「四葉、五月 気持ちは分かるが食うのはまだだ
ほら、グラス持て」
「待てない子もいるみたいなので手短にいこっか
この度は零奈さんがこうして無事に、元気に、帰ってきてくれたわけなので
上杉一家一同、零奈さんの退院をお祝いさせていただきたいと思いまーす!」
「退院祝いに花だけってのも味気ねえしなあ!
今日は遠慮せず食ってけ! 足りなければ出前呼ぶからよ!」
広めの屋内には大きなテーブルが二つ。全員にグラスが渡ったことを確認して、らいはと親父は多少雑な歓迎の挨拶を述べた。
パーティなど縁がなかったようで、五人の子供たちはテーブルに並ぶ料理に目を輝かせて、待ちきれない様子だった。
乾杯の合図で幾つものグラスが重なった。祝われる当人は腰を低くして頭を下げていたが、子供たちはお構いなしだった。
「お寿司にフライドチキンに…私たちの好きなもの揃ってるし
クリスマスより豪華なんだけど」
「出前で全部済まさないあたり、さすが私の師匠だわ
見覚えのないのもあるし、後でレシピ教えてもらお」
「ここ、初めて入った
一階にこんなところあったんだ」
「上杉さん家、昔喫茶店やってたみたいだよ」
「お母さん、取ってきてあげます
何がいいですか?」
「退院してまだ間もない奴に惨いレパートリーだな
油っこいのは控えて――いたたたっ!」
「もう二週間経ってます、病人扱いしないでください」
「っていうか、零奈さんはもうちょっと太ったほうが調度いいくらいだよ…
胸はおっきいけど…お兄ちゃんも男ってわけだ」
この祝いの場にはもう閉まってしまった古い喫茶店を利用している。大人数で集まるには都合の良い場所があると、親父とらいはが掃除してくれたのだ。
長年シャッターを開けてなかったここは埃まみれで傷んでいただろう。清掃だけで済むのかと思ったが、古くも綺麗な内装に会場として十分機能してくれている。
料理はらいはが作ったもので、バイキングのように多くの料理がテーブルに並べられている。気合の入ったものばかりで子供たちも感銘を受けているようだった。
実際ここまでするのなら飲食店を予約したほうが良かったかもしれないが、落ち着いて大事な話をするにはいいのかもしれない。快く、歓迎の意味も含めるのなら。
「お姉ちゃん、ありがとね
こんな素敵なお祝い、ママ絶対喜ぶわ」
「ふふーん、この為にバイトしてたからね!」
「でも…こんなにいっぱい大変だったはず
豪華なお食事も、綺麗な装飾とか…お金が」
「うん…お掃除も大変だったよね」
「こら二人共、そこは言わない約束でしょ」
「貧乏なお家で育った者同士だし、心配になるのは仕方ないよねー
でも嬉しいのは本当だからさ 零奈さんや皆には数え切れないくらい沢山のものを貰ったんだ」
「お姉ちゃん…」
「頼りないけど、困ったら言ってね
あの時よりももっと早く、いつでも駆けつけるからね」
先生が倒れた日、五月は俺に電話してくれたが…一番に助けに向かったのはらいはだった。体は弱いほうなのに息を切らせて走り続けたそうだ。
子供たちとらいはは、特別仲が良い関係だが、らいはが高校に入ってからは昔程遊ばなくなった。よく母親に代わり夕飯を作ってくれた子だったのだが。
聞けば、家事は二乃が、姉としての役目は一花で十分だから、もう自分はこれ以上でしゃばれない。そう言っていた。
嫌いになったわけじゃない、もうその役目はないから離れていくしかなかった。そんな子が、あの日は走って、大切な人の元へ一秒でも早く辿り着こうとした。
そんな健気ならいはに、前々から迷惑をかけて申し訳なさを募らせていた五つ子たちが…特に四葉が泣いてしまいそうだった。というかもう大粒の涙を流している。
「お姉ちゃん…うぅ…ぐすっ」
「四葉ちゃん、泣いてる!?
うわっ もー、泣き虫は治らないのかな」
「だって…お姉ちゃんが小学校卒業してから…あまり会えなくて
なのにお母さん助けに来てくれて…頼りなくなんて、ないよぉ!」
四葉は五つ子の中でも、らいはに甘えていたほうだ。自立しようとしてもままならないことをよく相談していたらしい。
可愛い妹分の涙混じりの気持ちにらいはは困りながら、目元を指で拭った。
「四葉ちゃん…
あはは…もー
何で同じ五つ子なのにこんなに違うのかな
五月ちゃん見なよ 幸せそうに食べてるじゃん」
「…まったくこっち振り向かずに食べてるね五月ちゃん…」
「ママとフー君に挟まれてご馳走がいっぱい…
これ以上ないくらい幸せでしょうよ」
「らいはお姉ちゃんにちゃんとお礼言うべき…」
「いーのいーの ほら皆も食べてっ
っていうか、五月ちゃん呼ばないとダメか」
五人の視線を受けて、隣に座りご馳走を堪能している子供を見やる。姉共が呆れ果ててるぞ。末っ子は見向きもしなかった。
母親の隣でいられる上にご馳走を食べられるのは嬉しくて仕方ないのだろうが、単純に向かいに座る親父に食を勧められているせいだろ。
五月の肩を突いて知らせると、×が悪そうな顔をして姉たちの元へ向かった。きっちりご馳走を持った皿を持って。また騒がしくなりそうだな。
子供たちとらいはが楽しく会話している中、こっちは少し重苦しい空気になりつつある。
祝われる側の先生は堅苦しいスーツ姿だ。対面の親父はいつものラフな姿でなんとも言えない。先生の隣が空いたのでそこへ座った。
「風太郎、仕事のほうはどうだ?
