五等分の園児   作:まんまる小生

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幼子との約束最終話 十年ぶりでも、子供でも

 五月を駅まで送り届け自宅に帰宅すると、居間のほうからドタバタと物音がした。

 

 望まぬ来訪に住人が慌しく動き回っているような物騒な音だった。

 

 俺の家で何やってんだ…と顔を出すと、留守番を任されていた奴は目を見開いて硬直していた。

 

 

 

「…フータロー…」

 

「お、おかえりなさい」

 

「他人の家で何やってんだ」

 

 

 

 男の一人部屋が女子に軽く漁られている。小物が移動していたり、机の引き出しが出しっぱなしになっている程度のものだが、失礼極まりない振る舞いだ。

 

 家主の登場に冷や汗を流している様はまさに悪戯がバレた子供のそれだった。

 

 勝手が過ぎる横行に流石に怒りたかったのだが…できん。

 

 俺、薬を探そうと先生の家漁っちまったんだよな。十年前の前科持ちが豪語できる主張ではなく断念した。

 

 それにだ。俺のベッドの上で寛いでいる二乃はともかく、わなわなと震えている三玖に怒り出したら気落ちさせてしまうだろう。

 

 そんなにビビらなくていい、と諭して声をかける。

 

 しかし直後、居間に足を踏み込むと背に悪寒が走る。

 

 

 

「!」

 

 

 

 瞬時に怒りと呆れが混じったものを呑み込んで部屋を確認して、机の引き出しを見られたというこの状況のまずさを察した。

 

 あれを見たのか。

 

 まさかと思って固まっている三玖を改めて見やると、やはり手に持っていやがった。

 

 三玖が持っていたのは栞だ。

 

 咄嗟にそれを三玖の手から取り上げる。

 

 

 

「ぁ…」

 

「…」

 

 

 

 

 力を込めれば破れてしまう古い紙だ。奪い取る時には、三玖がそれを握る力は弱々しかった。

 

 俺の強引な手振りに反して、三玖の手からはすっと力なく抜かれていった。

 

 そのような俺の態度に、やや脅えるような表情を向けて三玖は後ずさった。

 

 …なんてことしやがるんだ。

 

 こんなもの見つけて、お互いの為にならねえってのに。

 

 少し沈黙が続いた。押し黙る俺と三玖を見かねた二乃が何か言いかけて…やめた。

 

 栞を元の場所に。机の引き出しに入れてしまっておく。カタン、と軽い音が留まっていた時間の流れを再開させた。

 

 

 

「…ごめんなさい…」

 

「上杉、その…」

 

 

 

 言葉を濁して謝罪する二人。子供の頃の一花や四葉ならまだしも二乃と三玖なら、悪気があって漁ったわけではないのだろう。

 

 何が目的かは知らないが…三玖が手に持っていたということは何かしらの意図があって探られたのだろうか。

 

 だとしたら、自然と口が開いた。

 

 それは昔と同じ。一方的に別れを告げた頃と同じように、誤魔化すことしかできない。それは偽善かつ、独善的なものだった。

 

 

 

「十年前にな」

 

「…?」

 

「甘ったれで、生意気なガキから花を貰ってよ

 枯れちまうからこうやって栞にしたんだ」

 

「!

 そ、それって――」

 

「もう十年も前の話だ」

 

「…」

 

「そいつも幼稚園だったしな」

 

「…う、うん…そうだよね

 よくあるよね!

 優しくしてくれた、好きなお兄ちゃんに…よくあることで…」

 

 

 

 突き放す言葉からの返事は躊躇いと焦りで震えていた。この場を取り持とうと必死な声のように聞こえた。

 

 やはりというか。まさかと思うが。こいつ…知ってたのか。この栞のこと。

 

 この状況が俺が想定したものよりも、いかに深刻か徐々に思い知らされていく。

 

 俺の口から栞のことまで話したつもりはないし、十年も前の出来事を当時幼稚園児だった三玖が覚えていたとは意外だ。

 

 覚えていたからといって、今では女子高生のこいつが何を思っているのか。その心情は俺にはさっぱりわからん。

 

 

 

「…二乃、ちょっと」

 

「え!? な、なによ?」

 

 

 

 この緊迫した状況で声をかけられるとは思わなかったのだろう。

 

 諦観していた二乃が素っ頓狂な声を上げているが、今は丁寧に話してやれる場合じゃない。

 

 三玖に断って、本人には声が聞こえないよう外に二乃を呼び出した。

 

 

 

「か、勝手に触ったのは謝るわ、ごめんなさい…」

 

「それはもういい」

 

 

 

 今は緊急事態だ。過去の無礼はお咎めなしでいこう。

 

 その代わり、正直に話してもらう。世話焼きの二乃なら恐らく三玖の事情にも詳しいはずだ。

 

 

 

「直球に聞くぞ、あいつ本気なのか…?」

 

「…

 何でそれを私から確認取るのよ、三玖に聞きなさい」

 

「あれにどこまで効力があるか分からないんだよ

 あいつ栞のことまで覚えてたのか」

 

「それはらいはお姉ちゃんから聞いたのよ

 …まさか本当に十年も昔のを持ってたなんてね…

 三玖も三玖よ

 まだあんたに聞いてもないのに、部屋に見当たらないからって捨てられたとか勝手に落ち込んで…」

 

 

 

 それで押入れや机の中まで探し回ってたというのか。身内に激甘な二乃ならやりかねん…特に妹に弱いしな。

 

 らいはの奴が元凶か。おのれ、あいつも子供たちから貰った似顔絵を保管していること暴露してやろうか。

 

 …あそこには俺の分もあるから無理だった。今後の付き合いを考慮すると下手に弱みを握られると関わりづらくなりそう。

 

 

 

「…余計なことを」

 

「あんたね…

 私との約束、覚えてるんでしょうね?」

 

 

 

 二乃の言う約束とは、あの旅館の温泉で交わしたものだろ。

 

 おまえが見事に自爆した珍事だったわけだしな。事件の経緯を事細かく覚えているが、余計な口を開けばまた睨まれそうだ。

 

 二乃が俺を咎める視線をぶつけてくる。当人を置いて影でこそこそと聞き出すのは趣味が悪いというか、意気地なしだ。男を見る女の目は険しく現実的だ。

 

 だが、こればかりは慎重になる。

 

 三玖を泣かせたくない。

 

 嫌でも思い出したぜ、さっきのあの顔。

 

 子供ながら健気に告白してくれた子が、背中を向けて走っていったんだ。泣きじゃくる寸前を堪えて、本気で走って逃げていった。

 

 寂しがり屋で、臆病で、ようやく心を開いて慕ってくれるようになった子が、一人隠れて泣いたんだ。俺が泣かせちまった。

 

 まだ五つ子を子供扱いしていると言われたらその通りだ。まだ再開して一月経っていない内は良くても、いずれ近い日には拒絶されるだろう。

 

 だが…やはり今だけでも。この話だけは無理だ。俺の憶測だけで三玖の心情を決めつけるには空白の十年は長すぎる。

 

 そんな弱音を二乃には看破されてしまっている。情けなく、申し訳ない。

 

 

 

「…三玖が優しい性格なのは俺も分かっている

 だがな、十年も前のガキの告白を高校生相手に掘り起こすか?

 笑い話にはなっても、変に義務感とか持たれたくねえ」

 

「十年もほったらかしにしてきたくせに…自意識過剰

 仮に思い出せたとしても、明日になればころっと忘れちゃうものよ、普通は」

 

「ぐ…」

 

「でも、三玖は違ったわ

 あんたが危惧している点は当たってる、正解よ

 あの子、この為に来たんだもの」

 

「…マジか」

 

「でもね、十年も覚えてた意味…そんくらい察しなさいよっ

 ほら、三玖がうじうじ悩み始めるから、早く戻って」

 

 

 

 覚えてた意味。意味… いやそれこそ自意識過剰って言うか。思っていた以上に好意的だったとはわかっているが…!

