五等分の園児   作:まんまる小生

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幼子との約束その4 ドジな長女

 薄暗い一室に溜め息が一つ漏れる。

 

 覚めない悪夢は昨日に続き二度目の体験となった。

 

 目が覚めれば待ち望んでいた光景。見慣れた自分の部屋に、やっと戻ってこれたのだと安堵した。

 

 闇雲にもがき、覚めるべく抗おうとしても叶わず…随分と長い夢だった。

 

 何とも解釈のしようのない夢だった。解放されてもなお、胸には嫌なものが纏わりついて離れない。

 

 夢の中で…亡くなった人が何も話すこともなく、ただじっとこちらを見つめていた。

 

 その表情は窺い知れず、笑っているのか…怒っているのか、分からずじまい。

 

 あの人に向けて声をかけようとしても届かず、俺は夢の中でひたすらもがいていた。

 

 目が覚めた後に感じるのは、どんよりとした倦怠感。

 

 たかが夢だと侮って昨晩は眠りについた。しかし予想外の出来事に囚われ、目を逸らしていた不安が高まってきている。

 

 

 

「あぁ…くそ…」

 

 

 

 参ったな、我ながら情けない。完全に滅入ってやがる。

 

 けだるい体を起こしてベッドに座りなおす。まだ5時過ぎだ。夏のこの時期は早くも空が夜明けを見せている。

 

 悪夢については詳しくはない。夢占いだとか、悪夢は逆夢だとか聞くが興味はないし信じられない。俺には縁のないものだと思っていたのだから。

 

 夢など結局は自身の精神が写す幻だ。事実にはなんら干渉しない自己解決で終わるものだ。

 

 現実の影響を受けやすいと聞く。夢と現実に相互性はないが現実は夢に一方的に干渉する。弱気な時ほど追い詰めてくるのだ。

 

 悪夢を見るということは、俺の精神が不安定だと警告していることに繋がるのだろうか。

 

 精神的に衝撃を受けた心の傷は、後になって尾を引くことが多い。それが人の死であれば尚更。

 

 きつく手を握っている間はいい。解いた時には不安と痛みが襲ってくる。

 

 だから、そう簡単に手を離せないんだ。

 

 近しい誰かが亡くなった影響によって人は変わり果ててしまい、最後には追いかけるように去ってしまう者もいる。

 

 俺はそれに類似しないと思っていた。浅はかながら…脆い見栄でしかなかったようだ。

 

 

 

「くそ…独りよがりでしかねぇえッ…」

 

 

 

 残り香のようなものが、頭を埋め尽くす夢を振り払うべく両腕に爪を立てる。

 

 愚かにも程がある。

 

 もう立ち止まることも間違うことも許されない。子供じゃねえんだから。守るべきものがあるのだから。

 

 馬鹿馬鹿しい。恩師といえど、死んだ他人だ。

 

 おこがましい。死人の思いを決めつけるなんて。

 

 わかってるってのに俺はずっと先生の顔色を窺ってばかり。

 

 

 

「…あれほど、慕われるなんて思わなかった」

 

 

 

 なぜ、今になって。それは明白。

 

 俺に笑いかける五つ子たちに、あいつらに気を良くして笑う己の姿が滑稽に見え始めたから。

 

 あの人が俺を忘れずに、あろうことか好いてくれていたと教えてくれたから。

 

 …あいつらの傍にいる資格はあるのだろうか。

 

 好意を踏み躙った俺は、実は恨まれているんじゃないか…?

 

 二乃の叫びが蘇る。そして、夢で見た母の亡骸に泣き叫ぶ子供たちの声が。

 

 逝っちまった人の気持ちなんて金輪際わからねえ。だからこそ、嫌なことばかり考えてしまう。

 

 それでいて俺はまだ先生の生徒でいたいと執着している。

 

 今はその悪循環、出口のない迷路をさ迷って足を止めてしまっている。

 

 …考えても答えが出ないのなら、今ここで頭を抱えて捻り出そうとしても時間の無駄だ。 

 

 二度寝などする気もない。立ち上がって洗面台で顔を洗うことにする。

 

 

 

「…日に日に酷い顔してんな…」

 

 

 

 鏡を見れば、ぬぼーっと生気が失せたような酷い顔をした男がいる。五月が見たら悲鳴を上げそうなものだ。

 

 今日が8月の26日。二学期までもう一週間もない。こんな顔で出勤などできん。

 

 …一番は早く忘れてしまうことだ。咎められるその日まで。

 

 あの子たちも自身が胸に抱く母親との思い出を組み分けているはずだ。思い出していいものとそうじゃないものと。

 

 俺は上手くできそうにない。嫌でも思い出すに決まっている。後ろめたさが引き金となり呼び起こす、女々しい話だ。

 

 気分は極めて憂鬱だ。だが心の弱さに甘える程落ちぶれたくはない。

 

 昨日…打ち解けてくれた妹の思いを知ってしまっては、兄として手を休めるわけにはいかない。

 

 らいはが五つ子たちと再会したその日の夜。らいはから電話がかかってきた。

 

 子供たちと久しぶりに会って楽しかった。それでいてやはり、先生のいない中野家は見ていて寂しかったと、そう話していた。

 

 最後に妹は一つ、胸の内を告げたんだ。

 

 

 

「ちょっと後悔してることがあるんだ

 …はぐらかしちゃったんだ」

 

「はぐらかす?」

 

「昔ね、先生と初めて会った時の夏休みだよ

 夏休みに先生とよくメールしてたんだ」

 

 

 

 らいはがあの人を先生と呼ぶことに違和感があった。

 

 …口を挟まずに聞いていた。妹の後悔を。

 

 もう償えない、先延ばしにしていた謝罪を。

 

 

 

「覚えてる? 四葉ちゃんと電話したの」

 

「ああ」

 

「やっぱ覚えてるよね

 …あはは

 零奈さんにちゃんと伝えたかったな…

 …って…ほんと今更…やっぱ言えないかも」

 

 

 

 らいはは乾いた声音で笑って、その声をさらに落としていく。

 

 諦めと未練が募るような、そんな重い溜め息を混じらせて何かの可能性を否定した。

 

 電話ではらいはの表情は見れない。落ち込んでいるのだろう。もしくは泣いているのかもしれない。

 

 

 

「零奈さんは私にとってお母さんみたいな人だったけど

 その時はちょっと違ったんだ」

 

「…」

 

「夏休み、いっぱい心配してくれたんだぁ…

 ご飯ちゃんと食べていますか

 暑い時は無理せず冷房を使うのですよ

 上杉君は無茶していませんか」

 

