涙は零れず恵みは静かに零れる
放課後とは学生が勉学という名の束縛から解き放たれる自由時間と考えられる。
帰宅する者、部活動に励む者、委員会や生徒会に従事する者、補習を受ける者もいれば恋愛に走る輩もいる。
未成年であり、まだまだ子供の域を脱しない者たちで騒動は絶えない。
だが…まあ勝手にするがいい。高校生活は人生に二度もないからな。
何もせずに後悔するより行動して悔やむがいいさ。常識の範囲内で。
学生は自由に過ごせばいい。一方で教師は違う。
公務員に属する職業の中で勤務時間が定まっていないのが教職だ。
日中は生徒の授業の為に職員室と各教室を往復。学生は教室で待っていればいいが、教師は10分の休み時間中に次の授業に間に合うよう移動しているのだ。
忙しなく動いた後のこの放課後は、授業に使うプリントやテストの作成と採点。加えて新人の内は授業のレジュメを詳しく書いてよこせと学年主任に見張られている。
そう、暇ではないのだ。学生の大半がのんびりコーヒー飲んでるだとか、煙草を吸ってサボっているだの、学生と雑談して時間を持て余しているとか勘違いしている。
学校は営利企業ではないのだ。放課後どれだけ残っても残業代など出ない。こればかりはもう開き直って自分のペースで仕事に取り組むしかない。
そういった観点から遅い時間になっても生徒に熱心に接する教師もいるし、部活動の顧問として生徒を教え導く教師もいる。
物好きだと怪訝に思う一方で、先輩に当たる彼らの熱意を尊敬する気持ちもある。
俺が憧れたあの人は教師として生徒に真摯に向き合いながら、愛する子を早く迎えに行こうと日々勤しんでいた。
その過酷な日々を、今は自分が身を持って味わっている。
「上杉先生
今日はどうです? これから飲みに」
「お誘いはとても有難いのですが…」
「毎日忙しそうですね…一人暮らしでしたよね?
まだ仕事に慣れ…ていないわけではないか」
「いや、まだ一年も経っていない新米教師なんで」
「いやいや、謙遜しなくても
上杉先生の仕事ぶりは、学年主任も溜飲を下げるように喜んでましたよ
いやぁ…最初は無愛想な先生でハラハラしていましたから
生徒からの評判も良いと聞いてますし」
「それはなによりです」
何かと面倒を看てくれる先輩の誘いを断ることに後ろめたさもあるが、こればかりは大目に見て頂きたい。
時刻は19時を過ぎた頃。生徒も下校時間となり密かに騒がしくなる頃だ。
平日最後となる金曜日の今日は来週の予定を確認し、手を出せる雑務は全てやり終えてしまいたかった。お陰で今日は遅くなってしまった。
日々を卒なくこなすためには、急なトラブルに対応できる余裕を維持する必要がある。高校生の頃に嫌になる程思い知らされた教訓だ。
原因は言うまでもなくあの五つ子だ。問題児共め。彼女たちの小学校の担任が不憫に思えて仕方ない。
仕事の成果が評価されることは純粋に嬉しいものだ。恵まれている職場と言えるだろう。眉間にしわを寄せて小言が絶えないあの学年主任から喜ばれているのなら上々だ。
しかしこの程度で素直に喜んではいられない。自身の目標となる教師にはまだ程遠い。願望はあっても実際にどう行動するべきかはまだ見出せていない。
教師同士の関係も重要だ。だとしたらこの誘いも断るべきではないのだが…やはり頷けるものではなかった。
「…入院していた知人が退院したんです
病み上がりなんで、様子を見に」
「そうでしたか…退院できたのは喜ばしいことじゃないですか」
「ええ…なので今日もすみません」
「もしかして入院中、見舞いに?」
「?
ええ…まあ…可能な限り毎日」
「…ちなみに、ご友人は女性?」
「…まあ」
「…頑張ってください
俺、まだ上杉君のことを誤解していましたよ」
「誤解ではないと思うんで改めなくて結構です」
生温い視線で和まれてしまった…面倒なことになってきたな。断り続けるのも悪いと思って内情を話したのが裏目に出たようで、来週もまた何か言われそうだ。
身支度を済ませ、鞄を持って職員室を出る。他の教職員に挨拶をすると、先程まで話し込んでいた教師は既に別の教師と話していた。広めるなよ、絶対に言うなよ。
無理なんだろうな…ここの教職員はゴシップの多い金持ちの生徒の担任ばかり。真新しいニュースには敏感だ。仕事を終えて晴れ晴れとした気持ちで帰れると思っていたのに憂鬱である。
気分が落ち込んだ時は切り替えが重要だが、一日を終えたこの後も面倒事に巻き込まれそうで表裏共に憂鬱である。
それは些細な悩みで考えるのも馬鹿馬鹿しいもの。気分の浮き沈みが激しい原因は別にある。
妹からは心配性になったねと苦笑いされたものだ。自覚はある。
日々の忙しい業務から解放され、帰途につく電車の中で考え事をしていると眠気が襲ってくる。
周りを見れば自分と同じように、一日を終えて帰宅するサラリーマンが数多く見える。自分もその内の一人。
早いものだ。高校2年から時間の経過が遅いようであっという間だった。充実したと感じる傍らで、時の流れを惜しむ哀愁を抱くようだ。
同じ日々を繰り返す、それだけの日常。学生程の色味は既にない凡人の日常は誰かに語れるほどの物語にならない。
それでも自分なりの意義はあると感じられるものがあった。これが生き甲斐というものなのだろうか。
…親が子の為に努力し続けられる理由が、少し分かる気がする。
先生も、親父も、同じだとしたら俺はきっとこの選択は正解だったと胸を張って言える。ような気がする。
