やせ我慢したせいで膝元で介抱されていた二乃は、姉妹に見つかる前にそそくさと行ってしまった。
約束忘れるんじゃないわよ、と最後に念押しの指切りをして。ケーキね…楽しみだ。
風呂に浸かってサッパリして帰るというわけにはいかない。旅行気分は多少味わえたが、世間話をして終わっていいものではない。
二乃との和解で多少心持ちが変わった。言葉を交わすことで変わるものがある。
娘を憂う爺さんの様子に気が削がれてしまったが、何もあの人を傷つけるつもりはないんだからな。
それにここで臆しては一花の立つ瀬もないというもの。
あいつも反対を覚悟して俺に打ち明けたのだから。臆病者に気を遣っていたとなっては滑稽にさせてしまう。
爺さんを見つけて声をかけると、昼食前でも軽く了承して部屋を用意してくれた。
子供たちの前で話せないこともある。俺と爺さんは最初に案内されたあの部屋に向かった。
先生の写真が置かれた仏壇にはもう既に線香の煙はない。
薄暗い日陰と明るい兆しを見せる日向がくっきりと見える、そんな両極端な一室だった。
俺と爺さんは日を遠ざけるように日陰側に置かれた座布団に座った。
一花のモデルの件は話すべきか判断に迷ったが、祖父が反対した時には説得することを心がけて話すことにした。
「それが一花のやりたいことなら止めることはなかろう
わしからはそれだけだ」
「…わかった」
反対の意思…もとい、口を出すつもりはないとのことだった。
本人にとっての夢であり、過去に母親と揉めたことを明かす必要はないようだ。
この人はどこまでも孫の気持ちを尊重してやるつもりらしい。
しかし、孫の気持ちを慮るだけで済む話ではない。あいつはまだ高校1年だ。
「言いたいことは山ほどあるんだがな…」
「お主の悩みももっともだ
わしは甘いのだろうな…おまえさんに強いるつもりではない」
「俺の考えよりも貴方の意見に沿うべきだ」
「…」
「…いや、今のは失言だった…忘れてください」
くそ…爺さんめ、嫌なものを突きつけてくれるぜ。他人としての遠慮を見せれば切り捨てられそうだった。
娘が残した形見でもある孫を預けられるか、見定める目が緩むことはないだろう。この人との距離感はいまいち分からん。
夏の虫が鳴いている。報告が済んだことで、しばし沈黙が続いてしまった。
世間話するほどの仲ではなく、五つ子がいなければ他人の関係。俺は外の白い陽光の先にある庭の風景を眺めていた。
先生の実家は、静かでのどかな場所だった。
「これ以上、親や大人の身勝手に振り回してはならん」
爺さんは閉ざしていた重い口を開けた。
その心境は窺えなかった。しかし、爺さんの意見には物を申したくなる。
孫に対して気後れしているのだろうか、この人は。
場合によるだろう。間違っている時は止めなければならない。
それに、止めはしなくても忠告することで大人に見られていることを認識させる必要もある。
それが分からない人でもないだろうに。先の様子を見て知ってしまっては、消極的になっていると見ざるを得ない。
「勘違いしているんじゃないか爺さん
身勝手と優しさというか…情は違うでしょう」
「同じだ
いくら思いやりの言葉に心を込めたところでな」
「きっぱり言うな」
「…子は無力だ
いくらそうあろうと努めようと、所詮は子供がつま先で立っているだけ、疲れたら小さな子に戻る
子はそれを何度も繰り返し、失敗と成功の中でその必要がないことを知っていくだろう
その機会を親が摘むのは、果たして子の為か」
失敗させることも親の務めだと言うのか、この爺さんは。
思い当たるものはあった。子供が子供に甘んじる奴もいれば、早く大人になりたいと思う者もいる。
大人を見返すため、子供であることを嫌っているから、金を稼ぎたいから、理由は様々だが何をしようと子供でしかない。子供と大人の境目など他人の目によって揺らぐ。
結局は背伸びでしかないと、爺さんはそう言いたいのか。
