五等分の園児   作:まんまる小生

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幼子との約束最終話 夢と現実に憧れは彩る

 お昼にもお話ししましたが、中学の成績は良かったのです。

 

 あの頃は、自分なりに勉強する楽しさがありましたから。

 

 私たち五人には決めていたルールがありました。それは必然であって、望まれたものです。

 

 母に迷惑をかけない。

 

 何をしてもそれが私たちの前提で、絶対でした。

 

 母にべったりな私には辛い時がありましたが、仕方のないことです。

 

 そんな取り決めの中の抜け道が、唯一甘えられたのが、お母さんに勉強を教わることでした。

 

 だから私は勉強が好きでしたし、私に限らずみんなテストでは良い成績を取れていたんですよ。

 

 100点だって、取ったんです。

 

 その分お母さんは笑って、辛そうでした。その日は、何が良いのか分からなくなりました。

 

 成績に陰りが差したのは中学3年生の頃。お母さんがまた倒れて…体調を崩しがちになりました。

 

 勉強なんてできませんでした。受験なんて、高校に行くことよりも私たちの家族を守ることが大切ですから。

 

 家では私もみんなもお母さんのお世話をしていましたし、それに専念したかった。

 

 みんながお母さんの看病や家事をしている横で、勉強はしづらかったのです。

 

 きっとみんなも同じです。

 

 図書室で一人でやっていた時期もありましたが、お母さんのことが心配ですぐに帰ってしまいました。

 

 お母さんのせいにはしたくありません。けれど私には両立する器用さなんてありませんでした。

 

 どちらかを取るのなら私は、お母さんと一緒にいたかった。

 

 一花が高校に行かず働くと言った日から、お母さんは仕事に一層打ち込んで私たちの勉強を見てくれたのです。

 

 本当は横になっていたいのに私たちの為に。苦しかったでしょうね。

 

 そんなお母さんを見続けるのは正直怖くて嫌でしたが…私たちはお母さんが頑張ってくれた分、必ず受験に合格しなければならなかったのです。

 

 全部、分かってたんでしょうね…お母さんが私たちにしてあげられるのは、あれが最後だった。

 

 私たちは五つ子全員で同じ高校、それも母親が勤めていた高校に進学できて喜びました。

 

 入学式、お母さんは行けなかったんですけどね。写真だけは撮れました。

 

 しかし、私達の学力は付け焼き刃のようなもので、脆くて崩れやすいから。

 

 そんなハリボテはすぐに見透かされました。1年生の中間、期末で躓いて赤点を取ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さんはよく気にしないで、と言ってくれました

 勉強時間を削ってるのも、集中できないのも私のせいですから、と…」

 

「…先生がそう言ってるんだ

 今更気に病む必要はない、これから改善すればいいだけだろ」

 

「…ご生憎様…それだけではなかったんです」

 

 

 

 過去を振り返り、母を思い遣り、涙をぼろぼろ流しながら告白した五月は、自虐するように笑っていた。

 

 

 

「上杉君にはとても教えられるものではありませんでした

 …隠してすみませんでした」

 

「…」

 

「…上杉君が、あんなこと言ったら、駄目なんですよぉ…?

 わ、わかります、私も同じですから…

 …お、お母さんを…一人にしておいて、何も罰がないなんて…都合が良すぎるから…

 嫌われるのは、上杉君に嫌われてしまうのは私です…!」

 

 

 

 五月はがたがたと震えていた。

 

 力んだ肩を揺らして、嗚咽が漏れる唇を無理矢理噛み締めて泣いていた。

 

 叱られると分かって、隠し通せるのに自ら謝るその姿は…あまりにも不憫だった。

 

 

 

「お母さんが亡くなった日は

 その日は、私が…

 ほ、補習を受けた日で…!」

 

「…おまえ」

 

「私が馬鹿だったせいで…お母さん一人で逝ってしまいました」

 

「…」

 

「ごめんなさい…っ…!

 ごめんなさいぃぃ…!」

 

「…

 おまえが引き摺るのも仕方ねえな…それは」

 

 

 

 …自分の不出来のせいで母親の死を見取ってやれなかったと、五月は泣いて教えてくれた。

 

 この子が愛する母へ向けた仕打ちに脅え、泣いて、懺悔して…なのに、その日他の姉妹が何をやっていたか。

 

 そんなこと関係ない。仮にも、例え五月ではない誰かが母親の死を見届けたとしても、この子は悔やむんだ。

 

 学力が足らなかったせいで母を見送れなかった。受験に落第することより一生悔やんでしまう。一生に一回しかない最後の愛情の照明を。

 

 補習を受けなければ崖際まで追い詰められた成績がさらに危うくなる。行かざるを得なかったのだろう。

 

 申し訳なさとを募らせながら、その日、母親に言ったんだろう。

 

 こんな娘でごめんなさい、賢くなくてごめんなさい、そんな言葉も含めて。

 

 いってきます、と。

 

 帰ったら、いつか謝るから。優しさから生まれる気持ちだ。

 

 

 

「私が馬鹿じゃなかったら、一緒にいてあげたのに…っ

 皆も後悔しないで、お母さんを…」

 

 

 

 だが今は、五月は声を殺せず咽び泣いている。

 

 そんないつかは、簡単に終わった。悪いことをしたわけじゃないのに。テストで点数が低かった、それだけで。

 

 母親を悲しませるつもりなんてなかった。一生懸命頑張ったのに報われなかったのは、辛い。

 

 …困った子だな。本当に、馬鹿で、困った子だ。

 

