五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れるその2 子供事情大人事情

 学生当時は意識していなかったとある常識。平日の労働日が明けた二日間はシフト制でもなければ社会人の休日だ。

 

 今もなお不景気だと嘆かれる現代社会には休日出勤を強いられ、夏の電車内でスーツを羽織る社会人は多い。

 

 サービス業は大変だな、と同情を抱く光景のすぐそばには子供を連れた家族が賑わっている。平日と違い午前から子供のはしゃぎ声が車内に響いている。

 

 他人からすればやや耳障りでくだらない会話の内容のそれに、お気楽なものだと苦虫を噛み締めた気持ちになるだろう。

 

 はたまた、妻子を持つ父親と自身を見比べてしまうか。

 

 だが一つ言わせてもらいたい。その父親だって充実しているとは限らない。

 

 子供の為、妻の為と連日仕事に励み、体を休めたいその休日に叩き起こされているわけだ。文句を言えば父親として不適格だと烙印を押されるし。

 

 家族の為なら頑張れる、なんてとんだ世迷言だぜ。見返りがなくなった時に破綻する考えだ。

 

 逆に考えれば、子供が一人立ちするまでの十数年までの期間限定だからこそ成せることだ。無理は続かない。

 

 何事も適度にこなすことが世渡り上手というもの。俺もそうなるべきだ。

 

 そう誓って今は来週の予定を考えている。現実逃避がしたいわけではない…

 

 やはり…こいつらとの約束事は心身共に疲れさせてくれる。

 

 そんな怠けたい願望が引っ張られる度にすり減らされる。既に両手は痛いし暑苦しい。

 

 

 

「皆勢揃いでお買い物って久しぶりだね」

 

「半年ぶり」

 

 

 

 土曜日。九月の炎天の日差しがコンクリートを焼きつける駅前の商店街を、五つ子とその母親と並んで歩いている。

 

 その雰囲気は夏の陽気に似て眩しく暑苦しいもので、母親が退院してから久しかった家族全員での外出を楽しんでいた。

 

 昨日、五月に泣き落とされたせいで風太郎はこの買い物に付きそうことになった。

 

 お気に入りの店があるとか、駅近くのデパートではなくこの路地を歩かされている。お陰で汗が滲んで気力を削がれている。

 

 後ろを振り返れば、汗一つ見せない鉄仮面の母親が泣き落としの張本人に連れられて歩いている。

 

 

 

「お母さんっ」

 

「どうしました、五月」

 

「…何でもありません

 ただ呼びたかっただけっ」

 

「…そうですか」

 

 

 

 先生は五月の手を掴み困ったように笑った。用もないのに呼ぶとは…お気楽なものだ。

 

 上機嫌に笑う五月はその喜びを手放さないように 一層強く母親の傍に寄り腕にしがみついている。

 

 そんな光景を眺めていると、視線に気づいた二人は恥ずかしそうにやや視線を俯かせてしまった。

 

 久方ぶりの外出を楽しんでるところ悪いが先生。片手空いてるならこっちの喧しい四人から一人預かってくれないか。

 

 

 

「お母さんのお洋服買うんだからさ、フータロー君も選んでね?」

 

「フー君はセンス壊滅的だからコメントは受け付けないわよ」

 

「あ? 失礼な、四葉と同レベルの自信はあるぞ」

 

「じゃあ四葉も除外しとくわ」

 

「何か私まで巻き込まれてる!?」

 

「そのリボンはいつ卒業するんだ」

 

「同レベルならフータローもリボン付けてみるとか」

 

「あはは、フータロー君なら似合うかも」

 

「上杉さん、どーぞお納めください!」

 

「ハンカチ代わりにしてやろうか」

 

 

 

 頭のリボンを厚かましく献上してくる四葉の頭を押し返す。このクソ暑い中馬鹿やってんじゃねーよ。

 

 年長者に対して失礼極まりないガキの相手は仕事の時だけで十分だ。しかも保護者が真後ろにいるし余計に疲れる。

 

 この場に限ってはいっそ嫌われているほうが気楽なものだと思う。母親の退院を心待ちにしていたのになぜか俺のほうへ集まっていた。

 

 大方、母親が恋しくて泣いていた五月に遠慮しているんだろう。姉として妹を気遣う姿は涙ぐましいが、生意気な態度で台無しだ。

 

 一花の目当ての洋服店に着いたようだ。そこそこ大きく高級感が漂う店だ。値段を見てみれば安くはないが手が出せない程のものではなかった。

 

 ちっ…妥当なもの選びやがって。子供たちに財布事情を網羅されているのではないかと疑ってしまう。他人である俺の財布の中身を。

 

 贅沢を禁じている子供たちには珍しいことだ。なぜ今になって服を買うのか子供たちに問い質した。

 

 

 

「お母さんの、飾り気のない地味なのばっかり」

 

「お母さんが退院したらみんなで買おうって決めてたんです」

 

 

 

 お洒落にうるさくなった子供たちから内心不満が上がっていたようだ。比較的洒落込まない三玖からの駄目出しは重い。

 

 先生の服装で思い浮かぶものといったら。年相応というか、落ち着いたものばかりで鮮やかさには欠けているのは確かだ。

 

 それはそれで似合っていると思うんだがな。鬼教師と呼ばれていた程だし、至って静かなこの人には飾り気のないものも様になっている。

 

 男の意見と娘からの意見は段違いのようだ。本人は気乗りしないようだが、子供たちからは何か使命感を背負ったような意気込みを感じられる。

 

 俺の隣に寄って時折困ったような顔をしていたが、先生は強引に店内に押し込まれていった。

 

 中野家一行の後に続く。元教え子が助け舟を出さないことを知って先生は抵抗を始める。お陰で店内で目立ち始めた。

 

 

 

「私ももう着飾れる年齢ではありません、お金がもったいないもの

 それよりもお母さんは貴方たちのお洋服を買いたいわ、来年は中学生ですし」

 

 

 

 世の30代に謝れ。35で何言ってやがる、あんた外見20代のそれだぞ。

 

 母親として子供たちに贅沢をさせたい親心が痛むようだ。以前から物を買ってあげられなかった不甲斐なさに悩んでいたと聞いている。

 

 子供たちは未だに表情が晴れない母親の手を引いて店の奥へ進む。綺麗に並ぶ衣服に目を通し各々物色している。

 

 付添い人は子供たちのお眼鏡に適うものを手に入れるまで待機してよう。店の近くに広場があって、そこのベンチに座って待つことにする。

 

 

 

「…憎たらしいほど良い天気だ」

 

 

 

 店内と違い暑いことこの上ない。だがあの場にいるよりは居心地が良い。

 

 先生が無事に退院し、価値観を見出すのも愚かしいような日常を過ごしている。

 

 五年程待ち望んでいたものだがあまり実感はない。何かが変わった印象も薄い…先生が入院中もよく顔を合わせていたせいか。

 

 しばらくして三玖が戻ってきた。その顔は膨れっ面だった。また喧嘩でもしたのかあいつ。その後ろから四葉も続いて店から出てきた。

 

 

 

「二乃から…私が選ぶ服はダサいとか言われたから、私もフータローと待つ」

 

「私も上杉さんレベルなので抜けちゃおー」

 

「皆で決めるんじゃなかったのかよ」

 

 

 

 集団行動からはみ出てきた三玖と四葉が両隣に座ってきた。この暑い中待つなんて物好きな。

 

 二人が座ってから、しばし無言だった。どこか重苦しい空気も出てきた。

 

 広場には大きな噴水もあって水着を着た幼い子供が水浴びをしていたりと賑わっている。

 

 端から見れば喜怒哀楽を切り分けたような極端な構図に笑ってしまう。

 

 近頃は陰湿なニュースも見られる。近くの親子連れに怪訝な目で見られていると両隣の二人が見せ付けるようにくっついてきた。何に対抗心を燃やしているんだ。

 