一花が家族の為にと誇らしく思っていたとしても。
だからこそ止めるべきではないと。優しさも不満も子供のものだから。
心から頷けるものではなかった。子供も努力次第では大人として在れると思っている。学生の頃願っていたものだった。
だが、今の子供たちに対する方針は爺さんの意思に傾けておくべきだ。
「…一花が女優を目指す、か…」
「ああ」
「…見てみたいものだな
零奈への土産話にできそうにないのが残念だ」
笑っているのに、憂えて寂しさを募らせる爺さんは仏壇のほうを見やった。
この人に残された時間はそう長くはない。
だからこそ、この人は俺に声をかけ協力を願ったのだ。
子供たちには秘密にしている。一方で、体調が悪いことは既に知られているようだった。
時が経てば知ることになるはずだ。その時、子供たちは頼れる大人を失ってしまう。
亡くなった娘が残した最愛の家族だ。娘を亡くした後となれば可愛い孫も心配になる。
立派な姿を目にしたいと願うはずだ。安心して子供たちから去りたいと。
…ならば、せめて。
「子供たちを養子として引き取ってもいいんだぞ…あんたが安心できるのならな」
「お主はよくやってくれている
だが…責任というものが関われば違ってくる」
「責任なら今の立場でも同じじゃないか」
「…子供を育てることは生半可な物ではない
諦めるもの、狂うもの、苛むもの、苦しむもの
理想だけでは済まされない、責任という言葉を重く捉える」
…つまり、先生のことに囚われがちになっている身には重過ぎると言いたいのか。
極めて正論だな、情けない話だ。
仮に爺さんがいなければ、可能かどうかは別として…あいつらを引き取るつもりでもあった。
義務などなくとも、俺が心から願ってやりたいことのはずだ。投げ出したりはしないはずだ。
これもまた理想か。確かに責任という単語一つが絡むと余計なことを考え出しそうだ。今の心身の状況を見つめれば、容易に弱音を吐き出しそうだ。
「天井もない、終わりもない
終わりとは子供が作るのだ
それまで手放してはならないと思えば、あまりにも重く圧し掛かり…人は変わってしまう
良くも悪くもな」
「…先生のことを言ってるのか?」
「…
それが五人とならば苦労は多い、零奈一人に抱えさせてしまった
不甲斐ない父親だな」
一般的には子供には二人の親がいる。
父と母。共に子供を守り、お互い夫婦として支え合って生きていく二人がいる。
俺はそのあたりの考え方は想像しづらい。母を早くに亡くし、家を守ってきたのは父親だけだった。
親父はいつも笑っていた。大半が笑いたくて笑っているものじゃないことぐらいは知っている。
爺さんは、一人で子を抱えることで最悪の場合…苛み狂うと言った。
かといって、子の為にと尽力する者もいるのだ。それは我が子を愛す一心でもあるが、必ずその胸の中には責任というものが絡んでいる。
それもまた優しい親を狂わせるものになりかねない。
夫のいない娘を見てきた父親は何か知っているのだろう。助けられなかった過去を後悔しているようだ。
「…先生はやり終えた
立派な人だ…悲しいが、悲しむだけではいけないと思います」
「…そうか
そうだな」
母親としては立派な最期だったと思っている。子に愛され、子を愛した人なのだから。
だが…一人の人間としては。その人生は、どう語るべきなのか。もっと幸福を知るべき人だったんだ。
だからこそ、あの人が残した子供たちを守る必要がある。バトンを受け継ぐなんて大層なものじゃない。なんにせよ俺は意地でも守り通すだけだ。
爺さんから見て俺の考えは認められないらしい。養子の件は有耶無耶になって終わった。
爺さんが断るのなら一向に構わないのだが。その代わり、あいつらが卒業するまで長生きしてくれ…
「気になっていたことがあった」
「…?
なんです」
「なぜお主は…
五つ子である孫たちを見分けられたのかと思ってな」
「は?」
見分けるって、あいつら五人を?