降りるべき駅に着いた。自宅に向かう駅はとうに過ぎている。座っていた座席から立ち上がり電車から降りた。
仕事は終えたが、まだ一日は終わっていない。
疲れてはいるが、やはりこの足はまだ軽い。
向かった先は自宅でもなければ実家でもなかった。
高校を卒業し、大学も出た。高校の教員免許を取り、23歳となった今は教員として少し離れた都内の高校に勤めている。
大学2年から実家を出て一人暮らしを始めているが、一度は離れた身の上でも実家の周りを行き来する生活を送っていた。
理由は至って単純。
「やっぱりボロいよな…崩れねえだろうな」
もはや実家よりも出入りしているだろう、一件のアパートに辿り着いた。
実家からそう離れていない、高校生当時から何度も足を運んでいる場所だ。
時刻は20時前。夜の暗闇を照らす明かりが窓から漏れているのだが、このアパートから見えるものは少ない。昔はもっと住民がいたような。
考えても仕方のないことだ。構わず目当てのドアをノックしようとすると勝手に開いた。
「こんばんは 上杉君」
「…なぜ、わかったんですか」
「台所に立っていると音でわかりますから」
「病み上がりがもう家事をしてるのかよ」
「母親ですから
寝込んでなどいられません」
ドアから漏れる明かりを遮って目の前に立つ女性は、どこか気恥ずかしそうに笑っていた。
中野零奈。俺の恩師だ。
治療に専念するべく入院し、退院してからまだ一週間経っていない身だ。少しは自身の体を労わってくれ。
この家で会うのもどこか久々だ。この二ヶ月は病室で顔を合わせていたのだ。
本当に元気になって良かったと思う。感傷に浸る程ではなかったのだが、つい言葉を紡げずお互いに目を逸らしていた。
玄関の前で突っ立っていれば中の住人に容易に気づかれる。先生の背後からアホ毛がひょこひょこ揺れて近づいてきていた。
「上杉君、おかえりなさいっ」
先生の腰辺りに引っ付いて、女の子は朗らかに笑いかけてくる。
先生が退院した日、大好きな母親が無事に家に帰ってくることに喜び泣いた子だ。
「おかえり、じゃないだろ五月
こんばんは」
「お母さんが戻ってきても、上杉君は家の人ですから」
「…」
ご機嫌な奴。それも当然か。
先生の健康を皆祈っていたのだ。母親が揃ってもこの家はボロいし不便な点が多いのに、この家の住人は幸せそうだ。
白いワンピースを着飾る五月が今度はこちらに引っ付いてきた。夏のこの時期に涼しそうな格好であるが、暑苦しいことこの上ない。丁重に剥がしてやった。
「おーい、上杉さーん!」
「いつまでやってるのー」
「フー君 蚊が入るから早くして」
「蚊取り線香つけとく…」
「線香臭くなるからやめて」
「…ラベンダーの香り
二乃がうるさいからフータローが買ってきてくれたの」
「さすがフー君!」
「…お線香の匂いも良いのに」
「ラベンダーってどんなの?
つけてつけて」
「火使う時は気をつけてよー」
部屋の奥が騒がしかった。五月の姉たちは卓に皿を並べ、食事の準備をしていたようだ。
夏のこの時期は羽虫が入り込むと面倒なだけだ。先生と五月に招かれて家に上がった。
五月に離れろと散々促すが、構わず母親と俺の手を握って居間に引っ張ろうとしている。狭い家で遊ぶな。
「お預かりしまーす」
「…何がおまえをそこまで駆り立てているんだ」
「私のお仕事ですからねー」
「掃除できねえおまえに預けるのは非常に不安だ」
「もー、いつもちゃんと返してるじゃん」
「ランドセルが散らばってるんだが、怒られるぞお姉ちゃん」
「私だけじゃないし!
フータロー君のは大事にするからっ」
食事の手伝いをしていた一花に満面の笑みで鞄を取られ、居間のほうに置かれてしまった。
狭い家だから仕方ないのだが、指摘を受けた子供たちは各々ランドセルを部屋の隅に並べた。先生なら即刻注意するだろうに。不在が長かったから気を遣ったな、先生。
ランドセルを片付けた二乃に鞄の中身を開けられてしまった。おまえ人の物に躊躇しないよな。もう慣れたが。
二乃は空になった水筒を台所のシンクに持っていった。洗って返してくれるのだろう。それはいいが、俺はもうここに泊まらないぞ。
食卓に並べられた料理は七人分。時刻は20時を過ぎている。この家の住人は俺を待っていてくれたようだ。
先に座っていた三玖が先程から隣に座れと手で招いている。普段消極的な奴なのに主張の激しい奴。
四葉も便乗して三玖との間になる畳を大げさに叩いてアピールしてくる。もう夜だというのに元気な奴。
泊まることもなくなったし、ここで食事をする約束もしていないのに、なぜこいつらは平然と準備していたのか。
考えるのも今更だと言わんばかり五月に背中を押され、促されるまま席に座った。
座ったのは五月と一花の間。無自覚なのかちゃっかりしているのか。
末っ子の横暴に四葉が声を上げて抗議し、三玖に睨まれてしまった。文句は五月にだけ言え。
長女が妹二人を宥め、こちらを見上げてきた。
「おかえり、フータロー君
今日もお仕事お疲れ様」
「まだちゃんとお礼言ってないのに、いっつも逃げちゃうんだから
…おかえり、フー君」
「おかえりなさい
いつもありがとう、フータロー」
「おかえりなさい!
これでやっと皆揃ったね!」
「…いや、おかえりはもう先週でおしまいだからな」
「えー!?
いいじゃないですか! 気にしすぎですよ!」
「気に入ってたのに…」
「照れてる?
