年を重ねると一日を過ごす感覚が早まるように感じられる。
ジャネーの法則で有名な話で、これは誰しもが知り得る感覚だろう。
年長者は時が経つ早さを惜しみ、過去を懐かしみながらも未来の為に生きる。
それが己の為でもあり、守るべきものの為でもある。親ならそれが子の為になるはずだ。
立派な信念なのだろう。努力する意義を持っていることは素晴らしく誇らしいものだ。
されど、人の為というものは…酷く曖昧でいて、幸の薄いものだ。
そんな小さな幸せでも満足できるのだと、親父は教えてくれた。笑って生きる理由になるんだと最愛の人を亡くしてもなお笑っていた。
今の俺にはそんなものはなく、この先笑えそうにない。
それどころか…なくなった過去を惜しむことすら憚られるようになってしまった。
咎人に救いなどない。それは罪を償った後にやってくる。
「最期に会えるかもしれない」
胸が締めつけられる。
それは俺が望んでいた願望であり、希望を叶える言葉であり、恩人を惨めな死に追いやった呪いでもある。
耳にするその声は先生の物だとわかっていても、それがどのような声音なのかは記憶されない。
夢朧。その夜もまた、この光景を目にすることを薄々察していた。
あの言葉の前にも…あの子が言っていたんだ。
もしかしたら会えたかもしれない、その機会を潰したのは私のせいだと。
一花が口にした懺悔もまた、俺にとって後悔を積み重ねるものでしかない。
「笑ってしまいますか…?」
酷く似ている。俺の目の前には、やはり先生がいた。
あの頃と変わらない姿で。顔はこちらに向いているというのにその表情が分からない。
だがきっと、先生は遠慮がちに笑っているに違いない。あの人がその言葉を口にした時はいつもそうだった。
「また、夢か」
もううんざりだ。自分の心の弱さはもう身に染みている。
恨んでいるのか。あの人がそんなことを思うはずがない。
自問自答を繰り返し、それでもこのような浅はかな夢を見ているんだ。
夢は変わらずあの時の光景を再現している。桜が散る季節。生徒が教師と別れる卒業の日だ。
周りの景色が曖昧でも、自身の姿はきちんと現実を見定めているようだ。
十年前の姿でもなく、学生服でもなく、喪服を着ていた。恩師の遺骨を納めるべく纏っていた哀悼の衣服だ。
先生はもう死んでいると自覚しているというのに、この夢は俺を小馬鹿にしている。
「もう正解は知っている
受け入れるさ、先生…
だからもう、休んでいてくれよ」
もうこの悪夢は何したって覚めることはないんだろう。
縛りつけられることで先生の傍にいたいんだろうよ。それしかもう、先生と接する術はない。
だが、もう終わりにしないといけない。五つ子たちは既に前を見据えて歩いてる。もうじき夏休みも終わる。
自分は大丈夫だと思っていた。母を失い嘆く子供たちを守ってやれる。そんな自負があった。
だが、それは勘違いでしかなかった。
子供たちに構って、我が身を振り返る機会を先延ばしにしていた。
「付き合わせて悪かったな、先生
それに…顔…見せなかったのも悪かった」
もう終わりにしよう。もうこの夢は不要だ。
こんな夢を見ていることすら、あの人を穢しているようで心底嫌だった。
なまじ先生の姿を見られることが、夢であっても死人を冒涜していることに他ならない。
悪夢であっても、優しい夢であっても。最初からあの人を忍ぶ立場に立てていなかった。
この人は最期に、娘にも、父親にも、待ち人にも見届けられず一人で逝ってしまった。
あんまりだろ。先生はそんな終わり方をしていい人ではなかったんだ。
優しくて、どうしようもなく不器用で、人に頼ることが下手な人だったんだ。
誰かが守ってやらないといけなかったんだ。
守るべき子供でも、迷惑をかけられない父親でもなく、赤の他人が必要だったんだ。
先生は最後の最期に、赤の他人を求めていたんだよな。
「なあ先生、本当に俺を待ってたのか?
だとしたら…やっぱり恨んでるよな
あんたには恩があったんだ、とんだ恩知らずな生徒を快く思うはずがない…よな」
終わりにすると言った。恩師を冒涜しているとも分かっている。
それでも尚、死人に募ろうとしている。墓場を漁るような、先生の肩を掴み未練がましく問う。
先生のその表情を伺い知ることもなく、それは音を立てて崩れ落ちていった。
白く硬い、朽ちた姿。先生だったものは音を立てて地に落ちて砕けてしまった。
崩れ落ちた遺骨があまりにも痛々しかった。
死んだあの人を夢の中でさえ傷つけ、蔑ろにしている。床に伏して立って歩く事も辛かっただろう人に、していいことじゃない…
もしあの壷に納まった遺骨を地に落としたら、こんな悲惨な光景になるのだろう。子供たちが泣いて悲しむ姿が容易に思い浮かぶ。
吐き気がする。眩暈もして悪寒もする。夢でありながら、この感覚はあまりにも現実的だった。
「す、すまない先生…こんな事がしたかったんじゃ…!」
地に膝をついて、砕けて破片となった骨を拾う。
もうろくな考えなどない。ただ先生を労わりたい気持ちのままに動いている。
これを集めて何になるのか。夢だと分かっていても何がしたいんだ俺は。
一瞬でもいい。また辛くたっていい。
もう一度見せてほしい。あの人が娘と共に笑っている光景を。
こんな姿見たくない。俺のせいにしないでくれ。俺はこんな人間になる為に努力してきたのではない。
他人を見下す人間には、死人の気持ちを汲むことなどできず。涙を流しても手は止められなかった。
所詮自己満足でしかない。自分勝手な素行だと自覚している。過去と同じことを繰り返している。他人を見下していた当時と。
過ちは正さなければ繰り返してしまう。だが、弱い人間は一人では変われない。
夢の世界は誠実だった。風太郎には死者を偲ぶものはなく、いつの間にか、十年前に後悔した学生の姿に戻っていた。
昨日は思い出のある旅館にて、蝉や蟋蟀の鳴き声の中で夜を過ごしたというのに、30階という高層マンションでは何も聞こえてこない。
外は変わらず青い空と目が眩むほど輝く日の光が見えます。
同じ空なのに、お爺ちゃんの家やお母さんと過ごしたあの家とは違う生活はまだまだ慣れそうにない。
静まったこの空間に悩ましげな声が一つ。時計の針の音と、氷が溶けて崩れる音が時の経過を知らせてくれます。
「うぅうう…」
顔をしかめて唸り声を上げている私は傍から見たら変質者に見えるでしょう。
雑念が多い頭では集中できない。
教科書の頁を捲っては首を傾げてを繰り返している。ギブアップです、と教科書に顔をうずめる。
「あと三日だというのに未だにここ…上杉君に知られたら…
う…うぅうううううう…っ!