まあ…あいつらは顔はそっくりの五つ子で、髪型を真似たら見間違えそうではあるが。
別に、特別難しいことだとは思わなかった。戸惑ったのは最初だけだった。
「大抵の人間は間違え、騙される
おまえさんは久しく顔を見ていなかったというのにな
孫たちからそういった話は聞かぬ…逆に感心しておったぞ」
「そう言われても、あの一年間でそんな悪戯されたことないしな…」
爺さんから聞けば、よく髪型を変えたり、子供たちの第一印象となるリボンやヘッドホンを交換してまで周りを騙して遊んでいたらしい。嫌な遊びだな。
あいつらの演技力を考えれば、幼稚園の頃と比べ物にならないレベルに至っているだろう。幼稚園児レベルで間違えなかったからって偉そうなこと言えない。
それにあいつらを見分ける術は自身の力ではないしな。
ガキの頃のあいつらと出会わなければ、恐らくは俺もその他人の範疇に含まれていただろうな。
「あの頃は先生の目を見ればわかりやすかった」
「…」
「あいつらとは先生の家で初めて顔を合わせた
双子はともかく五つ子なんて初めて見たから驚かされた」
髪の短い一花を三玖と四葉と間違えることがあった。
リボンが共通してるから二乃と五月を間違えて、馴れ馴れしい態度に二乃に睨まれたこともあった。
リボンやヘッドホンを外せば区別がつかないことなどざらだった。
だが、先生を見て分かった。
「なんとなくとしか言えないが
子供たちを見る先生の目は、それぞれ違ってるように見えてな
十年も前の話だ…どんな目をしてたのか忘れちまった」
先生の目は優しいだけではなかった。
愛娘を心配するものとそんな気持ちを遠慮するもの、悪戯を咎めるものや仕方ないと呆れて許すもの。
そんな複雑なものがせめぎあうような形容し難いものだった。
言ってしまえば、心配は心配でも…
嘘つきで調子に乗りやすい奴。
我侭で迷惑かけそうな奴。
臆病で一人にしておけない奴。
自分勝手で悪戯しそうな奴。
寂しがり屋で泣き虫な奴。
そんなどうしようもない子を見る先生の目を、俺はよく見ていたよ。
ちょっと好きだったのかもしれねえな、そんなところも。
「爺さんはどうなんだ」
「わしも零奈と同じ
愛の成せること」
「あ、愛ぃッ!?」
「…面白いものだな
わしも歳を取った、後はただ終わりを待つだけの身だと思っていたが
こんな老いぼれの言葉に耳を傾けてもらうのも嬉しいものだ」
亡くなった娘の話ができる相手が少ないのだろう。そういえば先生の母親についてはまったく知らされていない。今更知る必要もないか。
何がおかしいのやら、爺さんはなぜか笑っていた。
愛って何だよ。俺には理解できない世界だ。
五つ子を見分けられる俺はあんたら同様、子供たちを愛しているってことか。なんだそのいい加減な妄言。
爺さんはこちらから視線を逸らし、また仏壇のほうを見て…懐かしむように笑っている。
先生も同じと言ったが…あの目が愛の成せる所業ということか。俺には無理だ。
娘の話なんて、あんたの孫にしてやればいい。あいつらは必ず母親の死を乗り越えていく。その後に話してやればいいんじゃねーの。
仏壇を見やる爺さんの目が下へ落ちていく。そして、一つ重い息を吐いて俺に向き直る。
「…お主に渡さなければならなかったものがある」
「ん?」
「…縁とは、真に分からないものだ
少し待て」
「あ、はい…
いや爺さん、後でいいぞ
飯がどうこうって――」
「上杉さんいますかー?
ぬわっ!? お爺ちゃん!?」
爺さんが立ち上がって部屋の戸を開けようとした直後、四葉が顔を出した。
ばったり顔を合わせれば驚きそうなものだ。四葉はひっくり返るように驚いて後ずさったが、対面の爺さんは怯まず立っているだけ。
リアクションがないと死んだか心配になっちまう。四葉も祖父の前に手を振って反応を確かめている。
ご老人に道を開けてやれ。代わりにアホの子の頭を叩いてやった。
「どうしたんだ、おまえ
何か用か」
「さ、探してたんですよっ!
せっかくお母さんの思い出話を沢山してたのに、上杉さんいないんですから…
二乃も五月も怒ってますよ」
「俺は遊びに来たんじゃねーんだ
爺さんと話してたところだ、家族水入らずでやれ」
「そ、そうでしたか…ごめんなさい」
「話は終わったところだ」
「じ、爺さん?
いや、さっき渡すものがあるとか」
「…はて、どこにやったか」
四葉が申し訳なさそうに頭を下げた直後、手の平を返された。
じ、爺さん…マジで孫に弱いみたいだな。さっきまであんたの娘の話をしてたってのに。孫の相手しろと訴えてやがる。
四葉は改まって部屋の中を見ようと顔を覗かせて、仏壇を見やって中に入ってきた。
先生の写真の前に立ち、じっと見つめていた。
眺めているだけかと思えば、手で頭のリボンを弄りだしてその場に座った。
俺も爺さんも戻って座り直す。黙って四葉を見守っていた。
「…ちょっと、また挨拶しますね」
返事を待たずに四葉は仏壇の前に座り、手を合わせた。
しばらく四葉を見届けた。四葉の横顔は穏やかでありながら、何か固い意志と共に母を思っているのだと伺い知れた。
ゆっくりと手を下げて、顔を上げた四葉は気恥ずかしそうに笑って仏壇から離れた。
「大げさですよね…でも気持ちが届くといいと思うと…
もしも寂しい思いをしてたら…できることはしてあげたいので…っ」
「ああ」
「…実際は無意味なのでしょうか?
