リビングの明かりが消えても、大窓のレースカーテンから透けて見える月明かりが視界を照らしていた。
時刻は日付が変わった頃か。あれだけ過度な干渉は避けると言ってきたのに、引越し早々泊まり込みとは。
五つ子が傍の布団で寝息を立てている。もぞもぞと身じろぐと布が擦れる音が聞こえる。
例えが悪くて申し訳ないのだが、お子様な五月や四葉ならまだ分かる。慕ってくれるのは演技ではない、純心さが伝わってくるのだから。
そいつらを叱り守るべき姉が、一花と二乃、三玖まで便乗するとは思わなかった。
一番最初に布団を持ってきたのは三玖で、他の四人が釣られた形だったらしいがな。俺と話をしたかったのは本気だったようだ。
五月と四葉の分の布団が持ち出され、計三つ追加された布団に五人が寝ている。
本当に仲の良い五つ子だな。俺は部外者で男なんだぞ。その輪には入りたくない。
「…でかくなったな
昔は布団二枚で足りたってのに」
小さな子供がもう…十年も経って高校生に。子を持っていない身で、このような実感を得てしまうとは不思議なものだった。
姉妹同士、姦しい団欒の途中で寝てしまい、かけ布団を被っていたはずが放り出されている。犯人は四葉か、寝相の悪さは改善されていないんだな。
冷房が効いているんだから、体を冷やしたら風邪をひく。仕方なく五人に布団をかけてやった。
急かすようなことを言って悪かった。こいつらのあどけない寝顔を見ていると罪悪感が募る。
俺の我侭でしかない。母親の話をして…そんな風に泣かないでほしかった。
酷い我侭だ。本当に余計なお世話だと思う。
「…先生にも悪いことをしたな」
テーブルの上に置かれている写真立てには先生が写っている。
命よりも大事な愛娘を相手に、随分と勝手なことばかりして…申し訳ない。
月明かりではあまりよく見えない。思いのままに写真立てを手に取ろうと立ち上がる。
「行ってしまうのですか」
「え?」
むくりと、寝ていたはずの五月が起き上がった。
そもそも寝ていたのか怪しいな。布団をかけた時、五月の顔は長い髪に隠れて見れなかった。
「上杉さん、帰ってしまうのかと」
「…そこまで勝手なことしねーよ
眠れないだけだ」
写真に伸ばした手を下げる。
帰らない、と分かりやすくソファに座る。五月は布団の上からこちらを見ているだけで何も言わない。
先の三玖の話から疑惑から確信に変わった。
溜め息も混じって笑ってしまう。甘え方が妙に下手な奴だ。
「呼びづらいなら、また上杉君でいいんだぞ」
「…はい」
「十も年下に言われるのは恥ずかしいがな、我慢してやるよ」
「ありがとうございます
上杉…君」
「ああ」
「上杉君
こうして呼んでましたね
お母さんを真似して」
「だったな」
「だから、お母さんと上杉君は仲良しなんだってすぐにわかったんですよ」
「仲良しね…」
親の交友関係を把握している子はめったにいないだろう。五つ子からそう見えたとしてもそれまでの経緯を踏まえると頷けなかった。
五月たちと会った当初、俺はあの人に憧れ慕っていた。されど、先生から見た俺は所詮ただの問題児だろう。
それでも良くしてくれたのは、あの人と関わって嫌でもわかったし大きな恩を感じている。
俺にとって唯一の人であっても、多くの生徒を抱えていた先生にとって…俺は特別ではなかったと思う。
もう本人でないとわからん話だ。
たとえ何年、何十年経っても…一生頭が下がらない人。恩師であり、恩人だから。
母親からの呼び方、そしてそれを真似ていたことを覚えていたとは正直意外だった。覚えていたなりに拘りがあったんだろうな。
昔と同じ呼び方に戻った五月は照れて笑っていた。
「隣、座るか」
「…はい」