私の頭の悪さで中野家の未来が真っ暗に…ッ!
これではお爺ちゃんの頑張りまでも全てぱぁーっになってしまいますっ!」
教科書を握る指が力み、あと少しで悲鳴が上がりそうだった。教科書から。
夏休みの課題が終わらない。真面目に取り組んでいながら、終わりそうにないこの状況に潜んでいた恐怖が高まっていく。
課題の量が多いわけではないはず。夏休みという一月半の期間に課せられたは、一週間集中して取り組めば終わるはずでした。
今日が8月28日。残る三日でこの課題を終わらせなければならない。意気込んでも、到底間に合わない状況にあります。
否、終わらない以前に分かりません。これは私にとって予想外の事態です。
タイムリミットが日に日に迫っている焦りもあって問題に集中できていないことも一因しているのでしょう、
これなら数学が得意な一花に頭を下げて頼むべきでした…得意と言ってもどんぐりの背比べでしかありませんが。
虚しい…教師の娘のはずなのに、姉妹全員赤点候補だなんて。
お爺ちゃんの家に一泊してから帰宅した私達は、昼食を取った後に各々自由に過ごすことになりました。
当初は、大事な預かり物を受け取った私たちは上杉さんに連絡を取ろうとしました…が、反対意見が上がったのです。
「急ぐ必要はないじゃない、遠いところ往復して上杉も疲れてるんだから
昨日と今日で付き合わせるのは可哀想よ」
「二学期からじゃ駄目かな
会える日少ないし…会いに行く口実にしたい」
二乃と三玖から、連日は避けて日を空けるべきだと提案されました。
二乃が彼を労わるとは珍しく、仲直りしたのは本当のようでした。
一方で二乃と和解したはずの上杉君は昨日の帰り際、元気がないように見て取れました。
二人の言う通り、急ぎではないでしょうから落ち着いた後に渡すべきだと考えられます。
それに、彼をこれ以上無理させてはいけない気がする、もう後悔したくありません。
三玖が言いたいことも少し分かります。結局私たちは二学期以降、上杉君と出会う回数は極端に減り、何か用事がない限りは気軽に会えないでしょう。
二人の意見に沿ってあの紙袋は保留となりました。今は私がしっかり管理し預かっています。
もしかしたら…今日もあの人がこちらに来られるのではないかと思って、ノートの横に置いていますが。
…願望でしかありませんね。部屋に置いておきましょう。
これが保留と決定したその後は、皆が各々一人で行動するようになりました。
「ごめんね…ちょっと用事がね」
「用事ですか? 良かったら手伝いますよ」
「えっ い、いいって、五月ちゃんは課題終わらせるんでしょ?
私はもう諦めてるのに偉い偉い
不真面目なお姉ちゃんは遊んできます」
一花は苦笑いを見せて、一人で外出してしまいました。
一花が遊ぶなんて意外でした。いえ、悪いことではありませんが本当に意外なのです。
それは一花に限らず、他の皆もそう。
私たちにはあの頃の日常はなく、する必要がなくなってしまった。言ってしまえば…自由なのです。
お母さんが家で寝込んでいる日は皆早く帰ってきて、心配で仕方ないお母さんの傍を離れずに一緒に過ごしていたから。
逆に皆が遊びに行く日は…お母さんの体調が良い日。数えられるくらいしかありませんでしたね。
後ろめたさがあったのでしょうか、一花は大げさに私の同行を押し留めて行ってしまった。気に病む必要などないのに。
本音を言えば一花が一番にそのような姿を見せてくれてほっとしています。
私達を支えてくれたお姉ちゃんですから、少しだけでも肩の荷を下ろしてもらえたら、と。
「じゃあ、らいはお姉ちゃんのところ行ってくるわ」
「お土産こっちでいいんだっけ
上杉さんの分も持ってく?」
「…お姉ちゃんに手間かけさせるのも悪いわ、置いていきましょ
あいつの分は直接本人に渡せばいいでしょ」
「お二人共、もしお父様もいらしたらよろしく伝えてください」
二乃と四葉は上杉君のご実家に。らいはお姉ちゃんにお土産を渡しに向かいました。
四葉はその後にしばらく部活に参加してないからとジョギングに。二乃は買い物だそうです。
私も一緒したかったのですが…この課題を終わらせるため辞退しました。それが今から2時間程前の出来事。今はもう15時を過ぎてしまっている。
私以外に真面目に取り組んで、夏休みの内に終わらせる人はいないようです。事前に上杉君に伝えてましたし、私からは何も言うことはありません。
私は、それは許されない。
私だけは、このままでいることに甘んじてはいけないのです。
もうあんな失敗はしてはいけない。少なくとも…少しずつですが前に進んでいるのです。
この問い、解ける気がまったくしませんが諦めたくない気持ちはあります。不可能ではないはずです…たぶん!
こんな私でも100点を取れるくらいに成長してみせます。見ていてくださいお母さん! 例え一人になっても、私は頑張りますから!
