五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れるその3 疎かな思い出

 恩師と慕い、恩人だと崇め、気づけばあの人を好いていた。

 

 この人を抱いて、その長い髪に触れ、匂いに包まれると嫌でも思い出してしまう。

 

 一つ一つ登りつめて行く。だから貴方に見ていてほしい、支えさせてほしいと願った高校時代。

 

 二回目の夏祭りの夜。俺は誰もいない静かな公園まで手を引かれて、人気のない場所まで連れ込まれていた。

 

 恩師のすることに何も疑問はなかった俺でも、不可解さに不安が高まっていた。

 

 

 

「ま、待ってくれ先生ッ」

 

「…貴方が、いじらしいのが悪いのですよ」

 

 

 

 二度目になる、先生の浴衣姿はよく似合っていて、美人は罪な人だと憎からず思っていた。

 

 大人の艶を見せつけていたそれは、今では別の色気を醸し出して柄にもなく緊張していた。

 

 普段見せたことない、熱に浮かされたような目で見つめられ、抱きつかれた。

 

 何のことか分からず、困惑していた俺は先生にいとも簡単に口付けされた。

 

 それが、初めてキスをした思い出だった。風紀を重んじる教師がすることじゃなかった。

 

 未経験の口付けに硬直していた俺は、羞恥心もあってたじろくことしかできなかった。

 

 先生とキスなんて、想像していなかったことだった。恋い慕っても結ばれることなど考えてなかったのだから。

 

 

 

「何のことだよ…こんなこと急に…あんたらしくない」

 

「好きな人なら、迷惑をかけられても構わないなんて…口にしてはいけませんよ」

 

「はぁ?」

 

「迷惑、でしょう?」

 

 

 

 祭りの最中に口にした言葉を思い出した。

 

 らいはと五つ子、去年の面子に加え珍しく親父も参加して家族ぐるみで祭りを楽しんでいる最中。

 

 試験勉強を割いて来た俺に誘った本人が頭を下げてきたのだ。

 

 だから言ってやったんだ。好きな奴からの迷惑なんて構わない、また誘ってくれませんか。そう言った。

 

 俯いてしまった先生から手を握られ、らいはに子供たちを任せてこの公園まで来たのだ。

 

 らいはだけならともかく、親父がいるのなら安心はできるのだろうが、子供を放って来る人じゃないはずだ。

 

 だから尚の事、先生らしくないこの振る舞いに、まさかと勘付いた。

 

 構わず身を寄せてくる女性に、俺は慌てて距離を取ろうとする。それも抱きしめられては難しい。

 

 

 

「待ってくれ先生! それは、駄目だろう!」

 

「迷惑は構わないとおっしゃいましたよね」

 

「わ、悪かった…撤回する」

 

「許しません

 …ずっと、我慢していたのですから」

 

 

 

 また、口付けされた。

 

 小さな可能性でも、破滅の道に足を踏み入れかねない行為だ。

 

 人気を避けようと物陰に隠れ、このような行為に耽ってはいけない。

 

 学校で勘ぐられやすい関係だったんだ。何か言われたとて、事実を言えば済む。それが俺たちの防衛策だった。

 

 だがこれ以上は、言い逃れの出来ない関係になってしまう。

 

 既に先生の浴衣もはだけてしまっていた。その胸の肌を見てしまったことでもう、後戻りはできないことを見せつけていた。

 

 

 

「せ、先生…何でこんなことを

 あんた…」

 

「…このような醜いものを、貴方にずっと抱いていたのです

 幻滅しますか? 汚らしいとお思いですか?」

 

「…」

 

「貴方の胸の鼓動はこんなにも早いわ

 私の勘違い、でしょうか?」

 

「もう少し、我慢できないか…」

 

「…二度も子供を置いてなんていけないわ

 お願い、風太郎君…今だけは」

 

「…卑怯だろ、あんた…っ」

 

 

 

 女の情欲に絆されると、再びキスされた。

 

 今思い返せば、旦那と別れた後ずっと一人で子育てをしていたとしたら、欲求が高まるのも致し方ないのか。にしたって強引な素行でしかなく、恩師らしくない荒々しさがあった。

 

 親父に連絡を一つ、子供たちの面倒を看てやってくれないか頼んだ。

 

 これでしばらく…先生の家には誰も来ない。

 

 電気もつけず、月明かりだけが照らす部屋の中で先生がしなだれかかってくる。

 

 

 

「ご家族を騙してしまいましたね

 この場合共犯、と言うのでしょうか」

 

「…」

 

「冗談です

 私が貴方を強引に襲っただけに過ぎません」

 

「…先生

 今日、だけなんだな?

