五等分の園児   作:まんまる小生

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幼子との約束 涙は零れず

 気の重い会談を終えた後、灰色の空を眺めていた。

 

 実家に顔を出そうかと思っていたら、懐かしい風景につい足を止めてしまっていた。

 

 中野家のアパートはリフォームなどしていないのだろう、あの頃のまま変わっていない。

 

 外で遊ぼう、そうせがむ四葉に振り回された思い出が多い。あの五つ子がいるだけで騒がしいアパートだったな。

 

 雨の中、傘を差して空を眺めている。

 

 二人並んで。お隣さんは、俺が懐かしんでいる横で目を伏せてしまっている。

 

 

 

「…言いたいことがあるなら遠慮しなくていいぞ、三玖」

 

「…うん」

 

 

 

 お互いに傘を差して突っ立っているだけなのに、この子はずっと横に居続けている。

 

 昔は母から買ってもらったヘッドホンを首にかけていた子だった。それも今ではやめたのだろう。あの時の物はなかった。

 

 二乃に咎められ、逃げ出すように外を出ると一度閉じたドアが再び開いたのだ。

 

 開けたのは三玖だった。あの空間の中で、比較的言葉も視線も交わすことが少なかった相手からの歩み寄りだった。

 

 かと思いきや、開かれた隙間から見られるだけで…しばらくして閉じられた。何がしたいんだと思いつつ、思い出のある建物を眺めていた。

 

 そしてもう一度ドアが開き、今度は傘を差して隣に寄ってきた。それから無言が続いていた。

 

 まだ幼稚園だった頃、特別慕ってくれた子だったが、二乃のように俺を憎み糾弾するだろうか。

 

 暴言や責め苦を覚悟してここに来たのだが、三玖から言われたら…たぶん露骨に落ち込むぞ。

 

 子供の頃とはいえ熱心に告白までしてくれた子だ。もう使ってはないがあの頃作った栞は大事に置いているんだ。

 

 これを知られたら気色悪いと思われそうだな。捨てられんが絶対に知られないようにしよう。

 

 だが、そもそもの話。怒られるほどの意識があると思うのも自意識過剰かもしれない。

 

 こちらから聞くか、黙っているべきか、悩んだまま時間が過ぎるだけ。

 

 流石にもう帰ろうと思い、沈黙を断ち切るべく声を投げかけたのだ。

 

 

 

「会いたいって、思ってた」

 

「そうか

 まだ覚えてくれたんだな」

 

「…

 でも今は、言いたかったことが思い浮かばない

 お母さんのことばかりで」

 

 

 

 三玖は少し笑って、ふと我に返ったかのように顔を逸らした。

 

 涙を堪えられないのか、三玖は篭もった吐息を吐いた。

 

 実母が亡くなってまだ一週間も経っていない。心の整理はまだ終えていないんだ。

 

 焦って話す必要などない。また会えるんだから。

 

 この子なりに気を利かせてくれたんだろう。ありがたいが自分のことだけを見ていいんだ。

 

 

 

「いつでも話せる」

 

「…」

 

「…三玖?」

 

「…そう、思ってたんだけどね…っ

 お母さん…」

 

「…」

 

「もう、いないんだ…っ

 いつも、話せると思ってた…でも

 もう、話せないんだね…」

 

 

 

 泣かせてしまった。肩を震わせて言葉を紡いでくれた三玖は静かに泣いている。

 

 五月も、二乃もそうだった。やはり慰めてやりたい気持ちはある。上げた手が宙をさ迷ってしまう。

 

 判断が難しい。あの頃と同じ子供に対する気持ちでは失礼だろう。昔なら撫でるぐらいできたが…

 

 優しく、さり気なく女の涙に寄り添える男ではない。悔しいが不出来な大人だと自覚している身だ。

 

 こういった状況に慣れていないわけではないのだが、今は立場が違う。

 

 結局、隣にいてやることしかできなかった。

 

 嗚咽は雨の音に混じり続ける。

 

 泣いていた五月も、二乃も、誰かに抱きしめられてその涙を止めた。今はその相手がいない。

 

 

 

「三玖、ここにいたっ

 あ、上杉さんも」

 

