最期に会えるかもしれない
爺さんから教えてもらったこの言葉が頭から離れない。
容易に想像がついてしまうんだ。
あの人のことだ。笑われてしまうんじゃないかと。はぐらかして寂しく笑うんだ。
きっと、もう限界だったんだろうな。
体を休めたくても子供たちは高校受験が控えている時期。弱みなど見せてはいけなかったはずだ。
少しでも弱さが露わになってしまった結果、優しい一花を突き動かすことになってしまったんだろうな。
中学を卒業したら働いて稼ぐ。あの子の優しさに、より一層努力しなければと自分を責め立てたんじゃないか。
だとしたら本当に…どうしようもない人だ。
愛すべき人だ。もし倒れてしまう程辛かったのなら助けてあげないといけなかった。
昔、世話になった恩師なんだ。
他人を見下し疎んでいた。そんな奴の手を取って、優しいと言ってくれた。
おかしいと思うだろ。でも、その言葉でそいつはどれだけ救われたか。
己を振り返らず指を指して陰口を叩くのは一人前。不出来を笑い夢を笑う。見下していなければ己が居心地の良い居場所を見つけられない。
そんな奴らが嫌いで、俺の周りはそんな奴らばかりで、心底他人が嫌いだった。
そう、思い込んでいた。そのほうが楽だったからだ。
何でそこまで変わってしまったのか。
こんなはずじゃなかったんだ…本当に、俺はどこで間違えてしまったんだ。
お袋が死んだ時か?
一人でいることが寂しく、求めてばかりの弱い心を殺すべく、母の写真立てを倒した時からか。
あの京都の修学旅行で自分が不要な存在だと知って逃げた時からか。
先生と会った時か?
あの人に憧れたんだ。あんな大人になりたいと、家族を支え誰かから求められる、そんな人間になりたいと思ったからか。
………
それ以降は間違えてばかりだ。
できもしないことを目標に掲げて、進歩の遅い自分の足の遅さが泣きたくなる程腹立った。
クラスの奴らのあの目が、見下して、できもしないと陰口ばかり叩く奴らに、血が滲む程悔しかった。
目的が変わってしまったんだ。結局俺は弱くて、変わっちまった。
もしあの時に、先生のことを少しでも思い出せれば違っていたんだろうな。
写真でもよ、撮っておけばさ。
きっと、あの人の顔を思い出したらあんな無様な真似できなかったろうな。
先生、俺にはもう貴方を慕う資格はねえんだろうな。
最期に会えるかもしれない。そんな願いも叶えられなかった俺に。
どうして今更。
十年振りに会った四葉や五月、三玖。あいつらを放っておけるわけがなく、ただ夢中になっていた。
3人だけじゃない。一花と二乃との話もあった。もう引き下がることは許されない。
今までは後ろめたさを抱えながらも、責任感とあいつらを気に入っている願望から子供たちに接してきた。
あいつらに偉そうな言動を振舞っていた自分が、日に日にどこかおかしくなっていると感じてならなかった。
その違和感は拭えないまま。先日の三玖との一件から胸が騒いで収まらないまま…今日を迎えた。
「聞いてる、お兄ちゃん?」
「ああ…」
「…もうっ 明日から二学期、お兄ちゃんも仕事であの子たちも学校!
お休みしか会えないんだから、やり残したことない? 私やるよ?」
夏休み最後のこの日、妹が心配して電話してきた。
「あいつらから話はあったのか」
「うーん、特別なことはないかな
メールとか電話で毎日話してるけど…学校で何か言われないか怖いって」
「だろうな」
「とりあえずお兄ちゃんの武勇伝言っといた」
「どこ情報だそれ」
「お父さん」
「ろくでもないな…」
母が亡くなった頃って俺が相当荒れてた時期じゃねえかそれ。やめてほしい。マジで。
…まあ、人を見下すよりはマシか。懸念のあった四葉が家族と向き合った今、もう俺の助言は不要だろう。
「お兄ちゃんは?」
「…あ?」
「…たぶんみんな言ってないんだろうね」
「…」
「日に日に疲れてるんじゃないかって」
「そんなやわな体してない」
「そうじゃないよ…だってお兄ちゃん、あれから一度も泣いてないんでしょ?
お父さんも心配してたんだよ、好きなのに泣けないのかって」
そういえば…らいはに最初言われたな。泣けとかどうの。
今思うと、それも大事なのかもな。
あの人も泣けなかったしな。子供の前というものは弱い人間でも鼓舞させてしまう。
「…泣いたから大丈夫だ」
「嘘だっ お兄ちゃん絶対人前で泣かないでしょ
お父さんが謝ってた そう育てた責任があるって」
「そんな大層なもんじゃない
ありがとな…気、楽になった」
妹に心配される兄とは、不甲斐ない人間でしかない。
しかし、嫌われていないだけ上々だ。
小学生の頃から家事を担って、俺と親父を支えてくれた。
心優しく、妹であってくれて幸せだったと断言できる、大切な家族。
…らいはにしてやれたことは、本当に少ない。
「…
お兄ちゃんはずっと一人だ
家族がいても、どこか距離置いてさ」
…それは後ろめたさがあったから。
親父を見下していた。
おまえにも…悪いことをした。
四葉にも教えてやれるかもな。もしかしたらありえた一つの未来として。
結局一人でいても、家族には迷惑かけちまうんだよ。
四葉は家族に言ったんだ、俺が隠し通すなんて、そのような卑怯なことはできない。
言ったところで…また、困らせちまうんだろうけどな。
「らいは」
「何さ…」
「ごめんな」
「…?」
「昔、怖がらせたよな」
おまえは幼くても覚えてないだろうが、あったんだ。
「あの狭い家で一緒にいながら、こっちを見るおまえを無視して勉強ばかりしていた
まだ小さいおまえは、もっと甘えたかったんだろう
いつの間にかいなくなったおまえが…風呂場で一人で泣いているのを見て後悔した」
「…」
「…何もしてやれなかった…すまん」
「あはは…なんだそんなこと…
覚えてないや」
「…」
「でもね、そんなこと忘れちゃうぐらい、お兄ちゃんが優しいの知ってるもん
いっぱい、いっぱい家族の為に頑張ってくれたんだもん
嫌いにならないよ」
「…ああ、ありがとう」
「だから、私たちを安心させるくらい幸せになってよね!」
「善処する」