 

 

「お母さん、もう元気になったんだよね…?」

 

「ああ、家でも元気してるだろ?」

 

「お母さんは辛くても隠し通す」

 

「もう、お薬飲まないんですよね?」

 

「…風邪ひいたら飲むだろ

 流石にあの一件で懲りたみたいだぞ、あの人」

 

 

 

 頭上の晴天のように晴れやかに今日を迎えて楽しめていたわけではなかったようだ。

 

 また無茶をすれば繰り返すだけ。だがそれも…もうないだろうと思っている。

 

 この子たちも大きくなったものだ。思春期も近いしあまり子供扱いしていると本格的に嫌われそうだ。

 

 小さかった頃は背伸びして腰にしがみつくのが限界だったが、今では抱きつかれたらもう動けない。

 

 袖や太ももを掴んでいた手はより近く、容易に掴んでくる。

 

 

 

「フータローがいなかったら、きっとお母さん大事になってた

 今日のように一緒に買い物なんて行けなかったと思う」

 

「うん…あの時はらいはお姉ちゃんも、おじさんも来てくれて

 私たちだけだったら、泣くだけで何もできなかったよ」

 

「…」

 

 

 

 当時を思い返して俯いていく二人に何と声をかけるべきか。躊躇った末に風太郎は何も告げられなかった。

 

 先生が家で一人倒れた日があった。貧血だと、悲鳴を上げている自身の体を軽視して早退したらしい。

 

 子供たちは放課後帰宅し、家の中で倒れて動かない母親の惨状を目のあたりにした。携帯を握って泣き叫ぶ五月から助けを求められたのだ。

 

 パニックになった子供たちに救急車を呼ぶ知識はなく、俺が代わりに知らせて、らいはと親父にも協力を願った。子供たちには忘れられない出来事だ。

 

 しかしあの人、倒れて担ぎ込まれたにも関わらず、入院はできないとか我侭を言った時は流石に怒りが募ったぞ。説得に熱が篭もってしまったものだ。

 

 あの一件はこいつらの中ではまだ消化不良のようだ。俺がフォローしてもいいんだが、こればかりはあんたがケリをつけるべきだぞ先生。この子たちはあんたを慕って傷ついた。

 

 無言を決め込んでいる風太郎に、子供たちは一息ついた。

 

 

 

「上杉さんはお兄ちゃんだけど…

 お父さんって、こんな感じなのかな」

 

「フータローがお父さんなんて嫌」

 

「…」

 

「…なに?」

 

「なんでもねー」

 

 

 

 今までは俺も否定的だったが、今ではその言葉は棘のように刺さる。風太郎が反対しないことに三玖から睨まれてしまった。

 

 三玖の相変わらずな態度に四葉がジト目になって呆れている。

 

 

 

「それさ、三玖がお嫁さんになるって話でしょ?」

 

「…うん」

 

「…で、お兄さんのお返事はいかがなものでしょうか」

 

「時効」

 

「…知ってたし」

 

「三玖ってメンタルタフになったよね」

 

「もう慣れた…」

 

「それは成長とは言わないからな」

 

 

 

 振られる耐性を身につけられても虚しいだけだから。昔は涙目混じりに怒っていた子は今では諦め半分、意地を張って主張し続けている。

 

 

 

「…諦めたくない」

 

「…三玖…知ってるだろ

 俺が好きなのは――」

 

「あ~ 今までにない良い買い物だったわ」

 

 

 

 声の主のほうへ顔を向けると二乃たちが店から出ていた。どうやら買い物は終わったようで二乃の腕には大きな紙袋が抱きしめられていた。

 

 二乃に並ぶ二人の娘も上機嫌に母親と団欒を楽しんでいた。

 

 

 

「お母さんってほんとスタイル良いよね

 遺伝子ちゃんと受け継いでるといいんだけど」

 

「私は外見もですが、お母さんのような知的な大人になりたいです」

 

 

 

 娘からの賛辞にいつもの鉄仮面は崩れそうで崩れない。極めて謙虚な先生は素直に受け止められないようだ。

 

 ベンチに座る俺たちと合流すると、三玖は顔を上げずにそっぽを向いていた。

 

 三玖の機嫌の悪さに首を傾げる姉たちが、四葉から説明を聞いた途端に揃って渋い顔をした。

 

 

 

「また? まさかママとの買い物中にまで…ほんと空気読めない子ね…

 …しつこいと最後は嫌われるわよ」

 

「早々に諦めた二乃や一花に文句言われたくない」

 

「あ、諦めたわけじゃないわよ、フー君を困らせるのは本望じゃないもの

 でも攻める時はそのつもりだから、覚悟しときなさいフー君!」

 

「三玖はお子様だね

 押してばかりじゃ男子のハートは掴めないぞー

 逆に気を引いてみたりさ、もうちょっとトリッキーにいかないと」

 

「おまえら分相応な恋愛しろ」

 

「何で二人がこんなに余裕なのか信じられない…」

 

 

 

 おまえら、俺が誰と付き合ってるのか知らないわけじゃないだろう。口で明かしたことはないがもう察してるだろ!

 

 子供の本気と冗談の線引きができない。なにせこの二人は無邪気に笑っているのだから。

 

 そんな姉の振る舞いが理解できない三玖は俯いていく。それは自己嫌悪か、姉への反発心か。

 

 傍から離れない三玖を見かねて、妹に甘い長女が苦笑してフォローを入れてきやがった。

 

 

 

「でもさ、フータロー君だって十歳年上のお母さんと付き合ってるじゃん、不公平ですなー」

 

「12年と11年、私たちより1年も差が広いしね」

 

「そう、それ、一人だけずるい」

 

 

 

 立ち直りが早い…伏せていた顔を上げて抗議する三玖に俺だけでなく四葉と五月まで呆れている。困った三女だ。

 

 

 

「おまえら、俺のこれまでの苦労を知って言ってんだろうな?

 俺だってこの人に何度も振られたんだぞ」

 

「どうせ私より少ないし

 私余裕で二桁越えてるんだけど?

 フータローは罪の重さを自覚するべきだよ」

 

「軽はずみにアピールして撃沈するおまえと同列にするな

 昔のほうがまだ可愛げあったぞ」

 

「誰のせい…?

 十一歳年下の私が駄目なら…十二歳年下のフータローが先にお母さんに振られるべき

 大丈夫、慰めてあげる」

 

「おまえほんと生意気になってきたな…!

 あ、おい、待て!」

 

「べー」

 

「そうやって遊んであげるから三玖がじゃれるんだよ、フータロー君」

 

「ああなったのはあんたのせいじゃない…」

 

 

 

 普段気弱で大人しい子供にも譲れない時はあるようで、この話題になると三玖はとにかくしつこい。四葉が言っていた通り昔と違い逞しくなったように見える。

 

 どう見ても姉の悪い部分を継承してしまったようで、生意気な言葉でからかってきては逃げていく。大して足も速くないのに追いかけっこに誘ってきやがる。

 

 追いかけないと物陰からじっと見て不機嫌になるものだから、身内が不憫に思って催促してくる始末。仕方なく逃げ回る三玖を捉えて遊んでやる。

 

 好かれたいのか嫌われたいのか分からない奴だ。その甘える気持ちが純真無垢な分性質が悪い。そこまでしても俺に嫌われずに好かれ続ける自負がどこから湧いてくるんだ。

 

 数分の奮闘で呆気なく三玖を連行すると五月が咎めてきた。

 

 

 

「三玖は…諦めが肝心です」

 

「何でフータローが良くて私がダメなの

 年上でもいいのに…」

 

「三玖って挫けないんだね…私には無理だよ」

 

「冗談言わないで、振られた夜一人で泣いてるのよ」

 

「ええええっ!? 初耳だよ!」

 

「あんたすぐ寝るから…」

 

「こ、今晩は起きてみる」

 

「やめて、泣かないし」

 

 

 

 いつもと変わらない賑やかな子供たちの横に佇む先生からの無言の視線が痛い。この人何も言わないからな…

 

 あの時、病院でも強く言いつけられたことだが。子供が願い、その気があるのなら叶えて欲しいと言われた。やはり本気のようだ。

 

 謙虚と言えば美徳だが、実に自分を卑下してばかりな人だ。だから子供たちも戸惑っているんだぞ。

 

 五月の指摘に居た堪れなくなり、もはや意地を張っているだけの三玖が、降ろしていたこちらの腕を退けてそのまま腰にしがみついてきた。

 

 暑苦しい、小六になってまでくっついてくる子供を引き剥がそうとするとちゃっかり一花が手を握ってきていた。

 

 さらに四葉が背後からよじ登るように首にしがみついてきた。暑苦しいし苦しいし重い…つーか痛い!