「…」

 

「優しい、零奈さんらしいよね

 でもね、嫌だったんだ

 私たちのこと知らない人なのに、勝手に子供扱いされるのが

 近すぎて…むかってしちゃったんだ

 私よりお兄ちゃんと連絡取ればいいのにさ」

 

 

 

 らいはが反抗心を抱いたり、人を疎む発言をするとは思わなかった。聞いたことがなかった。

 

 先生と出会って、全てが良い方向に進んでいたわけではなかったと妹は話す。正直少しショックな話だった。

 

 先生とらいはは至って仲の良い関係を築いていたと思っていた。だが今では、らいはは内心我慢していたんだ告げている。

 

 だが、その気持ちはあまりにも子供だったと、妹は苦笑して教えてくれている。  

 

 

 

「四葉ちゃんと電話するお兄ちゃん見たらさ

 懐かしいなって…

 嫌なことしちゃった」

 

 

 

 そういえば、あの時はらいはが無理矢理携帯を押し付けてきたんだったな。

 

 強引な行動の裏では、お節介に感じる先生から逃れようとしていたのかもしれない。

 

 決して嫌ってなどいない。今では感謝しかない、大切な人を貶していた。

 

 ごめんなさい、大好きだよ。そう言えたら、らいはの心は救われ、あの人も喜んでいたかもしれない。

 

 言えば美談で済む。言えなかったら…後悔しかない。

 

 

 

「零奈さんやあの子たちなら、きっとお兄ちゃんを笑顔にしてくれるのに

 私は嫌な子で、謝りたかったけどできなかった…」

 

「…」

 

「こんなに…大好きになるとは思わなかったし、さぁ…っ…?

 嫌な子だって知られたら、絶対に嫌われるしっ…

 零奈さん、大好きだったのに…もっといっぱい、話したかった」

 

 

 

 言葉を詰まらせて、妹は打ち明けた。

 

 言えなかったことがあるんだと。言えなかった理由があるんだと。

 

 いつも明るく笑い、家族を励ましてくれる子が教えてくれるものはとても温かかった。

 

 

 

「だから、お兄ちゃんだけじゃないからね?

 零奈さんに言いたいこと、いっぱいあったのは皆や私たちだけじゃないよ

 きっといるよ…ね?」

 

「…ああ」

 

「…」

 

「しかしな…酷い兄妹だな、俺たち」

 

「…ほんとにね…」

 

 

 

 あの人を慕っている人は大勢いる。あの通夜に添えられた花がその証だ。

 

 しかし、俺たちにとっては赤の他人。彼らと比べても気休めにしかならない。

 

 されど、少し救われる思いだったのは確かだった。妹も笑ってくれた。

 

 そう、妹は笑ったんだ。

 

 その翌朝に兄が引き摺ってるわけにはいかない。

 

 気分を改めたところで顔色は変わらない。眠気もないし仕事に手を付けておこう。

 

 高校も二学期となれば授業も始まる。休日に仕事を持ち込みたくはなかったが、あいつらの面倒を看ると約束した手前、両立させないといけない。

 

 

 

「単純なのか、複雑なのか…」

 

 

 

 答えは単純、馬鹿なだけだ。だが、馬鹿とは単純ではなく複雑な者だ。

 

 一つだけ明確に、自信を持って言えることがある。

 

 教師を目指していた以上、この仕事に手を抜いたことはないが…それでも空虚なものを感じていた。

 

 少なくとも今はそれはない。見える位置にあるんだ。意義を感じられるから。

 

 ほんの僅かでも胸を張れる気がする。

 

 仕事に取り掛かって少しして…風太郎はゆっくりと腕を組み、机に突っ伏すように眠ってしまった。

 

 悪夢を見ることはなく、覚めても記憶に留まることのない静かな夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メールはないか」

 

 

 

 来いという催促もなし、特に予定のない平凡な一日を過ごすことになるようだ。

 

 今日の空模様は晴れやかとはいかない、どんよりと灰色に染まったものだった。

 

 昼過ぎとなった今になっても子供たちからメールはこない。片道一時間以上かかるのだ。この時間になってもないのなら用はないのだろう。

 

 子供たちは今日もらいはと一緒か、それとも終わらないと嘆いていた課題に取り組んでいるか。

 

 どちらでもいい、用がないのなら休ませてもらおう。

 

 母の死を乗り越えたのかと、もう様子を窺う必要もない。ちゃんと前に進もうと励んでいるのだからな。

 

 数えたら早いものだ。先生が亡くなったのが8月の15日。17日に五月と再会して…十日程経った。

 

 早いのか遅いのか、どちらとも言えない気分だ。

 

 その十日間、毎日子供たちと顔を合わせている。お陰で一日が長く濃いものだ。

 

 昔よく感じた懐かしい感覚だった。

 

 しかし、その日常の中は…これほど景色がつまらない色をしていただろうか。

 

 空の色に似て、この家の色も白と黒に近い。必要なものしか置いていないこの空間がより一層色彩の乏しさを訴えている。

 

 色のあるものがあっても、今はそれを見る気力はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨か。夏に降る、明日には枯れてしまいそうな雨。

 

 パソコンで授業のプリントの原本や資料を作成していると、小さな雨音を耳にした。

 

 ぽつぽつとそれは次々と重なり、音は次第に大きくなっていく。

 

 あいつらといるうちは、まず気づかない音だ。

 

 よく雨が降り出したことに気づかず、大慌てで洗濯物を取り込んでいた。子供たちと協力し合って、昔。

 

 

 

「はい! きのうテレビでみた!

 バケツリレーです!」

 

「は!?

 雨の中何する気だ、今度な」

 

「わたしがうえすぎさんからもらって

 五月、三玖、二乃、一花のじゅんばんに!」

 

「悠長な、おまえらの洗濯物多いんだから遊んでる暇ねーからな!

 おまえらも取って部屋に運べ」

 

「はい五月っ」

 

「やるんですか!? み、三玖!」

 

「…ん」

 

「めんどうくさいわね…はい一花」

 

「まかせて、てーい!!

 あれ、なんかドロついてない?」

 

「タオルっ! 思いっきり汚れてるからやめろ!

