五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れるその4 四葉

「四葉」

 

「はぇっ!?」

 

 

 

 一日が終わろうとする夕暮れ。雨が降った後の空は鮮やかな夕雲が浮かんでいた。鈴虫やコオロギの鳴き声が遠くに聞こえる。

 

 もう暗くなるというのに四葉は家を出てどこかへ向かおうとしていた。

 

 先程、子供たちと話をした後だ。

 

 家の中では風呂から上がった先生に子供たちが質問攻めをしている。

 

 さっきまで泣きついていたのにデートの話題には関心が強いようだった。

 

 そんな姉妹の輪から一人外れる子がいた。まさか見つかるとは思わなかったのか、素っ頓狂な声が上がっていた。

 

 

 

「いつもの公園か」

 

「あ…あははは…」

 

「一緒していいか?」

 

「…うん」

 

 

 

 この子は姉妹から離れて一人でいることが多い。

 

 それは昔から。子供五人が親に与える負担の大きさをこの子は危惧していた。

 

 一人外れれば四人に。だから自分が離れよう。好きな人が笑っていれば自分は耐えられるから大丈夫。

 

 そんな子だ。だから目が離せるわけがなかった。

 

 道路を遮る水溜りを飛び越えていく四葉の足は軽やかだった。

 

 四葉は足の早い子だ。本気で走れば、他の姉妹は追いつけない。

 

 

 

「四葉」

 

「はーい?」

 

「一緒にいるんだから話そうぜ」

 

「ししし、上杉さんがきてくださいよっ」

 

「もう鬼ごっこはしてやれないんだぜ」

 

「えー」

 

 

 

 隣に来いと声をかければ四葉は足を止めて振り返る。優しい性格から無視なんてできないのだろう。

 

 笑っていた四葉は少し寂しげだった。そのまま後戻りして隣に走ってきた。

 

 昔が恋しいのだろう。俺も学生だったら付き合ってやっていたが今日は疲れたぜ。雨で濡れた道路で転びたくもないし。

 

 夕日が照らす道をゆっくり歩く。子供にはもどかしいほどに。

 

 だが季節は秋だ。日が沈むのは早く、誰も待ってはくれない。

 

 よーい、どん。そう呟いて俺は走った。ゴールは公園だ。

 

 

 

「ん? あぁああっ!?」

 

「勝ったらジュース奢ってやるぜ!」

 

「ひ、卑怯!! ずるっこ!!

 もう、負けませんよー!」

 

「スタートからこの差だぜ! 負ける気がしねえな!」

 

 

 

 負けました。陸上部に入ると豪語している子供は手強かった。ついでに小銭も取られた。

 

 

 

「ぷはぁ…汗をかいた後のこれは最高です

 しかも水道水じゃなくてオレンジジュース! 贅沢です

 上杉さんも飲みます?」

 

「今飲んだら吐きそう…最悪な結果になる」

 

「もー、上杉さん普段全然走ってませんね

 一緒に走ろうよ」

 

「おまえが体力オバケなだけだ…

 はぁ…ベンチ濡れてるし…どうすっか」

 

「お尻が濡れてもいいじゃないですか、ブランコいこ!」

 

「…まあ、濡れるのはもう慣れた」

 

 

 

 公園は無人だった。自動販売機の前で息を整えて周りを見渡しても虫の鳴き声しか聞こえない。

 

 地面もぬかるんでるし遊ぶには危ない。そんな泥に四葉は足跡をつけてブランコへ向かった。

 

 足跡は一人分だけ。寂しさなど知らないと言いたげに四葉はブランコを漕いでいた。

 

 四葉のお気に入りの場所だ。雨が降った後も、雪の日も。よく一人でここに来る。

 

 帰りが遅いものだから、心配して迎えに来る日もあった。それでもあの子はやめようとはしない。

 

 

 

「上杉さーんっ! お隣!」

 

「はいはい」

 

 

 

 立ち漕ぎでぎこぎことブランコを揺らす四葉は楽しそうだった。片手を離して手を振っている。手馴れた動作だ。

 

 隣のブランコに座る。いつもの風景だ。四葉が満足するまで隣で待つだけ。

 

 だが今日は、恐らく四葉は満足することはないだろう。

 

 四葉についてきた理由はこの子と話をつけるためだった。他の四人よりも先に。

 

 兄貴分としてできる、他人からの最後の警告だ。

 

 

 

「一花は嘘つきだ」

 

「え?」

 