 おまえは自分を呪うだろうが、誰も責めはしないだろう。母親も姉たちも。おまえが心悼めることを一番心配しているだろう。

 

 母親を心から慕っていたんだ 本望じゃなかったことは痛いほど分かる。あの夜と同じように後悔に泣く子供が憐れで仕方ない。

 

 

 

「それも俺が先生をあの家に縛り付けたことが原因だ」

 

 

 

 悲しみに暮れて泣いてる五月には、俺の傲慢な言葉は聞こえないようだった。

 

 

 

「…おまえ達は先生と共に辛い時間を過ごし、大きな壁も困難も乗り越えてきた

 気安く俺が触れていいもんじゃねえな」

 

 

 

 慰めることはできない。俺にその資格はないんだと思う。そう思っている奴の言葉がどれだけ薄っぺらいか知っている。

 

 

 

「おまえにとって、到底拭い切れない後悔になるんだろうな

 すまないが俺からは何も言えん」

 

「は、は…いっ 私が悪いから…っ」

 

 

 

 だが今だけは、道化だろうが、恩知らずだろうが…この子と先生が残したものを守る。

 

 俺はその答えを知っている。

 

 だから胸を張って五月の手を掴もう。

 

 

 

「五月、勘違いはするなよ」

 

 

 

 立ち上がり、重く圧し掛かる何かに耐えて歯を食い縛っている子供の傍に寄った。

 

 こっちを見ろと、その手を掴み上げる。

 

 五月は突然の乱暴に驚きもせず、俯いたままだった。

 

 おまえは誤解している。

 

 俺は膝をつき、掴んだ手をそのまま五月の膝に置いた。その足には拳を押し付けた痕が痛々しく残っていた。

 

 

 

「先生が求めていたものは勉強ができる奴でも、人並み優れた人間でもなかった

 もっと別の何かだ

 おまえが母親の為に努力してきたのなら悔やまなくていい

 それが正解だ」

 

「…」

 

 

 

 誇れるほどの努力はしてこれなかった。俯いている顔はそう訴えている。

 

 不出来を責め立てられていると受けた五月は、より一層唇をきつく結んだ。その隙間から嗚咽があふれ出していても。

 

 この子が握る手は、一層きつくなる。涙の雫がぽつぽつと穿つようだった。

 

 聞いてはくれないかもしれない。それでも続ける。

 

 

 

「見ていたわけでもないが容易に想像はつく

 母親がそんな状態だったから勉強が身に入らなかったんだろ

 当たり前だ、優しさに強さなんて誰も求めてねえよ」

 

「…ですが」

 

「…」

 

「…う、うぅうっ…!

 …少なくとも、私なんかより

 お母さんからしたら…私なんかよりっ!

 上杉君のような、立派な人のほうが良かったはずですっ!

 

 勉強できて!

 頭良くてぇ!

 お金稼いで!

 そしたら将来…お母さんもう、頑張らなくて良かったでしょう!?

 上杉君みたいに、なれたら…」

 

「…

 …それはない」

 

 

 

 身が裂けるような悲鳴だった。自分なんかより…なんて言葉はやめてほしい。

 

 嫌なことを聞いちまった。俺のようになれたらなんてよ…馬鹿げてるぜ。

 

 皮肉なもんだな。間違ってないのに、優しい奴はとことん認めない。自分の優しさを知らないんだ。

 

 否定する五月は俺の手を振り払い、涙で崩れた目で訴えてきた。

 

 もうどうしようもないんだと、諦めと後悔に泣いている。

 

 …

 

 先生だったら、きっと怒るんだろうな。俺にはゲンコツなんて無理だぜ先生、あんたの愛娘に対してよ。

 

 

 

「いつだったか…昔、先生から叱られた」

 

「…お母さん…?」

 

「ああ…あの時な

 俺に足りて無かったものは今のおまえが持っているんだ

 俺はおまえのような優しい人間になりたかった、求められたかった

 おまえは間違っていない、五月」

 

 

 

 振り払われた手をもう一度取る。また膝を押し潰してきつく握る手を取った。

 

 泣いたり、辛い時は何かを必死に守ろうと力んで、周りが見えなくなる。声も、遠くなる。

 

 誰の手も借りない、求めていないと拒絶している。

 

 先生はそんな身勝手で暴力しか振るわなかった俺の手を、優しく取ってくれたんだ。

 

 先生ほど上手く伝えられないが、あんたの心残りを片付けるためだ。手伝ってくれ。

 

 

 

「おまえが本当に求めている一番大切なものはちゃんと持っている」

 

 

 

 きつく握られたものを五月に見せる。

 

 一回教えたんだけどな。確かに勉強は苦手なようだ。

 

 

 

「この手、もう一回解いて考えてみてくれ」

 

「…」

 

 

 

 俺の言葉の後に、しばし沈黙が続いた。

 

 五月のしゃくり上げる嗚咽と時計の針の音だけが聞こえる。意識を傾けるには十分な静けさだった。

 

 ゆっくりと、静かに、震えながら手が開かれていく。

 

 まるで手の中に何かが入っているかのような。零れてしまうことを恐れるような様だった。

 

 開かれた手の平には、当然何もない。きつく握った痕だけが残っている。

 

 だが、その手には必ずある。おまえが触れたものがあるんだ。

 

 泣く程大切な思い出を作った手なんだからよ。答えはおまえがその手で築いた思い出にある。

 

 その答えは未来にはないんだ、五月。もう持ってるのだから。

 

 

 

「勉強はできなかったが…

 おまえは思い出せなかったほど、何回も先生の手を握ったんじゃないか」

 

「…」

 

「あの人、謝るくせに離さなかっただろ」

 

「…!