 持ち上げて運べ!」

 

 

 

 そんなこともあったな。帰ってきた先生に呆れられてしまった苦い思い出だ。

 

 日常の一片でしかない小さな出来事でも、今ではもう見ることのできない思い出の一片。

 

 四葉の提案は小さな子供たちには間隔が狭いから、最後に一花が衣類を部屋まで投げ入れていた。雑なお姉ちゃんだった。

 

 子供たちの手から手へ、渡したものが次々と崩れていくから衣類が地面に付いてしまっていた。

 

 言っても聞きはしない生意気な子だった。反省もせず笑って逃げられた。

 

 だが、愛らしい奴らで…見ていて飽きなかった。

 

 

 

「…戻りてぇな…五月が言うのも無理ねえ」

 

 

 

 雨の中でもあいつらは元気だったな。笑って、怒られて、いつも一生懸命に生きていた。

 

 そんな思い出に耽って、今は一人分の洗濯物を回収して室内に干しておく。

 

 あれと比べると静かすぎる。あれが異常なだけなんだが。

  

 しばらく窓から雨を眺めていた。どうも落ち着かなかった。

 

 あの頃には思いもしなかっただろう。朝も嫌になる夢を見た。雨の日もあって、アンニュイな気分に浸っている。

 

 ここはあいつらとはだいぶ離れた土地、自分から離れて行ったくせにナイーブになってやがる。

 

 …思えば、あれからどこか満たされない日々だ、思えばって…随分と前からわかっていたことだ。

 

 先生と別れてから満たされる日はなかった。

 

 それどころか、焦って、苛立って、不安ばかり。

 

 胸にぽっかり穴が空いて、全部素通りしてしまうような感覚は先生に否定された時に感じたものに似ていた。

 

 どうしたらいいんだろうな。分からない。

 

 これからもあの時のように何かを耐えて生きるしかないんだと思うと、何も感じたくないように体からすっと力が抜けていく。

 

 後悔とは永遠に消えることはない。忘れるか他で塗り潰すしかない。俺はどれも拒んでいる。

 

 

 

「…祭り…あったな」

 

 

 

 夏は終わろうとしている。今日のように雨も降る。

 

 祭り…そういえば、今年はどうだったのだろうか。

 

 毎年行っていると聞いたような…あいつらは行けたのだろうか。

 

 先生が亡くなったのは15日、それ以降遊びに行くことなどなかっただろう。

 

 考えたところで俺には何もできない。

 

 …祭りには連れて行けるな。それともこの夏は先生を思い忍ぶだけで精一杯だろうか。

 

 声をかけるべきか、どう判断するべきかと迷っていると携帯が鳴った。

 

 携帯の画面を確認すれば、相手は五月だった。

 

 時刻はもう4時過ぎだぞ。まさか…そんな嫌な予感がするが出るしかない。

 

 

 

「す、すみません 上杉風太郎さんのお電話でしょうか…?」

 

「…人違いだと言ったらどうなる」

 

「し、失礼しましたっ!!」

 

「…

 …

 …切るのか」

 

 

 

 すまん、意地悪した俺が悪かった。明らかに声が上ずって緊張してますと公言するものだったからつい魔が差した。

 

 俺から五月にかけなおすと、やはり怒られた。

 

 

 

「子供ですかっ!

 どうして素直に出なかったのですか!

 無駄に緊張させられました!」

 

「緊張してたのは最初からだろ

 おまえは誰の携帯に電話かけたんだ、俺以外に誰が出るんだよ」

 

「そ、それは…この電話番号は何年か前にお姉ちゃんから教えていただいたものでして…

 合っているのか確証がなかったものですから」

 

「…姉全員は最新版知ってるんだから、確認すればいいだろ」

 

「しました! けど…!

 もう、こちらにも事情があるのです!」

 

「初めて電話する子供じゃあるまいし…

 で、何の用だ」

 

「…あ、あの…もしかしてお取り込み中でしたか?」

 

「いいや、どうした急に」

 

「…その 電話越しなので勘違いかもしれませんが

 上杉君、声に元気がないように聞こえて

 今日は来てくださらなかったので、もしかして体調が悪いのかと」 

 

 

 

 今日一日なかった、他人の声。不器用な子供に呆れているのに俺は、なぜこんなにも。

 

 …仮にも毎日来てた奴が急に来なくなったら疑問に思うか。

 

 

 

「さすがに毎日出向けば疲労も溜まる、一日休めば十分だがな

 それで、電話してきた理由は

 何かあったのか」

 

「…実は夏休みが終わる前に、お爺ちゃん家へ行こうと皆で話し合いました」

 

「随分と急だな」

 

「いえ、前から話は上がっていたのです

 …お母さんに挨拶をしに行こうと

 上杉君も一緒に行きませんか?」

 

「…」

 

 

 

 爺さんの家となれば…そこには先生の遺骨が置いてある。

 

 子供たちの下では荷が重いだろうと預かってくれているのだ。娘の亡骸に父親が一人で寄り添っている。

 

 納骨は先生が子供たちと共にいた地に。近くに墓を立てると話をしている。四十九日に納めてやりたいと爺さんは言っていたな。

 

 

 

「上杉君」

 

「―」

 

 

 

 この家は静かなものだ。窓を閉じても小さな雨音が耳に聞こえてくる。

 

 だから、電話の声を聞き逃したり、間違えることはないだろう。

 

 であるはずが、今の声が五月のものなのか判断できなかった。

 

 

 

「上杉君?」

 

「…い、五月か」

 

「?

 どうかなさいましたか?」

 

「ああ…いや、聞いてなかった…悪い」

 

「…お疲れですよね

 私たちだけで向かいます、ゆっくりしていてください

 …ごめんなさい」

 

 

 

 五月の声だと認識して、強張っていた体に力が抜ける。

 

 重症だな…意識過剰とかそういうレベルじゃない。

 

 ありもしないことを考えていたせいで、五月にいらぬ心配をかけてしまった。気落ちした声で気遣ってくれている。

 

 …行くのは構わないのだが、一つ疑問が思い浮かんだ。

 

 五月や子供たちが誘ってくれるということはつまり、やはり違うと思っていいのだろうか。

 

 

 

「…なぁ五月」

 

「はい?」

 

「…先生はよ…」

 

 

 

 俺のことを恨んでると思うか。

 

 娘に聞くのか? 俺は不安を拭えるかもしれないが、それは先生を侮辱しかねない。あの人は優しい人なんだから。

 

 俺もそう信じればいい。それだけだ。

 

 子供たちに心配をかけないよう姿勢を改めて言葉を返す。

 

 

 

「おまえたちの顔を見たいだろうしな

 俺も行こう、爺さんとも話をしたい」

 

「無理されなくても」

 

「いい、おまえら五人だけ向かわせたら爺さんに呼び出されそうだぜ

 監護責任果たせってな

 明日そっちに行くから」

 

「…はい、ありがとうございます」

 

 

 

