五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れるその3 愛し愛されど

 風太郎の視界には見覚えのある光景が朧に映し出されていた。

 

 景色は白そのもの。夢のようでそうでない中、徐々に鮮明なものになる。

 

 病室だった。

 

 何度も通った場所だから、一月程経ち、その必要がなくなった今でも記憶に残っていた。

 

 目の前のベッドには…やはり先生がいた。窓の奥、もう太陽が暮れそうな日差しを退屈そうに眺めていた。

 

 少し笑ってしまった。いじけた子供か、あんたは。

 

 なにせこの人は…毎度顔を合わせる度に文句をつきつけてくるのだから。

 

 仕事が忙しい最中に見舞いに来て、無理をしていないかと。

 

 もう体調は万全だから、医者に退院を早められないか一緒に相談してもらえないかと。

 

 娘たちは寂しがっていないか…倒れてしまったせいで、怖い思いをさせたことを憂えていた。

 

 困った人だ、本当に。目が離せないじゃないか。

 

 それでも、そんな先生が好きで…俺はこの人の見舞いにやってきている。いつものように来客用の椅子に腰をかけた。

 

 

 

「上杉君、どうしても貴方に伝えたかったことがあります」

 

 

 

 藪から棒に何だ。

 

 この人が抱える面倒事に、これまで何度も悩まされてきた俺はたぶん嫌な顔をしていたと思う。

 

 入院中、自宅から持ってきた寝巻きを着ている先生は身の衣を整えて俺へ向き直った。

 

 後ろから夕日に照らされた先生の顔は、よく見えなかった。

 

 

 

「赤ちゃんが…できました」

 

 

 

 …は?

 

 夕焼けの光のせいでその顔は窺えず、そのお腹へ視線が下りていく。

 

 まだ大きくもなっていないその細い体には、小さな命が宿っているんだとこの人は告げている。

 

 

 

「しかも…五つ子なんです」

 

「い…五つ子だと…!?」

 

 

 

 待て待て! あんたもう五つ子いるんじゃ…ということは十人目ッ!? 子供が十人!?

 

 一人でも驚くものを、五人もの子供が先生のお腹に生きているのかと思うと、ただただ信じ切れない気持ちだった。

 

 五つ子なんて…いや、そもそも俺との子供なのか!? い、いつの時だ!?

 

 狼狽した俺は立ち上がって先生から説明を求めようとする。

 

 

 

「せ、先生」

 

「名前…考えないといけませんね」

 

「いや、待ってくれないか

 それ以前にこの状況に頭が追いついていけていない…

 お、俺とあんたとの子供でいいんだよな?」

 

「はい…っ」

 

「…」

 

 

 

 うろたえていた俺は逆光から視線を逸れたことで、先生の顔を窺い知ることができた。

 

 先生は嬉しそうに、涙を滲ませて微笑んでいた。

 

 過去…五つ子を孕んだこの人は男に見捨てられたというのに?

 

 俺との子供に泣いて喜んでくれるというのか…?

 

 その心中を、今の俺には計り知ることはできそうになかった。

 

 

 

「安直かもしれませんが、五月に続いて六の文字を続けるのはいかがでしょうか?

 六海…なんてどうかしら?」

 

「…ああ

 ああっ…」

 

 

 

 正直、先生の言葉は頭の中に留まらずに通り過ぎていくばかりで。

 

 胸がいっぱいで…今は衝動に従ったままにこの人を抱きしめていた。

 

 俺との子供ができたことに喜んでくれる女性が愛おしくてたまらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 直後、ガリッと嫌な音と指の痛みで目が覚めた。

 

 

 

「…やっべ…」

 

 

 

 壁紙が剥がれちまった…指の爪にはその証拠が付いてしまっていた。

 

 あの人を抱きしめようとした手は空振り、思いっきり壁を引っ掻いたようだ。寝相の悪い奴だな…クソ、四葉のこと馬鹿にできなくなっちまった。

 

 指の痛みを堪えて起き上がると、先程の光景よりもずっと見慣れたものが目に見える。

 

 枕の隣には誰もいない。あの日中野家の部屋で寝泊りした時にはない、冷えた寝床が今は無性に寂しさを募らせてくれる。

 

 どう見ても自室。喧騒など無縁な男の一人暮らしの部屋だ。

 

 

 

「まあ…夢だよな」

 

 

 

 馬鹿馬鹿しいと頭を振る。それでも眠気から覚醒した熱は拭えず、顔は汗ばむほど熱かった。

 

 突拍子のない内容だった。先生が子供を妊娠って…先生と寝た影響か、願望の現れなのか判断に迷った。

 

 九月を過ぎて今は十月。暑苦しい季節が徐々に秋の彩を見せる時期だ。

 

 特別寒さはなかったが、布団に包まって寝転がっていたい気分だった。

 

 

 

「六海か」

 

 

 

 先生と俺の子供、か。

 

 性別は聞いてなかったが、あの先生の口ぶりからすると恐らく女の子だろう。

 

 あいつらに似て可愛いんだろうな。

 

 

 

「七は七生とか…

 八重…

 …九って名前は何があるんだ?」

 

 

 

 到底実りのない妄想に耽ってしまう。これも全部、あの人が子供欲しいかとか聞いてきたせいだぞ。

 

 とりあえず、育児の本は買っておいても遅くはないの、か?

 

 そこまで思考を巡らせたところで、大きく寝返りを打って大の字に寝転ぶ。

 

 

 

「はぁぁあっ…」

 

 

 

 今日は土曜日。仕事に明け暮れた後の週末は…あの子たちとその母親と過ごす日常に切り替わる。

 

 何とも気が抜けた一日を過ごすことになりそうだ。

 

 特別なことなど何もない。夢の欠片もない。

 

 年を取れば何かを追い求める手は下がりがちだ。

 

 幸福とは違う何か…そんなありふれた日常を過ごすだけで満たされてしまうのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 習慣というのは良くも悪くも心を落ち着かせてしまうものだ。

 

 仕事ならそれが効率化を図る良い機会にもなるだろう。

 

 だが、こと人間関係に至ってはどうだろうか。

 

 毎週、ほぼ毎日顔を突き合わせる仲となれば…極端な話、疎ましさも感じるはずだ。

 

 家族でもない他人相手なら、特に年上相手には気を遣うこともあるはずだ。

 

 高校から続いているそんな習慣が、なんだかんだあいつらとずっと共に生き続けていた。

 

 

 

「フー君ッ!」

 

 

 

 俺を呼ぶ声に軽く手を振って答える。

 

 変わらずにいることを求めるのは酷だと知っていても…顔を合わせると喜び駆けつけてくる子供を見るとつい求めてしまう。

 

 久しぶりのデートだと、日頃妹に立場を譲っていた子供は今日を楽しみにしていてくれていたそうだ。

 

 もうその目で捉えているというのに、数秒の時を惜しむべく真っ直ぐに走ってくる程度には。

 

 

 

「走らなくてもいいだろ…ぐはっ!?」

 

「セリフが違う」

 

 

 

 こいつ止まりもせずに腹に突撃してきやがった…昔と違って、大きくなった二乃の勢いは思っていた以上にきつかった。

 

 電車に揺らされた後、駅前に降りると約束の場所に二乃はいた。よく待ち合わせに利用する場所でこれもまた慣れたものだった。

 

 遠目でも分かる。長い髪とリボンを結んだ子は普段よりも着飾った姿で待ち人を待っていたのだ。

 