「もうっ! 真面目に考えてよ!」
嫌いにならない、か。その言葉がどれほど胸を温かく、恥じらいを得てしまうのか。
妹のお怒りを聞いて、電話は終わった。
俺は昔、泣いている妹を抱きしめることもできなかったんだ。
泣いても意味がないと知っているのは、あの子なんだ…
普段めったに泣かないあいつは本当に、優しい妹だ。
昨日は賑やかだったが、どうも暗く感じる…この家は。
「家族の為だとか、そうじゃないんだ、らいは」
思っただけで俺は結果は出せていないんだ。
親父に謝りはしたが、それだって30歳手前になってようやくだ。
酷い大人だ。いや、子供か。親不孝者だ。
恩返し、どうっすかな…
何がしたくて、こうなったのかもう分からなくなってきたぜ。
必要とされる人間になる それがきっかけだった。
だがそれは…酷く曖昧で何度も間違えてきた。こんな夢持たないほうが幸せだったかもしれない。
先生と一緒にいたあの一年は、その意識を改める機会が多かった気がする。
あの人から離れて、一人で過ごしていくこの時間はそういったものは少なかった気がする。
仕事を順調にこなしたり、生徒から感謝されることに達成感はあっても、それが俺のしたいことではないんだ。
俺は利己的な人間だから、他人の声ややり甲斐とか、そんなものを求めていたんじゃない。
何が欲しかったんだろうな。
必要とされる人間。誰かの為に努力する人間はそう成れると教えられたが。
結局、人の心を慮れない。やり方がわからない不出来な俺にはこんな結末がお似合いか。
インターホンが鳴った。
「…」
今日は誰かと話す気にはもうなれない 無視した。
しばらくすると、けたましいほどにインターホンが連打された。驚きはあったが鬱陶しさが増していくほうが強い。
…もしや、と予感はあった。だからドアを開ける前に身だしなみを確認してから出た。
「…」
文句でも言ってやろうかと思った。
なにせ五人も同じ顔が勢ぞろいしていて、突然の来訪だったから。五人も招き入れるほど広い部屋ではないのだ。
…やはりなと苦笑したところで、彼女たちの姿に驚かされた。
「ど、どうでしょうか…上杉君」
「お祭りですよ上杉さーん!」
「…」
「相変わらず辛気臭い顔してるわね、明日仕事でしょ?」
「ふふん、お子様って評価もちょっとは改めたくなったかな?」
「…まぁ…似合うんじゃねーの」
灰色しか残されていなかった世界を吹き飛ばすほどの鮮やかな色だった。
日暮れとなったこの時間の来客は、弾けるかのように色鮮やかな浴衣で着飾って、夕日が差すと淡い色味も見えて…綺麗だった。
だが、浴衣を着る五人に驚く間もなく子供たちは詰めよってくる。お淑やかさは見られないようだな。
そして先から口を利かない三玖が何やらうずくまっている姿が目立つのだが。
「どうした、三玖」
「あはは、悪いけどちょっと休ませてあげて」
「いい…歩きすぎて、足痛いだけ」
「…ちょっと待ってろ」
自宅からここまで来たんだろう。だとしたら電車含めて大体1時間半。慣れない下駄を履いていたらもっとかかるか。
そこまでして来る理由は何なのか。やってることはシンプルながら分かりづらいものだった。
祭りと聞いて、誘われていることはすぐに察した。
あまり気乗りしなかったが、そこまでして来てくれたことに申し訳なさもある。
部屋からハンカチを取り出して、ついでに湿布も持っていく。鼻緒の痛みだけではなく、かかとや足首も痛めやすいからな。
「これでどうだ」
「…だいぶ楽になった」
「そうか」
適当に処置を施すと四人からの視線が生優しくて居心地が悪かった。やっぱりここは俺の居場所じゃねーな。女子に囲まれるなんて面倒でしかない。
他人にお節介を焼くような性格ではないんだ俺は、本来。なぜこうも…五つ子相手には調子が狂うんだ。
延々と悩んでるのも馬鹿馬鹿しい。五人がここまで来た理由を聞こう。
浴衣を羽織ってる時点でこの後の予定は嫌でも分かるがな。
「祭りか
結局行くのか 夏休み最終日に」
「毎年行ってたしね」
「楽しい思い出を作りましょうってことで急遽開催です」
「お母さんはもういませんが…それでも行くべきだと話し合いました」
「話し合いというか…ほぼ五月の強行…」
「すみません…」
「…まあ、息抜きには調度いいんじゃない
あんたにとっても」
主犯はわかった。昨日あんな別れ方をしてよく来れたなと二乃と三玖に疑問があったが、そういうことか。妹にゴリ押しされたらしい。
…まぁあんな終わり方で二学期に入るのも俺の印象が悪いままだ。五月の提案には感謝するべきだな。
「今日やってるところあるのか?」
「隣町、一昨日と昨日に続いてやってるんですよ
今日が最終日です」
「ああ…あれか」
先日、四葉と帰ったあの時の一行か。
地元で祭りが開かれているのなら、遠出せずに楽しめるのなら行かない手はないだろう。祭り好きなら尚更。
ということはだ。完全に遠回りしてきたわけだこいつらは。誘うならメールでも良いってのに。俺が断るの知って直接来やがったな。
「上杉、デートよ」
「は?」
「両手に花が五つ、良いご身分じゃない」
「引率の間違い――いてっ!!」
「誘ったんだからあんたは来ればいいの
さもないとお爺ちゃんに言うわよ」
「引率に違いねえじゃねえか…」
二乃にまた足を蹴られた。下駄だと昨日ほどの痛みはないが音がうるさい。
大げさなお誘いの仕方に姉妹からの躊躇いはなく、一緒に行こうとじっと見つめて待ってくれている。
こいつらの策略通りというのも癪だが。遠いところから来てもらって断れる理由もない。
「…仕方ない、行くとするか」
見に行くか。先生の好きな花火。
祭りで一際乗客が増えた電車の中で揺らされて、祭りの場に着いた頃にはもう20時頃だった。
「時間的にあまり遊べないわね」
「うーん、明日のこともあるし
フータロー君なんて遠いし、一時間が限界かな」
「俺のことは気にするな
帰って寝るだけだし」
「ああ、そっか 先生がいるから夜遅くても補導されないのね」
「今更かよ」
「お、お腹空きました…」
