「ここが上杉君のお母さんのお墓ですか?」
「おう、母さんのお墓だ」
上杉家之墓。8人の大人数での墓参りは上杉家にとって実に久しぶり。
それは母親の骨壺をこの下に納めた時。その光景を知るのはこの場で一人だけ、父親の勇也だ。
子供には墓の構造などわからないだろう。ただ風習に従って花を手に祈るだけ。故人へできることはよくわからないまま。
ふと墓前には幾つもの花が添えられていた。灰色の光景に咲く綺麗な花に五つ子たちは目を配る。
「ねー もうお花あるよ? 私たちの置けるかな?」
「それはお爺ちゃんたちのかな?
お花添えるのは、うちとお母さんとお父さんの実家ぐらいだもんね」
「にしては多いな
…たぶんあの女のもあるんだろ」
「後輩さんのか…来てくれたんだ」
この数日で知った人物。昔、母と同じくパン作りの修行していた職場の元後輩。彼女からの手向けの花だろうか。
花瓶に挿す花を整えて、中野家と上杉家の花も新たに花瓶に挿すと、例年にない数の華やかさが出来上がった。娘のらいはにとって両手を上げて喜びたい光景だった。
最後に用意したコップを置いて勇也は酒を注ぎ…火を灯した線香を線香立てに立てる。
「…」
線香から煙が立ち、上杉家の二人が初めに黙祷する。亡くなった母の冥福を祈り供養する。
五つ子たちも見習って手を合わせかけたが、まだ母親がしていないことを見るや慌てて手を下ろした。
まずは近しい人たちから。厳格なルールなどはないが、家族同士の水入らずの時間を妨げてはならない。
しばしして上杉家の二人が手を下ろし下がる。墓石の手前に招かれた中野家は一礼して合掌。
母を横目に一花から順にしおらしく手を合わせた。まだまだ幼稚な子供の一生懸命な供養にらいはも父親も破顔する。
「…」
…零奈が黙祷を捧げ終えた。が、五つ子はまだ熱心に祈りを捧げていた。
炎天下でも根気強い子供たちだ。らいはは苦笑しながら見守り、勇也と零奈は一度その場から離れた。
「…奥様は事故で亡くなられたと聞きました」
「ああ、もう12年も前だな
らいはも小学6年でちょうど12歳
あいつを産んですぐのことだったからな」
「…今日まで、二人の子供を立派に育ててこられてきたのですね
私も女手一つで子供たちを育てていますが、皆さんの手を借りておきながらこの体たらくです
子供たちが健やかに生きていってほしい…尊敬いたします
私も娘たちを立派に育てられたらと思ってやみません」
「よしてくれ、見て分かる通り父親としてボンクラだ
それにあんたのガキは五つ子、同時に五人を一人は大変だろ
赤子だったらいはの世話なんて実家に頼りきりだったし、風太郎も手のかからねえヤツだった
家族として支え合って生きてきたが、父親としては力不足だった」
「…」
「しかし尊敬ね…
経緯は違えどつくづく理不尽な世の中だ
不良生徒だったこの俺が、先公にそこまで言われるはよ」
「子を愛することに理由も立場も関係ないでしょう」
「…そこまで人を信頼し過ぎると痛い目見るぜ、先生
うちには借金が残ってる
良い親とは言えねえんだよ、俺も…アイツも」
勇也は子供たちが見つめる墓を一瞥し肩をすくめる。失敗した親だと自虐して。
零奈はその虚しい視線に口を開きかけて…やめた。
子を育てることの難しさ、導くために培うべき教養、子と向かい合う時間と心の余裕。
それらを両立するには…どうしても一人では限界がある。
今自分に足りていない物を彼の子供を利用して賄っている自分には問う資格がなかった。
「年下のあんたに泣きつくのも情けない話だがよ
正直言うとな…風太郎がアイツのことをどう思ってるか今も計りかねている
今日のこと、なんか言ってたか?」
「…お母様を嫌ってはいないようでした
今も尚、亡くなった母を慮る優しい人ですよ」
「それがガキの本音だとは思えねえんだわ、俺はよ
勉強ができるのはいいが、何もかも賢くなられると…なんつーか、頭の悪い親には困るんだ」
「…」
一人で子供を育てる似た境遇者同士、普段なら弱音など一切吐かない勇也には珍しい相談事だった。
勇也からしても堅物で生真面目な中野零奈には警告したい良心の葛藤がある。
仮にも尊敬すると崇められた先輩が、ここで見栄を張っては逆効果だと危惧したからだ。
誰にも頼らずに育児をする危険性。やりきったとしてもその心身の負担を考えれば容易に褒め称えられない。子供が小さいからといって甘く見てはいけない。
とはいえ、勇也から実践的なアドバイスを贈るには何かが乏しく、深く考えずに今抱える悩みを打ち明けたのだった。
「…あんたたち一家が墓参りに来ると聞いた時
何か変化の兆しが見えるかもと期待してたんだけどな」
「彼の心情を窺えそうにありませんか」
「聞いていいのか、聞かないほうがいいのか迷うな
色々と我慢してきた息子を今更ガキ扱いするのは避けたい
あいつももう自立している、受験時に余計なことしたくねえな」
「…私から…聞くこともできますが――」
「お気遣い痛み入る……けどあんたには無理だぜ、先生」
「奢っているとお思いになるのも分かりますが
私は風太郎君とは何度も――」
「違う違う、風太郎はあんたを慕ってるんだ
弱みなんて死んででも見せねえさ
ああいうところも母親譲りなんだよな、まったく」
「…」
「ガハハハッ!
