「お祭り、楽しみですね」
夜空の下。子供がはしゃぐ声と、五つの光が花のように輝く情景の傍ら、そんな声が脳裏に残っていた。
つい足を止めて声あるほうへ、それに目が止まった。
それは価値観を見定めるなんて無粋なほど賑やかな風景だった。
子供は我侭なくらいに笑い、大人は微笑むわけもなくゆったりとその日常に身を委ねている。
あの時の俺もそうだった。暗く、夏の虫が鳴く公園で花火を手に走り回る子供たちを眺めながら先生と過ごした。
楽しい一時だった。幼稚なガキでしかない俺の行いはゲンコツを食らって叱られてしまったが、頭を抑える痛みとは裏腹に嬉しかった。
あの人に触れて、ほんの少しのやり取りが心地良かった。
そんな単純な思考が気恥ずかしくて、先生の顔は見れなかったんだ。
あんな声だったんだな。十年も前の先生の声を自然と思い出せた。無性に嬉しくて笑ってしまった。
過去として終わってしまったものは懐かしく、やはり虚しい。それでも思い出せたことに今満たされている。
思い出させてくれたきっかけを再び見やり、静かに後ろをついて歩く子に聞こえるように、閉じ切っていた口を開く。
「祭りか」
「隣町のですね」
返ってきた言葉は思いの外早かった。
夕暮れを背に怒りを露わにし去っていった四葉。こいつを追いかけた先で、お互いにつっかえたものが取れた後のこの帰り道。
笑い合って話を終えても気まずい沈黙が漂いお互いに間を空けて歩いていた時、賑やかな空気が流れてきたのだ。
道路の向かいに見えたのは浴衣を着た者、はしゃぐ子供、楽しそうに話す親子。静かな帰り道に人気が一気に増えだしたのだ。
ぽつりと呟いた言葉を機に、四葉が背後から隣に寄ってきた。
押し黙って気まずさしかなかった距離がちっぽけな理由から少しずつ近づいてくる。
昔、姉妹と喧嘩して泣いたこいつを胸に抱えて夜道を歩いた。それを思い出した。
今も四葉は目を赤く腫らしているが、今はしっかりと自分の足で歩いている。
年月を知らしめる姿と、昔を連想させる夏の光景が、何かの境目のように見えて現実を実感させられる。
「今年は行ったのか?」
「いえ…その予定もないみたいで
喪に服すのが今年の過ごし方といいますか」
「…つまんねぇ質問したな」
「いいえ」
デリカシーがないと二乃に睨まれるような愚問に四葉は苦笑して見せてくれた。
気遣いのできる隣の子の歩調に合わせようと思えば、四葉が俺に合わせているようだった。
少しずつ間隔が狭まっているのがわかる。普段天真爛漫な奴の控えめな主張を俺も拒む気はなかった。
今は一人で歩けば、思い出してしまうものが多すぎる。
脳裏に蘇る思い出を拒む心のままに、視線を合わせず二人で歩いていく。
…あの後。話を終えた後の公園で四葉は最後に確認してきた。
「お母さんのこと、上杉さんのせいにしていいんですか?
それって…具体的に何の意味があるんでしょうか」
「おまえの勘違いを咎めただけ意味はあったと思うぞ」
「…皆が、上杉さんを嫌いになりたいわけないよ」
子供相手に無茶な要求をしたものだと自分に呆れてしまう。四葉が憤った通りこれは傲慢な考えだった。
母を一人で逝かせた罪悪感だって、親を愛し、親に愛された故に生まれたものだ。それを赤の他人の俺が子供から奪おうとしている。
だが、子供たちの気持ちの持ちようが変わればいいんだと思っている。この先役立つかもしれない。
なぜ母親が一人で亡くなってしまったのか。そんな後悔は薄れることはあっても心を蝕むように残り続ける。
それは惨い。答えがないのだから。
助けてほしいと思うだろう。それなら俺が代わろう。
その時に、おまえらが自分を責めるような可能性が消えればいいんじゃねえか、とそう笑って言ってやった。
四葉はやはり最後まで納得しなかった。
本音を言えば、俺もどうしたらいいのか分かっていない。
だが、俺にはもう…それしか先生と接点がないんだ。誰かから奪ってでも手放したくない気持ちがあった。
十年も前の人だ。いまだにあの人を慕っているこの心は実に醜く、傲慢さを切り捨てられない執着心は愚かしい。墓を暴き亡骸を弄ぶような愚行だ。
少しずつ自分に対する違和感が強まっていく気分だ。歯車が狂ってしまったような。それでも今は正常に生きている。そんな違和感。
「次は上杉さんと行きたいな」
「な、なに?」
「お祭りですよ、覚えてますか?」
「…ああ、当然だ」
「ししし、楽しいと思いますよ」
「じゃあ、来年行くか」
今も昔も変わらない。いつだってこの生意気な子の笑顔に救われる。
四葉に言ったことは嘘じゃないんだ。さっきも、昔も。
この子が笑えば俺も笑ってしまう。
それは恐らく先生も同じだったんじゃないか。先生は特別四葉に甘かったしな。
「ねえ上杉さん
やっぱり私と上杉さんって似た者同士ですね」
「…そうか?」
「そ、そういう話をしたのにっ!?