「…悪い」

 

「え? あ、はいっ

 三玖、一人で泣いちゃ駄目だってば

 …昔みたいに上杉さんに甘えちゃった?」

 

「そ、そういうんじゃ…」

 

 

 

 家から消えた三玖を探しにきたのか、玄関のドアが開いて四葉が駆けつけてきた。

 

 泣いている三玖を見て、四葉は傘を差さずに雨の下に飛び出て慰めてくれた。

 

 抱きつかれて慌てる三玖に代わって、二人が濡れないように俺は傘を向ける。

 

 昔のように隠れて慰めてもらっていたのか、と問われた三玖は恥じらい、四葉は笑った。

 

 その笑顔に三玖は目を細め、俺もそんな明るいものを目にして安堵した。

 

 

 

「えっと…上杉さん、お久しぶりですね」

 

「ああ…幼稚園か小1の頃だったが、覚えてるのか」

 

「もちろんですよ

 私たち五人の、大好きなお兄さんでしたから

 でも、なんか色々怒らせたり、困らせてしまった記憶ばかりですね」

 

 

 

 顔がそっくりな五つ子が二人並ぶと目を疑ってしまう。

 

 三玖同様に、彼女がヘッドホンなら四葉は兎のような形をしたリボンを身につけていたな。それも今ではしていないようだ。高校生なら当然か。

 

 五月も星を模ったヘアピンをしていたっけ。五つ子を見分ける上で重要視していた物がない今は、日常的会話でも注意が必要だ。

 

 まあ、口調や雰囲気で少しずつ思い出してきたぜ。衰えてしまった十年以来の勘は有効なようだ。

 

 四葉は当時を振り返っては照れくさそうに笑って、俺と三玖の傘の下を渡ってこちらに寄ってきた。

 

 

 

「二乃は泣き止んだか?」

 

「…一応ですが」

 

「悪いな、迷惑かけて」

 

「い、いえいえいえっ!

 上杉さんが来てくれるなんて予想外で

 に、二乃は驚いちゃって、お母さんのこともあるから…

 ついあんなことしちゃったんですけど…ゆ、許してあげてくれませんか」

 

「…お願い」

 

「ああ、だが…二乃が拒否するのなら俺の提案は一度忘れてくれ

 五人で決まったら教えてくれ

 形は違っても、力になりたいと思っている」

 

「もう私たちに選ぶ余地なんて…」

 

「だよね

 個人的には、二乃を説得しても上杉さんにお願いしたいです…」

 

 

 

 二人は今抱えている将来の不安から、安直にも今手に入る安寧を選ぶ。この考えは子供扱いのそれか。

 

 五人で決める上で、仮にだが…二乃だけがNOを突きつけた状況になった場合、二乃の意見が孤立することになる。

 

 多数決にでもなって、二乃の反対が押し潰される流れになることを俺は避けたいし望んでいない。だが、やはりそうなってしまうのだろう。

 

 その場合、二乃個人から認められるべく行動する必要があるのだが…正直不安でしかない。臆しているわけではないが気が乗らないというか。

 

 単純な話、怒らせるだけだろう。

 

 あの子の性格を決めつけるつもりはないが、今日見て分かった。

 

 恐らく俺と相性が悪い子だ。仕事柄そう見えてしまうと一定の距離を置くべきだと認知してしまう。

 

 二乃と接する上で、この五つ子たちと接する上で、望ましい形は何なのか。

 

 それはこの子たちと関わってから決めるべきなんだ。事前に練ったこの提案が優先されるべきではない。

 

 この子たちの唯一の救いとなる、そう思い込ませるような形で提案したことは俺が意図してやったこと。

 

 そんな魂胆いずれバレるし、既に二乃には見抜かれていそうだ。

 

 やはり二乃と対立する事態は避けたい。本当に怒らせる未来しか思い浮かばないのだ。

 

 

 

「ならば、二乃の意見を聞いた上で説得するしかない

 あの子が俺を警戒することは、必然であり必要なことだ」

 

「…二乃は私が説得、します

 だから…上杉さん

 い、行かないでほしい…」

 

「三玖一人じゃないよ、私も…一花だって」

 