 来年は中学生。母親が買ってあげたのだろうか。

 

 真新しい服をお披露目する子の気持ちを汲む配慮ぐらいはある。少しは褒めてやろうかとも思っていたんだぞ。

 

 なのにこいつ、淑やかさの一つも見せずに走ってくるとは思わなかった。腹痛い…

 

 仕方なく、お決まりのセリフとやらで機嫌を取ることにする。

 

 

 

「ぐ…

 ま、待ったか?」

 

「ふふ

 ううん、今来たところよ」

 

「…」

 

「…」

 

「ご満足頂けたか?」

 

「思ってたよりも味気ないわね…これは減点ね、フー君」

 

 

 

 俺は俳優ではなく、しがない新米教師だぞ。不当な減点は認めないからな先生は。

 

 ニコニコ顔から一変、何が違うのか頭を捻っている二乃を腹部から引き剥がす。

 

 今日のデートの相手はこの子だ。まあ…中野一家と合流する道中限定の、儚いシンデレラのようだがな。

 

 恋愛事には何事もハードルが高めな乙女だ。雨の日でもロマンを求めるような子はこの時間を有効活用したいらしい。

 

 しかし時計の針を気にする必要はない。自然体でいこう、と二乃を笑ってやった。

 

 

 

「俺も今さっき減点評価を下したところだ

 見かけに騙されてクリティカル食らっちまったぜ」

 

「…

 き、気に入ってくれた? ママと買ったのよ、これ」

 

「もう少しお淑やかになれば恋愛ドラマの主役になれるだろうよ」

 

「ふふん、恋は攻めてこそ物語が始まるのよ」

 

「過激なもの見過ぎ」

 

「DVDに録画してあるから、今度一緒に見ましょ

 最近は一花との女優談義で白熱してて面白いの」

 

「あのドライな一花がね…流石来年中学生」

 

 

 

 いくら可憐で愛らしい服で着飾っても、この子の押しの強さを隠すことはできないらしい。

 

 いや可愛いんだけどな…褒めた後にペースを取り返すのが大変なんだよ。

 

 勉強含め、何かと興味のないものは渋りたがる一花が映画の女優には憧れていることは薄々察していた。二乃のドラマにも興味を示し始めたか。

 

 来年は中学か…こいつらとの付き合いも六年になるのか。早いようで短いような…複雑な心境だ。

 

 そろそろこいつらも、中学では好きな男ができるかもな。今までの小学校時代にはそんな話聞くことはなかったのだが、安心していいのか心配するべきなのかわからん。

 

 昔の記憶に思いを馳せるにはまだ早すぎる。手の平を向けると、二乃は嬉しそうに握り返してくれた。

 

 

 

「行くか、ケーキ屋」

 

「あら、二人っきりで逃避行でもいいのよ」

 

「ケーキ抜きでいいのなら連れて行ってやるぞ」

 

「…

 ブドウのフェアさえなければッ…!」

 

 

 

 この子との戯れは…さばさばした性格の二乃の気持ちもあって清々しい。俺の価値はブドウに劣るようだがな。ドラマ化したら打ち切りものだぜ。

 

 過去、少しずつ成長していった手を包む。何度も何度も握り合った子供たちの手は温かく、この手を強く掴んでくる。

 

 二乃は頬を染めて見上げ、また一つ笑った。ご機嫌だな。

 

 向かうはこの子のお気に入りの店。この季節、旬の葡萄をふんだんに使ったケーキのフェアをやっているらしい。

 

 二乃には口にはしない小さな夢がある。憧れのパティシエが腕を振るうケーキのお店がお気に入りなのだ。恋と天秤にかけても夢は譲れないようで感心してしまう。

 

 

 

「もうあいつらは店に着いているのか?」

 

「ええ、五月と四葉がうるさいからね…

 ママも厳しく言わないんだから止まらなかったわ」

 

「朝から元気だな…」

 

「一花も三玖も、らいはお姉ちゃんに会いたがってるからフー君待たずに行ったわよ

 店長さんにはこの前の特大パフェのお礼も言いたいし」

 

「三玖が顔突っ込んだり、一花がタワー倒したアレか」

 

「ふふ、写真撮ったから店長さんたちに見せるの」

 

「三玖が怒るぞ」

 

「ふふ、知らないもん」

 

 

 

 こいつ…シンデレラというより、その姉じゃねーか? これは店に着いた後も面倒な事が起きそうだ。毎度飽きないなこいつら!

 

 駅前から離れて路地を歩く中、手を繋いでいると…立ち止まった二乃に引っ張られた。

 

 何だ、と振り返ると二乃は美容院を眺めていた。その目には羨望の念が込められているようにも見える。

 

 本格的に洒落込みたい年頃のようだな…らいはとは大違いだぜ。やはり我が妹はできた子だった…自分で稼いだ小遣いを先生の退院祝いに使う優しい子だしな。

 

 二乃と並んで店前に置かれたボードを見やる。高いんだよな、カットだけで贅沢な食事が食えるぜ。

 

 だが、貧乏だからと言って女の子にお洒落を咎めるのはナンセンスか。

 

 先生もここ最近一番に悩んでいる点だ。女の子が五人もいるとその出費で途端に生活が厳しくなる。

 

 …今度こっそり行かせてやるか、母親へのサプライズのお披露目も含めてな。

 

 

 

「二乃、今度連れて行ってや――」

 

「フー君、イメチェンとかしない?」

 

「…

 俺かよ」

 

「ずーーーーーっと、その髪型だし

 ほら、たまには、ね? ね?」

 

「俺は妹が切ってくれたこの髪型が気に入っている

 床屋でもこの髪型を維持するよう頼んでる」

 

「前髪上げたり…少しパーマかけてみたり…ちょっと屈んでっ」

 

「話を聞けッ」

 

 

 

 おまえ行きたくないの? 俺の疑問は投げ出されたままに、引っ張られるがままに二乃の前で屈む。

 

 前髪を弄られ、なぜか持参していたヘアピンをつけられた。

 

 おい何をするつもりだ、おまえ。俺仮にも教師なんですけど。風紀を乱さない程度にやってくれ。

 

 

 

「…」

 

 

 

 無言でこの様をスマフォで写真を撮られた。即犯行の証拠品を取り上げてやる。

 

 

 

「あのな、俺も23で…大学生でもないんだから、もう着飾るつもりもないんだぞ」

 

「ママがいるから、その必要がないって言いたいのかしら?」

 

「…悪いか、あと俺教師だし」

 

「ママはフー君にゾッコンだけど、それとこれは別じゃない

 ブサイクな男がパパでも彼氏でも私は嫌よ、わかる?」

 

「…ヘアピンつける男のほうがダサいと思うんだけど?」

 

「まあこれはやりすぎたわね…

 でもこれ外して…前髪をもっとこう…

 よし、決まったわ、今日はこのままね!

 こんなにかっこいいのに…もう、もったいないわよフー君ッ!

