まだ日が高いこの時間、部屋の明かりは付けずに済む昼間だった。
客間とは違う一室で、子供たちと共に畳の上に正座している。
この部屋は日の当たる日向とは別の空間かのように思える薄暗さがあった。
たった一つ、物があるだけでその部屋の空気は変わるものがある。
子供たちの視線の先には仏壇が置かれている。
蝋燭には灯、花瓶には菊の花が、位牌と共に女性の写真がひっそりと置かれている。
葬式で見たものだ。黒いリボンがもうこの世にはいないことを強調している。あの時のままだった。
あれから数日。泣いてばかりの子供たちは少しずつ悲しみを胸にしながら懸命に前を向いて進んでいる。
子供たちは大好きだった母親の遺影を見つめていた。
子供たちの祖父は孫の様子を一瞥し立ち上がった。仏壇の前へ赴き、線香を取り出していた。
「あ、お爺ちゃん…私もお線香上げてもいいですか」
「ああ…零奈も喜ぶだろう」
「わ、私も…」
「私もする」
「私もっ」
「あはは…みんなでしよっか」
母を供養したい気持ちから、子供たちは立ち上がって線香を一つずつ手に取った。
俺は身内と違うわけで…その様子を静かに見つめていた。
「あ、あの…上杉さん…っ」
「ん?」
「さ、作法とか…教えてくれませんか」
「いいんだよ、一番大事なのは弔う気持ちだ」
「一応っ」
母親の前で何を畏まってるんだこの子は…
四葉は線香を手にして助けを求めに来た。そんなこと、ここに来る前に聞け。走り回る前にな。
今時ネットで簡単に調べられるのに…母親に線香を上げるために調べようなんて気が進まないか。
仕方ない。先か後かってだけで、俺も先生に線香あげるしな。
渋々立ち上がると五つ子から、見本を見せてと先頭に押しやられた。おまえら全員もかよ。
「…」
爺さんから線香を受け取って、遺影の前に正座する。
線香一つに仰々しいと思うかもしれないが、真に故人を思っている今は…一つの動作に意味があると感じられる。
背後の視線でやたらやり辛いのだが。爺さんも視線が厳しいしよ。
俺だってな、先生が始めてなんだぞ。母親にだってこんな堅苦しいことをしたことない。
遺影に、先生に一つ頭を下げる。
先生、貴方の娘は…これまでのことを話してくれました。
…先生、あんたは俺を恨んでいるのだろうか。
蝋燭から火を分けて貰い、線香に火を灯す。
「…」
そのまま線香を香炉の灰に入れる。
一人一人大勢でやる方法など知らない。この場で手を合わせて頭を下げる。
思うものはさっきから一つだけ。ここに来てまで…本当に呆れてしまう。
不甲斐ない男ですまない。
考えるのはもうやめよう。今はこの時を壊したくない。
「…線香の火は仰いで消しちゃ駄目だぞ
型に習う必要もないだろうがな」
「は、はい」
振り向けば俺の堅苦しい動作に子供たちはどこか萎縮してしまったようだ。気持ちを込めれば良いって前置きしたのに。
仏壇の前から退いて、子供たちから離れて正座する。
子供たちが母親の前で両手を合わせて黙祷を捧げている。
時折、肩が震え、鼻をすする音が聞こえても、五人の娘たちは母を思い続けていた。
「孫たちは受け入れたのだな」
爺さんが俺の前に正座して座った。座布団もなく、俺は恐縮して頭を下げる。
旅館の営業中だと聞いたが、孫の為に時間を割いてくれたらしい。虎岩温泉という名が書かれた羽織を着ていた。
正座させるのも悪いと思ったが、正座する姿はどこか様になっている。
恐らく、娘の前でも同じように。今日までずっと。
そう考えると下手に気を遣って止めるなど、その気は失せた。
「思い出話をよく聞かせてくれます
道中もよく話していた…山で迷ったと」
「…ああ
零奈が酷く焦燥に駆られていた…わしも数年寿命が縮んだ」
「…」
それはジョークか。笑っていいのかサッパリ分からん。
「遠路遥々、ご苦労だった」
「いえ」
「手荷物が少ないが…」
「ああ…その、日帰りで」
「遠慮せずに泊まるといい、換えの服などこちらで用意する」
「…」
「…気が向いたら教えてくれ」
「ありがとうございます」
気を遣われてしまった…気が向かないと言っているようなものだ。申し訳ない。
子供たちは線香を上げ終えたようだ。静まっていた部屋が少し明るくなったような気がする。
「上杉君のように慣れていくのでしょうか」
「…なに?」
「え?
…気に障ってしまったのならごめんなさいっ
先ほどの上杉君のように上手くなれたらと」
「違う違う
…参考になったんなら良かった」
「うぅ…私はまた失礼な発言を…また幼稚だと思われてしまいました」
よく分からないが、線香の上げ方なんて失礼のない限り雑でもいいと思うんだが。
何を思ったのか知らないが五月は落ち込んでしまった。俺の機嫌を損ねたんだと勝手に落ち込んでいやがる。困った奴だ。
実に困った。なにせ爺さんの目が怖いっ!