 

 

 妹である三玖と四葉が肩を持ってくれるらしい。しかし、あの様子だと二乃は身内に言われたとしても怯まないだろう。

 

 二人の助力があるかないかでは希望の持ちようが違う。お礼は言っておいた。

 

 …つーか、俺ってあの子が怖いのか…? 昔も尻に敷かれていたような。複雑だ。子供のくせに。

 

 怖いと言ったら怖いか。叩かれた胸の感触を思い出す。

 

 二乃から先生の話を聞かされるのはもう、避けたい。

 

 説得が成功するか、尚も反対されるのか。結果は後で教えてくれ、と四葉を三玖の傘に入らせて踵を返す。

 

 

 

「ちょっと待ってください」

 

「…おまえは…一花?

 お、おい、濡れるぞ」

 

 

 

 雨が降っているんだから大人しく部屋にいればいいってのに。

 

 背中にかけられた声に振り向く。長女までも家から出て走ってくるから、戻って傘を向けてやった。

 

 雨から逃れるべく、ぬかるんだ地面の上を走っていたせいもあって…寄りかかるように一花がぶつかってきた。

 

 急いでいたのは分かるがなんというか…ドジな奴め。

 

 吐息がかかるほどの距離を恥ずかしがって、慌てて離れた一花は佇まいを正して見上げてきた。

 

 一花が出てきたドアの向こうから、二乃と五月が揃ってこちらを見ていた。話は済んだのか。

 

 口元を引き締めて、一花は俺の後ろにいる二人に一度目を配った。

 

 

 

「確認するけど、三玖も四葉もそれでいいんだよね?」

 

「…うん、こんな千載一遇、手放したら絶対に後悔する」

 

「お母さんだって、安心するよね…

 凄く嬉しかったし、ね?」

 

「…」

 

 

 

 一花は最終確認を済ませて、背筋を伸ばした。

 

 どうやら決めたようだ。何日か待つつもりだったが、なんにせよ早いほうが助かる。

 

 見れば分かる。一花はこれまでも姉として妹を支えてきたんだろう。

 

 他人に、それも男に甘えなどしない。真剣な眼差しで向かい合おうとする子は頼もしい存在に見える。

 

 大きくなったな、一花。

 

 おまえが長女で良かった。そう思っているんじゃなかろうか、先生は。

 

 

 

「決めました、上杉さん

 二乃も、五月ちゃんとも、全員で選びました」

 

「ああ」

 

「…これからご迷惑になりますが、よろしくお願いします」

 

 

 

 傘の中でお互いに近い間隔だ。

 

 俺の傘から抜けて、後ろに下がった一花は雨に濡れながらも頭を下げた。

 

 頭を下げる時に見えてしまった。

 

 涙が滲んでも堪えていた。少しだけ、唇をきつく結んでいるのは見えていた。

 

 …母親がいない生活が始まる。受け入れた瞬間、だったのかもしれない。

 

 この子たちの今までの苦労は計り知れない。

 

 力尽きた母親の苦労も知らない。俺は見ていなかったのだから。

 

 母の代わりになると決めていたんじゃないか。長女の決意と将来を不安に思う恐怖は、きっと高校生の子供には辛く酷なものだ。

 

 少しでもいい。利用してくれいい。支えにしてくれ。甘えてくれ。

 

 肩代わりしよう。面倒事は大人に任せやがれ。大好きな母から継ぎたいものだけ持っていけ。

 

 傘を向けて、頭を下げる一花の濡れた髪をわしゃわしゃと乱してやった。

 

 

 

「風邪ひくぞ、お姉ちゃん」

 

「…は、い

 …

 う…ぅうっ…」

 

 

 

 頭を上げてほしいのに、上げてくれそうにない。

 

 一花は頭を下げたまま、さっきまで膝に添えていた両手で顔を覆っていた。

 

 しゃくり上げるように、飲み込めない嗚咽を上げて震えながら泣いている。

 

 子供が泣いているのに、小さくぽつぽつと降る雨は降り続いている。

 

 悲しみが消えたわけではない。それでも少しだけ、遮ることはできると思う。

 

 髪を乱して悪かったな。

 