…嫌われてるって思ったほうが、楽ですもんね」
「――
い、いや…俺はそんなつもりはない
それは…あの人に対しておこがましい」
「…
私たち五人には本当の事なんて分からないし、上杉さんも憶測じゃ納得できないんですよね」
「…悪い、迷惑かける」
「…お母さんも酷いなぁ…
何か一言でも残してくれれば、きっと」
その先の言葉は続かなかった。四葉は口を閉ざして、向こう側の夏の光景を眺める。
もしかしたら、なんて気休めはお互いに求めていない。
俺が原因だという話も、今教えてくれた四葉の優しい話もお互いに救いにはならない。
自分たちがいくら悩もうとそれはちっぽけなもので、この世は平常に時を刻む。
俺たちが口論して仲直りしても、時はいつも通りに過ぎ、今はもう夜空に星が見える時間だ。
他人事ならくだらない、と切り捨てられるものだ。
今はそんなくだらないものに答えがないことが辛く…長いこと囚われている。
情けなく、同時にやり直したいと切に願う。そして自分を呪う。他人なんて…嫌いだ。
…それでも、こんな自分を慰めようと袖を掴む子の優しさはやはり。
もう間違えないように、いつか手の平から零してしまったものを思い出させてくれる。
「一言、ね…」
この手の温もりに心は穏やかになっても、その奥にある重く冷たい鉛のような違和感がゆっくりと軋みながら壊れていく。
壊れたほうが楽だと知っても、大人は何かの為に努力し続ける。だがそれも一人ではいつか倒れてしまう。
それを知っても止めない、諦められないのが大人なのかもしれない。不器用で憐れな、そんな大人がすることだ。
だから、俺はその人の手を握りたかった。
そして、一言だけ。
もう休んでいい、と伝えたかった。
あの人を待たせてはいけなかった。
そう後悔していたのに、やはり自分はつくづく不出来な人間だと冷や汗を流す。
出入り口の前で見知った奴が仁王立ちで待ち構えているのを見て、とっさに逃げた。
が、反射神経の良い四葉に捕まり連行される。くっつくなっ
「遅かったね、せんせ」
「こんなところで何やってんだおまえ」
「二者面談、やるんでしょ?」
「忘れてた」
「やっぱり! 一時間ぐらい待ってたのにこの鬼教師ー!」
「散々文句言ってたのに律儀な奴だな」
四葉と共に長い休憩からマンションに戻ると、昼間外出していたはずの一花がエントランス前で待っていた。
そういえば二者面やるぞ、と電話したんだった。今の時刻は19時過ぎ。八月も終わろうとするこの時間はもう暗くなっている。
「というか三玖と五月ちゃんが心配してたよ、四葉」
「あはは、ごめん…」
「…ま、夜遅くまで一人で遊ぶのは今日始まったことじゃないか
ねー 放浪娘さん」
「何やってたんだおまえ」
「…若かったということで許してください…」
「今も変わってないって言われてるんだが?」
夜遊びが好きなようだな。姉妹がそわそわと心配して四葉の帰りを待つ姿が容易に思い浮かぶ。その母親のも。
だが、今回は俺が原因だったわけで一花には俺から謝っておく。一花も事情を聞いてくる程野暮な性格はしていなかった。
ただ純粋に心配されている。それが一番心を痛めるんだがな。
四葉はありがとう、と告げ、一花は諭すように笑っていた。
3人でエレベーターを使って最上階へ上がり、子供たちは我が家へ帰る。母親はいなくても帰りを待ってくれる家族はいる。
「四葉、フータロー…おかえり」
「戻ってこないから心配しましたよ」
「携帯にも出ないし、何やってたのよあんたたち」
「…電源切れてたわ」
「わっ いっぱい着信着てた!」
「あんたたち揃いも揃って…」
「だって上杉さんがしつこくて! 通知切っちゃったんだもん…」
「俺のせいかよ、こっちはおまえが意地張ったせいで電池切れだぞ」
戻ってみれば三玖と五月がほっとしたような表情で迎えてくれた。何も言わずに出て行ってしまったからな…
外出から帰ってきた二乃は心配して四葉に電話していたようだが、俺と話し込んでいる最中で途方に暮れていたようだ。
リビングのドア付近で立ち止まっていると、早く入ってと一花に背中を押される。待て、こっちは多少アンニュイな気分なんだ。
四葉には一人になるなと忠告した後だ。彼女自身から姉妹に伝えたいものがあるんだろう。
話終えて間が空いた直後、四葉は落ち着かない雰囲気が滲み出ている。汗と共に。
その様子に、出迎えた時から薄々察していたんだろう一花はただ優しく見守っている。徐々に二乃と三玖、五月もそれに気づいていく。
「…」
「…」
「う、上杉さんっ」
お陰で無言になってしまい俺に助け舟を求めている。泣きつこうとする様は子供の時のそれによく似ている。
どうしたものか。四葉が姉妹に向き合うには少し無理がある状況になってしまった。
ただ一言、ごめんと伝えればいいだけだというのに。
それを分かって一花たちは苦笑したり戸惑った顔をしている。不器用な五つ子だな、本当に。
…言えないのなら、俺から先に言わせてもらおうか。
「俺もおまえらに話しておきたいことがある」
「!?
ま、待って上杉さん! それは駄目ですよ!」
「なんだよ、おまえにだけ話して終わるつもりはないぞ」
「…私、認めてませんよ」
「…
今まで家族を心配させてきた奴の意見は聞かん」
「なっ!?
で、でしたら私だって意見を聞き入れてくれない上杉さんに抗議しちゃいますよ!