 な、何で…それ」

 

「お…!

 当たったか ははっ

 勘だ勘、おまえらしい」

 

「…ぁ…」

 

 

 

 そのくらい、簡単に思い浮かぶぜ。

 

 毎日辛かったんだろうな。それを隠すことも。

 

 だからこそ、もしこいつに手を握られたら、あの人は後ろめたさはあっても手離したくないだろうな。

 

 先生は娘を愛していた、俺が知っていた時と変わらず。それを四葉が教えてくれた。

 

 だから。

 

 寂しい思いをする母の手を優しく握り続けた。

 

 着飾らない母の服を選びプレゼントした。

 

 食欲のない母の為に栄養のある料理を振舞った。

 

 弱くなった母の杖代わりになり生活を支えた。

 

 大好きな母の為に一人でい続けた。

 

 あの人は申し訳なさから、心から笑わなかったかもしれない。

 

 だが。

 

 

 

「それでいいじゃねえか」

 

「…」

 

 

 

 全て持っていこうなんて、横暴なんだろ?

 

 おまえたちが形は違えど、母親を愛していた証明なんだろ。

 

 愛され過ぎだぜ、先生。五通りの愛情を受けて、嬉しくないはずがない。

 

 手の平を見つめる五月は静かに泣いていた。

 

 

 

「馬鹿、ですね…私」

 

 

 

 普通考えないもんだ。泣いてる時、悲しい時に自分が見せた優しい行いなんて思い出せない。

 

 自棄にもなる。周りなんて見えない。これ以上は嫌だと振り払いたくなる。逃げたくなる。

 

 そんな時に…もう誰かを傷つけないように、もう辛い場所へ行ってしまわないに。

 

 優しく手を取って、教えてくれる人がいたら。

 

 成功は失敗の先にある。あの人はそう言った。

 

 愛情もまた同じだ。失敗してもその先にちゃんとある。無くならない。

 

 だからもう泣かなくていい、五月。

 

 きつく握られた手の平にはその人の涙が落ちていく。痛みを癒すように、雫がぽつぽつと。

 

 雫は零れず、静かに伝っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏休みの課題は中途半端な形で終わったものを提出することになった。

 

 必ず終わらせて後日提出すると誓って。俺に誓ってもらっても困るんだがな。

 

 後悔は無くならないのだ。いくら泣いても気休めになるだけで、過去は変わらず、その常識が心を蝕む。

 

 それでも。教材を閉じてカバンにしまう五月は、俺の視線に気づいて恥ずかしそうに逸らした。

 

 返されたハンカチは三度目の五月の涙と鼻水で汚れたわけなのだが、もう餞別としてくれてやることにした。お子様卒業記念日だ。

 

 五月のような甘ちゃんの女学生には似合わないがな。色気のないプレゼントに五月は泣き叫んだ羞恥で俯きながら頷いていた。

 

 …たしかにに四葉の言う通りだ。あの子は賢く、勘が良いのだ。

 

 子供一人の悩みを聞くだけでも大変だ。五人もの子供を一人で抱えた母親の苦労は想像できやしない。

 

 五つ子は一つの出来事に五通りの悩みを抱える。それを立て続けに見るとなったら苦労する。

 

 子は成長する。きっといつか頼ることはなくなる。そう遠くはないのだから守り続けよう。その時きっと寂しく思うから。

 

 そうやって頑張り続けた先で、あの人はこの世を去ってしまったのか。

 

 …その上、俺まで面倒をかけちまっていたら、どうなってたんだろうなあの人。

 

 

 

「上杉君?」

 

「…ああ、悪い

 つーか俺こっちでいいのか?」

 

「…あの時のように膝枕要求しましょうか?」

 

「冗談でもやめてくれ…わかったから」

 

「でも…またいつか…」

 

「…寝るぞ、電気消す」

 

「はい」

 

 

 

 五月が落ち着いた頃にはもう24時を回っていた。もう寝ることになり、準備を終えて今に至る。

 

 大きくはないベッドで二人並んで…結局こうなるのか。

 

 何回か交渉したが、俺を床で寝かせるのは反対なようで、俺も恩師の娘を床に寝かせるつもりはなく…一緒に寝ることになった。

 

 明かりを消すと部屋は暗くなる。視界が悪くなると五月は俺の手を取って布団に誘導してくれた。俺の家なんだから場所ぐらい分かる。流石に余計なお世話だぞ。

 

 お互いに背を向けて眠る形になる。

 

 布団を被り、眠気が襲ってくる頃、背中から言葉を投げかけられた。

 

 

 

「おまえらしい

 とは…少し違うのではないでしょうか…」

 

「…

 なんだって?」

 

 

 

 急な声かけに何のことか分からなかった。

 

 あれか。俺が言い当てた時の言葉か。勘でしかないが。

 

 え、違った? だとしたらこっ恥ずかしいんだが。違ったのなら指摘しないでスルーして欲しいぜ…

 

 嫌な予感に目が覚めてしまった。が、五月から答えは続かなかった。

 

 寝たのかと後ろを向くと、背中を向けていたはずの五月が顔を見せてこっちに寄っていた。

 

 …本当にこのお嬢さんには調子を狂わされる。

 

 確信を得た。そんな揺るがない眼差しで俺と向き合っていた。

 

 

 

「貴方は、私たちよりもお母さんを理解してるから…」

 

「…」

 

「私ではなく

 お母さんらしい…ではないかと」

 

「…

 おまえといい、四葉といい…

 生意気な奴ばかりだ」

 