 待ち合わせ時刻を確認して電話を切る。他人の声が途絶えてこの部屋は暗さを取り戻してしまった。

 

 他人を毛嫌いしていた人間が子供の声に一喜一憂してるんだぜ、滑稽だな。

 

 気分の浮き沈みが酷い。本で色々と調べたことがある。こういった前兆から欝になることがあるそうだ。

 

 抗うほど自分の意思と結果の違いに心を苛み病状が悪化していく。受け入れることがまず最初の治療とも聞く。

 

 …思えば俺はあの時先生に酷いことを言ってしまった。

 

 精神を病んでいただろう先生を責め立てるようなことばかりで、先生を受け入れようとしなかったんだ。

 

 酷い奴だ。先生には身体を休めて頼ってほしかった。それは違ったと今は思う。

 

 

 

「あぁ…また後悔が増えたぞ」

 

 

 

 この調子だとまた嫌な夢を見そうだ。掘り起こせば次々と拙さが暴かれていく、笑うしかない。

 

 悲劇の主人公か喜劇の道化か。心の弱さを嘲笑うのは他人を見下した過去の傲慢だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「ヤッホー!!」」

 

 

 

 能天気な声が木霊となって響いている。お気楽な奴らめ…

 

 四女と末っ子がリボンとアホ毛を揺らしながら走っていった。その先から楽しげな声が聞こえてきたのだ。無駄に体力が溢れている。

 

 姉の三人は呆れながら、こちらはペースを崩さずに進んでいく。焼けたアスファルトを重たげな足取りでゆっくりと。

 

 三玖は既に汗を滲ませ、姉を置いていく妹二人にドン引きしていた。あいつらと競ったら間違いなく倒れる。

 

 四葉は階段を上がった先で、早くーッと腕を振って呼んでいた。

 

 

 

「都会も良いけどやっぱり緑に囲まれた所も風靡があっていいよね! 夏なのに涼しいっ!」

 

「せっかく遠出しているのですから楽しんでいきましょう! 上杉君も!」

 

「…」

 

「その大声は…風情壊してる…」

 

「そんなことないよー

 山といったら木霊さんに挨拶しないと、三玖もどう?」

 

「断固拒否…っ」

 

 

 

 四葉のお気楽な誘いに三玖は心底嫌そうに拒絶した。同感だ、体力は温存しておきたい。

 

 周りを見渡せば山。長い坂道。夏の日差しを遮る青葉。地元とは違う光景が広がっている。

 

 昨日の五月との電話の通り、今日は子供たちの祖父の家へ行くことになった。俺も用があるし、そのことについて何も問題はなかった。

 

 五人について行くだけのことで気楽な気持ちだった。爺さんと顔を合わせ、先生にも手を合わせに行くんだ。堅苦しくない程度にフォーマルな服装で向かった。

 

 くそ厚い夏なのに冷や水をかけられたような、五つ子たちから予想外の問題を突きつけられた。

 

 

 

「おまえらの実家遠すぎ…

 山って…島って…

 日帰りしんどすぎるぜ…騙しやがって」

 

「ほんとごめんって…

 お爺ちゃんと仲良いからてっきり知ってるのかと思って」

 

「人生未踏の地だぞ…」

 

「男でしょ

 しっかりしなさいよ、だらしない」

 

「…フータローは悪くない…荷物持ってくれてありがと…」

 

「…手ぶらのあんたが死にそうな顔するのもどうかと思うわ

 運動神経最悪なんだから、二学期から運動部入ったら?」

 

「もう…遅い…っ」

 

「…それもそうね、悪かったわ」

 

「諦めの境地に達してるわ…」

 

「おまえら余裕あるな…」

 

 

 

 一花も二乃もこの道には慣れているのだろう。だいぶ歩いていながら、この二人も四葉も五月も余力がありそうだ。息が切れているのは三玖と俺だけ。

 

 俺の場合は厚い服装で暑苦しい上に、三玖と五月の荷物を持っている分、多少疲れやすいだけだ。三玖は完全に運動不足である。頑張れ三玖…

 

 爺さんの家に行くだけだってのに、五つ子が住むマンションの前で合流したら、子供たちはカバンやらリュックやら大荷物を抱えていた。

 

 女子の手荷物は多いとは分かっていたが、それにしたって多い。何を詰めているんだと聞いたら着替えとかもろもろ入っているとのこと。

 

 泊まりなんて聞いてねえぞ。当然こちらは宿泊の用意などしていない。

 

 距離を聞けば新幹線は使わずとも、電車の後に船に乗るとまで宣告された。何一つ知らないものだった。

 

 船にも時間がある。家に戻るわけにもいかずそのまま同行したのだ。お陰で俺の荷物は財布や携帯などしかない。

 

 この件については当初、五月は酷く落ち込んで何度も頭を下げていた。

 

 気に病む必要はないが、こちらの歩調に合わせろ…頭を撫でてやったら、しおらしく落ち込んでいた子供があの振る舞いだ。

 

 どことなく無理をしているようにも見えるが指摘しないでおく。昨日のアレに気を遣っているとしたら野暮な指摘でしかない。

 

 事前に知らされていない情報が多い。疲れが見えない長女に聞いてみることにする。

 

 

 

「なあ一花、ここって先生の実家でもあるんだよな」

 

「うん、お爺ちゃんは旅館の経営者でね、近くにお家があるんだって

 お爺ちゃん家っていっても、いつも旅館に泊まってるんだよ 温泉もあるし」

 

「…先生は上京してきたってわけか」

 

「大学進学の為とか言ってたよ」

 

「なるほどな…」

 

 

 

 これほど土地が違うと、爺さんが先生の墓の場所を希望するのもわかる。ここでは子供たちの足が遠のいてしまうだろう。

 

 娘が寂しい思いをしないように、そんな最後の心配りを。

 

 亡き娘は父親である自分よりも孫の顔を見たいだろうと、俺に頭を下げたんだ。

 

 一花からの情報収集はそこそこに。長い坂道や階段を登っていくと、田舎臭い山の中には不釣合いなものが見えた。

 

 

 

「鐘?」

 

「あー、あれ?