 ただ整えてやるだけだ。それぐらいは許してほしい。

 

 少しでもその涙が早く止まるように。優しく髪に触れた。

 

 目の前で泣きじゃくる子が縋るように、恐る恐る上げた手でゆっくりと泣きついてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二乃、もうあんな真似しないでね

 上杉さんにこれ以上迷惑なんて、かけられないから」

 

「…分かってるわよ」

 

「…そういう態度もだからね

 上杉さんは許してくれるかもしれないけど、もう子供じゃないんだから」

 

「わ、わかったわよっ

 反省はしてるわ…

 でも、知らないまま良い顔されるのは絶対に嫌よ…」

 

「…」

 

 

 

 約束が果たされた。十年も前だというのにあの人は叶えてくれた。

 

 懐かしき人の来訪があった夜。今日見られた二乃の横行に一花が念入りに釘を刺している。

 

 一筋の希望が見えたというのに、家の中は変わらず、重たい雰囲気が消えていません。

 

 二乃の気持ちも痛いほど分かります。ですが誰も…悪くないはずです。そうありたいです。

 

 だから、二乃が上杉さんを責める光景を見て震える思いでした。

 

 一花も、三玖も、四葉も、私も。二乃を止められなかったのは上杉さんが黙って受けていたから。割り込むことは許されないような緊迫した光景でした。

 

 私たちを守ってくれる一花にとって、上杉さんの気が変わってしまうことが恐ろしかったのかもしれません。

 

 二乃に忠告して彼女の真意を聞くと、一花はばつの悪そうな顔をしていました。二乃がお母さんを思っていることは皆知っていますよ。

 

 それでも、上杉さんだけはいけませんよ…だって。

 

 

 

「二乃もちゃんと見てた」

 

「な、何よ」

 

「…お母さんの写真

 あの人がお母さんを嫌うはずなかった」

 

 

 

 三玖の言葉に、私たちは揃ってあの写真を見る。

 

 今年の春。高校の入学式に…母が体を壊して寝込んでいた日です。 

 

 入学式に行けるから、と母は頑なに譲らず…朝から騒がしくて、お母さんを止めるのに試行錯誤していた時でした。

 

 記念なら写真を撮ればいい。ただそれだけ。

 

 携帯を使って、私達五つ子とお母さんの写真を撮ったんです。

 

 お母さんはとうとう諦めてくれました。

 

 ですが…今を思えば、これを残してくれるためだったのでしょうか。もう分かっていたのかもしれません。

 

 写真なんて、嫌いです。

 

 私たちの写真はいい。

 

 でもお母さんの写真は…少しずつ痩せて、元気がなくなるお母さんの写真だけは苦手でした。

 

 大好きなお母さん。

 

 お母さんの写真を見た上杉さんの顔は…私も泣きそうなものでした。

 

 それは皆も、二乃も見ていたでしょう。

 

 泣いてほしかったと思うのは酷い考えです。でも私と同じなんですよね、と願わずにはいられませんでした。

 

 

 

「お母さん、会わせてあげたかったなぁ

 上杉さん、来てくれたのに」

 

「…そうだね

 会いたがってたもんね」

 

「助けてくれるの、とても嬉しいけど

 …や、やっぱり…ね…?

 どうしてなのかなぁ…

 何で、会えなかったんだろ…」

 

 

 

 お母さんの写真を手にすると、四葉まで泣いてしまった。

 

 私に泣いちゃ駄目だって言ってくれたのに、駄目ですよ。

 

 一花も、二乃も、三玖も同じように涙ぐんでいます。

 

 お爺ちゃんが来てくれて、上杉さんと出会って、お話して。

 

 少しだけ温かくなった空間も、また冷たくなってしまっています。

 

 正直、あの人には帰ってほしくありませんでした。

 

 二乃のこと言えませんね。私も、止めてでもお母さんのことを知ってほしいと思ってしまいました。

 

 悲しみが消えることなんてないんですね。

 

 ただ耐えるしかないのです。忘れることなんてできないのに、それを待つしかないから。

 

 できるのならあの時に戻りたい。

 

 

 