「あいつは優しい奴だ

 やりたいことがあっても、妹に譲ってしまう

 その為に何度も嘘をついて、誤魔化してきた」

 

「う、うん」

 

「何度も繰り返して、嘘のつき方も上手くなってきた

 今じゃ俺も先生も騙されちまう

 もう俺たちの手元で大人しくしているだけのガキじゃなくなった

 恐らく、あいつが一番に一人立ちするんだろうな」

 

「…」

 

「四葉、おまえもだ」

 

 

 

 鉄の鎖が揺れる幅が徐々に短く、遅くなる。

 

 ぽたぽたと鉄の棒から雨の水滴が落ちる。揺れれば振り落ちる。落ちずともいずれ乾き消える。自然の成り行きだ。

 

 落ちるなと強請るのは滑稽で無知なもの。子供が親の元を離れるのも必然、そうあるべきなのか。

 

 落ちた雫をわざわざ元の場所に戻す輩はいない。小さなものならその時既に蒸発しているだろう。

 

 零したら最後、もう戻れない。

 

 

 

「一花が嘘が得意なら

 おまえは我慢が得意なんだろう」

 

「そ…そんなことないですよ」

 

「そうだな…言い間違えた

 我慢が一番、下手」

 

「え、え? ぎゃ、逆になって」

 

「皆気づいている、おまえが一人でいたがっていることは

 悪いことじゃないんだろうな…

 一点の不安要素を除けばな」

 

「…」

 

 

 

 ブランコから降りて、四葉が握る鎖を俺も握る。 

 

 小さく揺れていたブランコは軌道を曲げて、緩やかに止まった。

 

 ブランコに立っている四葉といつもより少し顔が近い。

 

 睨んでやると、罰の悪そうな顔をしながら見つめ返された。

 

 

 

「もしもの話

 おまえら五人が俺と同年代だったとして

 おまえには絶対に告白はしないな」

 

「…」

 

「逃げてばかりなおまえを誰が好きになるか

 そんなもの優しさじゃねえよ

 自分勝手な奴だな、他人からの優しさはお断りで自分のものを押し付けてきやがる」

 

「…ぅ…」

 

「家族の憂いになっているのがわかってるくせに、何で一人になろうとする

 結局おまえは変わらなかったな」

 

「ぅ…は、ぃ…」

 

「…四葉

 弱い奴はな、一人じゃ変われないんだ

 四葉、俺のようになってくれるな

 俺は昨日な…また失敗したんだ

 このままでは…いずれおまえも同じ道を辿るぞ」

 

 

 

 酷い言葉に四葉は堪えた。涙が流れて、震える唇を噛んで耐えていた。

 

 自分がいなければ皆が楽できる。子供が考えつく単純な解決策がある。

 

 酷く似ているんだおまえは。俺は先生に叱られて救われた。だがおまえはどうだ…?

 

 おまえ、俺からも距離を取ろうとしていたよな。先生が退院してからろくに話もできていない。

 

 俺が望むものをこいつは言葉にしてくれた。子供たちに囲まれて困っている時、こいつは助けてくれた。

 

 そればかりだ。おまえは他人を気遣ってばかりで本音を隠している。

 

 そして、それに寄り添う他人の気持ちすら重荷に感じて逃げた。

 

 三玖が追いかけたら…おまえ怒ったんだってな。あいつは泣きはしなかったが、ずっと待っていたらしいぞ。

 

 

 

「一人で辛くないのか?」

 

「平気です…五つ子なのが普通じゃないんだよ

 一人っ子ならこれが普通ですよ」

 

「おまえが一人っ子だったら…?

 …はっ! おっと失礼」

 

「わ、笑わなくても…」

 

「確かに面倒臭さは減るな

 だが、おまえはつまらない人間になっていただろう

 そんな奴より、今のおまえが好きだな」

 

「…ぅ、ん」

 

「…おまえが心配だ、四葉」

 

 

 

 軽く頭突きをしてやる。リボンのせいで痛みはなかったのだろう。四葉は顔を赤くして俯いていく。

 

 おずおずと、四葉の手が鎖から離れ背中を掴んできた。頼み事をするように。

 

 四葉の脇に手を差し込んで、そのまま抱え上げてやる。四葉から抱っこを頼まれるのはそうない。

 

 大きくなったな、おい。もしかしたら他の姉妹よりも筋肉がついていて重いのかもしれない。

 

 成りはそう変わらないのにな。この細い足と腕でスポーツ万能とは信じられないぞ。

 