急いで機嫌を取ることにする。なんて言われるかわからん。
「いや、俺なんかな、お袋にすらまともに線香上げてなかったんだ
見本とか言われても不安だったんだがなー」
「そうかな
フータロー、綺麗だった」
「そ、そうそう
だから五月ちゃんも上手くなろうって思っただけで」
「ちゃんと思い遣ってあげてるって伝わりましたよ
ありがとうございますっ」
「そーかい…」
それこそ思いを込めればらしく見えるって証拠だ。五月もできるはずだ。
口にはしないでおく…二乃の視線も少し厳しくなってきたからな。母親の前で迂闊なことはできん。
「お爺ちゃん
改めてお礼言わせて
お母さんが亡くなってから、助けてくれてありがとう」
「すぐに来てくれたの、本当に助かったから
お爺ちゃんがいてくれなかったら、何もできなかったもの私たち」
「…」
一花と二乃が礼を述べるが爺さんは黙っていたままだった。
顔はにっこりと笑っているが。孫の前だと本当に気の良い爺さんなんだろうな。
たった一人の娘が亡き今、この五人の孫だけが残された希望なのだろう。
「あの日、お爺ちゃん寝ずにお母さんにお線香上げてくれてたんだよね
大変だったよね…?」
「私たちはずっと泣いてたし、ごめんねお爺ちゃん」
「お葬式も…お母さんもこちらで弔っていただいて
甘えてばかりですよね」
「…零奈の通夜は
…らいはちゃん…だったか、あの日来てくれた」
「ああ」
「お主も、お主の父親にも手を貸りた
わしのような老いぼれ一人にできることは少ない…礼には及ばん
上杉君のご家族には、ちゃんとお礼言っておきなさい」
「…素直じゃねーな」
「…」
「なんでもないです、はい」
先生が亡くなった通夜はらいはと親父が手伝って、交代で先生への線香を絶やさず灯していたが…この人は寝ていなかった。
先生と五つ子の家庭はお世辞にも恵まれたものとは言えなかった。
親としてもっとしてやりたかった。もう辛い思いをさせたくないが為の思い遣りだったのかもしれない。
その上、俺と子供たちについて話し合っていたし、この人はご老体でありながら、連日休まず動き回っていた。
先生が棺に眠る傍らで、固まっているかのようにずっと写真を見つめていたこともあった。正直あれを見ていた時は不安でしかなかった。
逝っちまうんじゃないかと頭に過ぎったものだが忘れたほうが懸命だ。えらい目力で睨まれてしまった。この爺さんまだ長生きできるだろ。
爺さんがはぐらかすもんだから、今度はこっちに矛先が向いた。勘弁してくれ。
「あんた…何やってたの、あの日」
「…葬儀社に連絡取ったり、案内状を作ったな」
「知りませんでした…やはり上杉君も来てくれていたのですね」
「フータロー…
…お姉ちゃん、おにぎり作ってくれた…
まだお礼言ってなかった…」
「上杉さんのお父さんも…お線香上げててくれたんだ」
「私たちはずっと泣いてたよね、情けないや」
「おまえらは泣いてていいんだよ、余計なことに気回すな」
後戻りしないでくれと思ったが、子供たちは落ち込むことはあっても悲観はしていないように見える。ひとまず安心した。
先生が亡くなってからのあの三日間、子供たちが見ていない出来事は沢山ある。
この子たちは狭い家で母親の亡骸を見ることを拒むように、部屋の隅っこで泣いていた。
一花は妹を慰めながら…誰にも見られないようにと、トイレで何度か泣いていることがあった。
二乃は泣く時は家を出て一人で泣いていた。部屋のほうを見てはまた泣いてしまったと、らいはから聞かされた。
三玖は脱衣所で膝を抱えて泣いていたそうだ。一花やらいはが慰めても顔を上げてくれなかった。
四葉は泣いていたこともあれば、抜け殻のような目で先生をみつめていた。俺も見ていたが…あの目にはきっと先生しか見えていなかったんだろうな。
五月はずっと泣いていた。先生の棺の前で焼香を上げていた参列者は彼女の声に心を悼ませていた。
せめてもの救いになればと香典以外にも多くの物を頂いたそうだ。
それほど、あの頃の子供たちは絶望と喪失感に打ちひしがれて泣いていた。そんな時に大人が何をしていたかなんて気にする必要はない。
笑ってくれればいい。それがあの場にいた大人が抱いた願いだ。
「…零奈の遺品だが」
「お、お母さんのですか」
「あの時はろくに見れなかっただろう
ついてきなさい」
「そ、そうですね…
ちゃんと見ておきたいですし」
「うぅ…」
「四葉、泣かないの…娘なんだからやってあげないと」
「だって…昔描いた似顔絵があるんだもん…」
「整理整頓苦手なあんたに言われるのもね…」
「一花には絶対に任せられない」
「…そこまで言われたら私は見てよっと
四葉任せたよー」
「うーっ…はい」
それぞれ思うものがある中、遺品を整理しようと爺さんについて行ってしまった。
…俺も行くべきなのかこれ。身内と他人の境界で右往左往していて非常に心苦しいぜ。
「何やってんのよ上杉っ 置いてくわよ」
「…」
子供たちが足を止めてしまい、二乃に睨まれた。家族水入らずでやるべきじゃないのかそれは…
声をかけられたことで、仏壇からその場を後にする。
つい、振り向いてしまった。
あの写真の下、観音開きになっている棚には…先生の遺骨が入っているのだろう。
名残惜しい気持ちが胸に残った…が、無理矢理踵を返して子供たちを追った。
「しかし…旅館に遺品を置いてたのか…」
そもそも先生の遺骨を旅館に置いていたとは予想外。経営者となればある程度自由にできるだろうが…いいのか?
「従業員には周知済みだ…誰もあの部屋に用などない
わしもしばらく家には帰っていない
誰もおらんからな…ちゃんと見ている」
「…」
「ここは…零奈にとっても思い出のある場所のはずだ
子供の頃からよく遊んでいた…
寂しいかもしれないが、あともう少しここにいてもらう」
ここがあるべき場所ではないと、そう爺さんは述べている。娘は帰りたがっているんだと。
母の死に嘆く孫に気を遣って、やむを得ず預かっている。手放す日が訪れたんだと爺さんは悟ったのだ。
…小さな背中だ。
その小さなものに、愛する娘の死を抱えるには…荷が重いだろう。
これは侮辱になるか。だが本来なら親が子の死を知ることなど、あってはならない。
爺さんに案内された先は小さな一室。掃除が行き届いていて小奇麗な部屋だった。
畳の上には布に包まれた箱や衣類が綺麗にまとめられて置かれていた。
引越しの際見受けられなかった、先生の遺品だろう。その中には俺が昔見たことのある物が幾つか見えた。
もう主のない私物。それが娘の手に触れられる。
「…これ、どうしましょう」
「持ち帰りたいものがあれば持っていきなさい…
ここに置いたままでも構わん」
「…やっぱりあった…似顔絵」
「それって…」
「?」
「…俺も知ってる、懐かしいな」
四葉が手に取ったものを見て…堪えるものがあった。
あの絵だ。子供たちと一緒にあの家に泊まった日に、子供たちが描いた先生の似顔絵だ。
十年も前の物だ。丸められた厚紙は色あせてボロボロになっている。
それでもあの時のままの絵だった。母親の周りには五人の子供たちの顔が描かれている。
五人の視線が集り、揃って目を逸らしてしまった。
誰かが泣けば貰い泣きしてしまうから、か。
「上杉さん…」
「…」
「う…んくっ…ぅうっ……!」
「わかった、泣くなら泣け」
「う、うぅう…うぅうぅうッ!」
三玖が心配して黙って四葉の背を押した。
四葉はボロボロ泣いて、似顔絵を胸にしながら寄ってきた。
ここに来て涙もろくなってしまったようだ。四葉は声を押し殺しながら泣いていた。仕方なく頭を撫でてやる。
十年前はその似顔絵を手に笑い合っていたのにな。
見れば五月も泣いていた。一花と二乃が頭や背中を撫でている。あの子が泣くことはもう知っていた。
立ち直りつつある子供たちは泣くことが少なくなってきたが、母の遺品を目の前にすれば思い出してしまうだろう。
爺さんはいつの間にか出て行ってしまった。
話したいことがあるんだ。四葉が泣き止んだところで爺さんを追うことにした。
「爺さん」
「…よく見せてくれたものだ」
「?
