風太郎が手に握るものは軽く、乾いたものだった。
電車を降りてからの帰り道、気が向かず寄り道をしている。オレンジ色の空と違って気が晴れない徒歩の道。
親子連れが川辺で遊ぶ光景を横目に歩く。
水切りをしているらしく、波紋を生む川の水面は夕日で照らされて眩しかった。
親父と遊んだのはいつの頃だったか。その日はお袋もいただろうか。
思い出を振り返りつつ、重くて、手汗で少し湿ったものを見やる。
秋の夕焼け色に染まる紙袋は古めかしく、皺だらけで、色褪せていた。
破けないよう何年も大切に保管され、一月に一度は手に取っていただろう、そんな月日が経った今ではボロボロだった。
「…」
気持ちだけで十分だと言われた。
これまで…自分が変わって、自分で変えればいいと信じていた。家族との幸福を求めて。
それに費やしてきたはずのものが、今ここにある。家族から返されたんだ。
もう日が暮れる。じきにあの親子連れも揃って帰るだろう。
今…目の前にある家族との時間が、ある日一瞬の出来事で消えるとは夢にも見ないだろう。
子供が一人でいるには物寂しい時間。この空の色は見覚えがあった。
冷たい石垣の階段に座って二人で眺めていた。
小学六年生の修学旅行。風太郎が京都で出会った先生との思い出にそんな光景が刻まれている。
なぜ失敗してしまったのか。暗く沈む夕日を見つめ、風太郎は過去を振り返る。
必要とされる人間になる。
ただの憧れでは終わらない。そう教えてくれた人がいた。
子供の頃、一つだけ夢を抱いていた。
社会人となった今ではもう、口にすることも恥入るものになってしまった。
人はいずれ自分よりも優先するものができるから。何かの為に夢を追うことを諦める時がくる。
そもそもとうに昔の話だ。もう11年前になる。
京都で先生に出会い、憧れを持った。
冷めた表情でありながら、優しい心と人が欲する言葉を投げかける。あの人だけは他の誰かとは違って見えた。
手の打ちようのない環境に諦め、目を伏せていた俺は、誰かに求められる人間になりたいと願った。
成功者になりたかったんだ。俺の父も母も…苦労ばかりだった。
不幸を押し付けられたその背中とあの亡骸を、俺は知っている。
知っていながらその数年後。俺は夢を見出した思い出を忘れる程の愚か者に成り果ててしまった。
他人の目と声に耐える為に、本来の目的を見失い、過ちを犯し続けて…先生から未熟者だと咎められてしまったんだ。
凡人以下の馬鹿な人間。笑われて当然。弱い人間は一人で生きてはいけない。他人を見下す人間は一人ぼっちがお似合いだ。
だけれども。
そんな俺にも…誇れるものがあったんだ。
必要とはされなくとも、家族の役に立てていた自負があった。
年を重ねる度により一層、もっと稼げる人間になる努力を怠らずにきた。何も間違ってはいないんだと胸を張って言えた。
貧乏人なんて懲り懲りだ。運が悪ければ死ぬような、脆い人間でい続けることは怖い。だが子供はそこから脱出する術は持っていない。
少なからず当時の俺は、他人や親父の意向に左右されるだけのガキであることを受け入れ諦めていた。親父が死ねば俺も妹も終わりだ。せめて妹だけは守らないと、と。
子供ながら先生には憧れた。京都で助けてくれた恩人はかっこよかった。
先生のように、まだ若い年齢で異性と結ばれ、子供を持ち、多くの生徒を導く職に就いている姿は誇らしく見えた。
諦める必要はなかった。俺が変わればいいんだ。毎日金に困って空腹感を堪える生活から脱却してみせる。
神頼みに万札を使えるぐらい、変わってみせる。
金さえあれば妹に不自由ない暮らしをさせられる。親父を楽させてやれる。
金に拘ってばかりで…浅ましいと思うか?
金の亡者だと見下すか?
所詮は金の為に生きる、卑しく、冷めた人間だと…?
あぁ…いいご身分だな、何不自由のない家庭で育ったんだろうな。
金のために働いて何が悪い。
俺たちには金が必要だったんだ。
「アルバイト?
おまえ、高校に入って早々小遣い稼ぎか
それとも家を出る為の算段を立ててるのか!