息子が世話になってるんだ、先生は何か困ったことはないのか?
子守は…うちの子供が手を貸しているそうだが、それだけじゃねえしな
何かあれば俺も力になるぜ これでもあんたより年上だしな」
前置きが長くなった、と勇也は快活に笑って零奈を見やった。
息子が学校を楽しんでいる、子供に好かれるほど社交的になった。喜ばない父親はいない。
そのきっかけを作った恩人。さらには同じ悩みを抱え、苦労を背負いこむだろう後輩に何か恩返しがしたかったのだ。
教師として、母として常に佇まいを律してきた零奈もその恩義を振り払う程鬼ではなく。一つ考えて…柄にもなく重いため息をついた。
「…少しばかり…
教職の業務が立て込んではおりますが、今はお手をお借りするほどではありませんので」
「ならいいが…体、労わんなよ
子供五人もいちゃあ無茶を通さなきゃいけねえ時あるだろうけどよ、限界ギリギリはよしときな」
「…やらねばならないことがありますので」
「お、おう…ほんと真面目だよな…
ちなみにそりゃあ…風太郎絡みか?」
「いえ、仕事ですので」
「うちのガキは協調性のない問題児だと聞き及んでいるんだが…しかも今年はあんたが担任だし
もろ仕事の面で迷惑かけてるんじゃないか?」
「ご、ご安心ください、まったくの別件です」
「ひ、否定はしないんだな 風太郎にはよく言っておくわ」
「そ、その必要はありません
今年は学級委員を引き受けてくださり、幾度も手伝ってもらっています
陸上部のマネージャーを引き受けてくれたのも、ひとえに私の力不足が原因でした
それに…教師であり、年上である私にお弁当を用意してくれていますから」
両者共に後ろめたいこともあってか頭を下げ合う。その異様な光景を見て二人の娘らは珍獣を見たかのような顔をする。
零奈の自白に勇也は目を点にしながらも、弁当というワードにここ数日の異様な光景がフラッシュバックした。
本の虫だったガリ勉が色めきだって、進んで人の世話を焼こうとしている。実の父親には天変地異でしかなかった。
「あー あれな あれもやっぱ先生の影響だよな
夜遅くに帰ってみれば、今まで暇ありゃ教科書しか読んでこなかった奴が急に台所に立っててよ
朝どころか前日の夜から作ってんだこりゃ、どんだけ手の込んだ飯作りてえんだか」
「ぜ、前日から作ってくれていたのですか…初耳です」
「あそこまで気合入れてる様は勉強以外に見たことないんだ
あの風太郎が高校3年に入って、受験勉強じゃなく料理の勉強だぜ
こつこつ続けた甲斐もあってか、母さんに似た料理になりつつ…って」
「…」
「あーすまん…これ、言わない方が良かった 忘れてくれ」
「…いえ」
「…ちなみにだ、男の手料理なんてたかが知れてる
まずかったら素直に言ってくれ らいはにこっそりでもいいからよ」
「とんでもありません
いつも美味しくいただいております」
「ん? いつも? そんな頻繁にか?」
「あっ…
その…はい、息子さんの貴重なお時間を頂いてしまい恐縮ですが」
「お、おお…
マジであいつ、母さん似か…?」
口が軽い父親の暴露に零奈は、今までの教え子が渡したお弁当を思い出して思考が浮つくのを感じた。
嬉しい。けれど知ってはいけないことを男の子の秘密を知ってしまったような。そもそも受験時の教え子に、男性にお弁当を作らせている己を恥入るべきか。
…無性に彼に会いたくなる欲求が湧く。この感情の善悪を問うにはあまりにも弱く脆いもの。零奈は墓地の委縮された空気に晒してすぐさま冷ました。
しかし気持ちよりも体は反応が早かった。炎天下で滲む暑さとは違う熱を誤魔化して、零奈はハンカチを取り出して額の汗を拭う。
「む~っ!」
「え、急にどうしたの三玖ちゃん」
「お母さん…フータローのお弁当ずるい
お仕事でも毎日会ってるのもずるい、怪しい…」
「そうですよ、お母さんも酷いです!
私も上杉君のご飯食べたいです!」
「よく言うわ、五月だって上杉のご飯よく食べてるじゃん」
「もう、五月は我儘なんだから
上杉さんがうちに来てくれる日はお昼作ってくれてるのにさ」
「そうめんばっかりでした!!」
「…とか言いながら、五月ちゃんはそうめんいっぱい食べる癖に
ほら三玖も、お母さん大変なんだからフータロー君が手伝うのはわかってたでしょ」
「夏休みはダメ、フータローは私の特訓があるんだよ」
「特訓? あー 二学期は男子に仕返しするやつ?