全力で阻止します! ていやー!」
「やかましい」
「む、むぐーッ!?」
「な、何やってるのかな二人共」
「フータローと四葉、いったい何の話してたの…」
余程俺の自白が気に入らないようだな。飛びついて口元を塞いでくる四葉をかわして逆に口を塞いでやった。もごもご言いながら暴れてもがいている。
見た目に反して力が強いから、あまり長くは押さえられそうにない。何で他人事の時はこんなに大胆なんだこいつは。
だが本気で抗うつもりはないんだろう。それでもやめてほしい、とこちらを見上げる目が涙を滲ませて訴えている。
悪いが、俺は酷い大人なんだ。今日だけでもおまえを何度も泣かせ、裏切っている。
おまえにだけ内緒にしてたら、おまえも大変だろうしな…
「おまえらの母親についてだ
父親に頼らず、何を思ってあの家に残っていたのか知りたくはないか」
母親に触れるとは思わなかったのだろう。四人共意外といった表情でこちらに視線が集まる。
語り始めた時には四葉は大人しくなった。
大人しくなったのだから、子を押さえる手を緩めた。
だがその手は四葉からきつく握られてしまい、離してくれなかった。
四葉に話したこと、部分的ではあるが爺さんから告げられた真実を含め子供たちに全て話した。
「上杉君に会うために、お爺ちゃんの誘いを断ったのですか…
…だから、期待に応えなかった上杉君のせいだと」
「それは違う…待っていても、もっと別のこと」
「うん、ありえるとは思うけど…
だからって気に病むことじゃないよ」
四葉は怒り、弾劾など身勝手だと否定したが…他の姉妹は戸惑いしかなかったようだ。当然か。
…四葉の言う通り、これは不要だったのかもしれない。胸の内に留めておくだけでよかったのかもしれない。
だが、あの人は。
いや…子供たちに言うものじゃないな。
懺悔がしたい、わけではないんだ。それは口にせず黙々とやればいいことで。
真実を教える義務が…俺にはあるはずだ。五月に思い出話をしたように。
しかしながら、そんな義務感はいらなかったとこの場の雰囲気が否定している。
「それで、あんたをママの仇と見ればいいのかしら?
私、最初から言ってたんだけどね」
「…そうだったな」
「今更よ…今自覚したっていうの?
もうこの話はおしまいよ、私が済ませたんだから蒸し返さないで」
「そういう話ではない…これが事実…だとしたら、無視していい話じゃない」
「…
正直に教えてくれたその誠実さは認めてる
でも、あんたを責めたい子はいないわよ…? …もう」
二乃は最後に視線を逸らし言葉を濁す。母の為に怒った子も不要だと言っている。
子供に呆れられているぞ。情けない奴だ。
もう虚栄は限界のようだ。
…俺が伝えたいことは…こんなことではなかったのかもしれない。もっと別の…
「…悪い
俺も昨日、爺さんからそれを聞いて…まだ迷っている
おまえらを見守ることに何も変わりはない
伝えておくべきだとは思っていた、それだけだ
俺の感情を乗せちまったのは悪いところだったな、反省する…すまん」
「…」
弱音なんて吐いても、子供たちを不安にさせるだけだ。
甘ったれのすることだ。それでも弁明するにはこれしかなかった。
先生や親父ならこうはならなかったんだろうな。子供にしてやることはやり通す、そんな人たちだった。
…本当に、足りていない。人として。俺はその二人を見て学んだはずなんだがな。
何がいけなかったんだろうか。
どこから間違ってしまったんだろうか。
過去も今も、何も得られなかったこの手に力が抜けて、四葉もこの手を離した。
これは…夢で見たものを思い出す光景だった。子供たちは不安と憂いが入り混じった、疑うような目でこちらを見ていた。
その目が敵意に変わったものを、夢の中で見た。亡骸をかき集めるような真似はもう…懲り懲りだぜ。
その視線に随分と時が長く感じられた。が、その目が和らいだものに変わる。呆れとおどけるようなものだった。
仕方のない弟だと笑う姉のような、そんな顔。
「もしもの話、なんて今まで散々考えてきたよ、フータロー君」
「一花…
おまえ前言ってたよな、あれは誤解でしかない」
「誤解なのかなー それ聞いたら尚更会えてたとは思うんだけどなー
でも…わかった、いいよ
フータロー君がそう言うのなら、この話はちゃんと覚えておく」
自分のせいで、俺と先生は再会できなかった。死を早めたせいで母親を不幸にし、結果的に妹たちの心を傷つけた。
一花が泣きながら打ち明けた懺悔だった。
だがそれは道化にもならない惨い勘違いだ。本当の道化はここにいる。
この場を取り持ってくれるようだった。一花は目配せで妹に何かを促して笑いかける。妹たちの緊張が解かれた瞬間だった。
迷惑をかけてしまった。今はもう、ここにいるべきじゃない。
「二者面談、今度にするか
おまえとは落ち着いて話したい」
「それがいいよ
でも…いつできるの?」
「二学期以降だな…連絡する」
「…
うん、待ってるから
ほったらかしにしたら今度は押しかけるから」
「そうはならねえよ」
「なんだ、残念、良い口実だったのに」
二学期、という言葉に何か思うものがあるのか一花は返事を詰まらせていた。されど間は短く、肩をすくめて苦笑していた。
会いたい時に会いに行く。それは夏休みで終わり、気楽に会えなくなると何度も言っていたことだ。
極力、確実に予定を決めておくべきなのだろうが、今はその気は失せている。手にはもう力が入らない。
今日は疲れちまった。
昨日は先生の前で手を合わせ、爺さんの話を聞き、親父とも話して…恩返しをするとも約束した。
一花と二乃とも話した。今日は四葉とも話した。それは実りのあるものだった。
やるべきことは沢山ある。やり通さないといけないことがまだある。たとえ満足いかない結果しか残せなくても、今が踏ん張り時なんだ。
だが、無気力感が払えないのが現状で、心身の不調が生じていることを明確に思い知らされている。子供たちに話すべきじゃないと自覚してから、違和感が強まったのだ。
頭にはこれ以上はまずいと、警告が鳴り響いている。だがそれは改善には働かず焦りしか生まない。
ままならない…酷すぎる。こんなはずじゃなかったと憤って、悔しさと苛立ちが増していく。
だから考えないようにした。
だが結局、その結果犯したのは先程の、子供たちに呆れられるようなこの愚行。四葉も泣かせてしまったしな。
「四葉」
「は、はい」
「…ちゃんと、話したほうがいいと思う」
「…」
「今なら、取り戻せるものはある」
こうなってくれるな。今伝えておけば。その先に求めるものが待っているかもしれない。