あはは…私こういうのさっぱりなので
馬鹿でごめんなさい」
「無意味ならしないって話じゃねーだろ
大事にしたいのなら、してやりたいことをすればいい
五月にも言ったが、受け入れて寄り添うことも大事だ」
「…はいっ ししし」
照れくさいのか、決まりが悪そうに俯いていた四葉は最後に笑った。
四葉で思い出した。爺さんに話しておくべきものはまだあった。
「子供たちは二学期の始業式、休まず登校するそうです
行くんだろ、四葉」
「は、はい 当然っ…
か、課題終わってませんけど…行きます!」
「そうか…偉いな四葉」
「わ、私なんかより皆のほうが
私はほら、ついていくだけだし
上杉さんもいますし、ずっと甘えてばかりじゃいけないから…」
「…」
やはりあの時の俺の忠告はプレッシャーに感じてしまったか。
こいつらの互いを慰め合う姿に文句を言ってしまったのだが、やはり口を出すべきじゃなかったのかもしれない。
「強いたわけではなかろう、おまえさんが気を揉む必要もない」
「…?」
若者の心中を察したご老人が諭してくれた。そのお気持ちに敬服する。
四葉には分からない話だ、子供は不思議そうにこちらを見ていた。
子供たちが登校すると言うのなら褒めてやるべきだ。母親も己の死に引き摺っている子供を見たら悔やむだろう。
だが、俺の心配は別にある。むしろ二学期からが本番でもある。
「…他人は、人の不幸に指を指す」
「…」
「虐めとはいかなくても、こいつらの負担になれば俺は休ませます
その際は事後報告になるかもしれません」
「上杉さん…」
自分自身の気持ちを整理し、不幸な出来事から前を向いて立ち上がろうとしても他人には関係のないものだ。
心ない言葉や不幸に不幸を被せて、与えた傷に苦しむ姿を嘲笑う人間だっている。優しい人間ばかりがいる世界じゃないんだ。
子供たちには知っておいてほしい。一方的に他人を見下し、結果だけしか見ない奴がいる。
母の死に嘆き、心を休ませる正当な理由があっても、学業を怠っていることに指を指す人間がいる。
そんな奴に構うことはないが、辛いと感じたのなら休んだっていい。学校が子供たちの全てじゃないのだ。
「…不幸を笑うか…
過保護だな」
娘の死を笑われたらと考えたのだろうか、爺さんに神妙な顔をさせてしまった。
四葉も不安にさせる発言だった。四葉はよく分からない控えめな主張をして、隣に座ってきた。
私は大丈夫だと言いたいのか、少しはにかんでいた。それでいて嬉しそうに笑うものだから目を逸らしてしまった。
過保護と言われてもな。子供たちだけの問題ではない。
「俺の都合なんだ、こいつらも心配だが
先生の死を笑う奴がいたら…俺は黙ってられねえと思う」
考えたくもないことだが、実際に起こりえることだ。
まったく愚か者にも程がある。笑っちまう。
こんなことには積極的になれるんだからな。
先生が知ったら喜びもしないことだろう。困った顔しながらも咎めてくるんだろうな。
悪いが…これに関しては先生の意思を汲めない。せめて子供たちの面倒が看れる程度には我慢するつもりだ。それで大目に見てもらいたい。
「電話で話した日があった」
「?」
「零奈から余命を知らされた日だ…去年の5月にな」
「お、お母さんの余命…?