「…
…ぐ、ぬ…う、うぅうううっ…」
しかし、いくら勉強に励んでも手は自然と頭を抱えてしまう。問題が解けないことがこれほど罪に感じるとは思いもしませんでした。
暢気に上杉君とパフェ食べてる場合じゃなかったのです…あの時の能天気な自分にこの問いをぶつけたい。
リビングのテーブルに張り付いて睨めっこが続いている。家族は五人もいるのに今は私一人だけ。最近はこのような時間が増えましたね。
自室で勉強しても良かったのですが、どうも慣れませんし落ち着きません。
数週間前までは狭い居間で五人と、お母さんの六人一緒に集まっていた。
テーブルに置かれた写真立てに視線が移る。お母さんと私たち五人が写る4ヶ月前の光景が懐かしい。あの遺影とは違う、生活感のある写真です。
「…窮屈で、うるさくて…
自分の部屋が欲しいと思った日もありました
変ですよね、お母さん…
長年欲しかったものが手に入ったのに、まだ嬉しく思ったことがありません」
今では理解できない過去の願望です。あの無言のない時間が懐かしい。
もう既に大きなピースが欠けてしまい、永遠に完成しないものになってしまった。
…もう涙は出ません。こうして薄れていくのでしょうか、お母さん。もう泣かないことが嬉しくも、やっぱり悲しいですね。
不出来で泣き虫な娘が頼るのはいつだってお母さんだった。縋るようにこの手が写真に向かってしまう。
「…賢い子じゃなくてすみません」
写真を手に、胸に抱えて謝るだけ。
あの時はいなくなってしまったお母さんのことで頭はいっぱいで抜けていました。
いえ、これ以上傷つくことを恐れて思い出さないようにしていたのでしょう。
お母さんは諭してくれたことですし、上杉君から後悔することだけが愛情ではないと教えられたことで、救われたのです。
ですが、全てが許されるわけではないでしょう。
上杉君に話したら幻滅されてしまうでしょう。この課題の件も然り。
「お、お母さん、どうしましょう…絶望的です…あぁ…私はいつもこうです
意地を張って、最後になってから後悔するのです
昨日の私はお調子者です…なぜ山彦さんにヤッホーなどと叫べたのでしょうか
張り倒したいぃ…」
その上、昨日は上杉君と殆ど話せていません。
できればでいいのです。もっとお母さんのことを知っていただけたらと思っていたのに。
お母さんの仏壇の前で手を合わせてくれた上杉君はあまりにも真剣で、来てくれて良かったと心から嬉しかった。
少し思い出せばおかしいなほどに、絶望的だと汗が吹き出るほど頭を抱えていても、思い浮かぶあの人の表情は優しく笑っている。
仕方のない奴、と呆れながらも許してくれそうな気がする。
昔のように、泣きそうになって見上げている私に控えめに笑ってくれて、そのまま頭を撫でて抱き寄せてくれるような。
撫でられる前にゴンッ!と頭をテーブルに打ちつける。
「それは子供の頃の話…
もう高校生なのですから、しっかりしないと!
お母さんのようになるには上杉君に甘えてはいけません!」
額の痛みを忘れ、煩悩と不安を振り払ってペンを強く握る。
何にせよこの課題を終えてから彼とお話するべきです。託された物も含めて。
全てはやるべきことを終えてからです。やるしかないのです。気を改めて拳を強く握り締める。甘えるだけの子供じゃないことを証明しなければ。
「…う…うぅうう」
…でも、わからない。知識とは気力でどうこうできる代物ではないのですね…時間をかけてこつこつやることに意味があるのだと見に染みる。
握ったペンは簡単に落ちて、指は教科書のページを捲ることになった。
さっきからこれの繰り返しです。
「五月、ずっと唸ってる…大丈夫?」
「すみません、聞こえてましたか」
廊下へ繋がるドアを開いて声をかけてくれたのは三玖。
今日の洗濯の当番だった彼女は宿泊で溜まった衣類を洗濯しベランダに干していました。夏ならこの時間でもすぐに乾くでしょう。
一人で唸っているところを見られてしまいました。三玖は呆れながら冷蔵庫へ向かってお茶を取り出した。
課題に苦戦している私にお茶を出してくれました。先に出していたコップは既に空になっていて、注がれるお茶と氷が重なる音は時間を巻き戻されたような安心感がありました。
冷たいお茶を一口飲む。冷たく渋い緑茶が乾いた喉に刺激を与えて、煮詰まった思考が少しほぐれるようでした。
「ほっ…」
「ふふ、なんか五月、お婆さんみたい
一度休憩したほうがいいよ、正直これに関しては仕方ない
フータローも、事情は担任に伝わっているから大目に見てくれるって言ってた」
「だからと言って甘えるわけには…私は泣いてるだけでしたから
か、変わりたいのです…もう」
もう甘えてなどいられません。
皆を守ってくれた一花、お母さんのお世話をしていた二乃、私達の不安に寄り添ってくれた三玖、私達とお母さんを笑顔にしてくれた四葉。
私は…何かしてあげられたでしょうか。
私は末っ子で、四人の姉に甘えて、守られてばかりで何もできていない。
だからこそ自分のことは自分で、それが今の私が最初にやるべきこと。
それさえもできない私は…価値のない、必要のない存在なのでは。
変わらないと繰り返してしまう。
一花が以前この場で上杉君に言っていた言葉。お母さんが上杉君に代わっただけだと言っていた。それだけはいけません。
…嫌なことばかり考えてしまいますね。このようなことお母さんも上杉君も望んでいないのに、この泥沼から抜け出せそうにない。
三玖は俯いていく私の隣に座って、心配そうに寄り添ってくれた。
どこか気恥ずかしくて、私は教科書に向き直して目を逸らしてしまった。
「五月は…
今年の始業式からずっと、お母さんのことが気がかりで授業…ろくに受けられなかったよね」
「…」
「五月は放課後もすぐに帰ってお母さんの下へ駆けつけてくれた
5限目サボって帰ったらお母さんに怒られてたっけ…」
「そ、そのようなこともありましたね…」
「確かに五月はお母さんに甘えてた部分があったけれど…
五月がお母さんを大事に思う気持ちは責められるべきじゃない」
「三玖…」
「両立できないほど心配だった、それぐらい分かる
私たち四人じゃ恥ずかしくて伝えられなかったことはね、いっぱいあったんだよ」
「…ッ」
教科書の頁を捲ろうとしてやめた。その手を三玖の手が優しく触れてくれた。
…お姉ちゃんには勝てない、な。やっぱり。
「甘えん坊な五月が代わりに伝えてくれたことで、皆が救われた
好きとか、面と向かって言えないから…
だから…その…感謝してるよ」
「…そうでしょうか
だとしたら、よかったです…っ」
「…よかった、笑ってくれて」
泣きそうな私に三玖はハンカチを渡してくれました。常備しているのでしょうか、三玖はやはり女性らしい姉です。
私がいることで役立っていた。そう教えてくれたことに胸が熱く、涙を堪え切れなかった。
最後、私たちはお母さんを一人で逝かせてしまった。
決して軽はずみなことは言えない大罪なのに、三玖はあえて私に教えてくれた。ずるいですよ。
涙が引っ込むまでそう時間はかからなかった。今月で数年分の涙を流した気がします。
涙は収まり、ハンカチは使わずに済んだ。お礼を言って黒いハンカチを返そうとしたところで三玖から手の平を向けて止められた。
「それ、該当者不明」
「え…ですが…私のじゃありませんよ?