先生と同じ教職に就いた感想は」
「まだ初任して半年も経ってねえんだ、覚えることもまだあるし、生徒からもほとんど名前覚えられてねー
今年は一教科担当しているだけだが、来年はクラスの担任を任されるらしい」
「おまえが担任ね…窮屈な教室になりそうだ」
「二年目で担任ですか…頼りにされているのですね」
「人が足りてないだけ」
「…貴方のところも大変ですね」
「…どこも大変ってことか
俺と公務員を比べたら笑っちまうがな」
「おい親父」
「怒るなよ、おまえが見上げちまうほど立派な仕事に就いて一安心したってだけだ」
教職なんざ、そんな崇高なもんじゃないだろ。憧れの人の職でもあって口出しはできなかった。
実際に勤めてから思い知らされるギャップも多かった。生徒に分かりやすい授業を心がけようと思っていたが難しいものだ。生徒に接する仕事よりも校務のほうが重視されがちだった。
休日に地域活動の参加を求められたりもする。しかも姉妹校に媚を売るようなものまで…慣れてくると生徒を蔑ろにしている部分が露骨に見え出して嫌気が差してしまう。
自分なりに生徒の学力をあげられるような授業を志しているつもりだ。それも最近評価されているようで嬉しいものだった。まだ悩みは尽きないが。
「黒薔薇女子の姉妹校でしょー?
いいじゃん、お金稼げそうで」
「金の問題じゃないの」
「その時点で貧乏人の言葉じゃないなー
貧乏人の私たちはご飯一人占めしちゃおっか」
黒薔薇女子と同じく有名な高校らしいが、有名な分何かと面倒なものが多いわけで。妹は暢気に笑っていた。
不安は絶えないというのに、親父も機嫌が良さそうに酒を飲んでいた。普段は飲まない親父も今日、この日がめでたいことに酒に手が出てしまったようだ。
日本酒を好んでいたと思い返すが、子供たちがいる手前で雰囲気に合わせてビールにしたようだ。空になったグラスを見て、先生は椅子から腰を浮かせた。
「お注ぎしますよ」
「おっと、待ちな
堅苦しいのはなしだ
それに、息子の恋人に酌をさせたら風太郎にも母さんにも怒られちまう」
「それは…失礼しました」
「つーか風太郎ともまだ飲んでねーしな!」
「待ってたのならしてやるよ、ほらよ」
「…こいつ、仮にも俺の生き甲斐をぞんざいに扱うな」
「妙な拘りを押し付けるな
…今度付き合ってやるよ」
グラスに泡立つビールを注ぐと、後ろの子供たちが顔を覗かせて眺めにきた。子供たちは母親が飲まないこともあって酒に触れる機会が少ないようだ。
親父が子供たちの目の前でグラスを仰いで一気飲みすると、五人から拍手が上がった。いや、なにこのパフォーマンス…いいから散れ。
親父が酔う前に話を済ませたほうが良さそうだ。先生も俺の意図を汲んでくれるようで、丁寧に頭を下げた。
「本日はお招きいただきありがとうございます
このお祝いの場を借りまして、不躾ながらご挨拶に伺いました」
「いや、こちらこそ祝いとは言ったが拙いもので恐縮ってもんだ
…とりあえず、形だけはしときますか」
「…では、改めまして、中野零奈と申します
かねてより、風太郎さんとお付き合いさせていただいております
今日に至るまで、幾度もご迷惑をお掛け致しました
一つ一つでありますが、これまでの御恩をお返ししたく存じます
どうぞよろしくお願い致します」
「むず痒い、さん付けはやめてくれ」
「…」
「睨まないでくれ、お堅いのは俺も親父も苦手だ」
「恩とか言われても、風太郎もらいはも世話になってるしな
お互い様だぜ、先生
さすがにぶっ倒れた日は俺も肝が冷えたぜ」
親父もらいはと同じ、仕事を放って駆けつけてくれた人だ。先生も頭を上げられそうになく、茶化すしかなかった。
親父もその気のようで、先生の気を緩ませるために、いらんことに口を滑らせてくれやがった。
「高校の頃からこいつは先生を慕ってたんだぜ、いや下手したら小学生からか…?