そ、それって…」
「…聞いていたものはもっと短かった
よく頑張ったんだろうな」
内容に驚いてしまったあまり、爺さんを止めるタイミングを逃した。四葉の前で話すのか、それを。
子供たちが立ち直ったことに気を良くしたのは分かるが、果たしてどうだろうか。
相手も悪かった。四葉に聞かせるのか。一花や二乃だったらまだ反応を見て考えることもできたんだが。
しかし俺が口を挟む隙間はない。家族の話なのだから。
五月に思い出を語った夜を思い出した。
語り継ぐことの大切さを考えれば子供たちには知っておいてほしいものだ。
母を知る者は少ないのだ。親が残した愛情をその子に教えたいだろうし、子も知りたいと願っている。
四葉は祖父の話に座っていた腰を少し浮かせていた。
「聞いてくれるか」
「…わ、私だけ? 皆も呼んだほうが…」
「無理すんなよ」
「…」
腰を浮かせたままだった四葉は、俺の言葉に腰を下ろして座り直した。一旦落ち着こうとして胸に手を当てていた。
母親の写真を一瞥して、決めたそうだ。
「ご、ごめんなさい」
「…おい」
「お、教えてお爺ちゃん
私たちの知らないお母さんのこと」
何で謝る、と思ったら四葉が隣に寄り添ってきた。結局自信ないんじゃん、おまえ。また泣くんだろ。
隣に寄ってくるのはいいが、別の意味で緊張してないかこの子。ガチガチに肩張って背筋が伸びている。
それでいてこっちの膝の上の手を握ってきている。勝手にしてくれ、もう知らん。
爺さんは一つ一つ思い出すように話した。
久しく話していなかった娘からの電話。五人の子を育てる親が病に侵され、残った時間は少なかった。
決して先生は弱みを見せなかったそうだ。実の父親に対しても毅然とした口調だったと爺さんは困ったように告げた。
「あの日、わしは帰ってきなさいと、そう言った
少し考えれば、子供の受験の妨げになるようなもの…認めるはずがないのにな」
「…お母さん…やっぱり、私たちのせいで」
考えれば断られると分かっても言うしかなかった。
それほど感情が焦っていたんじゃないか。この爺さんは口が堅いし無口なほうだ。
爺さんも四葉も、話を聞く度に亡くした人の遺影を見ていた。
「零奈は娘を心から愛していた一方で、半ばで離れていくことを悔いていた
父親を置いて逝くような、親不幸者だと謝ってもいた
…己の死の恐怖がなかったわけでもあるまい」
俺は姿勢を逸らして渡り廊下の奥に見える外の景色を眺めていた。日向がこちらに伸びていることが時間の経過を教えてくれている。
二人は気を悪くしないだろうか。
…二人のように、仏壇のほうを見ることは避けたかった。
聞く度に胸がもやもやする。他人の言葉ならこの場を離れている。逃げることなど許されない
俺に構わず爺さんは四葉にゆっくりと細い声で続けている。
「昔から言う事を聞かない子だったのだ
おまえたちがまだ生まれていない頃だ
身の回りに気を遣うことは大の得意、良き娘であろうとしてくれた」
「うん…」
「…何もかも抱え込んで我慢してしまうことを覚えさせたのは、他でもない父親のわしだ
おまえたちにも心配をかけたな」
「ううん、だってそれがお母さんだもん
優しいよね、お母さん」
「…ああ
だが、決して強い子ではなかったんだよ…
人が喜ぶことには調子の良い娘でな」
少し笑ってしまった。
確かにあの人は自分に自信がない臆病者って言ってた割に、俺の為だとか豪語していた時は積極的だった。
「頑固で他人事に関しては我侭だった」
「…うん」
子供の頃からそのような振る舞いをしていたらしい。
控えめなお節介を。聞いても答えてくれやしない。恥ずかしそうに笑って誤魔化されるんだ。
「嫌われる事を人一倍気に病む、臆病な面もあった」
「ああ、確かにそうだった
そのくせ一人で解決しようと人の意見を聞かない
一人で解決できるほど優れてたってところが…性質が悪い」
「上杉さん」
「…
だが、大人になろうと母になろうと
娘は寂しいものが何より嫌いだった
それもまた、幼い零奈を一人にさせたわしが原因だ」
爺さんの話を聞いていたら色々と思い出してしまった。
十年前もその前も、不器用でお節介な人だった。
半端に優秀だったんだろうな。だから本来なら、誰かがいてやらないといけなかったんだ。
何でそんな女を捨てたんだろうな、先生の元旦那は。
五人の子供を抱える女が重かったのか、先生自身に対して何か思ったのか。どうでもいいがな。
一番やるせないのは、子を守ろうとした先生が亡くなり、妻と子を捨てたそいつが…どこかで幸せな家族を築いているかもしれないこと。考えると怒りしか芽生えないものだ。
「…ごめんなさい」
「…」
「…お母さんを最後に一人にしたのは私たちのせいだから」
「おい、四葉」
「お爺ちゃん怒っていいんだよ…?