何のことですか」
「似顔絵だ」
普段でさえ細い声が掠れて聞こえた。
…爺さんは孫が思い馳せる時間を遮らない為に離れて行ったと思ったが少し違ったようだ。
先生は…絵を描くのが上手だったな。
父親なら知っていただろう…
爺さんの前には進んではいけない。それぐらい分かった。
「…
恥ずかしいと言ってな
新しいのをいつか描くから捨ててくれと言われたこともあった」
「…」
「…後悔しているよ」
いつか、そう約束していた。
その約束は果たされずに終わってしまった。爺さんはあの場で、無くなったものがあることを思い出したのだろう。
まだあれから半月も経っていない。
爺さんは歩みを再開し、俺は静かに後を追った。
どう声をかけたものか悩んでいると、廊下の柱を目にして尋ねてみた。
「子供のか?」
柱に古い傷が幾つか刻まれていた。
子供の背丈の成長を示すものだと見て取れた。
あの五人のものか、それとも。
爺さんはまた足を止めた。視力が落ちて見えづらいのか、その目で柱を見つめている。
「零奈が小さい頃にな」
「…」
「…」
思いを馳せることは悪いことじゃないんだ。
邪魔したくなかった。
長く虚しい、そんな長い時間が必要なのかもしれない。この人を待ち続けることにした。
「…すまないな」
「…」
答えることができなかった。その言葉は俺に向けたものではないように感じられたから。
視線はそれに向けたまま、その父親は口を閉ざして俯いていた。
視線の先には思い出にある小さな娘があったのだろうか。その柱が刻む時と同じく。
昔のように、そんな言葉を投げかけて、その手を掴むことはもうできない。
過去なのだから、懐かしむことしかできない。その人に触れたことを思い出すことしか。
生きてさえいれば、また手を取ることはできた。同じ思い出を共有し共に過去を振り返ることができた。
そこに小さな幸せがあったはずだ。共に懐かしんだ後に…またいつか再び懐かしんでくれるだろう。親子はこれを繰り返すのだ。
人が去る順番は、決められている。懐かしむのは…子の役目だ。
子供たちの祖父はゆっくりと歩き始めた。
長い時を歩み疲れているせいか、何かに引き摺られているのか。後ろから見ていても…酷く小さな背中に見えた。
迷った…! ここがどこなのか分からないッ!
爺さんを追って子供たちから離れたのは迂闊だった。
あの状態の爺さんと話ができるわけがなく、俺にそんな度胸があるわけがなく、適当に切り上げて別れることになった。
爺さんから逃れるように離れたまではいい。だが、まだ子供たちの部屋を知らされてないし、俺が泊まる部屋など用意されていないわけで、旅館の中で迷うはめになった。
旅館の入り口からだいぶ離れていたようで、旅館の従業員を捕まえるのに時間を浪費してしまった。
五つ子の保護者だと伝えると既に俺のことも知らされていたようだ。名前を確認した後に子供たちの部屋を教えてくれた。
子供たちは泊まるそうだが、俺は生憎日帰りの予定だ。旅行を楽しむためにきたんじゃない。
爺さんからも許可は出ている。泊まっていく事に問題などないが…正直気乗りしない。先生の実家であるこの旅館はどうも落ち着かない。
…一番の懸念は…あの悪夢を見た後に子供たちと顔を合わせたくないことだ。
絶対に見る。間違いなく見る。死んででも見る。己の精神を鑑みれば容易に想像できる。
母親のことで魘されていると知られたら、怒りを通り越して五月に泣かれそうだ。絶対に感知されてはならないことだ。
この島から出る最後の船は18時頃。それに間に合うようにここを出なければならない…非常にめんどい。
「もう…お母さんの物なのに涙で濡れるところだったわ
温泉で顔洗っておきなさいよね」
「だってぇ…もう、使わないって思ったらなんか悲しくて…捨てられないよぉ!」
「四葉の気持ちは分かる…
これはお母さんが亡くなった時とは違う辛さ…」
「…ごめんなさい、私また泣いてばかりで
一花と二乃…三玖は心の整理ができていたのですね、すみません」
「いいのいいの…
人によって亡くなった人に対して泣くタイミングが違うらしいからね」
「タイミングですか…それはどういった時でしょうか…」
「亡くなった時、お葬式の時、線香を上げた時、思い出を語った時
自分の当たり前の生活からいなくなったと感じた時とか
亡くなったことを知らない人から、いますか?って聞かれた時とか」
「ありそうです…私なら全部泣いてしまいそうです」
「…それ以外に棺を作る時、棺に花を添えた時、葬儀社の人と話をした時
あ、これはペットが亡くなって飼い主さんが作った時だね」
「はぁ…」
「何かの為に…ううん、亡くなった人の為に何かをしてあげる時は責任だけを感じて平気でも
それをやり終えた後に実感しちゃうんだろうね
もうこの人にしてあげることはないんだってさ…辛さしか残らないの」
「なんか切ないわね…嫌よそんなの、居た堪れないもの」
「…一花はどうしてそのようなことを」
「ちょっとね、調べました…だって五つ子なのに差があるんだもん
…あの人はどうなのかな」
視線の先に宿泊部屋の一室から子供たちが出てきて、こちらとは逆方向に向かっていった。
何を話しているかまでは聞き取れなかった。だが遺品整理は終わったようだ。