お互い眠れないのなら少し話をするか。五月を誘って隣に座るよう促した。
五月は姉妹を起こさないように布団から這い出て、おずおずとソファに座る。
…肩に重みを感じる。あと半身に髪がかかってきてむず痒い。
こちらから招いておいて文句は言えないのだが、いきなり肩に頭を乗っけてくるのは予想外だ。
「いきなりだな、お嬢さん」
「昔はこうやって沢山甘えてましたね」
「昔も、になってるぞ」
「…甘えて、いいですか」
「俺はおまえの親じゃねーんだから」
「…」
「ほどほどにな」
「…ふふ
父親ですか…今思えば凄い事をお願いしてましたね」
そんなことまで覚えてるのか。より一層、肩に寄りかかってくる五月は容赦がなかった。
少しは自重しろと思う。幼稚園児じゃねーんだから。俺の腕に胸が当たってるってのに気にもしないのか。
夏の寝巻きは布が薄いというのに、五月の体温が伝わってきてしまう。遠回しでも指摘したらショックを受けるんだろうな。
少しでも見ていると悟られても同じ。心臓に悪い奴だ。
「楽しい思い出がいっぱいなんです
お母さんから聞いたのですが…私はやっぱり上杉君よりもお母さんに甘えてばかりで、よく泣いてたそうです」
「聞かなくてもわかるだろ」
「そうでもありませんでした
…私の思い出は楽しいものばかりです
上杉君がいてくれたからなんですね、悲しむ理由がないのに泣いてたとは意外でした」
「い、いやおまえ…ほぼ毎日泣き喚いてたぞ
三玖の次に泣いてたし、俺がいても泣いてたから」
「そんなに泣いてましたか?」
「菓子あげたら泣き止んだがな」
「…馬鹿にしてますよね」
「事実だ」
「…はぁ…
馬鹿でもいいです
…あの頃に…戻りたい…
お母さんに苦労かけないように生きていれば、きっと…」
あの頃に思いを馳せ、今を悔やむ五月にはさぞ眩しく見えるのだろう。その目には大粒の涙が溢れていた。
手に触れたのは固い爪の感触。ぎこちない手つきを誤魔化して、五月が俺の手を握ってきた。
酷く似た構図。真夜中に、手を握ったあの時を思い出した。
あの時のこいつは本当に小さい子供だった。なぜか今も大して変わらないように見える。
仕方なく握り返してやる。驚くようにぴくっと固まった指がゆっくりと強く握ってきた。
こういうのはあの頃で終わったと思ったんだがな。十年後にもまたするとは思わなかった。
二度目はないように…そう願いながら俺は小さな子供を慰めていたのに。
「こうはならなかった、か」
「…はい…っ
私たち馬鹿ですから…数え切れないくらい迷惑をかけていました」
「…」
「戻りたいです…
戻れたらもう、あんなことしません…っ!」
「…なんだかな」
「…っ…?」
「そう思うのは当たり前なんだがな
…怒らないで聞いてくれよ」
「な、何でしょう」
母の死への後悔に同意されなかったことに、五月は動揺していた。それでも掴む手が離すことはなかった。
俺は捻くれ者で、デリカシーのない人間だからこう考えてしまう。
後悔ばかりだったんだ。過去に戻りたい。手から零れたものを取り戻したい。
俺も願ったことがある。だが、そんな身勝手な逃走を許してくれなかった人が、後ろから見ていた。
鬼教師はいつまでも鬼教師だった。思い浮かべると笑ってしまう。
あの人に怒られるのは嫌いじゃなかったな。
「やり直したいって思うのは、今の現状が嫌だから思うわけだろ」
「…そうですね」
「五月、おまえは自分が失敗したって思い詰めているのだろうが…
それは同時に
頑張り続けて、死ぬ程頑張った人の努力をも、失敗したと決め付けていると思わないか」
「…それはお母さんのことですか…っ」
「不本意で死んじまったんだから、成功したなんて絶対に言えない