相談もなく一人暮らしなんてお父さんは許しません!」
「お、お兄ちゃん…出て行っちゃうの?」
「余計な勘ぐりはするなよ、らいはを放って行くわけないだろうが
俺の学費を払った後だ、ただでさえ借金返済で余裕がない
俺も働く」
「学費って…おまえな
…らいはを家に一人ってのも心配だ
おまえが家にいてくれるほうが俺はありがたい」
「…」
「…
私は大丈夫だよ
お兄ちゃんが修学旅行とかでいない日、私一人ぼっちでも平気だったし」
「「…」」
「…ん? あれ?」
「すまなかった、らいは!」
「…
じゃあ、そういうことで
ほら、ここにサイン」
「もうバイト先決めてやがったのか…はいよ」
六年前、高校一年の四月の頃の話だ。
俺がアルバイトをすることを家族三人で話し合った日、親父は良い顔はしなかった。
「頑張ってね、お兄ちゃん」
「…ああ、サンキュー」
らいはもパッと見は笑ってくれているが、内心どう思っていたのか定かでない。
渋々と履歴書に保護者のサインが押されたことを確認して、当時は馬鹿みたいにほっとしていた。
断られると思っていたところを、らいはが後押ししてくれたからだ。
助け舟を寄越してくれた妹は最初はニコニコしていたのに、次第にぎこちなく笑うようになってしまった。
普段、親父が夜遅い日は多い。毎日俺とらいはの二人で夕食を食べているんだ。らいはが一人で食事など…恐らく一度もなかっただろう。
暗い夜をこの狭い家の中で共に過ごしてきた家族だ。それも今後は稀になることだろう。
家族の為に料理を振舞ってくれる妹に寂しい思いをさせてしまうかもしれない。だから笑って教えてやった。
「初給料、入ったら一緒に買い物行こうぜ
好きなもん買ってやるよ」
「あー、お金入ったらすぐに使っちゃうんだお兄ちゃん」
「行きたくないのならいいけどな、適当に何か買ってきてやるよ」
「欲しいもの…うーん、ないもん
お兄ちゃん、勉強道具とかお古くれるんでしょ?
あとジャージほしいっ ダボダボでもいいから!」
「…
俺、働いて正解だよな、親父
買うもん決まったわ」
「おまえって奴はよ…ちくしょー!
今度お洒落な服買いに行こうならいはぁ!
そうだよなぁ、おめかししたいよなぁ!
風太郎のジャージなんてやめとけ!」
「い、いいってばー もー
ジャージは部屋着に使うんだもん」
「遠慮はするな、らいは
お父さんはわかってるからなッ!」
「ぎゃーっ! お父さん加齢臭臭いっ! お兄ちゃーん!」
「ははは、意地張るからだ」
「お兄ちゃんッ!!」
親父は、子供たちに金のない寒い家庭を強いることに罪悪感を抱いていた。
亡き母が憧れ夢見た喫茶店は、途方のない借金だけを残してシャッターが下ろされた。
亡きお袋に代わり親父は謝っていた。
馬鹿じゃねえの…そんなものどうでもいいんだよ。俺もらいはも親父とお袋を恨んじゃいねえ。
金のない貧乏人だろうと、俺たちは親父に頭を下げさせるために育ってきたんじゃねえ。
思い返せば分かる。この日常を振り返れば俺は頑張れる。
本当は遊びたいし、他の子と比べてみすぼらしく見られてしまう妹が頑なに遠慮する様が可愛らしく。
それを察して甘やかそうとする親父と、その腕の中で照れ隠しで悲鳴を上げる妹が…大好きだった。
役に立てるのなら自分の時間など惜しまないさ。
金があれば俺たちはもっと笑っていられる。
それでも、やはり親父は笑ってくれなかった。
今はその気持ちが痛いほど理解できる。親の愛情に報えなかった俺は親不幸者だった。
「風太郎、土日に二つもバイト入れてるのか」
「? 当たり前だろ、平日じゃろくに稼げない
週七とかシフト組んで貰えないからな」
「…そうか、悪いな」
「…親父は休みか、たまには家で休んでろよ」
「なあ風太郎」
「あ? なに、もう出るし急いでるから手短にしてくれ」
「あー…そうだな…
学校はどうだ?」
「…至って普通、変わりないぜ
あぁ…中間テストは俺が学年一位だ」