 

 五月も続いて片方の手を掴んできて、二乃は正面から突撃してきた。何なんだこいつら急に。

 

 幼稚園児とは違うんだ。もう子供五人を抱えてやれないしそんな年じゃないだろ。来年は中学生だし自重してほしいものだ。

 

 

 

「フータロー君がお母さん好きすぎなのと同じくらい、私達も大好きだもん」

 

「俺も嫌ってはねえよ

 …三玖も泣くな

 知ってるから、おまえの気持ちが嫌なわけじゃねーよ」

 

「うん…ごめん」

 

 

 

 三玖がしがみついてきたのは涙を隠すためか。顔を埋めて擦り寄る子は必死だった。

 

 それを誤魔化そうと一花が気を逸らし…それに妹三人が続いてきたようだ。なんつーいらない連携力だ。泣かせたのはおまえらじゃねーか…

 

 

 

「ね、今度はフー君の服買ってあげる!」

 

「いいですね、お母さんと一緒にお出かけ用の買いましょう!

 お母さん喜びますよ!」

 

「嫌だ、恥ずかしい」

 

「うーん、私は一緒にいられるなら何でもいいやっ

 大好きなの変わらないし、ししし」

 

「四葉…おまえが一番可愛い」

 

「やったー!」

 

 

 

 そうだ、俺たちは貧乏人なんだから高望みもしないし、余計なものは求めず捨てておくべきだぜ。

 

 その点四葉はよくわかってくれるようだ。あまりにも愛らしいその主張に撫でてやった。

 

 子ども扱い極まりないものに両手を上げて喜んでいた四葉だったが、間近に押し寄せる怒気に真夏のものとは違う冷や汗が流れていた。

 

 

 

「四葉、本音を言ってみ?」

 

「四葉、良い子ぶっていつも抜け駆けする…」

 

「四葉、隠れて一人占めするの好きですよね」

 

「皆が上杉さん困らせるからじゃん!?」

 

「なんか癪に障るのよ、良い機会だわ

 私たち家族かフー君、どっちか選びなさい」

 

「あれ、それ上杉さんに言うセリフじゃ…お仕事と家族どっちだーって」

 

「はっ 姉妹だからって押し付けがましいぜ…四葉は昔から俺の味方だ

 さあ心のままに答えてごらん、正直に言うだけでいいんだ、四葉

 俺は信じてるぞ、四葉」

 

「うわーん! 皆して私虐めないでよー! おかあさーん!」

 

「仲いいですね」

 

「虐められてるんだってばっ!」

 

 

 

 ちっ、結局は母親か。四葉は俺でも姉妹でもなく母親のもとへ全力で走って逃げていった。その足を呼び止められるのは母親だけのようだ。

 

 四葉の奴。先生が入院してる間に寂しくないのか問い質したら、親からは卒業したとか言って見直したが…できてねえじゃねえか。

 

 母親の背中からこちらを警戒する子供はもう放っておく。四葉が盾にする母親の目が怖かったからじゃない。あまりやりすぎるとゲンコツをくらいそうだ。

 

 

 

「でも上杉君がお父さん…ふふっ

 …えへへ、それならずっと一緒にいられるね、お兄ちゃん」

 

「断固拒否…」

 

「もう…三玖は独りよがりが過ぎるとは思わないのですか」

 

「…私と付き合っても一緒なんだけど…」

 

「お母さんから盗ったら駄目ですよっ」

 

 

 

 賑やかな喧騒も静まったと思ったらすぐさま第二ラウンドが始まろうとしている。

 

 おまえら先生の買い物を楽しみにしてたんじゃないのか。この状況は今までに何度も見てきた日常の姉妹喧嘩でしかない。

 

 今日はどうも三玖が引けないようだ。至って母を思う五月との衝突は流石に見かねた母親が言葉を挟んできた。

 

 

 

「…よしなさい

 親だからといって、娘の気持ちを蔑ろにするつもりはありませんよ」

 

「お、お母さん…でも…

 一花も二乃も我慢してるのに三玖は」

 

「恋に我慢をしてはいけないもの

 三玖、上杉君とよく話し合って、ね」

 

「…うん、ありがとう…お母さん」

 

 

 

 収拾のつかない騒ぎは母親の言葉で簡単に収まった。もう最初からこうしてくれ。

 

 三玖との件は風太郎に一任しているようで、それ以上は何も告げず子供たちに次の予定を窺っていた。

 

 気を取り直して一花と二乃が次の店へ案内し始める。まだ続くのかこの買い物は。暑いし一旦涼みたい気分だ。

 

 何年経ってもこの五つ子に対する悩みは尽きない。それどころか成長するこいつらの主張に振り回される頻度が酷くなっている気がする。

 

 ふとポケットの携帯から着信音が鳴った。まさか仕事絡みかと思ったら…妹からのメールだった。

 

 

 

「…」

 

「上杉君…?

 どうか気を悪くしないでください

 …三玖をお願いできませんか…?」

 

「いや、違うから

 来週も気が重いってだけだ、恐らくあんたも」

 

「はい?」

 

 

 

 歩の進みが悪いことを察して先生が声をかけてきた。五つ子も揃ってこちらに向かってきて仰々しいものだった。

 

 落ち込んではいない、と子供たちを手招いて携帯の画面を見せ付けておいた。母親には秘密にして。

 

 子供たちの顔がみるみる綻び、笑顔が咲いていく。視認できない母親はただ首を傾げるだけだったが、子供たちのはしゃぎ様に胸を撫で下ろしていた。

 

 俺にできることなんて本当に限られたもので、支えられてばかりだ…あいつには頭が上がらない。

 

 多少お節介が過ぎるがな、今回も同じく。子供たちに悟られないよう、兄はそう苦笑せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プライベートでも教鞭を振るう教師というのは珍しいのではなかろうか。

 

 休日を終えれば仕事が待っているわけで、忙しない日々が過ぎて今日は金曜日を迎えている。

 

 先週の土曜は先生とその子供たちの買い物に付き添い、その翌日の日曜日。予定では先生は心配をかけた実父に退院の挨拶をするはずだった。

 

 だが、あちらから断られたそうだ。しばらく安静にしていなさいとお叱りも受けて。ごもっともである。

 

 一方で、その過剰な気遣いを娘たちに譲り渡して欲しいとも思う。

 

 三玖が俺と接する上で恋心とは分け隔てた理由を求めていることは知っていた。好きという気持ちは相手に知られていると言葉を詰まらせるものだ。

 

 その結果がじゃれてくるような、生意気に煽ってくる言動だった。

 

 一花にも似たようなものを窺える。追いかけっこも、単に触れられたい願望から作られた理由だろう。あの年頃は異性に関しては周りの視線に敏感だ。

 

 逆に二乃は昔と比べて甘えてくることが多くなった。振り向いてもらおうとませたことをして、風太郎を喜ばせようとする。

 

 そんな二乃と仲が良い五月は昔と比べてしっかり者になった。相変わらず食いしん坊だが母親を意識しているようだ。

 