 こんなこと、誰かにバレたりしたらあんたは教師を続けられなくなる」

 

「…ええ」

 

「せめて後一年…待ってくれないか」

 

「…」

 

 

 

 今すぐにでも隣に立てる男になりたい。そう願っていた俺自身が先送りにできないかと懇願している。酷く異様な思い出だった。

 

 リスクだと知って突き進める人ではなかったはずだ。実直に、自己主張もしないこの人なら分かってくれると思っていた。

 

 

 

「先生」

 

「もし何かあったとしても、私は後悔しません

 …だから…お願い」

 

「う、ぐ…」

 

「今夜だけは…私の相手をして」

 

 

 

 打ち上げ花火の音が薄暗い一室に響く中、声を押し殺した夏の思い出は…五年以上経った今でも、鮮明に残っている。

 

 好きだからってあまり余計なことは言ってはいけないと…呂律が回らなくなった頭で思い知らされた思い出だった。

 

 誰かに求められる人間になりたい。

 

 

 

「風太郎君」

 

 

 

 恋愛は愚かでも…願望が満たされる、女を独占できることに理性は削られていく。

 

 覆いかぶさって見下ろす中野零奈の、熱に浮かされた眼差しが忘れられず。今でも幼い頃の願望が疼いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなに珍しいか?」

 

「とうとう解禁する日が来たんだね…」

 

「この前の退院祝いで飲んでたぞ」

 

「これがお酒…大人ですねっ!」

 

「家ではまず買わないのに、ママったら珍しいわね」

 

 

 

 夕食を終えた後、五つ子の視線がちゃぶ台の上に置かれたものに集中している。 

 

 銀の色をしたビール缶だった。俺たち青年には見慣れたものだが、普段買うことのない中野家には物珍しい買い物だった。

 

 以前、先生と飲みたいと吐露したことがあったが、今日先生が買ってきてくれたそうだ。寝耳に水なものに目を見開いたものだ。

 

 覚えていてくれたのは嬉しいもので。食後に飲むことになったのだ。仕事終わりの酒は格別だしな。

 

 しかし…結局中野家で飲むのか。子供を夜中に見離したくない気持ちはわかるが、子供の前で満足に飲めるのか心配だった。

 

 

 

「思えば、私…子供たちが生まれてから数回程しか飲んでません」

 

「…十年間?」

 

「はい」

 

「こいつら生まれたのって23とかだろ?」

 

「ええ…なのでそもそも…飲んだ経験自体、指折り数えるぐらいしか」

 

「実家に帰った時に親父さんと飲まないのか」

 

「子供たちもいますから」

 

「真面目すぎ」

 

 

 

 酒は我慢できるのなら、なぜあの日堪えられなかったのか問い質したい。欲求は別物だが。

 

 

 

「…まあ、いい

 乾杯、しますか」

 

「はい」

 

「おまえらもジュースあるし、飲むか」

 

「大人の仲間入りだ!」

 

「フータローに注いであげる」

 

「じゃあ私はお母さんの注いであげよっかなー

 プシューっってやってみたかったんだよね」

 

「あ、あの…一花、いいのですよ」

 

「へへ、開けちゃいました」

 

「はいはい、グラス冷やしといたから」

 

「…」

 

 

 

 子供たちが興味全開で酌をすると、先生が意気消沈していった。何してんのこの人。

 

 先生は一花に注がれたグラスをじっと見つめている。手に取ろうとはせずに。

 

 

 

「おい、先生?」

 

「…いえ、子供にお酒を注がせて酔う親がいて良いのかと」

 

「この期に及んで…面倒臭いなおい」

 

「駄目な母親じゃありませんか」

 

 

 

 仕方なくグラスを交換し、代わりに酒を注いでおく。注ぎたがっていた三玖が隣でうるさいがジュースを注いでやって黙らせておく。

 

 

 

「二乃さん二乃さん、今日もお仕事お疲れ様」

 

「あら悪いわね、一花も…

 …何もしてないわね」

 

「失礼な! お風呂掃除当番でしたー!」

 

「後で洗剤の位置を元に戻す私たちに何か言いたいことある?」

 

「四葉、五月ちゃん、お注ぎしますよー

 いつもありがとうね!」

 

「何なんですか、その大人ごっこみたいな遊び」

 

「オレンジジュースだ、わーい!」

 

「こっちは子供のそれだな」

 

「お酒苦いんだよね?