「マジかよ、すげーな」
「特別自慢にはならねえな
中学の連中と比べたら、偏差値上がって競い甲斐があると思ってたのに、残念だ」
「…」
「馬鹿ばかりだ…付き合ってらんねーぜ、愚痴ばかりで復習すらしねえで
って悪い、何の話だったっけ」
そう口にして、俺は玄関で靴を履いていた。
背後の親父へ、振り向けなかったのを嫌でも覚えている。
期待に添えていないことを自覚していた。この話題で親父とは顔を合わせづらかった。
嘘でもつけば良かったんだ。どうせバレやしないんだから。
いつもカラカラとうるさく笑う親だ。馬鹿みたいに。大げさに。
…後ろめたさから騙して、あんたに笑ってもらいたくはなかった。
その笑顔に罪悪感を抱いたら最後、俺はもう家族を支えられないのかもしれない。
「…たまには友達と遊んでみるのも面白いんじゃねーか
学生の友達は社会人のものとは全く別物だ、損はしねーはずだぜ」
「その気は…今のところねーな
腹が立つだけだ
いってくるぜ」
「ああ…気をつけてな」
実につまらない人間に見えただろう。友達なんてできなかったんだ。
仮に親父が父親ではなく、他人だったら…恐らく俺の相手なんかしないさ。
子供だから心配している。親子だから紡がれる関係なんだ。
親を困らせる馬鹿息子だった。
薄々察していたさ。親父が一人も友達がいない俺を憂えていたことは。子供がそれに答えないと知って、口出しすることを諦め見守り続けていた。
冷めた奴だ。他人を見下して愉悦に浸る卑怯な男だった。
だからよ、親父。
気持ちだけで嬉しかったなんて…俺は信じられねえ。
友達が一人もできない人間の気持ちで救われたなんて、おかしいだろ!
大嫌いだ。俺は…あんたのその目が嫌いだ。
普段家にいないくせに、帰ってると思ったら優しいことばかり。
そのくせ、俺のこと何でも分かって、見透かして…俺を惨めにさせるんだ。
「お兄ちゃん…」
…は? …ぁ
「ごめんね」
きっと俺と親父の二人だけでは、この家族はとうに崩壊していたはずだ。
繋ぎ止めてくれたのは他でもない、虚しく薄暗い家を照らしてくれるもう一人の家族の愛情だった。
「何言ってんだ、らいは
もぐ…んぐ…ぐ
うまいぞ、うん、食える食える」
「で、でもそれ…もう真っ黒…」
「俺と風太郎の舌は…むぐ
貧乏舌だからな、少し味が濃くても気にすんな」
「お父さんまで…
…あむ…!!?
うぇっ!
うえぇ…じゃりって…おざかな…やっぱにがい…」
自身の手料理を口にしたらいはが泣きそうになって、箸を置いた。
力んだ肩を震わせ、膝に置かれた手には力いっぱい指が食い込んでいた。
食卓に並んだ料理はどれもボロボロ。焦げていたり、生だったり、米はベチャベチャで…正直に言えば拙い物だった。
俺が家に帰った直後驚かされた。調味料が散らばって水浸しになった台所で、失敗作を捨てようか右往左往する妹がいたのだ。
とりあえず食卓に並ばせて食してみたら…家族の手料理でなければ顔を顰めていたかもしれない。確実に腹を壊す代物だった。
多少舌への刺激が強くても、俺も親父も馬鹿みたいに気を遣って妹を励ました。
らいはは最初から料理が上手かったわけじゃない。
当たり前だ。何度も何度も失敗して、めげずに努力してくれたから俺たちは最高の飯が食えるんだ。
流石に覚悟のいるラインナップだったが、俺と親父で腹に収めてらいはの料理を食べ続けていた。
お陰でどこか舌が貧乏舌とかそういう次元ではなくなった気がしてならないが。だがうまかったのは本音だった。
「ご馳走様」
「ごっそうさん
また頼むぜ、らいは」
「…でも、こんなおいしくないの…もうやめたほうがいいよね
お金も無駄に」
「…らいは」
「…もう、やらないから…ごめん、なさぃ…」
「…」
「…」
俺は親父と顔を見合わせて、ぽんっと肩を叩かれた。一任するらしい。
こんな時は息が合うんだ。おかしなほどに。
「最初から上手になれるわけないだろ 料理の天才なのか?