 一方で、あくまでも我が道を行く四葉には…今では大人しくなったものだが、だいぶ手を焼かされた。

 

 恐らく姉妹の中でも一番最初に変わろうとした子だ。見比べられることが多い学校生活でも似た容姿を持つ五つ子に不満を抱き、そのジレンマは先生も察していた。

 

 抗うように活発になっていき、昔から好きだった運動も学年トップに至るほど得意になった。だいぶ天狗になっている部分もあるようで、その鼻がへし折られないか不安だ…

 

 そんな生意気で見栄を張る子供たちも今は口を閉ざし、苦悶や憂鬱と言った表情を浮かべている。これの何が苦痛なのやら。

 

 今日は俺のもう一つの仕事を果たしに中野家を訪れている。

 

 情など一切ない、家庭教師の時間だ。早速二乃が挫けてちゃぶ台に突っ伏した。

 

 

 

「うぅ…距離とか速さとか…もー訳わかんないわ

 将来使わないようなことばっかり」

 

「おまえが普段携帯で使って最寄の店探すのだって、この計算使ってるだろ」

 

「嘘!?」

 

「省略されて便利になっているだけで、知らずに触れてるものは多いぞ」

 

「うー ならそれ使って生きていくから知らないままでいいわ…」

 

「なるほどな、その文明利器を取り上げれば嫌でも覚えると」

 

「やめて! 携帯取り上げられたら絶対死んじゃう!

 フー君、女の子虐めてるようじゃモテないわよ! 私は我慢できるけど!」

 

「最後の主張はいらない…

 というか二乃には調度良い、ご飯の時も携帯弄るし行儀悪い」

 

「ふんっ 偉そうに文句つけるのなら、あんたが料理当番やってみなさいよ

 火傷と切り傷で諦めたの忘れたのかしら、やり遂げたら私もやめてやるわ!」

 

「…いいよ、やる

 七難八苦は上等、鹿介も言ってた」

 

「…鹿? 鹿介って誰?」

 

「せ、せめて黒くないものでお願いね三玖」

 

「…

 え、今料理がどうの…はっ! 冗談ですよね三玖!?」

 

 

 

 聞き捨てならない料理担当の変更に真面目に取り組んでいた五月まで顔を上げてしまった。余計な私語は謹んでほしい。

 

 今日は雨が降っている。夏の雨は暑さも引いて、差して寒くもない居心地の良いものだ。翌日の灼熱の暑さには嫌になるがな。

 

 夏の独特の匂いと雨音の静けさは心を鎮めてくれるものだが、ちゃぶ台を囲んで勉強に取り組む子供たちにはナンセンスなもののようで、相変わらず騒がしい。

 

 この家庭教師の役目は五つ子が小学一年の頃から続けているもので、かれこれ六年目に至る。今年からは仕事が手早く済んだ日に限り教えている。

 

 思えば、これが生命線だったのかもしれない。理由があるだけで他人に向ける重苦しくなる心を軽くさせてくれる。

 

 

 

「フータロー君、解けたよ」

 

「やはり算数は強いな、一花

 うん、あってる、OK」

 

「いえーい、1抜けー」

 

「む…

 上杉君、ヒントとか…ッ」

 

「三玖を見習え、苦難を自分から求めるなんざ良い度胸じゃねーか

 その式は合ってるからもう少し粘ってみろ、五月

 三玖、おまえにはこの問題も追加」

 

「いや、私が願ったのは料理当番であって」

 

「選り好みしたものを苦難とは呼ばないんじゃないか?」

 

「…意地悪…」

 

 

 

 得意な算数なら比較的真面目に取り組んで課題を追えた一花に競争心を燃やす五月が焦っているようだった。ゆっくりやれば問題ないから止めておいた。

 

 三玖が言っていた鹿介とは確か毛利と争った尼子三傑の内の一人だったか。

 

 願わくば我に七難八苦を与えたまえ は有名な台詞だったような。昔、歴史の先生が言っていたな。

 

 お望み通り七難八苦を与えてやることにする。これもおまえの学力の為、強いて言えば中学の学力テスト大いに不安しかない中野家復興に貢献する為に努めるがいい。

 

 二乃がざま見ろと言いたげに笑っていることに三女はおかんむりなようで睨み合っていた。おまえも追加してやっていいんだぞ二乃。

 

 

 

「…」

 

「…こっち来たらどうだ」

 

 

 

 剣呑な空気を見せる二乃と三玖の間に挟まれている四葉が無言で助けを求めているから解放してやる。

 

 この子も五月と同じく真面目に取り組んでいて教え甲斐があるが教師に頼ろうとしない子だった。ノートの内容を見れば芳しくない状況で仕方なく一から教えてやることになった。

 

 そんな賑やかな授業は20時を過ぎたところで終了とする。1抜けした一花を除く四人が同時に姿勢を崩して開放された。

 

 ちゃぶ台に置かれた教材を片付けると子供たちは夕食の準備に取り掛かった。

 

 今日は先生帰りが遅いのか。既に20時を過ぎて外は真っ暗で雨も降っている。病人扱いすると怒られそうだがやはり帰りが遅くなると不安だ。

 

 メールで帰りを確認するのも、急かしてしまうようでしたくない。雨の中小走りさせたくもなく、何も言えず待つだけ。

 

 夜空から静かに雨が降る中、傘を差してアパートの前で待つことにした。ただ暇だったからに過ぎない。心配は杞憂に終わることになることぐらい分かっている。

 

 今までも無意味な事ばかりしてきた。わかっていても繰り返すのはなぜか…まだ分からないでいる。

 

 そんな風太郎を、一花と三玖、五月が玄関のドアを開けて眺めていた。

 

 

 

「あはは、流石に鬼教師のフータロー君もお母さんには甘いね…」

 

「うん、フータロー優しい」

 

「あれ、そこは認めるんですね

 お母さんに取られちゃうとか、嫌がるかと思いました」

 

「フータローの、お母さんを見る目好きだから」

 

「でも寂しそうだねぇ、あの背中は

 お母さんも罪が深いなー」

 

 

 

 静かな夜に何やら話し声と水を弾く音が聞こえ、振り返ると五月が傘も差さずに走ってきた。

 

 傘を向けると、雨が降る夜とは正反対な無邪気で明るい笑顔を向けて隣まで駆けてくる。

 

 

 

「濡れるぞ」

 

「私も待ちますから」

 

 

 

 この行いに意味などないのに。気持ちがわからないわけでもなく、五月が濡れないよう、背丈が合うようにしゃがんで傘を差す。

 

 開いた玄関のドアや周りの家々の窓から零れる光と、遠くに並び立つ街頭の明かりだけが夜を照らしている。

 

 その明かりは控えめな雨が作り出した水溜りに反射して、暗い夜を輝かせてくれている。

 

 雨の中あの人を待つのも、そう悪いものじゃない。見慣れた賑やかな思い出の風景も、今はただ静かで少しだけ幻想的に思わせる。

 

 

 

「これがずっと続けばいいな」

 

「あ?」

 

「皆がいて、上杉君が来て、勉強教えてくれて

 ボロボロでも、明かりが点いたお家でお母さんの帰りを待つの

 おかえりなさいって、頑張って働くお母さんを温かく迎える

 そんな毎日です」

 

「…ああ」

 

「今までずっとそうしてきましたけど

 帰ってきてくれたお母さんと過ごして…とても大事なことだったと思ったの」

 

「…そうだな

 だがそれでも、いつか変わる日が来るだろうがな」

 

「え…?」

 

「驚くことじゃないだろ、おまえが変わるんだよ

 おまえが変わらずとも、おまえら姉妹の内の誰かが変わる

 おまえや先生にとって寂しさを抱えずにはいられないだろうが…不幸せにはならないさ」

 

「…そうなのかな…」

 

 

 