 

 そんな話があるか? 俺だって先生を慕うには再会してから月日が必要だった。疎ましく思ったことだってあったんだ。

 

 単なる憧れとか、それこそ義兄を慕う気持ちなんじゃないのか?

 

 疑問が膨らんでいく一方なのに、三玖が待っている部屋に戻れ、と二乃は急かして背中を押してくる。

 

 

 

「待て待て!

 おまえは知らないんだろうが、俺は恋愛とかそっち方面に関しては疎いんだっ!」

 

「…本当に彼女いないの?」

 

「いないって言っただろうが!

 お、俺が好きだったのは先生だからな!?」

 

「――

 …はぁ…もう、性質悪い」

 

「す、すまん」

 

 

 

 二乃を静止させる為に俺から心の内を暴露してしまった。もう見栄など張ってられない。

 

 あの子の真意は分からないが、それでも慕ってくれてるのは分かる。

 

 その気持ちが、再会した時からどれだけ嬉しかったか。

 

 五月も、四葉も、一花も二乃も同じだ。

 

 仮にも…おまえたちが俺を認めてくれたことは本当に嬉しかった。

 

 中でも、あの子が変わらず俺に接してくれたことは心が救われた。嬉しさを隠すのに苦労したんだぞ。

 

 だから尚更、傷つけたくない。おまえら四人には分かるだろ。今日に至るまで俺の言動に泣いたり、怒ったりしただろ。

 

 俺が三玖を傷つけてこなかったわけではない。さりとて、この一線だけは踏み越えずに、守りたい。

 

 俺の理不尽な願望に、彼女の姉は顔を手で覆って天を仰いだ。良い年した社会人の切羽詰まった物言いで、だいぶ困らせてしまったようだ。

 

 

 

「わかった…私が手伝ってあげる

 貸しよ、覚えてなさい!」

 

 

 

 やれやれ、ともはや子供をあやすかのような素振りでお許しを得た。

 

 貸しと言われ…こいつらと関わって段々と泥沼に浸かっているような気分になる。手を貸してくれるだけ喜ぶべきか。

 

 だからって何度も足を蹴らないでくれ。憤慨する次女は思っていた以上に手厳しく、優しい奴だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んじゃ、お願いね」

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 バタンと軽快にドアは閉じられ、しっかりと鍵も締められた。家主を放り出して。

 

 俺は三玖と並んで閉ざされたドアの前に棒立ちになっていた。

 

 手伝うとか言いながら、二乃から家を追い出されてしまった。しかも三玖までも巻き込んで。

 

 何を企てているのやら。二乃に手渡されたメモを開いて確認する。

 

 自由奔放な次女から買出しを頼まれたのだ。ついさっき買い物行ったんじゃないのかよおまえ…

 

 いったい何を買わせるつもりなんだか。目的地を定めるために紙を開いて目を通す。

 

 

 

「…」

 

「…?」

 

 

 

 これは三玖には見せてやれそうにない。女の子の視線をかわしてポケットにしまった。

 

 メモに書かれた品は一つだけ。それは物でも何でもない、ただのメッセージだ。

 

 それ一つで、二乃が意図しているものがわかった。

 

 だが予想外でもあった…あいつらしいとは思ったがな。

 

 

 

「ごめん」

 

「なんだ」

 

「巻き込んで、ごめん」

 

「…いいや、良い気晴らしになる

 いこうぜ三玖」

 

「う、うん」

 

 

 

 三玖を連れてエレベーターで一階へ降りる。その中に会話はなかった。

 

 バイクは使わず、ゆっくり歩いて向かおう。そのほうが落ち着いて話せるような気がする。

 

 見知らぬ土地で、三玖はどこに行くのか聞かずに俺の後ろをついてくる。

 

 果たして内心疑問に思っているのだろうか、意欲的ではない性格から人任せが主流なのか。それを問うのもどこかおこがましい。

 

 振り返って三玖の顔を見れば、俺と視線を交わさないように上げていた眼差しを逸らされる。

 

 触れれば壊れそうな繊細なものだった。穏やかな空気でも気まずく、崩れてしまうような危うさが緊張感を高めていく。

 

 教師をやって、生徒と対面した時に何度も経験していても…やはり慣れないものだ。

 

 他人を知り、導くなんて俺にはおこがましい行為だ。

 

 三玖には聞きたいことがあるのだが、今は無理そうだ。別のものではぐらかすか。

 

 

 

「四葉から話、あったのか?」

 

「え?」

 

「五月に話してたじゃねえか」

 

「あ、うん…」

 

 

 

 物静かな道中。突然声をかけられて驚いた三玖は離れていた距離を戻そうと駆け寄ってきた。

 

 自分の胸の内は語らないでくれても、姉妹の話題には臆さず会話に入ってくれる。そんな子なのはもう知っている。

 

 二乃に劣らず、三玖もまた姉妹が好きなんだろう。

 

 

 

「四葉ね、打ち明けてくれたんだ」

 

「…やっぱりおまえらも気づいてたんだな

 四葉が距離を置いてたこと」

 

「…うん

 四葉は一人でいることが多かったから…

 本当は私たちのこと嫌いなのかな…そうでもなくても、一緒にいたいとは思わないのかなって気になってたんだ」

 

 

 

 姉妹が何も言わず孤立し続けようと、それには何か事情があるんだと思えば…聞けなかったのかもしれない。

 

 それでも家族の縁は切れないから。姉妹は大切な家族の振る舞いを見守り続けていたんだろう。

 心配しているというのに、何も言わず離れていって、突き放すような言葉を傲慢と感じるだろう。

 

 それでも戻ってくればどこか寂しげで。一人ではいられない弱さから知らぬ間に寄ってくる仕草を身勝手だと感じるだろう。

 

 こいつらはよく耐えてきたと思う。それはきっと先生も同じだろう。

 

 

 

「でも違った

 四葉はお母さんを助けたくて、離れようとしてたんだよね」

 

 

 

 ようやく悩みを打ち明けてくれたことに、胸を撫で下ろした思いだったのだろう。三玖は恥ずかしげに喜びを露わにしていた。

 

 …せめて、あいつが変わった姿をあの人にも知ってもらいたかった。その喜びを一片でも感じとると、そう思ってしまう。

 

 今まで悩み抱えていた負い目を告げた不器用な四葉の優しさを、三玖は認めたようだった。

 

 きっとあいつ、泣いたんだろうな。

 

 馬鹿な奴だが…もう間違えることはないだろう。良かったな、四葉。

 

 

 

「おまえはどう思った?

 あいつのやり方、認めるか?」

 

「ううん、一花と二乃はそれが四葉の優しさだって認めてたけど…私は嫌

 私だけが知ってる四葉があるから意見が違うんだと思う

 四葉、一人で泣いてた」

 

「…」

 

「私が傍に寄っても逃げちゃうくらい追い込まれてたんだよ

 誰かに助けてほしいのに、こっちに来るなって怒ってた

 一人は辛いはずなのにね」

 

「そうか…」

 

「それって…駄目だよね

 駄目だって、言わないと

 私たちが諦めたら、本当に一人になっちゃうかもしれないんだよ

 それが一番怖かったから、私は認められない…かな」

 

「…なるほど、一つ上の姉は手厳しいな」

 

「…うん」

 

 

 

 言い合いになれば押し負けそうな三玖がまさかの粘り勝ちとは恐れ入る。頼れるお姉ちゃんじゃねえか。

 

 背後を歩いていた三玖が、気づけば隣を歩いていた。

 

 お互いに目が合い、俯いて、苦笑した。 

 

 

 

「結局良いか悪いかは…決まらなかったけど

 四葉と距離が近づいた感じはした

 変だよね、狭い家でずっと一緒に暮らしてたのに、心の距離は広かったんだ」

 

「そういうもんだろ

 確かに距離が近ければ、相手の気持ちを薄々でも察することはできるな

 …不要なもの、言ってはならないこともすぐにわかっちまう」

 

「…」

 

「だから、自分から言わなければ…それが十年以上続くこともある」

 

「そうなのかな」

 

「四葉も勇気いっただろうな」

 

「うん…私にはできない、家族相手でも言えないことはあるよ」

 