思っていたものと違うものができてしまい、落ち込むななんて言わない
だが、決して無駄にはならねえよ」
「…真っ黒になったのは…捨てないと、ゴミだもん」
「食っちまったぜ? 全部
捨てるなら俺にくれ、もったいねえ」
「…」
「おまえのその気持ちは、絶対に無駄にならねえよ
作ってくれてありがとな、らいは…学校帰りで大変だったろ
おいしかった、また作ってくれよ」
「…
…うんっ…うんっ
ありがと…お兄ちゃん…」
それから数日して、らいはの料理の腕は格段に上達した。その努力を俺も親父も目にしてはいない。
らいはを手助けしたのは、顔も声も知らない朧気な母親との夢だったと聞いた。
兄と父の笑顔を思い浮かべて。その為にと気持ちを込めて作ってくれた。
結果は…自ずとやってきたのだろう。
「気持ち、か」
俺はそれだけで十分幸せだった。貧乏人は多くは望まないさ。
らいはに対して。親父に対しても。これ以上の幸福は求めていなかった。
料理が不味かろうと。金のない狭い家だろうと…俺は。
問いの答えは、既に昔の自分が解いていた。
一度解いた解答用紙は破り捨ててしまったんだ。昔、クラスの連中に馬鹿にされた時にきっと。
結果なんて、どうだって良かった。
仮にその先に成功が待っていなかろうと。
伝える言葉は変わらないのだから。
毎日夜遅く帰っても、酒や煙草…女に金を浪費せずに働く親父の背中に向かって。
毎日学校から早く帰って家事をしてくれる妹の笑顔に向かって。
頑張ってくれてありがとう。
俺は何度も、その答えを家族に返していた。
結果が伴わなくても、誰かを思う行いに喜び感謝する家族や友人がいたかもしれない。
他人を見下すなんて、あってはいけなかった。
「馬鹿だよな…
答えはずっと、ずっと前から分かってたじゃねえか…」
川の水面が風で揺れる。風太郎は手に握るものが落ちないよう胸元に寄せた。
手には、父親から返された大金がある。不恰好な封筒はくしゃくしゃだった。
もう必要ないと言い渡されたものを握り締め、風太郎はただ無気力のまま帰路についた。
思い出を振り返っては虚しく、沈み、欠けている夕暮れには赤とんぼが音もなく飛び回っていた。
親父とらいはと…三人で秋の風景を歩いたのはいつだったか。
今は優しい思い出を振り払えるものが欲しかった。
失敗したら変わらないといけない。もう間違わないために。
弱い人間は一人では変われない。支えが必要だと風太郎は知っている。
「ざっと五百万か」
翌日。外は窓に水滴が付くほどの小さな雨が降っている。
自室で虚しい金を淡々と数え終えたところだ。札は色あせたものばかりで、銀行口座に入れたものではないのだろう。
高校3年間。大学4年間。教師を務めてからのこの半年。約八年稼いだ金だ。
今まで稼いできた金を振り返ると、確かにこのくらいの額になる。本当に手を付けていないんだと思い知らされた。
これまでの人生で感じたことのない金の重みと厚さに違和感しかなかった。
こんな大金があれば贅沢できるだろう…五人もの娘がいようと。
俺も先生も働いているんだ。
裕福な人間が使えばすぐに消える金でも、貧乏人は慎重に扱う。これ一つ加わることで安定した生活を送れるかもしれない。
「…先生に伝えるべきか」
この金、使ってくれるだろうか。
先生にも断られたらどうすっかな…
貧乏人のくせに。先生も…親父も。断るなよな。
それほどに無価値な金なのか。
札束を封筒に戻し、窓から窺える雨雲を見つめる。灰色で鮮やかさに欠けた世界だ。
憂鬱だ。どうせなら大雨にでもなって雑念を遮断するぐらい音を立ててほしいくらいだ。
「俺はまた失敗したのか」
俺は失敗してしまったのかもしれない。同じ過ちなのか、それとも別の物なのか…
必要とされていると信じていたものを、返されてしまったんだ。
家族に拒まれた俺が…先生と結婚し、五つ子たちの親代わりに成ろうなんて…恥知らずな者だ。
どの口が言えるのだろうか。今の俺にあいつらと交わす言葉なんて――
ふと、電話が鳴った。
薄暗い部屋を照らす携帯を無造作に手に取る。
着信音でわかっていた。相手は二乃だった。
話す気がなくても出なくてはいけない。もうこいつらは他人ではないんだ。
それに、声が聞きたい気持ちもあった。投げかける言葉はなくても。
電話に出て、耳にあてがうと…手馴れない通話相手からのノイズが響いた。
「二乃か?」
「い、いえ、五月ですっ」
「ん? 五月か
おまえからなんて珍しいな」