 

 

 言わなくていいことだ、それこそ。

 

 睨んでいると五月は不敵に笑った。長い髪を揺らして笑う様は子供のそれとは違うものだ。生意気。

 

 こっちを向くまで答えるつもりはなかったんだろう。向き合うようになったこの形で子供は手を握ってきた。

 

 昔交わした、幼子との約束が果たされた証なのかもしれない。

 

 …負けだ、降参しておこう。もう…今日は疲れた。

 

 昔に戻ったようだ。おまえらの前じゃ自分の悩みなど吹き飛ばされるくらい忙しくなる。

 

 だが、子供でも今は高校生だ。あの時の俺の立場がこいつらに置き換わったようなものだ。

 

 俺は先生に対して極めて謙虚だったと思うぞ。文句も言いたくなる。大人を尊重してみろ。

 

 

 

「…正直俺が関わらなくても自力で解決するだろ」

 

「ふふ…先生なのでしょう?」

 

「だったら何だ」

 

「まだまだ、これからも教えてほしいことが沢山あります

 ですから…期限など設けず、私たちに付き合ってください」

 

「…」

 

 

 

 そう、か。

 

 

 

「…なんだ

 それだけで繋ぎとめることができたかもな…」

 

「?」

 

 

 

 何のことか心当たりのない五月は疑問符を浮かべている。これは話せないぞ。

 

 11年前。4月でこの関係は終わると先生に言いつけられた。あれが区切りだったんだ。

 

 その先が欲しかった。俺は繋げることができずに終わってしまった。何が正解だったのか今でも分からなかった。

 

 俺には到底できないことだ。あの人に甘えたら俺の望んでいたものには遠のくのだから。

 

 あの人を支える。必要とされる人間になるには甘えることなど手段になかった。

 

 だが、その一言でもしかしたら。あの人が困ったように笑ってくれたら。

 

 

 

「上杉君は優しすぎます」

 

「?」

 

「お母さんの失敗を抱えてあげるのですね

 でも…きっとお母さんはそんな弱い人じゃありませんよ」

 

「…そのくらいわかってる」

 

「そうですか?

 そりゃあ…もしかしたら今でも、途中でいなくなってしまったことを後悔しているかもしれませんし

 一人だったことが寂しかったかもしれません…

 怖くて助けて欲しかったのかもしれません…

 お母さん、寂しがり屋ですから

 けれど…それ以上に」

 

「…

 ?

 どうした」

 

「…でも、上杉君にそんなこと…

 …後ろめたかったから、会えなかったのかな…」

 

「…」

 

 

 

 五月は言葉を探して俯いていく。

 

 考え込んでいるようだが、あまり良い内容ではない様子だった。

 

 否定したいが、否定すれば別の物を否定してしまう。

 

 

 

「…ごめん、なさい」

 

「なにが」

 

「…私たちが駄目でも…お兄ちゃんなら…

 きっとお母さんを助けてくれたかもって…その期待はきっと拭えません」

 

「…」

 

「でも違います、こんな押し付けるようなことじゃなくて」

 

「そんな大層な人間じゃなかったってことだ

 それに巻き込んじまった…先生を期待させて裏切ったんだぞ」

 

「…

 もうやめましょう?

 私達の、お母さんとの幸せな思い出は…貴方との思い出なのに

 何でそうなってしまうのですか」

 

 

 

 やはり、俺が胸の内に隠しておくべきことだったのかもしれない。

 

 五月はもう聞きたくないと知らしめるように背を向けてしまった。俺も向き直るように背を向ける。

 

 

 

「すまん、五月」

 

「…」

 

 

 

 昔、あの約束をした日。あの日腕にしがみついて眠っていた子は、長い年月が経った今…隣にいる。

 

 あの頃の俺は、母亡き後のこいつらを助ける覚悟をしたつもりだった。

 

 具体性のない子供の決意だった。それでもその時抱いた無謀な勇気が欲しいと十年経った今、そう願う。

 

 こんなはずじゃなかったんだ。わかっているんだ。子供たちに言われたことも、一人よがりなことも全て分かっている。

 

 一花は諭し、二乃は呆れ、三玖は困惑した。四葉は怒り、五月は嘆いている。

 

 どうしたらいいのか分からない。誰も教えてはくれないだろう。

 

 元から、答えなんてこの世には用意されてないのかもしれない。

 

 五月にはあっても、俺の過去にはもうないんだ。死人が口を開く訳がないのだから。

 

 先生…俺を恨んでいるのか?

 

 教えてくれ… あんたが優しいことは知ってるんだ。だが、どうしようもなく不安なんだ…

 

 俺は…答えが知りたい…

 

 俺を弱くしたのは、あの時手を掴んだあんたなんだぞ…

 

 辛くても耐えて、生きていくしかない。割り切って生きていくしかない。

 

 嫌だとは思っている。諦めたくないし、先生とそんな関係で終わるなんて認めたくない。

 

 

 

「…五月」

 

「…」

 

 

 

 恐らくだが、俺が事実だと言い訳して漏らした吐露は、救いを求める心から出たものなのだろう。

 

 だとしたら、もう終わりにしよう。ああ…もうやめよう。

 

 子供たちが許そうと、罪の意識は変わらないのだから。

 

 胸は痛むが、それでいい。

 

 恐れるからおかしくなるんだ。

 

 

 

「おやすみ、五月」

 

「…おやすみなさい、上杉君」

 

 

 

 俺は言わなくて良かったな。

 

 軋む歯車がいつか壊れるのなら、壊れるまであいつらを見守ろう。

 