「俺もできねーな…少なくともあいつと同じ年頃ではな」

 

 

 

 あいつは俺と似ていると自ら言っていたが、もうそれは過去形であり、可能性の話になってしまった。

 

 四葉は家族と向き合った。俺がその歳の十年先やっとできたことを、あいつはやったんだ。

 

 普段能天気に笑っているのに罪な奴だ。心配かけさせやがってよ。

 

 話に夢中になっていても、夏の暑い日差しの中だ。蝉が悲鳴を上げる中で歩くには俺も三玖も苦手なほうだ。

 

 会話が弾んだが長くは続かなかった。この暑さにやられて言葉数はめっきり減った。

 

 地元のスーパーに着き、屋内のベンチに寄って三玖に声をかける。

 

 

 

「おまえ、ちょっとここで待ってろ」

 

「え な、何で? 大丈夫だよ

 買うんだよね? 籠持つ」

 

「ネタバレしたら味気なくなるからな

 休んで待ってろ」

 

 

 

 買い物は籠なんていらない量だ。手短に済ませるから、と三玖を置いていくことにする。

 

 …なのだが、ここですんなりと目を離すには一抹の不安が残る。三玖は何かと気が利くタイプだ。

 

 ここまで来てバレても面白くない。サプライズがおじゃんになれば二乃も怒りそうだし。

 

 

 

「…うん、やっぱ手伝おう」

 

「………」

 

「わぁっ!?」

 

「来るなよ?」

 

「い、いかない!」

 

 

 

 やはり付いてくる気だったようだ。戻って念押しして正解だった。

 

 影から睨んでいたのを見て三玖が飛び跳ねていたが知らん。放っておいて買い物を済ませることにする。

 

 目当てのものは見つかりはしたが、あの暑さの中再度歩くのはしんどい。少し散財することにする。

 

 昨日の五月の泊まりから冷蔵庫の中身が心許ないが、次の機会で買うことにしよう。三玖に荷物を持たせたくはない。

 

 会計を済ませて戻ると、ベンチには三玖はいなかった。

 

 まさか帰ったか。トイレか? それとも変な奴に絡まれてるのか。

 

 そんな心配は杞憂だった、日陰でも汗が滲むというのに三玖は外に出ていやがった。

 

 ヘッドホンも首にかけていれば余計に暑いだろうに。熱気の中付き添ってくれた礼をしてやろう。

 

 

 

「ひゃっ!?」

 

 

 

 ペットボトルを頬に当ててやったら、思っていたものより驚かせてしまった。

 

 少し不機嫌な顔を見せたが、俺の仕業だと知って態度を変えてしまった。もじもじと俯いていき、リアクション一つ見せて消沈していった。

 

 文句を言いたいが言えない感じか。困った奴だ。不躾な振る舞いをしでかした元凶を渡す。

 

 

 

「暑い中、文句一つ言わずに付き合ってくれた奴を労おうと思ってな」

 

「…

 素直に渡してくれればいいのに」

 

「冷たかっただろ」

 

「肝が冷えた」

 

 

 

 俺が買ってきたお茶を受け取った三玖は一口飲み、視線を戻した。

 

 何をしているのかと思えば、そこには何もない。三玖はただ青い空を見上げていた。

 

 

 

「空なんか見て何かあったか?」

 

「ふふ…

 フータローは覚えてる?」

 

「ん?」

 

「…お返し、見ててね」

 

 

 

 何だ、急に機嫌良くなりやがった。

 

 まるで待ってましたと言わんばかりの弾んだ声だった。長い前髪に隠れた肌には大粒の汗が垂れているのに。

 

 三玖は日陰を出て、日の光で焼けた駐車場のコンクリートの上に出た。

 

 道中汗をかいてぐったりしていた奴のすることじゃない。だが三玖は視線を下に下げたまま、じっと立っていた。

 

 背中がジリジリと焼けていく様を見続けて数秒後、三玖は空を見上げる。

 

 

 

「終わり」

 

「…」

 

「…わからないんだ…?」

 

「黙ったまま奇行を見せつけられてもな」

 

「…」

 

 

 

 三玖がむくれてる。この返答は相当お気に召さなかったようだ。

 

 そうやって不満を主張する様は変わらないな。

 

 

 

「マジでわからん」

 

「…だ、だったら…

 こ、これ!」

 

 

 

 俺の記憶に穴が空いていることに、じれったさに苛まされた三玖が突如接近してきた。

 

 いきなり手を取られた。謙虚な奴の急な態度の変わり様に驚いてしまい、そのまま引っ張られる。

 

 日の光が当たる場所へ連れ出されてしまい暑苦しさが増した。それでも三玖は手を離さず、思い出せと訴えている。

 

 手を繋いだまま、隣に並んだ。三玖はくっきりと写る黒い影と、俺の顔をちらちらと見ては押し黙っていた。

 

 その時、察した。

 

 

 

「ああ…やったな、影送り」

 

「…気づくの遅い」

 

「無茶言うな」

 

 

 

 こんなことまで覚えてたのか。それを教えてくれた当人が忘れていたことに、三玖はあれだけ怒ってたわけか。

 

 つい笑ってしまう。無理言うなっての。俺にとってはもう20年以上前の遊びなんだぞ。

 

 おまえに教えたのだって、たった一度切りだ。

 

 

 

「おまえな…これも覚えてたのか」

 

「…悲しいお話だった、影送りの」

 

「小学校の授業だよな」

 

「うん、悲しいけど…私は好き

 でも…授業中はフータローを思い出してた

 …学校の先生にそれを教えたら、謝ってた」

 

「それ俺死んだことになってるっ!」

 

「ふふ、でも寂しかったのは本当」

 

 

 

 暢気に笑ってんじゃねえ、誤解とはいえ人を勝手に殺すな。

 

 幼い頃のこいつが全てを口にしなくても、その教師が誤解するほど寂しがっていたと思えば…文句は言えなかった。

 

 小学校、中学校か。こいつらはどうやって学生生活を過ごしたんだろうな。

 

 五月が少し話してくれたが、母親のことを案じる中で家庭以外の悩みも沢山あったはずだ。友達だったり、学校だったり。

 

 その出来事が遠い過去として過ぎていった大人には彼らの苦悩を想像することしかできない。過去の体験と比べて子供たちを見守ることしかできない。

 

 歯がゆい気持ちになった。一緒に体験して分かち合うことで得られるものがある。

 

 それが同級生やクラスメイトであり、友達だ。しかしもはや、十年も離れちまったら話が合わないことのほうが多い。

 

 そんな歳の差で共通の話題が影送りとは。喜ばしいのか、地味で寂しいのやら。

 

 

 

「フータローのところに影送れないかなって、帰りながらやってた」

 

「本格的にお亡くなりになってるな、そいつ」

 

「そのくらい、寂しかったんだよ」

 

「…」

 

「だから…

 その、子供でも…本気だ…った…ッ!」

 

「…

 はは…そうかよ」

 

 

 

 長い髪に隠れた、力強く、その意思を知らしめる眼が俺を見上げている。

 

 再開できたその喜びを。無上の幸福と、それまでの苦しみと辛さを知れと。それを知って育った自分はもう子供じゃないと教えてくれている。

 

 いきなりとんでもないこと言ってくれるな。言葉が詰まってしまい、視線を逸らすところだった。

 

 それを許さないように、三玖は俺の手を一層強く握っていた。もう、こいつは目を伏せているだけなんだがな。

 

 無視しないでほしい。知ってほしいと痛いくらい訴えてくる。優しくも強い、細い指だった。

 

 

 

「…だから

 …だから…

 …っ…」

 

 

 

 その手も、やがて力を無くして離された。

 

 臆病な子の懸命な努力も長くは続かなかった。

 

 

 

「…侮ったつもりはねえよ、いこうぜ」

 

「え?