普段二乃が握り締めている携帯は、本来は五つ子全員で使う物だ。二乃が好んで遊び倒しているせいで半ば二乃用になっていた。
三玖と四葉は興味がなく。五月は母親べったりだから求めず、使うのなら母親のを使う。一花は欲があっても二乃に遠慮していた。
中学では携帯を持っている子ばかりだろう。友人の輪に加わる条件を満たすためにも五人分の携帯を買う頃だろうか。
話が逸れた。あの携帯を他の姉妹が使おうと特別変な話ではなかった。
だが五月からかけてくるのは珍しい。母親が倒れた日以来だ。あの子は電話よりも直接話したがるタイプだしな。
なぜかって…まあ操作に慣れずに何度も赤の他人に掛け間違えて苦手になってしまったせいだ。人の話を聞かないで先入観で弄るからだ、母親に操作してもらえないと怖がるのだ。
恐らく近くに母親か姉妹がいるのだろう。一体何の話だ。
「上杉君、ゲームをしましょう」
「…ゲームだと?」
「かくれんぼです
…当ててもらいます」
「…
五つ子ゲームか…いきなりだな
以前、完敗して不貞腐れてたじゃねーかおまえら」
「今は特別です、上杉君が本気かどうか確かめたいから
これが最後になるのなら、するべきです」
電話越しに聞こえる五月の声は、普段甘えてくるような、おちょくられて取り乱すような子供の声には似つかわしくなかった。
何か…真剣に俺を試そうとしている。
外見を似せようとすればそっくりな五つ子だ。昔はともかく、最近はウィッグにまで手を出して難易度が上がりつつある。
そんな五人からの挑戦状に、即答はできなかった。何が目的なのか知りたかった。
「外見が変わっても見抜く自信がなければ
そこに愛はなかったと、母の教えから決定を下します」
「…」
「上杉君の結婚に反対します」
母親曰く、愛さえあれば顔がそっくりな五つ子を見抜けるそうだ。
つくづく余計なこと言ってくれたもんだぜ! あいつらが調子に乗る原因になったものだ。見抜いたらうるさい、間違えてもうるさい、どうすればいいんだよ。
やはり子供たちは揃って俺が父親になることに抵抗があったらしい。一昨日は五人全員から拒否の手が上がっていたからな。
だがゲームをクリアすれば認めると言っているのだ。
五つ子にとっての落とし所なのか、譲歩してくれているのは理解したが、恐らく全力で向かってくることだろう。
こいつらが反対すればその母親もまた子を愛する気持ちから、俺の手を取りつつもきっと背中を押すものに変わってしまうだろう。
…困った家族だ。俺はお人好しじゃねーんだぞ。
「…そうか
いいぜ、やってやる
おまえらを特別愛してはやってねーけどな、おまえらの小細工に騙される大人じゃねーからな」
「そ、それじゃあ意味がありませんよっ!?
あ、待って下さい! 確認ですけど!」
「ん?」
受けると承諾したというのに、なぜか五月が慌てだした。
そもそも挑戦状を叩きつけるのなら五月は不適任だ。一花か二乃あたりが推薦されるだろうに。
荒事は苦手な性格だ。先生との結婚の話自体この子は賛成派だと思っていた、比較的。なのに今、直談判してきたんだ。
待てと言う五月に仕方なく耳を貸すと、本人の声が震えだした。
「け、結婚がダメというのは
お母さんとだけではなくて」
「なに?」
「ほ、他の女の人ともダメって意味ですからね!」
「…」
五月の大胆発言に渋い顔してたと思う。こいつら俺のこと好きすぎないか。
母親が取られるのが嫌で抗議するなら分かる。俺が既婚者になるのが嫌なのも分かった。三玖が徹底抗戦な理由がそれに当たる。
一花と二乃も怪しいと思っていたが、まさか該当者が五人全員とか言うなよ。
気持ちはわかるが、何か…おまえらが成人するか他の男を好きになるまで誰とも結婚するなってか。お子様め、他人は待ってくれないんだぞ。
「なぜそこまで影響を及ぼされるのか、図々しい奴だな
来年でおまえらも中学生だ
家族になるのがお断りだってんなら、兄離れしろよ」
「うぅ…」
「…」
「うぅぅぅうううううっ!!」
「怖いって」
向こうから恨みを募らせる唸り声が聞こえる。何か苦悶に抗っているようだった。
もうこの時点で察していた。
こいつ、たぶん泣く。
手詰まりになるとこうやって姉や母親に泣きつくから。
俺にもよくあることだ。その度に背中を撫でて慰めてばかりだった。
結婚は大泣きするほど大反対だったようだ。鼻水を抑える音と嗚咽が合わさり、掠れた声が届いた。
「お兄ちゃん行っちゃ嫌だよぉ…!