 …混ぜたらおいしいかも?」

 

「こっそりやったら怒るからな」

 

「しないしない」

 

「おまえ危険、あっち行け」

 

「やだっ」

 

 

 

 全員にグラスが用意されたところで乾杯した。上機嫌な五つ子に反して母親は肩身狭そうにグラスを掲げていた。

 

 しばらくは子供たちの相手でうるさかった。空になればグラスを取り上げられ、もっと飲め飲めとうるさい。おまえら単に注ぎたいだけだろ。

 

 本人たちは楽しそうにはしゃいでいるが、端から見れば滑稽な光景に見えなくもない。

 

 どうしても親が子供の前で酒を空かす様は、みっともないというか、律したものとは反するものがある。

 

 先生が徹底する気持ちもわからなくはない。

 

 だが、なんとなくだが、口にするこの味は、今までのものより美味しく感じる。

 

 先生もそうだと嬉しいんだがな。お酒飲めているか目を配ると、案外減っていてほっとした。

 

 …グラスの中身は減っているのだが、安心できないことが起きていた。

 

 

 

「…ぅ…ぐすっ…はぁっ…ぁ…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「う…ご、ごめんなさいっ…」

 

 

 

 気づけば先生がボロボロと声を押し殺して泣いていた。な、泣き上戸…!?

 

 吐息を押し殺していたようで、口を開いた頃に漏れてしまったようだ…クソ、色っぽい…これは外では飲ませられないぞ。

 

 酔いが完全に覚めたぞ。まさかと思うが、戒律を破ったことに泣いているのか。

 

 先生の両隣に座っていた一花と五月が慌てて寄り添い、その背中を擦ったり、頭を撫でている。

 

 そんな愛らしい子供を、がばっと両手を広げて抱きかかえる母親がいた。二人も驚きのあまり悲鳴を上げている。

 

 

 

「こうして…

 大きくなった子供たちに囲まれて…っ

 それどころか…何年も…こんなに慕い、尽くしてくれる人も傍にいて

 …良かったぁ…ぐすっ…」

 

「お、お母さん、泣かないで下さい

 私も皆もずっと傍にいるから」

 

「な、何で泣いちゃうのさ、もーっ

 お母さんが泣いたら…移っちゃうよ」

 

 

 

 感銘に打ちひしがれているようだ。なんともコメントしにくいものだ。その様に二乃と四葉、三玖までも母親に突撃してしがみついている。

 

 皆揃って涙目だ。おまえらまで泣くなよな…

 

 

 

「ママ、ありがとね…これから少しずつ自分の好きなことしていいのよ」

 

「お母さんの我侭、聞きたい」

 

「私たちも中学生だもん

 できること増えるんだから、頼ってねお母さん!」

 

「はい…」

 

「…」

 

 

 

 なに、このお涙頂戴劇場は。他所の住人の俺が置いてけぼりだ。

 

 酒を手放して五人の子供たちを抱きしめる様は母親のそれだが、顔が真っ赤で泣きはらしているのは酒のせいである。

 

 酔っているせいである。駄目な母親である。お酒を買ってきたのはこの人である。

 

 だが、やはり飲んで良かったと思わざるをえない。酒は良くも悪くも、人の枷を外してしまう。

 

 十年以上努力してきた人なんだ、今日くらい大目に見てやってくれ。

 

 黙って酒を飲んでいると、母親の腕の中で大人しくしていた子供たちからの視線がきつい。なんだよ。

 

 

 

 

「上杉君もお母さんを慰めてあげるべきです」

 

「おまえらが散々迷惑かけてきたせいだろうが

 責任取って幸せにして差し上げろ」

 

「そういうこと言っちゃうー!?」

 

「結婚するんじゃなかったんかーい!」

 

「フータローもお母さんも私が幸せにする

 だから結婚はしなくていい」

 

「上杉さん上杉さん

 上杉さんもお母さんにぎゅっーってされたいですよね、今ですよ!

 

 

 

 子供たちの抗議がうるさい。ええい、俺の憧れの先生は酒で泣いたりしないの。

 

 おまえらの母親逞しいんだから放っておいても涙ぐらい引っ込めるから。

 

 酒を飲んで無視しておく。男一人で女六人相手に勝てると思ったら痛い目を見るんだ。

 

 

 

「どうせ恥ずかしいだけだよ――あいたたたっ!

 何で私だけー!?」

 

「なんとなく」

 

「わーっ 捕まっちゃうー!