 あ、ま、待ってっ」

 

 

 

 子供が、子供じゃないと証明する方法は何なんだだろうな。

 

 俺にも分からない。知っていれば、十年前の俺はあの人の手を取れていただろうか。

 

 所詮背伸びでしかないと決め付けられてしまうことだ。

 

 しかし、その時に、その時にしかない今、証明しなければ求めるものを逃すことだってある。

 

 少なくとも三玖。おまえのそれに、そんなものはない。

 

 慌てて追いかけてくる三玖を待つために、俺は足を止めた。

 

 つい手を伸ばそうとしかけてやめた。子ども扱いは怒らせてしまいそうだ。

 

 もう勝手に行ったりしねえよ。そう伝えたつもりだったんだがな。

 

 だが一度手放して、手を離されてしまったら、言葉だけでは怖いと思ってしまうか。

 

 もうあの時のように、俺が三玖と手を繋ぐことはもうない。しかし、その気持ちだけは伝わってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 用事を済ませて自宅に戻ると、二乃が食事を作り終えて待っていた。

 

 待つのはいいが、待ってる間人のベットの上で携帯を弄ってるのはどうなんだ。クッションとか置いてないから寛げないんだろうけど。

 

 まぁいい、二乃の案は三玖と話しやすい場を設けるのにもってこいのものだった。感謝している。

 

 

 

「あれ、フータロー食べないの?」

 

「お仕事の話だって、先に私たちだけで食べましょ」

 

「…」

 

「…覗くんじゃないわよ?」

 

「わ、わかってるってばっ」

 

 

 

 しかし、このメモを見た時は驚きと同時に疑問もあった。あいつの好み的に当てはまるだろうが、果たしてどこまで効果があるのか。

 

 手間のかからないものだ。俺が作れる物なんて質素なものばかりだ。

 

 華のあったものなんて昔だけだ。二乃にケーキ作りを教えた頃は色々作ってやって、昔を思い出せば自然と頬が綻んでしまう。

 

 この殺風景なキッチンを見てあいつ、どう思ったんだろうな。

 

 二乃に三玖の注意を引いてもらいつつ、台所で手早く済ませる。

 

 この作業は懐かしいもので、ケーキ屋でバイトしあの家で何回か作ったものは意外と体が覚えていた。

 

 作り終えて冷蔵庫で冷やしておく。やることを終えて戻ると二人はもう昼食を食べ終えていた。

 

 

 

「悪いな、二乃」

 

「ふん…貸し二つ目よ

 って、ま、待ちなさい

 今温めるからっ」

 

 

 

 せっかく作ってもらった二乃の料理は冷えてしまっていた。構わずラップを剥がして昼食をいただくことにする。

 

 男の飯なんて雑なもんだ。俺は舌が肥えてるわけでもないし、食えればいい。

 

 それに。五月を送っていく手前でもこいつに言った通り。

 

 

 

「…上手いな、やっぱり」

 

「ぁ」

 

「…二乃の料理はおいしいから」

 

「独り身には身に染みるぜ…らいはの料理を思い出す」

 

「…温めたらもっとおいしいから

 大人しく待ってなさい」

 

 

 

 つまみ食いを叱る母親のような口調で二乃は皿を持っていってしまった。

 

 三玖は何が面白いのやら笑いを堪えていた。取り上げられて座って待つしかない俺を見て。一口食べてお預けとか酷いと思わないか。

 

 しかし温め直した二乃の料理は確かに料理人の言う通り、もっと美味しく温かいものだった。

 

 

 

「いっぱい作ったから食べて食べて」

 

「ああ」

 

「…」

 

 

 

 温かい飯を食べて、妙に生温い目で二乃に見つめられる横で…三玖の目が段々と冷めていく。

 

 二乃は暖め直そうと、もとい導火線に着火しない程度のスレスレの発言を投げかける。食事中に姉妹喧嘩だけはやめてくれよ。

 

 

 

「…ま、まぁあんたは料理壊滅的だから諦めなさい」

 

「…今それ言わなくていいよね」

 

「悔しそうにしてるのバレバレ、諦めて別の分野で目立つことね」

 

 

 

 得意不得意、そもそもの性格まで違う二人が張り合う必要はまったくないのだが、乙女心はそれを許さないか。俺は黙っておく。

 

 姉も焚き付けるように妹を煽っているし、一人で食わせてもらう。

 

 関知せずといった俺の態度に、フォローを貰えないと知った三玖は渋い顔をして俯いていく。

 

 

 

「べ、別の分野…」

 

「…」

 

「…」

 

「な、な…さそう」

 

「あ、あんたね…

 ここで退くあたりがヘタレなのよ」

 

 

 

 サレンダーした三玖に姉の心境も複雑なようで、炊きつけられたはずの三玖が即効で失速したことで取り越し苦労で終わったようだ。

 

 五つ子のそんな家庭事情を眺めつつ、上手い昼飯を食べ終え、洗い物は協力して終わらせた。

 

 この暑い季節なら洗濯物も乾きやすい。二乃と三玖が頼んでもないのにテキパキと家事を終わらせてくれた。

 

 

 

「…」

 

「…いや、回収するかスルーするかどっちなのよ

 何でガン見」

 

「に、二乃が取っておいて…」

 

「いいけど…

 ど、どうたためばいいのかしら?

 というか触っていいのかしら? スルーするのが淑女の嗜み?」

 

「二乃もガン見…」

 

「無理して手伝わなくていいからな!」

 

 

 

 手伝うのはいいがな、人の下着を見て赤面するくらいならやらないほうがマシだろ。

 

 俺だって昔おまえらの家で家事を手伝った時は、先生の物には手を出さなかったぞ。さすがに覚えてないか。

 

 四葉が引っ張り出して俺に見せびらかしたせいで、二人まとめてゲンコツ食らったがな。

 

 なので俺も制裁として二人の頭を叩いておいた。デリカシーがなかったと自覚しているのか、額を押さえつつ下がっていった。

 

 そんな賑やかな時間も過ぎた頃。いい加減当初から突っ込みたかった質問をする。

 

 

 

「で、いつ帰るの」

 

「邪魔だって言いたいの?」

 

「おまえ、今この時間も五月は勉強してるの忘れてんのか

 ここで二者面してもいいぞ」

 

「そ、それを持ち出すのは卑怯よ」

 

「わ、私もあるのそれ…」

 

「妹を見習え姉共」

 

 

 

 不真面目な姉共だ。二学期は必ず勉強に励んでもらうからな。進級できませんでしたとか目も当てられない。

 

 先生が無理してまでおまえらの入学に助力したんだしな。進級が危ぶまれていることを失念されては困る。

 

 不真面目なのは当たっていたようだ。俺を手伝うと言った二乃はベッドに腰かけて反対の意思を持って睨みつけてきた。末っ子の努力は鑑みないようだな。

 

 

 

「あーつまんないっ! せっかく遊びにきたのよ!

 おもてなしもないのかしらここは!」

 

「遊ぶもんなんてねえぞ」

 

「せっかく広い部屋借りてるのにもったいない、稼いでるんでしょ?」

 

「ただの一般教師が稼げるわけないだろ」

 

「…それは嘘、良い洋服いっぱいあった…」

 

「…」

 

「…」

 

「え、あ、ごめん、違うっ!

 ちょっと気の迷いというか、出来心で!

 勝手に覗いてごめん…っ」

 

「反省が足りてないようだな」

 

「ま、待って! 近いっ!?