フータロー君照れてる?」
「あ、そういうこと
可愛いところあるじゃない、フー君」
「おまえらは年々可愛げが失せてきているがな、生意気」
「ひっひゃららいれー
おかーひゃん、へるふっ」
「食事の前で遊ばないように」
隣から生意気なことを言ってくれた一花の頬を引っ張ってやる。お仕置きなのに嬉しそうにしやがって。先生に忠告されてやめといた。
以前は妹と親父の三人で。時には二人…一人で過ごすことが多かった実家と比べると、この家はやはり喧しい場所だった。
料理を手伝っていた二乃と先生も順に席に着いていく。飯を食べるだけでこの手間だ、毎度毎度飽きない奴らだ。
断じて照れているわけではない。気恥ずかしさがあるだけだ。
先週まで、一時期この五つ子が住む家に居候していたのだ。寝食を共に過ごした仲だ、今更照れたりするものか。
向かいに座る女教師の視線を感じると、なぜか少しだけ居た堪れなくなる。
退院したのは今週の月曜日。それからほぼ毎日顔を見に来ている。今日が特別珍しい日ではない。
ただ、なぜか子供たちから何度もおかえりと連呼されるのこの待遇に違和感がある。
これから夕食をご馳走になるんだ。思わせぶりな態度は失礼だ。親しき仲にも礼儀あり。馴れ馴れしく礼儀のなっていないこいつらに教えてやろう。
「上杉君」
「お、おう…!?」
態度を律しようとしたところで声をかけられて驚いてしまった。情けない男の声が漏れてしまった。
そんな男の見栄など露知れず。昔とは違う。見た目は鉄仮面のそれでも、昔とは違う恩師の顔を凝視してしまう。
「おかえりなさい」
意地の悪い。
家に招かれた時に見せた気恥ずかしさなど消え去っている。無表情のままこちらを見据えて、日常的な挨拶を口にしている。
先生から、ただいまと言われたことは過去に何回かあった。俺からは一度もなかった気がする。
ただの挨拶。それがなぜこうも口にし難いと感じてしまうのか。渋っていると子供たち全員の視線がこちらに向かっていた。
「…あー…
…ただいま」
そうじゃないってのに。この人は本当に意地の悪い。拘るのも阿呆らしくなってきたぜ。
退院した日に、あんたから言われたい言葉だったんだよ。退院日は仕事を休めなくて正直後悔していたってのに。
羞恥が募り、顔が赤いのが分かる。子供たちに見られ生温かい視線に逃げたくなる。逃げたら飯抜きになりそうで逃げられそうになかった。
やりたいことを終えて気分が良いんだろう。先生は頂きましょうと手を合わせていた。子供たちも連られて手を合わせた。
先程から空腹を訴える腹を抱えているのだ。仕方なく自分も手を合わせる。
都合が良かった。自然と口元を隠せるから。
先生はともかく、子供たちに見られたらしつこく笑われてしまいそうだった。
何のこともない、ただ健やかで笑うだけの日。それがこんなにも幸せなことだったんだと胸が温かくなる。
「おかえりなさい 先生」
口にはしないでおこう。意地の悪い人には言ってやらねえ。
苦労を苦労と感じなかったなんて言える程お人好しじゃない。あんたにも子供たちにも苦労させられている。
文句を言ってやりたいのに、喜んでしまう自分はもはや救いようがない。惚れた弱みとは罪深いものだ。
上杉風太郎が望むもの。その幸福の一片が今目の前に在ることがただ嬉しく、笑みを隠すだけで精一杯だった。
「そういえば上杉君
どうやってお母さんを説得したのですか?」
「何だよいきなり」
「私たちが何度説得しても聞いてくれなかったんですよ
なのに上杉君だとすんなり…変ですよっ」
「五月、その話はもういいでしょう」
「…お母さんの意見は聞きません」
「…二月で嫌われてしまいましたか…」
手厳しい娘である。昔は母親がいなければ大泣きして甘えてばかりの泣き虫だったくせに。これが反抗期か。
賑やかな夕食をご馳走になる最中、ご飯を頬張る隣の五月が疑問を投げかけてきた。
せっかくの団欒の中で話しても良い気はしないものだ。先生は露骨に困ったような顔をし、五月の反発に俯いてしまった。
打たれ弱くなった母親を守ろうと姉たちが必死に励ました。
「お母さん可哀想…元気出して」
「大丈夫、明日は五月ちゃんのご飯減らしておくから」
「面倒だしもう飯抜きでいいわ」
「ダメだよ五月、お母さん病み上がりなんだから」
「…」
「おまえほんと母親似だな」
へなへなと五月のアホ毛がしなびれていく。器用な奴だな。ついでに打たれ弱い。
五月のささやかな不満は姉四人から大バッシングを受けてしまった。五月なりに母親を庇う方法を知りたかったんだろう。
肩を落とす先生を不憫に思った姉共四人は母親の味方をするようだが、入院を渋ってぶっ倒れた本人も悪い。
五月の味方をするべく頭を撫でてやった。味方ができたことを良い機に末っ子はこちらにぴったりくっついて姉たちを睨んでいる。何やってんだおまえ、飯抜きにされるぞ。
「上杉君 どうなのですか
教えてくださいよ」
「…秘密だ」
「何でですかっ!?
今後の参考にしたいのですっ」
「何に活かすつもりなんだ、何に」
これまでの不安から疑り深い子になってしまったようだ。先生の表情が一層優れないものに見えるのは気のせいか。こればかりは先生も反省しろよ。
二ヶ月程前になる。新社会人、高校の新米教師として教鞭を振るっていた5月に先生が倒れたんだ。同じく教師として高校に勤めていた日のことだった。
学校側は保健室で休ませた後に受診を勧めたが、先生は早退だけさせてほしいと言って家で休んだそうだ。本当に頑固な人だな。昭和の頑固親父だって病院に向かうわ。
貧血だと決めつけて自宅に帰ったそうだが、五つ子たちが家に帰れば母親が居間に倒れている姿を見て泣いたそうだ。五月から電話がかかってきたのがその時。
先生が倒れてると知って、距離が離れてる俺では間に合わないかもしれないと考えて、すぐに妹と親父、母校に連絡をしたんだ。
一体何人巻き込んだと思ってやがる。俺の判断は間違ってないよな。先生にはやりすぎだと言われたが頷けない。あの後医者と一緒に学年主任にも怒られたらしいしな。
五月が怒るのも無理はない訳で、今回は全面的に五月を支持してやる。五女の言葉の節々に不穏なものが見え隠れしてるが詮索しないでおこう。
「…ヒントをあげましょうか」
「は?」
「お母さんっ」
「…ですが…上杉君だからできることですよ」
「私にはできないことですか…?」
「そう、ですね…
五月、私も深く反省しております
ごめんなさい、苦労をかけましたね…」
「お、お母さんっ…!」
「お、おーい」
五月の奴行っちまった…母親の改心に泣いて飛び込んで行った。
手の平返しが上手いのは五つ子共通である。子供たち全員は母親に寄り添い、俺だけ取り残されてしまった。
先生め、俺を売りやがった。五月を取り戻す為なら他人を辱めることも厭わない人だった。何だよ俺にしかできないってことって。
確かに五月や子供たちにはできないことだが…まだ打ち明けるには早いんじゃないのか、先生。
「できなくてもいいです
上杉君から何て言われたのですか?」
「あ、私も知りたいっ
もしかして、もしかしてっ?」
「フー君も覚悟決めたのかしら?」
「待った! ちょっと待って!