「人いっぱい…買えるかな」
「私に任せて!」
手間をかけさせてしまったせいで、時間はあまり残されていないか。
まぁ好きなものを食って花火見て終わりと考えたら調度いいだろう。明日は学校が始まるのだから夜更かしなど厳禁だ。
空腹を堪えている五月が先からずっと唸ってるし、さっそく回るとしよう。この時間になれば俺も腹が減った。
「何食いたいんだ、せっかくだから奢るぞ」
「嫌よ、この前みたいに根に持たれても困るし」
「同感です! 散々言われてきましたから」
「あれと一緒にしてんじゃねえぞ! パフェより遥かに安いからサービスしてやる」
「ここは大人な上杉さんに甘えましょう」
「四葉の扱い方もどうかと思うけどね」
「嫌な女になっちゃいそう…」
五人も同行者が揃っているとめっちゃ騒がしい。テンションも高くて一人一人を相手してられない。
三玖だけだぞ大人しいのは。後で抹茶のかき氷でも奢ってやろう。
食いたいものを聞きたいというのに脱線しかける五つ子に再度質問する。
「で、何食いたいんだおまえら」
「…人形飴」
「焼きそばでしょう!」
「かき氷~」
「リンゴ飴」
「チョコバナナ!」
「後1時間しかねえって言ってたよな、まとめてくれ」
「全部買いに行こーっ!」
「…」
制限時間があるというのに協調性のない奴らめ。本当に五つ子かおまえら。
結局目当ての屋台を見つけたら駆けつけるはめになった。目と鼻が効く四葉について回っていくとスムーズに目当ての品を回収できた。
しかし祭りとなれば人気のメニューは行列ができてしまう。貴重な時間を待ち時間に費やすわけにはいかず。
空いているほうを探せ、と命令すれば五つ子たちは声を弾ませて走り回っていた。
そんな忙しない中でも、こいつらは楽しそうに声をかけてくる。
「せんせーは成績と青春どっちを重んじるのかなー」
「急になんだ」
「カップルが多いなーと思って」
「…勉強に決まってるだろ」
「…比率は…?」
「10:0」
「…極端すぎませんか、せんせ」
「あんたと同じ学校じゃなくて良かったわ」
冴えない男だと、つまらなさそうに見返してくる一花と二乃はちょっと生意気が過ぎる。教師に何を期待しているんだね、君たち。
おまえらの成績を思い返してみろよ。成績不良に悩む五月が姉たちの高校生スタイルに居た堪れないような顔してるんだが。
「まぁ…あれだ、俺の考えを押しつけるつもりはないが聞け
恋愛ばかりで試験を疎かにするのなら指導するが…高校、大学で一度は恋愛を経験しておいたほうがいい」
「れ、恋愛を推奨するのですかっ?」
「フータローがそんなこと言うなんて予想外」
「生粋の堅物だと思ってたけど、違うのね」
「うんうん、柔軟な考えを持ってらっしゃる先生は好感度高いよー」
「うーん、意外かな?
私は上杉さんは恋愛OKだと思ってたけど」
「…フータローは遊ばない人だと思う」
「そうじゃなくてっ
上杉さんは高校生の時、お母さんに恋してたじゃん!」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…
今のは…模範的な高校生の恋愛を例にしたかっただけで」
「何で先公と生徒のを例にしたんだてめえ、恋とかじゃねーし
おまえの黒歴史この場で掘り起こすぞ」
「ご、ごめんなさい…っ」
恋愛しろと推奨はすれど、教師としようなんて考えるなよ。あくまで一般的な範囲でだ。
勝手に自爆されて飛び火が飛んで来る身にもなれ。地雷を踏んで慌てる四葉の横で、三玖の顔が渋くなっていって冷や汗が流れる。
恋を勧められることに嫌な気持ちでもあるのか。一応補足しておくか。
「俺がどうこうじゃねー
大人になってからじゃミスの重みが違うんだよ
一度も恋愛したことねえ奴が、毎日忙しい社会人になってから経験しても失敗したり、失敗しなくても上手くいかないことなんてある
落ち度はねえってのに破綻に落ち込んで、人生悲観する奴が多いんだよ
高校で耐性付けとけって話だ」
「なんか冷めてる」
「何で振られる前提なのかしら」
「勉強になる、立派な教えだと思う」
「完全に初恋が実らなかった人の考えだよぉ…」
「…
五月、四葉の口塞いでおけ」
「はい!」
「むぐぐっ!」
「…四葉って構ってほしいから失礼な言動を取るのかな」
「違いない」
はしゃぎ回って、絶えない騒動に五つ子は屋台の食べ物を堪能する、楽しそうで何よりだ。だが、しばらくは四葉とは思い出話はNGだ。
口元を覆われて、逃れようと走る四葉を眺めていた一花は自虐するように笑っていた。
「…やっぱり根っこは甘えん坊なんだよね、四葉…」
「…
ううん、あれはフータローに限ったものだから
昔からそう」
「そう?」
「だって私が四葉と初めて喧嘩したのはフータローの取り合いになったからだよ」
「そんなことあった?
…そっか」
姉としては、無理をしていた妹の振る舞いは複雑だったようだ。
姉として家族をより良い方向へ導こうとする時、妹を優しく見守ることもあれば、厳しく叱るべき時もあっただろう。一花がどれほど悩んでいたか。
そんな妹は暢気に走り回っている。これが人込みで溢れた状況だったら迷子になっていたところだ。
3日目となるとこの祭りも人が少なくなるのか。昔見たものとは違う場所だからか。思っていたより空いていた。屋台も数は減って、一つ一つの屋台に人が集っている印象だった。
知名度は低い祭りは年々規模が小さくなっていると聞く。仕方のないことか。
だから、この事情も致し方ないことだ。
「…花火ないのか」
三日目の今日は打ち上げ花火はないそうだ。焼きそばの屋台の人から教えられたことだ。
20時半からと聞いて調度良いのかと思っていたが…入念に調べていなかったのが悪かったな。こればかりはな。
残念がるだろうな、あいつら。
買い終えて合流する。五人にその旨を教えると揃って苦笑したり、悔しがっていた。
「結局今年はなしか」
「…納得いかないわ、せっかく来たのに…
毎年になるねって、話したのに」
「昨日行けばよかった…」
「ま、まぁこうやっていっぱい屋台回って楽しかったじゃん!