「上杉さんが来てくれたら、お母さんは…きっと嬉しくても怒るのでしょうね

 好きなのに、変なお母さん」

 

「五月ちゃん」

 

「布団から出て、急いで着替えて、またいつものお母さんになるんです

 病気なのに、絶対に知られないようにして

 上杉さんのお話に笑ったり、怒ったり」

 

「…やめよ? 五月」

 

「きっと…よくなります

 もしかしたら、入院を考え直すかもしれません

 上杉さんなら、私たちと違ってちゃんと言ってくれますから

 強引に引っ張ってくれるかもしれません」

 

「やめなさい、五月

 もう」

 

「…ごめん、五月

 私が変なこと言ったから」

 

「…

 ごめん、なさい」

 

 

 

 ありえたかもしれないお話は…虚しさを深めるだけだった。家族から咎められて口を閉ざす。

 

 こんなことばかりですね、私。

 

 戻りたい。やり直したいです。

 

 上杉さんが来てくれて、やっぱり思うんです。

 

 私がこんなにも嬉しかったのなら、お母さんはもっと嬉しかったのではないでしょうか。

 

 きっと…違ってました。こんな不幸にはならなかった。

 

 だから、会わせてあげたい。

 

 優しい人です。昔の約束を守ってくれる人なんです。お母さんが嫌がっても呼ぶべきでした。

 

 電話番号は知ってるのに、どうして連絡しなかったのでしょう。何で。

 

 やはり、考えたくありません。考えれば…悲しいことが増えてしまいます。

 

 ただ泣くばかり。情けない娘でごめんなさい。

 

 上杉さんは…この答えを知っているのでしょうか。

 

 会いたい。けれど、本当に会ってほしかったのはお母さんで。もう会えない不毛な考えだとしても考えてしまって仕方ない。

 

 やっぱり、ただ泣くしか。私はこれしか分かりません…

 

 もう一度だけでいいの。お母さんと上杉君。あの二人に囲まれた、一番幸せだった思い出をもう一度。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一花から今後の方針を確認した後、一度実家に帰ることにした。

 

 しばらくはまた世話になりそうだ。大学進学を気に引っ越した身だが、やはり一人暮らしより実家のほうが気楽である。

 

 妹もいるし、相変わらず帰りは遅いが親父もいる。久しぶりのらいはの飯はやはり美味しかった。

 

 洗い物を終えると、らいははちゃぶ台の前に座った。

 

 聞きたいことなど決まっているだろう。改めて五つ子たちのことを報告した

 

 

 

「しばらく、あいつらの世話を看ることになった」

 

「本当に!? あぁ…良かった

 お兄ちゃんデリカシーないし、十歳上のおじさんを嫌がると思ってたよ」

 

「まだ20代だぞ」

 

「みんなからしたらおじさんじゃん」

 

「ぐっ」

 

 

 

 まだ27だ。まだおじさん呼ばわりされたくないぞ。仕事場でもそう呼ばれたことはないってのに。

 

 隣にいるだけでも憚られる身なのだろうか。十年前の先生は当時29でも若々しい人だったが、俺はどうなのだろうか。

 

 現役大学生はその問いにおおげさにサムズアップして答えてみせた。

 

 

 

「お兄ちゃんは若く見えるから大丈夫だよ」

 

「ほんとに?」

 

「うん、先生を意識してやっと身なりも改善して

 爛れた私生活もちゃんと見直したの知ってるし

 普通に見ればかっこいいよ、中身が昔から酷いけど」

 

「もう九割九分貶してるよな

 しかも爛れたって、俺は女遊びしてねえぞ」

 

「お兄ちゃんにその気はなくても色々苦労してたじゃん」

 

「いつの話をしてるんだ…

 あいつらには絶対に話すなよ、俺悪くないし

 …悪くないよな?」

 

「早く彼女作ればいいと思うなー」

 

「…」

 

 

 

 絶対に知ってるくせに。それとも助言のつもりか。

 

 中身が酷いのは自覚している。初恋を未だに引っ張っている酷い男だ。

 

 先生とは死別の形になってしまったが…いずれ会うつもりだったんだ。

 

 その時に告白するかなんて決めてはいない。先生が再婚してるかもしれないし、男がいるかもしれない。

 