十も年上じゃあガキ扱いされて終わりかと思ったが、諦めが悪いと良いことあるもんだ」
「うっせえ」
「…あんたからこうして息子と共に挨拶してくれる日が来たんだ
これ以上めでてえことないぜ」
「…ありがとうございます」
「…頼りないところが多々あるが
あんたとその子供の為なら見違える程変わる奴だ
苦労をかけるが…長い目で見てやってくれねーかね、零奈さんよ」
「はい、私も日々精進し風太郎君を支え続けます」
「…それじゃ、挨拶は終わりだ
堅苦しいのはここまでにしようぜ、先生の退院祝いだぞ」
「それもそうだな! それじゃ改めて乾杯といこうぜ」
親父にグラスにビールを注がれてしまう。あんたも人の拘りをぞんざいにしてくれるな。
まあ良い、親父と先生と酒を飲むなんて珍しいものだ。揃って乾いた音と共にグラスを合わせて口にした。
苦いだけで美味しいとは思えないが、気分は悪くない。
普通、父親とその息子の嫁と話すことなんて少ないと思っていたが、酒も入ったせいで少しずつ賑やかになっていく。
先生と出会ってどれほど変わったか。再会してから堅物だった一面が崩れ、子供に慕われるほど柔らかくなったとか。
お陰でこっちが気まずい。先生も真面目に聞き入れなくていい…顔が赤くなりそうで誤魔化すのに苦労する。
付き合い切れなくて一旦席を外した。俺も飯食いたいしな。
「親馬鹿だねえ、ちょっと気持ち悪いけど」
「見てないで止めてくれ、流れからしておまえの恥部も晒されかねないぞ」
「それは嫌だけど…まー、いいじゃん
お父さん一人でずっと頑張ってきたんだよ」
「…」
「嬉しいんだよ、本当にさ」
「…ならおまえも早く男見つけろよ」
「あ、そこは頑なに認めてくれないからご安心を」
「過保護すぎ」
息子が恋人を連れて、いずれ結婚して…親父も辿った道だ。
自分も似たような頃があったと、今では共に隣を歩こうと願っていた人はもういないことに、悲しくならないのだろうか。
親父は快活に笑い、時折頭を下げて、陽気に励まして。昔より幾分老けてもそれは変わらない、いつもの親父だった。
先生の隣が空いたところに今度はらいはが座り込んだ。
「零奈さんさ、お兄ちゃんのどこが好きになったの?」
「…全部、でしょうか」
「なんつう返しだよ、見え透いた嘘をつくなよ」
「お兄ちゃん黙ってて」
「…ふふ」
心底信じられない回答に渋い顔で返してしまうと、先生は笑った。どこか胸を張って自慢げな態度だった。
「どこまでも、いつまでも、それが誰であっても
真剣で真面目な性格は美徳でもありますが
それは時には愚直であり、それでも献身的な気持ちには…
…心配に思うのは厚かましいでしょうか」
「あー、母性を刺激されてるとか?」
「それだけでしたら、私の悩みもだいぶ減っていたわ
情けない話ですが、叱ってくれるとなぜか落ち着くの
昔は怖がっていたのに不思議ね…」
「…良かった、零奈さんちゃんとお兄ちゃんに甘えてるんだ」
そう思われていたのか。心配されつつ頼りに思ってくれていたようでほっとする。
らいはが入ったことで、俺や親父との話が終わったと見た子供たちが母親を誘い出した。
先生は断りを入れて子供たちのテーブルへ移っていった。落ち着きたい気持ちもあって親父の対面に座り、料理を口にする。
「奇妙なもんだよな」
「ん?」
「息子が結婚、その相手は一応再婚だぜ?」
「…親父は誰かと再婚する気はないのか?」
「そーだな、おまえもあんな良い人見つけたんだ
まだやり終えたとは言えねーけど
俺も良い人がいたら考えるわ」
「そうかよ」
「…良かったな、風太郎」
「…結婚は気が早いっつーの」
その期待は流石に重たい。結婚の話はまだ触れてすらいないことだ。今の関係を壊したくない気持ちもある。
「式はどーすんだ」
「金がない」
「小さなもんでも、やらないよりは良いんじゃないか?」
「…
やらないほうがいい場合もあるだろ」
「?
まあ、おまえ達が考えて納得していればいいんだけどよ」
先生は笑って喜んでくれるかもしれないが、華に欠けるものだと嫌だという見栄がある。
前の旦那と比べられたくないしよ。だからって式を挙げないこと自体が負けた気分にもなって…現実を考慮すれば実現性のない希望だ。
「…金の面が問題なのか?」
「一番はな」
「そうか、わかった」
「おい、まさか
親父、あんたには頼らねえぞ
らいはの大学もあるんだ、余計な気を遣うくらいなら――」
「おまたせー」
背後の声に口を閉ざした。妹の前、子供たちの前で話すことでもない内容だったことを察して取り止める。
ひとまず保留だ。親父もこの場を冷やかすことを避けようと聞き出すことはなかった。
らいはが子供たちの前に持ってきたのは、随分と豪勢なものだった。
子供たちの驚きと喜び様に、先生が空いた皿を持ってこちらへ戻ってきた。
子供たちは母親の退場よりも、今目の前に置かれたものに釘付けだった。一人は顔を曇らせているが、こればかりは致し方がない。
「パフェ!」
「わーお 凄い!
こんなに豪華なイチゴパフェ初めて見た、というか大きすぎだって」
「待って待って! 写真撮らせて!」
「でかっ…甘そう…」
「もしかして自作…? 作ったのですか?
うわぁ…贅沢の極みだね…食べるのがもったいない」
「パフェですよ! こんなにおっきいの!
駅前の特盛パフェも顔負けです! 凄いです!」
らいはがドヤ顔でテーブルに置いたのは大きなパフェだった。テーブルに置かれたそれは椅子に座る子供たちよりも高い。
どこで仕入れたんだそんなもん。これはらいはが作れるような代物じゃない。
「零奈さんの退院祝いって言ったら快く作ってくれたの」
「誰が」
「お兄ちゃんの知ってる人だよ」
「…あの人か」
思い当たる人物がいる。らいはのバイト先の店長だ。以前は俺も働いていたあのケーキ屋の。
あの人も確か近々結婚するとか、らいはから聞かされたが…あの人なら自前でウェディングケーキ作っちまいそうだな。
昔から五つ子を気にかけてケーキを奢ったりサービスをしていた人だ。俺も世話になったし、二乃が惜しげなく通っているそうだ。
ケーキ作りが好きな二乃にとって良い勉強になるとか。たまに俺も元先生として呼び出されたりする。
あの人もこの祝いに関わっているのは予想外だった。今度礼代わりに食いに行くか。
「どうやって分けよっか?
九等分ってどうすればいいの?」
「無理よ、上から食べてくしかない大きさよコレ」
「生クリームが山になってる…私はいちごがいい」
「私もいちご! あとなんかキラキラしてるチョコも!」
「ま、待って下さい!