皆に別れを告げてその場を後にする。これ以上気を引かせるようなことはしたくない。
他人に甘えてしまうような愚かさもあったほうがマシだった。見栄を張ろうとする虚栄は過去に抱いた傲慢そのものだ。
過ちを認めたくない、他人を排除してでも自分を肯定したい。
その標的が親父だった。そして次はきっと…あいつらになる。
何か一つでも弱みを知って見下すようになっちまう。
何もかも足りていない馬鹿な五つ子だと。
黙って俺の言うことを聞いていろと。俺が与えたことによって子供たちが得られたものを、根こそぎ奪ってしまう。
そうすれば、きっと俺は元に戻るんだろう。俺は救われる。
先生への恩義を感じても、俺は自分の為ならあの人の愛娘を貶めてしまう。そんな醜い自分が…嫌いで、嫌いで仕方ない。
十年前の上杉風太郎はこうなる為に努力してきたのか。
違うと否定したいが、今の俺は過去のアレよりも冷たく、必要のない存在だ。
後悔は一生残る。一人きりで過ごす日常は己の人生の大半を占め、何かをきっかけに思い起こすのだから。
俺は誰かを疎んでいたいわけじゃない。
無条件に嫌っていいはずがない、見下していいはずがないと知っていたんだ。
それでも間違ってしまったのは…俺が何もない空っぽな人間だったからだ。
一つだけでいい。誇れる何かが欲しかった。
真っ当な努力をしていたら違っていたんだろうな。
何を間違えてしまったのか。もう分からない。
一つ言えるのは。
あいつら…竹林と真田の奴の誘いを断るんじゃなかったな。
勉強、素直に教えてもらえばよかったな…
「見送りなんていいぞ、五月」
黄昏て、一人だけの帰り道は自問自答に耽ていたかった。それは許されないようだ。
暗い路地。夏の虫の鳴き声が煩わしい夜道、青白い光で道を照らす街頭には蛾が集っている。出歩くにはもう遅い時間だ。
声をかけても足音は絶えない。
気だるげに後ろを振り向けば、五月がついて歩いていた。
俺の視線に驚いて足を止める。それでもすぐに歩んでくる。その様は親を見失った迷子のようにも見える。
マンションを出てから、五月が小さなカバンを持って走ってきたのだ。
何か用か、それとも買い物なのか。尋ねると送っていきますとのことだった。
大粒の汗を垂らし、息を切らせながら。子供はこの一瞬でも懸命に何かを得ようとしている。
「ここまでする意味ないだろ」
「意味はあります、私の気が済みます」
いったい何の気が収まるんだ。意欲的だが…気まずいだけで余計なお世話だと言いたくなる。
断っても良かったのだが、純粋に心配なのか。俺の言葉を耳にする度にこいつは耐えるようにカバンを強く握るんだ。
冷たい言葉を投げかけられることを望んでいるわけではない。五月は押し黙って、耐えてひたすら寄り添って歩いていた。
この状況はどっちが子供なのかわからなくなるな。
…不要なことだと自覚しているが、手を差し伸べてくれる子供を振り払うことはできない。
「できればあんな話はもっと早く済ませたかった」
明後日。九月から始まる二学期からはお互いに学校生活が始まり忙しくなる。そもそも遠いのだ、俺が住む場所は。
五つ子たちにとって母親のいない初めての学校生活はきっと辛く、大きな壁や困難が待っている。悩み続ける日々になるはずだ。
経験談だ。俺もお袋を亡くした後の学校は億劫だった。
憐れみの目で見られてるんじゃないか、不幸な奴だと親の価値を見直す材料にされているのか。そんなつまらないことに神経を削っていた。
そんな日々に、俺の問題まで抱えさせるのは不憫に思える。
特にこの子は母親が好きだからな。
「この話を有耶無耶に終わらせるのは卑怯に思えてよ
…言わなくても良かったのかもな」
「…」
五月はただついてくるだけで返事は来なかった。真面目な奴なら多少は生返事でも返すかと思ったが。
やはり怒ってるのか? そんな疑いも徐々に高まる。かといって、わざわざ後ろを振り向いてまで子供の顔を窺う気にはなれなかった。
結局このまま駅に着いてしまった。
ここで別れか。ある程度進んでから背後を振り向くと、想定していた以上に五月が近くにいてぶつかってしまった。
後ろによろめく五月の手を取り、離す。
「…まだついてくるか」
「い、いけませんか?」
「言いたいことあるんじゃないか」
「母は…
母は貴方を信頼していたと思います」
「…だといいんだがな」
「…
十年前に一年だけという短い間でしたが、過去形なんかじゃありません!
貴方が教えてくれたことですよ?
後悔することだけが、恩返しじゃありません」
「ああ」
「でしたら…何であんなこと
自分を責める必要はないでしょう?」
「…嫌になるな、まったく いらん見栄だ
もし俺がおまえらと同年代だったら多少話しやすかったんだろうが」
「?」
もうこれ以上はいいだろ。暴かないでくれないか。おまえを疎みたくはない。
嫌われても、あの人の接点が得られるのなら欲しいと思ってしまった。だが嫌われたくもない…認めたくないものもある。
なんなんだろうな、この気持ちは。
おまえにはわかるか、五月。
「子供には言えないもんなんて、山ほどある」
「…」
「ここまでだ、じゃあな」
一方的に切り捨てる形になるがもう限界だった。最初から話す気などなかったんだ。最後に口が滑ったのは俺の反省点だ。
五月のあの顔、苦手だ。
似てるんだよ、おまえは。顔が母親に。
特に今のように、誰かを憂うような顔は…あれにそっくりだ。
おまえは泣いてばかりだったよな。俺は先生の泣き顔なんて覚えていないんだ。だから誤魔化せていたんだろう。
最初に会ってから注意していたことだ。もう先生はいないのだから錯覚に陥るなと、心に留めておけば間違えることはないだろうとは慢心していた。
だが、己に非があると自覚した今は、その顔を見ていると苛立ちが増してくる。
叩かれた頬の痛みを思い出して。忌々しい。
五月を置いて去る。そのまま駅の改札を抜けて階段を下る。
それでも…後ろから駆けて来るような足音が聞こえ、まさかと思って振り返る。
「…おまえな…」
「ほ、ホームまで見送ります」
「…
映画の見すぎ、だ」
「切符とは違いますから」
何がここまで五月を駆り立てるのかは分からなかった。必死なのはわかったよ。
…ここまで似なくていいのによ。
この子は優しいんだろうな。愚かでもある。
面倒見が良い…いや面倒事にこうも胸を張って突っ込んでくるのは先生によく似ている。
急いで降りてくるものだから五月は階段の途中で躓いてよろけていた。慌てて手を取って引き込んだ。
「す、すみませんっ!」
「…」
「…上杉君?