 …えっと、なんだっけ、カップル向けの」

 

「誓いの鐘と呼んでます

 男女が共にこれを鳴らすと永遠に結ばれるという伝説が残されているのです」

 

「ありがちだな」

 

「今のあんたには縁遠い代物ね」

 

「まったくだ」

 

「に、二乃…」

 

「…ふんっ」

 

 

 

 五月の説明に鼻で笑っていると二乃から軽い毒舌が飛んできた。その通りだが、それは冴えない男だと言っているのか、一昨日の話なのか分かりづらい。

 

 見上げると寺などに設けられている鐘とは違う、西洋風のものに場違い感が漂っている。

 

 女子はこういったジンクスや恋愛話にはうるさいものだ。男にはぱっとしない地味な鐘にしか見えん。反感を買わないよう口は閉ざしておく。

 

 

 

「よくみんなでガンガン鳴らしてさ

 お母さんに怒られてたけど、毎年やるもんだから怒るの諦めてたっけ」

 

 

 

 過去のこいつらはロマンも風情もない子供たちだったようだ。気を遣った俺が馬鹿だった。

 

 一花の暴露にやや呆れてしまうが、子供たちには思い出深いもの。

 

 目の前にある光景を振り返り、思い出話に華を咲かせる。

 

 

 

「山で遊ぶとお母さんやお爺ちゃんに怒られてたよね

 山には神様がいるからってさ」

 

「なんだそれ」

 

「山には神様がいるから、悪さしちゃダメって

 …悪さすると帰ってこれなくなる」

 

「ああ…よくあるやつね」

 

 

 

 四葉の言葉にオカルトかと疑うと、三玖の補足に納得した。子供に言い聞かせる怖い話の一つだ。

 

 だがしかし、大抵好奇心の強い子供は悠々と鼻歌を歌いながらルールを破っていく。

 

 四葉を睨むと案の定、罰の悪そうな顔をして、脂汗を流して目を逸らした。よく帰ってこれたなおまえ。

 

 

 

「ちが、違います!

 私も怒られたけど三玖だって!」

 

「私は四葉みたいに山で遊ばない」

 

「嘘だーっ!

 私三玖に連れてかれたよ

 探検に行こうって無理矢理!」

 

「え"…」

 

「三玖が探検か、珍しいな」

 

「そうでもありませんよ

 山に行き倒れになった戦国時代の武しょ――むぐーっ!!」

 

「…何やってんだ三玖」

 

「なんでもないっ! なんでもないから!」

 

「四葉、それ禁句だってば」

 

「私も誘われました…道に迷って泣かされた思い出しかありません」

 

「だいたい一花と三玖と四葉のせいよ、山関連は」

 

 

 

 俺の知らないところで、こいつらは盛大に先生を困らせていたらしい。俺の悩みが些細なものな気がしてならなくなってきた。

 

 山で子供の遭難など大事だぞ。先生も爺さんも、さぞ肝を冷やしただろう。こいつらの顔からは反省の色は見えず、笑い事で済んで良かったと心底思う。

 

 親に叱られたほろ苦い思い出は、今では色褪せてしまっている。語りたい相手が一人欠けてしまったこの時が、ふと悲しくなってしまう。

 

 

 

「…お母さんボロボロ泣いてた

 だからもうしないよ…」

 

「…うん、私もしないよ…」

 

 

 

 容易に想像しえることだ。先生は身を犠牲にしてまで子供を愛していたのだから当然だろう。

 

 当時の母親を思い出したのか、三玖と四葉は憂うように声を忍ばせた。

 

 か細い言葉でも分かる。

 

 もう探してはくれない母親に、子供たちは口を閉ざした。

 

 

 

「…あそこだよ、フータロー君

 あの旅館」

 

「ああ」

 

「お爺ちゃんにお礼言わないといけないわね

 ママにも」

 

「はい

 三玖も四葉も、泣いていてはいけませんよ」

 

「泣いてなんかないよ」

 

「はーい」

 

 

 

 一花が指で指し示す方角に、爺さんが経営する旅館が見える。

 

 子供たちにとって母親との思い出深い場所だろう。

 

 先生の実家ともなれば、ここから先はその思い出にもっと多く触れることになる。

 

 暑さでだらけていた心情が引き締まる思いだった。気を張っておかないと、今の子供たちのように感傷に浸りかねない。

 

 ゆっくりと前を向いて歩く子供たちの背中を見つめ。小さなそれが段々と大きく、強くなっていく姿を見て。

 

 せめて、こいつらが優しい思い出に浸れるようにと祈ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ フータロー君」

 

 

 

 子供たちから遅れて、古めかしい建物の入り口に向かっていると一花が足を止めて待っていた。

 

 子供たちは既に旅館の中に上がっており、旅館の従業員か女将と話をしている。

 

 四人から離れているこの場で、一花は一人で俺を待っていた。

 

 妹に聞かれたくない話なのだろうか、一花は目の前まで歩んできてこちらを見上げる。

 

 

 

「あ、そんな重たい話じゃないよ、リラックスしようよ」

 

「…」

 

「ちょっと長くなるかも…こっちおいでよ」

 

 

 

 けらけら笑っているが、おまえさっきまで唇きつく結んでたしな。何か訴えたいと言っているようなものだ。

 

 日向は暑いから、と一花が手招きで日陰に誘ってくる。

 

 木陰の道沿いには灯りを灯す行燈が並んでいる。木陰に隠れ、それと並ぶように立つ。

 

 

 

「またお爺ちゃんと色々話すんでしょ?

 その前に、ね」

 

「…聞こう」

 

「くどいと思われそうだけど言うよ?

 お金の話」

 

「しつこいぞ」

 

「言ってもまだ二回目なんですけどお兄さん…」

 

 

 

 話とは金絡みか。どうやらあの一件はまだ諦めてなかったようだ。

 

 一花は俺のぞんざいな態度に苦笑しながら木に寄りかかった。予想してました、と生意気に笑っている。

 

 楽観視はしたくない気持ちは分かる。先生の財産含めて爺さんが管理しているが、その間には俺が交渉人として割り込んでいる。

 

 子供たちが触れていない領域だ。将来を考慮して、高校生の内からバイトで稼いでおきたいと思っているのだろう。

 

 バイトするのは構わないし、やるなとは言わない。

 

 だが強いられているように感じて働いてもらっても困る。束縛された生活を過ごされては、爺さんが不安に思うだけだ。

 

 俺の言い方が悪かったとあれから反省している。わかっているんだが…爺さんの考えを押し付けるなと、本人から言われてるから説明しづらい。

 

 爺さんの無茶振りには後で文句言っておくべきだな…孫に言ってもいいだろそのくらい、自分の口でよ。

 

 俺の鬱蒼とした思考をよそに、一花は溜め息混じりに呟いた。 

 

 

 

「近々仕事が見つかるかもしれないんだ」

 

「…なに?」

 

 

 

 一花はさらっと告げてきた。待て、あれから二日だぞ。どういうことだ。

 

 いや止めるつもりはないが…もう少し考えてから決めてほしかったぞ。

 