 私と付き合っちゃう?」

 

「十年早い

 …マジでこれで先生に会えって?」

 

「うん」

 

 

 

 ご満悦の二乃の魔の手から逃れ、屈んでいた体勢から立ち上がる。

 

 改造後の髪型を確かめるべく、美容院の前のガラスに反射する自分を眺める。

 

 …額が広く露出したり、髪が乱れてたり…なんつうことしてくれやがる。

 

 これが流行りなのか…ファッションに疎い身では理解に苦しむ。しかし流行に目敏い二乃が変わらず目を輝かせて俺を見上げているわけで。

 

 …先生も、こっちのほうが好んでくれるだろうか…

 

 姦しいかつ、最近は色恋沙汰に厳しい五つ子相手に手抜きなどできず、それなりに風貌には気を遣っていたつもりだ。

 

 昔は…貧乏だから、まだ学生だから。そうやって敬遠していた容姿に今更気を遣うことが多くなってきた。

 

 恋愛なんて愚かな行為だと遠ざけていたツケが今ここに現れている。容姿で女性を喜ばせる術を知らないでいる。

 

 大学の知人に髪型や服装を勧められたことが何度かあった。が、それも今では記憶になく、もう少し興味を持てよと過去を悔やむ。

 

 

 

「…昔なんかは前髪上げてたんだよな」

 

「べ、別に普段のフー君が嫌なわけじゃないのよ?

 でも…もうイケメンなフー君が悪いのよ! こんなの隠し持ってたなんて

 めっちゃ私の好みのド真ん中って感じ! きゃっ! もうもうっ!」

 

「おまえの好みなんて知りません」

 

「照れちゃって、照れちゃってー!

 ママも絶対気に入るわ、保証したげる

 ねえねえ、一緒に写真撮りましょ?」

 

 

 

 テンションが上がり切ってくっついてくる二乃に取り上げたスマフォを返してやる。

 

 先生の好みなんて知らん。合わせようとも思わん。これ本音。

 

 だが…こんな小さな気遣いで…気休めにでもなるのなら。

 

 たまには良いのかもしれない。と二乃に推し負けたところで気づく。

 

 ここは店の前なわけで、悩んでいたら美容院のドアが開いた。

 

 

 

「よろしかったらカットだけでもいかがですかぁ?」

 

「…」

 

「そちらの子が絶賛する通り、とてもお似合いですよ」

 

「ほらほら! 店員さんからのお墨付き貰ったし、少しくらい遅れてもいいんじゃないかしらフー君」

 

「失礼しました!」

 

 

 

 店員に見られていたことに居た溜まれず、二乃の手を引いて逃げた。思えばガラスなんだから店内から見られていた。

 

 

 

「あー、調子が狂うぜ…

 恋愛においては本当に未熟者だと言わざるをえん」

 

 

 

 過去、他人を見下し毛嫌いしていた人間が他人に媚を売ろうとしている。笑っちまうよな。

 

 気恥ずかしさもあって、やはりこれは認め難いものだ。二乃には悪いが俺には縁遠い分野だと教えておこう。

 

 ドタバタと少女の手を引っ張っていると、二乃の足は早く、すぐに隣に駆けてきた。

 

 もう昔のような追いかけるだけの子じゃない。こうして俺にアドバイスを贈る程に二乃は女の子らしくなっていた。

 

 

 

「フー君!」

 

「あ?」

 

「かっこいいからっ!」

 

 

 

 この子は自分の恋路を進むのなら…逃避行の中でもこうして笑っていそうだ。

 

 自分の為ではなく、他人も…それも不出来な人間を励まそうと、こうして見上げてくる。

 

 

 

「世界一、かっこいい! 大好き!」

 

「…生意気」

 

 

 

 子供の癖に生意気だ。愛の告白と、思いを奮い立たせる賛辞を口にして二乃は無邪気に笑っていた。

 

 大人を辱めるな馬鹿。走る二乃の両脇に手を差し込んで持ち上げてやった。

 

 二乃は慌てて、照れて、赤面する。子供が今を夢中に生きている。それくらいが調度良いぜ。

 

 でないと…にやけてしまった、かっこ悪い顔を見られてしまうじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「「おお…」」」」

 

「…見られると恥ずいんだが…

 おまえのせいだぞ、二乃」

 

「んふふ…私としては眼福だから知ーらない

 でもさっき走ったせいで乱れちゃったわね…

 ねえママ、今度ワックス買ってみたいわ」

 

「いいですよ」

 

「即答するなよ先生!?

 使わないだろ女子は!!」

 

「帰りに買っていきます」

 

「やめて下さいって言ってんの!」

 

「冗談です」

 

 

 

 こ、この先生め…年上だからって見くびるなよ…完全に俺を辱めて楽しんでやがる。

 

 子供たちからの感嘆するような視線も暑苦しい。五月がメニューのケーキから目を放して見つめている時点で異常事態だぞ。

 

 先生までニッコリ笑って二乃の提案に乗ってたし、何で女共に囲まれて恐縮しなくちゃいけねーんだよ…しかもこの店女性客多いしよ…

 

 髪型を元に戻し、余計な出費はするなと二乃と先生を止めておいてから、大人しくテーブルに着く事にする。

 

 先生と二乃を除いた五つ子の五人は先にテーブルに着いている。もう幼稚園の頃と違い一緒に座ることは困難だ。

 

 元から隣のテーブルも使って良いことになっている。その輪に加わらずに済むのなら調度良かった。

 

 

 

「フー君、こっち座って

 ママもこっち」

 

「はい席替えでーす、お母さん退いた退いた」

 

「…」

 

「…そんな寂しそうな顔されてもな…」

 

「してません」

 

「してただろ

 子供たちと一緒にいろよ」

 

「フータロー、私そっち行く」

 

「私も行くー! 上杉さん、蜜柑のケーキ一緒に食べましょー!」

 

「お、お母さんが行くのなら私もっ」

 

「あんたたちは自重しなさいっての」

 

「私たちは勝手に食べてるから、二人はゆっくりしててよ」

 

 

 

 気遣いのできる姉二人が妹を押し留めて、先生と向かい合って座ることになった。

 

 …先生の背後から膝立ちになって覗いてくる三玖と四葉の目が未練がましいもので落ち着かないのだが。

 

 睨み返すと渋々座り直して下がっていった。ひとまず落ち着けるようだ。

 

 

 

「らいはと店長にはもう会ったのか?」

 

「先程お話をさせていただきました

 お忙しい様子だったので、後ほど改めてお礼に伺うつもりです

 このフェアも自信作ばかりのようで、楽しんでいってくれとのことでしたよ」

 

「…思えば、あの人はあいつらに随分と甘い人だったな

 子供たちの笑顔の為にこっそりケーキ食わせていたよ

 子供の笑顔が好きだったんだろう」

 

「…お菓子職人さん、だからでしょうか」

 

「だとしたら世のケーキ屋は赤字確定だな」

 

「この混み様を見ればその心配はいらないでしょう

 明るくて素敵なお店です

 ケーキ一つで、家族が笑って楽しく過ごせるんだもの」

 

「貧乏人の俺たちには一入極まるな」

 

「…私の幼少期より美味しいものを食べている気がするわ」

 

「まったくだ」

 

 

 

 昔…まだこいつらが幼稚園児の頃か。俺のアルバイト先だったこのケーキ屋で何度も中野家の面々と顔を合わせた。

 

 片親で五人もの子供を抱えている家庭に情があったのだろうか。店長含めて当時の店員が自腹覚悟で子供たちに小さなケーキを内緒であげていた。

 

 人の金の使い道は多々あるが…他人の幸福を招くものは極めて少ないだろう。目の前にいる子供の為なら小遣いぐらいやりたい大人の気持ちなのかもしれない。

 

 お陰で五つ子はこの店に馴染んでいる。特に二乃は月1は通っているくらいだ。

 