ほら、次いこー!」
「これ食べ終わってからね…」
「あ、あはは…」
「わ、私が下調べを欠かしたせいです…ごめんなさい」
五つ子たちは、今年も見れるのなら…何かが変わると信じていたのかもしれない。
毎年欠かさずに続けてきたものが、今年は途絶える。
その夏は母親を亡くした年だから。仕方なかった…と、もしかしたらこの先ずっと悔いを残して語っていくのかもしれない。
友達、恋人、自分の子供へ。祭りを見る度に…母の死も共に語らいでいく。
それは不幸ではなくとも…どこか寂しいものだ。
暗く、花の咲かない夜空を見上げる。
…打ち上げ花火ほど華はないが、あれも先生好きだったと思うんだがな。
「う、上杉さん!?」
「ど、どこ行くのー?」
子供たちから離れ、先ほどの焼きそばの屋台の人に頭を下げていくつか質問した。
良いことを聞いた。俺たちのように花火がないことに肩を落とす客は多いらしく、近くに売っている場所があるそうだ。
急いで目当ての店へ走り、多めに物を買ってから子供たちの下へ向かう。五つ子たちは既に屋台のものを食べ終えたところのようだった。
乱れた呼吸を整えようと胸を押さえる。
毎年の思い出には遥かに劣るだろう。今年はこれで許してもらいたいものだ。
「先生が単独行動とは許し難いですなー」
「自由行動って奴だ」
「お口が達者で
そろそろ帰ろっかーって…あれ?」
「帰る前に、これはどうだ」
俺が持ってきたのはただの花火セットだ。それを五つ。
母親と一緒に空を眺めたものとは違って、下を向いて小さな灯りを楽しむもの。短くも煌びやかな光は夏の思い出になる。
一花と、それから集まってきた四人も。俺が持つビニール袋の中身を見て、少しはにかんで見せた。
夏はまだ終わらない。
子供の不満に寄り添うのは大人の役目だ。
少し心許ない物だったが、五人は笑って手を伸ばしてきた。
100点とはいかなくとも、これで十分だったようだ。
花火をする場所に良いところがある。一花の提案に乗ってバスに乗ることになった。
隣町から住み慣れた地へ移り、向かった先は…公園ではなかった。
目的の地へ向かうまで、騒がしかった空気は物静かな…何かを慮るものへ変わっていった。
「…駄目、かな」
「いや、いいんじゃねえか
迷惑にならない限りな」
「あはは…もう人少ないみたいだからねぇ」
辿り着いた場所は、こいつらが幼少から育ったあのアパートだ。
もう21時を過ぎたこの時間は暗く、廃れたようなこの家は閑散としていた。
それでも明かりはいくつか見える…しかしもう、あの部屋に明かりがつくことはないのだろうな。
子供たちは感慨深いのか、しばらく足を止めていたから俺が大家に声をかけにいった。
あれから2週間程しか経っていないが…随分と時が過ぎたような感覚だ。物思いに耽るのも当然だ。
アパートの出入り口、駐車スペースにもなっているあの場所で一花は花火をするつもりのようだった。
もう夜も遅いのに、大家の婆さんは笑って迎えてくれた。
子供たちを昔から知るこの人は、子供たちの希望に沿ってくれるようだった。その旨を一花に伝えると準備を始めた。
恐らく、昔からここで花火をしていたんだろうな。
どこに置いてあったのかバケツを手に、暗くて手元も見えない蛇口を捻って水を溜めて…慣れた動きで五人が準備を進めていった。
俺はしばらく、その子供たちの姿を眺めながらこの人と話をしていた。
「ありがとうね…あの子たちを引き取ったんだろ?」
「…ええ、そうですね」
「きっと、あの人も安心して眠れるよ」
「…」
「…あの部屋、まだ入れるよ
掃除はしてないけどね…来月はここも取り壊すから…最後なんじゃないかねぇ」
「…そうか
ありがとうございます」
先生をよく知っているこの人は、部屋をそのままにしておいてくれたらしい。
自分が管理するアパートで…望まなくとも死人が出てしまったのだ。
この人は嘆くことも憤ることもなく、心からその子供たちを労わり案じてくれていた。
花火にはしゃぐあいつらの声に大家は懐かしそうに耳を傾けていた。
うるさいこともあっただろうに。それでもこの人は長年先生の居場所を支えてきてくれたのかもしれない。
挨拶はこのへんで、母親の分まで幸せになることを祈っていると。最後に一言添えてその扉は閉じられた。
俺は鍵を手に、階段を下りる。
花火はもう終わったそうだ。
「見ていくか?
今日で最後になるかもってよ」
花火を楽しんでいた後に水を差してしまったか。しかし五人は無言でも、俺の声にしっかりと目で応えてくれた。
受け取った鍵を五月に渡した。
最後と聞いて、顔を合わせて、やはり残念に思うよな。先生の子供たちは我が家を見上げていた。
五月は、鍵を手に歩いた。それに四人も続く。
その日、その向こうで。
母親が待っていただろう扉を開けた。
「…ただいま帰りました、お母さん」
「…ただいまー」
「ただいま、ママ」
「…」
「…う、ぐ…」
「四葉」
「…泣かないと思ったんだけどね
…でも、やっぱり
私のお家は、ここだよぉ…」
「なくなっちゃうの…やだね…」
暗闇の中には何もない。
カーテンのない窓からは月明かりがくっきりと形を見せている。
その月明かりで照らされた床には何も置かれていない。冷たい畳しかなかった。
家具もなければ明かりもない。
終わってしまった時間なんだと思い知らされる光景に、子供たちは俯き、泣いている。
あの家よりも遥かに狭いのにな。
広く見えるのは寂しくて、あの人の姿がないことがただ虚しい。
子供たちは無言のまま中に入り、居間に座り込んだ。月明かりが照らすだけの、そんな部屋で。
俺はその輪には加われず、壁に寄りかかった。
「このボロボロの家がママのように見えて、帰るのが嫌だったわ」
二乃がぽつりと、思いを馳せて天上を見上げる。
「決して苦じゃなかったわ、今でもママといたいもの
会いたい…」
「…」
「でも…なんでかしら
勇気を出さないと帰れなかった気がする」
いつかは壊れるようなボロい建物だ。
まだいられるが、いつかは崩れる。誰が見ても分かってしまう、そんな姿。
二乃にとってそれは、あの人にも見えてしまった印象なのかもしれない。
…恐らく、あの大家は先生を気にかけてこの家を残していたんだろうな。
先生が亡くなって、その子供たちが転居する事を話してから…取り壊しの話が上がったんだ。
少ない住民もそれを知っていたかのように、抗議などなかったそうだ。
思えば…昔から五つ子が騒いでたんだ。
うるさいと思いながらも、もしかしたら見守る気持ちもあったのかもしれない。
終わりを迎えたことに、役目を失った人たちは静かに去っていく。
…優しい場所だったんだ。それがもうなくなると思うと忍びない。
先生がいた場所がなくなるのは、悲しい。
「いつかお母さんが言ってた