というかさ、リっちゃんまで巻き込んで何やってんのさ」
「ふん、お爺ちゃん家でずっと
フータローに会いたいぃ…帰りたいぃ…竹林のお姉ちゃんに盗られちゃうぅ…
って半べそかいてた弱虫には無理でしょ、どうせリっちゃんの背中に隠れるのが精いっぱいよ」
「無理じゃないもん、頑張るもん」
幼稚園から小学生へ。順調に知識の階段を上がる五つ子たちの抱える問題の難易度もレベルアップ、内容も変わっていく。
今まで見てきた何気ない時間、その見方や感じ方も次第に変わる。気になる人が相手なら必然とその視線は複雑になる。
その変化の一つがこの墓参りであって、三玖が抱える虐めの問題でもあり、年齢差のある片思いでもあり。
四葉や二乃もまた、風太郎を通じて知り合った陸上部や武田から何かしらの変化がある。五つ子は良くも悪くも純粋だから。
「…さ…お墓参りはおしまい
お昼は一緒に食べるんだよね、何食べたい?」
「カレー! カレー食べたいです!」
「こんな暑いのにカレーはやだよー」
「じゃあ一花は何がいいんですか」
「…うーん…そうめんでいいかも、あっついし…」
「あんた食べるの面倒くさいだけでしょ…」
「絶対に嫌です! お姉ちゃん、もっと美味しいのにしようよ、ね?」
「でもお祖父ちゃん家で美味しいの食べてきたんでしょ?
今日は我慢する日にしよっか 贅沢は敵だってこと思い出さないと」
「ふぇええええ! せ、せっかくご飯一緒なのに…!
おかさぁああん!!」
「…考え物ね」
「何言ってんだ零奈さんよ、こういうめでたい日は美味いもん食って楽しむもんだ!
焼肉いくぞおまえら! フータローいねえから一人分安いしな!」
「フータローかわいそう…」
コップに注いだお供えのお酒を砂利に捨て、お墓参りのムードからいつもの賑やかでうるさい日常へ。
夏休みはもう半分を過ぎている。
残りは半月ほど。故人を思い返すように、この夏もまた思い出となり、いつか思い出すその日まで朧となり消える。
未来から見ればとても儚い存在だ。贅沢と貧困には罪悪感を押しつけ、虚無は忘却となり消えてしまい、幸福は切望に似た後悔に変わるかもしれない。
しかし当時の人間にはそんな意識はなく。その日を感情のままに生きるのだ。
後悔とは過去を指を差し、未来から無責任に決めつけてくるのだ。
墓地とは打って変わって人で賑わう場所で、見苦しくもその日その時の感情をぶつける者がいた。
冷房が強すぎるのでは。空調機が何かの熱を探知してゴーゴーと冷風が爆音なのはなぜだろうか。
ケーキ屋のテーブルを挟んで睨む二人を傍目に、風太郎は不干渉を貫こうと棒立ちしていた。
「お昼の13時前に空席のテーブルが7つ
悪質な商売をしているケーキ屋にしては、些か効果が薄いのでは?
何かが足を引っ張っているのかと邪推してしまいますね
そう…普段の店長の振る舞いだとか」
「ははは!! ケーキ屋のピークは昼過ぎから夕方でーす!
普通ね、向かいの店のリサーチは店長として店の存続に欠かせない生命線だとボクは思っているんだがね?
もしやご存知なかった?、それともこの店があまりにも人気が高くお客を取られているもんだから
自分の店の将来が不安で、対策する気が失せてしまったかー!?」
「フータロー、アイスコーヒー3つね、ミルクと砂糖入りで」
店長、そういうところですよ、足引っ張ってるところ。バイト先の店長の暴走っぷりにげんなりしつつ珍妙な客のオーダーを受けた。
母の墓参りを断りバイトに出向いた今日この日は、バイト以外に用事があり外せなかったのだ。決して逃げたわけじゃねえ。
パン屋の店長さん、そしてその店でバイトをしている幼馴染の竹林が客として来ている。商売敵の来訪に衝突は免れるわけがなく卓上で火花が散っている。
早急に鎮火すべく冷たいアイスコーヒーを用意して運ぶ。でも一切口につけてくれず口論が激化しそう。
この店の主は来訪者にアウェイ感をぶつけようとふんぞり返っている。こういうところだぞ、店長。普通にお客様見てるからな。
「店長さん、今日は喧嘩しに来たわけじゃないよ
パン屋だってほら見て、この暑い中長蛇の行列
売り切れたら完売って通知してるから競争になってますよ
このケーキ屋とは大違い、わざわざ嫌味言う必要ないですってば」
「…そうだったね、竹林さん
現実を直視すれば勝っているのは一目瞭然
ここの空席は私が盗ったのも当然なのだから、指摘するなんて嫌味でしかないか」
「おい、焚きつけてくるんじゃねえよ、穏便に済ませようって気ねーのか」
「事実言ってるだけだよ」
「ありのまま言えば良いってもんじゃねえよ
店長、後もうすぐで着くらしいんで、このへんにしといてください」
「ぐぎぎぎ…何が行列だ、軽率な奴らだ
どうせいつぞやの激安セールが尾を引いてるだけだ
数日後には閑古鳥で咽び泣くといい」
ダメだこりゃ、春からパン屋ができてから、互いが互いを突き落とそうとした関係だったのだ。対面すればこうもなる。
ケーキ屋の店長とその向かいでパン屋を経営する店長。その二人がこのケーキ屋にて初顔合わせを果たした。
まぁ…対面してなかっただけでバチバチに争ってたわけだけどな。なぜこの二人を突き合わせたのだ、混ぜるな危険である。
いったい誰が好んでこの二人を呼び出すだろうか。事の元凶を問い質したいが犯人は未だ現れず。待ちきれないので入り口前の窓を確認しに行こう。
ちょうど足を運んだところでカランカランとドアベルが鳴る。7つの空席が一つ埋まるかと思えば、念願の待ち人が現れた。
「こんにちは、風太郎君
もう待たせてしまってる?」
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「…ウェイター姿、とても良いじゃない」
「…はい?」
「目立ったところがないオーソドックスな男子っていうか、清楚なのが表に出て良いよね
アルバイトの高校生男子って期間限定だし、希少価値高いのよ
ちょっと写真撮っていい? 紹介するのに使えそうだから」
「不穏な意図しか感じられない
約束の二人はもう来ていますよ、早く行かないと収拾がつかなくなる」
「あら、向かいのパン屋の行列見たけど…店長さん離れていいの?