子供たちは私服から浴衣に着替えたようで、布に包まれたものや手提げ袋を手にしていた。
風呂か。温泉があるって聞いたし。ゆっくり浸かってくるといい。俺は無言でその背を見送った。
…
「…置いてけぼりかっ」
人の実家で放置してくれるな。お兄ちゃんグレるぞ。あいつらは俺が爺さんと話し込んでいるんだと思っているんだろう。
しかしタイミングが悪い。今が昼過ぎだ。泊まりは断ったが飯ぐらいは頂きたいものだ…
仕方なく部屋で待たせてもらおう。子供たちが去っていたところで部屋に入ることにした。
結構な広さのある客室だった。廊下を歩いてみた感じ旅館の客は少ないようで、広い大部屋を借りれたようだ。
テーブルの前に腰かけると、何やら古めかしい箱が目に入った。
小物入れだろうか。なんだ、菓子入れか。
気になって蓋を開けると…少し後悔した。これには先生の私物が納まっていた。
「…
持ち帰るのか…?」
空けてしまったことに躊躇ったが、触れてしまっては手遅れだ。興味もあったし拝見させてもらう。
使えるのかこれ。カードも全て抜き取った財布や、ページが埋まった手帳、止まってしまった腕時計や解約したであろう携帯など…使い古したペンなど雑貨ばかり。
あとよく分からないものもある。
なんだ…小さい筒か。文字は掠れて読めそうにない。
「片付けたんだから漁らないでくれる?」
「うおっ!?」
ドスの効いた声に背筋が強張り、肩が跳ね上がる。
振り向くと真後ろに二乃が仁王立ちしていた。おまえ、あいつらと風呂行ってたんじゃないのか。
二乃は他人が触るなと、俺が手に持っていた蓋を取り上げて箱を閉じた。
触ってしまったのは申し訳ない。しかし、明らかに嫌悪されている振る舞いに言葉が出なかった。
二人きりになってこれか…やはり嫌われてしまっているようだ。
一時期物腰が柔らかく見えたものだが不安は的中していた。
だからこの場に居続けることはまずいと頭の中で警告が鳴っている。ここは母親の実家なのだから。
「お爺ちゃんと何話してたの」
「…何も」
「嘘」
「いやマジで…話せる雰囲気じゃなかった」
「隠し通す気?」
「勘弁してくれ…」
母親や子供たちの実家となると必然、母親を思う機会が多くなる。先ほど母親の遺品に触れていたのだからな。
二乃は母親の話題に過敏に反応してしまっている。
爺さんと何を話していたのか、恐らく母親絡みであることも知って追求している。
冷や汗が流れる。この子は俺と爺さんが何を話したか、何を隠しているのかを知りたいのだろう。
非常に厄介な子だ。後ろめたいからといって、言えないことだってある。
「言えん」
「…部外者のあんたがママの何を隠してるのよ」
「…まさか、それを聞くために待ってたのか」
「なわけないじゃない
あんたが部屋に入るの見たからよ、偶然
私達に気づいてたくせにコソコソと…」
「いや風呂に行ってたんだろ、さすがにな」
「はぁ?
ずかずかとここまで入ってきて、何に気を遣ってるのよ
勝手に入った挙句…ママの物まで」
確かに、女部屋に男が入り込んだら不審に思う。そこまで気が回らなかった。
言い訳するにも分が悪い。誠実さのない誤魔化しは二乃を怒らせるだけだ。
降参するしかない。二乃の怒りが納まるまで謝り倒すしかないか…
…普通なら絶対にキレて適当にあしらっている。昔もそうだ、恩師の子供だから当然だが…この子には弱い。
「…悪いと思っている
先生の物を荒らしたかったわけじゃない」
「…」
「…いるべきじゃねーってことも…
爺さんと話が済んだら帰る
穢して悪かったな、おまえらの故郷」
忌み嫌う人間に、大切な人の遺品に触れられたら怒る。俺もそうだ。
大切なものが他人に土足で荒らされる。それは俺が心底嫌い、他人を疎んだ要因だ。二乃の怒りは当然だった。
二乃は静かに怒っている。だが、その目がゆっくりと横に逸れた。
「…今のは、言いすぎたわ
勝手に上がられるのは怖かったけど…あんたでよかったわ」
「…」
「一言言いなさいよ…勝手にどっか行っちゃうし」
…もし仮に、本当に不審者が入り込んでいたら、俺を呼ぶつもりだったのだろうか。
それは…マジで悪いことをした。二つの意味で。侵入者が俺であったことに、怒りと同時に安堵もあったのだろう。
「答えられないものもあるが…一応話くらいは聞くぞ
誓って嘘はつかん」
「…今はいいわ
あんた死にそうな顔してるし」
「マジか」
「…何があったのよ、大丈夫なの?」
「大丈夫って……ははっ…」
さっきまで張り詰めた目つきをしていた二乃が、俺の顔色を窺って態度を軟化させている。
また子供に心配されてるのか俺は。嫌悪されていた二乃にまで。
爺さんも俺も、子供のことばかり心配して自分がおざなりだったんだ。
子供の為にと後回しにして、一つの区切りをつけた後に…とうとう自分たちに順番が回ってきただけのこと。
面倒な点は、子供に悟られないように解決しなければならないことだ。歳を取ると面倒事が増えるものだ。
「大丈夫だ」
「…」
「あいつら待ってるんじゃないか、行けよ
ここは見とく、妙な男が来たら追い払ってやるから」
「…」
「…?」
「ぐ…っ」
「ん?」
「ぬ…ぬ、んぅうううっ…!
