思うようにならない結果に至った時、それに費やした全てを懸けた選択を迫られる。
苦しみながらも諦めるか。代用できるものを求めるか。他を犠牲にしてでも得ようとするのか。
人間、年齢問わず生きていく中で様々な問題を抱えている。自力では解決できない理不尽を受け入れ、一生抱え生きていく者もいる。
悩みというものは苦労の末に一つ解決したとしても、また次の悩み事が降りかかる。
腕に抱えているものに時限爆弾が紛れていたらどうなるか。日々消化していかなくてはいつか手詰まりになり破綻するんだ。
目前にそんな破裂寸前の問題が押し迫っていると知れば不安が高まるだろう。ストレスの元だ。
それは家庭であったり、職場なり他人なり。俺自身も多くのトラブルを抱えている。
親父とお袋の借金。それに因んでらいはの進学も気にかかる。
そして、先生との婚約に反対するあの五つ子たち。
自分自身、もう失敗してしまった身だ。教えを乞われる立場にない人間が教師など適任だろうか。
将来の方向性を定めなければならない状況で、早急に対処しなければならないことが多すぎた。
どいつもこいつも一度は膝をつき合わせて話をしなければならない。一日で済むとは限らない曲者ばかりなのだ。
プライベートに絶賛お悩み中であれど…社会人は公私混同せず仕事に励まなければならず、ただ無心に取り組んでいた。
そんな最中、携帯の通知を確認して席を立った。
「仕事中に何の用だ、学生さん」
「えっ お昼休みじゃん…だよね?」
「今、昼休憩返上でプリント作ってる」
「うわ、仕事できない社会人…」
「…授業用ではなく生徒個人のだ、勘違いするな
馬鹿でも満点取れるようにわかりやすく懇切丁寧に作っている、束でな」
「な、何してんの…?
もうっ ちゃんとご飯食べてるの?
体壊したら零奈さん心配するよ?」
「…ご心配なく、後で食べるよ」
「いーまーっ!」
人気のない昇降口付近で電話に出る。11月の昼間、日陰の中に吹き荒ぶ風は冷たく、外で昼食を取ろうという学生は皆無だった。
今の時刻、教師として勤めるこの高校は昼休みという憩いの時間だ。それは他校も同じ。電話の相手は高校生である妹のらいはだった。
昼休みとはいえ教師が私用で電話している様は咎められそうなもの。外野がいないことを確認して応じた。
こちらは気を張っているというのに、受話器の向こう側の生徒は暢気なものだ。高校生活を楽しんでいればそれでいいんだが、やはりむっとしてしまう。
別に仕事に追われているわけではない。きっちりやることはやっている…はずだ。最近忙しいから抜けがないとは言い切れない。
今日は午後一の授業がないから後で飯を食べるつもりだったのだが、らいはは容認できないらしい。
怒り半分、呆れて溜め息をついたらいはの世話焼きは相変わらずのようだ。妹は単純にだらしない兄に落胆しているのだろうけれど。
お兄ちゃんだってな、おまえに対して心配事がないわけじゃないんだぞ。もうじき二学期の期末テストだ。
「お兄ちゃんまで堅物路線だと、お堅い両親二人に挟まれちゃう五人は毎日肩こりそうだねぇ…
…あれ、もしかしてうちのお父さんって案外良い父親なのかな」
「おまえが緩み切っているだけじゃないか?