都合良くこっちはそう混んでないようだし、席が空いてそうだから待たせてもらおうかと」
「それ以上はケーキ屋出禁になりますよ、後輩さん」
「えっ?」
この人も相手すると疲れそうだな。あんたのせいで俺はあの女教師に心臓潰されかけたんだぞ。
待ち人は以前、お袋が持つレシピで揉めた女。お袋と一緒にパン作りを極めた件の後輩さん。
お高いスーツやら香水から、金持ちの女ってイメージが強い人だ。実際に金持ちで、高校生に貢ごうとしてきた危ない大人である。
ちなみにきっちりちゃんと、胸元のポケットにねじ込まれた諭吉は返してある。はっきりお断りしているのに頑なに勧誘してくる人で困る。
迂闊な事言い触らされると俺のバイトに致命傷を食らいかねないので、とっとと指定の席へ案内した。
「…」
「…」
「…隣、よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ
飲み物はご自由にお選びください
よろしければケーキも、セットですと安くなりますよ」
「ありがとう
風太郎君、君にも参加してほしいから飲み物選んで
私が出すから」
「お構いなく、自分は立ってますので」
後輩さんの登場に竹林とパン屋の店長さんは冷めた顔して無反応。顔見知りなのに…女子こえー
出会いが最悪だったから当然か。一方でこの会合の場の主であるケーキ屋の店長はメニューを手渡した。
パン屋相手には何も渡さなかったよね。後輩さん何もしてないのに対面に睨まれることになってるんですけど。こればかりは可哀想だ。
「ケーキ屋とパン屋、そして近所に新しくオープン予定のベーカリーの店長
商売敵のトライアングラーができあがってるわけだけど…どういう集まりなの、これ」
「私が風太郎君にお願いし、ここに集めてもらったわ
今日の会合は私からの宣戦布告…ではなく
ご挨拶も兼ねて、先日のお詫びと思い出話を尋ねたくてね」
「お詫び…?」
「思い出話…? 何の事だい?
君と一波乱あったそこのパン屋はともかく、僕は完全に初対面だ」
「もしかして、また風太郎のお母さんの話ですか?」
「そうだけど…あなたは…? 確かあのパン屋の店員だったかしら」
「すみません、こいつ…竹林はおまけですので気にしないでください」
店長二人が警戒している理由、超が付くほど手強い競争相手が生まれることを恐れており、その店主がこの女性だからだ。
金もあるし実績もハンパない。パンを焼く腕もプロのそれで、裏方と現場を両立させる器用さもある。マジで手強い相手だ。
突然の招待に腹の内を探られないよう身構えている二人に、後輩さんは緊張を解そうと事情を説明。
しかしケーキ屋はともかく、パン屋とは一度揉め事を起こしている。竹林が口を挟みやがって、お詫びは穏やかに進みそうにない。
その日は売りに出しているパンを全て買い取って事なきを得たはず。アフターフォローを欠かさないのは丁寧と言えるが…ついでにしか感じられない。
「ふーん、私はおまけですか
三玖ちゃんの特訓を引き継いだ恩を仇で返すんだ? ふーん」
「上杉君、竹林さんは君を案じて参加してくれてるんだよ?
その言い草はいただけないなー」
「い、いや…とっとと帰らせて混んでるパン屋で働かせましょうよ…実質サボリですよ」
「大丈夫、ちゃんとこの時間は時給換算しないから」
「嘘っ!?」
「はぁ、見るに堪えないよ
店長が悠々と遊び呆けてるくせに、アルバイターをこき使おうなど虫唾が走る!」
「ケーキ屋の店長さん!