お婿さんに行かないでぇええ…!」
「おまえな…先生の衣装見たいとか言ってたくせに――」
「見たいけど嫌です! ずっとこのままがいいの!」
「…」
「お父さんの代わりより、お兄ちゃんがいいのっ!
一緒にいてくださいぃ…一緒にいてよぉ…」
何でこの子は電話で泣かされているんだ…決闘を申し込む割に未練たらたらじゃねーか。
お父さんならずっと一緒にいられるとか言っていた覚えがあるんだが、心変わりしたのか。一緒にいることに違いはないのに不満があるのか。
大方、深く考えていなかったんだろうな。母親が退院した直後だ、今の生活が永遠に続くと願っていたに違いない。
電話の向こうで五月以外の姉妹の声が掠れて聞こえてくる。末っ子が泣き出したことに慌てているようだ。
…これは三玖以外にも、五月とも話をつけないといけないようだ。
物分りが悪いし意地っ張りな分、三玖より根気がいるかもしれない。
分不相応なことに首を突っ込みたがる子供だ。ずっと頼りになるお兄さんで居続けるのも悪くないが、生憎守りたい人は他にもいる。
…それほど悪くない話だと思ってたのにな…こいつらが求める俺は、一体何なのだろうか。
後で話をしよう。一人で泣くな。
「おい五月、おまえの家に行けばいいのか」
「え、駅前からスタートです…ぐすっ
もう切ります…気をつけてきてください…」
「ああ、雨降ってるからおまえも気をつけろよ」
「…ッ
我侭言ってごめんなさい…っ
うぐ…ぅ…うわぁあああああん――」
「…
…
…あいつ、本当に大丈夫か?」
電話は切れた。子供の泣き声も一緒に途切れた。今頃携帯を片手に天井を仰いで大泣きしてるに違いない。
ええい、最後になって慌てだすのは改善されないようだ。いつも最後になってから泣きつくんだよあいつは!
甘えん坊め…そのくせ甘え方が下手だ。素直な一言を言わせるためだけに何度も苦労させられた。
小学六年になっても腰にぴったりくっついてくる甘ちゃんだ。らいはを見習えっつうの。雲泥の差だぜ…
傍にいることに違いはないのに…何が不満なんだか。
…困った子たちだ。本当に…
理解して、再び笑ってしまう。自分の愚かさに。
俺が愛してきた奴らは全員、結果を残せずに失敗してばかりな連中じゃねえか。
そいつらの気持ちが嬉しく、幸福を抱いてやまない。
俺は、馬鹿なあいつらが大好きだ。真っ直ぐに伝えてくるあの気持ちが愛おしくてたまらない。
本当に、気づくのが遅すぎた。
「五つ子ゲームね…
しかし…これだと、ただのかくれんぼじゃねーか」
五月が呼び出した駅前についたところで、止まぬ雨を見上げて愚痴る。
五つ子ゲームとは、他の姉妹に変装した瓜五つの顔を持つ五人が誰なのか当てる遊びだ。あいつら考案の。
あいつらが身につけているグッズだけで安易に判断すると失敗するのだ。
五つ子曰く、愛を持ってすれば解けると母親が断言していた。
お陰様で五人が俺を試す頻度が高まって面倒臭かった。全問正解して返してやると子供たちは不貞腐れて二度と持ちかけてはこなかったのだ。
なのに今になって挑戦状を叩きつけられた。どんな心境の変化だ。
これは俺があいつらの家族になるための試練なのか。
恐らくこれが最後になる。五月もそう言っていた。
まず手始めにあいつらを探し出さなくてはいけないのだがな。まだテストをする為の教室に辿り着けていないのだ。
「四葉ならすぐ見つけられそうだな、雨の中遊んでるに違いねえ」
止まれと言っても聞かずに突撃してくる不届き者だ。じっとしてはいられず走り回る子なんだ。
大方、面倒見の良い姉三人組の誰かが傍についているのだろう。泣いていた五月にも。そう手間はかからずに発見できるだろう。
傘を差して駅から雨の下へ出る。雨音は弱々しく、走るくらいなら傘など差さなくても良いほどのものだ。
雨の中、子供たちを探し始める。