辛い思いをさせてしまったらごめんなさいって
…こういう意味だったのかな、やっぱり」
三玖の言葉に、思い当たるものは多いのだろう。皆思い出すように視線を向けた。
月で照らされた床には何もない。
その一点に先生は眠っていたのか。
「…」
その光景が思い浮かんで、背けた。
でないと、もうここにはいられなくなる。
あの人には…やっぱり笑っていてほしい。それは過去形じゃない…そうあり続けてほしいんだ。
先生は、子供たちにとって良き思い出になる方法を知ろうとしていたな。
自分が死んでも悲しまないように。
死ぬかもしれない恐怖の中でも一番恐れていたのは、きっと幼い子供たちを置いていってしまう怖さだったんだろう。
寂しかった気持ちが嘘ではないだろう。親孝行したい気持ちもあって謝っていたんだ。それでも親として挫けず子供たちを守り育てるしかなかった。
それでも、あの人が一言だけ。
幼い子供のような、希望を持って言ったのなら。
最期に、会いたいと願っていたのなら…俺は。
何で…
「きっとそうならない日が来るからさ
今はこことも最後のお別れしよ」
「…思い出すことが悪いことじゃねーよ…」
笑っていられるわけないだろ、先生。
絶対に泣くさ。
泣かないでくれなんて我侭が過ぎる。
それは親としての責務など関係ない。貴方は幸福を知るべきだったんだ。
「…今は貴方が辛いのではありませんか」
「…何のことだか」
五月の目がこちらに向いてしまった。暗くて見えないはずの俺の目をしかと捉えて。
その様は…昔俺を咎めた恩師の視線にそっくりだ。
辛い、か。辛くないわけがないだろう。俺だってあの人を悼む気持ちはある。
今は、あの人に声をかける資格すらないことが…いや、涙を止める材料になる分助かってるかもしれない。
泣く資格も、ない。
「全員気づいていますよ
上杉君がお母さんの話を聞く度に悲しんでいることぐらい」
「…」
「お爺ちゃんも泣いていたと教えてくれました」
「…食えない爺さんだ」
少しはお互いに話せるようになったと思ったら、まんまと子供たちの前で身代わりにされた。
あんたも泣いてたくせによ。
…年下でも、子供でも何でも、泣いている姿なんて誰にも見せられないよな。
「負い目を感じることないよ、フータロー君
十年も前なんだよ? ずっと一緒にいた私たちを置いて何を背負うつもり?」
「独りよがりなところ、あるんじゃない?」
「ああ
だが…罪はある
社会的だとか、他人がとか関係ねえんだこれは
あんな立派な人にその選択を取らせた
見ない振りなんてできねえ」
皮肉なほど運命的だな。
この場で、先生が亡くなった場で懺悔しろってか。
俺は。俺だって。こんなもの求めていない。
「フータローがそこまで罪悪感を持つのはおかしいよ」
「…そうじゃねえ
違うんだ…おまえらはわかってねえ…」
やっぱりな…おまえらは理解してねえ。
あの人は。先生はそんなことで許していい人じゃねえんだよ!
可能性を何度も否定してきた。都合の良い世界であってほしかった。
誰でもいい、誰かが、あの人を幸せにしてくれていたら。
だがそんなものはなかった。あの人は誰も求めずに努力し続けてしまった。
誰かが、教えてあげて、守ってやらないといけなかったんだぞ。
ずっと、一人で頑張らせてしまったんだ…!
「あの人は幸せにならないといけなかったんだ
先生は自分のことは二の次だからよ
俺は見たんだ、教師になってその凄さも知った
他人の為に優しさを振りまいて、子供に尽くすなんて…無理だ
あの人の葬式で何人か話を聞いた、先生を慕って泣いている教え子ばかりだった
俺にしてくれたことを何年も続けてたんだろうな
…頭の良い人だ、俺が来ない可能性のほうが高いことぐらい分かってたんだ
娘も巻き込んでも願った
もう死ぬって分かっていても、それでも…もし、俺に会いたいって思ってたのなら
俺は…会わなくちゃいけなかった
あの人の願いは…安いもんじゃない」
こんな終わり方、あってたまるかよ。
先生は、生きなきゃよ。
優しいのに、なぜだ。
「俺は…1年だけだったがよ
あの人に求められたい、一年だったんだ
叶えられなかったなんて…そんなことあっちゃいけなかったんだ
俺は、自分が心底憎く、嫌いだ…
おまえらにはこうなってほしくない」
「…」
「…すまなかった…先生」
聞こえるのか分からないが、聞いているのなら。
魂なんてものがあるのなら、誤解だけは解かせてくれ。
俺は、あんたを嫌って会わなかったんじゃない。
俺だって、会いたかったんだ。馬鹿な意地張って悪かった…
もうこれ以上、話すことはなくなった…
「上杉君の気持ちは分かりました」
「…五月ちゃん」
手を取られ引っ張られる。
五月は月明かりが見える、その場所まで引っ張ってきた。
何やら取り出したのは、見知らぬ袋だった。
「…それでも、これは渡すべきだと五人で決めました」
それを俺に手渡す。
何を望まれているのか分からず、俺は呆然とその紙袋を見ることしかできなかった。
「上杉君、お爺ちゃんから渡されたものです」
「あ? 爺さんから…?」
爺さんからの贈り物と聞いて納得してしまう点がある。
どう見てもその紙袋はボロボロだ。
小さな茶袋の開け口にはセロハンテープが張られている。もうその部分が黄ばんでいるし既に剥がれている。
爺さんからの貰い物なら普通子供たちの物だろう。俺はあの人とは今年出会った、他人同士だったのだから。
だが、五月は尚もこちらに差し出してきた。
「まずは受け取っていただけませんか」
「…」
何のつもりか知らないが受け取っておく。
既に袋は開けられてるし、贈り物と言うには粗末なものだ。
意図が分からないからさっさと袋の中身を確認することにした。
思っていた以上に軽かった。
「…お守り、か」
逆さまになった袋の口から手の平に落ちてきたのは、神社や観光地で売られているようなお守りだった。
手に取って月明かりに照らす。細長い、筒のような小さなお守りだ。
…これが何だってんだ。
コロコロと手の平で転がしてみても、ただのお守りにしか見えない。
「お爺ちゃんは、上杉君に渡してほしいと言っていました
預かっていた大切なものだから、と」
「渡せなくても渡せなかったんだってさ」
「…意味がわからん」
「え…」
「やっぱりか…」
「俺の物ではない」
「も、申し訳ありません…私たちも今初めて開けたので…」
何か期待があったのか、子供たちは揃って落胆している。
そんな中、顔を覗かせて興味深く見入る子がいた。
「…ねえそれ…ちょっと見せてください」
これに心当たりがある娘がいた。
五月の背後から四葉が顔を出してきた。俺は彼女にお守りを渡した。
「…やっぱり似てる
ほら、このお守り、みんなも持ってるでしょ?」
「え?