ずっと一人で育ててきた家族なんだよね
子供の頃からお母さんは、私たちみたいに迷惑かけてなかったんだよね…?
私たちはその逆だから」
四葉は肩を震わせて泣いていた。
五人と一人。同じ片親でありながら…結果は真逆だ。
五つ子だからこそ生まれる不幸。こいつが一番気にしていることだった。
「いいかい四葉」
「ごめんなさい…」
「泥を塗るんじゃない」
「…?」
「自分らしく、人を愛しなさい」
「…でも…っ!
その結果が!」
「四葉、もうよせ…爺さんが言いたいことは分かってるだろ」
嗚咽を堪えてしゃくり上げる四葉が泣きついてくる。やっぱり泣きやがった。
母親の前だ。自分を責め立てているとあの人も泣いちまうぞ。
「…おまえは本当に母親似だな、四葉」
「そんなこと…っ」
さっき爺さんが娘に言っていたことの大半が当てはまっているぞ。
爺さんがおまえらを恨むわけないだろうが。先生も然り、愛していたからこそ残念な終わり方になってしまったんだろ。
…最愛の娘を亡くした爺さんの無念は計り知れない。
想像してみたらゾッとした。
昔はよく手を繋いでいた、胸に抱いたこともあった愛しい子供がいた。
一人になることが嫌でも、家族に迷惑をかけることを避けて一人でいようとした子だ。
そんな子供が俺に助けを求めてきた。愛らしさから、ついデコに口付けなんてしちまった思い出もある。
助けを求められれば親身に応え、悪さをすれば怒り、危ないことに手を出せば心配になる。大切な子供だから。
やがて、子供が大きくなった。抱えるには苦労する程に。
それでもまだまだ幼い。泣いて縋ってきてばかりで、辛いことも何もかも糧にして成長することを望んで自立を促すんだ。
子供が大人になり、役目を終えれば…立派になったなとその背を見送る。
次に会えばそいつは人生のパートナーと手を繋いで現れ、子供ができて、幸せを掴んで
…その後は、随分と小さくなってしまった子供の姿。
「…」
「う、上杉さんっ?」
つい泣きついてくる四葉の頭を抱えてしまった。
随分と小さくなってしまった子供の姿は、抱えているはずなのに…それは違うと思い知らされるだろう。
手に触れるもの何だ。なぜ箱なんて抱えなくちゃいけないんだ。
何で自分より先に逝ってしまうんだ。そう後悔するだろう。
このようなことが、あるはずがなかった、あってはならなかったものだ。
爺さんは、この人はもうやり遂げたんだ。大切な子を見送った後に、なぜ悲しまなくてはいけないのか。
俺にはまだ理解できない。いや、分かりたくないものだ
だがもしも、一花や二乃、三玖、四葉、五月…らいは。
誰か一人が命を落とし…小さく軽くなってしまった子供たちを胸に抱えたとしたら。
その遺骨を胸に抱く日がきてしまったら。
思い出が大きいほど、その悲しみは深く、苦しい。
この人の悲しみは癒されるのか? そのまま無念を胸に抱いて生を全うするつもりなのか。
先生は悔やんでいたはずだ。この人は口にしなかったが、先生は泣いて頭を下げていたはずだ。
親不孝者を強いられた娘は泣いていたんだろ?