 何にしたって先生と会うからにはそれなりに気を遣うものがあった。

 

 金のかからない程度でやっていたが、案外周りの女が煩く構ってきたのだ。らいはには相談に乗ってもらったものだ。

 

 初恋を拗らせて未だに十も年上の女を好きでいるんだぞ。男を見る目のない女たちだった。

 

 

 

「引越しするんだよね、一花ちゃんたち」

 

「ああ、あそこよりもっと住みやすいマンションにな

 あの家と違って五人それぞれに私室を用意できるし

 最初は寂しくて嫌がるかもしれないがな」

 

「…後ででいいから会いたいんだけど、どうかな」

 

「…悪いが今はやめたほうがいいな

 母親を失って一週間も経ってねえし、これから環境も変わる」

 

「うん…あ、私はあの五人が大丈夫ならいいんだよ

 お兄ちゃんがいてくれたら私も安心だし」

 

「俺もあの子たちとの間合いには重々注意するつもりだ

 家族だけで考えたい、分かち合いたいものってあるだろうからな」

 

「そっか、頑張ってねお兄ちゃん」

 

「任せろ

 その代わり、同性でしか分からん話はおまえに任せる

 母親代わりじゃないが、頼むぞ」

 

「…うん

 あはは…

 でも…お母さん代わりだった零奈さんの…代わりか…」

 

 

 

 子供の頃から先生を慕っていたらいはには複雑なものだろう。だが頼む。

 

 先生の交友関係はもっと広いと思っていたが、葬儀で爺さんから聞いた話では…先生自身で縁のある方とは話をつけていたそうだ。

 

 不器用な人だ。恩人には感謝を尽くし、友人には別れを告げていた。らいはと親父にもあったと聞いた。

 

 俺だけはなかったと思うと悲しくなる。爺さんから言伝で教えてもらって思い知った。やはり会うべきだったんだ。

 

 久しく中野家と関わりを持つことになって、らいはがアルバムを引っ張り出してきた。

 

 

 

「…あの一家との写真なんてあったか」

 

「結構あるよ」

 

「…見ていいか」

 

「うん」

 

 

 

 故人を悼むように。懐かしむように捲られるアルバムを眺める。

 

 …人が死んだ後、こうやって誰かと思い出を振り返って、笑ったり、泣いたりするものだ。

 

 生きている人に対しては、後にこんな風に記憶を遡ることになるとは想像できないものだ。

 

 人の死は、やはり人を変える。人の一生に大きく響かせ、人を変えるんだ。

 

 人生の最後にも貴方は…こうして俺を変えるんだな。先生。

 

 

 

「これは九年前かな、ほら、ちょうど小学校入学した頃の

 お兄ちゃんいなかったもんね」

 

「俺も新学期だから当然だろ

 …小さいな」

 

「ねー

 皆可愛くて、今じゃあんなに綺麗になっちゃって凄いね、絶対モテるよ」

 

 

 

 写真にはあの頃のままの五人と先生が写っている。俺の知る中野家がそこにあった。

 

 昔は可愛げよりも生意気が勝るクソガキ共だった。しかし高校生となった今は俺がこれまで見てきた女学生の中でも美人な類だ。そもそも母親が美人だしな。

 

 …そういえば。

 

 あいつらに恋人はいるのか? いそうだな、一花と二乃あたりは怪しいぞ。

 

 三玖は大人しい子だし、良い奴がいてくれると安心するんだが。逆に悪い男に絆されそうで嫌な予感がしてならない。

 

 四葉は礼儀正しい子になっていたが、やんちゃな性格はどうなったのだろうか。男を振り回すか、振り回されるかどっちなのだろうか。

 

 五月は恋愛に興味があるのか疑問だな。あいつ、思いっきり泣きついてきたし。男がいればそいつに頼ると思う。

 

 …待てよ、爺さんは遠方の実家だし。あいつらの恋愛に口出ししないといけないのか俺は。

 

 妙な男とつるんでたら俺が全力で止める必要があるのか。嫌だ、恋愛ぐらい自己管理しやがれ。アドバイスも何も振られた経験しかないしな!