 あいたたたっ!」

 

「あーあー…」

 

 

 

 開き直っていらん事言う頭を、ぐりぐりと両手の指で押し付けてやる。結構痛いぜ。

 

 手加減はしてるがな。三玖はそれを知ってか抵抗はしても逃げるつもりはなかったようだ。

 

 逃げないものだから結構長く拷問してしまった。普段なら秒速で距離を取られそうな程近くても。

 

 終わった頃には息も絶え絶えでベッドにうずくまっていた。

 

 

 

「…むっつり」

 

「うるさい…」

 

 

 

 じゃれついていた様を呆れて見ていた二乃は妹を弄りたいようで。余力を失った三玖はその挑発には乗らなかった。

 

 

 

「らいはの奴がうるさいんだ、金余らせるならってな」

 

「ほら稼いでるんじゃん!」

 

「無駄遣いしないだけだ」

 

「あんた酒とかタバコは?」

 

「酒はたまに、タバコは吸わない」

 

「タバコ吸うフータロー、似合うかも」

 

「金かかるからやだ」

 

「あんなバイク買っておいて何言ってるのかしら…」

 

 

 

 いつ帰るのか知りたかったのは本音なのに、話題を逸らされて他愛の無い話が続いた。

 

 恐らく、俺と三玖だけではここまで話せなかった。

 

 二乃が気を遣ってくれているお陰だ。この子の元気と物怖じしない物言いに助けられている。

 

 三玖も姉のありがたみを感じているのだろう。姉の不躾な態度は優しさもある。喧嘩はすれど嫌ってないのが証になる。

 

 損する性格だ。根は優しくても、あまりにもストレートで自分への敵意を物ともしない言動は時には誤解を生むし、理解してくれない人は大勢いる。

 

 俺もその一人だったわけだしな。子供の茶目っ気で許せる部分もあったが、実に生意気な子供だったと思うぞ。

 

 妹からしたら頼りになる姉なんだろうけどな。長女の一花もそう感じているはずだ。

 

 話が絶えず、日が暮れるまでこの穏やかな雰囲気を過ごすのかと思いきや、それも終わりらしい。

 

 

 

「私バイク見たい」

 

「あ?」

 

「ついでに散歩してくるわ

 駅前良いお店並んでたし」

 

「…」

 

 

 

 頼りになるとか思っていた直後に行きやがった。バトンの渡し方が思っていたよりも下手だった。

 

 まぁだいぶ時間が経った。十分だ。

 

 返事を待たずに玄関へ向かう二乃は、最後に振り返って手を振っていた。

 

 おまえの分もあるんだから、ちゃんと戻って来いよな。

 

 軽く手を振って返すと満足したようで、生意気な笑顔で二乃は出て行った。夏の昼間に外出させるとは悪いことをした。

 

 話の中心人物が欠けたことで、沈黙が生まれてしまった。

 

 居た堪れなくなった三玖は戸惑い、言葉を選んでいる。

 

 まだ話したいことがあると見て取れていたが、まだ難しいか。

 

 

 

「わ、私は…まだ」

 

「…三玖、3時だし何か食おうぜ」

 

「…う、うんっ ありがとう」

 

 

 

 終わりではなく続きがあると分かって、三玖はあからさまにほっとしていた。深い息を吐いて取り乱した胸を抑えている。

 

 謙虚は美徳だし、心優しいおまえを嫌う奴は少ないんだろうが心配になる。悪い男に絡まれなければいいんだがな。

 

 他人の言葉に一喜一憂する姿は頼りなく、気を遣わせるものだ。

 

 さっき手を繋いだ時に見せてくれた力強さも持ち合わせているのだろうが、まだ足りていない。

 

 そんな奴からどう話を聞き出すべきか。俺にはその手段は持っていなかったわけなんだが。

 

 二乃の奴にはでかい貸しができちまった。今度ケーキ作ってくれる話だが、俺が先に作ってやるべきかもな。

 

 冷蔵庫で冷やしていたものを持ってきて、テーブルではなくちゃぶ台の上にそれを置く。

 

 そのほうが話しやすいかもしれない。

 

 当時を再現する必要はないが、今求められているのはそれだと思う。

 

 三玖は俺が用意したものを見て、おずおずと手に取った。

 

 小さく質素なものだ。だが三玖の頬が和らいでいくのがわかった。

 

 

 

「…」

 

「…嫌いか?」

 

「…ううん、好き」

 

 

 

 用意したのは抹茶のムースだった。

 

 専用の容器がなかったから、小さなお椀に流して固めた不恰好なものだ。

 

 昔、初めて作った時はケーキ屋から器を借りたんだ。

 

 子供には余程綺麗に見えたことだろう。初披露した日には五月に半分食われたが、後で大喜びして食べていたのを覚えている。

 

 その再現とはいかない不恰好なものだが、三玖は喜んでくれたようだ。

 

 

 

「手作り?」

 

「安っぽいが手作りだ」

 

「でも何で私が好きなの知ってるの?

 あ、もしかして二乃から?」

 

「あ?」

 

「…え?」

 

 

 

 …なんだ、おまえ覚えてなかったか。

 

 あれだけむくれて妬いてくれたのにな。二乃とも大喧嘩して。

 

 やっぱり子供じゃねえか、都合の悪いものは忘れているようだ。つい笑っちまった。

 

 

 

「くく…

 ああ…悪い…ついな」

 

「わ、私何か変なこと…」

 

「覚えてないか、さすがに」

 

「え? ご、ごめんっ」

 

 

 

 対面に座る三玖は右往左往して謝ってくる。まったく、そうじゃない。

 

 

 

「いや、何でも覚えられてたら恐ろしいガキだとびびってたところだ

 昔作ったんだぜ、おまえ用にこれ」

 

「ほんと?」

 

「ああ、甘いの嫌いだって知ってたからな

 二乃の菓子作り手伝ってたら、甘いのは嫌いだーって拗ねやがってよ、喧嘩まで始まって」

 

「あ、ありえる…うん」

 

「だから、おまえ用がこれだった」

 

「…そっか

 これもフータローが教えてくれたんだ」

 

 

 

 まあ…五月に半分食われてたがな。半分食われて半べそかいて、先生に泣きついていたがな。良い思い出だけでは語れないのが残念だ。

 

 そういえば、五月があの特盛りパフェを四個分食った日は、自然と抹茶のデザートが渡っていたな。

 

 渡したのは確か一花だ。三玖の好きなものだったから譲ったんだろう。

 

 

 

「今更だけど不思議だった

 何で二乃は私だけに抹茶のお菓子用意してくれるのか」

 

 

 

 家族が好みを把握しているのは当然だ。長い時間一緒に過ごしているのだから。

 

 自然と貰うようになった好物の、好きになった思い出が何だったのか、三玖は合点がいったようだ。

 

 

 

「…おいしい 昔に戻ってきた感じ」

 

「おおげさだな、忘れてたくせに」

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 咎めるつもりはまったくなかったのだが…だ、黙ってしまった。失言だった。

 

 だが事実だしな…そもそも覚えてないほうが自然な成り行きだ。幼稚園児だぞ、当時は。

 

 冷房をつけたこの部屋は外よりだいぶ涼しいが…嫌な汗が流れる。

 

 訂正するか。気を悪くさせるために用意したんじゃないんだ。

 

 だが、三玖は顔を上げた。口元が少し震えているが、じっとこちらを見つめていた。

 

 

 

「…なら」

 

「…」

 

「覚えてること…言うよ」

 

「…覚えてることね」

 

「さっき私が覚えてないって分かった時

 寂しかった?」

 

 

 

 何を問うつもりなのか。三玖は俯いて、ムースから離してはその手を膝に押し当てた。

 

 寂しくはなかった。だが、残念ではあった。期待していたんだろうな、内心。仮にも手作りを振舞ったら、望む反応を求めてしまう。

 

 だが、忘れられているのが正常な結果であって。

 

 それが当たり前だと思う気持ちが、寂しかったかもな。思い出に浸ると言えば聞こえはいいが、女々しいだけだ。

 

 

 

「いや」

 

「私は辛かった」

 

「…」

 

「あの栞…

 腫れ物のように扱われた時、嫌な気持ちになった」

 

 

 

 三玖から栞を取り上げた時の、その顔を思い出した。

 

 目を見開いて驚き、俯いてしまった。明らかにショックを受けている姿だ。

 

 きっと顔を上げ続けていたら、涙が滲んでいたかもしれない。三玖は涙を隠すのが…早くて上手なのかもしれない。

 

 傷つけたことは悪いとは思っているが、あれは俺も余裕がなかった。見られたくなかったんだ。

 

 

 

「そんなつもりはなかったが、悪かった」

 

「ううん…いい

 こういう気持ちになるのは慣れた」

 

「は?」

 

 

 

 慣れたとは…俺は知らないところで三玖を傷つけてしまったのか。

 