ふ、フータローは…!」
「はいはい、今は静かにしてね三玖」
「…
察している子もいるようですが
そうですね…あえて言うなら」
「せ、先生っ!?」
静かに飯を食わせてくれないようだ。子供たちに囲まれて機嫌を良くした先生が愛する子供たちに暴露しようとして、焦って止めに入る。
先生は口を閉ざしたが子供たちから抗議の視線を浴びることになる。 うるせぇ! お子様は引っ込んでろ! 入院させたんだからそれでいいだろ!
四葉に口を抑えられた三玖が代わりにこちらについた。変わり番こに子供たちがくっついてきて暑苦しいが今は味方が欲しい。全力で抗議せねばならない。
実に落ち着いて過ごせない家である。やや懐かしくも、やはり頭が痛くなってきた。
俺と先生との間に三玖が仁王立ちしている。おまえも大概面倒臭い奴だ。結婚は幼稚園児の時点で無効だと言っているのに諦めの悪い子だ。
「…上杉君も今では先生でしょう」
「…
だったら先輩とでも呼んでやろうか」
「先輩ですか
…どちらでも構いません」
「…先生のままで」
「はい」
小賢しいことを言ってくれる先生を睨んでやりたいが、先生と呼び慕っているのを知られてしまっている身には威厳などない。足元見やがって…
先生の表情は至って健康なものだ。無表情だが。病院に運ばれた時は顔を青くしてたってのに元気になったものだ。
あの時連絡を取って駆けつけたのは妹と親父だった。親父は仕事を途中で抜けて助けに来てくれたそうだ。
俺が合流した時には先生は病院の一室のベッドに横になっていた。命に別状はなかったが、やはり先生の身体は問題を抱えていた。
欝だとか不眠症だとか慌てていた時期があったが結局は入院はしていなかった。やはり大きな問題は過労だったようだ。身体は悲鳴を上げ続けていたのに先生は無視していたのだ。
臓器の機能が著しく低下し、絶対安静を言い渡されたそうだ。今思い返しても寒気がするものだった。過労死で亡くなる社会人は少なくはないのだ。
ちょうど上司にあたる学年主任もきてくれていたのがが、不幸にも医者から聴取を受けることになってしまった。あれはタイミングが悪かったとしか言えない。
勤務の疲労とは別に先生の悩みや欝の気が合わさって起こった問題だ。学校側は先生が五つ子を抱えるシングルマザーだと把握して支えてくれていたそうだ。
話を聞いていく度に病院の医者が怪訝な顔に変わっていく様は見物だった。先生の通院先である係りつけの医者も再三推薦状を書くと言っても聞かなかったと知って溜め息をついていた。
…実際過労死で亡くなる方は自身の体調を軽視する人が多いそうだ。病院に行くように勧められても行かず、普段通りの生活を送っている中でいなくなってしまう。
この人は本当に仕方のない人だ。その上頑固者で臆病者だ。誰かが見てあげないと…安心できないのだ。その日先生は落ち込んでしまい、慰めるのに苦労した。
お陰で柄にもないことを口走ってしまった。いいから食えと席を立った子供たちに冷めてしまった食事を済ませろと促す。
「フータロー、今日は泊まる?」
「無理だろ、狭いし、布団足りねえし」
「空いてる、空いてるから」
「どこが空いてるんだよ」
「私の布団」
「おまえ来年中学だろ
兄離れしろ」
「兄じゃないから問題ない」
「…男を寝床に連れ込むなんて十年はえーぞちびっこ」
普段消極的で内気な子が顔を赤くして自爆覚悟で迫ってくる。火の粉が振りかかるってレベルじゃない。先生と子供たちからの視線が痛い。
三玖は幼稚園の頃から変わっていないな。家以外では口数が少なく、積極性に欠ける大人しい子だ。運動音痴だし。二乃としょっちゅう喧嘩するし。
俺の前でも大人しくあってくれたら嬉しいのだが、その気はないらしい。クールを装っているがまだまだ幼稚な子供だ。
「フー君っ 明日はお休み?
買い物に付き合ってくれないかしら、ママの景気祝いにケーキ作るの」
「胃を悪くした病み上がりにケーキかよ」
「あ、そっか…うーん」
「ケーキぐらい平気です
何もかも制限しないで下さい、上杉君」
「とりあえず生クリームはなしね
食べすぎはよくないし」
「…だから何でこっちを見るんですかっ!」
「肉まんおばけ」
「ちょ、二乃!?」
既に冷めてしまった料理をぱくぱく食べている五月が悲鳴を上げる。誰も太ってるとは言ってねえから食え。
休日は五つ子から外出の誘いを受けるのだが、その中でも二乃の誘いが多い。主に中野家の食材の買い出しが絡んでいるからなのだが。
母親が不在問わず、二乃は中野家の食事当番を任されることが多い。母親とらいはから料理を教わり腕を磨いていた。
お陰でその腕は小学校当時のらいはの腕を越えたようだ。これにはらいはも対抗意識を募らせたそうで料理勝負などもしていたそうだ。
五つ子の中でも特別ませた子である。買出しをデートだと言って連れ回されたこともある。だから三玖と争いが絶えず、帰って早々もめるのだ。
「フータロー君も来てよ
土曜はケーキ作ったり、お母さんのお洋服買って
日曜はお爺ちゃん家に行くの」
「詰め込みすぎだろっ!