そう考えると先生は確かに可哀想だな、一人で逝っちまったのも悲しい」
「―」
「でもな…少しぐらい
自分はこんなにもやり通せたんだって、思うものがあるんじゃないか
俺はたった一年しかおまえの母親を知らない…
でも、あの人は頑張っていたよ」
五月は俺の手を離しかける。
赤の他人が母親の思いを明かすなど、愚かかもしれない。
あの人の教え子として伝えたい。そんな我侭から俺は五月の手を掴み問いかける。
「死ぬかもしれない、それでもやり遂げたい、そんな生き甲斐があったんじゃないか
愛した子供たちが立派に育ってくれて、嬉しかったんじゃないか
おまえたちから愛されて、報われた人生だったんじゃないか」
「そんな…そんなの、分からないじゃないですか
もっと私たちにしてほしいことがあったらっ」
「…人の死を受け入れるってのは…俺は、そういうことなんだと思うぞ
おまえはまだ目を背けている」
悲しくて、悲しくて仕方ないのはわかっている。涙が溢れてろくに前も見れないんだろう。
五月は泣きながらこちらを見上げている。
先生の気持ちを代弁することはできない。これは俺の勝手な考えだ。
五月と目を合わせることはできず、ただ先生の写真を見つめる。
中野零奈の死を受け入れる術、その答えは俺もまだわかっていない。人一人の死は重過ぎる。
「決して、悔やんで…泣いて悲しむだけじゃないんだ五月」
それでも、答え続けるしかない。
親が子に、大人が子に答えを示す時…100点満点の回答が準備されているとは限らない。
いつだって人は不出来ながらも、一生懸命に考え導き出した答えを、受け継いできた答えを誰かに示す。
「辛かったんだなって、労わることも
頑張ったなって、慰めることも
もう大丈夫だって、安心させることも」
「…」
「…ありがとう…と、感謝を伝えることも
全部が、子供が親に返す最後の愛情なんじゃないか
これからの人生、懐かしんで、感謝したり尊敬したり、笑ったりするんだ
おまえはずっと受け入れ続けて、死んだ母親に寄り添って生きていくんだ」
「…最…後…っ…」
「いつまでも泣いてないで…最後に、失敗しちまった母親を許してやれよ
まだおまえたちと一緒にいたかったなんて、そんなの当たり前だろ
先生もきっと泣いてる
休ませてやろうぜ、な?
寂しいだろうが、それが最後のお別れだ」
「…」
「…きつく握った手、一回開いてみろ
お母さんの愛情も、おまえの愛情も、ちゃんと残ってる
…大事なものはちゃんと持ってるはずだ
先生も同じだ
一人で寂しかったかもしれないが、先生は不幸なんかじゃない」
母親がいなくなって悲しい。まだ生きてほしかった。一人で逝かせてしまった。
でも、母親から愛されていたこと、母親を愛したことまでは無くならない。
先生はきっと最後まで母親として娘を愛し、娘から愛された。
その人生は不幸ではなかったはずだ。幸せは必ずあったはずだ。
「…お母さん」
手を放しても大丈夫だから。俺は五月の手を取り、そっと指を開かせた。
嗚咽を堪えて、唇をきつく結び、肩を震わせてしゃくり上げている子の指は固かった。
ゆっくりと開いた。女の子の手の平には、細い指先にある爪の痕があるだけ。
何も見えるはずがない。
見えなくても、力を抜いて、思い返すことはできるはずだ。
本当に先生は、報われない終わり方を迎えたのか。
五人もの娘に囲まれて生きてきたんだ。
騒動が絶えず寝るに寝れなかった、そんな苦労だらけの人生でも…子供に愛されていたら嬉しく思う人じゃないか。
その思い出は消えない。かけがえのない大切なものを、後悔の色で塗り潰してはいけないんだ、五月。
「…
上杉君が」
「…」
「上杉君が…っ
ずっといて、お母さんと…っ!