視界には同じように傘を差す大人や学生ばかり。雨天でも休日を満喫している者が多い。
探し人は目線を下に下げないと見つからない子供だ。他の物には大して目に留めず歩いていた。
「…」
誰か、見ず知らずの人間の横を通り過ぎたところで足を止めざるを得なかった。
何か不可解な感覚につい、足を止めるしかなかった。
振り向くと傘で顔は窺えないのだが…駅のほうを向いている女性が立っていた。
待ち合わせでもしているのだろう。じっと向こうを見つめて動く気配はなかった。
俺は他人など特別気に留める性格ではない。この点は教師として生徒に参考にさせたくない短所である。
周りの男が美人だ、付き合えないかと注目を集める女性が相手でも興味は持てなかった。美人なのはわかるけれども、それだけだ。
俺には好きな人がいる。それ以外の者に異性に向けるような感心は薄かった。
だから、他人が気になってわざわざ振り返るなんて初めてだった。女の後姿を追い求めるような真似はしない。
その女性に声をかける。目の前の女が気になって仕方なかった。
「…あの」
「…」
傘でその後姿も満足に見えやしない。その顔を早く見たいと急かす気持ちがある。
こんなにも知りたいと願うのはなぜか。家族にまで紹介した恋人がいるというのに。
自分へ向けた疑問は、段々と違うものへ向けられる。
雨の中呼び出してまであいつらが俺を試すのだろうか。
五月はまだこのままがいいと泣いていた。それでも今日呼び出した。
来週ではいけない理由があるのだろうか。
今でないと何かが露呈してしまうような、そんなもったいない理由があったとしたら。
そもそも五月は何を試すと言ったのだったか。
その根源は、誰が教えた?
胸が騒ぐ。俺に他人を見る目を期待しないでほしい。
一度はあんたを忘れた生徒だ。
「先生、なのか」
その後姿は見覚えのないものだ。あの人の髪は綺麗で、長かった。
この後姿は忘れられない。あの人に代わり子供を見守ることを約束した日、その背中を押した。
ゆっくりと振り返る女の顔を見て、ほっとした。
視線を返す女性は、おずおずとその髪に触れ…羞恥を堪えるように俯いていた。
「髪、切ったのか」
「はい」
やはり先生だった。
傾けた傘からその顔を窺うと驚くしかなかった。
胸元まで伸びていたあの長い髪が、肩に掛かるくらいまでのものに変わっていた。
元より年下の男に好感を持たれ続けている美人だ。普段の化粧とは違うものもあって、目が離せなかった。
俺の視線に先生は髪を指に絡め取って居た堪れなさを誤魔化している。こっちが気恥ずかしい…
その洋服も初めて見る。以前子供たちが選んだ服なのかもしれない。
「何で急に、どうしたんだ」
「…子供たちからお洒落をしなさいと叱られたわ」
「あいつらか…なるほど」
先生がこの場にいること。そして俺がこの場に呼び出されたこと。
あいつらにしてやられたようだ。となると、五つ子はこの場にいないのかもしれない。
確かに…外見が変わっても好きならば見逃すはずがなかった。
「学生の頃はこのくらいだったの
…好めませんか?」
「…
今日は雨で助かった」
「…?」
「反則だぜあんた
一目惚れしかけた女が、既に好きな人で良かった」
「浮気は困りますが…今回は歓迎しましょうか
…良かった」
学生時代の先生か。見てみたい気持ちもあったんだ。髪を切った先生を見つめていると想像できる。
美人だったんだろうな、五つ子に似て。先生ん家の爺さんが度々、五月は先生に似ていると言っていたが…そういうことか。
正直、かなり嬉しかった。前の旦那が知っていたものを俺も得ることができた。詰めることができない差を埋めることができた、そんな気分だ。
「つーか髪型変えたから当ててみせろなんて無茶振りやめてくれ
顔も隠しやがって…こっちは子供を探すつもりだったんだ