 胸に寄せて抱え上げてやると四葉は首に手を回してきた。

 

 

 

「…皆は笑って許すけど

 私は…五つ子でも間違えられるの…嫌です」

 

「…」

 

「五つ子ゲーム、上杉さんやお姉ちゃんは簡単に見抜くけど

 他の人は間違えちゃう

 全然違うのに…」

 

 

 

 ずっと五人仲良く一緒に。そんな優しくも都合の良い話があるわけがない。

 

 現実的に考え、そして我慢し続けてきた四葉は他人の目から抗う為に…年々、孤立を求めていた。

 

 四葉の振る舞いは…否応にも…昔の自分を思い出させてくれる。

 

 その先にはきっと後悔しかない。おまえは俺よりもずっと優しくて、寂しがり屋だから。

 

 

 

「おまえ、先生が入院してた頃聞いたぞ

 学校で喧嘩が多いってな」

 

「…」

 

「グレたか、不良まっしぐらか

 髪金髪に染めるか?」

 

「………そ、その、ですね

 あの…たまにですけど、たまーにですけど

 私が体育の授業で一番取ると…たまに悪口が」

 

「やり返してやったのか?」

 

「も、もちろん…言い返してやりま…やっちゃいました

 これは私が毎日練習した成果です、努力してない子とは違うって…怒って――」

 

「でかした!

 おまえの奮闘の甲斐あって中野家の威厳を守られたぞ!

 先生も珍しくベタ褒めだった、強く育ってくれたってな」

 

「ほ、褒めちゃうんですか…喧嘩したのに」

 

「黙ってるより何倍もマシだ」

 

 

 

 褒められたことではないが、虐められて黙っていられるほうが親は心配する。

 

 こいつに非がないわけではないのかもしれないがな。四葉は心中複雑そうに顔を歪ませていた。

 

 褒美に高い高いでもしてやろうと四葉を持ち上げたら、グキッと腕から嫌な音がしたので降ろしてやった。

 

 腕を擦りながら本題に入るとする。無茶なことはしないほうが賢明だった。

 

 ただ喧嘩するだけなら良かったんだ。この子は変わりつつある。

 

 人知れず高い目標を掲げて奮闘する中、障害に当たるものを排除する。優しい性格にはとても耐えられそうにない暴力だ。

 

 

 

「おまえ、運動能力に長けているよな

 長けているというより…もはや化け物レベルだ

 どのスポーツでも活躍してみせる…中にはおまえの努力で成せたものもあるんだろう

 中学に呼び出されて練習試合に借り出されるとは恐れ入る」

 

「…駄目なんですか?」

 

「…親ってのはな、子供への苦情には敏感なんだよ」

 

 

 

 入院した母親に代わり子供たちの面倒を看ることになった俺に先生は話してくれたんだ。

 

 子供が黙っていたって隠せないものがある。

 

 運動には優れた四葉は周りから褒められることが多い。教師からも生徒からも、他の親からも。

 

 その中で僻む人間は必ずいる。指を指して嘲笑う人間がいる。正直、朝礼に賞状授与式で体育館で立って眺めていた当時の俺は僻んでいたぞ、早く勉強がしたかったから。

 

 身体能力は高くても学力はからっきしの四葉は、クラスメイトからの悪口に反発することが多かった。

 

 当人にとって死活問題なのだろうが、この程度のことに親が割り込むなんてナンセンスだ。

 

 だが、その頻度が高くなりつつあると担任が心配するわけで。先生に連絡が飛んで来ることもあった。

 

 四葉から挑発するようなものもあったらしい。極めて純真無垢だったおまえはどこに行ってしまったんだ。

 

 

 

「誰よりも努力して一番を取っても 

 一人でこんなところにいて、姉妹も突き放す

 そんなもの誰も求めていない

 勘違いしないでくれ、おまえの気持ちを認めていないわけじゃない」

 

 

 

 純粋だからこそ、家族を思う気持ちを馬鹿にされて怒ってしまったのかもしれない。

 

 他の生徒の親から四葉への苦情もあったとのことだ。クラスの担任もさぞ肝を冷やしていたことだろう。

 

 で、その肝心のこいつは何やってんだ。そんなこと構わずに我が道を行くつもりか。

 

 …容易に想像がつく。その先には後悔しかないぞ。

 

 この子は俺以上に優しい子だ。そうはならないかもしれない。だが心配だ。

 