 俺の訝しむ目に一花は俯いて続けた。悪いことをしたと、自虐するように。

 

 

 

「これはフータロー君と会う前から進めてたことだよ」

 

「…母親の為か」

 

「…お母さんには逆に迷惑かけちゃったけど

 こっそりね」

 

「迷惑?」

 

「私が高校進学せずに働くって言ったら、逆に仕事頑張るようになっちゃって

 お母さんに無理させたよ…」

 

「…

 そうか」

 

 

 

 俯いている一花の表情は見れない。その過去に後悔を残して、そのままでいるのだろう。

 

 優しさから起きたすれ違いだ。母親を楽させたい気持ちが逆に追い詰めてしまった。

 

 一度失敗しているからこそ、一花は今この場で俺に向き合おうとしてくれている。

 

 その気持ちがどこか必死なものが秘められていて、嬉しくも、不憫だった。

 

 

 

「話し合わないとね?」

 

「…ああ」

 

 

 

 もう後悔しない、そう一花は自信なさそうに笑った。

 

 知らぬ間に俺はこいつに酷い仕打ちをしてしまったようだ。

 

 

 

「それで何をするんだ、接客か?」

 

「あ、バイトと勘違いしてませんかな せんせ」

 

「…どういうことだ?」

 

「お母さんを騙す気だったんだから、それなりに稼げる仕事だよ」

 

「高1の分際で何を…

 …

 …高校生で稼げる仕事ね」

 

「うんうん、当ててみて」

 

 

 

 なに楽しそうにしてやがる。妙に自信ありげにクイズを持ちかけてくる。

 

 こちとら現役女子高生より遥かに流行に乏しいから、嫌なものしか思い浮かばないんだが…!

 

 

 

「ヒントはカメラ」

 

「カメラマン?」

 

「高校生じゃ無理だよ たぶんもっともっと稼げるの」

 

「もっともっと…」

 

 

 

 学生で稼げるもの。カメラで稼げるもの。女で稼げるもの。

 

 結論、水商売。

 

 はっはっは、確かに一花は先生に似て美人に育ったし稼げるだろうな。さすが俺が惚れた人の娘だ。はっはっは。

 

 笑えん。

 

 昔を思い出した。よく笑い、俺の手を取って遊ぼうと、お兄ちゃんと慕ってくれた子だ。

 

 膝枕してやったら恥ずかしそうに笑ってくれた子が母や妹の為に、どこの誰とも知らん男相手に水しょ――

 

 

 

「金のことは心配するなぁーッ!

 おまえあれか、俺が貧乏学生だったの気にしてるのか

 貯金見せてやろうか、少なくともおまえらの高校生活不便はさせないつもりだぞ!」

 

「なんかとんでもない勘違いしてない!?

 モデルだよモデル!」

 

 

 

 先生の娘にそんなことさせられない。決死の覚悟で止めなくては、と一花の肩を掴んでしまっていた。

 

 一花はあらぬ誤解だと慌ててこちらの肩を叩いて否定する。なんだ、違うのか。

 

 

 

「…モデル?」

 

「も、モデル…です…こんなのですけど…

 一応夢でもあったので…こんなのですけど…」

 

「あーそうか なんだモデルかよ、びびらせやがって

 いいじゃねーか頑張れよ、芸能界も大変だって聞くしなー 応援するぜ」

 

「う、うん

 …

 え、あれ、驚かない…?」

 

 

 

 本気でびびらせやがって。教職員としても先生の知人としても、例え毛嫌いされようと止めなくちゃならないところだったぞ。

 

 嫌な汗を流すはめになった。心臓も嫌になるほど高鳴って緊張していたのがわかる。

 

 頼むから貧乏だからって身売りなどしないでほしい。それされるくらいなら俺が養ってやるから。禁句を言わずに済んで良かったぜ…!

 

 モデルと言っていたがまだマシだ。一つ間違えると、きな臭い業界に陥るとも聞くが成功すれば華のある仕事だ。夢があるじゃねえか高校生。

 

 ………

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「は? モデルッ!?

 え、おまえが!?

 コーヒー盛大に噴出してたガキが女優だと!?」

 

「何のこと!?

 というかフータロー君疲れてない? 落ち着いて、ね?」

 

 

 

 疲れさせている原因はおまえしかいないぞ。なんだよモデルって。おまえコーヒーはもう飲めるのか? そうじゃないか。

 

 驚きはするが納得してしまった。再会してから、内心思っていたのだ。

 

 こいつは確かに美人に育った。スタイルも良いし顔も整っている…褒めてやりたいが複雑だ。セクハラ扱いされたくない。

 

 まだ幼稚園児だった五つ子は随分と周りから可愛がられていた。そいつらがもう高校生になり、可憐さだけではなく女性としての魅力も得ていると思える。

 

 …仕事ね。もうそんな年か、こいつら。

 

 少なくとも大学出てからと考えていたのに、早すぎませんかねお姉ちゃん。長女がしっかり者なら歓迎するべきなんだろうが、正直複雑だ。

 

 

 

「決まりそうってだけで、卵以下の話なんだけどね 一応目指してるから報告

 あとできれば声の音量下げてほしいな、みんなには言ってないんだ」

 

「言ってないって…母親との一件が後ろめたいからか」

 

「それもあるけど、そもそも普通にオーディション落ちるかもしれないじゃん

 いやぁ…高校受験より緊張してるかも」

 

「…勉強はどうなんだ、学校辞めるのか?」

 

「まだ未定かな…勉強は…

 …許して?」

 

「教師に何を許せと」

 

「あはは、そうだった

 あ、でもお姉さん…フータロー君の個人指導は大歓迎かも、なーんて」

 

「勉強机に縛り付けてやろうか?」

 

「体罰はんたーい…」

 

 

 

 誰にも言うなと釘を刺され、聞かれているのではないかと旅館の入り口を見れば、もう子供たちはいなかった。荷物を持って従業員に案内されていったのだろう。

 

 まだ決定されたものではないようだが、恐らく見込みの高い話なのだろう。もう仕事が決まると捉えるべきだ。

 

 

 

「ちゃんと家にお金入れたいからさ

 フータロー君が私たちに使うお金を賄う為にもね

 認めてくれる?」

 

「…仕事も、稼いだ金もおまえの好きにしろ

 退学は勘弁な、ちゃんと相談してくれ」

 

「りょーかい」

 

「入れたところで当分使わないだろうがな

 どうせなら自分で貯めておけよ」

 

「…

 フータロー君だってさ…家の借金の為に高校時代働いてたんでしょ?」

 

「知ってたのか」

 

「…私たちと一緒にいた頃からそうだったんでしょ?