 確かに、思えば贅沢な奴らだと思えなくもない。上杉家のケーキは至って祝い事のみだ。このような週末のおやつに訪れることなど一切なかった。

 

 

 

「…先週、うちの家族と顔合わせを終えた

 気持ち的に…どうなんだ」

 

「どうとは?」

 

「あー…」

 

 

 

 先生ら中野家と週末を過ごすことは珍しいことじゃない。もはや通例になっている身で特別話すことなどなくとも共に過ごす仲だ。一応恋仲だし。

 

 此度この店で待ち合わせたのは別件が絡んでいる。子供たちがついてくるのはいつものことで諦めている。ケーキ食わせてやりたい気持ちもなくはない。

 

 つい、朝の夢を思い出してしまう。だが後々避けて通れない話題だった。

 

 

 

「あの日言ってただろ、子供」

 

「…はい」

 

「その一環ってわけではないが…式はどう考えているのか聞きたい」

 

「式…

 …不躾ですが、何の式か確認しても…」

 

「そりゃあ…俺と先生との…結婚式…だが」

 

「…」

 

 

 

 恥ずかしげもなく告白すると…先生はこちらと見つめ合った後、視線を逸らしてしまった。

 

 あー…と落胆と共に察してしまう。その気はなかったらしい。

 

 

 

「式、挙げたいのかしら?」

 

「いや、拘りはないが…拘るとしたら女の方だと思ってな」

 

「でしたら…その諸々の費用等は子供の為に貯金するのはいかがですか?

 何もかもせせこましくするつもりはありませんが、額も大きなものですから」

 

「まあ…賢明だな」

 

「それに…私がその…ドレスなどは…」

 

「…?

 いや、似合うだろ」

 

 

 

 俺の一言に逸らしていた目線がみるみる下に下がっていく。何か知らんが居た堪れないようだ。

 

 この人は自分の容姿を卑下しがちだ。だが見てみろ…未だに高校でファンクラブが存続されている女教師の美貌を。

 

 仕事と育児の無理が祟って倒れてしまった人は、当時ですら美人で有名だったが病院で療養を取って健康的に回復した後は…やはり違って見える。

 

 今もその少し赤く染まった頬が拝めているわけだしな。

 

 これは金銭面を配慮しているのではなく、単に恥ずかしいだけだろ。

 

 

 

「花嫁姿だなんて…私にはとても」

 

「俺が見たいと言ってもダメ?」

 

「だ、駄目です…ごめんなさい」

 

「…」

 

「う、上杉君?」

 

「いや、それは一緒に寝ること以上に恥ずかしいことなのか――フォークは勘弁です!!」

 

「場所を選びなさい…」

 

「…あれだけ無理矢理やっておいてよく言うぜ…」

 

「上杉君? 私の後ろに子供たちがいることを忘れてませんか?」

 

「すみませんでした」

 

 

 

 理不尽だぞ…仮にも婚約者相手に正装を着飾ることを恥ずかしがって、恋人に柔肌を晒すことに抵抗がないとはどういうことだ。今度問い質してやる。

 

 クソ…俺にも失言もあったことを認めざるをえない。完全に夢の内容を意識してしまっていることを自覚してしまった。 

 

 

 

「貴方を信頼しているわ…でも、拙いものをこれ以上見せたくないの

 貴方がご友人や親戚の方にどう思われるか、想像し難いものではないわ

 年も離れて、子供もいて…入院もして…貴方の負担になることばかり」

 

「…」

 

「こんなこと願ってはいけないと分かっていても

 貴方とは年も近くて、もっと、もっと早く出逢えたら…」

 

「…

 あんたが俺を置いて先に死んでいくとしても

 あんたが婆さんになって、その先俺のことを忘れてしまっても

 俺はあんたの傍にいる、そのくらいあんたに惚れている…恩もある」

 

「…」

 

「…また今度話そう」

 

「…はい」

 

 

 

 重たい雰囲気を晒しそうになってはぐらかした。今は賑やかなケーキ屋だ。幸い浮いているような空気ではなくて安堵する。

 

 一旦…話を切り上げて、先生は後ろのテーブルの五つ子たちから確認を取り注文した。

 

 区切りも良い頃だ。先生に断りを入れて俺は店員に声をかけて、厨房の方へ足を運ぶ。

 

 

 

「あ、お兄ちゃ――こ、こほんっ」

 

「お邪魔してます

 妹がお世話になっております」

 

「やあ、上杉君か

 五年ぶりかな…久しぶりだね、元気そうで何より」

 

「お久しぶりです

 先週の中野先生の退院祝いのパフェはありがとうございました」

 

「盛り上がってくれたのなら作った甲斐があったよ

 中野さんたちは君が上京した後も常連客だからね、構わないさ」

 

 

 

 このケーキ屋、REVIVALの店長に頭を下げて挨拶する。高校2年と3年の頃にアルバイト先で世話になった人だ。

 

 ウェイトレスのらいはもパントリーでパフェを盛り付けたりと仕事に励んでいるようだった。

 

 ホールの店員はだいぶ顔ぶれが変わっているが、厨房の方は見知った顔が多く会釈をして挨拶をする。

 

 まだ昼過ぎのこの時間はオーダーで忙しいだろう。会話も程ほどに手短に済ませたほうが良さそうだ。兄の前では妹も仕事に集中できないだろうし。

 

 

 

「ご結婚されたと聞いたんで

 おめでとうございます」

 

「ああ、ありがとう

 …そっちこそ念願の教職に就いたそうじゃないか、おめでとう

 君の妹のらいはちゃんもうちで働いてくれているし、君は辞めた後でも何かと有名だね」

 

「有名になったのはこの店でしょう

 度々ニュースやグルメ番組に取り上げられているの知っていますよ」

 

「嘘だ、私が教えたんだから」

 

「コラ、そこはちゃんと仕事してなさい」

 

「しーてーまーすー」

 

 

 

 妹よ、余計なことを言うんじゃない。大人には世間体というものがあるんだ…わざわざ暴こうとするんじゃない。

 

 勤務中に呼び止めるのも悪い。また今度、機会があれば改めて話でも…そんな感じでこの場を後にしようとすると、店長から再び声をかけられた。

 

 

 

「相変わらず五つ子たちと仲良くしているみたいだね」

 

「ええ…まあ…先生とはお付き合いしているので」

 

「なるほどね、二乃ちゃんはよく来るよ

 昔、君が二乃ちゃんを誘ったアレ…月1でケーキ作りの体験コーナーやってるんだ

 師は君だといつも誇らしげでね、自慢のケーキを作っていたよ」

 

「…そうっすか」

 

 

 

 二乃の奴、俺はただのウェイターだったし、厨房の連中に比べたら赤子のような腕だったんだぞ。失笑されていないか心配だ。

 

 どうやら俺が以前、二乃をこの店の厨房に連れ込んだことをきっかけに、老若男女問わずケーキ作りを教えているそうだ。予約者が多く人気らしい。

 

 昔は知らないが、今ではSNSでもテレビでも宣伝されている人気の店だ。興味心を擽られる子供に留まらず、実直にパティシエを志している学生も来ているそうだ。

 

 

 

「…店長、結婚式を挙げたそうで

 その…」

 

「?