というかそもそも、このハンカチ男性物じゃ…あっ!?」
「…皆違うって…消去法で五月になる、当たってた?」
「はい、これは上杉君からお借りしたものです…」
この黒いハンカチはあの時の物です。借りてそのままだった。
「フータローの? 前に泊まった時に返し忘れた?」
「…いえ、再会した時に
お母さんの…その、火葬の時に」
「…そう、とりあえず五月に渡しておくね」
あれからだいぶ日が経った。あの日は胸が張り裂ける気持ちを知りました。涙が止まらず、泣くことしかできなかった。
何もしたくない、お母さんが亡くなったあの日から進みたくなかったのです。
進めばもう戻れない、今ならまだ一緒にいられるような気がして。
時間は止まってくれない。私が止まっている間にもう別れの時間が来てしまった。そう上杉君は教えに来てくれましたね。
泣いたままでも、黙っていてもいい。気持ちだけでも伝えなさい、と上杉君はこのハンカチを渡して背中を押してくれました。
忘れていたなんて酷い子供でしょう。お借りした物には心から救われたというのに。あの時は涙と鼻水で沢山汚してしまいました、ごめんなさい。
渡すべきものは他にもありましたね…ここに。
忘れていた、とは本当でしょうか。
違いますね、これもまた考えないようにしていたのです。
「…五月が羨ましいよ」
声が聞こえた先、隣を窺えば…先ほど私を励まして笑ってくれたはずの三玖が俯いて表情に影が差している。
ど、どうしたのですか三玖っ! 負のオーラが溢れ出てませんか!?
三玖は私たち姉妹の中でどちらかというと悲観的なほう。
心優しく温かい姉ですが、自分を卑下するところが欠点であって心配な家族です。二乃が一番気にかけていることです。
そして、この表情は三玖のネガティブ思考が渦巻いている時のものです。
徒競走でビリだったり、テストの返却で赤点を目にした時だったり、色々とケースはありますが、なぜ今なのですかっ
三玖は乾いた笑顔で笑っている。これは重症です…本当になぜいきなりそうなるのですかっ ただただびっくりです。
「五月はフータローと約束してたんだもんね…
十年経っても守ってくれるような、お互いに思い合って完遂された二人だけの約束
私も欲しかった…」
「…三玖の…その
告白も忘れられずに、覚えてくれているそうじゃありませんか
恥ずかしいでしょうが上杉君に確認しましょう
もう目の前に答えが出ているじゃありませんか」
あと一言だけでいいのです。今までの思いが報われるのに、ここで臆してはいけませんよ三玖。
小学校の頃に、クラスメイトに初恋を笑われて泣いてしまったことは今でも覚えています。
温厚で控えめな三玖が本気で怒って喧嘩したことも。
私たち四人が慰めてもずっと泣いていましたよね。それほど大切な気持ちだった。それは今でも変わらないのでしょう?
子供の頃、上杉君の話題が減っていき胸の内に隠していたのでしょう。
三玖は思い出を手放さずに、大好きなお兄ちゃんを慕っていました。現実的ではないと思いながらも、抱き続けることはとても辛かったはずです。
それも、後もう少しで報われるのではないのですか三玖。貴方は忘れられてなどいなかったのですよ。臆してはいけませんっ
三玖は私の余裕のない顔に苦笑して、また一つ教えてくれました。
「そうじゃない、これに関してはちょっと違う
…子供は忘れても許してくれるから」
「えっ?」
「フータローも、幼稚園の先生も…お母さんも言ってた
子供をね、諭す言葉は大人の優しさなんだろうけれど…同時に私が無力なんだと教えられた呪いの言葉
子供が真剣でも大人には響かない…嘘なんていらないのに誤魔化して
…今はもう子供じゃないから、昔みたいに嘘で次に繋ぐことはできない
言ったら最後、それでおしまい…」
「三玖…」
「だから次がある五月が羨ましい
私なんかと違う切実な約束だから、ずっと通じるものだから
私にはない…きっとこれが終わった後はもう…ない
なくなるのなら、このままでいい…」
「…次、ですか」
三玖が何に落ち込んでいるのか。上杉君が覚えていると知ってあんなに喜んでいたというのに。疑問でしかありませんでした。
少し考えて合点がいきました。彼が覚えていたとしても、三玖には踏み込む勇気がないのでしょう…
ま、まさか…やはり告白するつもりなのでしょうか。断られたらとは、そういうことなんですよね…?