 フータロー君って凄い頑張ってたんだね

 私たちの世話しながらケーキ屋で働いて、勉強も凄くて

 …お兄ちゃんにできて、私はできないのかな?」

 

「いや、そんなことはない」

 

「じゃあ…」

 

「…爺さんと話はする」

 

 

 

 妹から色々と話を聞かされたのだろう。高校時代の俺を例に挙げられると咎めづらかった。

 

 しかし、中野家には借金はないのだ。急ぎ恩を返そうとしなくてもいいんだ。借りを作るのが嫌だと言われたらそれまでだが。

 

 この件は爺さんと話をしないと後々揉めそうだ。

 

 至って善人の爺さんは引越しにかかった費用も払うと言ったが、これに関しては俺から拒否していた。絶対今日問われる。だって面倒なんだもん。

 

 一花の目は本気だった。自分で稼いだ金で家族を支えたい、祖父に恩返しをしたいと思うのならその意思を無碍にできない。その資格は当然俺にはない。

 

 蚊帳の外にするつもりはもうない。家の金ぐらい家族であるおまえらが直接話し合って決めてくれ。

 

 

 

「こうでもしないと…みんなも疲れちゃうよ

 お母さんが残してくれたお金だもん、無駄遣いできないよ

 だからあの子たちがバイトしたいって言ったら協力してあげて…?」

 

「…

 悪い、そこまで気が回らなかった」

 

「へへ、フータロー君の気持ちも嬉しいよ

 私たちを安心させたい一心なのは伝わってるから」

 

「…金を気にするならパフェの分遠慮しやがれお姉ちゃん

 特盛五人分なんて聞いたことねえぞ、完食に2時間もかかったしな」

 

「もう…っ

 そうやってはぐらかさなくていいのに

 素直に受け取ってくれればいいのにさー もったいない」

 

 

 

 女優を目指しているだけある。コロコロと態度と表情を変えて男を弄ぶ小悪魔だった。

 

 憂い気な顔を見せれば、優しく微笑み、呆れられたと思えば笑ってからかってくる。

 

 どれが嘘なのか勘ぐってしまうぞ。目薬を常備してたら最強な長女だった。

 

 

 

「はぐらかすと言うのなら

 おまえこそ、あいつら全員に伝えるべきじゃないか」

 

「うーん…でもなー」

 

「何だよ、煮え切らないな

 …人のこと言えないが」

 

「?

 まあ…そのさ、私だけ自分勝手って悪いじゃない?

 しかも…お母さんを困らせた前科もあるし

 あまり良い顔されないかな」

 

「…」

 

「フータロー君にも話そうか

 たぶん、ううん…

 お母さんが四月から寝込んだのは私のせい

 …あんな風に、お母さんを一人にしちゃったのも私が原因

 タイミング悪かったって、それだけじゃ済まされない…親不孝者」

 

「…おまえ」

 

「ごめんね、フータロー君

 もしかしたら…会えたかもしれないのに」

 

「それはねえよ、絶対に」

 

「嘘だよぉ…フータロー君こんなに優しいんだから

 絶対に会えたよ…」

 

 

 

 一花の言葉が重い。人の言葉がこんなに痛いと感じたのは初めてだった。

 

 一花は崩れそうな表情で笑っている。気丈な奴だ、

 

 母を貶めたかもしれない後悔を抱きながら、涙を堪え、長女として妹を守り、あの人の娘であろうと振舞っている。

 

 家族を守る為ならどんなに辛いことでも耐えなくちゃいけない。そう思っているのだろう。

 

 他でもない、母親がそうやって守ってくれたから。

 

 だがな一花…俺は知っているんだ。

 

 家族の為と言いながら、家族と向き合わないまま努力しては、いつかきっと間違ってしまう。

 

 

 

「夢を叶える為…大いに結構だ、胸を張れ」

 

「できるわけないじゃん

 ごめんね、フータロー君、余計な心配かけてさ」

 

「少なくとも家族を思ってのこともあるんだろ

 ちゃんと話しておいたほうがいい」

 

「…うん」

 

「…誇りってのは、やったから誇らしくなる」

 

「…?

 そうだね…?」

 

「自慢になる反面、やらなければ後悔になる厄介な感情だ

 家族を大事に思ってやるのなら…知ってもらえ

 一人で抱え込むと後悔するぞ」

 

 

 

 おまえはもしかしたら、俺が先生と再会できるかもしれないと言ったな。

 

 それが正しい、幸せに繋がると思っていたんだろ。俺もそうあるべきだったと後悔している。

 

 おまえがそれを望むのなら、おまえも同じだ一花。

 

 家族を思うのなら言っていいんだ。会って話せばいいんだ。言わなければ、いつか後悔するぞ。

 

 

 

「後悔って?

 言ったらみんなを傷つけるかもしれないのに」

 

「さあな

 だがな、優しさってのは誰かに求められたものでなければ…独り善がりになっちまう

 …もしかしたら理由が摩り替わるかもしれないな」

 

 

 

 嘘をつくのも守りたい誰かを傷つけることに繋がるんだがな。困った長女だ。

 

 おまえは俺ほど馬鹿じゃないだろうが、大事に思うほど傷つくこともある。

 

 痛くて情けなくて、他人の為に頑張れると言いながら一人になってしまっては…無理なんだ。努力し続けるなんて。

 

 

 

「人気の為とか、人より上に立つ為とかな

 金銭感覚狂って嫌な女になったり」

 

「…ふーん

 フータロー君随分と私を嫌な奴だと見ているようで」

 

「怒った?」

 

「怒った

 人気は必要だけど家族より優先するものじゃないからね」

 

「ああ でも話しておいたほうがいい

 自分の覚悟が不変的なものだと思い込むのはよせ」

 

「…」

 

 

 

 先生の言葉を借りるのは卑怯だろうか。だが教えなくちゃいけない。

 

 一花の目の前には良い見本があるんだ。参考にしておくべきだろ。

 

 

 

「家族の為と思う自分が誇らしく、生きる糧になったとしても

 何の為に努力してきたのか、一度でも忘れたら少しずつ変わっていくもんだ

 どれだけ徹していても、徐々に忘れていく

 いつかそれを蔑ろにされた時、自分の思いの価値を見失っていたらいとも簡単に手放す」

 

 

 

 時の流れとは残酷だ。気持ちは薄れていくし全てが鮮明に残るわけではない。熱意は徐々に冷めていくんだ。

 

 誰かに傷つけられた時。忘れてしまった時。思い起こすことができなければ破綻する。

 