私も!」
「もう五人で食べちゃいなよ、小さいのいくつかあるし」
「そっちも食べてみたいです!」
「え、こっちのは零奈さん用なんだけど…あぁ、その期待の目は目に刺さる…」
「ばっさり断ってくれていいのよお姉ちゃん」
「良き姉でありたかったんだけど…ごめんね五月ちゃん」
「そんなぁ!!」
五月の泣き落としの効果は強すぎる。妹も同じ被害を喰らいそうになっていたが上手く退けたようだ。
これほど豪華な見栄えのするパフェだ。本命にもあたる先生用のものなら興味が湧くのも無理はない。
ガチで泣きそうな五月に、先生が自分のも分けると心が折れたようだ。五月は母親への好意を全開に抱きついていた。
私も私も、食べる前に写真撮らせて、甘くないのなら、みかんありますか? と末っ子に続く姉たちに母親もらいはも苦笑していた。
「現金な奴らだ」
「いいじゃねえか
五人もあんな可愛い子がおまえのガキになるんだろ」
「そうだけどよ、あんな騒がしい子供は苦労しかない」
「え、フータロー 今なんて――わっ」
料理に夢中で子供たちはこちらの話を知らずにいたわけで、見ないうちに何か不穏な話が進んでいることに三玖は驚いていた。
他の子達と同じく椅子に膝立ちでテーブルに手を着いていたが、普段取らない体勢を取っていることを忘れていたのか。
驚いた三玖は手を滑らせて、大人が腰を上げるが遅かった。
そのまま高く聳え立つパフェへ、生クリームの山に顔を突っ込ませた。
「ぱ、パフェがぁー!!」
「三玖ッー!!」
一花と二乃、四葉が三女を案じる一方で、一人だけ別の悲鳴が上がっていた。
大人たちはその惨状よりも、三玖が怪我をしていないことに安堵しつつ額に青筋を立てていた。
三玖が甘いものが嫌いなことは、皆知っている。白と赤のクリームとソースで盛大に顔面を覆われた三玖は悶絶していた。
「うぇっ あまっ…いっぱい口に……う"ッ!」
「―」
「楽しみにしていた奴の前で随分な食レポだな」
赤いソースよりも顔を青くしている三玖に、五月は硬直していた。
徐々に震えだし、涙がぽろぽろと落ちていく。
「ぱふぇ…ぱふぇぇ…!!
お母さんッ! お兄ちゃんっ!!
三玖がぁ 三玖がぁー!!」
「まだきもちわるい…渋いお茶ほしい…」
パフェは反面台無しになったが、食えないわけでもないし、でかい分まだ食えるところあるだろ…
五月が泣き、三玖が助けを求めている。らいはと先生がそれぞれ対応した。男の俺と親父はただ眺めている。
阿鼻叫喚の三女と五女を放って、他の三人は各々パフェに手を出し始めていた。二乃はなぜか携帯を被害者二人に向けていた。
「とりあえず写真撮らせて二人共、こっち向きなさい
うきゃー! こっち来んなっ! クリーム付くでしょ!」
「いただきー んー いちごうまっ」
「一花ずるい! チョコはダメだよ!
って崩れる! 一花は反対のクリーム食べてよ」
「だってこっち三玖が食べちゃったし」
「崩れるっ! 崩れるからっ! もっと上――あーっ!!」
パフェ一つで大惨事だぞ。母親が拭いてあげようとしているのに追いかけっこをする三玖と二乃を捕まえて、ハンカチで顔を拭いてやる。
こんな子供たちと、もうしばらく付き合いが続くわけだが…世話が焼けるというか。
どこでも、いつでも、それが誰であっても。
こいつらは真剣で、精一杯な気持ちをぶつけてくる姿は愛らしい。
それは時には望まない形を招くこともあって、それでもこの子たちの気持ちは温かく、大切なものを思い出させてくれる。
小さな出来事でも、ふとした時に優しく在れることがその人を幸せにする事をこの子たちは知らないのだろう。昔から変わらず、敵わない奴らだ。
上杉家に泊まりたい。前からやってみたいことがあった、と子供たちがらいはと親父に頼み込んでいたのが数十分前の出来事。
急な要望に二人は温かく五つ子を家に招いた。あんな狭い家に五人も泊まりに来るなんて初めてのことで、布団の数足りないと思うのだが。
あんな狭い家に先生まで泊まるわけもなく、一人で帰ることになった。
今は正式に恋人になった先生を送っていく道中。夕飯も食べて21時を過ぎ、外はもう真っ暗だ。
外灯だけが照らす路地を二人並んで歩く。肩が触れそうでぶつからない、そんな距離感がどこか俺達らしいと思わせるものだった。
「私もいつか…子供たちの恋人に向かって、あんな風に笑って話せる日が来るのでしょうか」
「…ろくでなしじゃなければいいがな」
「心配ですか?」
「一家揃って心配は絶えねえよ」
「…」
「…一人は違う意味でな」
あいつらの恋人か。この現状を思うと早く良い男を見つけてくれたら気楽だと思うが…やはり不満に思うんだろうな。
五人の行く末も気になるが、今はこの人に集中したいと思う。
今からが正念場だとも言える。この人は一度将来を誓い合った男に裏切られ、今まで苦労されてきた。
繰り返すんじゃないか、そんな不安がないわけないだろう。手を取ったからにはこの人を守り切るつもりだ。
「手を繋ぎませんか」
「…いつだって空けてある」
「嘘つき、普段は子供たちと繋いでいるじゃありませんか」
「あんたが遅いからじゃん」
一人は寂しいから。手を差し出すと先生は手を重ねてくれた。そのまま少しだけ距離が縮まる。
先生の手は冷たく、弱々しい力で握ってくる。振れば解けそうで、壊れないようにと自然と歩がゆっくりとなる。
無言のまま、長いようで短い時間の末に先生の家まで辿り着いた。