 現にこの子は一人でいる。

 

 

 

「大切なのはどこにいるかじゃない

 先生は五人でいることを求めているが…俺はそこまで求めない

 あの人、過保護だしな

 先生は×でも俺は丸をやろう」

 

「上杉さん…いいの?」

 

「ああ…だが

 優しさを武器に人を見下したら最後、おまえはおまえ自身を嫌うだろう

 それで救われる人は確かにいる

 怒った理由が姉妹への悪口もあったらしいしな」

 

「…知りません」

 

「やましいことが増えるほど、好きな人が素晴らしい人間なほど自分を卑屈にさせるんだ

 自分を蔑ろにして家族を支えたいのなら尚の事」

 

 

 

 優しい子だ。この子が怒る状況は限られている。

 

 姉妹を小馬鹿にされた時、四葉は誰よりも先に立ち上がり守ろうとした。

 

 貧乏な家庭を見下す生徒や、消極的な三玖に面倒な役割を押し付けたり、食べる事が好きな五月に悪口が飛んできたりと。五月には少し自重を知って欲しい気持ちもあるが。

 

 二乃が女子同士で揉めることもあった。そんな時に四葉は素早く姉妹に駆け寄りフォローしていた。

 

 それでも止まぬ冷めた視線に、とうとう四葉は我慢することを辞めた。

 

 何も悪いことはしていないだろう。この子は優しすぎる。

 

 だがそんな中で、自分自身を守り正当化させるために…他人を下に見て安寧を得たかったのかもしれない。

 

 四葉は何も喋らない。姉妹もまた、自分自身の短所を理由に虐められることを、四葉が傷ついている原因になっていることを隠すしかなかった。

 

 教えてくれたのは、一花だったよ。あの嘘つきは妹に対してはいつだって真剣だ。

 

 これだけ言っても聞かないんだろうよ…先生でも止められない子だ。

 

 

 

「上杉さんが私を嫌いなのは知ってました

 昔言われたもん、五人の中で一番下だって」

 

「…」

 

「私は…お兄ちゃんとの約束を守っただけだよ」

 

「ん?」

 

 

 

 四葉の強い主張に目を向ける。泣きそうになりながら、きっと睨むように見上げていた。

 

 

 

 

「五月を守ってやってくれって

 三玖が落ち込んだ時は励ましてって

 二乃は喧嘩っ早いから仲裁してって

 一花と一緒に一緒にお母さんを支えてって」

 

「…」

 

「守っただけなのに、何でそんなこと言うの…!

 お兄ちゃんといたいのに…ずっと頑張ってたのに!

 どうして四葉を置いていくんですかぁ…!」

 

「…そう、だったな」

 

「五人なら、五等分だけど

 一人になったら…お兄ちゃん来てくれるから」

 

 

 

 怒りも虚しく、四葉は声を上げて泣いてしまった。

 

 なぜ変わってしまったのか。その答えは意外なもので、胸に刺さった。

 

 覚えてたのか。小学校に上がる前の、幼稚園の頃の話だ。

 

 姉妹を支え、守る為の強さを得るには姉妹の傍にはいられなかった。強くなるには一人にならないと。

 

 そんな不器用な子供が、孤立を繰り返せた理由は…酷く弱いものだった。

 

 

 

「…四葉」

 

 

 

 四葉、おまえ。

 

 それはおまえの姉妹の為に言ったのではなく。おまえが幸せを願って言ったものだ。

 

 結局、この子は自分よりも家族を重んじる。自己犠牲の塊のような子だった。

 

 やはり好きになれそうにない。

 

 もしも俺がおまえが同い年で、仮に出会っていたとしたら。

 

 俺なんかより家族のことばかり気にして、関心を向けなかっただろう。

 

 …もし、何か奇跡的な出来事がない限りは。

 

 その時は、心底惚れていただろう。

 

 ありえないがな。もしかしたらの可能性を探るよりも、今目の前で泣き叫ぶ子が大切だ。

 

 一人でいると暗く思い詰めた顔をするガキが、俺が声をかけると…花のようにぱっと笑ってくれるんだ。

 

 本当に困った子だ。

 

 

 

「四葉」

 

「う…う、んぐ

 は、はい…」

 

「おまえ、それよりも前のことは覚えているか?」

 

「前…ですか?