う、上杉っ!」
何を急に歯を食い縛って悶えてるのかと思ったら、二乃に手を掴まれた。
予想外だった。てっきり触れることすら嫌悪を示しているものだと思っていたから。
強引に、乱暴に引っ張られ、そのまま廊下に連れ出された。
パタパタとスリッパで駆け出して、長い髪を揺らす二乃は一切振り向かない。意固地なままに俺の手を掴んで走っている。
「お、おい」
「ちょっと来なさい!」
結局怒ってるし。抵抗したら余計に怒らせるだけだからついて行く。
どこに向かうのかと思ったら、温泉だった。
三つの暖簾が下りている。男、混、女と。
女側のほうは少し騒がしい。脱衣所にあいつら四人がいるようだ。
…いや、そもそも何で風呂場。もしかして。
「…俺臭い?」
「…」
二乃にジト目で睨まれ、クンクンと服を嗅がれた。
この後の展開は分かりやすい。俺だって多少自覚している。
うえーと舌を出して数歩距離を置かれた。的確に人の心を抉る次女であった。
「汗臭いし、埃っぽいというか、湿気臭いというか、あと線香臭い…うぇ…」
「散々だな」
駄目だしのオンパレード。後半三つはここの環境のせいだがな! おまえにも共通して言えることだ。
風呂に入れってか。まあいいけど。
子供の要望通りに男湯に向かおうとしたら引っ張られた。今度は何だ。
さっきから袖を掴まれている。意図が分からない。おまえ俺のこと嫌いじゃないの。
「…こっちよ」
「…何のつもりだ」
「チビっ子には手、出さないのよね」
「…ああ」
「ならいくわよ」
「いや待て、そうはいくか」
袖を引っ張り二乃が向かおうとする先は、何度見ても混浴のほうだった。
正気かこいつ…
一緒に入ろうなどありえない。何か意図があるのは分かるが意味が分からない。社会的に殺すつもりか。女子高生怖すぎる。
袖を引っ張り、混浴に連れ込もうとする二乃に全力で抗う。服が伸びそうだ。安くはないんだぞこれ!
「何が目的だ」
「あんたは私たちを子供と見てるんでしょうけど
そ、それなりに可愛い自覚はあるわ」
「…自分で言うな」
さっき不審者がどうのって話になったが、まさか何かあったのか。
確かに俺が今まで見てきた生徒の中でも、二乃はその言葉に当てはまる女子だろう。
五つ子である姉はモデルになるとも言っていた。それは二乃にも十分可能性のある話。
二乃の言い分に降参すると、より一層可愛く見えてきた。昔可愛がってやった分、贔屓に見てやってるがな。
その色気で俺を試す気か。俺の言葉が本気なのかどうか、安全と安心を買うために身を犠牲にしてでも得たいのかそれは。
…こいつが無理してることぐらいわかる。身を投げ捨ててまで何をしたいんだ。
俯いたりせず、俺の目を見上げて真正面から向かってきやがる。その意図はともかく、冗談ではないらしい。
「話すだけじゃ駄目なのか」
「三玖のこと、もう知ってるんでしょ
一昨日のアレの意味も」
「…」
「…体目当てとか
そんなの絶対に許さないわ」
「見くびるなよ…試すってそれかよ」
「そうよ。調度いいじゃない
私たち五つ子だもの、三玖にあって私にないわけないわ…顔も同じだし
いえ、私のほうが断然可愛いもの」
「…」
「あの子、内気なところあるから何かあっても私たちに隠し通すわ
そうなってからじゃ遅いのよ
…あんただってわかるでしょ、三玖の性格」
こいつ…妹の世話を焼いてこんなことまで考えていたのか。
妹を心配する気持ちは理解できるが、これはやりすぎだ。
これで俺がもし間違いを犯したらおまえはどうなる。
少なくともおまえは俺を疑っているんだろ。その確率はどのくらいと考えて実行しているんだ。博打など好かないだろ、おまえ。
馬鹿らしいと一蹴してやりたかった。勘違いも甚だしい…のだが、男は獣と考えるのが常識だし一概に否定はできん。俺の意思とは別に。
しかしこの場に限り、相手を間違っているとしか言えない。
恩師の娘を辱めるなど考えた事もない。こればかりは考えが浅はか、幼稚だと言わせてもらう。
叱咤せざるを得なかったが思い留まる、その気は失せた。
ほんの僅かに震えている子供の頭を撫でて、こちらへ抱き寄せた。その覚悟をこっちから試してやろう。
「!?
ちょ、いやっ離してっ!」
「…」
「やめ、やめなさいよ!
し、信じてたのに! また裏切って! け、蹴るわよ!!」
「泣き虫のくせに見栄張るな、まったく」
迂闊に近づいたものだから引っ掻かれたり足を蹴られたり、傷ができるほど痛かった。
思っていた通り二乃は抗った。目に涙が溜まりそうなほど驚いて男を怖がっていた。
誰かに見られたら厄介だ、程ほどにして手を離した。
余程恐ろしい思いをしたのだろう、二乃は息を乱して距離を取った。
「許してくれとは言わん…この行いも、先生のこともな
時間をかけてでも、おまえに認められるために努力するつもりだ」
「はぁ…はぁっ
あんたねぇっ!」
「おまえが売ってきた言葉だろうが
ったく、自分を犠牲に家族を守るのはまだ早い
それは俺が代わってやる、怖いならもうするな」
二乃の頭を乱暴に撫でる。おまえの扱いは本当に手に余るな。
あの頃、俺はおまえから一切距離を取って関わらないようにしたことがあった。そこにやたら噛み付いてきたのは、おまえ自身だった。
だから仲直りのきっかけを得られた。
だが、十年経った今では…恐らくもうない。
この子の目はいつだって厳しい。とても男に絆されるような子じゃない。
本当に手のかかる子だ。嫌な汗かいちまったじゃねーか。
これ以上話すことはない。お互い頭を冷やすべきだ。二乃の頭から手を退けて男湯に向かった。
男湯のほうは無人だった。手早く服を脱ぎ、タオルを手に温泉へ向かった。
旅館の温泉など高校の修学旅行以来だ。ざっと髪や体を洗い流してから湯船に浸かった。
「気苦労が絶えない…」
疲れた。さすがに。
朝早く起きて、忌々しい夢もあって寝不足気味。そんな中で子供たちと合流すれば、日帰りには厳しい遠方の島へ向かうはめに。
山道を上がっていき、一花の相談もあったし、その後に先ほどの二乃の挑発。温泉の湯だけではこの身を癒せそうにない。
理解した。結局のところあの悪夢は続いている。
二乃からの信用は絶望的だった。敵視されるどころか、身を挺してまで警告してきたのだ。
先生の実家でこれほど冷や汗を流すことになるとは。
「やはり泊まらないほうがいい
早く話を済ませて帰ろう…」
言葉とは真逆に、今は少し湯に浸かっていたい。今は子供たちも先生のことも忘れてのんびりしよう。
目を瞑っていると、ガラガラと雑に戸が開かれる音が響いた。
その後にぺちぺちと誰かが急ぎ足で歩くような音が。
誰か来たか。だいぶ急いでいるようだが。視線を向けるとそいつは乱暴に湯船に入ってきた。
「いつもいつも子供扱いして…そういうところがムカつくのよ
私を見下して…許さないわ」
「…」
タオルを胸に巻いたままの…湯船に入ってきたのは女だった。
先ほど…一緒に入れと強要してきた子供だ。子供だが目を逸らしておく。
男湯に、女子高生が突撃かましてきやがった…
「おい、マジで実行するのかよ!