これと同じの?」
「…
もしかして…四葉が買ってくれたの」
「うん
京都の修学旅行で、清水寺で買ってきたお守りだよ
たしか健康祈願」
「…」
修学旅行
京都
お守り
「お守りを買うので待ってくれませんか」
「勝手に買えばいいだろ
何で俺が…」
「これも何かの縁ですし、一つ買ってあげますよ」
「…先生のか…」
先生も、あの時買っていたはずだ。お守り。
刻まれた文字はもう掠れて読めたものじゃないが、思い出せば分かる。
京都清水寺と掠れていた文字がギリギリ読める。
通りで袋も、このお守りも古いはずだ。
あれからもう15年経っている。お守りは所々削れている部分があるくらい…長い時間が過ぎている。
どんなお守りなのかは知らないが、思い出話に華を咲かせている四葉の言葉から聞けば健康祈願らしい。
先生が自分自身に買ったかどうかは定かではないが、きっと…愛していた夫や子供たち、爺さんに渡そうと買ったのだろう。
子供たちは当時の物とは別に修学旅行で買ったものがあるのだろう。五つ子が思い出すまで知らなかったとなると…あの時、先生が買ったものを授けられたわけではないようだ。
だとしたら…これはやはり。
「五月」
「え?」
「返す
先生のだろ、これ
おまえたちが持ってろよ」
「…ですが、これは上杉君にと…」
五月は四葉が手に持つそれを受け取らなかった。
そうではないと、首を振っている。
「…私たちでは…いけないんです…
お母さんのですけど…これは、上杉君に持ってほしくて」
「…俺に渡されてもな
俺の物じゃないし、覚えもない」
「そ、そんな…
ならどうして…」
爺さんの考えていることは未だ分からないが、それは俺が持っているより子供たちが持っているほうがいいだろう。
先生の私物なら家族が持つべきだ。
渡せなくても渡せなかったと言っていたらしい。それは子供たちに対してのことなのか。
想像し難いがあの人らしくもある。ここまでボロいものを娘に渡すのも気が引ける。
「…待って…それはお母さんのじゃないよ」
「え…!?
で、で…ですがお爺ちゃんに預ける人なんてお母さんぐらいしか」
「…四葉が買ってくれたお守りで思い出した」
ただ受け取ればいいってのに、心底納得がいかないようだ。あの人の子供たち以外に該当者がいないんだ。
求める結果に行き着くまで、あの人がそうしたように子供たちが抗っている。困った奴らだった。
こちらの気など知らずに、子供たちは三玖の言葉を待っていた。
三玖は固唾を呑んで、四葉が持つお守りを見て…やっと口を開いた。
憶測ではない、そう望むように、こちらを見上げて告げた。
「四葉も見たはずだよ
小学6年生の修学旅行から帰って、お母さんにお守り渡したよね」
「うん、学業とか金運とか色々あったけど健康第一だから
皆とお母さんの分で六つ買ったんだ」
「…お母さんも同じお守り持ってて、渡せないと思った四葉…泣いちゃったよね」
「…そうだっけ」
「そうだよ…だからお母さん、古いほうのお守りは捨てちゃったんだよ
…残念だけど、お祈りは通じなかったから…四葉に守ってもらおうって…」
「…
…っ…ま、守って…かぁ…
…あぁ…っ…
お、おか…あ、さん…っ」
…嬉しかったんだろうな、先生。
その言葉はきっと本心なのかもしれない。
その言葉に、こうして子供たちが泣いてしまう結末は…誰も望んでいなかった。
「…」
「う…ぐ…ぅ…
ご、ごめんね…みんなも」
四葉は思い起こせなかった思い出を知って、助けたかった母親を求めて泣いた。
五月や一花が四葉の頭を撫でて抱き寄せている。眺めているのも悪いと思って目を逸らしてしまった。
「だから…お母さんのお守りはもうないよ
あの時のお守りはお爺ちゃん家にあった…それもあの箱にちゃんとあるはず」
「…そういえば…そうだったわね
四葉が京都のお守りって言わなかったら気づかなかったわ」
「で、でしたら…お母さんの物ではないのでしたら」
遺品は祖父の家に預けられていた。その中に当時渡したお守りもあると三玖は言っている。
二乃の言うとおり、ここまで傷ついていると指摘されるまで気づかなかった。
つまり俺が見たあのお守りじゃねえってことか。手に取って二乃を怒らせてしまった時の物ではない。
先生の私物ではない。四葉があげた、先生が持っていたお守りは…ここにあるはずがない。
たった一人の家族である爺さんの物でもない。恐らく…当時の夫の物でもない。
そして、娘である五つ子の物でもない。
だとしたら、これは本当に赤の他人のものか。
…赤の他人のもの
「…」
三玖の視線を受けた四葉が、俺にお守りを渡してくる。
断り切れず、俺はそれを受け取ってしまった。
こんな小さなお守り、先生の物でないと言うのなら…受け取ったところでどうでもいいものだ。
「上杉君、本当に見覚えないのですか?」
「…」
知ってはいるが、俺の物じゃない。
先生が俺に渡すものなんて…あるだろうか。
京都で会った当時なんて、ただのガキだ。
あの人にとって、俺の存在など。
「…中に何か入ってたりして」
「ん?」
「それ、頭のほう開けられるんだよ」
一花の言葉に疑問が浮かぶ。お守りを開けるのか?
「一花…お守り開けたの?」
「だ、大丈夫だって、開けてもまた閉められるからっ」
「それ神様に怒られるヤツじゃない」
「効果なくなりそう…というか罰当たり」
「…お母さんが教えてくれたんだけどなー…」
先生が言ったことなのかよ…この状況であの人の悪戯心を知ることになるとはな。
何でそんなことを子供に教えるのやら。
しかしあの人なら。
誇らしく語りたい時は恥ずかしそうに笑っていたあの人なら…あの人らしいとは思う。
「ね、フータロー君」
「…」
埒が明かないし、正直もう嫌気がさしてきた。
誰の者か定かでないのなら捨ててもいいってのに。憶測でしかないのだから。
…なのに、今この胸の鼓動は悪寒がするように高まっている。
何を恐れているんだ俺は。
雑念を振り払って蓋を開ける。
中には小さな木材の板が入っていた。神の名が記されたものでお守りの本体のようなものだろう。意味は分からないが少しは察するものはある。
そしてもう一つ。
小さな紙切れが一つ。
「…」
折りたたまれたそれは不恰好なもので、お守りの中身にはそぐわないものだった。
誰かが、意図して後で入れたものだ。
少しだけ、見えてしまった。
見てはいけないものだと理解した。
「紙、ですね」
「何か書いてたりしませんか?