働いてないで突っ立ってるだけのウェイターにお給料なんて不要ですよ!」
「誰が持ってきたと思ってんだ、そのアイスコーヒー」
「話が脱線した分、どんどんお給料が減っていくわよ学生さんたち」
女子高生一人いるだけで喧しくなるじゃねえか、竹林には基本黙っていてもらわねば話が進まない。
俺も竹林も給料カットは困るので口を閉ざす。若者が従順に従う様を見て後輩さんは満足気だった。
後輩さんのアイスコーヒーを用意し、道中厳しい日差しの下を歩いてきたお客様は一口含む。ようやく本題に移れる。
「今日お聞きしたいことは1点
お二人はライバル店同士、牽制し合っているようだけど…
どうやら飲食店の経営者以外に、共通点があるようなの」
共通点と聞いて露骨に嫌そうな顔をするご両人。溝が深すぎるだろ。何で学生の俺らがフォローに入らないといけないのか。
招いておきながら意に介さずに後輩さんは涼しい顔して続ける。
「聞けば、私の先輩であり…風太郎君の母が経営していた喫茶店
うえすぎ…をあなたたちは知っていると聞きました」
「え、ええ…私が今の店を開いたきっかけですし」
「まぁ…人気だったからね、あの店は
生憎と僕は行ったことないけどね
で、それが何だって言うんだい?」
「行ったことなかったのね、それは残念です
クロワッサン、あれを食べた感想を聞きたかったのですが」
俺はこの場における目的を事前に聞いていなかった。パンの感想を尋ねられて疑問視する三人と違い、内心驚き戸惑っていた。
クロワッサンはお袋がよく焼いていたパンだ。そして、後輩さんが求めていたレシピに書かれていたのもクロワッサン。
先日、亡きお袋の代わりにこの人が思い出のパンを焼いてくれたんだ。プロの肩書を背負って、レシピ通りに忠実に再現してくれた。
しかし期待していたものとは違い、全くの別物が完成して困惑する結果に終わってしまったのだ。
「クロワッサンね…家族や友人が食べたのは話に聞いたよ
スーパーや学校の既製品とは違う上品な香り、とかありきたりな感想だったかな」
「ふふ、それはそれは残念ですね
飲食店を経営するのなら一度は食べておくべきでしたね」
「そこまで言う程の代物?」
「うえすぎのクロワッサンは人気の商品で、今まで食べたことのない食感でした
外はパリッと、中は柔らかくも、ふっくらしすぎず硬すぎることもなく
すぐ売り切れちゃって、店内で焼き立てを待つ常連だらけで競争率高かったんですから」
「流石はパン屋の店長、細部に渡って覚えているようね」
パン屋の店長さんの熱弁に俺も店長も口を挟めなかった。思い入れのある食べ物を貶せるわけがない。
貴重な情報源を発見して後輩さんも機嫌良さそうだ。お互い商売敵だろ、素直に感想教えてもらえると思ってるのかね。
「随分と詳しく覚えてるね
もはやとうの昔…かれこれ十年以上前だろ?」
「…そちらも言伝とはいえ知ってたんですね、うえすぎのこと
あの店は私が店を持つきっかけになった思い出の場所なんです、覚えて当然だから」
「…あの店をきっかけに、か
まぁ気持ちはわからなくもないかな
本当に人気の店だった、当時はこのあたりに良いお店は少なかったからね
周りが既に店を立てて賑わっている、下準備が整った環境下にいる今の僕よりも、相当苦労されていたんだろう」
「そうですよ、店を開いた今ならその大変さが嫌になるくらい分かったもの
毎日の業務とお店の管理で苦労ばかり、あんな風に笑える接客は到底無理かな
…亡くなられたことを知ったのはほんと…つい最近」
「…そこは…まぁ、同じく」
故人が話題の中心人物となれば、いくらいがみ合っている二人でも喧嘩腰にはなれない。程よく抑え込まれているようだ。
憧れの店主を褒め称えられたことにパン屋の店長さんも悪い気はしないようで、ケーキ屋の店長を見る目がほんの少し柔らかくなった気がする。
思い出話にシフトするのは良いが、肝心の目的はこれからである。話を戻すべく後輩さんに再度話を振る。
「それで、うちのお袋が焼いたクロワッサンが何だって言うんですか」
「情報が欲しいのよ、その思い出のクロワッサンの味とか食感など」
「まさか…うえすぎのパンを焼くつもりですか?」
「レシピを手に入れたの、ここにいる彼のお陰で」
「…風太郎」
「心配いらねえよ、円満に話は解決してる
うちも記念にレシピのコピー貰ってるしよ
何ならつい先日、この人が焼いてくれて食べたんだぜ」
「それならいいけど
…って、あれ? レシピあるのに情報ないってどういうこと?