月曜から働くとか言ってなかったか!?
前日ぐらい家で休んでくれ」
「楽しみにしてたのにー
心配ならフータロー君が来ればいいんだよ」
「病人を労わってるのに何で俺が悪いように言われてるの」
「退院したのですから病人扱いされても困ります」
「ほらほらー、フータロー君だってまんざらじゃないくせに」
「…」
「私怒られてもしーらない」
「一花のあれ、わざとだから…」
「上杉さんにほっぺ引っ張られるの好きだよね一花」
「一花って男子みたいですよね、好きな子に意地悪したり、嘘ついたり」
「…ガキ大将だから」
「なるほどっ!」
「ちょっとそこうるさい!
い、いひゃいいひゃい!」
やっぱりか、やたらうるさいと思ったらそういう魂胆か。
退院してまだ一週間経っていないのだが。俺が過保護なだけか。
入院は一月かかると言われていたが、実際は二ヶ月を要した。検査する度に何かにひっかかって延びたのだ。その間先生の落ち込みようは酷く、毎日見舞いに行っていた。
無事に完治した後もしばらく経過観察に二週間程入院していたが、ようやく先週退院した。長いこと安静という名の退屈な日々から解放されたこの人は偉い元気になっていた。子供か。
子供を代表して母親の面会には一花を連れて行くことが多かった。授業を終えた放課後に迎えに行き、少ない時間でも先生に顔を見せに行った。
子供たちの中で母親と接する時間が一番多かった子だ。回復を祈り、この日を強く待ち望んでいたのだろう。始終嬉しそうに休日の予定を教えてくる。
長女として立派になったが、お陰で頭が回るようになってきて生意気度も増している。憎たらしいぞ。たまに妙なこと企んでるし。お望みどおり捻ってやる。
「上杉さん、来てくれないの?
休日はよく遊びに連れて行ってくれたじゃないですか」
「ここにいた間はな
俺は先生程元気余ってねえんだ、少し休ませろ」
「…」
「…どうした」
「今度は…上杉さんが倒れちゃうのかなって
ごめんなさい」
「…
安心しろ、俺はまだ若いから」
「…それは誰と比較した発言なのでしょうか」
「四葉、責任持って先生宥めろよ」
「ええええっ!?」
四葉の言葉に一瞬子供たちの空気が変わったが適当にあしらっておく。先生も乗ってくれたようで感謝しておく。他意はないです、本当に。
昔から余計なことに気を遣う子だ。先生が倒れた後は一人で泣いていることが多く、目の離せない子だった。この家出娘を何度探しに出たことか。
一人夜の公園でブランコに乗っているのだ。運動好きなのは知っているが、その光景は見ていて寂しいだけである。
最初は連れ出すのに苦労したが、それからは迎えに来たと知るとブランコから飛び降りて突撃してくるのだ。帰るなら早々に帰りやがれ。なぜ公園で待つ必要があるんだ。
暗い帰り道に小学校で起きた嫌なこと良いこと、くだらないことを話してくるのだ。特別な面白い返答をしているわけでもないのに四葉はよく笑っていた気がする。
母親が復帰しても妙なことを考えてしまうそうだ。先生も悩みが尽きないな。困った子だ。
「上杉君がついてきてくれないと、お母さん倒れてしまうかもしれません」
「脅すんじゃねえよ」
「さぁ、ここは正直になりましょう!
上杉君も昔から、私たちに正直になれと言っていたじゃないですか」
「一言もそんなこと言ってないからな、捏造するな」
おまえ達から学んだ教訓は、正直者は損をすることだ。次いで口は災いの元。
馬鹿真面目におまえ達の約束事を守ってけじめをつけようとしたら、結局小学校も面倒看ることになったからな。あの四ヶ月返せ。出費も酷かったからなっ!
五月の熱い視線が非常に鬱陶しい。おまえもう母親の味方かよ。母親大好きな娘である。
「ごちそうさまでした」
「…
ええっ!?」
話しながらの長い夕食を終え手を合わせる。五月が驚いているが放っておいて食器をシンクに持っていく。
「ま、待ってください!
まだ話は終わってません!
ほ、ほら、私のおかずあげますからっ!」
「俺の飯はもう終わった」
「うわーん! 上杉君酷いですっ!」
小学生が泣き落としするのはやめろ。姉四人も呆れてるぞ。
まったく。
「…わかった、わかった
いくよ」
「本当ですか!?」
「ねえ、何で私だと怒られるのに五月ちゃんはいいの?