 誰かの為と綺麗事を述べても実力がなければ他人に笑われ、道化役を演じさせられる。

 

 目的を見失えば妥協してしまう。弱い人間は他人の為でなく、自分の為に頑張ってしまう。

 

 しかしこれは停滞ではないのだ。努力しているのだから、成長することで成功に至るだろう。

 

 悪いことではない。だからこそ性質が悪かった。

 

 目的を見失っているのだから分別などできないんだ。何が成功で失敗なのか…捨てたくないものまで、捨ててしまうこともある。

 

 おまえもそうだ、一花。おまえ、言っていたじゃないか。

 

 話し合えば違っていたはずだ。だから話せばいいんじゃないのかよ。

 

 こんな簡単なことに気づけない程に一花は再び後悔することを、傷つくことに脅えている。

 

 

 

「おまえの熱意を否定するつもりはない

 だがもしも、後悔に変わってしまったら俺は嫌だな」

 

「…考えておくよ」

 

「ああ」

 

「フータロー君は、忘れちゃったの?」

 

「ああ 恥ずかしい話まともな人間じゃねーよ

 昔は他人を見下してばかりだった

 勉強できねえ奴は怠け者、できることをやらずに人を貶すだけで満足するような人間だと決め付けた」

 

「そうなの…? 意外…

 私たちほら…迷惑かけてばっかりだったから、お人好しさんかと思ってた」

 

「先生によく叱られたからな、怒られた後におまえたちと出会ったんだ

 …勉強できなくても、おまえのように頑張ってる奴はいるのにな

 …馬鹿だったぜ」

 

「…」

 

「頑張れ、お姉ちゃん

 俺みたいな奴に負けるなよ」

 

 

 

 学業にばかり目を向けて、テストの点数を見て小馬鹿にする奴がいる。見下して決め付けるような奴までいる。

 

 中卒なんてまさにそんな輩の非難の的だ。晴れてモデルとして仕事に就いても、妬みや謂れのない中傷の被害に合うかもしれない。

 

 家族を思う気持ちを傷つけられた時、弱い人間は変わってしまう。わかってくれない、と嘆いても他人は聞いちゃくれないぜ。

 

 だからその前に、おまえには妹がいるんだから。ちゃんと話しておけばよ、きっと支えてくれるだろ。

 

 

 

「あんたたち、まだここにいたの!? 探したじゃない」

 

「お爺ちゃんが一花はどこだーって心配してるよ! 倒れちゃう前に早くっ」

 

「大げさな…わかった、先行ってろ」

 

「…」

 

 

 

 おいお姉ちゃんよ。何でしゃがんで隠れようとしているんだ。バレバレだぞ。

 

 長話をしていたせいで二乃と四葉が旅館の入り口から顔を出して呼んでいた。今は長女が動けそうにないから先に行ってもらった。

 

 で、何で妹の目から隠れようとしたんだこいつは。

 

 

 

「…やっぱり話しづらいかなー」

 

「おまえな」

 

「気にすると思うんだ

 私が言ったらさ、自分も働かなくちゃって思うのが自然でしょ

 私はさ、これがやりたいことだから何も苦じゃないんだ

 皆は違うでしょ?」

 

「…」

 

「あの子たちもきっと始めると思うよ、変わっていくと思う

 でもそれは今じゃなくてもいいじゃん、フータロー君が好きにしろって言ってくれたし

 今は私だけでいいのにさ…お姉ちゃんに任せてくれればいいの」

 

 

 

 頑固者め。俺の助言は一切聞いてくれないらしい。

 

 俺の過去の失敗など考慮に値しないそうだ。やるなお姉ちゃん、むかつくぜ。

 

 しゃがんだまま、一花は膝を抱えてしまった。

 

 立ち上がり、妹と顔を合わせるにはまだ何かが足りない。

 

 後ろめたさを抱えながらやっていくしかない。そう決まってしまったから。

 

 一花は俺には話してくれた。それが義務ではなく、助けを求める声だったのなら。

 

 …長女は苦笑しつつ溜め息を吐いた。

 

 この子もまた、一人で抱えようとしている。

 

 

 

「…手でも握るか」

 

「…

 …へ?」

 

 

 

 その手を握って、引っ張り上げて一花を立たせる。

 

 強引な素行に一花は目を見開いて驚いている。

 

 そのまま手を引いて旅館へ向かった。

 

 

 

「ちょ、ちょっとフータロー君っ!?

 て、手っ!」

 

「強情な長女だ」

 

「え!?」

 

「話した結果、後悔するかもしれないんだろ

 分かりきってるっつーの」

 

「だったら…そ、それよりも何でっ」

 

「やりたいようにやってみろ、見てやるよ」

 

「…」

 

「ドジなおまえがどこまでできるかな」

 

 

 

 怖がる必要はない、と笑ってやる。一花は珍しく顔に出るほど慌てていた。

 

 妹たちに話せない、甘えられないって言うのなら仕方ない。

 

 ならば当分…見てやるよ。困ったら助けてやるから。

 

 昔も似たようなことを話したな。こいつは覚えているだろうか。

 

 いや、残念だが…あれからこいつは変わっていないようだ。俺からの助言は完全に忘れ去られているようだ。

 

 みるみる俯いていく一花は抵抗せずに、されるがままついてくる。

 

 その力ない指が、俺の手を握りしめた。

 

 

 

「意地悪…」

 

 

 

 怒らせたかと振り返れば、一花は笑っていた。

 

 

 

「遅い…まだかかるの?」

 

「お爺ちゃん心配性なので、お二人共っ」

 

「ん? 一花何してるの?」

 

「何で隠れてるのよ、隠れられてないけど」

 

 

 

 旅館の入り口で慌しい妹たちが急かしてきた。

 

 なのに、この長女はまた妹の視線から隠れてしまっていた。俺の背中に身を屈めて。

 

 困った子供だ。本当に変わっていない。つい笑って、一花を背に隠してやった。子供の指を包む手も背中にして。

 

 しがみつくように掴んでくる手を離さず、握ってやる。

 

 はしゃぐ気持ちが胸から溢れてしまったような声音が背後から聞こえた。

 

 

 

「子供じゃないよ」

 

 

 

 手はより一層強く握られ、一花の額が背中に寄りかかる。

 

 合言葉のような、そんな言葉。

 

 頼っていいんだと、お互いの距離が近づいたこの感覚。

 

 まるで寂れて止まってしまった秒針が動きだしたような。

 

 顔を合わせたら笑ってしまうような。そんな二人だけの秘密の言葉に感じられた。

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