 誰かに必要とされる人間になる。そんな夢も遠のく。それでいい。もう半分ぐらい叶ったもんだ。

 

 この子たちの幸せを祈り、もう夢を見ないようにそっと瞼を閉じた。不要なものは捨てないといけないからな。

 

 昔から得意だろ上杉風太郎。だったらこれも捨てられるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もし、もし願いが叶うのなら。

 

 戻りたい。先生と初めて会ったあの京都に。

 

 もう16年前になるのか。救えない願望だな。

 

 だから、もしもだ。

 

 それが俺が狂ってしまった原因だとしたら。

 

 6年の年月であんたを忘れてしまったことが、俺をここまで追い込むのなら。

 

 もう一度やり直したいんだ。

 

 修学旅行なんだ。カメラでも持ってよ。確か親父が仕事で良いカメラを持っていたんだ。

 

 それで写真を一枚でも取っていれば違っていただろう。

 

 何度も思い返せるように、生徒手帳にでも入れてさ。

 

 誰かに見られたら恥ずかしいからあの人のところは折って隠してよ。

 

 辛い時、挫けそうになった時に、あの人の顔を見ればきっと。

 

 何度も、何度も思ったことなんだ。だから間違いないはずだ。

 

 思い出せる何かがあれば、俺はきっと…こんな未来にはならなかったはずだ。

 

 いつか誰かに必要とされる人間になる。そんな途方もない夢を叶えられただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、起きろ」

 

 

 

 カーテンから朝日が漏れる一室の中で、すっと目は覚めた。

 

 いつもと同じ日常が始まるわけだが、自分の身を包む布団は幾分窮屈に感じる。

 

 背後には女の子がぐっすり眠っている。癖ッ毛の強い長髪がベッドに広がっている。夜中、なんか首元が痒かったのはこいつのせいか。

 

 穏便に優しめに声をかけているのだが…

 

 

 

「…」

 

 

 

 声をかけても起きる気配はない。寝心地は良かったようだな…人のベッドで爆睡できるとは存外悩みなど皆無なんじゃないか?

 

 一方で俺はというと…悪夢には慣れた。だが、少しショックでもあった。

 

 一人暮らしにはない温かさを感じながら眠れた夜でも、結局あんな夢を見る自身の心の弱さに気が滅入る。

 

 夜でも夏の空気が残っているから冷房はつけたのに、寝汗を少しかいてしまった。

 

 割り切ったつもりでも悪夢のほうは往生際が悪いようだ。隣に眠る子には悟られずに済んで安心した。

 

 こうして穏やかに眠っている姿を見ると、やはり似ているなと思う。母親にではなく五つ子たちに。やはり瓜二つ…いや瓜五つというわけか

 

 もう少し寝かせてやりたいが、今日は早めに帰らせるつもりだ。恐らく姉たちが心配しているだろう。

 

 

 

「朝だぞ、起きろ五月」

 

「…む…ぅ

 待ってください…」

 

「…」

 

「置いてかないで、お母さん…」

 

「…」

 

 

 

 やけに抵抗するなと思ったら寝言だったようだ。母親の夢を見ていたのか。

 

 もう既にいない人が夢の中で子供を起こそうと声をかけているのかもしれない。

 

 起こすのは忍びないか。と肩を揺らす手を止めると五月は急に起き上がった。

 

 半分寝ぼけていながら。さっきの言葉はまずかったと、取り消せないことに五月はあたふたしている。

 

 

 

「ぁ、あの」

 

「…腹が見えてるぞ」

 

「え!?」

 

「…太ってはないな、良かったじゃねえか

 

「…

 ……」

 

「いや起きたのなら出ろ」

 

 

 

 睨みつけてきたと思ったら、捲れてずれたジャージを整えて布団の中に寝込みやがった。

 

 俺もベッドから出て立ち上がる。同じ部屋で誰かと寝るのは妹で慣れているが、同じ布団は肩が凝る。伸びをしてほぐしておく。

 

 五月ももそもそと布団から顔を覗かせてきた。布団からぴょんっと癖の強い髪が跳ねた。

 

 

 

「髪、跳ねてる」

 

「知ってます、寝癖酷いんです…

 ぁっ! ぶ、ブラシとかあります?」

 

「洗面所」

 

 

 

 お借りします、とぱたぱたと洗面所に向かっていった。何が恥ずかしいのやら、寝顔ならじっくり拝ませてもらったんだがな。

 

 洗面所はしばらく使えなさそうだ。あいつ髪長いからな。

 

 俺は台所のシンクで顔を洗うことにした。ついでに手早く着替えも済ませておく。

 

 夏休みの休日も今日と明日で終わりだ。五つ子たちとも毎日のように顔を合わせることもなくなる。いつもの日常が仕事とあいつらとで入れ替わるんだ。

 

 振り返れば早いもので、あいつらにしてやれたことは小さなものばかりだ。

 

 

 

「…飯、作るか」

 

 

 

 考えるのは後にしよう。あいつコーヒー飲めるのか? 一応淹れておくか。

 

 簡単に朝食…いや、いつもより多めで贅沢にした朝食を作ると、髪を整えて寝ぼけ眼もなくなった五月がやってきた。

 

 もじもじと佇まいを正しつつ、テーブルに並べられたパンやらスクランブルエッグを見て頭を下げてきた。

 

 

 

「すみません」

 

「今度泊まる時は予め教えろよ、冷蔵庫空だ」

 

「…はい、わかりました」

 

 

 

 温かいうちに食っちまおうと頭を下げる五月に椅子に座るよう促した。

 