なんか納得いかない」
「一花はほら、小細工使うけど五月はストレートだから」
「ついでに泊まっていって」
「そうよ、フー君の家遠いんだから」
結局こちらが折れてしまうのだ。もはや子供たちに良い様扱われる人形になりつつある。本気で考え直さないとまずいことになりそうだ。
少しは威厳を身につけないと今後に支障が出る。…相手から認めてもらえない可能性も十分ありえる。明日の約束以外は無視するに限る。
つい先生の顔を窺ってしまう。先生も食事を終えてこちらに向かってくるところだった。
こちらの視線に気づいた先生は、食器をシンクに置いて頭を下げた。
「いつもすみません」
「暇ですから」
部活動の顧問をやっているわけでもない。休日に予定は今のところないのだ。
生徒や教師から休日何をしているのか聞かれることがある。極めて無趣味である。精々自炊の延長で料理をするぐらいだ。
ほとんど子供たちに連れ出されて、休日の過ごし方など考えることもなかった。まずい、完全に毒されている。俺の時間は俺のものだ。
明日は子供たちに付き合うことは確定しているんだがな。大人とはこのようなものでいいのだろうか。
必要とされる人間になると決めて学業に専念してきた。その結果が今の俺だ。過去の俺が見たらどう思うだろうか。
「…ただいま、と言ってくれましたね」
「は?」
「…いえ、なんでもありません」
「…」
…調子が狂う。本人は至って無表情で変わりはないのに、無性に恥ずかしくなる。
先生の言葉に一喜一憂してしまう自分を呪ってしまう。つい癖で前髪に手が伸びてしまう。これも直さないといけない。
騒がしい子供たちの喧騒の中、先生の視線から逃れようと目を逸らすことで精一杯だった。人の家で何をやっているんだ俺は。
休日することがないと言えば寂しい人間だと決め付けられてしまうが、それなりに充実している。
苦労はする。気まずさもある。喧しいとも思う。社会人になっても恥ずかしく、みっともない姿を晒してしまうこともある。
それでも、今この時間は嫌いじゃないし、何より俺にはしたいことがある。
恩返しはまだ終わっていないのだから。
「泊まっていかれませんか」
恋慕う女性から誘われたら男ならどうする。十中八九了承するだろう。俺も断るほど廃れているつもりはない。
だが悪いが、男の甲斐性とか度胸以前に問題がある。
「いや、遠慮しておきます」
「…振られてしまいましたか」
「…まあ、その、あいつらの甘え方尋常じゃねえし
子供たちに構ってやってください」
「…そうですね」
夕食の食器の洗い物をしながら丁重にお断りする。さり気なく、自然を装って。先生は隣で食器を拭いている。
今日見ただけでも分かる。子供たちのテンションの高さはいつもの比じゃない。母親が無事に退院して数日経過しても甘え足りないようだ。
明日の外出を楽しみにしている影響もある。子供たちは卓を囲んで、遠足前の小学生のように明日の予定を入念に計画しているようだ。
二乃と三玖は風呂に入っているようで衝突なく計画が組み立てられているようだ。無茶振りの多い二乃がいないうちに長女が上手く予定を組んでくれ。
「いつもありがとうございます」
「?」
「私が入院していた期間、その後も…前もですね
自分の時間を犠牲に、子供たちや私に尽くしてくれているでしょう」
「大げさな
飲みの誘いを断る程度だ」
「お酒の場に参加するのも大切ですよ」
「…」
高校時代から変わらないなこの人。いや、俺が変わっていないだけか。
他人との関わりを大切にしなさい。昔からずっと言われていることだ。思い出すだけで恥ずかしいが、触れる物全てに噛み付いていた当時を知っている先生にとって心配で仕方ないのかもしれない。
別に他人を蔑ろにしているつもりはない。行けそうな時は行くし、酒以外の誘いはたまに乗っている。
「まだ済んでねえからな」
「…まだ、とは?」
「…先生と」
「…」
「まだ飲んでねーし
どうせならな…」
未成年の間は先生に早く大人と認めてほしかった。大人になればできることを考えて、一つ思いついたのが酒のことだった。
特別拘りはないが、先生と飲んでみたかったんだ。単純な願望だ。
ただ困ったことに子供がいる手前で酒など勧められないし、先生が酒を嗜む姿は一度も見たことがなかった。誘う機会は皆無だった。
以前、別れた夫の暴力に脅えていたことを聞いている。貧困生活に酒、暴力。あまり良い思いはしない。口が裂けても言えないことだった。
「…また一つ、欲張りなってしまいますね」
「あ?」
「入院中、退院したら何をしようかと…リストを作っていました」
「なんだそれ」
「死ぬまでにやりたい100のリスト…あれに似たようなものです
ご存知ありませんか?」
「…それを例えにされると非常に反応に困るんだけど?」
「…心配性ですね」
「いやいやいや
医者から説教されたの忘れたのか先生」
あんたいくつだよ、まだ35だろ。入院中、気落ちして妙なこと考えないだろうなと不安を抱いていたのだが、的中していた。それ子供たちの前で絶対に話さないでくれよ。
退院を早めてほしい、通院ではいけないのかと病院に抗議していたそうだ。大人しくてしてほしいものだ。完全に問題患者である。医者がキレるのも当然だ。
先生が命を賭しても抱えていたかったもの、子供たちが全てだと言い切れる人だ。その子供たちが心配で寝ていられなかったようだ。普段理性的で善人なのだから性質が悪い。
さすがに入院して一月したら抗議は諦めたのだが、怪しいものを作っていたようだ。つまらない授業中に画策するやんちゃな子供のようで少し笑ってしまった。
少し胸を張って楽しそうに話してくるから尚更。愛おしく思える。
「お酒、今度飲みましょうか」
「…子供がいないところでな」
「自宅でお願いします」
「えー…過保護すぎる」
「上杉君の自宅のほうがよろしいですか?