やはりボロい。思い出の地だがそろそろ限界があるのは薄々察してしまうものだ。
「中学はともかく、高校生となると六人には狭い家だな」
「引越しも検討しなくちゃ、ね…
あの子たちが立派に育っていくことに喜びもあるけれど、寂しいわ」
「そう思うだけで上々だ
今までそれどころじゃないもん抱えてたからな」
「意地悪しないでください」
「あんたが気に病むくらいの効果があるのなら捨て難いな
今日は気を張って疲れただろ、ゆっくり休んでくれ
ありがとな、先生」
先生が気を張り詰めていたのは見ていて分かる。仮にも三玖がパフェでやらかしたことに親として頭が下がる思いだったわけだし。
中野家のアパートの前で、そのまま踵を返すと袖を握られた。
察する部分はあった
先生と二人きりになれる機会は限られている。以前は半年以上前のことだ。
今朝の一件を思い出すと、お互いにこのまま別れるには惜しいものがある。
「今日は泊まっていきませんか?」
「…子供がいなくて寂しい、か」
「…」
「仕方ねえな…」
「仕方ないのです
こんなに月が綺麗だもの、一人にしないで」
「…」
袖を掴んでいた手はそのまま腕に回ってきた。そのまま引き寄せられてしまう。
秋が近い九月の末。夜空を見上げても三日月に満たない月しか見えない。綺麗とは言えないものだ。
ならその言葉の意味は。深く考える前よりも…普段見せない思い人の振る舞いについていくので精一杯だった。
適わん。こっちは最初から、掴まれた瞬間から心臓が高鳴っているのに。この人は嬉しそうに、悪戯が成功したような少し子供っぽい笑みを見せてくる。
見栄を見透かすその人はどこか妖艶で、違った一面を思い起こされるもので、一層緊張が高まる。
「ふふ、慣れませんか?」
「…」
「わ、私からお誘いするのも…はしたないと自覚はしています…
ですが、過程のこともありますし」
「…
仮にもだな…先生は俺の憧れっつうか…
そういった面を色濃く見せつけられるとイメージってものが」
「暴いたのは貴方ですよ、上杉君」
「最初の時を思い返すと、あれってあんたの堪え性が…」
「貴方がいじらしいのが悪いのですよ
それに、少しお話しませんか」
…話をするのは構わないが…この手は離してくれないのか。密着していることに意識していないわけでもないだろうに、先生はそのまま家に招いてきた。
子供たちのいない暗い家は、あいつらが修学旅行に行って以来か。ずっとこのまま傍にいるのも窮屈なもので解放された。
明かりを点け、手を洗って…いつものように事を済ませて、お互いにちゃぶ台を挟んで居間に座った。
話とは何なのか。先生は何か入れ物を持ってきていたようで、それを卓に置いた。
「貴方のお父様から、昔話をお聞きして…今日しかないと思って」
「?」
蓋を開けて、中には先生の私物なのか…小物が入っていた。
その中から、古い紙袋を取って口を開けた。手の平に落としたそれは何かの筒だった。
見覚えがある。まだ真新しいそれを俺も持っている。
先生はその手を差し出す。小さなそれはコロコロと手の平に転がり、光沢があったはずのそれは鈍い光を見せている。
「覚えていませんか」
「…あんたに渡したじゃねえか
京都のだろ、俺もあいつらから修学旅行の土産で貰ったぞ
健康祈願の」
「…
やはり、いりませんよね」
話がかみ合ってないような。何のつもりかは掴み取れなかった。それは小学六年の子供たちが京都に修学旅行に行ったお土産に貰った物だ。
あいつらに五つ。そして俺と先生にも一つずつ。小さくも切実な願いを込めてそのお守りを買ってきたんだ。
母親に贈ったものを渡されても、あいつらから怒られるわけで困惑するだけだ。
先生は控えめに苦笑して、差し出した手を下ろして明かした。
「あの後、もう一つ買ったのです」
「…」
「…覚えていませんか?」
「…は?
あの後って、あの後か?
どういうことだ」
あの後とは…まさかと思うが、京都で初めて会った時を言っているのか。
確か俺は断ったはずだ。先生から貰い受ける約束もしていないし、理由が分からなかった。
「断られてしまいましたが…翌日またあの清水寺に行きました」
「何でまた…あいつらの分は買ったんだろ?」
「…
嬉しく思わないはずがないでしょう?」
お守りを指でつまんで、その表情は当時を懐かしんでいるようだ。
俺にとってはただのお守りにしか見えないが、先生にとっては何か違って見えるのか。
「あの時も、それからも、他人でしかなかった貴方は純粋に私を褒めてくれた
えっと…昔話、になるのですが
前の旦那とは…純粋に褒められるものは少なかったのです
不出来な私を導いてくれた半面、子供を叱るような言葉も多かったの
23で五人の子供も生まれて、なのに私は子供の頃から変わってない…
失敗が多く、あの人に認められていない実感はありました
きっと疲れているだけだから、息抜きでもしなさい、と遠くに追いやるような言葉を受けて、京都へ足を運びました」
「…」
「…私には何も、なかった…子供が生まれても、育てられる自信はなかった
学生の頃は楽しかったな…なんて、京都を一人で歩いて回っていました
困っている貴方を見て、何も考えずに声をかけてしまいました
お節介でしたよね…?」
「礼ならあの時言ったはずだぜ」
先生の昔話なんて、初めて聞いた。
嬉しいような、切ないような。そんな先生の顔を見つめていると落ち着かなくて、その手に自分の手を重ねる。
「嬉しかった…貴方の言葉、誰かに必要とされる人間になれる