お父さんなら…良かったのにぃい…っ
ぁああああっ!」
「まだ言うか
先生の子じゃなきゃ、誰がおまえみたいな泣き虫の世話を焼くか
時効だ時効」
「お母さんの娘なのにぃいっ!」
泣き叫ぶのはやめてほしい、姉が起きるぞ。
末っ子は姉と母親に甘えてばかりの甘えん坊だった。四人を起き出さないように俺が慰めてやるしかない。
子供みたいに泣く五月の頭を抱えて抱きしめてやった。
五月から両手を背中に回されしがみつかれた。高校生の泣き方じゃないと思うんだが…今は目を瞑ってやる。声をかき消そうと必死なんだろう。
しばらくして鼻を啜るだけに収まって泣き止んだ。ティッシュを渡してやって深くソファに座り直した。
今日は綺麗な満月で、月明かりだけでも十分に部屋の中を照らしてくれていた。
「あの」
五月は俺へ顔を向け、言葉を濁す。
青白い光から見えるその顔は、泣き顔を存分に見られた羞恥を誤魔化すのに必死な…愛らしい女の子の表情だった。
「…私の知らないお母さんのこと、教えてくれませんか?」
「寝ろよ」
「気になって眠れません
上杉君とお母さんが最初に会った話とか」
「…
顎が疲れた」
「な、なんですかそれっ」
「もう寝ろっつーの」
「夜食作ってあげますからっ」
「まさか腹減ったから眠れないんじゃねーだろうな、おまえっ」
姉が寝ているってのに騒がしい奴だ。もう少し落ち込んでくれていいんだぞ。
本当に布団に戻って寝る気はないようで。泣いて腫れた顔のまま笑って、俺の腕を掴んでくる。昼間に比べて打たれ強くなったな。
落ち込んだり、照れたり、泣いたり、笑ったり、コロコロ変えやがって。
あまり話しても面白いものじゃないんだぜ。だが、話さないと解放してくれないようだ。
聞き逃さないように手を握り締めてくる子に笑ってしまう。大好きな母親の話を聞けるのがそんなに嬉しいか。
五月にとって、俺の思い出の先生も知っておきたいのだろう。もう聞ける相手は一人しかいないんだからな。必死にもなるか。
「先生と会ったのは…もう十五年前か
京都で会ったんだ」
周りには誰もいない一人っきりで歩き続けた道を、あの人と歩いた場所へ引き戻して…一つ一つ思い出しながら言葉を紡いだ。
もう忘れてしまっているものは多い。いくら大切な欠片でも、いずれ忘れてしまう。
当時の先生の顔も…もううろ覚えなんだ。その声も、どんなものだったか。
今でも頭に浮かぶのは先生と最後に別れた時のものと、棺に眠るあの人の顔。そして、この写真の中で笑う母親の姿。
忘れかけているというのに、ぼやけた記憶の中でも…なぜか誇らしげな気持ちになってしまった。
写真に収まる光景は笑顔の中に悲しいものが潜んでいる。
幸せと不幸せ、その両方が押し合うようなやや歪にも見える悲しい写真だ。
今の気持ちと似ているかもしれない。
これは…もう会えない寂しさと、思い出の中だけでも近づけることが嬉しいような複雑なもの。
「…はは」
「? 上杉君?」
「…無意味な十年ではなかったのかもな」
もしかしたら、とそう思った。
開いた穴を埋めるように、パズルのピースとピースを繋げるように…俺は
俺は五月に笑いかけて、思い出話を続けた。
憧れの人の思い出をその娘に伝えるために、俺はあの人と会ったのかもしれない。
そんな戯言でも意味はあったんだと、そう思わせる喜びに酔っていたかった。
窓の近くだからか、熱気を感じる目覚めだった。
「あ、起きた」
「…なんなんだ…」
目が覚めると誰かに周りを取り囲まれていた。顔を上げると寝巻き姿の姉四人組が揃っていた。
ソファの前に座り込んでこちらを見上げていた。思いっきり寝顔を見られていたようだ。暑苦しいのはこいつらのせいだったか。
何がしたいのか問い質そうとして、ふと足に重みを感じた。
五月が俺の膝の上で寝ていた。
思い出話に耽っていた最後はあまり覚えてないのだが、五月に膝を貸して寝させてしまったらしい。
「起こしたほうがいい…?」
「ずっと座ってろと?」