 

 

 

「どうしたのお兄ちゃん、凄い渋顔」

 

「仕事以外で子供と絡むのが面倒になってきた」

 

「ほんとに変わらないねお兄ちゃん…

 ほら、零奈さんの子供なんだから、よくしてあげてた子なんだしさ」

 

「この顔を見ろ

 二乃に引っかかれて帰ってきたんだぞ」

 

「お兄ちゃんが悪いと思った」

 

「夏休みだからいいが、これ見られたら根も葉もない噂が流れる」

 

「あー…頑張って」

 

 

 

 ご愁傷様です、と手を合わせられた。家を離れて兄離れされてしまったようだ。もう少し労わってくれてもいいんだぞ。

 

 家を出る時に泣きそうになっていた妹が懐かしい。可愛かった妹は立派に自立してしまったようだ。もう一度小学生からやり直していいぞ。

 

 妹はそんな兄の物寂しさに目もくれないでアルバムを捲っていく。

 

 

 

「…ここからはもうないのか」

 

「私が高校に行った頃だしね

 お兄ちゃんや零奈先生と学校違うし、皆も学校の友達のほうが楽しいしね…」

 

「おまえも友達と遊べよ」

 

「遊んでたよ!

 でも家のこともあるし

 それに零奈さんが体調崩して休むようになったのも…この時だったかな」

 

 

 

 らいはが高校入学と言ったら五年前になるか。俺が家を出たのは大学に行ってた八年前。

 

 間の三年間は…恐らくだがらいはが埋めてくれていたんだろう。妹が五つ子に夕食を作ったり面倒を肩代わりしていたのは知っている。

 

 当時もそうだった。俺は先生に期限を設けられていた。らいはも恐らく終わりを決められていたのだろう。高校入学まで、と。

 

 本来子の面倒は親が看るべき。俺たちが特別お節介だったに過ぎない。

 

 義務も義理もない、善意でしかないものに固執するのは己を守るには曖昧で不明瞭。便りにはできない。

 

 先生を咎めるつもりはないが、それでもどうか…頼ってほしかった。

 

 らいはが離れたのなら…俺を呼んでも良かったんだぞ先生。

 

 …まあ、それ以前に再婚するなり、頼れる男を見つけろって話だがな。あの子たちも母を支えるためなら余程の相手じゃなければ認めるはずだ。

 

 そう思って考えないようにしていたんだ。

 

 いつか、必ず。その先で、あの人は亡き人になってしまっていた。

 

 

 

「お兄ちゃん、忙しかったもんね」

 

「…いや、通える範囲だったし」

 

「そう?

 片道2時間だし、バイトしなきゃいけなかったし

 勉強もしてて、仕送りもいっぱいしてくれて」

 

「…」

 

 

 

 他にやるべきことはあったが、できたはずなんだ。

 

 片道2時間が何だ。先生の役に立てるなら余裕で通いきってやる。

 

 高校2年の頃の苦労に比べたらマシなものだ。あの頃の二乃を筆頭に子供たちに付き合う苦労に比べれば、考えるものがないだけマシだ。

 

 頼ってくれて良かったんだ。

 

 先生、大学受かった時喜んでくれたよな。祝いをしなければとか言って、止めるの面倒くさかったぞ。もうそれだけでいいじゃねえか。

 

 あの時、また手伝いたいと言っても。あの人は笑って断った。

 

 あの時、あの人は言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我侭をもう一つ、許してくれませんか

 恐れながら…私が一番、大切に想う生徒の門出を見送らせてください」

 

 

 

 本当に、我侭な奴だ。

 

 

 

「どうか振り向かずに、前を向いて歩んでください

 貴方の後ろには、何も心配するようなことはないと自信を持って生きてください

 立派な人間がそう在れる理由の一つになる

 私が教師を目指した夢、です」

 

 

 

 夢とか言われて、それを一番の生徒が断ったらあんた泣くだろ。

 

 

 

「笑ってしまいますか?」

 

 

 

 恥ずかしいことを言っておきながら、それ以上に恥ずかしそうに笑う先生は、子供のようだった。

 

 よく見たものだ。あの五人とよく似た、照れて笑うものにそっくりだ。

 