 …ああ…

 参考にしたいかい?」

 

「ご迷惑にならない限りで良ければ」

 

「…男の意地とは損なことばかりだね

 今度飲もうか、良いお店紹介してあげるよ」

 

「ありがとうございます」

 

「いいや、ただではないから構わないさ」

 

 

 

 身近に相談できる相手が少ない俺には両手を上げて喜びたいところだった。最後に何か不穏当なことを付け足されたけど。

 

 店長がクイクイっと指を向けるそこにはトレンチに載った、葡萄のソースや果実で彩られた鮮やかなケーキがある。恐らく子供たちが注文したものだろう。

 

 運べというのか。それは構わないのだが…嫌な予感がする。

 

 

 

「いやはや、初めてフェアを開催してみたら予想以上の繁盛、やはりSNSは侮れないよ

 もう現場の乾いた笑いが止まらなかったところさ

 そんなところに、元店員さんが来てくれるとは思わなかったね」

 

「不当労働ですよね」

 

「制服、予備があるから」

 

「副業とかうるさいんですよ、教師って」

 

「結婚式、色々と大変だったなぁ…人生に一度の大イベントなのに、悔やんでも悔やみきれないことばかりさ」

 

「ぐぬぬ…」

 

 

 

 確かに…ホールを見れば全テーブルは埋まっているし、その中で俺たちがテーブル二つを占領しているのも気が引ける。負い目を感じる必要はないのにな!

 

 外まで行列もできている程だ。その影響でケーキの持ち帰りで済ませる客が多いようで、見れば分かるとおり今滅茶苦茶忙しいようだ。らいはも動き回っているし。

 

 店長から視線を逸らすと、厨房の従業員も期待と疲労の目を押し付けてくる。俺昔のメニューしか知らないんですけど! ピークに新人を放り投げるとはスパルタ過ぎる。

 

 

 

「中野さんたちが帰るまででいいよ」

 

「…俺もケーキ食いたかったのに…」

 

 

 

 金銭が絡まないのならグレーなのか、いや駄目なんだけどね…渋々更衣室へ向かって着替えることになった。

 

 何年振りになるのか、ウェイター服に着替えて出ると店長からハンディを渡された。本格的に働けと言ってやがる…ここに来たことを後悔してきたぜ。

 

 

 

「あれお兄ちゃん、やっぱり捕まっちゃった?」

 

「やっぱりって何だよ」

 

「いやね、二乃ちゃんが私の制服見たらさ

 お兄ちゃんのも見たいって、懐かしんじゃったみたいで

 子供ながらケーキ屋で働いているお兄ちゃんの姿に憧れてたんだなーってお話してたんだけど」

 

「…店長…」

 

「…」

 

「ロリコン」

 

「なんとでも言うがいいさ」

 

「昔から察してましたけどね」

 

「…幼稚園の頃の五つ子ちゃんは…それはもう可愛かったね

 僕のケーキであんなに笑ってくれる子たちは初めてだったよ」

 

「結婚したんなら自分の子供を愛せよな」

 

 

 

 トレンチ二つを片手で持ちテーブルへ向かう。皿洗いならやってやるのに…結局はこの姿をあいつらに見せろってことじゃねえか。

 

 賑やかな店内の中、ケーキを待ちわびていた子供たちの視線がこちらに向くと俺の着替えに驚いて、揃ってテーブルから出てきた。

 

 もう…髪型といい、この姿といい…今日は辱められることばかりだ。帰りてえ…休日ぐらい社会人を休ませてくれ。

 

 

 

「きゃーっ!! フー君、フー君!

 もう、これを待ってたのよっ!」

 

「フータロー…ウェイターの服似合ってる」

 

「静かに待ってろよ、すぐに写真撮るのもやめろ」

 

「フータロー君どしたのそれ、先生から飲食店に転職?

 あ、でもフータロー君のケーキまた食べてみたいかな」

 

「作ってくれるのですか?

 上杉君と二乃が作ったお菓子私大好きなんです、また作ってよっ」

 

「この服と菓子作りは関係な――うおっ!?

 おい四葉、何してんだおまえは! エプロンで遊ぶな」

 

「…

 上杉さんの匂いじゃない! なんかヤです!!」

 

「か、嗅ぐな四葉ッ! これ借り物!」

 

 

 

 子供たちが一際騒がしくなり、四葉がエプロンを捲ってしがみついてきやがった。ケーキ持ってるのに躊躇しない奴だ。

 

 先生にケーキの皿を渡し、四葉を引き剥がそうとするが、二乃と三玖まで続いてきやがった。

 

 五年前で卒業したと思っていたのに、あの頃のようにエプロンを引っ張られて四苦八苦する。よく営業妨害でつまみ出されなかったものだ。

 

 先生には店長に貸しを返すことになったと伝えると同情された。今日はケーキをつまみながら穏やかに過ごせると思っていたのに、ままならないものだ。

 

 

 

「高校生…貴方と再会した頃を思い出します

 エプロン引っ張られたり、中に潜られたり、懐かしいですね」

 

「ここまで完全再現しなくてもいいっ」

 

「フー君、ポーズ取って!

 こう、執事っぽいの」

 

「フータローに抱っこしてもらってたよね、してほしいな」

 

「うー…懐かしいのに上杉さんの匂いが違うの嫌だなぁ…

 上杉さんとケーキの甘い匂い、好きだったのに…」

 

「あ、後で構ってやるから今はやめろ…!」

 

 

 

 幼稚園の頃と違い、もう引き剥がせない三人を止められず長女と末っ子に助けを求める。

 

 ケーキを楽しみにしていた五月と、暴走気味の妹の世話に諦めムードが漂っている一花は嫌そうな顔をしやがった。ケーキ取り上げるぞこの野朗。

 

 頼みの綱の先生は、この迷惑極まりない光景を眺めていたいそうだ。我侭とかそういうレベルじゃない。周りの客にも見られているし、止めるべきだろうが。

 

 一人を剥がそうとすれば、二人がその両手を掴んでせがんでくる。人の話を聞かずに甘えてばかりの子供ばかりで手が焼ける。このままではテーブルに引き込まれて弄ばれる。

 

 チームワークが良いというか…これに一花と五月も加わる可能性もあるんだ。早急に助けを求めてここから離れなくてはいけない。

 

 

 

「店長ー! やばい客がいまーす!!」

 

「もう諦めなよお兄ちゃん先輩」

 

「五つ子に囲まれて君も幸せだろう

 グッドラック

 あとオーダー溜まってるから早くね」

 

「このロリコンがッー!!」

 

 

 

 相も変わらず店の奥でサムズアップする店長が憎たらしい。妹も呆れて仕事に戻って行ってしまった。誰も助けてくれないらしい…

 

 結局この後はしばらく…二乃の写真取りと五月の食い意地もあって二時間程手伝うはめになった。

 

 結婚とか、子供とか…恋愛が絡むとろくなことがない。多少憂鬱になりかけていたが…

 

 高校時代の仕事に懐かしさがないわけでもなく、一つ一つ丁寧に作り上げられたケーキを口にし喜ばれるこの空間は嫌いではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上杉先生、お疲れ様です

 あの子も無事に帰られたんですね」

 

「はい」

 

「…僕が受け持つクラスの生徒なのに、不甲斐ないですね

 引き受けて頂きありがとうございました

 あの子に関しては…やはり上杉先生に相談して正解でした」

 

「ただ飲み物片手に話を聞いただけですよ」

 

 

 

 雨が降る十月。高校の教師である俺はいつも通り生徒と教材相手に日々勤しんでいた。

 

 週末の金曜日のこの日は仕事を片付けて早く帰るつもりだった。まだクラスの担任を任されていない身では、他の教師と比べて仕事量が少ない。

 