「少しぐらいいいじゃない
熟睡してるわよ、この子」
「涎も垂れてる」
「ズボンはこれしかないんだけどっ」
「今は許してあげてください
…五月ちゃんのこと、ありがとうございます」
「…おまえら、やっぱり起きてたのか」
「寝てる横で話なんてされたら普通起きると思うんだけど」
「昔は爆睡してた奴が何言ってんだ」
「昔と比較しないでくれる!?」
二乃に睨まれてしまうが、ご立腹なその態度は少し柔らかく見えるのはなぜか。
じゃれているわけでもないが、二乃とはこの関係が一番話しやすいのかもしれない。過度な気遣いは返って反感を買うとか。気持ち悪いって言われそうだ。
しかし二乃の言葉は矛盾してるぞ。今こうして四人と話していても、膝で寝ている奴は起きそうにないからな。爆睡である。
風邪をひかないように、姉たちが五月にかけ布団をかけてくれたんだろう。俺の肩にもかけられていた。
しかし…悪いが髪の長い奴を膝元に抱えてると暑苦しく感じるんだ。しかも五つ子に囲まれているせいで、人口密度が高すぎて暑苦しい
昨晩の話を聞いていたのなら、こいつにも言っておくべきか。
「一花…一花だけじゃないが、おまえらも変に気を遣わなくていい」
「え」
「昔の誼みとまでは言わないが、敬われるのは気が狂う
俺も勝手にやってんだから、おまえも好きにしろよ」
「…」
「…」
「…許可は出たんだから、言えばいいじゃない」
急な話に一花と三玖は戸惑い気味のようだ。構えられると言いづらいだろう。そのうちでいい。
「…
はいっ 上杉さんっ!」
「ああ」
「…ししし、上杉さんっ!」
「いや変わってないし」
四葉に手を捕まれぶんぶん振り回される。過剰な握手だ。呼び方変わってないのに何が嬉しいんだこの子は。
四葉なりに二人を気遣ったのかもしれない。
三玖が前に出て、緊張してるのが見てわかる顔で口を開いた。おまえ昨日普通に呼んでたじゃねーか。何でそこまで緊張してるんだ。
「…ふ、フータローって
昔みたいに呼んでいい?」
「ああ…だが三玖
おまえどこまで覚えてるんだ」
「ど、どこまでって」
「…いや、何でもない」
「えっと…待って、フータロー
ど…どこまでって…どういう意味で…」
「俺は大体は覚えてるぞ」
「…ッ!
―」
「み、三玖、わかりやすっ」
「これは完全にアウトだわ…」
「昨日から墓穴掘ってばっかりねこの子、しばらく黙ってなさい」
一瞬固まった三玖は、顔を真っ赤にしてすぐさま顔を手で覆った。脱衣所で暴れた四葉ほどではないが悶絶している。
これはわかりやすい。四葉があたふたと慌てているのもよくわかる。
姉妹なりに気持ちを汲んで隠そうとしていたんだろう。本人がフォローできないほどの自爆をして台無しだ。
この態度だと、まさかと思っていたがやはり…俺に告白したこと覚えてるな。
もはや時効と答えるのも甚だしいレベルの子供の話なのに。真に受けすぎだ。
しばらく三玖は顔を上げられないようだ。触れてほしくもないだろうし一度放っておく。
「えっと…私もいいのかな
フータロー君…でいいです…か?」
「ああ
敬語も慣れないならやめろ」
「慣れてないわけじゃ…」
「どうせ後でボロが出てやめることになるんだぞ、お姉ちゃんよ」
「…もー
あの時みたいな子供じゃないんですー
フータロー君ちっとも先生らしくないし、なんか心配だなぁ」
「昔みたいに頬引っ張ってやろうか」
「いーやーでーすっ」
気を許した途端に一花は生意気なことを言いやがる。きっちり教師やってるから安心しろ。
小言がないわけじゃないがそれなりにやっている。生徒はくそ生意気だがな。
現状一番手を焼く子供はこいつらだ。その点早く二学期が始まってくれたほうが気は休まるかもしれないな。
「…朝ご飯作るわ」
「…
じゃあ…俺は帰らせてもらうか」
「…」
「…」
「…
食べてけばいいでしょ!!」
「いいのか」
「知らないわよ! 今の絶対、私から言うの待ってたでしょ、あんた!