 フータロー君にいやらしいことされちゃうかもーっ」

 

「叫んでる割に顔にやけてるし、嬉しそう…」

 

「あの天邪鬼が何でクラスの男子に好かれるのか疑問でしかないわ」

 

「騙されているんですよ」

 

「五つ子トリック…」

 

「なに、私たち利用されてたの?」

 

「言っておくがこいつ、おまえらが思っている五倍はせこいぞ」

 

「いやー! 本当に痛くなってきたッ!!」

 

 

 

 ませガキを粛清しておく。手加減すると逆に喜ばれて図に乗ることはもう知っている。

 

 まあ…こいつら四人の面倒を看るなんて地獄を運命付けられた長女だ。同情はしてやるぞ。

 

 これだけ逞しく育っているのなら兄貴分としては安心もする。自分が好きなことを率先してやる姿を母親に見せ付けてほしいくらいだ。

 

 人をおちょくることを除いてな。こいつ…これほど頭グリグリしてやってもなお胸元にくっついてきやがる。これでは駄目らしい。

 

 一花への仕置きも程々に。察した子供たちは母親から離れていった。

 

 酒も入って、泣き腫れた先生の顔は赤かった。隣に寄り添い、その髪を撫でて肩まで抱き寄せた。

 

 しなだれかかるように、先生は俺に身を委ねた。そんな姿を子供たちは微笑ましく見守っていた。

 

 

 

「酒、弱かったのか」

 

「すみません…家と外では違うみたいですね」

 

「まぁ…あれだ

 これまで色々あったが…これからも続いてくだろう」

 

「?」

 

「悩みがあったら泣く前に言ってくれよな」

 

「甘えてばかりでは…風太郎君もどこか行ってしまいませんか?」

 

「はっ

 あんたを病院に叩き込むまでに何年かかったと思ってるんだ

 慣れてるぜ、このくらい

 

 言っとくが…あんたが死んでもこいつらの面倒看るつもりだからな

 あんたの昔の男とは違うぜ」

 

 

 

 もう後戻りできない関係にあるのは自覚している。期待させた自負はある。

 

 いつかは、何年、何十年も連れ添って生きた時、疎ましく思う時があるかもしれないさ。

 

 …そんな男に成り下がっていたとしたら、あんたから見限られる前にこの五人の娘たちに文句を言われるだろうよ。

 

 そうならないことを祈るばかりだ。

 

 なるとは思えないんだがな…口にするのも馬鹿らしい、恥ずかしい告白だ。 

 

 先生のその手を掴んで包んだ。

 

 どれほど辛くても子供を愛し、優しくあり続けてくれた人の手は、これ以上傷つかないでほしい。守ってやりたい。

 

 心底、惚れていると思う。これは恋だけじゃないことは、この人には知っておいてほしい。

 

 あんただけに伝わればいい、そんな好きな気持ちがあるんだ。

 

 

 

「私には、貴方に見合うものなどありません…

 …っ…

 この子たちにも真摯に接してくれて…何を返せば良いのか…」

 

「怒らせるかもしれないが

 あんたのことを好いていても、憧れのほうがでかいんだ

 

 助けてくれた恩もある

 間違いを正してくれた

 こんな俺が優しいと、そう言ってくれた

 俺はあの日から救われたんだ、先生」

 

「上杉、君」

 

 

 

 先生が肩に寄せていた頬を離し、こちらを見上げた。

 

 もう酔いは覚めたのか、真っ直ぐと俺の目を見てくれた。

 

 あの日、拒絶して逃げていく俺の手を取って、きつく握った手を開かせてくれた。

 

 どれほど救われたか、あんたは知らないんだろう。

 

 もうあれだけで、十分幸せだったんだ、先生。あれ以上のものなんて、いらないんだよ。

 

 

 

「俺と出会ってくれて

 ありがとうございます、先生」

 

「…はい」

 

「あんたはそのまま、幸せになってくれたらいいんだ

 頑張ってきた分、泥を塗っちゃ駄目なんだろ

 誇らしくいこうぜ、あんたが教えてくれたことだ」

 

 

 

 失敗ばかりの人生だったと悔いていた女は何も返さず。手を握り合ったまま寄りかかられた。

 

 …どうやら、酒は抜けていなかったようだ。いつまで寄り添い合っていたのかは定かではない。

 

 しばらくして…力が抜けていき、押しかかる力が強くなった頃には、先生は眠ってしまった。

 

 倒れそうになる体を抱え、そのままゆっくりと膝元に寝かせるしかなかった。

 

 子供たちは母親が安心して眠ってしまったことを見届け、片付けや布団の準備に勤しんでいた。母親は俺に任せるつもりらしい。

 

 

 

「フータロー君、お母さんと一緒にお風呂入る?」

 

「誰が酒で潰れた奴と入るかよ

 起きたら勝手に入るだろ」

 

「上杉さん、お布団準備できましたよ」

 

「…もうちょっと、このまま寝かせてあげるのは駄目でしょうか」

 

「お母さんの寝顔、あまり見ない…綺麗」

 