子供の親権を父親に渡すと遺書も残して、多くはないだろう遺産は子供たちの意思に任せると。
どんな思いでそんなものを書いていたのだろうか。
軽くめまいがする。吐き気もある。紛らわすように優しく四葉の頭を撫でて飲み込んだ。
四葉は困惑しながらも、俺の背に手を回してくれた。
「最後に、これだけは知っておいてくれ」
「…よくしゃべる爺さんだ」
「う、上杉さんっ」
「…わしは零奈ほど我慢強くはないからな」
孫が泣いてるってのに我侭な爺さんだ。
もう後悔はしたくないとでも言いたいのか。先が長いとは言えない老人の頼みを四葉は頷いて聞こうとする。
「先の電話の話には…まだ続きがある」
余命を宣告されたことを父親に打ち明けた先生は、共に暮らす誘いを断った。
話したことは自身が亡くなった後のことや、先に逝ってしまう己の不甲斐なさに頭を下げるような、父親からしたら聞き入れたくないものばかりだっただろう。
娘を愛していたこと、母の死に囚われずに幸せになってほしい。それが希望だと。
それからの続きとは何なのか。
泣いている四葉に今教えなくてはいけない程のものなのだろう。
「四葉ー」
「どこ行ったのよあの子…」
ここは静かな部屋だ。外の声は簡単に拾うことができる。
聞こえたのは三玖と二乃の声だった。姉二人が探し回っているようだ。
「行ってこい四葉」
「ですが…」
「あいつらこの部屋入ってこれるか怪しい、探させるのも悪いだろ」
「…わかりました」
爺さんに頭を下げてから四葉は部屋から出て、姉二人を追っていった。
話はこれで終わりか。話し相手の四葉がいなくなったことでお開きかと腰を上げた。
「縁とは分からないものだな…必然であっても」
まだ話は終わっていなかった。
爺さんは四葉が去ってもなお座り続けていた。
娘の話をおいそれと漏らす人ではない。
知っておいてほしいというのは、俺のことだったのだろうか。
爺さんの話に付き合うべく、その場に座りなおした。
「零奈は残ると言った
…入院もせず、子供たちに迷惑をかけてしまうのにも関わらずな
ここで余生を過ごすことと、そう変わらないだろう」
「…
ああ…正直ここにいても良かったんじゃないかとは思う」
「…なぜかと問い質した
変わらずに、あの家に残った意味をな」
爺さんを俺を一瞥して、先生を見るわけでもなく…仏壇に背を向けて外の景色に視線を移した。
何なんだ。
それに俺と何の関係があると言うんだ。
「最期に会えるかもしれない」
「…」
「拙い、幼子のような考えだな
今でもあの声は覚えているよ
…約束でもしていたのかもしれんな」
ふいに、俺は視線を逸らして俯いてしまった。
誰に、とは聞けるわけがなかった。
誰に会いたかったのか。あの家にいることで、誰と。
心中は期待と否定のせめぎ合って思考が定まらない。視界が一点しか見えず周りがぼやけてみえる。
返事をすることもできず、無言の時間が続いていた。
「…そう、か
誰なんだろうな…そいつは」
「教師であろうとしたのだ
生徒なのかもしれんな」
「…ああ…っ…」
その言葉を最後に、声が詰まる。
もう話せそうにない。鳥肌が立って、震える手をきつく握り締めて耐えるしかなかった。
くそ…やっぱり来るんじゃなかったぜ…
知るべきじゃなかったんだ、先生のことなんて。
そんなことの為に残ったのかあの人は。
娘より優先したものがそれなのか。
お門違いな勘違いだったらとんだ道化だ。
…らいはの話を思い出した。一昨年の話だ。
会いたい。あの人はそう言っていたと、妹は話してくれた。
「フータローいるの?」
「何やってるのよママの前で、お爺ちゃんも」
「だ、ダメだよっ 二人はお話中だからっ」
戸が開かれて、日陰で暗く静まっていた場が…晴れ渡るかのように明るいものに変わった。
四葉が二人を止めようと後ろで慌てているが、二乃と三玖の姉二人は見向きもしていない。
こいつらは…母を一人で逝かせてしまったと謝っていたな。
「四葉」
「は、はいっ!」
声をかけられるとは思わなかったのだろう。はたまた姉二人を立ち入らせたことを咎められると思ったのか。
四葉は神妙な顔をして、汗を滲ませながら姉二人の前に出てきた。
もしかしたら、そんな曖昧で憶測でしかない話だ。
もし先生が父の元で、この旅館で余命を過ごしていたら。
一人で逝くようなことはなかったはずだ。
もっと長く、子供たちと…小さくても確かな幸せを多く過ごせたはず。
あの先生が、そう言ったんだろ。
会えるかもしれないなんて、あの人が。
あの家で娘の重荷になると知りながら、誰を待っていたんだ。
あの人が、先生が…最後には一人で亡くなっていったのなら。