男湯に女が入ったらまずいだろ! ふつーに捕まるぞ! どっちも!」
「そうね、もう幼稚園じゃないんだし」
「だろ、野朗が来る前に早く戻れ」
「清掃中って看板置いといたから、お客さん殆どいないし大丈夫よ
来ても私が叫べばいいだけよ」
「それ俺が一番ヤバいんだけどな!」
何勝手なことしてくれやがる…悪戯のレベルが上がってるんだが。小悪魔が死神に見えてきたぞ。
本格的に社会的抹殺を企んでいるようだ。俺教師なんですけど、ニュースに名前載っちゃうの?
「子ども扱いしたのが気に障ったのなら謝る
だが早とちりして馬鹿げたことをしてる時点でおまえは幼稚だ
すぐに出ていけ」
「…
あんたがどうこうするとは最初から思ってなかったわよ」
「…?
なら…いや、だからってな」
「このままじゃいけないのは、私だってもう…わかってるのよ」
…風呂から出る気はさらさらないようだ。
二乃は長い髪をかき上げて結び始めた。温泉に飛び込んできたものだから、二乃の髪が湯に浸かって濡れていた。
このままじゃいけないってどういう意味だ。俺の矯正のことか。三玖を傷つけるつもりはないんだがな。まだ何もされていないが。
二乃はタオルの位置を気にして、落ちないように弄りながら湯船に浸かった。
いくら繕ったってタオル一枚では隠しきれないらしい。やたら胸の谷間を気にかけているようで、俺にできることは目を逸らすことのみだった。
二乃は恥ずかしそうに、忌々しげにこちらを見上げている。怒ってるようにしか見えん。
その二乃がタオルを掴む手を離し、握り拳を一つ見せつけてきた。女子高生がタオル一丁で…勇ましいことで。、
「裸のほうが話しやすいんじゃない!? 裸の付き合いとか言うし!
あんたも若い子の肌見れて感無量って大喜びしなさいよ!
「おまえ三玖に自爆するなとか言ってたくせに、今やらかしてんぞ
つーか、おまえがこっち見るなよ、俺タオルこれしかねーし」
「なっ!
ろ、露出狂ッ! 腰に巻きなさいよ!」
「わかったから見るなっつーの」
「う…ぐ、男の裸なんて見たことないってのに…何で私がここまでしなくちゃいけないのよっ
し、心臓が死ぬ…ちょっと休ませて」
「のぼせる前に上がれ」
わかりやすい動揺を見せて、二乃が顔を真っ赤にしている。タオルと言っても、手ぬぐいしかないから隠すには小さすぎた。
二乃のその素行に、もしかしたら遊び慣れているのかと勘ぐってしまったが勘違いだったようだ。
男の裸体に口をわなわな震わせて、視線の行き先に戸惑っている。指で遮っていてもその隙間から覗いているのがバレバレだった。
異性との裸の付き合いは女子高生には刺激が強いらしい。まだまだお子様でお兄さん安心したぞ。
「わ、私のタオル使う?」
「おい、自爆寸前だぞ」
「お、落ち着くわ、いったん落ち着くからあんた黙ってて」
「…」
「…
うん、見ないから問題ないわ」
「それでいいのか」
「あんたの裸なんか全然まったく興味ないもの」
「江戸っ子気質な上にかなり雑だな」
「見ないって言ってるからいいでしょ!」
湯の中で蹴るなっ! 寄るな! この調子だとすぐにのぼせそうだな、こいつ。
とっとと用件を済ませてやるべきか。俺も気が散って落ち着かない。
子供扱いにも限度がある。嫌でも目に付くものがありすぎるんだ。ガキの頃の裸を見たことがあるが、成長した二乃は女らしい体をしている。
非常にむかつくが可愛いと自負しているだけある。極力目は合わせないようにしよう。
「…あーもう
静かにお風呂入りたかったの
じろじろ見ないで」
「見てねーし」
「…」
「…」
…無理しやがって。顔真っ赤じゃねーか。何がしたいのかわからん。
「…その、最初会った時
ママを理由に、酷いこと言ったわ
さっきも」
「…」
「ごめんなさい」
「本音だったんじゃないのか」
「…そうよ
でも、もうあれ一回で十分だったのよ」
「そうかね…」
二乃は俺に背中を向け、目だけこちらを向けて謝罪した。
このままじゃいけないって、そういう意味か。少し強張っていた体の緊張が解れた。
仲直りとまではいかなくても、ある程度の歩み寄りは許してくれるらしい。
「…裸の付き合いまでしたんだから、嘘なんてつけないわよ」
「冗談で言ったがマジで江戸っ子気質なのか? 江戸時代からタイムスリップしてきたとか」
「それでいいわ、教えなさいよ」
「だから爺さんとはまだ話すら――」
「違うわよ、あんたがここまでする理由
お母さんのこと教えて、五月には話したでしょ
私は途中で寝ちゃったから」
「えー」
「…話してくれたら
内容次第じゃ認めてあげるわ」
二乃は姿勢をこちらに向き直して、胸に巻くタオルを握っている。
嘘はつかない、余計なものは取り払って、正面から向き合おうとこちらを見上げている。
確かに、肌を見せ合ってしまっては何を取り繕えと言うんだ…しかし子供のすることじゃねえ。
「私達には支えてくれる人が必要、そんなこと分かりきってるわ
私たちは所詮子供だし…
男なんて嫌よ、昔世話になったからって今更馴れ馴れしくされたって気色悪いもの」
二乃が俯くと、二乃が必死に隠そうとする肌を見下ろしてしまって、咄嗟に目を離した。
視線を逸らすと、こちらの腕を掴まれた。二乃が、こっちを見ろと告げている。仕方なく二乃の顔を見やる。