 ひぐ…うぇ…」

 

「…これ使え」

 

 

 

 鼻水を垂らす子供にハンカチを渡してやる。大泣きである。四葉がここまで泣くのは珍しい。

 

 ちーんっとハンカチで鼻水を拭いて、四葉の目元の涙を手で拭う。

 

 みるみる涙が滲んでくるんだが…嫌いって言ったのがそこまでショックだったのか? 優しくされると駄目らしい。

 

 

 

「まだ明るい内に行くか

 先生と昼間来たんだが、雨の後も悪くない景色だった

 いこうぜ」

 

 

 

 一筋縄ではいかず、頑固者を止めるのは骨が折れる。泣いてばかりだし、場所を変えよう。

 

 四葉の手を引いて向かったのは、昼に先生に叱られた池の近くだ。

 

 もう日も沈む頃、池には大きな夕日が反射して眩しかった。四葉は手で光を遮りながらついてきた。

 

 周りを明るく照らす池の横には、ボートがあった。雨で濡れているが、指を差すと四葉は頷いた。

 

 

 

「つめてぇ…おまえも気をつけな」

 

「…」

 

「…え、なに」

 

「…お膝の上」

 

「…大人しくしてるならいいぞ

 でないと池に落ちる」

 

「う、うん」

 

 

 冷たい座席に座ると水を払っても冷たかった。しばしの辛抱だった。

 

 四葉にも注意を促すと膝元を指定された。泣いている子を拒絶する意思はなく、四葉はゆっくりと膝の上に座ってきた。

 

 オールを漕いでみると思っていた以上に難しい。

 

 片方に四葉の手が重なる。

 

 

 

「手伝います」

 

「息が合うかね」

 

「やってみましょう」

 

 

 

 ぎこぎこと未経験の作業に苦戦していると、予想外にボートはスムーズに進んだ。

 

 

 

「息ぴったりですね」

 

「みたいだな」

 

「…ししし」

 

「戻る時も頼むぜ」

 

「了解です!」

 

 

 

 目は赤いのに、四葉は嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。

 

 池のど真ん中だ。怖い気持ちはないのだろうか。ないんだろうな…

 

 少しの間、夕日を眺めていた。

 

 

 

「…お母さんが取られずに済んで良かったです」

 

「あ?」

 

「神様にお母さんを連れてかれちゃうのかと思ってました

 私怖くて、神様にお願いして、もっともっと頑張らないと駄目なんだって

 …お願いが叶ったのかな…

 お母さん、無事に戻ってきてくれたんだ」

 

「…そうだな」

 

 

 

 小学六年生の修学旅行。京都で買ってきたお守りに何度も願掛けしていたな。

 

 子供たちと一緒に神社に手を合わせにも行った。子供たちは真剣だったんだ。

 

 母親の幸せを望んでいる。だが

 

 そこに自身の幸せと結びつかないと知った時、戸惑うだろう。覚悟できるほど成熟した気持ちを持ち合わせていない。

 

 

 

「…代わりに上杉さんが取られちゃった」

 

「俺死んでないから」

 

「でも私のお兄ちゃんの上杉さんはもういなくなっちゃいます」

 

「おまえのお兄ちゃんの卒業条件を教えろ」

 

 

 

 家族を思う気持ちは人一倍強い子だ。覚悟もしていたつもりなのだろう。

 

 己の欲を犠牲にして何かできることはないか必死に模索していた。その結果が一人でブランコで遊ぶあの光景に繋がる。

 

 人の目に触れずに努力するのは涙ぐましく感動的だ。だが俺まで命の危険に晒されるのは納得いかない。どこもいかないって何度も言っているのに。

 

 変わらないと言っているのに、四葉は聞きやしない。

 

 

 

「上杉さんは私が嫌いなんですよね」

 

「ああ」

 

「…本当ですか?」

 

「…嫌いって言わないと、おまえ変わってくれないだろ」

 

「…」

 

「おまえ…好きだって言うと調子に乗るし

 変わる気なかったんじゃないか?」

 

「あはは…まあ…そうですね

 私、繰り返すと思います

 上杉さんに好かれ続ける自分を

 それが一番の正解なんだと信じて疑わなかったかもしれません」

 

「おまえの為にならねえぞ、それ」

 

「そんなことは絶対にありませんよ」

 

 

 

 がたっとボートが揺れる。急に何のつもりだ。

 

 四葉は膝元から降りて目の前に立ち上がる。その背中から差す夕日が眩しくて目が眩む。

 

 日の光を遮って四葉は笑った。

 

 

 