「そうね…でも疲れてるんだわ…お酒で簡単に酔い潰れちゃうなんて」

 

「…フータロー君がいるから、お酒飲めたのかもね」

 

「あ?」

 

「潰れても、私たちのこと見てくれるし、お母さん介抱してあげるし

 フータロー君じゃないと、甘えてくれないよ」

 

 

 

 膝元で眠る母親の寝顔を眺めて嬉しそうに笑う子供たちは、今までひたすら母親が休まる場所を求めていた。

 

 家にいる時も、仕事先でも、外出しても、この人は不器用だった。面倒臭い人だ…が、愛される者たちには愛おしい母親で仕方ないのだろう。

 

 安らかに眠る母親の髪を優しく指で梳る様は、どちらが親子か分からないものだった。

 

 温かい温もりに安堵し、五つ子は母親から手を離していった。

 

 

 

「…

 つーか、これ…俺泊まりか?」

 

「何を今更」

 

「七人で寝るの久しぶりだね!」

 

 

 

 後日、頭を下げて謝り倒す先生を止めるのに苦労した。好きでやったことだってのに、本当にどうしようもない人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか、あのお子さんが五つ子とは知りませんでしたよ

 あんなカッコいい旦那様も捕まえて…羨ましいですよ」

 

「け、結婚はしていません…」

 

「これなんかどうかしら…ママ、このくらいが良いと思わないかしら?」

 

「えぇええっ そんなバッサリいくのっ?」

 

「あんたと同じくらいじゃん」

 

「あ、ほんとだっ

 じゃあこれがいいや!」

 

「お母さんとお揃いか、いいなー

 私くらいが調度良いと思うなー」

 

「お母さんは今のままでも綺麗」

 

「私はもっと長くしても良いと思ってたのにっ」

 

「…愛されてますね」

 

「騒がしくて、ごめんなさい」

 

 

 

 その日、五つ子とその母親はとある美容院を訪れていた。

 

 休日となる今日。いつものように六人で…家族当然の男と共に一日を過ごすことになると思いきや、子供たちから急な提案があった。

 

 お洒落がしたい。そう子供たちは母親にせがんだ。

 

 今まで贅沢を我慢してきた子供たちの懇願とあれば、母親は多少の無理を考慮してでもその願いを聞き取ってあげたかったのだ。

 

 だが実際に向かってみれば、鏡の前に座るのは子供たちではなく母親だった。

 

 

 

「お子さんのご希望通りなら…ここまで切ることになりますよ」

 

「…」

 

「いかがなさいますか?」

 

 

 

 店員が指で示したところは肩あたり。そのくらいまで切ることになるらしい。

 

 零奈は思い浮かべた。昔…学生当時はそれくらいの髪の長さだった。

 

 そして、かつては婚約した男性と出会い、恋焦がれていた頃の自分を。

 

 それはあまりにも彼に不義理ではないか。

 

 もう少し長めにしてもらおう。そう答えようとしたところで髪に触れられる感触に驚き、鏡を見た。

 

 気づけば店員は離れ、五人の子供たちが母親の髪に触れていた。

 

 

 

「…綺麗な髪ではないでしょう?」

 

「まあ…触って気づいたけど

 毛先とかちょっと痛んでたよね」

 

「ちゃんとケアしないからよ…私たちはまだ子供だからいいけど」

 

「退院してまだそう経ってない、まだ疲れてるよね…」

 

「お化粧とかにお金使わないし

 もう40代だもんね」

 

「………」

 

「まだ35です」

 

「ま、まだ若いですもんねお母さんは!

 綺麗だから上杉君のような10歳下の男性と結ばれたんですよ!」

 

「十歳差とか犯罪」

 

「三玖は黙っててください!?」

 

 

 

 家族揃って、どこかおかしく笑っていた。

 

 母親の髪に触れる子供たちは、そっと労わるように撫でる。

 

 自分たちの為に体を酷使してくれた人のその髪は。

 

 

 

「お母さんの髪は綺麗だよ

 お母さんさ、もっと自分に自信持って、大切にしようよ

 それがね、私たち五人の一番のお願いだよ」

 

「そうよ、フー君にも言ったけど…もっとお洒落に気を遣ってほしいわ

 そしたらね、私たちもっともっと自慢できるもの

 貧乏だとか、父親が逃げたとか…そんな悪口吹き飛ばすくらい、幸せなところ見せて」

 

「上杉さん、最近お母さんに辛辣だからね!

 お母さんが凄いところ見せて、惚れ直させるのはどうかな!