 食べる時は嬉しそうだなこいつ。朝から元気な奴。

 

 …何が嬉しいのやら。五月の口元は緩んでいた。

 

 こいつには敵わん…泊まりぐらいいつでも来いよ。

 

 俺も一緒に手を合わせないと、誤魔化せそうになかった。

 

 

 

「いただきます」

 

「…ふふ

 いただきます」

 

 

 

 なぜかさらに笑われてしまった。

 

 こっちの都合もお見通しってか。十年前に世話してやった生意気なガキに看破されていると思うと腹が立つぜ。

 

 生意気な子供だ。やはり一人のほうが気楽かもしれないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は8時を過ぎた。社会人も休みが多い夏休み中のこの時間は実に静かだ。社会人には夏休みって概念はないがな…お盆休みしかないのだ。

 

 今より少し時間が経つと近所の子供が遊んだり、両親を招いた親や、孫が遊びにきた家から楽しそうに笑い合う声が聞こえてくるものだ。

 

 朝飯を終えて洗濯物を済ませることにする。一人分の洗濯では数日分のをまとめてやる。気が向いているうちにやっておく。

 

 五月はまだ朝食を食っていた。朝からよく食う奴だ。作り甲斐はあって嬉しいけどな。

 

 ふとインターホンが鳴った…朝から誰だ。

 

 まさか見慣れない女子高生を連れ込んだって近所から警察に通報でもあったか。恐ろしい世の中だぜ。まったく笑えん。

 

 五月が顔を覗かせてきたが手で制した。おまえが出たら余計に面倒だ。あと口元拭いとけ女子高生。

 

 指摘するとそそくさと退散していった。俺はそれに呆れつつドアを開けて出ることにした。

 

 

 

「…」

 

「…お、おはようっ」

 

「…おはよう」

 

 

 

 こいつも男の家にまで来て何やってんだ、朝っぱらから。

 

 尋ね人は予想外の人物だった。今何時だ、8時だろ。

 

 朝早くに訪れて礼儀が欠けていると自覚しているようだ。来訪者はやや顔が赤く、俯いていた。

 

 お互いに挨拶の言葉しか出てこず。じりじりと暑さが増す玄関で立ち竦んでいた。

 

 

 

「…とりあえず上がってくか、三玖」

 

「うん…

 あ、後で二乃も来るから」

 

「あいつもか

 五月の家出が余程心配だったか」

 

「う、うん、心配した、凄く

 朝早くからごめん」

 

「構わねえよ、朝から大変だったな」

 

 

 

 開いたドアの先にいたのは、明らかに緊張していると分かりやすく固まっていた三玖だった。

 

 消極的で大人しい三玖が俺の家を訪れるとは予想外だった。来るとしても他三人のほうが可能性は高いだろう。

 

 朝の挨拶も目を下に向けなければ言えないほどだ。それでもわざわざ尋ねてくるとは…根性あるんだかないんだか。

 

 部屋に招くと、三玖はどこか顔を引き締めて家に上がってきた。

 

 

 

「ちなみに、おまえ鍵は持っているのか?」

 

「え? あ…うん、スペアキーは今私が持ってる

 で、でも流石に…勝手に入るつもりはない」

 

「礼儀正しいのは良いが…暑い中待たせたくねえし

 仮に俺がいなかったら入っていいからな? 空調もつけていい」

 

「う、うん…じゃあ…そうする

 …ほんとに彼女いないんだ…」

 

「…」

 

 

 

 今までこの子の視線に気づかなかった程鈍感ではない。二乃にも何度か注意されていたことだ。

 

 以前、彼女がいるのかって直で聞いてきたしな。ただの雑談ならともかく、あの顔は真剣なものだった。

 

 恋人はいないが、三玖が家に上がることで少しまずい点がある。

 

 あれをまだ持っていると知ったらどんな顔をするだろうか。

 

 俺も気まずくなってきた。お互いに俯きがちになってリビングに向かう。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 …なぜか…背後から怒気を感じるぞ。俺には彼女はいないが図々しい教え子はいる。

 

 項垂れて大人しいだけの客人が、暢気に飯を食っている末っ子を見た途端怒気が膨れ上がった。

 

 家出娘を心配して、朝っぱらから一時間以上電車に揺らされてきた姉なのだ。そりゃ怒る。こいつも先生の娘してるな…怖いわ。

 

 ただの嫉妬のようだがな。昔似たようなものをよく見た。

 

 

 

「み、三玖でしたか」

 

「…

 フータローの家で何やってるの…」

 

「え…その

 朝ごはんをいただいてます…はい」

 

「寛ぎすぎ」

 

「おまえはもう少し肩の力抜け」

 

 

 

 末っ子の甘えっぷりに三女は額に青筋を立てて呆れていた。このタイミングで来られたら能天気な奴だと思われるのは仕方ない。

 

 昨夜は泣いて謝ってきたんだ。少し大目に見てやってくれ。

 

 咎められてしまっては五月も食べづらくなってしまったようで。手を止めている五月の頭を乱暴に撫でておく。飯を残されると困るぞ。

 

 

 

「先に洗濯物干してくる、その後に茶出すからよ

 飯食ってないならパン食べていいぞ」

 

「お、お構いなくっ」

 

「ふふ、上杉君のご飯は美味しいですよっ」

 

「…言っても、パン食じゃん…手料理じゃ…」

 

「そうですね…あ、ですが

 昨晩は上杉君にオムライスを作っていただいて…とても美味しかったですよっ

 上杉君の手料理は…十年振りなんですよね…らいはお姉ちゃんに似て優しい味でした…」

 