一回は作ったの?」
レシピが残っていたことにパン屋組は驚き、竹林が至ってシンプルな疑問をぶつける。
当然だよな、レシピという情報の塊、設計書となるものが残っているのにそれ以上に何が欲しいと言うのか。
パン屋のアルバイターの質問に、後輩さんは頬に手を当てて…露骨に手の施しようがなく困ってますアピールをする。
それを見てなぜ俺が心痛めないといけないのか…お袋、あんたが死んだ後にこれほどにこんがらがった問題が発生しちまってるぞ。
「私が持っているのは完成形ではなかったの
本当のレシピは彼女の頭の中にしかない
困ったことに、あそこの店長さんはレシピ通りに品を作らない困ったシェフだったのよ」
「…」
「…」
「…ねぇ、さっきまで純朴そうに思い出に耽ってた店長二人が顔伏せ始めたんだけど」
「そりゃあレシピ残さず引継ぎしない料理人なんて問題児でしかないだろ
味が変わるどころか原型すら引き継げないぞ」
現役の料理人が何か気まずい顔してるが知らん。学生のアルバイターには縁遠い話でしかない。
「せ、センスで作る時だってあるからね
…それを数値化するのが大変なんだけど…」
「ノリで作って、どう作ったか思い出せず再現できないことは極たまにあるよ…」
「こういう状況で手詰まりだったもので
店を知るお二人に聞いてみたかったのよ」
「はぁ…事情はわかったが
話すわけないだろう」
お袋が怠慢で怠け者なのか果たしてわからないが、お袋の置き土産から始まった今回の会合は良い進展が伺えたと言える。
有力者が見つかったことで、その目的が達成できるかと思いきやケーキ屋の店長が拒否した。
話を聞きたいのは実際に食べた体験を持つパン屋の店長さんなのに。しかし拒否するその目は随分と険しかった。
「おたくはもうじき店を開く、それも都内で既に実績を上げた超人気店だ
僕の店を始め、ここいらの商店街の客をかっぱらうのは目に見えている
むざむざ自分の首を絞めるようなマネをするわけないだろう、商売敵の君に」
「それは私も同意見です
勿論、負けるつもりはないけれど
大切なお店だからこそ、悪用するような真似は許せません」
「快く思われてないのは承知の上で誘ってみたけれど…まぁいいわ
ここからは所詮口約束でしかない…でも、どうか信じてほしい
このレシピ、うえすぎのパンは決して商用利用しない、私的利用に留めると誓うわ」
「…いいんですか、そんなこと言って」
「構わないよ、風太郎君
だってこれは私の先生が、教え子の夢の成就の為に送った直筆のレシピ
私は先生と彼女の思い出を残す為、先生の痕跡を残す為に回収しただけ
私がこれ以上手出しすべきものじゃない」
自分の店には決して出さない、門外不出で身内だけに留めると後輩さんは宣言した。
その意向が読めずにさらに警戒するお二人だったが、後輩さんは信じてもらおうとは思っていないようだ。
所詮口約束、いつでも反故にできる。その上でさらに続ける。なんとも熱心な人だと思う。
「いかがかしら
何かお礼ができるわけじゃないけれど、思い出のパンを食べれるかもしれない
それで良ければ、試作品を食べて感想を教えてくれないかしら」
「ふむ…興味はあるが考えさせてくれ
僕もそう暇ではないのでね、試作品なら僕も時間が迫られている」
「私もこの場で答えるのは避けたいです
レシピが不完全であるのなら、私の手で焼いてみたい欲があるし
その一方で…既に故人で、もうあのお店がないのなら…
思い出として終わるべきだという気持ちもありますから」
「…わかったわ、気持ちが決まったら教えてちょうだい
今日はありがとうございました」
…俺との交渉の時はしつこく食い下がってきたのに。レシピ以外はだいぶドライだなこの人。
ちょうどコーヒーを飲み終えた後輩さんは伝票を手にレジへ。他の三人分の料金も負担するらしい。招いた側の最低限の礼儀か。
俺がレジへ向かおうとすると後輩さんは俺の胸元を指で押しやってきた。まさかまた札をねじ込まれたか。
そう思って胸元を確認すると空のまま。後輩さんは苦笑して手をヒラヒラと振って去っていった。弄ばれた…うぜぇ。
レジは他の店員をご指名のようで、ここでお別れにしようとのことだ。
「…ちっ 勝手な人だな
店長すみません、ちょっと話をしに行っても」
「…いいよ
もう畳んだ店とはいえ、終わりにするのならきっちり話をつけておくべきだよ
いってらっしゃい」
このまま何もせず、ただ施しを受けたまま終わるのは落ち着かない。
店の経営のトラブルに何かしら思うものがあったのだろうか、店長から快く承諾をいただいて外へ出た。
冷房が効いた室内とは違うじっとりとした熱気が顔に当たった。
「待ってくれ!」
「…こんな暑いんだからダメじゃない、汗でシャツが濡れたら接客できないでしょ?」
「手早く済む
何であんた、ここまでするんだ」
クソ暑い中でも構わず黒いスーツを羽織る後輩さんに制止を呼び掛ける。
中野先生だとなぜか涼しい顔して汗など一切かかないのだが…彼女は当然、熱さに自然な反応を見せて額に汗が滲んでいる。
この人、俺に何も言わないで一人で動いていたんだ。誰も頼んでいないはずなのに。
レシピを返して、その礼がてらお袋のパンを焼いてくれた。それで終わりだと思っていたのに。
自分の知らないところで、自分に携わる事に手をつけられると非常に落ち着かない。特に年上の女が相手だと妙に余裕を失ってしまう。
「私が君たちの為に完全なパンを焼こうとしている、そう思ったの?」
「え、違うのか?」
「違うわよ、まったく違う
これは私の料理人としての…ポリシーね」
温情で最後まで世話を焼こうとしている、そう思い込んでいた…が、違うときっぱり否定された。
亡き恩師の為にレシピを大金はたいて回収しようとした人だ。独占欲の強さは狂人のそれだから、てっきり勘違いしてしまった。
不可解だと訝しむ俺に後輩さんは苦笑い。何か見透かされているようで落ち着かない。
「残念そうな顔だった」
「?」
「あの日、私が君のお母さんのパンを焼いた日
娘のらいはちゃんは喜んでくれた、でも君と父親は違った
解せない、違和感がある、美味しくない
そんな表情だった」
「そ、それは…申し訳ないことした、決して他意はない」
「いいのよ、それが正直な反応だったわけでしょ
そもそも事の原因は君のお母さん、中途半端にしたまま終わらせておいて
善意で焼いただけの私のせいにされては腹が立つだけだわ
まったく、店の人気商品ならちゃんと残しておきなさいよ」
「…」
「…あれで終わっていいわけないでしょう?