…以前のように」
「―
ま、まあ…遠いからな、こっちでいいな」
急激に顔が熱くなるのがわかる。つい洗い物の手を止めてしまった。
潔癖のイメージが強い先生からそのような発言が飛んでくるのは予想外だった。
耐性がないわけではない。そこまで子供じゃない。だがこれはあまりにも卑怯だ。
明らかに狙って言いやがった。子供たちの耳に入らないように耳元に寄って呟いてきた。
動揺するな、童貞じゃあるまいし。落ち着け。第一にそういった話なら泊まりを断った時点で振り切ったはずだ。
…まさか最初から誘ってたってわけじゃないよな。いや、これは完全に邪推か。熱くなった頭ではろくな考えが浮かばない。
「お、終わったんで帰るわ」
「はい」
「…恨むからな」
「仕返しを期待しておきましょうか」
「十歳も下だからってなめるなよ…」
「その言葉返しておきます
三玖は本気ですよ、恐らく二乃も…一花も」
「そいつら小学生なんですけど!」
「私の歳を考えたら貴方も小学生ですよ
京都で会ったではありませんか」
「…た、た…確かに…!」
盲点だった。確かに…今の俺の歳ぐらいで先生は昔の俺と会ったのか。
先生が24で当時の俺は小学6年で12歳、今の子供たちと同じ年である。超絶複雑である。
で、それで俺にどうしろと言うんだこの人は。恋愛対象として見ろとでも言うのか。俺はロリコンじゃねえぞ。
…年齢の差を考えると先生はショタコンになるのか。いかん、考えるのはよそう。
とりあえずこの煩悩を振り払うべく退散しよう。明日も顔を合わせることになるんだ。話したいことは明日でいい。
話し合いに夢中になっている子供たちに気づかれないうちに帰ってしまおう。先生も了承して玄関からこっそり出た。
「今日も遅くまでありがとうございました」
「…いえ」
「…いつも…支えられてばかりですね」
「…」
「貴方は私に恩があると、おっしゃっていましたが
これでは釣り合わないでしょう、貴方も我侭になって良いのですよ」
「…我侭ね」
今更何を言うか。気を遣う仲ではないだろう、もう。
…俺が気を遣っているから先生も気が抜けないのだろうか。それは勘弁してほしい。
好きだし、必要とされる人間になると誓った。そんな願望と同時に…敬い慕っていたい気持ちもある。あんたは俺の憧れなのだから。
振り返ると分かったが、面倒臭い男だな。やはり人間として何か欠けているとしか思えない。面目ない。
一つ誤れば逃げられそうである。何度も逃げられたしな。もうあの時のように追いかける気力はない。慎重にならなければ。
「…昔約束しただろ
…あんたが母親なら…俺は父親の代わりになる
旦那が妻を守るのは当然だろ…仕事の範疇だ」
「…」
「…み、見込みの話だがな」
正面から先生の不安に返答したつもりなのだが…失敗してしまっただろうか。先生の顔色は変わらず無表情のままだ。わかりづらい。
焦りが湧いてくる。慎重に考えて誠実に答えたつもりだが…重すぎたか。
い、一応あれから関係は進んでいるはずだから…過去の約束を持ち出すのは問題はないと思っていたのだが――
「すみません」
「せ、先生…?」
反応する間もなく先生はこちらに寄ってきた。
懐かしいような、そんな匂いと柔らかい感触に思考を奪われていると、頬に何かが当たった。
「…
…
いきなりだな」
「すみません」
「謝られても…」
「…今日か…明日ぐらいしか、このようなことできませんから」
「ん?
…は?」
「痕が残ったら大変でしょう」
「…痕?」
「はい」
「…!
あ、明日も外出するんだが!?」
「すみません」
つい口付けされたところを手で隠してしまう。まさか痕付いてるのか。これから電車乗るんですけど!どうしてくれるんだ!
今日の先生はどこかおかしい。絶対におかしい。入院生活で頭のネジがおかしくなったのか。もう一回検査してもらえ。
恋愛映画や小説で、恋人同士がお互いに愛を深める一環でキスは付き物だが。あいつら絶対に気が狂っている。
嬉しいような恥ずかしいような。余裕なんてないぞ。衝動を抑えるのに必死だ。抑えなければ心のまま先生を抱きしめていたかもしれない。
美人は罪である。先生でなければまだ余裕はあっただろう。尊敬する人からこんなことされたら恐縮する気持ちが絡み合ってもがくだけだ。
「…貴方がいじらしいのがいけないのですよ」
「…」
「お気をつけて」
「…加減してくれ」
もう疲れたぜ。まだ頬から手を離せそうにない。後でトイレの鏡で顔を確認しなければ。
いつになっても、この人の言葉と行動には耐性がつかない。
先生の視線が気になるし、話すだけで気分が高揚する。傍にいたら動悸が早まり、触れた時には心臓が跳ね上がって、緊張していることを悟られないよう振舞うことに必死だ。
大人になってからするもんじゃねえ…恋愛は中学高校で慣れておくべきと聞いたことあるがその通りだ。過去嘲笑っていたものの価値を思い知らされた。
恋愛は確かに人を醜くするが、それは必然だ。だから幼稚な時にある程度免疫を付けておくべきだった。勉強も大事だが人間として得るべき知識だった。
後悔しても既に遅い。先生に見送られつつ諦めて帰ることにする。
振り返るようなことはしなかったが、なんとなくであるが…先生はずっとこちらを見送ってくれていたような気がする。
「…はぁ
十も年上なのに…振り回されてばかり」
恩師は衝動を抑え切れず、思いのまま動いた己の意思の弱さを猛省していた。
恩師であり、恋人であっても律するべきものがある。容易に崩壊した自身の理性に乾いた溜め息が漏れてしまった。
しかし、これからだ。もう十分身体は休めた。諦めるしかなかった、そう思い込んでいたものから解放された。もう甘えは許されない。
…このような考え、彼に知られたらまた顔を顰めて怒られてしまいそうだ。それでも良いかと甘えてしまう自分が愚かで、堕落してしまいそうだ。
子供たちとまた暮らせること。好きな人が傍にいてくれることに幸福を感じてならない。これまでも支えてくれたらいはちゃんや、助けに来てくれた二人のお父様にも恩返しを果たせる。
だがその前に、母親としてやるべきことがある。あの三人は気遣い上手な方たちだから、半端な形では逆に気を遣われてしまう。
今は上杉君が言っていた通り、見守ってくれた子供たちといることにしましょう。
本当に、贅沢な悩みだと我ながら苦笑してしまう。
「帰っちゃったのぉおっ!?」
玄関のドアを開けて家に戻ると、寝巻き姿の二乃がショックを受けたように声を上げていた。もう遅いのだから静かに。
二乃も分かっているのでしょう。まだ指摘はしないでおく。
大好きな兄代わりの上杉君が既に帰ってしまったことを一花や四葉、五月から聞いたのだろう。入浴していた二乃と三玖は見ても分かる通り落ち込んでしまった。
「ま、ママっ?
本当に帰ったの?」
「はい、つい先程」
「ええええっ!?
な、何でっ さっき泊まるって話したのに」
「上杉君は了承していませんでしたよ」
「あ、あれ?」
「お母さんからも言ってほしかった…」
「お母さんも振られてしまいました、すみません」
「お母さんもダメだったら…無理」
五月の懇願に便乗していたのは見ていましたよ三玖。五月のように正攻法で誘うべきだと母は思うのですが。
五月の泣き落としも正攻法とは言えませんね。咎めるべきなのでしょうが…また嫌われてしまいそうで気が進まない。
「あー、二乃香水つけたんだ」
「え、寝るのに何やってるの」
「それはいくらなんでも過剰ですよ」
「うるさーい!