それは予想外です…あくまで慕っているだけで、異性の男性として慕っているとは…本気なのでしょうか。
三玖は次の機会が欲しいのでしょう。失敗しても繋げられる保険が。幼い頃の思い出を語った後の次の機会を。
ピリオドとなるものはまだ取っておきたい。今見せれば終わってしまうのなら我慢するほうがいい。
そういうことですか。三玖が考えそうなことですね…
確たるものでなければ安心できないのでしょう。何かが変わってもまた会える約束でなければ、勇気が出る何かが欲しい。
…何で私がハンカチのことを忘れていたのか。理由が分かりました。
ならば、三玖が私に教えてくれたのなら、私は求められる役目を全うしてみせます。
「いきましょう、三玖」
「え? ど、どこに?」
「これから上杉君のお宅に行きましょう!」
「ふ、フータローの家…? な、何の為に
それに迷惑になるよ、昨日あれだけ振り回したんだから」
「その時はその時で、こっぴどく怒られましょう
安心してください、三玖は私が守ってみせます」
「怒られるならやめようよ…
五月いいんだよ、無理しないで」
「5限目サボって帰る生徒ですから、今更です」
「…なにそれ…もう」
暗く落ち込んでいた三玖が少し笑ってくれました。私…お母さんに憧れていましたが存外不良生徒でしたね。
約束ならいつだってできるはずです。どんなに小さな事でもあの人は真剣に私たちに向き合ってくれたのです。
我侭ばかりの手のかかる子供との約束でもあの人は叶えてくれたのだから。
三玖が勇気を踏み出せないのなら私が手を引いてあげましょう。大切な姉が困っているのなら助けてみせます。
あの人に返すべく、黒いハンカチを手にする。
予定を変更して、これから上杉君のお家を訪ねてみましょう。三玖も了承して身支度を整えて一緒に玄関へ向かった。
「あれ、二人もおでかけ?
タイミング悪かったかな」
「四葉ですか、おか――」
「え…
よ、四葉、何で…」
「だ、駄目だった?
駅前で会ったから、つい追いかけちゃって…」
玄関の前で靴を履こうとしたところでドアが開かれた。ドアの先にいたのは、手に男性物の鞄を持った四葉でした。
私も三玖もつい硬直してしまい、帰ってきた四葉の通路を塞ぐように棒立ちしてしまいました。
呆気に取られてしまったのは四葉にではなく、その後ろ。四葉よりも背が高く、すらっとした男性が居心地悪そうに私たちから顔を逸らしていました。
私たちが勇気を振り絞って会いたかった人です。昨日、母の故郷にお招きした上杉君です。
複雑な思いで四葉を見やると彼女は狼狽して困惑している。そんな四葉の様子に、背後の彼は気まずそうに踵を返そうとしている。
「押しかけて悪いな
爺さんのところから帰ってきて疲れてるだろ、また今度な」
「あっ!? ちょっと待ったぁ!
私が無理矢理お誘いしたのですから、せめて涼んで行って下さい!」
「お、おい押すなっ」
背を向けて帰ろうとする前に、四葉が方向転換させて背中を押す。通せん坊している私たちを追い抜いて四葉は彼を家に招いた。
話したいことがあったはずなのに、口を閉ざしたまま私たちは見送ってしまった。
肩透かしとはこういうものでしょうか。三玖は始終俯いて、彼と目も合わせられない様子でした。
「三玖…」
「…保留っ! ひとまず保留で…」
「そうですね…ムードもへったくれもありません…
ひとまずお茶でもお出しして、寛いでもらってから話を――
あぁあっ!?」
「きゅ、急に何…?」
四葉があの人を招いた先はリビングです。客間でもあるあそこに、客人をお招きするのは当然のことです。
でも今は非常にまずい状況にある。
あそこにはまずいものがテーブルに散乱している。しかも祖父から託された物まである。
あれだって渡すにはムードも必要です! あれは大事な贈り物なのです! まずいです!
私の奇声に三玖は目を見開いて驚いてしまいましたが気にかけている暇はなかった。
大慌てで廊下を走ってリビングに戻り、バレる前にノートや紙袋を回収しに向かった。
「あぁよかったっ!」
紙袋は無事でした。上杉君が触れる前に駆け込んで回収する。
胸に抱えてほっとするのも束の間。彼は私の真横に立っていながら何も告げず、どたばたと騒がしい私の喧騒に無反応だった。
「…」
「あ、あれ? 五月勉強中だった?
その…夏休みの課題って…」
「五月、広いからって廊下走っちゃ駄…目」
リビングの床を滑るように走ってきたのですが…時既に遅し。
私が察したことを、四葉も三玖も悟ったようです。視線は私から彼へスライドしていく。
紙袋の傍ら。私に一瞥もせず、テーブルに置かれていたノートやプリントなどを手に取って無表情で睨む教師がいる。その空気に皆も押し黙ってしまいました。
お、おかしいですね…お母さんはもういないのに…非常に似たような雰囲気を肌に感じます。所謂、おしかりモードといいますか…
冷や汗が止まりません…至近距離で見上げてもその表情は伺い知ることはできない。
私の想像では、仕方のない奴だと笑って頭を撫でてくれる優しいお兄さんだったのに。
今すぐお家に帰りたいですお母さん…嫌な予感しかしません。
「五月」
「は、は、はいっ…!」
「…これ…全問、不正解だ」
「…へ
ぜ、全問…っ!?」
私が危惧していた事態よりも現実は非常だったようです。
もう始業式の日には終わりませんね…あはは…諦めも肝心でしょうか。
「おまえ、ちょっと一学期の中間期末持って来い
これから二者面談だ」
「ちゅ、中間と…期末テストですか…通知表ではなく?」
「ああ、確かに…それも一緒だな」
「――」
「…ぼ、墓穴だよ五月…」
「うわぁ…」
「ぅ…ぅううううっ…!」
て、テストを見せるのですか。
アレをですか。テストを返される度に先生から補習を突きつけられたアレをですかっ!