亡くなってしまったお母さんの思い出の食べ物なんだからさ」
一歩、一歩とこちらに歩み寄ってくる。カツン、とヒールの音が響く。
経験則から、その音を聞けば自然とあの鬼教師を思い浮かべる。しかし今目の前にいるのは全く別の大人の女性。
先生よりも年上の、母親と同じくらいの年齢の人。そんな人から思いやりのような瞳を向けられると…
…どっちを連想すればいいのかわからなかった。先生か…お袋か。乏しい記憶が憎かった。
「恩返しは死んだ後も続く、君はそう言った
家族愛もまた同じだと私は思う
死んだ後でも残ってくれるものがちゃんとある」
「それがパンだと言いたいのですか」
「ええ、料理だって同じよ
お母さんが亡くなっても家庭の味は残る、良いものは子に引き継がれていく
…今しかないんじゃないかしら、お母さんの味を思い出すのは
ここで諦めたら、君たち家族は一生取り戻せないかもしれないわよ」
「…こちとらろくな礼できないぞ」
「期待してないからいい
とはいえ、私は食べたことないから正直お手上げなのよ
一番の近道はやっぱり、朧気とはいえ何度も味わって経験している家族の手で作ること
パン作り、興味ない?」
「…俺は作りませんよ」
「あら、何でそう言い切ってしまえるの?」
考えたこともない。無理だ。それだけはわかる。
不明瞭な決めつけだと分かっても無理だと思い込んでしまう。
子供ながらあのパンは美味しいとわかっている。俺は大して料理上手でもないし、金のかかるものは避けたい。
親父も望んでいないだろう。以前、葛湯を一花に披露した話をしてパンをねだられたことがあったが…本心じゃねえだろ。
それに
「…」
この人がパンを焼いて、美味しそうに焼き上がった時、期待と不安があった。
食べてみて、失敗したとわかった時。
俺は、あの時
「…そこまで時間を割く代物じゃない」
「身も蓋もないじゃない、他人である私がこんなにも時間を割いているのに」
「客観的に見れば、たかがパンだぞ」
「ベーカリーの店長にそんなこと言うなんて酷い子ね、それもあの人の息子が
君は自分の家の下の…あのお店で
母親が一生懸命に働くところを見ていたのでしょう?
それを見ても、君は価値がないと言ってしまうの?」
「…」
あの時、パンを食べた親父の何とも言えない顔を見て、失敗したパンを食べて。
俺が焼かなくて本当に良かったと、そう思っちまった。
浅はかな挑戦をしないで良かった、無謀なことを言葉にして期待させるようなことしなくて…俺の判断は正しかったと安心したんだ。
この人は俺たちの為に焼いてくれたのに。
「…でも…君の話を踏まえると
もしかしたらだけど…あの人もそう思ったのかもしれないわね」
「何が?」
「だって、レシピを残さなかったでしょ?
君には継がせる気がなかったってことよ
事故死とはいえ、レシピを残す時間は十分にあったはず」
「…そういうもんか」
…そりゃあ、継がせるつもりなら引継ぎに必要なレシピは逐一更新していたかもな。
わかりきったことを言い当てられたからって、何をムキになる必要がある。
ちょっとお袋の話をしただけで、何でそう言われなくちゃいけないんだ。
でもこれは子供っぽい反抗で。
意味不明、理解不能、根拠も正当性もない感情が停止する。
口を動かして、同調するのが限界だった。何も考えず、今自分が求める言葉で繋げる。
「…確かにそうなるよな…
悪ガキだったからな、店の将来を託すなんてさぞ不安だったろうよ
今のらいはの顔見れば、考えを改めるかもしれないけどな」
「…
とにかく、しばらくは研究するつもり
完成した時には、意地悪しないで君にも食べさせてあげるから
もう暗い顔なんてしちゃダメよ」
「そういうことなら任せますよ
どうぞお好きに」
嫌らしい返事だと我ながら思う。先日あれだけ期待した挙句に何癖をつけておいて…しかしこれが精いっぱいだ。
本音を言えば、もう放っておいてもらいたいくらいだ。もうレシピを渡したんだから…関わらないでもらいたい。
店主無き店の後片づけは、親父がすると豪語しているんだ。とっとと親父も動いてほしい。
しかしレシピを返した今、外野から突かれることもない。もう急ぐ必要はない。
どの道俺には無関係。俺の前で不必要に過去の遺物のスケジュールなど発信する必要性はないのだ。
きっと俺が大学に通って家を出た後…いつの間にか何かが変わっているのだろう。俺はただ受け入れるだけだ。
「…はぁ」
後輩さんが去って、幾分か間ができてしまった。視界の奥にはまだ黒いスーツを着た彼女が歩いていく。
責務を動力に動ける大人だ。くよくよして動けないでいる自分とは違う、求められる人間とそうでない人間の確たる差だった。
これほど気落ちしているのはなぜか。考えればすぐにわかる。これまで何度か考えて、同じ答えに行きついている。