あの、もう離していただいても…」
「ああ…
思っていたよりかは、軽くて驚いていた」
「………」
小さくも大きな体を抱きとめる。その小さくも大きくなった華奢な体に、体が硬直してしまっていた。
こうも冷たくされて不安がないわけじゃないだろう。腕の中に収まる程小さな体に、どこからその勇気が生まれるんだか。
悪かったな、と心の中でしか謝れない奴とは全然違う。この子の手は温かい。不機嫌さを高めて一緒に体温が上がっていそうだが。
すぐに電車が来た。ここまで苦労しても、こいつが得たものは十秒にも満たない時間だけだ。
どれだけ走って、追いついても時間は変わらない。
「…五月、わざわざここまで悪いな
気をつけて帰れよ」
「はい」
寄り添ってくれたその手を離し、電車に乗った。
五月はドアのすぐ近くでぎこちなさそうに手を振っていた。
本当に、優しくて、甘え下手なヤツ。
…このままで、終われねえ。
こんな不安げな顔をさせてはいけない。本当に、愚かな程に優しい子じゃねえか。
昔、あれほど守りたいと思っていた子供を悲しませているんだぞ。
何の為に俺は約束したんだ。迎えに行って、何度も会いに行って、好きなもん買ってやるって。
十年前だから何だ。過去形だからって何なんだ。俺がやってきたことは無くなっていない。
この子を泣かせないために、あの時、柄にもなく子供を抱きしめたんだろうが。
「…すまん…」
流石に女子高生を抱きしめることなんてできない。
だから、次会った時には、自分を律してみせるからよ。
今日だけは許してくれ。
次は必ず、おまえが安心して見送れる人間になってみせるから――
「…」
俺の気持ち半ば、ドアが閉じられる。
その時だった。ドアが音を立てて揺れた。
「うおっ!?」
俯いていたところに何かに押し出された。
危うく尻餅をつくところで、電車内の背後にいた乗客にぶつかってしまった。
頭を下げて謝り、胸にひっついているものを睨む。
…何をしているんだこいつは。
電車が動き、ホームが横に流れていく。もう戻れないぞ。
「…おい」
「…」
「五月、おい」
「言いたいことなんて、山ほどあります」
「おまえ…」
「先生なんですよね
勉強…教えてください」
胸にうずくまってしがみつかれていた。子供がただ甘えて縋るような光景だ。
そう見えるだろうが、そうじゃない。こいつは真剣だ。
今こうするべきだと信じて、行動したんだ。
…危ない真似しやがって。
怒るべきなのだろうが、五月は目を逸らさなかった。
…昔の俺も、そうやって己の正しい行動を信じて…あの人を咎めた。
皮肉にも、あの人に似た言葉しか返せそうにない。
「…
すまん」
「?」
「すまん…五月」
「…いいえ」
ここまでされて嬉しくないわけないだろ。
必死に何かを紡ごうと駆け寄ってくれたこいつに、今は何も返せない。何が正解なのかもうわかんねえんだ。
夏の火照りはもう冷めただろうに。
五月の顔は赤く。ゆっくりと握られるその手は汗ばんでいて…この胸はやはり温かかった。
「お、お邪魔します…」
いつもの日常。いつもの光景。今と昔、どちらが満たされた生活だったか問われれば迷わず正解を選べるもの。
開錠し扉を開く。今だけ違うのは、開いても連れの者に道を空けるだけだったこと。
見慣れたマンションの一室。五つ子のものとは比べたくない庶民的なものだ。電車で一時間程揺らされた後に着いた場所だ。
他人の家に上がるのは落ち着かないものだ。五月は両手でカバンを持ち、肩肘張って顔が強張ったまま部屋に入っていった。
大丈夫かこいつ。電車の中で見せた豪胆さはどこ行ったのやら。少し笑ってしまった。
「五月、泊まるのはこの際いいが――」
「よ、よろしいのですか…ッ
追い出されるのも覚悟していましたが」
「今更だな、おまえの家に一回泊まったし」
「わ、私はお泊り初めてなもので…
至らぬところがありましたら申し訳ありません…!