 そしたらお母さんも自分に自信持てると思うんだ」

 

「私たちは、私たちの為に、倒れるほどにいっぱい

 頑張ってくれたお母さんが大好きです

 だからこそ…今度は私たちがお母さんを守る番なんです

 五人もいますから、頼ってくださいね」

 

 

 

 一人一人の、娘の思いを母親は受け止める。

 

 最後に三玖が、母の髪から指を離した。

 

 

  

「お母さんは、今までずっと私達の為に頑張ってくれた

 お化粧も最低限しかしなくて

 ずっと働いて、遊びとか行かずに、私たちを育ててくれた」

 

「…母親として、当たり前よ…

 貴方たちは私の大切な家族だもの」

 

「…そんなお母さんに好きな人ができたんだよ

 それでも倒れるまでがんばって…

 もう駄目だよ、お母さん」

 

「…三玖、貴方は上杉君を…」

 

「応援、してるよ…」

 

「…」

 

「…

 あとお母さん

 今度若さを保つ秘訣教えて」

 

「…

 三玖、貴方まだ小学生でしょ…?」

 

「もう中学生になるから」

 

 

 

 子供のお茶目な冗談に、母親は笑った。

 

 ここまでされて、親が怖気づいてはいられなかった。

 

 背中を押す娘たちの為にも、子供たちが望む母親で在り続けようと。

 

 それは今も昔も変わらない。だからこそ、これが正解なんだと今胸を張って言えることだった。

 

 

 

「一花

 二乃

 三玖

 四葉

 五月

 お願いがあります」

 

 

 

 ありがとう。

 

 そんな言葉と共に一つ、我侭を言う。

 

 

 

「髪、切ってくれませんか」

 

 

 

 頷いた五つ子は、母親が綺麗に、恋人と楽しく幸せに過ごせるようにと願いを込めて。

 

 一人一人が丁寧に、愛情を込めて、惜しむように、自分の為に尽くしてくれた人の髪を鋏で切った。

 

 

 

「後はお願いします」

 

「はい」

 

「…」

 

「…素敵なお子さんですね」

 

「…はい

 自慢の娘ですから」

 

 

 

 幼稚な五つの思いだけでは上手くいかないことばかり。

 

 そんな願いを現実に象ろうと、スタイリストは子供たちから託された鋏を手に取った。

 

 女の子が憧れるような大女優でも、ケーキ屋さんでも、お嫁さんでも、教師でも、職人でも。

 

 母親であっても。

 

 誰かの為に真剣になる姿はカッコいいのだと、娘たちは微笑みながらその光景を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何だよ話って…こんな昼間から」

 

「まあ座れよ、おまえに良いもんをやろうと思ってな」

 

「なんだ、借金返済終わったとか?」

 

「そいつはまだだ!」

 

「一気に萎えたわ」

 

 

 

 親父が昼間から休めているのは珍しいことだった。

 

 以前のような先生の退院祝いなど特別な日以外は家で休むような親ではなく、それはそれで心配だった。

 

 事前にこの日に戻って来いと言われ、何事かと思いながら実家に顔を出したのだ。

 

 らいははバイトのようで、その兄と父親が家で休んでいるというのは…なんか落ち着かない。

 

 しかし借金…まだ残ってるのか。額は聞いていないのだが、仕送りをしていてもまだ返済の目処が立たないらしい。

 

 親父、大丈夫なのか? 体壊さないか心配にもなる。先生も倒れたしよ…しばらく実家にも顔を出すべきだな。

 

 狭い居間で父親と向かい合って座る。

 

 ことん、と少し重い音が響く。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

 

 

 親父が手に持ち、ちゃぶ台に置いたのは…お袋の写真だった。

 

 もう色あせた写真だ。

 

 目にすれば…昔は思い返せるものが多かった。

 

 だが今となっては…15年以上も前となった今では、振り返っても思い出せるものは減ってしまった。

 

 しかし、なぜ今ここで取り出すのか。お袋の実家ともめたりしたのだろうか。

 

 疑念ばかり募る中、親父はその写真と並んで封筒を一つ置いた。

 

 随分と…分厚い封筒だった。

 

 

 

「…は?」

 

「黙って、受け取ってくれ」

 

「…冗談にしては笑えねえな

 言ったよな、あんたに頼るつもりはねーって」

 

 

 

 どう見ても…金だ。

 

 それも大金だ。その分厚さから見て札束だって分かる。仮にそれが千円札だろうと貧乏な家には大金に変わりはない。

 

 結婚式の資金が足りていないと言ったことがあった。この光景から失言だったと後悔した。

 

 俺はすぐさま、それを突き返した。

 

 こんな金残っているのなら借金返済に当てろと怒ってやりたい。

 

 くしゃっと乾いた音が響く。返した封筒を親父が握り、頑なに断ろうとしていたからだ。

 

 

 

「風太郎!」

 

「な、何だよ…いくら言っても聞かねえぞ

 こんな金あるなら、とっとと借金返して、らいはを楽にしてやれよ!