 俺の狼狽した反応に三玖は苦笑する。長い前髪を一つ、指で掬ってぽつりぽつりと語ってくれた。

 

 

 

「小学校の頃、よくクラスメイトに言われたよ」

 

「あ、ああ…」

 

「昔はおしゃべりだった…比較的ね

 友達ができて、女の子同士だからね、好きな子の話もしたんだ

 私はフータローのことを話してた

 

 でも、私にとって普通でも、みんなは違った

 子供っぽい、無理じゃん、ブラコンだって

 馬鹿にされて悔しかった

 

 でも、一番は

 そう言われるのも仕方ないと納得して

 言い返さないで、みんなに負けちゃう自分が一番…嫌いだった」

 

 

 

 …重ね重ね思う。俺は十年前に中野先生と、その子供たちと別れてからの後は知らない。

 

 あれだけ慕ってくれた子が、周りの友達の言葉に口を閉ざしてしまう姿は見たくなかった。

 

 よく文句を言われ、こっちを見てほしい、遊んでほしいとうるさかったくらいの子が静かに口を閉ざしてしまう未来なんて。

 

 だが、やはりそうなるか。気弱な三玖が虐められるのではないかと予想もしていた。虐めとはいかずとも、願望を潰されることを。

 

 だがもしかしたら。三玖ならそんな言葉も跳ね除けてしまうかもしれないと思っていた…がな。

 

 俺があれだけ無理だって言っても聞かなかったんだからよ。

 

 人見知りだったこいつには、俺の言葉よりも周りの人間の言葉のほうが、現実を思い知らせるものだったようだ。

 

 思い出すだけでも気分が悪いのか。三玖は寒さに耐えるように両腕を抱えた。

 

 おずおずとゆっくりと語る。それが一番伝えたかったものだと、誇示するように。

 

 

 

「一番怖かったのは…

 フータローが誰かと付き合ってるんだろうなって思った時

 いつか、結婚式とか呼ばれちゃうのかなって

 フータローが幸せならいいかなって思い込ませても、嫌だったから」

 

「…本気、なのか?」

 

「…わからないよ、私もどこまでが本当の恋なのか

 だから再会しても言わないようにしてた

 このままの気持ちで伝えてもフータローを返って困らせるから」

 

「そうだな、俺も困る」

 

 

 

 答えのない問題を投げかけられても答えられない。そもそも回答を求めていないんじゃあ採点しても無駄だ。

 

 未確定のままで終わらせ、本当に好きな人が現われた時に真意が分かるのかもしれない。だったら、もうその話は終わりだ。

 

 待ち続けた先が子供の願望だった。家族愛だったとしても、俺は変わらずおまえの兄貴分でいよう。

 

 その資格があるかは…疑問だが。支えるって決めたからな。

 

 三玖には俺がどのような結果に至っても、変わらずにいることを教えようと声をかけるつもりだった。立ち上がって三玖の傍に寄った。

 

 だが、三玖の話はまだ続くようだった。

 

 自分を守っているだけだった手が、こちらに向かってくる。

 

 

 

「で、でも、これだけは誤解しないでほしいよ」

 

 

 

 捕まってしまった。手を強く握られる。

 

 同じだ。昔と同じ。

 

 私の話を聞いて。そうせがむ時は強い子だった。

 

 

 

「私は覚えてるよ、今でも」

 

「…何をだよ、また都合のいいことか?」

 

「そうだよ、私の一番好きなものだよ

 私の手を握って、困っていても笑ってくれたフータローが

 私は……」

 

 

 

 がむしゃらに掴んで、逃がさずに伝えようとする方法は幼稚か、それとも恋する乙女のそれなのか。俺にはわからない。

 

 開き直りやがったぜ、こいつ。

 

 続きを口にする勇気はまだ足りてないようだった。

 

 そこまで言ったら何が言いたいのか分かっちまうのにな。俺とてそこまで察しが悪いと見くびられては困る。

 

 だから…最後まで聞く。

 

 掴んでくる手を両手で包んでやる。三玖が恐れずに言葉を紡ぐには十分だった。

 

 

 

「…こんな何もない、落ち零れの私でも受け入れてくれるんだろうなって

 妄想でしかない希望でも、私が頑張ってこれた理由なんだ

 どんなに私が駄目な人間でも、きっと笑ってくれる

 そう思って…今まで頑張ってこれたんだよ?

 

 お母さんは病気で

 一花のように頼れる人気者になれない

 二乃みたいに得意分野があるわけでもない

 四葉を助けたくても怒られる

 五月が泣いていても慰められない

 

 それでも頑張ってきたつもり

 

 だって、お手本があったんだもん

 フータローだよ?」

 

 

 

 たった一年。まだまだ生意気で小さなガキだったおまえが何を思ったんだ。

 

 俺の知らない、お互いに知らない接点のない十年で培って得たものがある。

 

 三玖は人見知りで頼りない姿はあっても、心の優しい子だ。

 

 おまえの優しさの根源が、それだって言うのかよ。

 

 

 

「フータローは過去なんかじゃない、思い出でもずっと私の中で助けてくれた

 だから…終わって、ないんだ

 あの時からずっと、続いてるよ!」

 

「…三玖」

 

 

 

 こいつが弱いとか言った奴は誰だよ。俺だったよな。

 

 今、俺の手を掴んで、俺の甘い考えを打ち砕こうとするこいつを見て、弱いなんて言えるのかよ。

 

 真正面も良いところ。目を逸らすし、たどたどしいところもあった。ただの甘えだと分かっているんだ。

 

 それでも今この時告げるべきだと知って、こんなにも懸命になって知らしめようとする。

 

 やっぱり、勝てねえな。

 

 どんなに理由が絡んでいても、罪悪感なんて払い切れてねえのに。

 

 またこんな気持ちになれるなんてな。

 

 

 

「三玖、俺は恋愛が嫌いだ、昔からな」

 

「…」

 

「何も成らないからだ

 きっと俺は…おまえとは正反対の人間なんだろうな」

 

「そんなこと、ない」

 

「いいや…今だってな、俺はおまえらのことで悩んでいる

 そこに愛なんて紛い物を加えるなんてごめんだ」

 

「…」

 

「おまえたちを昔可愛がっていたし、今でも大事にしたい、支え続けたいと思っている

 だから…本来なら

 おまえの言うそれは、別の男がなるはずだ

 俺はおまえの背中を押す役なんだからよ」

 

 

 

 俯いてしまった三玖は、徐々に握る手を緩めていく。

 

 …回りくどいことは、もうなしだ。

 

 おまえは諦めないんだろうしな。

 

 だから、俺も本音を伝えるべきだ。

 

 

 

「それでも、おまえの本気は伝わった

 頑張ってきたんだな」

 

「…フータロー」

 

「…俺は恋愛が嫌いでも

 叶うのなら俺は、あの時の満ち足りた喜びをもう一度知りたいと願っていた」

 

「?」

 

「俺も忘れられなかったことだ

 まさか十年も、子供だったおまえが覚え続けていたなんて嬉しいに決まってるだろ」

 

 

 

 理由を明かすには恥ずかしい話だが、これもおまえに負けたせいだ。

 

 三玖の手を離し、立ち上がって向かった先。机にしまった栞を手に取った。

 

 取り出したものを見て三玖は驚いていた。

 

 赤い秋桜の花弁の栞。もう古くてくたびれてしまったものだ。

 

 もう昔のことだと教えてくれるように、色褪せてしまっている。

 

 三玖にそれを手渡す。

 

 

 

「何度か…告白されたこともある…良い奴もいた」

 

「…うん…でも断ったって聞いた

 よかった」

 

「無責任な奴だ、全然よくねえよ」

 

「え?」

 

「告白なんて、そんなものを聞く度に毎回思い出しちまうんだよ

 無理だっつってんのに、顔真っ赤にして花を手に告白してくれた子供をな」

 

 

 

 先生を好きな気持ちは本当だ。だがそれ以前に、選べなかった。

 

 三玖は目を見開いて、栞を見やって…涙を隠さずに雫となっていく。

 

 

 