見逃してたら俺が立ち直れなくなっていた」
「…それを貴方から指摘されるのは些か納得がいきません」
「え、何でだよ」
「私のほうが難易度は高かったわ」
「な、何の話?」
「…染めた髪、戻していたじゃありませんか
一年ほどすれ違い続けていたんだもの」
…根に持っていたのか。悔しかったのか。二つの傘が重なり、先生は俺の前髪に触れてきた。
俺と先生は京都で出会い、高校二年になって再会はしたが…同じ場所にいながら一年間気づかずにいた。原因は俺の髪にあると睨まれている…
一年でも早く出会えていた可能性はあったんだ。もう二度とすれ違いたくないのはお互い様だった。
「あいつらはここにはいないのか? 家か?」
「はい
今日はお誘いにきました」
「お、お誘い?」
「…上杉君」
「はい」
「デートです」
「…」
「…」
「最初からそのつもりなら…俺だってマシな服用意してた」
「…ふふ
雨ですから、濡れたらもったいないわ」
「あんたが言うな」
子供たちが選んでくれた服だろそれ。帰った後、何度も自慢話を聞かされたプレゼントじゃねーのか。
気を遣っているというのに先生から笑われた。俺の顔が赤いことを知られてしまっている。
間近で見てしまうと…もはや先生の魅力を再認識せざるをえない。
惚れ直した。そんな言葉を今体験している。卑怯だぞ…美人は罪だ。周りの男が通り過ぎる度に振り返っているくらいだ。
重なっていた傘が離れる。控えめにデートに誘った女は満足気に背中を向けて歩いていく。返事は待たないらしいな。
惚れた弱みだ。何かに負けた俺は先生についていくしかない。誘われて断れるわけがなかった。
「デートね…」
されど、子供たちが気掛かりでもある。五月は泣いていたのだから。
らいはが苦慮していた、三玖との話もしていない。お嫁さんは時効だと再三言っても聞いてくれないからな。
一花もそうだ。あの子は気丈に振舞っているが内心文句たれているぞ。拗れて何かしでかさないか不安だ。
二乃も同じく。母親を気遣う一方で隙あらばデート兼買い物に連行されて泥棒猫だ。このまま手を引いてくれるのかどうか。
四葉は…あいつはそれ以前の問題がある。先生が退院してからあいつの様子を窺っていたが…やはり怪しい。
変化を拒む子供を置いて、俺たちは後ろを振り向きもせずに先に進もうとしている。
「先生、五月は何か言ってなかったか」
「…
いってらっしゃい、と
その一言が精一杯のようでした」
「…泣いてたんじゃないか」
「ええ、五月だけではありません
三玖も、一花も…二乃も四葉も、貴方を慕っているわ
私は間違っているのかもしれません…少なくとも親のすることではないわ」
子供たちが家で寂しく泣いている時に、母親は外で男と遊んでいる。
とても公然で口にできる内容ではない。批難の嵐は間違いない。
先生は優しい人だ。俯いている横顔を覗くと、先生は困ったように笑っていた。
「ですが、娘からのお願いでもありますから」
「…」
「…デート、してくれませんか」
手を差し伸べられた。傘の下から露わになった手は雨の雫で次々と濡れていく。
自身の幸福よりも子供たちの幸せを何よりも求めていた。この人は一度過労で倒れて死に掛けたんだ。
そんな母親の下で育ち、これまで見てきた子供たちの心中は窺い知れない。
そんな子供の思いを受け取った母親の心中は…きっと。
親として間違っているとわかっていながらも、娘の気持ちを汲んで先生は来てくれた。
その熱意に、俺との時間を楽しもうとする期待も含まれているのなら。
「…普通、男から誘うもんだ」
「…」
「デートしようぜ、零奈」
「!
…はい」
今は俺たちが愛する五人の願望を叶えよう。
先生の手に己の手を重ねる。
好きな女を泣かせたくない。そんな思いから、自然と最愛の人の名前を呼べた。