 そんな時に世話になる先輩の教職員から助けを求められた。孤立しがちな生徒がいる、年が近い俺のほうが適任ではないかと。

 

 不良を齧り不登校だった女生徒を説得して登校させたが、教室内でもめたらしい。もう学校を辞める、来ないと泣いていた。

 

 

 

「明日、もう一度だけ来ると言っていました

 支えてあげてください」

 

「…ありがとうございます

 僕も後でご家族の方と本人に連絡を取ってみます」

 

「…」

 

「…あの子には僕たちやクラスメイトよりも…ご家族と話す時間が必要なのかもしれません

 学校だけが若者の全てではありませんから」

 

「金持ちも大変ですね」

 

「あはは…大手の社長令嬢が高校中退、転校なんて噂が飛び交いますからね」

 

 

 

 貧乏人だろうと、金持ちだろうと、家庭の悩みはそれぞれで比べるものではない。悲しいものは悲しいのだから。

 

 善意だろうと、ひたむきな努力だとしても、報われないこともある。

 

 この人だって手を抜いて生徒と接しているわけではなかろう。それでも上手くいかないことが多いのが生徒と教師の関係であり…苦心を抱いていたようだ。

 

 男教師にとって女生徒の相談相手は難しい。何を取ってもセクハラだと言われかねないこのご時勢、言葉を慎重に選ぶ中で、どうしても腫れ物のように扱ってしまいかねない。

 

 それでも根負けせずに接し、最後まで手を差し伸べようとする教師を尊敬する。このような人を先輩に持つ俺は恵まれていると考えて良いだろう。

 

 自分のプライドよりも生徒の悩みの解決を優先する先輩は、良き教師だと思う。

 

 

 

「上杉先生、良かったらお礼がてら奢りますよ」

 

「…すみません、週末は予定が埋まっていますので」

 

「そうですか…では次の機会に

 それにしても…例の彼女さんですか?」

 

「ま…まあ…はい」

 

「甲斐甲斐しいですね」

 

「そんなんじゃないので…」

 

「お付き合いされてどのくらいなのですか?」

 

「…6年…いや、5年ですね」

 

 

 

 高校3年からほぼ付き合っていたようなものだが、逆算されて高校時代から教師と交際していたと発覚すると面倒くさそうだ…

 

 …思えば、高校時代はあの人の世話になってばかりだった。あの屋上で自分自身を否定された時…悲しくも、力んでいた何かが解かれた感覚があった。

 

 言葉は刃物になる。誰かを傷つけ恨まれようと他人を見下す馬鹿野朗を咎めた。お節介なあの人のように俺はなれるだろうか…

 

 

 

「長いですね…結婚とか考えているんですか?」

 

「…」

 

「…これは生徒たちもショックを受けそうですね」

 

「なぜ…」

 

「僕の今回の件に限らず、上杉先生は生徒からの評判は高いですよ

 放課後に生徒の悩みを聞いてあげたり、赤点常習者の子たちに勉強を教えてあげているじゃないですか」

 

「俺は俺にできることをしているだけです

 まだ任されている仕事量も少ないですから」

 

「…この職員室でずっとプリントと睨めっこしてるより大切な事じゃないですか

 実際僕たちの仕事って、生徒に関することよりも学校に因んだ仕事ばかりです

 本来は上杉先生のような振る舞いが教師として望ましいものじゃありませんか」

 

「…だと、良いのですが」

 

「そんな人が近々結婚されると知ったら女生徒は複雑でしょうね」

 

「それ、本気で言ってます?」

 

「…ここが女子校じゃなくて良かったですね」

 

 

 

 怖いこと言わないでいただきたい…若い男教師相手に一時的に盛り上がっているだけじゃないのか。

 

 そもそも女生徒の相談相手なら女性の教師にお願いしたい。放課後の勉強会だって奇特な奴と切羽詰った奴の集まりで騒がしいのだから代わってほしい。

 

 用事を済ませたところで帰り支度を済ませる。先輩は携帯電話を片手に職員室を出て行き、挨拶を述べて別れる。居残りも程々にな。

 

 ぽつぽつと雨が降る中、傘を差して駅へ向かう。

 

 夕暮れでも厚い雲に覆われた空は暗く、外灯に照らされた雨の雫が煌めいて落ちてくる。

 

 傘の曲線を伝ってアスファルトに落ちていく。小さな水溜りに積み重なっていくと立ち並ぶ灯りを反射させて、虚しくも小奇麗な光景を作り出していた。

 

 電車に揺らされ、いつものように帰路から逸れて中野家のアパートへ向かった。

 

 

 

「上杉だ」

 

「はーい」

 

 

 

 オンボロの建物は年々廃れていくように人気が減っている。それでもこのドアの奥は明るく賑やかそうだった。

 

 声をかけるとドアが開かれた。出迎えてくれたのは長女の一花だった。

 

 

 

「へへ、おかえり」

 

「またそれか…」

 

「ん」

 

「…」

 

「んーっ!」

 

 

 

 上機嫌に両手を差し出してくる一花。いつも思うのだが、別に俺はおまえをこき使いたいわけじゃないんだぞ。

 

 昔からこの子はそうだ。何かと世話を焼きたがって小さなものでも見つけ次第飛びついてくる。

 

 仕方なく鞄を一花に手渡す。少し濡れているそれを見て、満足そうに持っていきタオルで拭いてくれた。うーん、甲斐甲斐しい。

 

 これで家事もできて、整理整頓ができれば旦那から愛される奥さんになれる素質があったかもしれない。

 

 だが実態は違うぞ。嘘つきで怠け者で片付けも出来ない、楽なところで点数を稼ごうとする小賢しい奴だ。

 

 そんな奴の一生懸命な姿が、俺は好きだ。拝める機会は極めて少ないのが惜しい…中学どうなることやら。

 

 

 

「先生帰ってないのか、もう八時なのに」

 

「忙しいってメール着てたわ

 フー君には着てないの?」

 

「俺、あの人と基本携帯で連絡取らないし」

 

「…よくそれで待ち合わせとかするわね…信じられないわ」

 

「それでもお母さんと通じ合ってるなんて、素敵です!」

 

「田舎臭いだけ…」

 

「というか今日この時点で通じてないよ!?」

 

「なんか私たちがフータロー君とお母さんの糸電話みたいなものだよね」

 

「アナログ過ぎよ…今度私たちとフー君のラインのグループ作りましょ」

 

 

 

 ええい、文句が多い…こればかりは高校からの習慣で今更なんだよ。純真無垢に褒めてくれた五月には飴をくれてやる。

 

 先生は仕事を復帰した後はベッドの上で休みがちだった生活から体力を取り戻すのに苦労していたそうだ。お陰で色々と忙しいらしい。

 

 仕事量減らせばいいのに、絶対自分から担ぎ込んでるんだぞあの人。先生の熱意に医者も学校も負けて自由にやっているようだ。頑丈なのか脆いのか未だに判断しづらい人だ。

 

 まあその調子で無理していると近い日に体調崩すことだろう。もう慣れたぜ…頃合見てストップかけて、それでも駄目だったらダウンした後に看病するしかない。真に不服ながら。

 

 中野家に上がると、小学校から帰ってきた後の子供たちは各々働いていた。

 

 二乃が夕食を作って、五月がその手伝いをしていた。今日は二人が夕食の当番のようだ。

 

 他の三人は風呂掃除や洗濯物などの家事を終えて学校の宿題に取り掛かっている。

 