 幸福を実感し抱えていたい五月は納得できそうにない。

 

 寂しいが…寂しいことじゃない。そう笑ってやると雨の向こうに人影が見えた。

 

 ゆっくりと近づくそれは、やはりあの人だった。

 

 

 

「こんな雨の中で…濡れているじゃありませんか」

 

「雨は嫌いじゃねーしな、それにこんな雨なら調度良いぐらいだ」

 

「お母さん、おかえりなさい!」

 

「…ただいま帰りました、五月」

 

 

 

 やはり呆れられてしまった。俺だって逆にあんたが真夜中に外で待ってたら呆れる。

 

 我ながら何をしてるんだか。あまり指摘されても困るわけで早々に戻ることにする。

 

 五月は先に家に上がり、先生と並んで濡れた傘を畳む。

 

 

 

「…

 ただいま」

 

「…ああ

 おかえり、先生」

 

 

 

 …なぜか無性に恥ずかしい。今それを聞かされるとは予想外だ。いや流れを考えれば当然これに至るんだが。

 

 

 

「外で待つのは、よしてくださいね」

 

「暇だっただけだ」

 

「冷えないように、お家と子供たちを温めてくれるだけで十分よ」

 

「…

 今は夏だ」

 

「はい」

 

 

 

 …くそ…やっぱりこの人は苦手だ。落ち着かないし、顔も見れそうにない。

 

 先生から逃げるように中野家に上がり込んだ。あー、らしくない。無駄なことは嫌いなのに何で俺はあんなことを…

 

 今日の務めを終えた母親の帰宅に子供たちは温かく迎え入れた。

 

 

 

「お帰りお母さん

 あ、カバン濡れてるじゃん、拭いとくよ」

 

「ママ濡れちゃった?

 お風呂先入る? ご飯すぐ用意できるわよ?」

 

「まだ皆食べてないのね

 お腹空いているでしょう? お夕飯をいただきたいわ」

 

「気にしなくていいよ、入っちゃいなよお母さん」

 

「…ええ、それじゃあ…甘えさせてもらうわね」

 

 

 

 娘が五人もいれば家族を一人迎えるだけで騒がしくも華やかなものだ。

 

 先生の意識が子供たちへ向いて安堵する。少し落ち着かないと胸の動悸が治まりそうになかった。

 

 俺が影で先生を意識してしまっていることに感づいた一花が、何やら笑ってやがる。おい何をするつもりだ。

 

 

 

「そーだ、フータロー君と入ったら?」

 

「そうですよ、上杉君も濡れてますから調度いいです」

 

「…家のお風呂は狭いのですから」

 

「いいじゃん、いいじゃん」

 

「…」

 

「…俺は帰ってから入る」

 

 

 

 ええい、からかうな、弄ぶな。母親を辱めて楽しいのかこいつら。帰ってきて早々疲れさせてくれるなよ。

 

 先生はいつもの冷めた表情でこれ以上は関知せずといった態で諦観を決め込んでいる。昔から逃げるのが得意な人だった。

 

 

 

「…もしかしてフータロー、狙ってやってた?」

 

「は?」

 

「…えっち」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 仮にも想い人がいる手前、今まで地道に積み上げてきた信頼を地獄に陥れようとする三玖がいじらしく呟いた。か細く呟いても爆弾発言でしかない。

 

 こ、こいつ…絶対に泣かす。今日という今日は許さねー…!

 

 昔、綺麗な花を手に告白してくれた愛らしい子だったが、今はただその可愛さ余って憎たらしい小悪魔にしか見えない。

 

 もう嫌われる覚悟でお灸を据えてやろうじゃねーか…

 

 

 

「ひゃー! 上杉君が怒ったお母さんみたいに! 三玖謝ってください!!」

 

「み、三玖! 上杉さん本気で怒ってるから! っていうか何てこと言うのぉ!?」

 

「…三玖、ちょっとこっち来い」

 

「や、やだよ」

 

「お、フータロー君照れてる? 照れちゃってるー?

 いたぁっ!」

 

 

 

 失礼極まりない長女の頭にゲンコツをいれて、狭い家の中走り回る三玖を捕まえることにする。

 

 三玖の勘違いは心外である。ここは意地でも訂正させないといけない。

 

 長女が頭を抑えて崩れ、三女が柄にもなくはしゃいでいる。家事を担当する二乃は赤く染まった頬を手で覆って何やら悶えていた。

 

 

 

「恥ずかしがらなくていいのよ

 人目につかない夜の雨の中でひっそりと逢引なんて、流石フー君ね」

 

「そうかな? 私は晴れてる日が良いと思うけど」

 

「分かってないわね四葉

 傘で覆われた視界じゃ相手は見れないわ、声と足音に集中するしかないじゃない

 相合傘にはない切なさがより一層、思いを燻らせるのよっ

 寄り添おうとしても傘が重なって寄れないのが、憎くもそんな距離感が落ち着く意気地なしな自分…いいわっ」

 

「おー、なんか雨デートも味があっていいかもね!」

 

「五月もいたし!

 つーか味って何だよ、湿気か!」

 

「…は?

 …ちょっとしらけるからフー君ちょっと黙ってて、今四葉と盛り上がってるところ」

 

「おまえに意気地なしの人間の気持ちが分かるとは思えん」

 

「フータロー…降参…」

 

「…貴方たちは変わらないわね…もう遅いから静かになさい」

 

 

 

 三玖を捕まえて、その額に指の間接をぐりぐりと押し付けていると先生に咎められてしまう。解放すると罪人はなぜか残念そうに俯かれてしまった。触れ合いがご所望ならもっと別の主張でこい。

 

 結局風呂より先に夕食を優先することになった。騒がしくしてすみませんね。大体一花と三玖が悪いんだが。

 

 あれだけ人を怒らせといて当人たちは図々しく俺の両隣を占拠して夕飯を食べている。もう疲れた…こいつらには勝てそうにない。

 

 好意は嬉しいが、大人としての威厳に欠けるこの身は複雑だ。高校の生徒たちに知られてみろ。教壇に立てなくなる…

 

 おまえ、俺の仕事が駄目になったら責任取りやがれ。そう睨むと三玖は見られていることに徐々に赤面していった。

 

 そっちのほうがまだ可愛げがあるぞ。ぺしっとその額にデコピンしてやると三玖はより一層、指先だけが触れる温もりに照れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の土曜日。あと数日で九月が終わり十月を迎える最後の週になった。

 

 家を出て電車に乗り…昨日同様、再び見慣れた土地に戻ってきた。実家を出た身だが全く実感がない生活を過ごしている。

 

 今日はちょうど先週、らいはから届いたメールにて呼び出されることになっていた。それも俺だけでなく中野家の面々も一緒にとのことだ。

 

 実家に顔を出すのも一月振りになるのか。先生が入院中何度か顔を合わせたがそれっきりだった。

 

 中野家は既に向かっているそうだ。雨の後でも乾いた空気と季節が秋に変わろうとする陽光の下、駅から出た風太郎もゆっくり向かおうとしていた。

 

 駅の階段を降り切ったところで、向かいからこちらへ歩む先生が見えた。

 

 迎えか? 昨日の仕返しのつもりかと先生の下へ向かうと何やら深刻そうな顔をしていた。流石に戸惑いが隠せず声をかけられなかった。

 

 

 

「…大事なお話があります」

 

「…今ここで話す内容なのか」

 

「はい 家の中ではとてもお伺いできないものでしたから」

 

 

 

 先生の表情はいつにも増して緊張が張り詰められたものだった。昨日は穏やかな表情を見せていたのに何なんだ。

 

 そもそも…家ではなく外なら話せる話って何だ? つーか今日になって何のつもりだ。この後に大事な用事があるのはわかっているはずだ。

 

 まさか…別れ話とかそんな話か…? ありえるぞ。やはり子供たちを優先したい気持ちが勝るのだろうか。朝から気が重たくなって仕方ない。

 