例え見せ掛けでも…成れた
悔しくて、泣いていた貴方が願っていた程だから、偽りはないんだって分かったもの
初めて誇れる物だったのです
何か返したかったのですが…
私にできることといったら、貴方の夢が叶うように願うことぐらい」
「そんな大層なことした覚えはないんだが…
…何で先生が五年後も俺のことを覚えていたのか…それが理由だったんだな」
「ええ…結局、私は失敗してしまいましたが
…貴方が憧れてくれた自分が諦めてはいけない、そう思うと
この願い事が叶わないような気がしたの」
「願い事?」
「…それは秘密にしておきましょう
見られたら…その、困ります」
「はぁ? ここまで来てそれはないだろ」
「もう叶ってるからいいじゃありませんか」
お守りを拝借しようとしたら、手の平からスルリと逃げられてしまった。ええい、気になる。
見ないでくださいね、と笑って先生はそのお守りを箱にしまい、蓋をしてしまった。
「結局くれねーのか」
「断られてしまいましたし」
「時効、くれ」
「貴方には娘たちからのお守りがあるでしょう、こんな古いものとは違って」
「あーッ 後悔してたんだっ! 意地張っちまったんだ
それがあったら、あんたのこと覚えてたのに」
「…そう言われても、あげられません」
説得できそうな気もしたが、早々にその箱を押入れにしまわれてしまった。自分が根負けすると分かって逃げやがった。
泣かせたくないし諦めるしかないか。隠れて手を出したら絶対に泣かれる。ついでに五つ子からも嫌われる。諦めるしかない。
…先生の話を聞いて気になるものがあった。
「子供を産んで、いざ母親になって不安になるのは分かるが…
子供から変わってないって何だ
立派に教師になって、旦那もいて…それこそ成功者ってイメージがあったんだが」
「そ、その話はもういいのよ」
「…前の男はその点詳しいんだろ?」
「…う、上杉君…」
「知りたい
俺はあいつらの母親になった先生…いや
先生になる前のあんたを、知らない」
「…」
「ゆっくりでいいからよ、いつか話してくれ」
「…上杉君、私は」
「…ああ」
「私は…
…
…教師を目指して、後悔したわ」
…だと思った。とは言い切れないか。半々だった。
だが当たっていた気持ちもあって、少し嬉しく思うのは最低なそれか。
先生。あんたはいつだって…失敗した人の気持ちを汲んでいる。
いつか、立派な人間がそう在れる理由の一つになりたい。それが夢だと言っていたな。
まるで自分は失敗しているかのような言葉じゃねえか。
夢を叶えたのに、あんたは謙虚なのに。別の何かで満たそうとする願う姿は歪に見えた。
「過ぎた願望は身を滅ぼすわ…
成功者は夢を叶える力がある、あったのよ
でも私は違う
努力すれば叶うと願って、誤魔化しながら学生時代を過ごしたわ
今は特別な人間でなくても、いつかその時が来ると思ってやまなかった」
「落ちこぼれだったのか?」
「…ふふ…」
「?」
「落ちこぼれ、確かにそうですね」
「いや、待ってくれ、気を悪くしないでくれ
意外だと思ってつい、な…すまん」
努力家で、俺は授業を受けたことないが分かりやすいものだと聞いているし、先生の教材を借りていたんだ。努力してきた結果、教師になったと分かっているうもりだ。
なのに、落ちこぼれと言葉を漏らすと先生は卑下するように笑ってしまった。
前の旦那が絡んで気落ちさせてしまっているわけで、これ以上はやめようと立ち上がると、先生は頭を振った。
「零と零れるという言葉は同じでしょう」
「…そうですね、確かに」
「なんてことのない戯言なのに…いつ思い返しても滑稽だわ
子供の頃、この漢字を習ったときに…私の名は、不幸な名前なのかと考えた事がありました」
先生は乾いた笑みで笑う。手で目元を覆って、伏せてしまった。
「手の平から零れ落ちる、涙が零れる
私の妄想でしかありませんが、子供の頃…当時は朧ながらそう感じていました
私は何かを得ても掴み損ねて落胆するのだと
おかしなほどに…当てはまることが多いの」
「…」
「笑ってしまいますか…?」
「思い込みが激しい」
「ふふ、そうですね…ですが
一度思い込むと幼稚な発想でも信じ続けてしまうでしょう
言葉に魂を込めれば、やがて言霊となるとも言うわ
名前に意味を持たせるのは、名づけ親ではなくその名の主ですから
意識するだけで現実の受け入れ方は違ってくる」
この人は何か失敗する度に、自分はそういう人間なんだと抗いもせずに受け入れていたのか。
そんな最中、誰かに憧れ、愛し合い、その果てに子供を授かったが、それもまた失敗した。失敗したとも口にできない、大切な命を宿してしまった。
零れるのが嫌なら、手の平から零さないようにきつく握り締めるしかない。大切なものなら何度も手の平にあるそれを解いては存在を確認すればいい。
父親がそんな意味を込めてあんたに名を与えたわけがないだろう。
それがわかっていても、それを自分自身が体現してしまっているのなら…恨みたくもなる。自分の無力さを憎むことになる。
「失敗を嫌うくせに、似合わないことばかり求めていたわ
大切なものは誰が何と言おうと掴んで離したくない、そんな子供だった
でも、大切なものって…手に握り締めれば得られるものではなくて、酷く曖昧なもので
形のないものばかりだから、どうしても不安になるの
…焦っていた私は、あの人の重石になって…捨てられるのも当然だわ」
「あんたは悪くないだろ…子供を身篭っただけだ」
「ありがとう…