至って真剣に、十年振りに再びまた向き合おうと、二乃はこちらに寄っていた。
「あんたがママに手を合わせたのを見て
昔のように…やり直すのも構わないと決めた」
「…いいのか?」
「その代わり教えて
あんたが…ママや、私達のこと好きなら
いいわよ、信じてあげる」
どうやら本気も本気。腕を掴む二乃の手はきつく、裏切ったら許さないと胸の内を教えてくれている。
怒らせたら怖い子だ。元よりそんなつもりはないが、これは骨が折れそうだ。
「のぼせるなよ」
円滑に事は運べないようだ。一花も、五月も。子供たちの相手はいつだってそうだ。
掴んでくる二乃の指に手を沿えて下ろさせた。渋々諦めた俺に二乃は満足そうに笑っていた。
結局、俺も語らないといけないらしい。ここに来る道中から気が重かったんだ。悪い予感はよく当たる。
子供たちに続いて先生の思い出話を口にすることになって、つい溜め息が漏れる。
そんな大人の心中を知らずに、この子は笑って急かしてくる。
昔から勝てない子だった。
面倒でしかないこの子の相手はやはり、気落ちする思いに反して心が温かくなるものだった。
「………」
「いや…えー
泣く話か?」
「だって…あんたママのこと好きすぎでしょ…
ぐすっ…なによ、子供の頃に会ってからずっと頑張ってたの…?
だから十年前に私たちの世話してくれたの?
人妻なのにぃ!」
何でそこ強調した、おい。
あの人離婚してたんだからな、そこ勘違いするなよ。
五月に話したものと同じ昔話をしてやった。先生と京都で出会い、再会してからのことを。のぼせるから手短に。
五月と違って困ったことは、こいつがやたらと恋愛と結び付けようとするところだった。
勝手に拡大解釈した挙句、二乃はボロボロ泣きやがった。亡き母親の思い出も合わさって号泣していた。
しおらしくなったかと思ったら逞しい性格をしているようで、二乃は涙を拭って顔を上げた。
「重過ぎて逆に感心したわ
なんか今日一日これでお腹いっぱいになりそう
あー 調度良い泣ける話、あーちょうどいい!」
「最低、胃腸炎起こして寝込んじま――ぶわっ!」
温泉の石垣に座っている二乃がばしゃばしゃとばた足で水しぶきを上げやがった。俺その隣…もろに直撃である。
さすがに腹が立ってきた。このやろう、恋心とは断じて認めたくないし、その厄介な物にここ数日死にそうな顔してるんだぞ俺は。
片思いしていた男の機嫌を損ねていると悟った二乃が、やたら優しい表情で慰めようとしてくる。
「でも仕方ないわよ、あんた本当にデリカシーないし
ママは忙しかったし、うん、仕方なかったのよ」
「…慰めてくれるのは嬉しいが
俺から体裁を取り繕う余裕まで奪ったのはおまえたちだからな」
「知らないわよ、子供のお茶目じゃない
あんた、他に好きな人は?」
「…先生が亡くなってまだ二週間も経ってねえんだぞ、いねーしその気もねえよ」
「ってことは、結婚願望ないってあの話も本気なのね…
大丈夫よ、私が保証したげる」
「あ?」
子供のお茶目で全て片付けられるのは心底納得できなかった。あの一年でおまえらに費やした時間と出費は半端なかったぞ。
子供だから仕方ねえかと、随分デリカシーに欠ける追求を続ける子供への文句を諦めてやろうとしたら、子供は自慢げにこちらを見ていた。
少し似ている。昔見た、ませた子供が見せてくれた小悪魔のような、生意気な顔だ。
「あんたみたいなノーデリカシー男でも
好きになってくれる人が地球上に一人くらいいるはずだから
元気出して、その人と幸せになればいいわ」
「…
まさか、それが三玖だと言いたいのか?」
「恋愛どうこうじゃなくて大事にしなさいよ、お兄ちゃんでしょ」
「へいへい」
邪推だったようで、笑顔から一変して不機嫌になって怒られた。ですよね。どうかしてたわ。
励ましてくれるのは正直嬉しかったぞ。言葉の節々に失礼なワードが見えているのを除けば。決めた、結婚なんてしねぇ…
布一枚で肌を隠す二乃との距離が近い。もう慣れたのか、二乃は湯船に浸かっている俺の真横まで移ってきた。
俺は石垣に座っているから、二乃のおみ足が顔の真横に。ばた足はやめろよ。
二乃は足を組んだり離したり、もじもじと忙しない様子で話を続ける。実は慣れてなかったぞこいつ。
「というか…あんたにとって私たちって何なの」
「…」
「好きな人の子供だから守りたいのは分かったわ
でもそれなら…操を立てる必要もないでしょ」
「操って…まあそう取れるか」
「十年もほったらかしで今更
そこまでするなら…ママと結婚すれば良かったのに」
こいつは…さっきデリカシーねえとか、忙しかったからとか言って否定してたくせに。
二乃からそのような言葉が出るとは予想外。そうあってほしかったと、望んでいるのか。
随分と軽い気持ちで言ってくれる。二乃は何の気もなしに言ったのだろうが、こっちは突拍子のないものに面食らってしまった。
ねえよ、そんなこと、絶対に。
前にも言っただろ、恩返しでしかないんだ。
何度も執拗に述べて説明したくないものだ。何で十も下の子供に、自分の恋愛観を赤裸々に語らなければならないんだ。
二乃は今に至るこの結末に納得いかないのだろう。前から抱いていた疑惑を投げかけてくる。
「放っておいたままでよかったんじゃない?