って、ちょっと押さないでください…」
「見づらいんだもの」
「二乃は目が悪いだけ」
「ご、ごめんねフータロー君」
子供たちも気になるようで、こちらの緊迫した心情などお構いなく詰め寄ってくる。
折りたたまれた紙には、小さく少しだけ…文字が書かれているようだった。
「…」
「上杉君?」
このお守りが元は誰のもので、何でそいつが持っていなくて、先生が誰に渡したいのか。それは定かではない。
恐らくでしかない。
今はそう。
それでいい。
もう、いい。
爺さんは、誰かから預かり、俺に渡してくれと子供たちに託した。
渡したくても渡せなかった。その理由は分からない。
願望と、認めたくない気持ちで胸を締め付けるようだ。
今はこの紙一枚が怖いと感じてしまう。
俺はあの時失敗している、約束を踏み違え間違えてしまったんだ。
恩師から何かを受け取れるような資格はない。
今も、こいつらと再会した時も。
先生と会った時から俺は変わっていない。
最期に会いたかった理由が、もし…これを渡すためだったとしたら。
紙には、鉛筆で書かれた文字が記されていた
丁寧で、見たことのある筆跡だった。
「どうか風太郎君の夢が叶いますように」
そう、書かれていた。
何年経ったのだろうか…紙もボロボロだった。
「夢、か」
誰かに必要とされる人間になる。それが俺の夢だった。
あの人に言ったんだ。
どうやったらあんたみたいになれるのかって。
その後に俺は誤解した。あんたには到底認められないような他人を見下す人間になった。
他人の願いだってのに、あんたは…何なんだ。ふざけるな。
遅いんだよ、いらねえって…俺はあの時断ったってのに。
一つ余ったからついでに渡すつもりだったのか、それなら理解できる。
だが、違うんだろ…?
あんたは…6年経っても、俺の姿が変わり果てても…覚えてくれてたよな。
あんた…何でここまでするんだ。
もう紙もよれて、こんな小さくてボロボロだ。
何で、何で今になってこんなもの。
これは、俺たちが再会する前のものなのか?
再会して、俺が醜く憐れなものに変わってしまった後に書いたのか?
わからない。ただ、一つ願っていたことがあった。
俺は間違ってしまった。
他人を見下して、必死にやっていたつもりが家族を蔑ろにした。他人ばかり見て、見下されるのが嫌で周りを見ようとしなかった。
そうならない方法があった。
なぜなら、俺はあんたを忘れていたんだ…
昔を思い出せば違っていた。妹を守る兄になる。父を楽させる息子になる。母を安心させる人間になる。
誰かに必要とされる人間になる。そう決めたあの人の顔を思い出せるものがあれば、きっと違っていたはずだ。
だから…あの時。あの時からずっと後悔してた。
これを受け取っていたら、俺はきっと。
文句言っちまうかもしれないけどよ…感謝してたと思う。
「馬鹿げている」
「ちょ、ちょっとあんた、ママのこ…と…」
わざわざ買ったのに渡さず、再会して一年間会っていたのにそれでも渡せなかったのか。
何でだ。わかんねえよ。
あまりにも不器用だ。
小さな紙を握り締める。でないと濡れちまうから。
「馬鹿だろ…」
「…」
「何でだ…考えても…わからねえよ…
そこまでするなら、助けを求めやがれ…他人のことばかりじゃねえか…!
何で最後になってこんなもの…俺は何も返せてないんだぞ」
恨んでなかった、のか。
そう信じていいのか。
あんたを慕っていた。あんたの生徒だったと言っていいのか。
「…先生っ…」
泣き崩れる手に、誰かの手がそっと触れたような気がした。
「優しい子を傷つけちゃったから、ずっと渡せなかったんです」
「…傷ついてなんかねーよ…」
本当に、不器用な人だ。あんたのせいじゃないってのに、そんなことを気にしていたのか。
先生、お礼ぐらい言わせてほしかった。
あんたの子供たちの前で泣いちまったじゃねえか。本当に…本当に…
「これ、俺が持っていていいか…?」
「はい、きっとお母さんもそう望んでいます」
「蓋、開けちゃったから神様から怒られちゃいそうだけどね」
「一番最初に開けたのはお母さんだから最初から効果ない」
「つまり、お母さんからのおまじないってわけだ
フータロー君にね」
「…良かったじゃん
会いたかった理由、あったのよ」
「…
そう、か」
おまじないか。占いなんて信じてねえのによ…まったく。
もう一度その紙を広げて、元に戻した。
お守りは古くボロボロだ。
何回も取り出したのかと疑いたくなるものだ。
…先生。
「夢…でしかないのですが…
一つ、夢を見ました」
五月が俺から視線を移す。
先生がいたであろう、その場所に。
「良いとも、悪いとも言い難いもので…」
夢は曖昧なもので、話すのも憚られる。
「この家で、お母さんが寝込んでいました…
それはいつもの日常の風景で
夢の中の私はお母さんが亡くなることが怖くて動けなかった
上杉君がいたんです
寝ているお母さんの傍に座って、話していました
笑い合ってるわけでも、お母さんが元気になるわけでもないのに
私が見たかったものがそこにあって…
お母さんは上杉君に手を握られて寝てしまって
夢はそれで終わってしまいましたが
私の知っているお母さんはそんな人ですよ」
「…」
「なんて、生意気ですみません」
「…まったくだ、大人を泣かせるな馬鹿」
夢の話だ。もしかしたら…そんなこともあったのかもな。
またいつかのように言葉を交わして、あの時のように手を繋いでみたいと思ってやまない。
「会いてえな…」
それは皆も同じなんだろうな。
親父も母さんに願ったことだろうな。
その願いは叶わない。
馬鹿な、考えだ。
「ねぇフータロー」
「ああ…」
「きっとね、弱い人は一人じゃ変われないんだ
私たちがそうだった…フータローに救われたから、今ここにいる」
「…」
「…フータローもそうなら
一緒に暮らそうよ」
一緒に、か。
弱い人間は一人じゃ変われない。俺もそう思った。
もうあの人はいないからな。
俺も変わらないといけない。この気持ちにも区切りをつけないと。
三玖の言葉に、一花も、二乃も、四葉も、五月も黙っていた。
その五人の手が、そっと手を握ってくれた。
本当に、困った奴らだった。
「何で駄目だったのかな…」
「そりゃあ…仕事前日に提案して頷く社会人はいないわ」
「別に今日明日じゃなくていいのに…」