「あれと比べたら…付き合えるわけねえだろ

 あんな素敵な女の子を越えた大人はいなかった

 幼稚園児以下だ、笑っちまうよな」

 

 

 

 花を手に、なんて男がプロポーズする時くらいだぜ。おまえは知らずにやったんだろうがな。

 

 顔に向けられた赤い花の奥に、それ以上に顔を真っ赤にしている子供が、やはり好きだった。

 

 こればかりは恨ませてもらうぜ三玖。子供のくせに生意気だ。

 

 もう忘れられていると思った。語るのも憚られる思い出だったんだ…今こうして話せた。

 

 それは本当に幸せなことで、それを繋ぎとめてくれたのはこの子が思い続けてくれたお陰だ。

 

 三玖から栞を受け取る。

 

 三玖は手で目元を覆って泣いていた。涙と鼻水でもう話せそうにない。

 

 今までどんなに辛いことがあっても、変わらず忘れなかったことが実った時、なのかもな。

 

 

 

「だから、これは俺の宝物なんだ

 ありがとな、三玖」

 

「…うんっ」

 

 

 

 その返事だけで限界のようだ。嗚咽が零れて三玖は泣き崩れてしまった。

 

 耐えてきた、なんて一言では終われないんだろうな。

 

 忘れないなんて到底できることじゃない。

 

 気持ちだけでは無理なはずだ。だからきっと探したんだろうな。思い続けられる何かを。地道で答えのない問いに諦めず探し続けていたんだ。

 

 俺とは違う。だからこの子の努力が計り知れず、胸が温かくなる。

 

 泣く三玖の頭を抱える。抱き寄せれば、背中に手が回りしがみつかれた。

 

 

 

「泣き虫だな、三玖

 …心配だったんだ、ずっとよ」

 

「うん…うん…っ

 でも…フータローが優しくしてくれたから

 私の手を取ってくれたから

 大丈夫だよ…」

 

「…まったく」

 

 

 

 全然大丈夫じゃなかったくせに。今も泣いている理由を問えば、三玖は笑って誤魔化すだろう。

 

 今は、顔を見られたくない。

 

 掛け替えのない大切な思い出だと教えてくれた。そして今それが実ったことに泣いてくれている。

 

 求められることを望んでいた俺にとって…救いでもあった。

 

 だが。

 

 その結果が、今の俺だ。

 

 今はこの子にとって優しい時間であってほしい。そうするべきだ。

 

 約束を覚えてくれて嬉しかった、それは本心だ。

 

 俺だけが大事に思っていたなんて寂しかった、それが本音だ。

 

 だが、そんな大切な思い出を台無しにしてしまった。

 

 あいつが好きになった男が、己の母親含め家族を不幸にした。そんな馬鹿な話があるかよ。

 

 

 

「泣くな、三玖」

 

 

 

 報われないな、つくづく。

 

 馬鹿げてるぜ…こんなの。

 

 何でよりによって、三玖を巻き込んじまったんだ。

 

 こんなはずじゃなかった…もう飽きたぜ、こんな気持ちはよ。

 

 親父と話をして割り切ったつもりでも、自分の汚点などいくらでもある 見つける度にこうして心を病ませるのか。

 

 そんな人間があいつらを支えられるのか。妹を守れるのか。親父に恩返しできるのか。

 

 …やめよう。今は子供たちに尽くしていたい。三玖の涙が止まればそれでいい。

 

 思い出を守るように、そっと子供を抱きしめる。子供が泣き止むまで傍に寄り沿うのが優しさだから、そうするだけ。

 

 だが、子供は人の気持ちに敏感なものだ。

 

 無理をしているなんて容易く見破られる。

 

 全てを知っているわけがないだろうに。

 

 

 

「フータロー…」

 

 

 

 泣き止んだ三玖はしばらく離してくれなかった。

 

 その手は幼いものではなく、泣かないでと何かを癒すような、そんな手だった。

 

 もしもその手がこの先も在り続けるのだとしたら、俺はもしかしたら…しかし、そんな弱い人間でありたくない。

 

 いつか求められる人間になる。

 

 その相手は誰なのか。明確な答えが分からなければ実ることなく永遠と迷い続け…また手の平から逃してしまうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日で夏休みが終わってしまいます。

 

 最後の夏休みというのは毎年虚しい気持ちにさせられます。

 

 夏が終わる、学校が始まる、クラスメイトに会える、秋は涼しくて美味しいものがいっぱい。

 

 お母さんが、また働く。

 

 どんなに辛くても弱音なんて吐かないから…

 

 

 

「明日は始業式かー

 登校日行かなかったし、みんな元気してるかなー」

 

「…なんか言われるのかな、私たちのこと…」

 

「学校には伝わってるもの、言われるに決まってるわ

 というか下手したら朝礼でお母さんのこと言われるわ」

 

「五月は課題やってるけど、本当に出さなくていいのかな?

 お母さんいなくなったからって、不真面目だーって」

 

「どうせ出しても出さなくても陰口あるわよ、きっと」

 

「あー…その時は上杉さん呼びたいかも」

 

「なんで?」

 

「鬼になってくれるって、お爺ちゃんにも宣言してた」

 

「鬼…」

 

「血を見そうなレベルね」

 

「やめなさいって」

 

 

 

 もう随分と慣れてきた新たな生活。

 

 朝食をみんなで、この五人で取る大切さを改めて実感します。

 

 上杉君とのご飯も良いものですが、やっぱり大勢で食べたいと思うのは贅沢でしょうか。

 

 …一番は、ここに上杉君が一緒にいることでしょうか。

 

 これでは…ただの甘えん坊ですね。

 

 

 

「あー みんなは気楽でいいなー

 私なんてフータロー君と面談あるから成績面は憂鬱」

 

「しっかり揉まれてきなさい」

 

「手料理でポイント稼ごうなんて、姑息な人に言われたくないなー」

 

「人並み以下だからって僻まないでくれる?」

 

「はい! 私の朝食のポイントはいかがでしょう!」

 

「雑」

 

「ポイント制じゃなかったっけ!?

 ブルジョワだよぉ! 二乃が穢れてる!」

 

「失敬ね! 贅沢してるのはみんなもでしょ! こんな冷房ガンガンつけて!」

 

「おにぎり美味しい…」

 

「うんうん、五月ちゃんが無言でばくばく食べてるから100点だよ」

 

「…少なすぎるから0点よ、私たちの分なくなってるじゃない」

 

「五月ぃ…!」

 

 

 

 四葉に肩を揺らされてから気づく。なぜ指がお米だらけなのでしょうか。

 

 考え事のあまり、私は無我夢中でおにぎりを頬張っていたようです。みんなに呆れられてしまいました…ごめんなさい。

 

 肉まんおばけだとか、一緒に走ろうだとか…色々と騒がしくなりましたが、もういいです。私太ってません。

 

 太っていないと、上杉君からもお墨付きを頂いたと言ったら三玖に睨まれてしまいました。き、昨日はちゃんとお話はできたのでしょうか…

 

 …

 

 …結局、あの喪失感は薄れてしまった。

 

 明日は二学期で、この夏休みで亡くなった母に悲しんで泣くことは…もうなさそうです。

 

 来月はお母さんのお墓を用意する予定です。上杉君も手伝ってくれると言っていますし、あの人にもまた会えます。

 

 寂しいことはもうなさそうです。お母さん。

 

 ですが、気がかりがないわけではありません。

 

 

 

「…今年の夏は海とかお祭りいけなかったね」

 

「…そうですね、お祭り…」

 

 

 

 あえて触れなかった話でしたが、やはり気になりますよね。四葉が惜しむように告げました。

 

 食事を終えて、特に今日の予定もないこの日は家族全員で過ごせるようでした。

 

 リビングのソファに座り、弧を描くように集まる。

 

 

 

「毎年行ってたのにね

 お母さんの好きな打ち上げ花火、見せたかったな」

 

「残念だけどね…来年は行こっか

 でないと、寂しいしね」

 

「賛成、毎年欠かさず行きましょ」

 

「うん」

 

「うんうんっ

 その時は上杉さんも」

 

 

 

 あの人は渋るでしょうが、お願いすれば来てくれるでしょう。

 

 約束すれば、守ってくれる方ですから。

 

 そんな四葉の意見に私と一花は頷いても、他の二人は違う様子でした。

 

 昨日、彼の家にいた二乃と三玖でした。

 

 

 

「あー…」

 

「…」

 

「…え?