 勤勉な奴らだ。この様子なら高校生で赤点を取って進級を危ぶまれるような生徒にはならないだろう。 

 

 

 

「…」

 

 

 

 で、俺は何したらいいの。今日は家庭教師の日じゃないし。完全に居場所がないぞ。

 

 …昔は俺が家事を率先して行い、子供たちがその手伝いをしていた。だがもはや、ここにはもう俺の役割はないように見える。

 

 ここで居間で寝転がっていたら駄目な父親の構図なわけで…勉強を教えようにも漢字の書き取りなんて教えられるものはなさそうだ。

 

 …俺帰っていいよな、これ。何でわざわざ電車賃払ってまで来たんだし。たまには早く我が家に帰りたいぜ。

 

 

 

「フータロー…」

 

「ん?」

 

「…」

 

「何だ、どうしたんだ三玖」

 

「…お母さんと…結婚しちゃうの?」

 

 

 

 三玖は言葉だけ、視線はその漢字のノートに向けながら尋ねてきた。

 

 先生と共に親父とらいはに挨拶した日から、三玖はずっと気にかけていたんだろう。鉛筆を持つその手は頑なに握り締めていた。

 

 他の四人の眼差しがこちらに向く。もう俺が先生の恋人だとは知っているだろう。

 

 正面から告げたことはなかった。何せ先生の体を気遣っていた生活の中、さらに不安を煽りかねないと思っていたから。

 

 もう潮時なのかもしれない。嘘で塗り固めようとするにも限界がある。

 

 

 

「できたら、良いとは思っている」

 

「…」

 

「…

 …っと…」

 

「…ふーたろぉ……」

 

「ん」

 

 

 

 無言の抵抗は虚しく終わり、三玖は立ち上がって俺にぴったりとくっついてきた。首元に両手を回されてしがみついてくる。

 

 行っちゃ嫌。傍にいてほしい。置いてかないで。

 

 涙交じりのこの子の気持ちを知っていても、応えられない。

 

 らいはからの相談を忘れているわけではない。この子とはちゃんと向き合うつもりだ。

 

 だが今は、おまえの気持ちが嬉しい。その愛しさが伝わって欲しいと、頭を撫でてこちらに寄せた。

 

 三玖の涙が乾いた頃、声一つ上がらなかった静かな五つ子たちを手招きする。

 

 三玖を離し、神妙な顔をする子供たちに質問した。

 

 

 

「一つ聞いておきたいことがある」

 

「うぐ…もう嫌な予感しかしない

 わ、私のお兄ちゃんが…もう生きていける気がしない」

 

「一花、しーっ」

 

 

 

 少し空気が重いか。珍しく一花の顔色が青くなっているように見える。普段はケロっとした顔で冷やかしてくるくせに。

 

 仕方なく軽い調子で聞き取ることにしよう。何も今生の別れじゃないし、今の生活より接する機会は断然増える。というか切っても切れない縁になる。

 

 ゴホン、と咳払いを一つ。片手を挙げて尋ねてみる。

 

  子供たちから断られたら結婚なんてできるわけがない。先生からも待ったをかけられるに違いない。だからこそ確かめる必要がある。

 

 

 

「風太郎お兄さんが結婚することに反対な人ー?」

 

「…」

 

 

 

 ビシィッ! と真ん中の三女が涙目でこちらを睨みつつ盛大に手を挙げてくれた。おまえって奴は…

 

 1つ手が上がり、それから2……3…4、5。一花、二乃…四葉、五月が続いた。

 

 五つ子から、五つの挙手があった。

 

 ………

 

 

 

「しばらく来ねーわ、先生によろしく伝えてくれ、あばよ」

 

「待って待って待って待ってぇー!」

 

 

 

 玄関へ向かおうとしたところ、一花が足に組み付いてきて、続く四人にも両足を捉えられ、そのまま倒れる。 

 

 俺がこいつらの母親と婚約することに猛反対のようだ。

 

 お兄さん、これでも頑張ってきたつもりなんですけど…計7年間の思い出が無碍に終わった気がしてならない。

 

 渋々振り向くと五つ子の抗議が激しかった。

 

 

 

「フータロー君ががどこか行っちゃうのは嫌に決まってるじゃん

 大好きなお兄ちゃんなのにさ…当たり前だよね」

 

「昔から可愛がってくれた年上の人が、他の人と結婚するなんて

 そんな悲しいお話あるかしら」

 

「…いや、待て

 俺の相手はおまえらの母親だぞ」

 

「うー…なんかそれでも…それでも嫌なんですっ

 もやもやするよー!」

 

「お母さんも大事ですけど…

 なんか…なんか嫌ですー!!」

 

「断固阻止したい」

 

「いっそのこと、お母さんの養子になるとかさ」

 

「ほあーっ!?」

 

 

 

 何で俺までおまえらと同じ先生の子供にならなくちゃいけねえんだ! ふざけたことを言ってくれる一花の頭をグリグリと攻めてやる。

 

 痛い痛いと言いながらこの身を離してくれないところに愛があるとでも言うのか。それどころかこの密着したこの遊びを楽しんでいる素振りもある。怖いぞおまえ!

 

 五人相手には敵いそうになく、降参して居間に戻る。夕飯も作り終えて、子供たちに囲まれながら膝を付き合わせて話すことにする。

 

 

 

「でも上杉君…その

 お母さんの花嫁衣装は見たいな…なんて」

 

 

 

 五月まで抗議に加わるとは予想外だったが、やはり母親大好きなようだ。母親のを見たいなんて特殊な奴だ。

 

 だが、少しむっとしてしまった。どうしても浅はかな嫉妬心に火がついてしまう。

 

 先生は一度は経験しているんだ、結婚式。

 

 だから…やらないほうがいいのでは、と消極的になるし。それでも先生が望むのなら悔いのないような素晴らしいものにしたくて、ケーキ屋の店長にも頼み込んだ。

 

 

 

「そんなもん、アルバム引っ張れば出てくるんじゃないか」

 

「ないもん、お父さんの写真もありませんし」

 

「そりゃそうか…」

 

「というかお母さんって、前のお父さんとは挙式挙げなかったんだって

 だから着た事ないって言ってましたよ」

 

 

 

 四葉からの情報に耳を疑った。

 

 先生からは前の旦那との話はあまりできていない。お互いに求めていたわけでもないし、子供たちも特別思い入れがある相手ではなさそうだ。

 

 俺が以前の男と比べて、一番を取れるものはない。

 

 だからこそ、欲が渦巻いて仕方なかった。

 

 

 

「…マジか?」

 

「うん、マジですよ」

 

「…」

 

「…どうしたんですか?」

 

「いや」

 

 

 

 子供たちから体の向きを逸らす。少し居心地が悪くなってきた。

 

 あの人と恋仲になってから燻っている気持ちがあった。

 

 何したって、先生の隣に居続けたって、昔愛した男の思い出は消えないし、塗り潰せない。

 

 そんな二番でしかない俺に、一番になれるものがあるのなら。

 

 それに、本音を言えば…俺も見たい。あの人美人だし…綺麗だろうな。

 

 これは俺の意思だけで進めていい話ではない。

 

 改めて子供たちから確認を取ろう。

 

 

 

「俺と先生が婚約すると言ったらどうする」

 

「逆に、フータロー君とお母さんはどこまで考えてるのか知りたいんだけど」

 