「…へぇ…手料理…しかも十年振りの…随分と手厚いおもてなしだったみたいだね」

 

「…あの、パン…食べます?」

 

「いらない」

 

 

 

 あいつ、姉の火に油注いでいるが…天然なのかわざとなのか。俺が介入しないと喧嘩になりそうな雰囲気なんだが…

 

 

 

「機会があれば、おまえにも作ってやるよ」

 

「…う、うん…」

 

 

 

 仕方なく三玖に適当に座るよう促して、手を止めていたものに取り掛かる。

 

 色味が乏しかったこの家にまた一つ色が増えたような、そんな感覚が気だるい体を軽くさせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方で食事を終えた五月は、姉の前で正座していた。何やってんだか。

 

 暑い中ベランダで洗濯物を干しながら、何を話しているのか聞き耳を立てておく。

 

 

 

「い、一応報告しておきますよ三玖」

 

「なに?」

 

「と、泊まりはしましたが特に何も、何もありませんからっ!?」

 

「なら何で泊まったのか聞きたいな」

 

「…えっと」

 

「…白状するべき」

 

「…」

 

「昨日、一緒に行こうって言ったのに

 まさか一人で先に行くとは予想外だよ…私が遅いだけなんだけど」

 

「う、ぐ…ぬ…うっ

 うぅううううううっ!」

 

 

 

 末っ子は後ろめたさと緊迫感に苦悶を浮かべていた。昨晩の一件をおいそれと吐露するには勇気がいるだろうよ。

 

 三玖はそんな五月に相変わらずジト目で見つめていた。怖いぞおまえ。

 

 五月は素直に白状するしかないようだった。こればかりは可哀想な奴だった。自業自得だがな。

 

 

 

「相談事がありました…お母さんのことで」

 

「…フータローのあの話を聞いた後に?」

 

「はい…だからこそ、私も話すべきだと思ったのです」

 

「そう

 フータロー辛そうにしてなかった?」

 

「…すみません」

 

「違う、怒ってるわけじゃない

 ただ…心配なものは心配、二乃も言ってた」

 

「な、何でしょうか」

 

「よくわかんないけど…私より五月の感性が崩壊してたって

 私たち四人で緊急会議、話し合いの末私と二乃が派遣された」

 

「う、上杉君はほら、私たちのお兄ちゃんですから…心配しなくても」

 

「男は狼って」

 

「三玖が言いますか!?

 一緒に寝るって最初に言ったのは誰ですか!」

 

「あ、あれは…未遂だし…」

 

「おまえら朝から騒ぐなよ、マンションだぞここ」

 

 

 

 おまえらの家より壁は薄いぞ。しかも今は窓開けてるし声丸聞こえだ。

 

 三玖は本気で怒ってはいないのだろう。心配はあるが知った人間の元に泊まることにそこまで気を揉んだわけではなさそうだ。

 

 だがしつこい。気に入らないところがあるようで妹を許せないようだ。普段気弱で優しいあいつには珍しい光景だ。

 

 俺の注意に二人は返事を返して押し黙ってしまった。

 

 至って真面目な二人だからいい。これが四葉や二乃、一花だったらうるさく文句を言われる。

 

 

 

「…反省しています…

 一緒に行きましょうと言ったのにすみません」

 

「あ、それは…いい

 私じゃあ、どのみち勇気出なかった…

 結果的に…こうして五月が理由作ってくれたからね」

 

「…

 なら怒らなくてもっ!」

 

 

 

 五月は半泣きだった。声がでかいがもう注意しないでおく。早く話を終わらせた方が手早い。

 

 

 

「本当に心配してた

 四葉みたいに…離れていくのかなって二乃心配してたよ」

 

「あ…そういえば四葉は…どうでしたか?

 あの後、上杉君と何かあったのでしょうか?」

 

「…うん、あったみたい

 でも大丈夫だよ

 五月にも話してくれるよ

 昨日ね、四葉が話してくれたんだよ」

 

「あっ…!

 四葉話してくれたんですね…」

 

「うん…」

 

「…わかりました、私も待ちます」

 

 

 

 二人の表情がぱっと花が咲いたように明るく弾んだ。

 

 長年の不安が解かれたことに目が潤んでいた。大切な五つ子の片割れが、ようやく元の鞘に納まったことに。

 

 あいつ、話したんだな。

 

 だいぶ遠回りしちまったが、良かったじゃねえか四葉。

 

 その後は二人で仲良く雑談していた。俺も残った家事にかかり、穏やかな時間だけが過ぎていった。

 

 持ってきた分の課題を無事に終えた五月は、残りを家でやる必要がある。提出は先だが怠けるつもりはないようだ。

 

 後悔しないように。ただそれだけの理由で勉強する。

 

 それは辛く、持続させるには別の何かが必要かもしれない。

 

 自分らしい理由を見つけよう。俺も協力するから。そう伝えた昨夜、教材をしまった五月は気恥ずかしそうに頷いていた。

 

 昼前には帰らせるつもりだった。身支度をする五月は迎えに来たであろう姉に声をかけた。

 

 

 

「三玖も帰るのですよね?」

 

「…二乃が来る…はず

 買い物してこっちに向かってるって

 食材選ぶのに時間かかってるみたい」

 

「食材…?」

 

「五月が食べた分、返さないとって」

 

「助かるッ」

 

「…

 ふんっ 私はもう帰りますっ! 三玖は帰らないのですか」

 

「残るのはいいが、俺はこいつ送ってくぞ

 用がないなら一緒に帰るか」

 