せっこ! 教師のすることじゃないわ!」
「五月が起きるの待ってただけなんだが
こいつ起きる気配ないんだけど」
「あんたが絆されて長話するからでしょ!」
「おまえどこまで聞いてたんだよ」
「眠れなかったから仕方ないじゃない
勝手に作っちゃうから、いいわね」
他の五つ子と上手く和解できても、やはり二乃は難しい。随分とおかんむりなようで、憤慨しながらキッチンへ向かっていった。
作ってくれるのは嬉しいが、その朝食にちゃんと感想を言わないといけないんだろうな。二乃の料理の腕は五月が太鼓判を押しているのだから美味なのだろうが。
果たして感想を伝えたところで、すんなりと話が和やかなものになるだろうか。
いや無理だろ。絶対に何か言われるぞ。お前の為に作ったんじゃない、それから始まるのがデフォだろう。至って本心の言葉で。
朝食も気が晴れそうなものではない。軽く憂鬱になる。一人で食ったほうが気楽だ。
「あの、フータロー君
二乃…もう少し見てあげてほしい、かな」
「わかってる
俺もこのままでいいとは思ってねえよ」
「よかった」
「…それを二乃に伝えればいいだけなんだと思うんだけど、違うのかな?」
「おい、やめろよ
絶対にやめろ」
「…振りかな?」
「わかりましたっ!」
「そういうノリ俺嫌い」
余計なことするなと勘違いする二人の耳を引っ張ってやった。五月を膝に抱えてると頭に手が届かなかったので。
悲鳴を上げる二人のお陰でようやく五月が起きたようだ。
もぞもぞと膝の上で寝返りを打って、いつもと違う光景を見ると驚いて飛び跳ねた。
そしてそのままソファの上から転げ落ちていった。膝を抱えて押し黙っていた三玖を押し潰して。
体罰だ、パワハラだと訴える長女と四女は無視して五月に声をかける。
「やっと起きたか」
「すみません! すみません!
いつの間にか寝てしまって」
「五月…重い…」
「な、何で三玖が下に」
「早く…っ!」
「本当に朝から騒がしい奴らだな」
「半分はフータロー君のせいだと思うよ」
「俺は座ってるだけだぞ」
「耳引っ張りましたよね!?」
「あんたたち暇なら手伝いなさい
上杉は顔洗って、髭剃って」
「…了解」
「…思い出のお兄さんももうおじさんか…お姉さん泣いていい?」
「思い出が汚された気分…」
「わ、私はあまり見ないようにしてましたから」
「うわ、確かに…夜はなかったのに」
「そんなに酷い?
つーか、俺はまだ20代だ
高校生でも髭ぐらい剃るわっ!」
「それはそれで知りたくなかったですよ!」
「男に夢見すぎだ、現実を知れ」
収拾がつかないから素直に顔を洗いに行った。子供たちの前、というよりも先生の写真の前でだらしのない姿は晒したくなかった。
妹に衛生面気にしない男子は嫌われると言われて気を配ってきたつもりだ。ずばり妹の指摘は正しかった。
でも無防備な寝顔を見られるのはどうしようもないだろ。今度泊まることになったら注意しなければ。次なんて来てほしくないが。
体が凝ってる上に昨日の労働の筋肉痛で最悪だ。やること終えて戻ると、朝食ができたようで五人が集まっていた。
五月は寝巻きから私服に着替えており、寝癖で跳ねまくっていた髪も整えられていた。
よく見ると…見覚えのあるヘアピンをつけていた。
子供の頃によく見慣れたもので、再会してから一度も見たことがなかった。
子供たちは子供の頃から成長して大きくなった。その過程で昔よく身につけていたヘッドホンやリボンなどはやめたのかと思っていた。
他の姉妹は特別気にかけていないようだ。気になって声をかけた。
「五月、それ」
「…はいっ」
「急にどうしたんだ」
「…お母さんの通夜から外していたので…
この際、つけてみました」
「…今でも付けてたのか」
「はい、お母さんがくれたものですから」
葬式からずっと外していたものを付けるというのは、何かの思いの現われか。
落ち込んでいた自分から変わろうとする意思表示が感じられる。
昨日悲観して嘆いていた子は、今目の前で照れつつも笑っている。
母との思い出の品を身に付け、そこに憂うものは一切なかった。
「…」
「…何か言いたげね」
言いたげって…言っていいのか。いやもう、五月以外の目が隠さずに言えと訴えていた。
「昔は似合ってたが…
高校生でそれって…センスを感じられんぞ
少なくとも十年前のだろ?」
「―」
「…怒らないでくれよ?」
「―」
無理そう。笑顔が凍るように固まったと思えば、熱を取り戻すどころかみるみる上がっていく。
顔を赤くした五月がぷるぷる震えながらこちらを睨んでいる。俺の感性が狂ってるのか?