その際は外で寝ます!」
「お、落ち着け…ちゃんとベッドで寝かせてやるから」
「べ、べ…ベッドで…あわわわ
もしや…今日は上杉君と同じ布団で寝ることになるのでしょうか…
さ、流石にそれはちょっと…そ、外で構いませんからっ!」
駄目だこりゃ…緊張で極端に消極的になっていやがる。恩師の愛娘を追い出すような真似はしたくないぞ。あの人が化けて出てきそうだ。
五月は意図して俺と同じ電車に乗り込んできたわけだが。どうやら最初から俺の家に来る魂胆だったようだ。他人の顔を見ずに我侭を通す子供だった。
勉強を教えてほしいと頼まれた。それだけで話が済むものではないことぐらい分かる。伝えたい事が山ほどあるんだろ。
ただ、姉たちがどう思っているか心配だった。四葉の帰りが遅いだけで思い込んでいたらしいしな。
電車を降りた後に一花に電話をしたそうで、話はついたと見ていいのだろうか。後で携帯を充電して確認すると、一花から妹を頼むとメールが送られていた。
間抜けを晒した男に何を聞きたいのか知らんが、泊まりぐらい許可してやる。おまえらの家に泊まったことあるしな。
まだ馬鹿なことを言っている五月をリビングまで押し出し、適当に椅子に座らせる。
夏の日差しで汗もかいたし、お互いに公園の砂利の上に座って語っていたというのに、四葉からタックルを食らって盛大に転がされた日だ。シャワーを浴びたい。
が、その前に飯を済ませるべきか。冷蔵庫を確認して思考する。
「…食材的におまえの腹を満たせるか不安だ」
「…何の心配をしているのですか」
「特盛りパフェ約4個分」
「根に持ちますね」
「冗談だ」
「…いいです
食欲ありませんから結構です、上杉君だけどうぞ」
「そうかよ、まぁ手軽に炒飯でいいか」
和ませようと試みたが失言が混じっていたらしい。あれを食える偉業を自覚してほしいものだ。
こいつ、あのパフェを平らげたまではいい。母親に負担かけないように贅沢してこなかったんだ、パフェなんて珍しかったんだろう。
母親の葬式以降、見たことのないはしゃぎ様だったしな。前日泣いていた子がデザートに目を輝かせて喜んでくれて、俺も楽しかった。
気を良くして、おかわりしたければしていいぞ、と言っておいた。
三玖が甘い物が苦手でパフェを8割残して五月に譲ったんだ。三玖には後で渋いのを注文しておいたが。
その後に他の姉妹が残したものを食べて大体3個分。
もう十分だろと思った…だがこいつ、それでも目を輝かせて
「おかわり、いいんですよね…!?」
…おまえ、姉共が気を遣っていたのに結局注文するのか。まだ食えたのに残していた姉の気遣いを理解しろと説教したかった。
結局4個分食いやがった。姉共にも贅沢しろと姉妹で分け合えるようなケーキを注文した。お陰で諭吉さんが一人軽やかに逝ってしまった。
楽しい思い出ではあるが相当衝撃的だった。こいつが食う量は。
…幼少の頃からの、母との別離の不安から来るストレスが原因だと考えると、仕方のないことか。
「…」
「炒飯、食べるか?」
「いただきます」
「…顔から不満が滲み出てるぞ」
「いいえ、やはり男性なんだと思っただけです」
「あ? 偏見だぞこら
早くて手間もかかんなくて良いじゃねえか」
「二乃なら多少時間かかっても愛情いっぱい、手間のかかる物を作ってくれます
カレーとか」
「多少じゃねえだろそれ
勉強しに来たんだろ、作ってるから教材開いてやってろ」
「は、はい…」
カレーって…一度に大量に作れるからなんじゃねーのそれ。薮蛇でしかないから口は閉ざしておく。
五月は罰の悪そうな顔をしてそそくさと、持ってきたカバンから教材を出してテーブルに並べた。それを見て俺は台所へ向かい飯を作っておく。
一人暮らしの冷蔵庫には来客が泊まることに対応できる備蓄はなく、手軽なものしか作れそうにない。
…お子様め。文句は一人前か。
適当に下準備を済ませた後、五月の様子を確認する。
…全然集中してねえこいつ…
他人の部屋をきょろきょろ見てばかりで教材の内容を一文字も目で追えてない。
「はー…
あ、パソコン、お仕事用でしょうか…? ――ひっ!?」
「…勉強しなさい」
「はいぃっ!」
こっそり顔を出しながら咎める俺の視線に気づいて、五月は上げかけた腰を降ろしてあたふたと取り組み始めた。机は絶対に漁るなよ。
一人暮らしの部屋がそんなに珍しいか。あまり家具や雑多なものは置いてない部屋だし、見ていても楽しくないだろう。
1LDKの賃貸物件だ。物が少ない分余計に広く見えるかもしれない。築10年程でまだ綺麗な部屋だとは思う。掃除もしてるしな。
まぁ先生といたアパートと、あの高層マンションという極端なものしか知らなければ珍しいか。五月はまた目移りしてやがった。
「…」
結局五月は椅子から立ち上がって部屋をひょこひょこと歩き回っていた。もう咎める気はなかった。
暗くどんよりした空気しか見えなかったこの部屋が、少しだけだが色が付いたような温かさを感じられる。
白と黒しか目立たない空間に、あいつの髪色は目立つ。癖ッ毛だが手入れを欠かしていないんだろうな、綺麗なもんだ。
ここで一人で何時間、何日も考えたところで答えは出なかった。
やはり、結局こうなる。それは知っていたんだがな。
「一人じゃやっぱり無理ってことだ…先生」
あれから答えは見つかっていない。そんな問題を抱え、増えていくばかり。
だが見つかりそうな気がする。今だけはな。それも気休めで、一時のお休みだ。
それだけで焦燥感にかられた心が救われる時がある。他人には分からないだろうが、施しを受ける側は気が楽になるのだ。
俺の視線にまた五月は慌てて戻りノートに目を向けた。真面目なんだか不真面目なんだか分からない奴。
台所に戻り、適当に食事を作って持っていった。