 心中落ち着かない風太郎に、先生は頬に吐息がかかるほど隣に寄ってきた。まだ夏の日差しに近い暑さだ、驚く間もなく、顔が紅葉するのが嫌でも分かる。

 

 先生の接近に、心臓の鼓動が跳ね上がって身を引いてしまいかねなかった。なのに目が離せないでいる。

 

 横を向いてほしいと、先生の口元がそのまま耳に迫り手を添えられた。平常心を装うにも苦労させられる。

 

 

 

「ごめんなさい、耳を」

 

「…なんですか…」

 

「…」

 

「?」

 

 

 

 正面を向いたままでは真横の先生を見れるわけもなく、先生の表情を窺うことはできない。

 

 二の句が届かないことにじれったくなる。

 

 

 

「…その、子供のことで」

 

「ええ」

 

 

 

 なんだ、結局あいつらのことか。だと思ったわ。いつものことだ。

 

 別れ話ではないことにこれほど安心してしまう、自身の心の脆さに嫌気が差した。曖昧な関係である証拠だ。

 

 今は先生の悩みに集中しよう。余程言いづらいことなのだろう、黙ってその声に集中した。

 

 

 

「上杉君は子供、欲しいですか…?」

 

「…」

 

 

 

 …子供?

 

 最初、言葉の意味が理解できなかった。しばらく思考が止まっていたと思う。

 

 頭がそれに追いついたところで、背伸びして口元を寄せる先生から一歩引く。

 

 俺の視線に居た堪れないのか、俯きがちにそっぽを向く先生の顔は見たことないほど真っ赤だった。

 

 

 

「先生」

 

「はい」

 

「…もしかして、からかってる?」

 

「…冗談ではありません」

 

 

 

 突拍子のない、かつ鉄仮面と恐れられている先生にはあまりにもそぐわないお誘いに、ひとまず確認だけ取りたかったのだが…睨まれてしまった。

 

 顔は赤いままでは、普段見慣れた怒気もどこか可愛らしく見える。これは重症だな。

 

 ひとまず早く弁解しなければ嫌われてしまう。なのだが、少し面白く笑ってしまう悪戯心もある。

 

 

 

「あー…あれか、焦ってるのか?

 入院中に看護士から囃し立てられてたな…あんなの気にするなよ」

 

「…随分な返答ね」

 

「…朝からそんな話を迫られてもな

 しかも娘を気にかけて俺との関係に躊躇してた奴からだぞ

 この変わり様に戸惑うな、なんて無理だ」

 

「からかってるわね…

 わ、私は…

 お二人にご挨拶する前に、お互いに確認を取りたかったのよ…」

 

 

 

 なんだ、娘に譲って別れるつもりはないのか。その気持ちをぶつけられただけで、少し頬が緩んでしまった。

 

 先生の目が一層きつくなり、そのまま真横から耳を引っ張られた。お陰で緩んだ頬は一瞬で元に戻った。

 

 らいはとの約束の時間に遅れてはいけないということで、話を切り上げてそのまま歩いて向かった。

 

 今日の約束は遅れていいような気安いものではない。先生もそう感じているのか、いつもの私服とは違い、完全にスーツだ。

 

 俺たちが見慣れたものであるが、なんというか…子供たちには悪いがやはりこっちが一番似合ってると思う。

 

 惚けている場合ではなかった。話を切り上げ、カツカツとヒールの音を鳴らして前を歩く先生へ追いついて頭を下げる。

 

 

 

「先生、悪かった、すまないと思ってる」

 

「知りません

 私は今日のお話を聞いてからのこれまで、押し付けずに貴方の意思を窺えないか考えてきたつもりよ

 …笑われるなんて心外です」

 

「あんたな…」

 

 

 

 またそうやって他人のことばかり。真剣な気持ちに申し訳なさが募るが、話の内容が子供なだけに…謝る前に言い訳ぐらいさせてほしい。

 

 先生の手を取り、足を止めてもらった。ゆっくりと振り返る先生に本音を伝えることにする。

 

 

 

「もう五人も産んでるんだ…病み上がりだろ

 また無理されると心配になる」

 

「…すみません」

 

「子供が欲しいかって…そりゃあ、あんたから言われたら嬉しいけどな

 …照れる」

 

「…」

 

「子供はもう五人もいるんだ

 てっきりあんた、考えていないと思ってた」

 

「わ、私は貴方ほど若くはありませんから…もし子供が…ほしいのなら私としては…

 体を気遣われているのは自覚してますから…私から言うべきかと…」

 

「…

 つーか先生…それ以前に厄介な問題があるんだけどな」

 

「はい?」

 

 

 

 子供がどうこうの前に一つ…いや五つ? 不安要素と言うか、大きな問題がある。

 

 あまり大きな声で言える訴えではなく、まったく察してくれない恩師にもやもやする。

 

 別に不満があるわけでも、拗らせているわけではない…求めていないわけでもないのだが…もう経験している分性質が悪いと言うかな。

 

 やはり目は合わせられないわ。

 

 

 

「あの狭い家じゃどうやっても無理じゃね?」

 

「そうですね

 子供が増えれば、より窮屈な生活になるでしょう

 あの子たちも中学生、高校生になった上、仮に妹が増えるとなればもう――」

 

「いや、そうじゃない

 それに至るまでの過程ができないだろ」

 

「…過程とは?」

 

「…過程、です…」

 

「…あっ

 …」

 

 

 

 やばい、先生まで俯いてしまった。頼むから勘違いするなよ。

 

 願望がないわけじゃない。今でも思い出すだけで…あの時の温もりを求めようと、つい手を向けてしまいかねないのだから。

 

 だがそれ以上に、何よりもあんたの体が大事だし…ってこれも大して意味変わらねえ。

 

 あんな愛らしい子供たちを産んだ母親には、昔愛していた男がいた。何をしたって俺は二番目でしかなく、埋められないものが多い。

 

 そんな嫉妬が、低俗だが…快楽で誤魔化せる時間は、建前やプライドだけで振り払える程生易しいものじゃない。

 

 先生に触れたい願望が猛毒のように身も心も蝕んでいる。欲を抑えるのは案外難しい。だからって先生以外に向けるものもないし、先生を裏切るつもりも一切ない。

 

 考え始めると悶々としてしまう。頭を振って熱が上がりそうな煩悩を押し潰した。今は別の問題が生じている。

 

 あの家は古く狭い家なわけで、そんな家でこの母親は娘と並んで寝ているわけで…

 

 何したって家族一緒という空間だ。あんたもそのせいで幼稚園児のあいつらに隠し事を見破られたわけだしよ。

 

 …やはり呆れられるか。俯いてしまった先生が顔を上げると…拗ねたような顔をされてしまった。

 

 

 

「…

 そのような理由であなたから諦められてしまう私は、泣き寝入りするしかないのでしょうか」

 

「…だったらデートに尾いてくる娘を止めてくれ

 あいつらを疎むつもりはないが、満足に二人きりで茶も飲めやしねー」

 

 

 

 泣きたくなるのはこっちだぜ、この人は俺の葛藤を察していないようだ。悩んでるのも馬鹿馬鹿しくなる。

 

 高3から付き合って、約5年交際している。その間に二人っきりで過ごした回数なんて両手で数えられる程度だ。

 

 俺も子供たちを嫌っていないし、むしろ一緒にいたいと思う時が多い。昔同様、好意的な子供たちの態度がいつまで続くか分からないしな。

 

 何も不満はないが…大学や仕事場でも恋人事情を聞けば、一緒にいる時間は多くても…少ないほうだ。

 

 主に母親を慕う五月と、やたら妨害してくる姉共のせいなんだけどよ。四葉を見習いやがれ、だからって一人でいられても困るわけだが。

 

 果たして母親の言葉で割り込んでくる子供たちを止められるか。

 

 先生は間を置いて思考をめぐらせ…困ったように笑った。おい。

 

 

 

「母である私以上に心から深く愛されてますね、ええ…羨ましい限りです

 病院のベッドで何度か泣いてしまいました

 私はもう貴方が傍にいてくれるだけで幸せなのにね…我侭が過ぎたわ」

 

「待て、そうやって静かに諦めるな! 卑怯だろ!?