ふふ、大丈夫です…悲観はしないわ
五人も子供がいるんだもの、良き母にはなれなかったけれど…これからも目指すだけよ」
「…親馬鹿は変わらないか
あんたらしい」
心配は無用だと。伏せていた顔を上げて、いつものように、困ったように笑った。
それでも失敗してばかりだという先生は、恐る恐る手を伸ばして…俺の手を掴んできた。
脅えている子供にしか見えない。美人ってのは罪深いな。その懇願は振り解けるものじゃなかった。
「もう…手放したくないわ
また貴方を苦しめることになると分かっているの、ごめんなさい
貴方の気持ちを察した時から、繰り返すと危惧していたのに…私は変われなかった
ごめんなさい」
「…」
「こんな私でも、いいのでしょうか?」
…困った人だ。また最後になって…こうして頼ってくる。
いや、今回は一番最初に、そう考えられるか。
もうお互い、関係が曖昧でどこから始まりで、終わりなのか区別がつかないな。
…努力に泥を塗るなと言ったのはあんただったんだがな。それも後に気づいたことなのか知れないが。
一つ、良い事を教えてやるよ、先生。
「零にはもう一つ意味があったな」
「?」
「零雨って言葉があるでしょう
確証のない大昔の話だが、令に雨を合わせて、神に願いが通じて雨が降ったそうだ
天に祈りが届いて恵みをもたらしたんだ」
「雨、ですか」
「あんたが不幸だと捉えた零れるって意味も、重なれば雫から雨になる
零れた先には、あんたを必要とする人が見上げている
何度も失敗しても、あんたの努力に惹かれ、導かれ、幸福に至った人間がいたはずだ
…一回失敗した程度の人間じゃ、あんたに憧れも見向きもしなかっただろうさ」
あんたは人気者なんだぞ。ファンクラブもあったし、それは今もあるみたいだぞ。
失敗した人間に寄り添える人だから、俺はあんたを好きになった。
あんたは悔やんで仕方ないのだろうが、悪いが俺は否定させてもらうぜ。
成功は失敗の先にある。あんたが教えてくれたことだ。
あんたの願いでもあったんだろうな、先生。
俺もそう願ってやまない。あんたが成功して、笑ってくれることを願ってる。
「あんたは俺に道標を作ってくれた
他人を見下して、間違っていた俺はあんたと出逢って…救われた
見捨てられて当然だったのに…優しいって言ってくれたこと、忘れられねえよ…嬉しかったんだ」
「そう、ですか…
そうなのでしょうか…」
「知らずに誰かを幸せにしてくれる子か…切に願ったものを叶える子になってほしいのか
先生の名前にそんな意味が込められてたら
二乃が聞いたらロマンチックだと目を輝かせるだろうよ
「…」
「こっちのほうが笑えるんじゃねーの、先生」
確かに言霊ってのは本当にあるのかもな。
先生は主張せず静かに見守っているだけで、時折それは嘆いているようにも見えた。
零れて伝う雫はいつか乾いて消えるし、無駄に終わるものばかりなのかもしれない。
だが、零れ落ちていくけれど、落ちた先でもきっと何かを滴らせて恵みを与える。広大な乾いた地にいつかは花が咲くぐらいには。
途方のない話だが、それでもあんたは自分を憎みながら諦めずにきたんだろ。最初から勘違いしてたんだあんたは。
雨は嫌いじゃないしな。あんたみたいな控えめなものなら特に。
触れる手が一層強く握られる。手放したくないと募ってくるような、強い気持ちだった。
「…名前で、呼んでくれませんか
きっと…変われると思うのです
この名を好きになれたら」
「…」
「…我侭を、許してくれませんか」
我侭と呼べるほどのものでもない。
仕返しをさせてもらおう。先生の耳へ寄り、小さく呼んでやった。
「…上杉君」
「なんだよ」
「先生はいりません」
「…」
「…」
「やっぱ恥ずかしいわ、先生」
「…」
憧れの人だぞ。年上だぞ。俺のモチベーションを考えてもこの人を名前で呼んだら何かが崩れそうで断ってしまった。
怒らせてしまったか、呆れられてしまっただろうか。頼りないと思われてしまうかもしれない。
保留で、と引き止めようとしたが…先生に押し倒されてしまった。
まさか、本気で怒ってる? 見上げると先生は普段見せるような控えめに笑うものとは違っていた。
仕方ない人だと、困っているようでに喜びが溢れてやけてしまう、そんな無垢な感情で笑っていた。
「そうなると、先生でいないといけませんね」
「…当たり前だろ、転職するのか」
「…貴方の先生は…そう簡単には勤まらないもの
まだ至らないことばかりだけれど…貴方の」
そのまま、見下ろされたまま先生の顔が近づいて、唇を重ねた。
不意打ちに驚き、強張ってしまうと先生が身を引きそうになっていた。
仕方なく、先生の髪に触れて抱き寄せる。本当に意地の悪い人だ。
唇を離すと、満足げで少しむかつく。さっきまでうじうじ悩んでたくせに手の平返しが上手い人だ。弄ばれている気分だ。
「…別に、妻になるのに必須ってわけじゃないぞ」
「そうですか? あなたの拘りようが計り知れないと先ほど感じられたのだけれど」
「…もうあんたを好きになってるし、別だ、別
無理するなよ」
「…失敗してばかりだもの
あなたに好かれる理由は手放したくないから…それでいいのよ」
再び口付けされてしまう。好き放題されるのは癪だが体勢が悪い。
俺だって気丈に我慢してきたつもりだ。リードを取られて終わるのはもったいないと思ってしまう。
と思っていた矢先、先生の指が上着のボタンに触れて、肩が跳ねてしまった。
驚いて先生の肩を押し出す。
「ま、待てよ?