あんたに明確なメリットなんてないわ、義理立てするには十年振りという年月じゃ過剰よ」
「…できるかよ」
「どうせ何したって他人じゃない、私たち
十年前に一年だけでしょ…恩はあるけど
でも離れて行ったのは、あなたじゃないお兄ちゃん」
「…ああ
おまえらが、いや
先生が無事ならそれでよかった
本来なら会うこともなかっただろう、あれで終わりだった」
「…そ
結局…その程度ってことよね、ママ抜きの私たちなんて
…いいわ、それでいい、十分過ぎるわ
私もあんたを受け入れる…これで仲なお――」
「思い出してくれるだけで満足だったんだよ、二乃
昔遊んでくれたお兄ちゃんがいてくれたってな」
本当の気持ちを話そう。
この子が右手の子指を向けた時、自然と口が開いた。
ぽかんと、同じく口を開けて呆けている二乃を見て少し笑ってしまった。
おまえとの約束は、気軽にはできねーよ。
「おまえらが幸せな人生を歩んで、貧乏だった昔を懐かしんだ時
楽しかったと、俺のことをその時だけでも思い出してくれれば
意味があったと思えたら、俺は報われたんだと思う」
「…そう
よく話したわ…あんたのことは
謝るべきかしら、あんたが望む幸せな人生とはいかなかったから」
「諦めてんじゃねえよ
それに…この話は今も変わらないしな」
「そ、それって…またいなくなるってこと?」
「…ああ、ずっとはいないさ、当然だろ
おまえたちも先生がこの土地を離れて行ったように、おまえらも巣立って行くだろ
俺はそれまでの見守り役でしかねえ」
二乃の指摘は半分当たっている。おまえらが望めば、求められる限りは、俺は傍にいて守りたいと思っている。
だがそれも、また時が進めばわからないだろう。
俺を疎むこともあれば、愛する男と結ばれて新しい家族と生きることになるはずだ。
幸せになってほしいと、そう願っている。
押し付けがましい大人の願望だ。全部は言えないのだから半分だけでも伝えておこう。
意外に思ったのか。二乃は驚き、右手を下げて視線を逸らし…顔を隠すように湯船に浸かって背中を向けた。
「…まあ、しばらくはおまえらに付きっきりのつもりだ
おまえみたいな手のかかる奴ばかりだしな
こんな風に毎度振り回されてばかりだ」
「…悪かったわね」
その頭を撫でると反発はなかった。二乃は借りてきた猫のように大人しくされるがままだった。
撫でる手を止めて下ろす。さすがに長話のしすぎだ。そろそろ上がりたい。
俺が上がるには少々問題がある。タオルは小さいし…真横に若い女がいるわけで。
二乃に先に上がってもらうしかない。風呂から上がるよう促そうと思ったら二乃は急に立ち上がった。また水しぶきがっ!
「ね、ねぇフータロー…ッ」
「…」
懐かしい呼び名だ。三玖と同じく、この子もそう呼んでいたな。
気の迷いか。俺と同じくのぼせてきたのか。
それとは別のものか。二乃は顔を真っ赤にして立っていた。
胸に巻くタオルが落ちないように手で押さえ、恥ずかしそうにこちらを見下ろしている。
「…今でもね、持ってるのよあれ」
「ん?」
「買ってくれた制服…覚えてる?」
「…当たり前だ」
「…もうね、小さくて着れたものじゃないけれど、持ってるわ
私の宝物よ、あんたとの繋がりなんてそれしか残ってないんだから」
「…そうか」
二乃の言葉は、辛く手厳しく心に突き刺さるものがあれば、こんな風に温かく満たしてくれるものもある。
照れくさいんだろう。恥じらってそっぽを向く二乃につられて少し笑ってしまった。
なんてことのない、子供との仲直りだ。口にはしない不器用な仲直り。
「ねえ、フータロー」
「なんだ」
「今度ケーキ作ってあげるわ
あれから上手くなったんだから
その辛気臭い顔吹っ飛ばすくらい、美味しいの作ってあげる」
「ケーキか…作ってるのまだ見てなかったな」
「とっておきはそう簡単に見せられないもの
見てなさい、とうに先生を越えたこと教えてあげるわっ
今度はちゃんと傍にいなさい、いいわね」
はにかんで笑っていた二乃は挑戦状を叩きつけて、脱衣所へ向かっていった。
…ケーキね。おまえに頼まれて約束したんだったな、あの時。子供にしては料理上手で美味い菓子を作ってくれたな。
あの子と一緒にお菓子作りをした時間が。小さな子と指切りの約束をした思い出が懐かしい。
もう一度だけでも、する機会があるだろうか。少し楽しみだった。
二乃が着替え終えた頃を見計らって、俺も脱衣所にて着替えることにした。
そのつもりだったのだが。
「おい二乃!?」
「きもちわるい…」
…やる気を見せてくれたのはいいが…浴衣を雑に羽織ったままの姿の二乃が脱衣所で倒れていた。
既に限界までのぼせていたというのに我慢していたんだろう。強情な子だ。
俺は手早く着替えて二乃を担ぎ、廊下に置かれた長椅子に腰かけて休ませた。
膝を貸して、二乃の頭を太ももの上に乗せる。その火照った顔を椅子に備えられていたうちわで扇いでやった。
やりたいことだけやって、後のことなど考えない。限界ギリギリまで攻める、ブレーキをかけない暴走機関車のようだ。
二乃は覇気のない、気だるげな瞳で俺を見つめてくる。
自然と、求められるがままに笑っていたと思う。
「約束忘れないで…」
「…おまえを怒らせるのは怖いからな」
膝の上で寝る本人は可愛く寝返りを打つだけだった。恥ずかしいのなら離せ。
だが、お陰で思い出した。
こいつはいつも本気で一生懸命だ。泣くのも怒るのも、人と向かい合う時も。だから愛しく思えてしまったんだ。
この子とは喧嘩しても、本音で話そうと誓ったあの頃のように。今は仲直りできたこの一時が嬉しくて仕方ない。
起こした時か、椅子に寝かした時か、知らず知らずどちらが始めたのか。
ずっと重なっていた二人の手には子指がひっかかったままだった。