あーもうっ フー君泊まると思ったのにぃ…」
「安い香水でフータローが靡くわけがない」
「安くないわよっ」
「何でそんなの持ってるの
無駄遣いしないくせに」
「え"」
「…見覚えがあります、お母さんのポーチに似たようなものが」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
姉妹四人からの冷ややかな視線を受ける二乃の額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。分かりやすい子ですね。
「…二乃?
怒らないから正直に話しなさい」
「ま、ママ?
ほら、退院したばかりだし、怒りすぎは脳卒中になるとかお医者さんが言ってたから」
「怒らないと言っています
私の物を使ったぐらいで怒ったりしませんよ」
「怒ってるじゃん!?」
本当に怒ってはいないのですが…やはりこんな顔では分かりづらいのでしょうか。考えないようにしていたことですがやはり悩ましいものです。
今ではもう小学6年生。来年は中学生。お洒落もしたい年頃でしょう。好きな人がいるのなら尚更。年上ならハードルは高そうですね。
欲しいものも沢山あるでしょう。やはり寝込んでいる暇などありませんね。
子供たちが一つでも笑って、幸せだと思えるように、母として働かなければなりません。愛する我が子の為なら苦労は惜しみません。
ですが、後ろめたいと分かっていながら人の物を使ったことは叱っておかなければなりませんね。この程度で脳卒中を口にされるのも遺憾ですし。
「待ってよ! ストップ!
お母さんいない間、一花だって人の物取ってたんだから
一回や二回じゃないわよ!?」
「泥棒した二乃の言葉は信用なりませんなー」
「一花も裁かれるべき
女の人と付き合ってないか探ってた、こっそりフータローの携帯弄って、パスワードまで覚えて」
「ええええっ!?
一花そんなことしてたの!?」
「テレビで見たことありますが…実際にする人いるんですね」
「あー!? 三玖だって乗ってきたくせにっ!?
お、お母さん待って! これはお母さんの為でもあるから!」
「余計なお世話です」
「…何で一花って平気で嘘つけるのかな」
「と、と、というか四葉! 軽く家出してたくせにお母さんに何も言わないんだ?」
「え!? それはその…!
あ、あー…そういえば五月がね」
「待ってください、いたちごっこになっています
この二ヶ月の間、問題がなかったわけないじゃありませんか
まず二乃が怒られてから整理しましょう」
「開き直るなー!
あんたたち隠蔽したいだけでしょ!
一番悪い奴の考えよ、後で覚えてなさいよ!」
上杉君が頭を悩ませるのも分かります。この子たちは皆我が強い子たちですから。
そう育ったのは親である私の責任。ですがこれで良いと思ってしまうのは間違っているのでしょうか。
いつか私がいなくなっても立派に生きてくれると願っていた。情けない母親の下でも立派に育ってくれたことが嬉しく誇らしく思ってしまう。さすがに親バカですね、この考えは。
…怒られると分かって、子供たちは横に並んでいた。本当に、困った子たちだった。
叱らなければならない。でもその前に、やはり身体が動いてしまった。
子供たち五人を、腕を広げて抱きしめる。
「…苦労を、かけてごめんなさい
欲しいもの、沢山あるでしょう
…少し、待っていてください」
子供たちが我慢しているものは多い。それは物でも、希望でも、善意でも。
誰かを喜ばせる術を知っても、できなかったことが多いはず。
良い子であってほしいと願っても、子が親の期待に応えようとしてもできない時がある。それを叱ることは…親としてやってはいけないこと。
また、頑張るから…どうか待っていてください。
「お、お母さん…違う、違うよ
私たちはほら…フータロー君にいっぱい買ってもらったから」
「ご、ごめんママ、香水使ったのは…その
良いなって思っただけ! だから…気にしないで」
「明日はお母さんの買い物するんだよ?
お小遣い溜めてあるから」
「上杉さんのお手伝いして、ちょっとずつ貰ってたんだからっ
心配しないでね」
「四葉、それは内緒って上杉君が」
「…ぁ
あ、う、うー…
だ、だってお母さんが泣いちゃいそうだからぁっ!」
腕に抱えられている子供たちはされるがまま、少し恥ずかしそうに笑っている。四葉は泣いてしまいましたが。
本当に、貴方たちが娘で良かった。
「お母さん」
「…何ですか、五月」
「…大好きですっ!
えへへ
お母さんが大好きです!」
五月からも抱きしめてくれると、他の子たちも揃って前屈みになるように抱きついてきた。
支え切れず、つい後ろに倒れてしまった。頭を打つことはありませんでしたが、子供五人を抱えると重い。
もう抱えきれない程大きくなってしまいましたか。この五人を産んだ時は苦労しましたが、本当に小さな赤子だったのに、今ではもう抱えきれない。
同じように見える、そっくりな容姿でも貴方たちは一人一人違った個性、輝きを持っている。貴方たちから教えられたものは数え切れないほど多くある。
当時は責任感と、五つ子を生む不安、将来母親として育てられるか恐怖しかなかったけれど、貴方たちが五つ子でよかった。
「私も…
一花が
二乃が
三玖が
四葉が
…五月が
大好きですよ」
この愛情は、綺麗に五等分できそうにありません。
一つ分けた後に、愛おしさが溢れて形が変わってしまいそうです。これでは喧嘩してしまいますね。
ただ一つ言えることは、心から貴方たちを愛していること。
貴方たち五人が健康に過ごしてくれるのが何よりもの幸せです。
子供たちにあげたお小遣いの金額を教えてください。
「…
夜中に何考えてんだあの人
つーか、あいつらまた怒られてんじゃねーだろうな」
端的な内容のメールに怪訝な顔をしつつ適当に返事をしておく。
あの人は不器用だからな…まったく。
一人になっても、愛する子供の為なら身を犠牲にして無茶ばかりする、そんな困った母親なのだから。