いや、まだ風呂も入ってねーし…
布団も敷いてないんですが」
「…すみません
あの日を思い出すと…どうしても」
「ぐ…
これじゃ生徒に示しつかねーだろ」
「…ふふ、いけない教師、ですね」
謝ってはいるが改めるつもりはないらしい。そのまま体を寄せてきた。もうここまで近づかれたら抗えない。
普段ろくに手も繋いでない仲だ。タガが外れると止まれないようで、気持ちを確かめるように重ねてたいくなる。
部屋の明かりを消して、月明かりも薄いそんな暗い部屋で先生は微笑んでいた。
優しく見つめられるその眼差しだけで十分なんじゃないか。それでも速まる鼓動はそれ以上の物を求めてしまう。
「私の友達の友達にね、年上に片思いしてる人がいてね」
「…」
「ずーっと片思いしててね」
「で」
翌日。朝っぱらから妹から電話がかかってきて目が覚めた。こいつ狙ってやってるんだろうな…恐ろしい妹だ。色々と。
日曜日は祝日だ。普段朝早く起きている社会人もこの日は体を休めるべく眠っている時間だろう。まだ朝の七時だ。
現に先生もまだ寝ているし。朝から何のつもりか知らないが、妹は真剣なようだった。
「相手は10歳離れてるの」
「それで」
「今まで何度か相談を聞いてたんだけどさ、そろそろ真面目に答えるべき時期かなって思ってね」
「ああ」
友達の友達に真面目な奴。そいつは小学六年生の何女なんだか。
「でも根本的に問題があってね」
「…」
「そもそも私、幼稚園の頃からの片思いって理解できなくてさ!」
「俺もできない」
「だよね!
ってなわけないでしょ!」
その友達とはあれか、首元にヘッドホンかけた小学六年生か。昨日パフェを口にしてグロッキーになってた子のことだろ。
昨日、五つ子が実家に泊まったわけで、恐らく三玖がらいはに相談したな。
それはいいが、何もこの時間に報告しなくてもいいだろ。子供たちが起きる前にこっそり暴露する嫌な姉貴分だった。
三玖め、チビっ子の分際で外堀から埋めにくるな。純粋に相談したかったんだろうけれど。
「その子にさ、うちのお兄ちゃんが10歳年上のシングルマザーと5年以上交際してるって話したの」
「おい、そいつと同族扱いするなよ
つーか話す意味あるか?」
「大丈夫、みんな絶賛してるから
高校生でそれはやばいねって!」
「引いてるだけだろ!
実の母親が相手だぞ」
「…その子もさ、今まで周囲から冷たい目で見られるの覚悟して好きで居続けたんだよ
それが終わろうとしてるんだよ
不安になるよ、だからつい…お兄ちゃんの影の武勇伝を参考にしてもらおうかと」
確かに高校当時は黒歴史が多々あるが…それが三玖の為になるだろうか。
しかし、らいはが気にかけるのも当然な話だ。らいはにとって三玖は可愛い妹であり、報われない恋だと知って少しでも力になりたいのかもしれない。
「…あいつの件はきっちり話をつける、俺も傷つけて終わりにはしない
心配かけて悪かったな」
「ううん、正直私も昨日話を聞くまで意外だったからさ…
でもやっぱりというか、尚更違和感あるんだよね」
「違和感?」
「こっちの話じゃなくて、お兄ちゃんのね
お兄ちゃんの気持ち的にどうなのかな
義務感もあるんじゃないかな?
零奈さん好きでもさ、好きって気持ちだけで相手に子供いたり、年齢の差って埋まるものなのかな?」
昔は単純に応援してたが、高校生になって疑問を持つようになったのか。
「お金とかさ、家族のことだったり、将来のこともあるし、全部抱えられる?」
「無理だな、気持ちなんて何かのきっかけで変わる」
「お兄ちゃんがそれ言うか」
「現実的アドバイス求めてるんじゃないのか」
「昨日お父さんにお付き合いの報告した人が言うことじゃない!
どうせ零奈さん家泊まったんでしょ!」
「…
不安なんて恋人同士になったからって消えるわけないだろ
そいつと一緒にいたいのなら、いつまでも必要とされる努力をするしかないんだ」
「…」
恋愛なんて、そんなに良いものじゃない。ノーリスクでできるものじゃない。
俺が昔から言い続けていることだ。特に学生に至っては不要だと決めつけてもいい。
恋愛は学業からかけ離れた最も愚かな行為だ。
したい奴はすればいい…だが、そいつの人生のピークは学生時代となるだろう。
何かを犠牲にしなければ、土台成立しない関係だ。なぜそれに夢中になる。恋焦がれるなんて言葉自体が忌々しい。
「疲れるし、お節介だと言われて感謝されないことも沢山ある
が、それでも苦にならないのなら好きってことなんじゃねえの
そこが子供と大人の違い」
「愛が重い!
ちょっとズレてたらメンヘラになるよお兄ちゃん!」
「…もうおまえの相談は乗らねえ、切るぞ」
「あー! 嘘だってば――」
失礼極まりない奴の電話を切る。俺は極めてこの人に対して消極的だぞ。遠慮はもうしないが。
まあ確かに対価のない愛情は胡散臭いものなわけで、先生が不安に思うのは当然だ。俺にとっては過去の恩ってだけで十分理由になるんだが。
この人は何もかも失敗したと捉えて、他人からの好意に疎いようだ。きっと何かが違えば俺よりももっと魅力的な男と巡り会えたはずだ。
教師なんかではなく、資産家だったり、小さな会社の社長でも…病院に通っていたんだ、医者と結婚なんてあり得る人だ。それほど魅力的な人なんだ。
美人だし、優しいし、かっこいいし…好きにならないわけないんだがな。俺に限らず。
昔抱いていたイメージとはかけ離れた脆さが目立ち、苦労されていることを知ってからは目が離せないし、放っておけない。
人の良さなんて、あの人が五人の子供から慕われている時点で立証されている。教え子からの評判も高かったしな。
そんな長所を台無しにするほど不器用で独り善がりな人だったわけだが、人間らしい拙さが返って安心感もある。
「…先生」
「…」
「…零奈」
「…」
「…先生
…やっぱ、無理だ」
やってることはあの子たちと一緒だと察して苦笑してしまう。
あどけない表情で眠っているのに、構ってほしくて声をかけてしまう。
恋は盲目、だな。やっぱり面倒臭い。
それでも、傍にいたいこの気持ちに酔わないように
本音は言葉にしなくてもいい。好きな人にだけ通じればいいと願いながら。
やはり俺は恋愛は愚かで嫌いだと言い続けている。