夕食だと知らされた時の五月は、やはり嬉しそうだった。だがその顔も俺が作った品を見て顔を顰めることになる。
「…
あの、炒飯では?」
「うっせえ、文句言わずに黙って食え」
「なぜ怒るのですかっ
あ、ありがとうございます…」
「…材料が余ってただけだ」
作ったのは質素なオムライスとサラダだ。女子高生からして炒飯からどのくらいレベルアップできただろうか疑問ではある。
言葉通り、余り物で作った物だ。期待させたくはなかったが五月には無理なようだ。お礼を述べながらお腹が鳴っていた。
五月は赤面しながらおずおずとスプーンを手にする。見ていて飽きない奴だ。
こんな食べ物に一喜一憂する奴の身振りに振り回されている。そんな自分がはしたない子よりも滑稽で、無様で笑ってしまう。
いいから食えと促すと、五月はスプーンをオムライスへ向けた。
果たして二乃の料理で舌が肥えたこいつの評価はどんなものか。
「お、美味しいです! 美味しいですよこれ」
「…そうか」
「はいっ」
お世辞なのか判断しづらかったがほっとした。嬉しそうに食べ続けるものだから俺の分も少しあげた。
五月はおおげさに断っていたが、適当にやり込んだ。渋々といった様子だったが、やはり食べたかったようだ。
腹が満たされることはなくなったが、別の物が満たされるんだ。そっちのほうが嬉しい。
…五月は所々食べづらそうにしていたが完食したようだ。悪かったな、じっと見てて。
「足りたか?」
「…ま、まだあるのですか?」
「いや、ない」
「…」
「気が利かなかったな」
「…ぐ…」
「ケチャップでファイト、とでも描いておくべきだったか」
「…子供ですか私は」
一応多めに作ったんだがな! 俺の分も分けても尚食べたがるのは予想外だ。機会があれば二乃に分量を聞いておこう。
「風呂にでも入ったらどうだ
着替えなら、らいはが泊まりに来た用にジャージが一着あるからそれ使え」
「…ありがとうございます」
五月にバスタオルを渡し、手短に風呂場の説明をしておく。洗剤の種類が少ないのは勘弁しろ。
手ぶらで来たものだから色々と都合が悪い部分がある。着替えや寝床、洗面用具など。
コンビニで歯ブラシでも買ってくるか。五月にドア越しで声をかけてから買いに出た。ついでにパンとか小腹空いたら食えるものも一緒に。
五月が何を話したいのか知らないが、今はもう21時を過ぎている。以前のように真夜中まで話すことになるかもしれないしな。夜食がなくて機嫌悪くなっても困る。
「…」
たまに夜中にコンビニに来ることもあるが、暗く物静かな夜は理由がなくとも無性に物寂しい気持ちにさせることがある。
そんな心中家に帰るわけだが、マンションを見上げた先にある自室の窓から明かりが見える光景は、この家では見慣れないものだった。
独り身の社会人が人肌恋しくなっている証拠だ。寂しい人間だな。
袋をぶら下げて戻ると小さな水音が聞こえた。五月がジャージに着替えて食器の洗い物をしていた。
「悪いな」
「うわっ!?
か、帰ってたんですか
ご、ご馳走を頂いた身ですから当然です」
「あの程度のもんなら好きなだけ食わせてやる」
そういえば、ただいまなんて言ってなかったな。水音もあってドアの音を聞き取れなかったのか、帰ってきてるとは知らなかった五月を驚かせてしまったようだ。
買ってきた物を置いて、俺も風呂に入ることにした。脱衣所にはちゃっかり俺の分のタオルまで用意されていた。気を遣わせたか。
適当に風呂を済ませて、五月が抱える課題の勉強に取り掛かった。テーブルの対面に座り、問題ではなくまず数学の基礎の公式から教えていく。
昼間見たものは目を逸らしたくなるほど酷かったわけだ。五月が焦って俺に教えを請うのも…気持ちは理解できる。
全問不正解のノートを見て俺も固まってしまったが、改善すればいいだけの話。その焦りは解消してやらなければ。
だが、昼間のあの態度は五月には余計なプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。それは教師として猛省するべき点か。
謝罪を込めて、分からない点を理解しやすいように教える工夫はしているつもりだ。分からなかった問題が解けているのだから着々と前に進んでいるはずだ。
なのに五月は徐々に落ち着きを失い、明らかに気持ちが急いていた。
「どうした」
「…その
実はこの課題とは別に…お話しなくてはならないことがあります」
話したいことは別にもあることは察していた。五月は風呂上がりなのに額には汗を滲ませて俯いていた。
五月はペンを手放し、両手がテーブルから引っ込んでいった。椅子に座っていなければ正座していたかもしれない。
「…こっちをある程度終わらせたほうがいいんじゃないか」
「か、構いません
できれば勉強の前に知っていただきたかったぐらいで」
成績に因んだものか。この課題に対して思い詰めている原因か。
それとは別の悩みだったとしても、こっちに集中はできそうにないな。五月は完全に意識がそっちに向いているようだ。
休憩だ。教材を閉じて、五月の話を聞くことにした。
わざわざ俺を見送るとまで言ってついてきて、懸け込み乗車してここまで追いかけてきた程だ。余程のことだろう。
…昨日の一花、二乃。そして今日の四葉。
それに続いてこいつか。実に手を妬かせてくれる。謙虚な三玖に対する好感度が上がってしまうぞ。
「…」
「…あっ」
「あ?」
「そ、その前に渡したいものがありましたっ!」
「…忙しい奴だな」
「うぅ…こちらです」
忙しない五月がカバンから見せたものは黒いハンカチだった。それって昼間に鼻水で汚してたと思うんだが。
いぶかしむ俺の目に、件の犯人である五月は狼狽する。
「ちゃ、ちゃんと洗ってます!
貴方が四葉と外出している間に洗濯して乾いたものです!