 泣き寝入りに俺を連れ込むのはやめろよ!?」

 

「幸せなのは本当よ」

 

「このタイミングで言われても嬉しくねー!」

 

 

 

 強く握られる手がやたら熱いし指の力が強すぎる。ふざけるな先生、なぜこの状況で言ってくれやがるんだ…!

 

 あいつらに不満はあっても許してしまう。そんな日も悪くないとむき出しの好意を求めてしまう。己よりも子供たちを優先してしまう。

 

 認めたくはないが、昔から変わっていないんだ。

 

 俺も先生も、結局あいつらには甘いというだけの、当たり前な話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うえすぎ。そう色褪せた看板が立つ…店というには、時がもう終わってしまっているものの前まで辿り着いた。

 

 俺が生まれる前からあったのか定かではないそれは、もう20年は経過して随分と古めかしいものに変わり果てている。

 

 ここには店主の女がいたはずだ。その人には夫がいて、二人の子供がいた。

 

 最愛の人と肩を並ばせ、幸せを抱きながら…母はこの看板を見上げていたのかもしれない。

 

 どれだけ忙しく大変な毎日でも、お袋は毎朝パンを焼いてくれた。重い何かを背負いながら、不器用ながら家族を大切にしくれたんだ。

 

 もうその人はとうの昔にいなくなり、主のない店は廃れて思い出と共に消えるだけだった。

 

 俺も、親父のように悲しみを抱えて誰かを守る日がくるのだろうか。抗いたい気持ちから先生へ視線を送ると…先生は目を瞑っていた。

 

 先生は見て分かるように胸を手に沿えて呼吸を整えている。それは心臓を抑えてるようにも見える。二週間前に退院したあの先生が。

 

 すぐさま駆け寄り、肩を掴んだ。

 

 

 

「無理してないか、先生」

 

「上杉君…?

 い、いえっ これは違うのです、ごめんなさい」

 

「我慢しなくていい

 あんたは大げさだと言うんだろうが、すぐに病院に連れて行ってやるから」

 

「…

 私だって緊張します」

 

「は?」

 

 

 

 とんだ勘違いをする男を安心させようと先生は俺の正面に向き直り、そのまま肩に添えていた手が離れた。

 

 

 

「正式にご挨拶するのよ…?

 不安がないわけないでしょう?」

 

「いや…何度も会ったことあるじゃねーか」

 

 

 

 緊張って…言っちゃあ何だが、あんた実質二回目だろ。しかも俺達の仲だって昔から公認してるようなもんだし。

 

 俺の疑念に先生は、先ほどその肩に触れていて、力なく降りていくこの手を両手で掴まれた。

 

 

 

「…上杉君 一つ確認しておきます」

 

「はい」

 

 

 

 胸を抑えていたこの手は、少し震えていた。

 

 

 

「…交際相手が十一も年上で」

 

「はい」

 

「バツ1で」

 

「え、ええ…」

 

「子供が五人もいて、来年は中学生です」

 

「…そうだな」

 

「先ほども不満に思われたでしょう

 身勝手ながら私自身、子供を手放したくない気持ちが強くあります」

 

「…」

 

「さらに過労で入院していた女を、快く思うご両親がいらっしゃるでしょうか?」

 

 

 

 いないんじゃねーの、そんな面倒臭そうな奴お断りだ。

 

 って、危うく本音が漏れるところだったぜ。だが最後の一点は俺たちの指摘を無視してあんたが入院渋ったせいじゃねーか…!

 

 俺だって認めたくないんだ。未だに恋愛は嫌いだし、自ら恋は盲目を実感している身だ。恋人から直々に指摘されたら頭を抱えたくなる。

 

 先生としては、なぜこのタイミングで、と己の立場に心配が絶えないそうだが、親父に限ってそれはないと断言してやりたい。

 

 だが、先生が気にかけているのはそこではないようだ。

 

 前向きに考えてくれているのは、この人の目と微かに震えながら掴んで離さないこの手が教えてくれる。その気持ちに胸がだんだんと熱くなっていくのが分かる。

 

 そんな後ろめたいものを…好きだから、の一言で吹き飛ばしてやりたいのだが、客観的に見れば惚れた弱みでしかないわけで胸を張って言えることじゃない。

 

 ただ、この人の手を覆うように俺も手を重ねた。 

 

 

 

「それに、三玖たちを差し置いて…これは姑息だわ」

 

「三玖も内心はちゃんと分かってるだろう

 そんな弱い子じゃねーよ」

 

「…それでも、大切な子供の相手がこんな私だと知って、上杉君のお母様はどう思われるでしょうか…

 とても顔を上げられるような身ではありません、もし嘆かれてしまうようなら…」

 

「お袋は関係ないと言いたいが…まぁ…」

 

「…正直におっしゃってください」

 

「たまに、俺もよくこんな人を好きになったもんだと不思議に思うぜ

 着いてから相談されても遅すぎるんじゃないか、先生」

 

「ごめんなさい、帰らせてください」

 

「正直に言えって言ったのは先生ですよっ!」

 

 

 

 最後の最後、困り果てた頃に頼られてもこっちは大したことできないってのに。困った大人だ。

 

 それでもこうして、弱音を吐いてくれるほうが何倍も嬉しい。そのまま胸に不安を抱えたまま家族の下へ連れ出していたら彼氏失格だった。

 

 気持ちで不安を誤魔化しても何も解決に至らない。分かっているが、この人に伝えたくて溜まらない。逃げてしまいそうな先生の手を取った。

 

 

 

「俺がずっと願っていたことだ、頼られるのは嫌いじゃない

 あんたは立派に母親をやって、子供たちをここまで育てた

 誇ってくれよ、五人も育てた母親なんだからよ」

 

「…」

 

「先生、俺の家族と会ってくれないか

 紹介したいんだ

 俺の一番大切な人はこんなにも素敵な女性だって教えたい」

 

 

 

 残念なのは、既に俺の家族二人はそんなこと知っているところだ。今度お袋の墓前で報告しないとな。

 

 先生、あんたの悪いところも知っているが、良いところも知っているつもりだ。

 

 つーかあんたの悪い点ってそこじゃねえし ほんと人を頼らない人だな。

 

 仕方のない人だ。それでもこの手は離したくないし、いつまでも触れていてほしい。また触れてほしいと思う。

 

 誰かを待っていたかのような、力が篭もらないその手を繋ぐと。思いが通じたように控えめに握り返してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「意気地なしの愚兄に尽くしてきた甲斐甲斐しい妹を忘れ、随分と遅い青春を謳歌するお兄ちゃんへ

 妹はこの日を待ち侘びてました」

 

「開口いきなりだな…俺何かしたっけ」

 

 

 

 既に先に着いているはずの子供たちと合流しようと、その古いドアを開けるとらいはが仁王立ちで待ち構えていた。

 

 一体何のつもりなのか、客人である先生は中に通されて、身内の俺だけが通せん坊をくらった。それに何も言わず素通りする先生も大概酷い。

 

 何が不満だったのか、少し見ない内に妹はへそを曲げていた。思い当たる節がないわけじゃないが、家を出て週何度か連絡を取ってる仲だぞ。

 

 名誉毀損である…家族を蔑ろにしているなんて、今日この日に告げ口しないでほしいぜ。

 

 

 

「零奈さんのところには惜しまず通うのに、実家には顔見せてこないし」

 

「こっちまで往復してたら日付が変わっちまう」

 