五月のように、微かな願いを抱いて待っていたとしたら。
「皮肉にも、おまえの問いに一つ回答が出た」
「え?」
話が読めないと困惑する四葉のリボンを押さえて撫でてやった。
「おまえ達は誰も不幸にしていない」
「そ、それはどうして」
「…何の話?」
「四葉が妙なことを考えてたのは分かるけど
何であんたが言い切れるのかしら」
「消去法でそうなる」
「…意味わかんない
分かるように説明しなさいよ、教師でしょ」
「二乃…」
「怒らないでよ、あんたはわかるの?」
「…わかんないけど、今はやめて…」
既に線香は灰となり熱は失せている。
手を合わせていた時には定まらなかったものが、今決定付けられた。
仏壇に飾られた写真を見やって、子供たちに背を向ける。葬式やこの行いでもそう。一つ疑問が浮かぶ。
死んだ後のことなど誰も知らない。生きた者が考えた…いわば利己的な習わしに過ぎないという考え。
そしてそれは、死者を冒涜するような、生者の自己満足に死者を利用していると知っていながら、風習という名だけで流されている愚かさが嫌になる。
「いいか…?」
「…」
何がしたいのか自分でも分からない。
爺さんに断って、先生の前まで足を運ぶ。
先生の言う、会いたい人が誰なのか知りはしない。
だが、結局は…俺は愚かで、間違っていたんだ。
父より先に逝き、子供たちの重石となったままこの世を去っていった人が何を思っているんだ。
魂なんてものがあるのなら、今ここにあるのだろうか。
どうしても、やはり怖いって気持ちが勝る。
その場に座って、手を合わせた。
気持ちよりも体が先に動いているようだ。何かが胸を締め付けて、顔が強張ってしまう。
「…」
目を瞑れば暗闇しかない。俺の異質な行いに子供が三人が騒がしくなったが、すぐに静まった。
先生の写真を見て、爺さんの話を聞いて思い出した。
十年振りに見た先生の姿。白い装束を身にまとった、硬く冷たく、この世を離れてしまった人の亡骸だ。
あの時から考えては消えて、否定しての繰り返しだった。
だがそれも、今わかってしまった。
湧き上がるものを堪えて、合わせていた指が崩れる。力を抜いてしまうと崩れてしまいそうで、唇をきつく結ぶしかなかった。
もうあの様に、無心で手を合わせることはできそうになかった。
「そろそろ食事の時間だ
いきなさい」
「ま、待って…う、上杉も」
「…う、上杉さん…」
「…いきなさい」
「…はい」
「…
私はここに残る」
「三玖、今はやめたほうがいいよ…」
戸が開く音が聞こえ、閉じられた。子供たちの抗議は爺さんが止めてくれたようだ。
四人の足音が遠ざかっていく。
一人になったと知ると吐息が一つ漏れて、そこから次々と零れていく。肩が震えて呼吸が乱れる。
あいつらに言い聞かせておきながら、情けない。今になって…申し開きもない
泣くなんてみっともないとわかっていても、今は堪えられなかった。
俺のせいだ。やはり、俺のせいだった。
そうかもしれないと言葉に出来ない不安に苛んでいた。あの悪夢のように。
そうであってほしいと願っていたこともあった。あの人の生徒であり続けようと、あの人に求められることで関係を維持できるんじゃないかと浅ましく願っていた。
そんなもの、どうでもいい程に悲しく辛くて仕方ない。
「すまなかった…先生」
一人で逝ってしまったのか先生。
寂しくなかったのか…待っていてくれたのに。会いたいと願っていてくれたのに。
死にに逝くと分かって怖いわけがないだろ、あの人は臆病者なんだ。愛する子供とも離れ離れになって、父親より先に逝くはめになってよ。
それでも待ってくれてたんだよな、先生。悪かった…そんなこと知らなかったんだ俺は。
たった一年の仲だから。そんなもので誤魔化してしまった。
認め難かったんだ。あんたに相応しい人間は他にいる。俺は子供で、求められるには足りていないと分かっていたから。
だから、あんたを見ようとせず逃げていたんだ。もう一度会って失敗する事が怖くて堪らなかった。
あの終わり方が、先生の最高の生徒で終われるのなら…そう思って、諦めたんだ。
手が震えて、懺悔するように頭を垂れる。
助けてくれた恩があった。背中を押してくれたんだ。あんたを好いていたんだ。決して嫌っても蔑ろにするつもりなんてなかった。
「こんなこと、馬鹿げてる…」
すまない…すまない、先生…
涙が止まらず顔を上げられそうにない。謝ろうとしても声を堪えるのに精一杯だった。
あの人はこの場で聞いているのだろうか。だが、こんな惨めな懺悔など誰にも聞いてほしくはない。
それでもこの後悔は一人で抱えるにはあまりにも重く、縋るように涙を零すしかなかった。