 俺のことなんか、もう放っておいていいんだぞ!

 仕事もちゃんと就いてる、何が心配なんだ」

 

「…

 おまえは俺たちのガキだ」

 

「はぁ?」

 

「俺と母さんの、一番最初に生まれた子供だ」

 

 

 

 何のことを言っているのかサッパリだ。

 

 戸惑いながらも、こんな金はいらねえと、この手を離しはしなかった。

 

 だが、親父の顔を見て…力んでいたものが解けた。

 

 苦しそうな…

 

 泣きたいような。

 

 申し訳なかったと…初めて見る父の顔だった。

 

 

 

「これはおまえが今まで、この家の為に働いてよこした金だ」

 

「…は?

 な…どういうことだ!?」

 

「おまえが働いてきた金は手を付けずにいた

 借金に当てていたというのは嘘だ

 これは…8年間稼いできた、てめーの金だ、風太郎」

 

「ふ、ふざ…ふざけんなッ!!」

 

 

 

 今まで騙していたと、親父は告げた。

 

 高校一年から今までずっと、借金の為、らいはと親父が少しでも楽できるようにと働いてきた金が行き届いていなかったというのか。

 

 しかも、ずっと使わずに溜めていやがっただと…ふざけるな!!

 

 怒りと、やるせなさが募る。

 

 無意味だったというのか…?

 

 俺の…家族の為にしてやっていたと抱いていたあの誇りは、全部紛いものだったのか!

 

 親だからって…それまで取り上げていたのかあんたは!

 

 一万円でも…千円でも…お菓子一つ買える百円だろうと…贅沢できれば、幸せな思い出ができたんじゃねえのかよ。

 

 

 

「風太郎」

 

「…なぜだ

 あんた…一人で返せる額じゃねえんだろ…?

 祖父さんも…あんたを心配してたじゃねえか

 お袋の親族の手助けも蹴って…何のつもりだ」

 

「…まずは、おまえに詫びないといけねえな

 おまえには…不自由させてきた」

 

 

 

 掴み合っていた金はもうくしゃくしゃで、お袋に見咎められるようで、そっと置いた。

 

 おかしなものだ。

 

 貧乏なくせによ…大金を押し付けあうなんて…なんて歪な家庭なんだ。

 

 

 

「母さんが事故死して、あの世に逝っちまった後も…ろくに話してやれなかった

 おまえは…優しいからな

 妹の面倒を看て、高校入ってすぐ働いて、勉強もして

 家を出た後も毎月仕送りをしてくれたな

 そんな兄貴だから、らいはも優しく育ってくれたんだ」

 

「…それとこの金、何が関係ある

 ある意味、あんたは俺を除者にしようとしたんだぞ」

 

「…そうだな

 こいつは俺の意地だ」

 

 

 

 家族を支えたいと子供の頃から願っていたんだ。

 

 それでも上手くいかず馬鹿にされた。そして他人を疎み、見下してしまった。

 

 間違いはしたが…それでも、金という確実に恩返しできるものに費やすことに…安心感があったんだ。

 

 だというのに…全てなかったことにされたんだぞ。

 

 睨みつけると…親父は溜め息を一つ吐いて写真を手に取った。

 

 最愛の人を亡くした男は、この日語ってくれた。

 

 

 

「喫茶店よ…あいつの夢であって、俺の夢だった

 店を開いて、人気も上がって…夢が叶ったと笑い合った

 その余韻に浸る間もなく、母さんは逝っちまったな

 残ったのは店主がいない廃れた店と、借金だけだ」

 

「…」

 

「この金は、気持ちだけで十分だったんだ風太郎」

 

「気持ちって…そんな軽い言葉で切り捨てたってのかよ」

 

「軽くなんかねえよ

 ありがとな、風太郎…一緒に頑張ってくれてよ

 おまえが…悔しくて泣いちまっても

 俺とらいはの為に頑張ってくれたから、俺はこれまで仕事を続けられている」

 

「…」

 

「気持ちだけで、十分だ」

 

 

 

 空いた口が塞がらない。

 

 それが、答えだというのか。

 

 ずっと理解できないでいたんだ。

 

 なぜこれまで、弱音を吐かずにいられたのか。

 

 なぜ最愛の人を亡くした後でも、泣かずにいられたのか。

 

 報われた人生でもない、そんな中でなぜああまで笑っていられたのか。

 

 思い遣りが…?