同意を求めて姉のほうに視線を送ると、どいつもこいつも苦笑いするだけだった。
「お姉ちゃんが言ってたけど…こういうことかぁ」
「だから言ったでしょ
女心とかそれ以前の問題よ」
「なんか…昔見たことある気がする
なんだっけ…すごい既視感」
「開口一番にそれはフォローできませんね」
こういう空気、以前も生徒相手にやらかした記憶がある。それ以前に昔五月に太るぞとか言って怒らせたな。
何でもいいから適当に褒めておけばよかった。正直者は損をする。二学期初日のHRでクラスの奴らにリアル体験で教えてやろう。
女子高生の家に泊まったなんて言えなかったわ。今更だがやはりグレーゾーンもいいところを選んだな。今後気をつけなければならない。
軽く現実逃避をしていると頬を膨らませた五月がそっぽを向いてしまった。
「もう知りません」
「実は冗談だったり」
「知りません」
「…」
母親との思い出…というか形見になるのか?
よすがともなる物を侮辱されればそりゃあ怒る。俺でも怒る。でも壊滅的にセンスがないぞその星型のヘアピンは。幼稚園と高校生はちげーぞ!
つい写真立てのほうを見やる。よすがなんてあれ一つで十分だろ。
夏の日差しがフローリングに反射して眩しく、暗く見える先生の笑顔がより一層曇っているように見える。
誤解である。極めて本心からの言葉だったが先生や五月を貶めるつもりはなかったんだが。冷房が効いてるのに汗が滲んできた。
怒らせて当然、ご立腹してしまった五月の機嫌を取らなければならない。
どこまで本気なのか知らないが、怒っているのにどこか可愛らしく思えてしまう。バレたら絶対に怒られるから言わない。
「…くそ暑いが…まあ…あれだ
後で出かけるか、一緒に」
「!」
「食いに行く約束しただろ
パフェとか好きだろ、女子高生共」
「…」
五月が驚き、他の姉妹と顔を合わせて、笑われた。
「…なぜ笑う」
「フータロー君がパフェって」
「超絶似合わないわ」
「もしかして女子生徒に奢ってる…?」
「どうなのですか先生っ!」
「好き放題言いやがって」
似合わないのは分かってるし、誰がパフェなんか奢るか。そういうのは一度許すと前例があることを餌に集ってくるからな。絶対に奢ってないからな。
こんなこと言えば、誘いはあったんだと余計なことを言われそうだ。文化祭や体育祭の打ち上げに誘われる程度なのに、前例が一つでもあるとこうも面倒になる。
この誘いもそうだ。この泊まりもそう。
結局一度許せば今後もありえる。しかも相手はこの五人。憂鬱になるのも無理ないだろ。
「…特盛で手を打ちましょう」
「…特盛ってなに」
「食べてみたかったんです
駅前にあるんですよ
奢っていただけるなんて嬉しいです」
「ここぞとばかりに利用しやがって」
「皆の分もいいのですか?」
「フータロー君、女子高生共って言ってたよね」
「共その1立候補しまーす!」
「はい、その2」
「そ、その3…」
「…4」
「…自由参加で」
四葉の割り込みから一花、三玖、二乃も便乗してきた。女子が好きそうなパフェということで、早朝から賑やかになっていく。
五人一緒なのは最初から想定していた。おまえら俺の実家が貧乏なの知ってるよな、手加減しろよ。
姦しい五つ子はお構いなしに盛り上がっている。
「パフェなんて久しぶりだよね」
「特盛なんて食べきれるの?」
「私は絶対に無理…」
「なんかケーキ屋さん思い出すね!」
「一人一つじゃなくてもいいだろ、特盛ならよ」
「好きなもの買ってくれる約束でした」