 嫌だった?」

 

「嫌じゃないけど…どうかしらね」

 

「…フータローとはもう、お母さんの話はできないかもしれない

 お祭りもきっと…」

 

「ええええっ!?」

 

「フータロー君、どうしたの?

 やっぱり、お母さんのこと気にしてる?」

 

 

 

 一昨日、上杉君がこの場で告白した内容は私たちにとって到底認め難いものでした。

 

 母が彼を恨んでいる。

 

 そんなこと言わないでほしい。それは…侮蔑ですよ、上杉君。

 

 ですが、それを口にするのは無理だった。

 

 あの人を見て、その背中と…あの電車で見た儚い笑みが母を連想して、言えなかった。

 

 上杉君とお母さんは…似ていますね。真面目で頭良くて、私たち姉妹のことを理解してくれて…自分のことは二の次。

 

 

 

「三玖と何かあったのか知らないけど、あの後の上杉は酷かったわ

 無理をしているのバレバレ、そう見られてると知ってても治せなかったんでしょうね」

 

「…お母さんみたいだった

 だから、言えなかったよ…言っても逆に傷つけるかもしれないから」

 

「…」

 

「…お母さんに似てるか…

 そう言われちゃうとね…昔からだよ、それ言ったらさ…」

 

「…結局、私たちが子供なだけなんですよ

 母の次に守ってくれる人が、私たちのお兄ちゃんと…お姉ちゃんなのですから」

 

「私たちが変わらないと…繰り返すのかな?」

 

「四葉の話ほどじゃないけれど、そうなるわよ

 だってここだってそうじゃない、高いお金払って、その必要はないわよね?

 でも、今の私たちは大人に文句なんて言えないわ、ただ守られてるだけだもの」

 

「…でもさ…私たちが働くって言ってもあの人認めないんだよ

 お母さんと一緒に苦しい思いをしてきたから、私たちを幸せにしたいって気持ちで認めてくれない

 だからあんなこと言っちゃったのかなぁ…悪いのは自分なんだって

 人の母親薄情者にしないでほしいよ」

 

「…たぶんそうじゃないんだよ

 そう思わないともう何もできなくなっちゃうんだよ

 私たちもそうだったじゃん」

 

 

 

 優しさが、そうさせてくれない。背伸びすらさせてくれないのですか。

 

 私たちが優しくしようとすれば、あの人は足りていなかったと自分を責める。母のように。

 

 優しさが優しさを否定する。そんなつもりはないのに。

 

 もう、私たちは間違ってはいけない。

 

 上杉君が死んでしまったら。そんなこと、想像したくない。

 

 考えたくない。私がまだあの時のまま、母に見送られて学校へ向かう頃と何も成長していない証拠です。

 

 先に追いやって、先へ先へ。今日は昨日と同じだと思っていたら、あの日で終わってしまったのですから。

 

 

 

「…お祭りはいいとして…

 五月ちゃんさ、フータロー君にあれ渡してないでしょ」

 

「あれ? ハンカチですか?」

 

「ハンカチ?

 いやいや、そうじゃなくてあの紙袋」

 

「紙…ああああああっ!!?」

 

 

 

 あぁああっ あの紙袋!

 

 そうでした…私の部屋に置きっぱなしです!

 

 お爺ちゃんから手渡された大切な物です。忘れてましたでは許される物ではないのに!

 

 …わ、忘れてました…ごめんなさい。

 

 

 

「もー、てっきり渡すために泊まったのかと思ってたのに」

 

「べ、別件です…

 ああ…そうです…二学期始まる前にお渡ししなくてはと思っていたのに

 ど、どうしましょう!」

 

「郵送すればいいじゃない」

 

「冗談ですよね!?

 これ、お母さんからの贈り物かもしれないんですよ!」

 

「だったら忘れるんじゃないわよ

 それに、ママと決まったわけじゃないでしょ」

 

「…でも、たぶんお母さんだよ」

 

 

 

 話も話なので、自室からあの紙袋を持ち出す。

 

 古い材質で、揺らすと中から軽い音がする。

 

 何が入っているのかは、私たちは知りません。

 

 紙袋の開け口が一度は開かれているのは分かります。もう黄ばんでしまった古いテーブがそう教えてくれます。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「今は無理、渡せない…」

 

「ええ、私も反対」

 

 

 

 三玖と二乃はやはり意見は変わらないようでした。あの人にこれ以上母に関する後悔から負担をかけたくないのでしょう。

 

 夏休みは今日で終わる。

 

 明日からは私たちも二学期で、上杉君は教職のお仕事です。

 

 忙しくなるのでしょう。私たちともあまり会えないと言っていたのです。それ以前に彼の家はやはり遠い…

 

 …ですが、彼も言っていたじゃないですか。

 

 

 

「…上杉君は二学期前に話をつけるために一昨日話してくれたのですよ

 でしたら、私たちも」

 

「きっと時間が経てば…戻ると思う」

 

「…」

 

「…ごめん

 お母さんの後にそれは納得できないなー

 だってそうでしょ?

 いつか良くなる…そう勝手に思い込んで…お母さんはいなくなっちゃったんだよ」

 

「お母さんとフータローは違う!」

 

「病気じゃないんだし、疲れてるだけよ

 誰だって不機嫌になるし、感情的になるじゃない」

 

「病気じゃないから?

 違うでしょ、私たちがお母さんにしてきたことはさ

 辛そうにしてたら助けたいって、それだけじゃん

 でも足りなかった、あれをやれば変わってた…なんて後悔、もう沢山だよ私…」

 

「…」

 

「…失敗したからこうなったんじゃない」

 

 

 

 一花と二乃の意見が対立し、どちらも譲る気配はありません。

 

 二人共考えていることは同じ。もう失敗は許されない。

 

 それは分かっています。二乃の気持ちも、三玖の気持ちもそれが正解なのでしょう。

 

 でも、正解でも間違いでも…やらずに終わったら何も残りません。掴んだ気になっても空っぽなんです。

 

 正解なんてわかりません。でも、あの人とまた手は繋ぎたいと思うのです。

 

 

 

「もし、本当に上杉君が困っているのなら私たちにできることがあるはずです」

 

「そんなギャンブルでもして、取り返しがつかなくなってもいいって言うの?」

 

「…

 三玖は 言ってくれましたよね」

 

「…む…」

 

「私は一花と四葉に賛成します

 3対2です、多数決で可決ですね」

 

「五月ちゃん…」

 

「うん、うんっ」

 

「ま、待ちなさいよ!

 何を言うのか決めてるの? 私たちがいくら違うって言っても認めないのよ!?

 慰めなんかじゃなくて事実を知りたいのに

 こんな、馬鹿な私たちに何が」

 

 

 

 …やはり二乃は、口では彼を貶しても…案外彼を頼りにしていたのですね。

 

 もしかしたら上杉君を一度責め立ててしまったことに負い目を感じているのかもしれません。

 

 ですが二乃…昨日、あの人が教えてくれたことです。

 

 

 

「賢くなくても、いいんです

 もう私は間違えたくない…だから、行きます」

 

 

 

 勇気が足りないのなら私が前を歩きます。

 

 それで家族が救われるのなら、私は道化にでもなりましょう。

 

 家族から否定されようと、上杉君本人から咎められ嫌われようと、私はその時求めた意志と気持ちを裏切りはしません。

 

 改め、次の糧にしたとしても、その気持ちを忘れはしません。

 

 それに、何も得られないわけではないのです。

 

 もう一度と願ってしまう。きっと、みんなも知ったら求めてしまうと思う。

 

 忘れかけてしまった大切な気持ちを。あの人はね、私の手を握って教えてくれたんだよ。

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