「…

 おまえたちが良いと言うのなら、今月にでも…籍を入れるつもりだ」

 

「うわー…うわぁああ…もう止められないところまで来てる!!」

 

「気持ちはわかるけど、落ち着きなさい…

 嫌なのはわかるけど」

 

「フータローの……お嫁さんになりたい…」

 

 

 

 姉組三人は複雑な面持ちらしい。

 

 

 

「…お母さんは私たちの為にずっと頑張ってくれてたから

 五つ子だもん、大変だよ

 お金かかるし、お母さん一人だったし、お家貧乏だしさ

 もしかしたら、やっぱり…

 お母さん、倒れた時に…死んじゃってたかもって思ったら…」

 

「…」

 

「上杉さんに…お兄ちゃんにお願いしたい

 お母さんを幸せにしてほしいよ」

 

「ああ」

 

「…えへへ、上杉さんもだよ」

 

 

 

 四葉の言葉は、母親への気遣いに満ち溢れていた。

 

 もし、あの人が病院に運ばれた先で亡くなっていたら…そんな可能性がなかったわけではない。そちらの方が確率的に高かったんだ。

 

 幸せを逃したらもう二度はないだろう。幸せとはその者が掴み取るもの。その余力がなければ通り過ぎていくのを見つめるだけで終わる。

 

 四葉は俺の手を握って、両手で包んだ。今までずっと、五つ子であることを苦慮していた子はやはり、母親の幸せを一番に願っていた。

 

 

 

「五月は…どうだ?」

 

「…」

 

「…」

 

「わ、私だって…上杉君が…好き、だよ」

 

「…そうなのか」

 

「虐めてばっかりですけど、そうなんです!

 お母さんを選んでくれて、お母さんもやっと自分から幸福を掴もうとしてくれて…嬉しいんです」

 

「でも反対したよな」

 

「…お兄ちゃんじゃ、なくなるの…嫌だよぉ…!」

 

「…」

 

「私のこと、ずっと守ってくれましたよね

 惜しむなんて、当たり前ですっ」

 

「泣き虫め…形は変わっても同じことだ

 おまえらの面倒を看る、何かあれば守る…違うか?」

 

「…これから変わっていくと教えたのは上杉君です」

 

 

 

 泣きそうになって、その顔を隠そうと俯く五月の頭を撫でる。

 

 変わっていくのはおまえたち五人だぜ、五月。

 

 家族の形に拘らなくても幸せはある。俺は変わらずあの人といたいし、おまえらを見守るつもりだ。

 

 そこは先生も意識してるようで、こいつらに向き合ってほしいとも言ってたしな。恋人だと公言しないのもそんな理由がある。

 

 俺は極めて先生を慕っているつもりなんだがな! いまだに通じていないってことだ。もうその気がないんじゃないかと疑う日もあるくらいだ。

 

 

 

「ママ、結構面倒臭い性格してると思うけど、フー君はほんと健気ね

 他の女のところに行かないか心配だわ」

 

「何が言いたい」

 

「若い子ならここにいるから

 ちょっと数年かかるけど、フー君に適う女になってみせるわ」

 

「5年待ってほしい」

 

「5年経っても年齢差は変わらないぞ」

 

「違う、フータローとお母さんが会った年と同じ頃になるから

 それで条件は達成される」

 

「クソッ、いつか絶対言われると思ってたぜ!」

 

 

 

 俺と先生とは12歳の差がある。俺が17の頃に再会して、好きになっちまった。あれはもう一生の不覚と言わざるをえない。

 

 そして俺とこいつらの年齢差は11年。5年経てばこいつらも高校生となり17歳。云わば当時の俺と同じ立場になりえる。年上に恋焦がれたとしたらな。

 

 複雑だ。心底複雑だ。子供たちの好意を一方的に無碍にしておいて、自分の恋は否定しない。なんとも都合の良い男だ。

 

 

 

「ふふ、これを否定する事はお母さんに対するフータローの恋心の否定にもなる

 ……侘しい…」

 

「というかね、フータロー君

 私達はフータロー君が心配なんですよ」

 

「ガキに心配される程落ちぶれてたか」

 

「そうじゃなくて、そのうちお母さんに

 もう…おまえといるのは疲れた…

 とか言っちゃうか不安だわ。」

 

「だ、駄目だよ、それ言っちゃ駄目だからね!?」

 

「口が裂けても言わねえよ」

 

「そうじゃなくて、そういうことをお母さんに聞かれるのもまずいのです!」

 

 

 

 おまえら揃って母親の性格を面倒臭いと思ってたんだな。あの人が何をした…前科は多々あるな。

 

 一花の嘘つきも。二乃の家族思いも。三玖の己を卑下する気持ちも。四葉の不器用なやり方も。五月の見栄を張りたがる面倒臭さも。

 

 母親譲りなものばかりだ。全て兼ね揃えたあの人はマジで手強い。

 

 だからこそ、好きになっちまったのかもしれない。この五人が好きならきっと…あの人も好きになっちまう。

 

 だが、それでもだ。

 

 

 

「あの人が面倒くせーなんて、そんなんいつものことだ」

 

 

 

 本音を口にしたところで、ガサッと物音がした。振り返ると温かい室内に冷たい雨の冷気が入り込んでいた。

 

 俺も、五つ子も揃って冷や汗が流れているようだった。

 

 コロコロと、落ちたビニール袋から缶が転がっている。

 

 

 

「わかっては……いました…ごめんなさい」

 

「お、おかえりなさい…先生」

 

 

 

 玄関には先生がいた。いつの間にか帰ってきてたのか、傘を差しても尚、所々濡れているようだ。

 

 きっと走ってきたんだろう。帰りが遅くなってしまい、子供たちが心配で。

 

 そんな母親を待っていたのは、冷え切った恋人からの一言だったようだ。

 

 俯いた顔に長い黒髪が差し掛かり、その表情は見て取れない。落ち込んでいるのは目に見えて分かる。

 

 

 

「う、上杉さぁああん!!」

 

「フータロー、早く…!!」

 

「何でこのタイミングで帰ってこれるの…!」

 

「ハグ! ハグよフー君!」

 

「わ、私たちに構わずお願いします!」

 

「おまえらの相手が一番疲れるわ」

 

 

 

 素直になれないお詫びに何かしてやるべきか。近寄ったところで気恥ずかしくて躊躇う。

 

 立ち上がり、随分と打たれ弱くなった人を前から抱きしめ、その頭を撫でた。

 

 夜の雨の中帰ってきた体はやはり冷たい。冷たくも先生の匂いがして、一層強く抱きしめてしまった。

 

 

 

「好きだ」

 

 

 

 なんて口にしたら最後…嬉しそうに笑われた。恩師の長い髪が首筋にかかり、吐息が当たる。

 

 も、もういいだろ。子供たちに見られている手前恥ずかしさだってある。

 

 なのにこの人、離そうとすれば下げていた腕を上げて強く抱きしめてきた。こんな時には素直なのか、実に意地の悪い人だ。

 

 俺のほうが身長は高い。腕に抱けば子供たちの視線を妨げているこの状況で、先生は口付けしてきた。

 

 

 

「面倒じゃないと、貴方は私の面倒を看てくれないもの、ね」

 

 

 

 卑怯な人だ…どうせ知ってただろあんた。からかわれると誤魔化すのに苦労する。

 

 求められたいという願望を満たす彼女の悪戯心は幼くも、その瞳に見える艶がまたしても欲を駆り立てるのだった。

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