き、汚くはないと思うのですが…ど、どうぞ…」
「もう泣かないんだな」
羞恥心と一緒に差し出された物を受け取ると、その指が揺れて、離さなかった。
その戸惑いを見て、黙ってこちらから手を下げた。
図星を突かれた五月は申し訳なさそうに笑った。
「そんなつもりではありませんでした
ですが、これがあれば、また会う機会を得られると思うと…手放せませんでした」
「…」
「上杉君、ありがとうございました
お陰様でお母さんをちゃんと見送れたと思います」
「ああ」
もう大丈夫だと言い切るか。あまり信用できない言葉だが、その背伸びは応援したい。
いつの日か涙で濡れていたハンカチを受け取る。涙だけじゃないがな、今日に限らず。これを見る度に思い出しそうだぞ。
このハンカチ一枚を渡した日は暑苦しい日差しで、その日差しが遮られた日陰の中でこの子は泣いていた。
喪服となる黒い学生服を着て、髪留めも外して。
もういなくなった母親に泣き崩れていたこいつと。昔見た、夕暮れ時に母のいない寂しさを堪え静かに見送った子供の…涙は同じだった。昔から変わっていない。
母親の前では泣きたくなかったんだろう。強い子だ。
だが、それも終わりなのかもしれねえ。もう母親はいないのだから。次にこの子が泣く日はいつになるんだか。
五月は自信なさそうに、弱々しく笑った。
「妙ですよね、昔は何でも素直に甘えられていたのに」
「…こっちから鼻水拭いてやったしな…
ま、子供の特権だな」
「…上杉君から見たら私達はまだ子供なのが悔しいです」
「背伸びして急ぐ必要はねえだろ
まだ高校一年生、子供のうちにできる最後の3年間だ」
「…らいはお姉ちゃんの話を聞いてから考えました
私たちが上杉君に対する気持ちは様々です
それも二学期が始まって会う回数が減ればきっと薄れていってしまうのではないかと…
大人になるという意味で、甘えさせてくれる方から離れていくのは必然なのでしょう」
「当然だな」
背伸びしたいが、その先甘えられなくなることが少し寂しいと感じているのだろうか。大人になるってのはそういう面もある。
おまえたちは五つ子なんだ。甘えるものとは別に支え合うことができる奴らが四人もいるだろう。
それは素晴らしいことなんだろうな。母親が残した最高の贈り物のはずだ。最愛の家族を持てる家庭を築いてくれた母親なんだ。
これからはできなくなるが、できることだって増える。悪いことだけじゃないさ。
好きな人もできるかもしれないしな。高校生活、恋を1回ぐらい味わってみろよ。
ある意味、先生が見たら感動するかもしれないな。子供が親離れをする意識を持ち始めているんだから。
五人の門出を見送る人間とは違うが、こいつの背中を押すのが俺の役目だった。その時には役目を果たそう。
「…上杉君!」
「ああ」
「私たちにはまだ壁があります」
「…
…は?
そ、そりゃああるだろ、なきゃ困る」
「い、今の私達の関係がぎこちないものになっていることは、先の一件で明らかです」
「悪かったと反省している
だが、俺は今が調度良いと思ってたところなんだが…?」
「いけません、上杉君のお話を聞いて少なからずショックはありました
それは皆も同じはずなんです、上杉君には私たちの考えが、私たちは貴方の考えが分からず…
このままではすれ違ってしまいます」
「…道理は分かるが…」
「ですから…壁をなくしましょう!」
「まぁ…親睦を深めるのは構わないが、具体的にどうしたいんだよ」
「む、昔みたいに!」
「…具体的には?」
…おい、何だその手は。
やや興奮気味に五月は椅子から立ち上がり、なぜか…ばっと両の腕を広げて見せてきた。
やっている本人の顔は既に真っ赤になっている。もう嫌な予感しかしない。
「何アピールだそれは」
「む、む…昔と言ったら考え付つくものは限られてくるでしょう!」
「…センチに昔の思い出に浸っていた俺にそれを言うか
可愛気が吹き飛んだぞお嬢さん」
「な、何でですかっ!
む、昔はあんなに優しく抱きしめて慰めてくれましたよね!?」
「いや…冗談だよな、女子高生…
俺27の男だぞ、距離を置け、物理的な距離を」
「冗談でこんなことできません!!」
「高校生にもなって…
幼児退行、明日医者行くか」
「わぁあー! 退かないでください!
も、もう私どうしたらいいのか…!」
「何がしたいんだおまえは…
あー…わかったわかった
泣くなって、話は聞くから、な?」
こっちもあまりの恥ずかしさから拒絶すると困ったことに五月が広げていた手を下ろし、きつく拳を握って涙を堪えていた。
歩み寄りは嬉しいが現実の距離を縮められても困る。おまえが小学生や中学生ならまだ良かったかもしれないが…ハグなんてハードル高すぎる!
俺が先生と再会して恥ずかしい思いをさせられたのが高校生だ。後々の将来、赤面して悶えるような出来事を起こしてやるのは可哀想だ。
結局、泣き出したこいつを慰める為に腕の中に引き込んでしまった。
果たしてこれでいいのかもう分からない。情に訴えられて態度変えていいわけないのだが。
この考えも、こいつを子ども扱いしている証拠だ。だからって一人の女として見れるわけがない。
落ち着いた五月を椅子に座らせて話を聞くことにする。
「…その…お恥ずかしい話、今の成績を改善したくて」
「良くないのは明らかだったな
だが泣く程か? 二学期から巻き返せばいい
課題だって期限内に出す話はいいって言われてるんだろ」
「…できないからと言って、甘えなど到底許されませんっ
私は次のテストで必ず成果を出さなければいけません…」
「…
正直、意外だとは思っていた
昔からおまえは根が真面目だったし母親に憧れていた
大きくなってもそれは変わってないと思っていたから、あの成績は意外だったな」
「う…うぅう」
「闘病中の母親を思えば集中はできないよな」
五月にハンカチを渡す。決意を見せつけたものがいとも簡単に覆る。五月が受け取るのを渋っていたので手に握らせた。
一花の二者面を断ってからこれか。内容がまさに学校の二者面だ。落ち着いた日にやりたいと言ったんだけどな。
つくづく人のペースを崩すことが得意な奴らだ。泣きつかれても困るんだぞこっちは。担任ではないし、学校が違うのだ。
それを疎ましく思わない自分に腹が立つ。自分の管理もできてないくせに他人のことばかり。俺もいつか崩壊して迷惑をかけてしまうのにだ。
「で、何を悔やんでいるんだ…」
「え?」
「あるんだろ、理由
言ってみろよ」
「…」
「生徒の悩みぐらい先生が無償で聞いてやるぜ
相談してくれた分だけ、答えてみせる
信じて話してくれ」
「は、い…」
五月はぽつぽつと、頭を垂れたまま語った。