理科以外の全教科追試と言い渡されたアレをですかっ!
押入れの奥に追いやっていた苦い記憶が蘇ります。お母さんに見せるだけで壁は乗り越えたと思っていたのに! 通知表は薮蛇でした。
隠すつもりなんてありませんでしたがタイミングが悪すぎます!
勉強できない子だと完全にバレてしまったじゃないですか! 微塵も温情なんてないでしょうこの人は! 目が怖いです。
嫌です…今日は三玖を応援しようと決めたのに、五分経たずしてこの展開ですか。
私なんて…私なんて…っ! もう視界がぼやけて我慢の限界だった。
「うぅううううううううううっ!」
「お、おい泣くな
悪かった、叱るつもりはなかったんだ…俺にそんな資格ねーし…
さすがにこの悲惨さを見ると純粋に心配でな…進級も危ういレベルだぞ」
「私だって頑張ってるんです…それでも駄目で…!
やっぱり私はっ ろくでなしな娘なんです…!
お母さんのようになるなんて夢のまた夢だったんです…!」
「…まあ0点じゃ口が裂けても言えないな」
「上杉君…! 私は、私はどうしたらいいんですかぁあああっ!!」
「もう子供じゃないんだから、わんわん泣くなっつーの…
まったく…手に負えないなら相談ぐらい聞いたのによ」
「え、上杉さん最初頼るなって…」
「ここまで馬鹿だとは思わなかった」
「うわぁあああんっ!!」
私たちを絶望の淵から救い出してくれた、恩人であり心から慕っているお兄ちゃん。そんな上杉君から仕方のない奴だと呆れられてしまった。
夏休みも終わりが近いのに結局また泣いてしまった。これではまた姉たちに心配をかけてしまいます。
素直にあの時頼るべきでした…他校の教師に頼るなとおっしゃっていましたが、事情を話して教えを請うべきだった。
後悔しても、もう夏休みは終わろうとしている。
本当に私はいつもいつも…意地を張って最後に慌て出して、結局皆を困らせてしまう。
上杉君の来訪に戸惑っていた三玖が、馬鹿と断言されて大泣きしている私の肩に手を置いてあやしてくれた。
「五月落ち着いて、ここはフータローに頼ろう
大丈夫、フータローならどんな手を使っても私たちを卒業させてくれるから」
「俺に何をさせる気だ三玖!
まだ半年あるんだから真面目に勉強しろ!
あとおまえも後で見せろよ」
「え、何で私まで」
「い、五月鼻水っ
ほらティッシュ使って!」
「ぐすっ…あるからいいです…」
四葉の指摘で顔が酷い有り様になっていることに気づいた。四葉はぎょっと目を見張って、大急ぎでティッシュを渡してくれた。
涙と鼻水で顔がボロボロです…恥ずかしいので、異性に見られる前に手に持っているもので拭いた。
「ちょ、ちょっと五月、それって」
「はい…?」
「それ、フータローに返すハンカチじゃん」
「…」
「ん? あーそれか…」
三人の視線が手に持つハンカチを向けられる。
涙と鼻水を吹くべく、ティッシュ代わりに使ってしまったものを凝視している。
…人に見せるのも憚られる物になってしまいました。これを返すことを許されるのは子供まで。
今日は厄日ですか。これを借りた日と同じぐらいびしょ濡れになったハンカチはもう返せるものではなくなった。
「ふ、くくっ
五月、鼻水付いたの返してくれるなよ」
「うぅう…ぐすっ」
「ははっ…あぁーまったく、泣き虫も治さないとな」
「できるのなら是非お願いします…」
さっきまで険しく訝しむようなものだったそれは、幼子をあやすよう優しいものだった。
高校生にもなってみっともない姿を晒してしまった。思い出のお兄さんに対してあまりにも恥ずかしく羞恥で顔が赤くなっているのが分かる。
ほんの少し、幸いだったのは。
昨日気落ちしていたはずの上杉君がこんな私に呆れ半分でも笑ってくれたことに。
羞恥心とは違う、ほんの少しだけ気持ちが舞い上がるような照れくささがあった
教師であるのなら、生徒に対する悩みは一生絶えないものだと思っている。
特に進路が危うい生徒には尻を蹴り上げてでも勉強させる。それが生徒の為になると信じているからだ。
何も賢くなれとは言っていない。しかし無知である必要もないのだ。
人生で学習に集中できる時間は学生の頃しかないのだから将来損するぞと言いたい。社会人になればその時間は大幅に削られてしまうのだ。後悔してから気づいても遅い。
まぁ大抵の問題生徒には、大人の都合など知ったことかと逃げられるんだがな。
無意味だと分かっていても、半ば諦めが混じっても、説教臭く言わなくちゃいけないのが教師だ。
「やっほー、フータロー君から電話なんて珍しいね
どうしたの? あ、もしかしてモデルの仕事絡み?」
「そんなことは今はどうだっていい、一花
おまえ帰ってきたら二者面な」
「え、いきなり何…?
やっぱり反対だったりする? 昨日は応援するって言ってくれたのに軽いなぁお兄さん
ちょっとがっかりだよ」
「一般知識ぐらい補え、二学期で赤点取ったら強制執行も考えている
ご希望通り勉強机に貼り付けて個人指導だ
想像するだけで楽しすぎて、おまえのテスト用紙を握る手が震えてるぜ
社会15点ってどういうことか説明してみろ、こっちががっかりだっつーの」
「ちょ、ちょっと今どこにいるの!? うち!?