 言えなかった。

 

 言わせてくれなかった。

 

 あんたはやっぱり卑怯だ。

 

 あんたの体を労わることも、恩を返すとも、会いに行く約束も、させてくれなかった。

 

 振り返ったらあんたの夢が壊れてしまうじゃないか。

 

 本当に…我侭な人だった。

 

 先生から見たらまだまだ子供だけれど。先生に見合う男じゃないと分かっていても。

 

 俺は必要とされたかった。

 

 俺は、あんたの隣にいたかったんだが…やっぱり駄目だったか、先生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃんは悪くないよ」

 

 

 

 初めて聞いた、妹の優しい声だった。

 

 今まで守るべき存在だったはずが、今は違って…

 

 …悪くていいんだ。

 

 もしかしたらでいい。糾弾されても構わない。

 

 俺は、先生を助けることができた人間でいたい。

 

 見捨てたという罪を課せられても俺はそうありたい。

 

 先生と別れた後の俺は完全に他人になった。

 

 俺はまだ…先生の生徒でいたい。

 

 残された縁は、もうこれしかないのだから。

 

 

 

「悪くないんだよ

 自分を責めないで」

 

「…」

 

 

 

 アルバムに納まる先生とその娘の写真を眺める俺に、妹は声をかけてくれる。

 

 この一片の思い出の後に…あの家で見た写真が待っている。

 

 床に伏し、貧乏で、体も壊して苦しい生活の中。それでも小さな幸せに笑う先生がいる。

 

 娘を思い、自分は蔑ろにしてばかり。立派な母親で、一人の人間として憧れた教師だった。

 

 そんな人が…亡くなってしまった。

 

 娘に幸せを与えてきた。他人に夢と希望を与えてくれた。

 

 冷たく、硬くなってしまった体にはもう、あの人はいない。

 

 苦しみながら生きてきた体だけが残ってしまった。

 

 あの人はもっと幸せを知るべきだったんだ。

 

 棺の中で眠り、焼かれ、遺骨となってしまった。

 

 触れたかった。まだ温かいあの人と…手を握りたかった。

 

 あの時、恥ずかしかったけど、俺はあれだけで幸せだったんだ先生。

 

 だから…俺は恩返しを。いつか…

 

 

 

「…お兄ちゃん…ね

 零奈さんと一昨年かな、会ったんだ」

 

「…ああ」

 

「一回だけどね…

 会いたいって言ってた」

 

「…ああ…」

 

「子供が…ね

 高校を卒業して…あの子たちを見送れたら

 会える気がする…会いたいですねって…」

 

「…」

 

「不器用さん、だよね

 零奈さん

 でも…私大好きだよ」

 

「…俺も、そうだな…」

 

 

 

 不器用だ。結局あんたは倒れて、俺を後ろに向かせたじゃないか。

 

 あんたが死んでも、前を向けっていうのか。

 

 安心して見送って、その後は知らん顔か。

 

 あんたは不幸に巻き込みたくなかったんだろうな。

 

 それでも。

 

 何のこともない、ただ健やかで笑うだけの日でも。

 

 辛く床に伏して、体を病んでしまう日でも

 

 些細なものに、馬鹿みたいに喜ぶ日でも。

 

 悲しい時も、貧しい時も。

 

 俺は先生を守りたかった。

 

 結局上手く逃げられちまったな、先生。

 

 

 

「お兄ちゃんは悪くないんだよ…

 ねえ…泣かないで、お願いだから」

 

 

 

 写真で見たあの子たちに囲まれる中で笑う先生が、愛おしく…悲しかった。

 

 もう後がないことを知った上で、笑っていたんだろう。

 

 あの笑顔が、頭から離れない。あの人はもっと笑える人なんだ。

 

 あの人と別れた時、笑えていたのに。何でだ…

 

 妹が手を握ってくれる。

 

 家族の大切さを教えてくれたから、俺はこの優しい妹の兄になれたんだ。

 

 涙など流れていないのに。妹はただ、傍にいてくれた。

 

 恩師の死に嘆き、抱き続けるにはあまりにも辛い心をそっと支えてくれた。

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