「もっと近いところに引っ越せばいいじゃん

 まあ、近いうちにそうなるんだろうけどさー」

 

「は? 何のことだ?」

 

「はぐらかしちゃってー ごほんっ」

 

 

 

 何を企んでいるのか、不服そうだった態度が一変。一つ咳払いをして、らいはは両手の指を組んだ。

 

 

 

「パパパパーン パパパパーン♪」

 

「…」

 

「パパパパン パパパパン パパパパン パパパパン♪

 パパパパーン! パーパパーパ――ふぎゅっ」

 

「うるさい、やかましいから

 どこまで続けるつもりだ」

 

「あれほど心配させといてこの仕打ち…天国のお母さんも泣いて喜んでるのに、もー!」

 

「おまえが怒ってると言ってる割に上機嫌なのは分かった

 悪かったな」

 

「…えへへ、バレたか」

 

 

 

 今日は先生と交際していることを、恋人を家族に紹介する日だ。それとは別に大きな催しがあるが、今更感も甚だしく呆れ果てそうなものだが。

 

 親父とらいはには既に知られていることであり、先生の娘五人にも勘づかれている。緊張だけさせておいて得るものは少ない会合になりそうだ。

 

 全部こいつのメールから始まったことだ。

 

 先生の退院祝いを兼ねて、正式に招きなさいとお節介をやかれてしまった。

 

 この日の為の準備から張り切っていたらしい妹は快活に笑い、期待を抱いて仕方のない身振りで喜びを露わにしている。

 

 

 

「零奈さん無事に退院したし!

 これからだよ、頑張ってお兄ちゃん!」

 

「これ以上何を頑張るんだよ

 やっと胸のつっかえが取れたところだぞ」

 

「何って…それこそ…結婚式に向けて…新居とか?」

 

「結婚ね…」

 

「ま、まさか…結婚しないの!?

 えー!? ありえないし! 付き合って五年経ってるのに!

 零奈さんは子持ちなんだし、ちゃんと考えてあげてよ!?」

 

「早まるな、そうじゃない」

 

 

 

 つーかおまえ先生に対して失礼な奴だな。もう後がないと言ってるようなもんじゃねーか。

 

 らいはの言う結婚とは、新郎新婦が華々しく式を挙げて家族友人から祝福される人生の一大イベントだろう。

 

 妹の驚きも当然だと思う。だが待ってほしい。食ってかかりそうならいはを両手で宥めて説明する。

 

 

 

「結婚式って金かかるよな」

 

「うん、安く済ませると後々後悔するって云うよ」

 

「結婚指輪も高いよな」

 

「当たり前じゃん、何言ってんの」

 

 

 

 …この点、女性からの指摘が痛すぎる。理想を抱くのは自由だが相手の懐を考慮してもらいたいものだ…甲斐性なしって切り捨てられるだけか。

 

 仮にらいはの左手の薬指に安物の指輪がはめられていたとしたら…うん、良い気はしない。つーか認めない。

 

 何考えてんだ、自分で自分の首絞めてやがる。兄は複雑だった。

 

 

 

「今は資金面でもあいつらの世話の面でも、中学に上がる子供たちのことで精一杯だ

 先生を入院させた条件で、あいつらの入学費諸々は俺が全部払うつもりだ

 でないと、無理を続けて働くからなあの人」

 

「うん、まぁ恋人だし困った時は助け合うよね

 お兄ちゃん結構貯金してるんでしょ? だいじょーぶだいじょーぶ」

 

「…

 お陰であの人、俺の散財に敏感みたいでな、奢ろうとしたら露骨に逃げやがる

 仮に百万の指輪を持って結婚しよう、なんて言ってみろ

 喜んでくれるか?」

 

「…言いたいことはわかるけどさー」

 

 

 

 もし指輪を見せたとして、喜んでくれるだろうが子の将来に不安が消えない母親の心境に影が差すだろう。

 

 娘を差し置いて己だけ幸せになって良いか、その罪悪感もあるんだろうな。母親も複雑だった。

 

 

 

「正直先生にはまだ休んでいてほしい

 だが家庭を持つのなら、子供たちのことを考えたらお互いに休んでられないのが現状だ

 3年経てば次は高校生だしな…そもそもあいつらの成績自体不安でしかない」

 

「そこは家庭教師なんだから責任持とうよ

 でも世知辛いな…親って大変なんだね」

 

「ああ…実際金があれば良いって話じゃないしな…

 教師を勤めて大勢の生徒を見ているが

 生徒一人一人に、見えないところで苦労されている親がいるんだ

 自分はまだまだ生温いと痛感するぜ」

 

「お、お兄ちゃん…これ以上ストイックにならないでね、零奈さんみたいになっちゃうよ」

 

「先生を出しにするなよ、失礼な

 道理で先生が気を悪くするわけだ」

 

「あ、あれ!? もしかして私嫌われてる!?

 お兄ちゃんそれ冗談!? 本当なの? ねえってば!?」

 

 

 

 嫌われてはいないだろうが、おまえの無垢なようで腹黒い主張にプレッシャーを感じているようだぞ。姑っぽく感じることがありそうだ。

 

 入院する前はよく二人で買い物や食事に行っていた仲だ。そう心配はしていないが、年齢差もあって当人たちは仲睦まじくやっても遠慮が生まれるようだ。

 

 よくらいはには、俺と先生の仲介に入ってもらったことがある。この子には心配をかけすぎた。

 

 どんな顔をしたらいいのか分からないまま、つい癖で口元を手で覆う。先生と共に報告をするべきだが…情に負けそうだ。

 

 その恩に少しでも報いることができるか。こっ恥ずかしいが報告することにした。 

 

 

 

「その、なんだ

 …来月中に籍を入れる…かもしれん

 子供たちの反応次第で」

 

「あ、うんっ!

 そこまでは進んでるんだ?」

 

「まあ…あの人を入院させるにはそのくらい覚悟が必要だったってことだ

 退院したらって約束だった」

 

「…んふー」

 

「なんだよ、気色悪い」

 

「なんでもあるのっ

 んー、でも…零奈さんのドレス姿見てみたかったなぁ

 高校から零奈さん一筋で、やっと零奈さんも元気になったのにさ

 お兄ちゃんやっと報われたと思ってたのに、ちょっと残念」

 

「…俺のことはいいんだよ

 そろそろ入ろうぜ、あいつらが痺れを切らす前に」

 

 

 

 らいはも頷き、待ち人が揃った場へ向かう。我が家だというのに、小さなベルを鳴らして見慣れないドアを開いて中に入る。

 

 高校時代、先生を慕ってはいたが当時は先生に付き纏っていただけで拙いものばかり暴かれてしまっていた。思い返しても、嫌われていたらと思うとゾッとする。

 

 あの人の前では調子が狂うんだ。俺よりも賢く、優しく、憧れでもあって、儚い人だった。

 

 恋仲でも年齢差があれば気遣いもするし、すれ違いも多くなる。それに限った事ではないが、どちらかが義務感に似た気持ちで許容することで赤い糸が保たれるのだ。

 

 恋愛はやはり面倒で愚かだ。気苦労の割に見返りは小さいし、日に日に変容するものだ。好きな人と結ばれて人生が幸福で在れるなんて浅ましい考えだ。

 

 現実ではいつだって他人とせめぎ合い、他人に指を指し、蹴落として、不幸を押し付ける。それは恋人や家族に対しても同じこと。それを快く引き受けることが愛情だなんて認めない。

 

 面倒で、愚かなものだ。愛とか恋とか、善意を盾にして勝手が過ぎるぜ。

 

 自分はそれを自覚している。散々味わってきた後悔がある。今だって他人が嫌いだ。

 

 それでも思いが実ったことに喜んでくれた妹を前にして。

 

 今すぐにあいつらに、先生に会いたい。その笑顔の為なら俺は…と募る気持ちが振り払えない自分は実に身勝手で愚かだと思う。

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