待って、話をしようよ、ちょっとフータロー君それはあまりにも横暴過ぎないかな!?」
「六者面談じゃないだけまだマシだと思え」
問答無用。昨日あれだけ話し合ったというのに、でかい問題を隠してやがった長女の文句は聞かずに通話を切る。
電話の相手は予期していなかった教師との面談に悲鳴を上げていたが知ったことじゃない。夢を語るのはいいが現実を直視してから言え。
勉強はどうなんだと聞いたのにはぐらかしやがって。お茶目でも見過ごせないものもあるぞ、お姉ちゃんよ。
テーブルに並べられた子供たちの一学期のテストの結果は悲惨だった。
どれも赤点、一人につき一教科しか赤点を越えたものはない。これは担任もさぞ頭を抱えていただろうな。
先生の写真の前に並べるのは残酷極まりない。先生にはしばらく目と耳を閉じてもらうべく席を外してもらった。
「おまえたちよく高校受かったな」
「それは…内申は良かったといいますか…
お母さんが教えてくれましたし」
「…」
「すみません、すみませんっ!
隠すつもりはなかったんです、近いうちに相談させていただきたいと思っていたんです!」
対面に正座する三玖と四葉がテーブルに並べられたものにだんだんと俯いていく。隣の五月なんかは不甲斐なさが募って謝り倒している。
時間が惜しいのだから課題に取り組め、と五月に課題をするよう促す。
冷房が効いているというのに汗を流す五月の隣からノートを覗き込む。躓いている問題を漁って、参考になる公式や例文を紙に書いておく。
全問不正解は五月にとって相当ショックだったようだ。丁寧に教えてやらなければ。
向かいの二人は変わらず俯いてばかりだった。学生ってのは成績の話題になると大抵元気なくなるよな。現役当時の自分が稀なケースだったんだと思い知らされたものだ。
「そう気落ちするな、改善すればいいだけだろ
…おまえたちの進路について今聞きだすつもりはない、高校生活を楽しむ時期だからな
今はそれに集中すればいい」
「フータロー…」
「…進級に悩まない程度にな」
「ぅ…はい…」
母親の体調不良を考えれば無理もない話だ。逆にそんな環境を耐え、無事に高校に進学したことを褒めてやるべきだ。
だがそれにしたってこれは酷い。
下手したら一人五科目の合計点数100点もいかないんじゃないか。高校は義務教育ではないのだからこのままでは進級できない可能性が高い。
この子たちの立場を思い遣ればこの指摘はあまりにも酷だ。だが放置してはこれからの高校生生活に後ろめたさに似たものを抱えて過ごすことになる。
俺も二学期以降は毎日のように見てはやれない。人生の先輩としても教師としても、これは指を指して踏み込むべきだろう。
踏み込むべき、なんだが…
「…
早めに担任に相談しておくんだな
ちゃんと授業受けていれば赤点は免れるはずだ」
「…そ、それだけでお許しいただけるのでしょうか…っ」
「ん?」
「一花は面談すると言ってましたが、私や三玖もするべきですか?」
「一花は別件が絡んでいるから話があるだけだ
あいつバイトとかどうの言ってたからな、釘を刺しておく」
「そうですか…
その、でしたら…お忙しいのは百も承知ですけど、上杉さんにも相談してもいいですか…?」
「…」
「…う、上杉さん?」
「…フータロー、もしかして…勉強できない私たち、嫌いになった?」
勉強できない生徒を嫌う奴に教師が務まると思うか。好むはずはないが露骨に態度を変える大人がやっていい仕事じゃないぞ。
三玖は俯いたまま顔を上げそうにない。少し被害妄想が過ぎる考えだ。昨日二乃がやらかした自爆もこの姿を見ると理解してしまうぞ。
三玖知ってるか? 姉がタオル一枚でおまえを庇ってたんだぞ。
素直に教えたらせっかく和解したものが崩壊するから俺の口からは言わない。
三玖の不安は隣の四葉も、俺の横でノートにかじりつく五月にも移ったようだ。子供たちが不安げにこちらを見上げている。
嫌いになるかって。逆に俺がおまえらに嫌われそうで嫌気が差しているぐらいだぞ。つい溜め息が漏れる。
「相談するのは構わないが、距離的におまえらの担任のほうが話が進みやすいだろ
教師が生徒の成績で選り好みするかよ、平等だ平等」
「上杉さん、やっぱり二学期はあまり来てくれないんですよね…」
「俺も働かないとおまえらの面倒看れないからな
それも二学期になってから相談してくれ、不満があるのなら改善する」
「不満って…フータローにそんなこと…言えない」
「…嫌な言い方だったな、すまん
さすがに昨日の疲れが残ってるな、これなら泊まっていけば良かったぜ
少し頭冷やしてくる」
朝から気分が悪いのはいつものことだが、今日はそれに加えて苛立ちもある。子供たちを無視して一度玄関から外に出る。
四葉に呼び出され、五月の一生懸命な姿を見て安堵したがそれも効果が切れたようだ。
俯いている子供たちにかけるべき言葉が分からないでいる。己の立場が曖昧だと無責任な言葉を口走りそうで躊躇いがあった。
しっかりしろと自分を律しようとしても力が入らない。思うようにならない体に苛み、その上目下の悩みを子供たちに突きつけられたことで余裕が失せている。
恩師の娘とどう接したらいいのか。その資格はなくなっている。
近い日には母親が望んでいたことを話さなくちゃいけない。それを叶えずに母親を孤独死に追いやった男のことも。
おこがましいなど、自意識過剰など言ってられない。もう目を背けていい事態ではない。逃げてはいけないんだ。
こんなことばかり朝から考えている頭では、子供たちと向き合えないだろう。四葉の誘いは一日空けるべきだったか。
自販機でコーヒーでも飲むか、とエレベーターに向かうと背後から走ってくる音が聞こえた。
「…四葉か、悪いなさっきは」
「いえ、無理を言っているのは私たちですから」