理由はわかっても認めたくないんだ。思考を放棄して、お袋ではない、別の誰かに求められる人間の思考に戻したい。
故人を思っても何もならないから。
「そうだよな…そりゃそうだ
俺…困らせてばかりの…クソガキだったしな
親とは言え、自分の夢の跡継ぎなんてさせねえよ
そんな大切なもの、求めねえよな」
つぎはぎの理知的な思考が不通になっているのか、口からは情けない未練が零れている。
うだうだと悩む己の卑屈さが嫌になるぜ。去年…嫌になるほど思い知った失敗じゃねえか。
先生と関係を絶とうとして、未練がましく中途半端な態度を取って…結局恥をかいて泣きついた。
繰り返してはいけない。この件は後輩さんに任せて忘れてしまおう。今は三玖や五つ子たちの学力、自分自身の受験に専念しよう。
そう念じて…汗を拭いながらケーキ屋に戻った。
「あ、風太郎、ようやく帰ってきた」
「あ? どうした? つーか帰れよ竹林」
「パン屋の店員だと知られてから、露骨にサービス悪いなーこのお店
…風太郎、何かあった?」
「…別に、ただ暑さに滅入っただけだ
それより店長さんは先戻ったんだろ? おまえは残ってまで何してたんだ」
これまた厄介な奴が残っていた。幼馴染の竹林は何かとこちらの心中を言い当ててくる勘の良い奴だからな。今は避けたい相手だ。
何と言われても、ほんの少し考え事をしていただけだ。お袋の話題なだけあって、いくら世話焼きの竹林でも言及はしてこなかった。
それよりも至極まともな疑問をぶつけると返って怯むかのような、普段の勢いが消えて俯いていった。
「…? おい?」
「…相談というか…風太郎はさ
もしかして今…結構忙しかったりするかな」
「ほどほどにな、俺たち受験生だぞ」
「勉強、楽勝そうじゃん、模試全国一位だし」
「受験勉強だけじゃねえよ、五つ子の家庭教師だってあるんだ」
「例えば? 一つ一つ述べてみなさい」
「…五つ子の家庭教師だろ
この夏休みは三玖の虐めの件もあって、これが最優先事項だ
、さらに今年は、中野家の自前の畑の管理も手伝わないといけねえ
月末にヒーローショーのイベント用にケーキ作るとか言って店長張り切ってて忙しくなる」
「ふーん…三玖ちゃんの特訓は私も手伝うよ」
「…まぁ、後はあれだ…中野先生の手伝いもあるし」
「…そっか
うん、中野先生も大変だもんね…」
これでも毎日予定がある。逆に暇があれば五つ子の家庭教師と三玖の特訓をしたいくらいだ。
俺の詰め込み過ぎるスケジュールを知った竹林は、こちらとしばし目が合わせて…謎の攻防の後に背中を向けた。
根負けした…というよりも、気を遣って諦めたような素振りだ。いつもの生意気な雰囲気が一切なかった。
「ふーん、じゃあ何でもない
暇なら遊んであげよっかなって思ってたけど安心した」
「は? 何だよ、またいらぬお節介焼きやがって」
「あはは、私は風太郎のお姉さんなわけだし
五つ子ちゃんたち実家から戻ってきたんでしょ? 久々に会ってあげなよ
それじゃまたね、バイバイ
中野先生のこと、これから支えてあげてね」
「…」
…何なんだ、あいつ。
らしくない、そう思い問い質したかった…が、竹林はそそくさとドアを開けて向かいのパン屋へ行ってしまった。
「何かあったのか、あいつ」
あの目はいつか見たな。竹林が転校してきた初日、クラスメイトに囲まれながら俺に助けを求めたあの目。
何か言いたくても言えなかった。助けを求めようにも返って迷惑になるから黙るしかない。
図々しいようでずっと気を遣っていて…自然と優しく振舞う。それが竹林だ。
俺が好きになったところで、一日で嫌いになったところ。
俺ではなく真田に向けられていることを知って冷めたもの。内心では貧乏人を勘違いさせんじゃねえと逆恨みもした。
だから気に留めなかった。何も言わないのなら勝手にしろ、と。
自分が傷つくと分かっていたからあえて言わなかった。
明日も似たような日が続くために、それが最善だとわかっていたから。
いつかどこかで、後悔が後にやってくると知りながらも。俺は続けていく。
一度傷つけてしまった後、次に何度やっても同じ…何も変わることないのだから。
「竹林さん、聞いてるんでしょ!
娘を、私の娘を死に追いやって、何で笑っていられるのよ!?」
皆が笑って過ごせますように。
優しい世界でありますように。
今思えば、子供が虐めを受けていると知ってからの竹林は、他人である三玖を心の底から気にかけていた。
それはなぜか。その根源はどこからか。
持ち前のお節介焼きの性格か? もしくはあの時見せた泣きそうな顔からか?
わからない。知ろうとすらしなかったから。
「聞いてるの竹林さん!? 正直に話して償いなさいよ!
この人殺し!」
未来となった今から、初恋の女の子が指を指されている。
零れるほど…きつく手を握ったのは、いつぶりか。