 

 言葉にもしなかった酷く不器用なもので、あんたは救われたと言うのかよ。

 

 だから…俺はあんたが大嫌いだったんだ…こんなもので満足するなんて…

 

 思いもしなかったものに、親父と目を合わせられず、俯きその写真を見つめていた。

 

 

 

「それによ…母さんの夢は、おまえたちを苦しめるためにあったんじゃねえんだ

 途中で終わっちまった…俺とあいつが目指した夢のせいで

 おまえらにはひもじい思いをさせちまった

 迷惑に思って当然だ、だが…母親を恨まないでこれまで育ってくれたんだ

 …これ以上嬉しいこと、あるか?」

 

「…」

 

「母さんがおまえたちに残していったものは、親としてはあまりにも少ねえ

 らいはなんざ…まともに抱きしめてやれてねえだろうな

 不甲斐ない親だったんだ」

 

「…そう…なのか」

 

 

 

 親父は写真立てを手放し、置いた。

 

 何度見てもその写真には…哀愁が漂う。もう亡くなった人だ。

 

 思い出しちまうんだ…この家に戻って、思い出してきた。

 

 あの玄関で、夕暮れの光が差し掛かる頃…待っていたんだ。

 

 見透かしたかのように、母親は駆け足でドアを開いて俺に声をかけたんだ。

 

 

 

「風太郎、寂しい思いをさせてごめんね」

 

 

 

 頭を撫でてくれるお袋は疲れた顔でよく笑ってくれた。

 

 …不甲斐ない親なんかじゃ、ねえんだよ。

 

 らいはも、あいつが料理を続けられた理由はお袋との曖昧な夢のお陰なんだぜ。

 

 お袋が作ってくれた葛湯も一花や四葉に好評だったんだ。

 

 影送りだって、三玖は気に入ってくれた。

 

 俺は母さんが教えてくれたものに救われている。

 

 …母さんの息子で良かったんだと、思ってる。

 

 それは、あんたの子供でも良かったってことだ。

 

 再び、親父は封筒を押して、俺に突きつける。

 

 もう、十分だと。意地を張らなければ楽になれるというのに…

 

 

 

「あいつの残していったツケは俺がきっちり払い切る

 俺が死ぬまでには必ずな」

 

「…

 もう…勝手にしろよ

 使わねえのなら…この金はあいつらに使うぞ…もったいねえ」

 

 

 

 酷くよれてしまったものを手に取る。

 

 初めて…金を手にして、これほど無価値なものがあるのかと不思議に思うくらいだ。俺の給料の何倍もあるこの大金を手にしても…

 

 金よりも気持ちが欲しいというのは…本当なのかもしれない。

 

 家族を助けたい。そんな気持ちが届いてなかったことに俺は怒りを抱いた。それが証拠なのかもしれない。

 

 話は終わった。用が済んだのなら帰らせてもらおう。世間話をする空気でもない。

 

 踵を返して玄関へ向かう。

 

 振り返ると親父はお袋の写真を見て、頭を掻いていた。

 

 

 

「…あー

 風太郎」

 

「…なんだよ」 

 

「…

 幸せになったところ、ちゃんと見せろよ

 零奈さんも大事だが…

 …」

 

「…」

 

「なんでもねえ」

 

 

 

 親父は最後にはぐらかして、立ち上がった。

 

 そのまま台所のほうへ。もうここからでは見ることもできそうにない。

 

 それが親孝行と言うのなら、もはや何も言えない。

 

 まだ、礼は言えてない。

 

 気持ちが大事と言うのなら…俺もそうだ。

 

 言葉にしなくても、俺たち子供を思い遣ってくれていたことは知っていた。

 

 助言を求めて答えを見せてくれた時もあった。

 

 俺の我侭に笑って応えてくれた日もあった。

 

 

 

「…またくる」

 

 

 

 いつか…きっと。そう、後悔する前に。

 

 あんたの子で、俺は幸せだった。

 

 そう、伝えたい。

 

 

 

「おう、気ぃつけてな」

 

 

 

 声だけが届く。それを背に玄関のドアを開く。

 

 幸せになれというのなら、その望みを叶えてやろうじゃねえか。

 

 後悔に振り向く日があっても。

 

 過ぎた過去に悔やみ涙を流そうと。

 

 それでも誰しもが幸せになろうと、勇気の一歩を踏みしめる日が来るはずだ。

 

 その時には在るがままの気持ちを伝えよう。

 

 ありがとう。

 

 きっと素直には言えないのだろう。

 

 だから俺は。あまりにも馬鹿な俺たちは。

 

 後悔するその日まで、家族を真に思う気持ちを隠したまま…これからも生きていくんだろう。

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