「私は…」

 

 

 

 ただ迎えに来たわけじゃないんだろう。二乃の買い物というのも不明瞭だがそれは置いておく。

 

 ここにいても何もないしな。帰りたいのなら送っていくつもりだったが三玖は気乗りしないようで俯いていく。

 

 …この子とは、ほとんど話ができていないからな。他の四人とは話したがこの子とはまだだ。

 

 俺も三玖との距離には戸惑う部分がある。この夏休みに幾度もこいつの視線を感じた。

 

 昔の話なんだがな。それを今更引き出すのはナンセンスだ。

 

 なのだが、だからって無視していいものではなかった。

 

 この子は、臆病で言いたいことも言えない優しい子だからな。

 

 それは俺よりも家族が一番知っていることで。姉を慕う妹がその優しさを守りたいと思うのは当然だった。

 

 

 

 

「上杉君…あの」

 

「わかってる

 三玖、留守番頼むぜ 二乃が来るんだろ?」

 

「わ、わかった」

 

 

 

 大きく頷く三玖は少し安堵しているようだった。

 

 三玖に家に残ってもらい、五月と一緒に部屋を出る。

 

 

 

「お断りしなかったのもあれなのですが

 帰り道ぐらいわかりますよ」

 

「あ?

 違う違う、送ってくっつーの」

 

「?」

 

 

 

 確かに断らなかったあたり、ちゃっかりしてるなこいつ。甘え上手な奴だ。

 

 マンションのエレベーターを使って1階に下りて、五月に待つよう伝えてから駐車スペースへ向かう。

 

 今日は雨が降っていなくて幸いだった。って、ヘルメット一つしかなかったわ。今度買わないと駄目か?

 

 実用性があるか不明な出費が増えたとげんなりしながら、五月の下へ向かうと待ち人は二人いた。

 

 

 

「よう、二乃

 おまえも朝から苦労してるな」

 

「上杉君?」

 

「えっ、上杉?」

 

 

 

 二人の下へ向かい、ヘルメットを五月へ放り投げる。

 

 

 

「…なにそれ」

 

「バイクも知らないか元貧乏学生」

 

「今だって変わらず貧乏よ」

 

「特盛りパフェ食った時点で卒業だ」

 

「安いお嬢様ね」

 

「バイク、かっこいいですね」

 

 

 

 車はないがバイクはあるわけで、こいつで五月を送っていくつもりだ。

 

 高校時代で乗っていた原付と違い、大型二輪なら余裕で乗せられる。

 

 だってのに、二乃に思いっきり笑われている。何が言いたいんだこの野朗。

 

 

 

「似合わないわね」

 

「…おまえは絶対に乗せてやらん」

 

「冗談だってば

 五月の次は私ね、今日帰る時乗せてもらうわ」

 

「三玖もいるから無理」

 

「えー じゃあ、今度買い物する時こき使ってやるとするわ」

 

 

 

 からかってはいるが興味はあるようだった。是が非でも二人乗りを体験したいらしい。

 

 憧れでもあるのか、二乃は前から後ろまで前屈みになってバイクを眺めていた。その内原付の免許でも取ってそうだな。

 

 機会があれば乗せてやるが、今日は送るとしても徒歩だ。

 

 二乃の手にはビニール袋がぶら下がっていた。買い物ってのはそれか。結構多いように見えるんですけど。五月が食った分を超化してるし。

 

 俺の視線に気づいて二乃はそれを掲げて自慢げに笑っていた。

 

 

 

「せっかくだし、可愛い女学生がお昼作ってあげるわ、嬉しい?」

 

「…おまえの飯は食いたいが」

 

「そ じゃあ、待ってるからね」

 

 

 

 機嫌を良くしたのか、バイバイと手を振って俺と五月から背を向けて行った。俺の部屋の場所は知っているようだな。

 

 …母親が死んだ原因が俺だと言ったつもりなんだが、あいつは変わらないな。

 

 それはこいつもだが。

 

 五月は恐る恐るヘルメットを被って、慣れない動作で後部座席に跨った。

 

 ちゃんと捕まれと言っても、俺と密着する羞恥があって…むず痒い触り方でしかなかった。

 

 カバンの位置もやたら気にしている。気持ちは分かるが落ち着け。

 

 じれったいな。いつもは加減しない癖に面倒な女だ。

 

 

 

「飛ばすか」

 

「へ」

 

「落ちるなよ」

 

「ちょ、ちょ

 ちょっと先生ぇ!?」

 

 

 

 教師のやることじゃない、と抗議しているが無視した。半分冗談だ。

 

 エンジンを吹かして動き始めると、五月は大慌てでこっちの腹に手を伸ばして掴んできた。

 

 とっとと帰らないと二人がうるさそうだ。それに一花も四葉も心配しているみたいだしな。

 

 走っていくうちに、硬直していた五月の体は慣れてきたようで掴んでくる必死さは消えていった。

 

 

 

「私、なりたいもの…見つけました」

 

「あ?」

 

「私 ――を目指しま――」

 

 

 

 エンジン音と風を切っている中、後ろから掴む子の声は聞こえなかった。

 

 しがみつく子供がこちらを見上げている。

 

 優しく何かを肯定してくれるような。

 

 子供が大人を慕い、憧れる。そんな目。

 

 それは何かを忘れていく人生の中でも印象深くて。

 

 とても忘れられそうにない、綺麗な目だった。




残る2、3話でこの番外編は終わりとなります。
暗く幸の薄いお話でありますが、お付き合いいただけると幸いです。
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