「…えー
そこまで覚えてるのかよ」
「何度も会いに行ってやるとも約束してくれました」
「…五月、どこまで覚えてるんだ?」
「さぁ、どうでしょう
…ですので、二学期の後もちゃんと会いに来てください、上杉君」
「…」
…その一言が言いたいが為の我侭、か。
思い出した。ああ…思い出した。
つい顔を手で覆ってしまう。大人が頭を抱えているのに子供たちは揃って笑っている。その照れ笑いが今は憎たらしい。
口は災いの元。あの頃思い知った教訓である。
気軽に約束して、苦労ばかりの思い出が蘇ってきた。
この五人全員に、人生で一番苦労させられた一年だった。
またあの忙しない日々が始まるのかよ。しかも相手は幼稚園児から高校生に難易度が跳ね上がっている。地獄だぞ。
つい、笑ってしまう。
「あはは…でも…二学期もお願いしよっか」
「気が早いわね、電話で呼び出せばいいじゃない」
「事前に言っておかないと…また雲隠れ」
「しっかり予約しておきましょう!」
「ほら、五人全員からの希望ですよ!
上杉君も五人からでは無碍にできないでしょう!
観念しましょう! 昔みたい…に…」
「く…くく…
あ? あ、すまん…聞いてなかった」
軽く絶望して笑いが堪え切れなかったぜ。おまえらといるとやたらと金が減るんだった。
話を聞いてなかったのは悪かった。謝っているってのに、五人に呆けた顔をされてしまった。
はっと意識が戻ってきた五月が慌てて問い質してくる。
「な、何で笑うのですかっ」
「悪かったつーの
…二学期もだろ、わかってるって
爺さんとの約束だ、元から目を離すつもりもねーよ」
「!
では…!」
「まあ、仕方ねえな…休みの日ぐらいだぞ
もう少しだけ付き合ってやるよ」
正直少し照れくさい。会いにきてやるって、それだけの話なのにこいつらがやたら真剣だからこっちにも伝染るんだよ。
了承を伝えると五月はぱっと笑顔を見せて姉たちと喜んでいる。拗ねたり笑ったり忙しい奴だ。
午前の予定が決まり、それぞれが昼食までのプランを提案している。なぜ買い物や映画館が付け足されようとしているんだ。おまえらも元は貧乏学生だろうが。
裕福にやれと言った俺の言いつけをすぐに実行する優等生のようだな。喜んでいいのか咎めていいのかわかりづらい。
こいつらと関わって苦労は絶えない。一人相手するだけで気を遣うのに五人だから。普通に考えて五倍だ。
まず考える前に拒絶したい事態を、俺自身が楽しもうとしているのだからもはや救いようがない。
十歳も下の子供相手にまた振り回されようとしてるのに。必要とされる人間になろうと努力してきた人間の末路がこれか。
先生に知られたらまた怒られてしまいそうだ。謝っておこうかとあの写真立てを見やった。
「―
…いきなり、なんだよ」
「…?
上杉君?」
「いや、日が眩しくてな」
「ああ…カーテン閉めますね」
「いや、いい…そのままでいい」
意表を突かれた気分だった。五月に声をかけられたが、何でもないんだ。
そのままであってほしかった。この光景は。
つい…あの頃、みっともなく怒られた時と同じような、体が固まってしまった。
同時に、なんというか…意地の悪い奴だとそう思い、諭された気分だった。本当に見てるんじゃないだろうな…
テーブルに置かれた写真立ては日の光が当たって…あの笑顔が、どこか優しく温かいものに見せてくれた。
つい目元を隠さなければいけなかった。
目の錯覚でしかないその日常が…そうあってほしいと望んでいたものが。そこにあるように見えたんだ。