「…子供は無理も我侭も言っていいんだよ、将来そいつが良き親になる為にな
それに、子供の我侭を叶えるのが大人の仕事だ」
「上杉さん…」
「まあ無理なもんは無理だがな…五人もいるとそう簡単にはいかないな
下で飲み物買うんだ、おまえも来るか」
「奢りですか、なんか大人っぽいですね上杉さん」
「俺はもう大人なの」
リボンを揺らして走ってきた子供はころころと表情を変える。
やはり四葉には生意気なほどに笑っている姿でいてもらうほうが助かる。
一緒にエレベーターに乗り、マンションの外へ出た。今は夕方の四時過ぎで暑苦しかった日の光も傾いている。
おかげで正面の空がオレンジ色に染まって眩しい。八月ももう終わろうとしている。
今は三玖も五月もいない。
日差しから目を背けるように隣の四葉に朝から気になっていたことを聞き出す。
「おまえ、電話して呼び出したこと二人に言わなかったな」
「…」
「…また妙なこと考えてないか」
「ははは…すみません、合わせてくれて助かりました」
四葉と共に玄関のドアを開けた先には、ちょうど外出しようとしていた三玖と五月がいた。二人はこちらを凝視して不自然なほど固まっていた。あれは正直心臓に悪かった。
その直後に四葉の口から出たのは、姉妹に向けた虚言。
駅前でばったり会ったから連れて来たという寝耳に水なもので余計に混乱したものだ。
三玖と五月の歓迎してない空気は見て分かる。俺はすぐに帰ろうとしたがこいつが背中を押して強引に家に上げやがった。
四葉は姉妹の意見を無視して身勝手な行動を取る子ではないだろう。何か理由があると思って聞き出したかったが、他の姉妹がいる前では聞けそうになかった。
朝の9時頃にメールがあったのだ。恐らく爺さんの元から帰宅する最中だった時間に。
昨日のお話の続きを聞かせてください。そんな文面のメールが。そう言われてしまっては後回しにできないと思って来たのだ。
だというのに、隣で笑う子供は何を考えているのかさっぱり分からず、振り回されてしまっている。本題に入るのがだいぶ遅くなってしまった。
「家じゃないと話せない内容だったのか?」
「いえ、お家に戻ったのは別件がありまして
でも五月が嫌がってたので別の日にします」
「?」
五月が嫌がるとは何のことか分からなかった。別件なら詳しく聞き出す必要もないだろう。
自動販売機に辿り着き、小銭を入れてコーヒーを買う。四葉はジュースを適当に選んだのでそれを買ってやる。
「てっきりオレンジジュースを選ぶかと思った」
「…ししし、オレンジって蜜柑のケーキのことですか?
たまに行くんですよ、あのケーキ屋さん」
「まだやってるのか、あそこ」
「はい、何回かテレビの取材を受けたそうですよ
あ、知ってます? あそこの店長さん、向かいのパン屋さんの店長さんと結婚したんですよ」
「へー あの店長結婚したのか、懐かしいな」
高校時代にアルバイトをしていたケーキ屋の店長には子供たちの件含めて世話になった。あの人も先生を気にかけていたな。
五つ子を可愛がってケーキを奢ってくれたのだ。幼い子供たちはケーキ屋を探検して店員を困らせていたがな。
なのに、あの店は商品だってのに、自腹で払うことになってもケーキをお裾分けしちまう店員ばかりだった。
五人の娘を育てるシングルマザーの家庭を思い、美味しいケーキを味わって笑ってほしかったのだろう。思えばあの店はできた大人ばかりだった。
そんな大人が十年も経てば結婚もするだろう。機会があれば挨拶ぐらいしたい。
思い出話はこのへんでいいだろ。夕暮れが暮れる前に終わらせよう。そう決めないと都合の良い事ばかり口にしてしまいそうだった。
「…昨日の話の続き、だったな」
「はい」
「…
はぁ…」
「…上杉さん?」
「…昔はよく先生に正直になれなんて煩く言っていた
最近は過去の言葉が自分に返ってきてばかりだ
俺の悩みと先生のものを比べちゃいけないのは分かっているがな…俺のは自業自得だ
…泣き言を言うと、正直どうしたらいいのか迷っている」
「…あの、無理強いはしませんよ」
「二学期を過ぎたら俺は嫌な奴になっちまいそうだ…逃げて誤魔化してしまう
ここで言わないと、俺はもうおまえらを支える人間にはなれねえ
聞いてくれるか、四葉
おまえの母親の話だ」
昨日、一花と二乃が見せてくれた勇気は蔑ろにしていいものではない。こんな大人に向けた真剣な思いをこれ以上陥れたくはない。
もう自分の立ち位置がどこにあるのかも朧で、この後も俺は悔いることになるんだろうな。
幼い頃から、この子は自分の家族に対して思うものがあった。
それは見ていて酷く歪でとても繊細なものだった。五つ子であることで生まれる迷惑や親への負担を幼少の頃から察していた。
それは今でも続いているんだと知っている。そして最後には、親を一人で死なせてしまった親不幸者という罪を背負って。
俺が見続ける悪夢と似たようなものを、もしかしたらこの子は長くずっと見続けているのかもしれない。
それでは可哀想だろ。大切な家族に苦しめられているのだとしたら解放してやりたい。
「おまえは好きにしろ」
「?」
「ただの前置きだ」
自然と笑ってしまう。笑いたくもなる。
話を終えた後、もしかしたらと思うとな。気が向かないが傾いていく夕焼けが急かしているようで、周り全てから咎められているようだ。
昔よく慕ってくれた子供たちの中で、とびっきり笑顔を向けて、家族を置いて助けを求めに来てくれた子供なんだ。
あの時、あの子の額に口付けたのは助けたい一心から。
そんな子供に真実を告げることで、恨まれ、嫌われると思うと乾いた笑いしか出ないだろう。
それでも今この時…教え導く立場であるのなら、無理を言う子供から逃げてはいけない。
「先生を最期の最後に不幸にしたのは
おまえじゃなく、俺だ」