「上杉さんの気持ちは、いつも私を導いて守ってくれるから

 私を見てくれて、そう言ってくれるのなら

 信じるだけです

 上杉さんが好きな私のままでいいって」

 

「…嫌いだからな」

 

「困りました、変わらないと駄目みたいですね」

 

 

 

 全部わかってた風に言ってくれる。あれだけボロボロ泣いていたくせに。

 

 四葉は困ったように笑っていた。母親似だな、おまえ。零れそうな涙を拭って笑顔を崩さずにいる。

 

 今までの努力を否定されたと傷ついたかもしれない。約束を守ろうと努めてきたものを無碍にされて泣いているかもしれない。

 

 俺には小手三寸で慰める方法は知らない。ありのまま伝えることしかできなかった。不甲斐ない大人を相手に子供は泣いて戸惑うしかない。

 

 

 

「変わるか、そのままでい続けるか

 俺に強いる権利はない、おまえに任せる」

 

「…はい」

 

「この先どう変わろうと俺はおまえの味方だ」

 

「…

 それでも、行っちゃうことに変わりないんですね」

 

「ああ」

 

「上杉さんが初恋の人ですよ

 私…なりたかったんですよ」

 

 

 

 急かす気持ちから四葉が寄ってくるとボートが傾く。

 

 池の上を回って…先の俺と同じように、反対に回った四葉が日の光を目にして眩しそうだった。

 

 それでも目を瞑らずこちらを見据えている。

 

 

 

「上杉さんが好きな気持ちだって三玖に負けたくない

 

 お母さんを思う気持ちだって五月には負けたくないんです

 

 皆に頼られてお母さんの役に立っている二乃にだって

 

 クラスの人気者で皆から認められている一花が相手でも退けないんです

 

 上杉さんから愛されているお母さんにだって…譲れないんです」

 

「何をだよ」

 

 

 

 大切な家族に対抗心を抱いて、四葉は恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

「もしもでもいいんです」

 

 

 

 それは…あったらいいなと願う、子供の夢だ。

 

 

 

「もしもの世界で

 

 上杉さんと私が同い年で

 

 同じ学校で

 

 同じ教室で

 

 もし私と出会ったら

 

 その時は、私が憧れているものを叶えてくださいね」

 

「何が望みだ」

 

 

 

 夢は夢で終わらない。

 

 そう教えてくれるのは大人であり、家族であり、友達であり…

 

 一度しか会った事がない他人でもある。

 

 四葉は手を差し出す。屈託のない幸せを掴もうとする笑顔を向けて。

 

 

 

「上杉さんのお嫁さんになりたいです!」

 

 

 

 だから、胸を張って応えられる。

 

 きっと好きになっているだろう。今の俺もおまえに何度も救われているのだから。

 

 

 

「おまえがそう望むのなら

 俺はおまえの夢を叶えに迎えに行こう」

 

 

 

 四葉の手を取り、俺も立ち上がる。ボートが揺れて四葉が抱きついてきた。

 

 こんな子供に告白するとは思えないがな。生憎と俺はおまえの兄貴分だからな。

 

 だが、この子の隣に立てる男はきっと幸せになるだろう。それが羨ましい。

 

 頭を撫でてやる。俺が好きなのは少なくとも、今目の前で厚かましく笑って抱きつく子だ。

 

 涙を隠そうとする子を優しく抱きしめる。

 

 

 

「嫌いなんて嘘だ」

 

「…」

 

「おまえが心配だからな、四葉

 昔っから」

 

「…ししし…っ」

 

 

 

 泣きたい時、辛い時、我侭を言いたい時、何でもいい。

 

 家族に甘えて助けを求められるように。

 

 優しさから自分の手を下ろすような不幸な子にならないでくれ。

 

 そんな大人の押し付けがましいお節介に、顔を胸元に埋めていた四葉は照れて笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、上杉さん ここどこか知ってます?」

 

「どこって、公園の池だろ つーかもう暗いし帰るぞ」

 

「いえ、そういう意味じゃなくて」

 

「…何が言いたい」

 

「ここって、噴水の――」

 

 

 

 夕日が反射して光輝く水柱は絶景だった。それを間近で拝めて俺も四葉も絶句していたぜ。忘れられない思い出になるだろう。

 

 池から噴水が上がるなんて誰が予想できるか。普通に危ねえ。

 

 雨も止んだ後だというのに全身水浸しで帰ってきた俺たちに中野家の面々は呆れ、浴槽に本日二度目の湯を張るはめになった。


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