「二人共、もう時間だよ!」
「前とは違うのですよ」
「五月ちゃんの食欲は変わってなかったけどねー」
「あんたの寝相の悪さも変わってなかったわね」
「結局、布団変わっても脱いでたね一花」
「あー 言わなかったほうがよかった感じか」
「誰も私に関して否定はしないのですね、よくわかりました」
「フータロー…また会いたいな…」
8月が過ぎ、9月になりました。
二学期が始まり、今日は始業式。
前とは登校時間が違うのですから、早めに行こうと決めていたのに三玖は気が向かない様子でした。
昨日上杉君に伝えたものの返事は…三玖の思いに沿えないものでした。
やっぱり、迷惑をかけてきたことで負担をかけてしまったのでしょうか。
もしかしたら、もう私たちに嫌気を差しているのではと、少し不安になったこともありました。
ですが、そうではなかった。
彼が笑ってくれたのですから。恥ずかしそうに、嬉しげに。
「準備できましたか?」
「OK!」
「はいはい、まったくいつから優等生になったのかしら、この子は」
「三玖、ほら元気出して
誘えるチャンスはあれ一回だけじゃないってば」
「…」
後は玄関へ向かい、靴を履いて出るだけ。
いつもなら、その前に一つやらなければならないことがあった。
…いいえ、朝から、やはり何かが欠けていると寂しさが募りますね。
「…」
テーブルに置かれた写真立てには、お母さんが写っています。
リビングを出ずに、私たちはその写真立てを見ている。
もう、いない。これから一つずつ、去年にはあっても…もう得られない、お母さんのいない日常を繰り返します
もう…行かなくちゃ。
「…行ってくるわ、ママ」
二乃が、二乃から最初に声をかけてくれた。そのまま玄関へ向かっていく。
もういなくても…お母さんはお母さんですから。
寂しい間は、声をかけてもいいですか、お母さん。
「いってきます」
背中を丸めて落ち込んでいた三玖も、背筋を伸ばして二乃に続いて声をかける。
「いってきまーす!」
空元気でも、四葉は明るく笑っていました。
「…たはは…若いなー
お姉さんには恥ずかしくて無理かも」
「そうですね…」
「…いってきます、お母さん」
一花も、お母さんに挨拶して玄関へ向かった。照れくさいのは皆一緒です。
「…私も行きます」
「…」
「いってきます、お母さん」
あの時お母さんに向けて…ずっと言えてなかった言葉をもう一度。
お母さん、私ね。
もしも、私に子供が生まれて…
愛する人の傍で笑っていられるような家庭の中で。
たとえそうでなくても。
私は、お母さんの話をしたい。
私には父親はいなかった。
母親も、いなくなってしまった。
それでも、こんなに幸せが残っているのはお母さんのお陰。
私たちを五つ子として生んで育ててくれたのです。
どんなに大変だったでしょうか。辛かったでしょうか。
それでも最後まで私たちに寄り添ってくれた母だった。
あの人がそうしてくれたように。私もこの気持ちを語れる日が来るでしょうか。
「…朝から苦労してるな」
一花から登校しているとメールが届いた直後、四つのメールが届いた。
内容はそれぞれ、身勝手で図々しいものもあれば、純粋に学校生活が心配なものもあった。
電車を降りて仕事場へ徒歩で向かっている最中、仕方なく五人に返信しておく。
二学期からあまり見てやれないと言った初日からこれか。
これなら、あいつらの近くに住んで働いた方がマシかもな。
「…」
一緒に暮らそうよ、と三玖は言った。
爺さんに代わって保護者となっている身だ。そうしたほうが都合もいいし、あいつらが求むのならそれもいいかと思った。
だが、なしだ。
最後にあんなこと言っちまった後だ。当分は顔を見せたくない。
先生の家で、あんなセリフ…勘弁してほしかった。
三玖からの誘いを断った後、あいつらは露骨に残念がっていた。
母親のいない家の中だ。寂しさが高まっている時に縋りたい気持ちがあったのだろう。
「やはり…馬鹿な子は嫌ですよね…」
「五月がそれ言ったら、私とんでもない勘違いしてたし…」
「昔から迷惑かけてたのは私だと思うよ…」
「…ママのことで怒ったのは悪いとは思ってるわよ…」
「私なんてフータロー君にしつこいって言われたしねー」
「…」
後半の奴らは半分悪乗りしてたがな。
あの湿っぽい空気の中だ。俺は少し焦りもあった。完全に誤解だったからだ。
「馬鹿でも、迷惑かけてもよ」
それでも本心だった。だからもう二度は言えそうにない。
「俺はおまえら全員、大好きだけどな」
「…」
「…なんてな
十年も前の、昔の話だ」
もう覚えてないだろう。六人で手を繋いだ帰り道だ。
夕暮れの中で一緒に帰った。戻れるのならやり直したい思い出がある。
…もし戻れたのなら、あれについて問い詰めておかないとな。
先生から貰った不恰好なままのお守りは、持ち出して無くしたくないから大切な物として家に置いている。
あれには、あの後一つ…俺も手を加えておいた。
先生からの言葉があれに秘められていたのだから。
俺も返しておいた。紙を一枚、入れて。
「…いくか」
終わったらまた連絡する。そうメールが届いてから携帯を閉じた。
向かう途中、通り過ぎる生徒から声をかけられる。
丁寧に挨拶する奴、わかって無視する奴、からかってくる奴、律儀に勉強を教えてくれと頼む奴、受験生なのに勉強してねえと逃げていく奴。
その声を聞いて、惜しむ気持ちがある。
…あの人に、恩返ししたいんだ。
俺の夢が叶うことを祈ってくれていたとしたら、それはもう叶ったよ。
だから…続けていこうと思う。そうあり続けよう。
だから先生。届くといいんだがな。
「先生 ありがとうございました」
…あの夢はもう見ることはなかった。もうこの先もきっと。
…でもな、やっぱり。
馬鹿な考え、なんだけどよ。
本音は、俺も願いが叶うのなら。もし願い事をするのなら。
もう一度、あなたと手を握りたい
京都で出逢った時と同じように。
きつく握る手を握ってくれた時のように。
夏は隠し事に叱って掴んでくれた。
秋は気落ちした時に引っ張ってくれた。
春は挫折して悲しかった時に寄り添ってくれた。
やっぱりバレてたんだろうな…
好きでした、先生。
十年も前も…昔のこと、だがな。
今更、馬鹿げてるよな…先生。
それでもあんたはきっと、困った顔をして笑うんだろうな、先生。