俺なんか高校の頃は昼休みも飯食いながら勉強してたんだぞ
高校2年二学期の中間テスト、何点だったのか教えてもらおうか
随分と余裕あ――」
「あ、お兄ちゃんって今日さ、店長さんと一緒に飲む約束してるでしょ?」
「何点だったのか教えても――」
「お父さん激怒だよ」
「何でだよ!?」
突拍子のないものについ声を上げてしまい口元を抑えた。点数を教えろとからかっていたら、なぜか親父がおかんむりだった。
今日は仕事の後にらいはのバイト先の、ケーキ屋の店長と飲む約束をしていた。以前接客の仕事を手伝ったお代を払ってもらわなくては。
今年になって式を挙げたあの店長に、ちょっとした助言を頂きたかった。あちらも先生とその子供たちに関わることなら快く受けてくれた。それでも働かされたがな。
親父は至って無関係のはず。なぜ絡んでくるのが疑問でしかなかった。
「俺とまだ飲んでないだろー、だって」
「まだ言ってたのかそれ
おまえを一人放って、親と兄が酔い潰れていいのなら飲んでもいいぞ」
「うわぁ 面倒臭そうだからやめてよね
でもまあ…飲みたいのは本当みたいだよ」
「…親父、家じゃ殆ど飲まないからな」
「ずっと楽しみにして、とっておいてたんじゃない?」
「…本当に面倒臭い親父だな」
「あはは」
以前の先生の退院祝いの時に一緒に飲んだりはしたが、あの時は先生が隣にいた。あれでは納得いかないらしい。
俺も先生と飲みたい希望があって、大学時代やここで教師として勤める職場でも飲み会等で酒は付き合いだけで済ませていた。あながちつき返せない案件だった。
酒を飲むのはいいが…顔を合わせて何を話そうってんだ。特別話したいことは…なくはないが、シラフで話したいものだ。
気恥ずかしさもある。乗り気じゃない、とはぐらかすと親子の事情を知るらいはは笑っていた。
しばらくあの家で飯も食っていない。らいはも一人で食事を取ることが多くなった。バイトに時間を割いているほうが気楽だと言っていたぐらいだ。
何で五つ子のいるアパートには顔を出して実家には来ないのか。妹が怒っていたんだ、やはり寂しいのかもしれない。
妹を蔑ろにする気など毛頭なく。貧乏人には禁句の一言を言うしかなかった。
「らいは 欲しいものあるか?」
「いきなりどうしたの…?」
「たまには兄貴らしいことさせてくれ
何がいい?」
「急に言われても…欲しいものかぁ…」
らいはからの回答は渋々といったものだった。欲がなさすぎる…ここの生徒もブルジョワな輩ばかりだが、そいつらでも即答で答えそうなものだ。
長い沈黙の間、やや風の強い青い空を眺めていた。段々と寒さも身に堪えるようになった。
「…うーん
目下の悩みだった零奈さんの健康は無事解決したし
一花ちゃんたちがゆとりある生活を送れれば、それでいいかな」
「…他人様の家を心配できるほど裕福だったか?」
「だって、私の姪っ子になるんでしょ? 家族の幸せを願うのは当たり前っ
早くお兄ちゃん結婚して」
「…」
身内とは人の気も知らないで問題の解決を急かしてくるものだ。
妹はあの五つ子の姉貴分だ。いささか疎遠気味だった関係が改善され、最近では相談相手になったり食事を奢っているらしい。
らいはにとってもあの五人は愛らしくて仕方ないのだろう。その上母親代わりだった先生とも仲が良いわけで、俺と先生の婚約は良い事尽くめなんだろうな。
賛成してくれるのはありがたいのだが、なぜこうも携帯を握る手に汗が滲むのか。兄の苦心を知らずに妹は欲しい物を無邪気に押し付けてくる。
「それと…零奈さんとの可愛い赤ちゃん待ってるねっ!」
「もう五人いるだろうが
…状況が変わった
五人の内、四人から反対意見が上がっている」
「えぇえええ!?
この前挨拶しにきたのに!? 何でそんなことになっちゃってるの!?」
「おっと、昼飯食う時間なくなるな 切るぞ
テストの結果次第じゃまた教えてやるよ」
「うわーい ありがとーお兄ちゃん♪
って、はぐらかさないでよ! 本当に大丈夫なのお兄ちゃ――」
長話するとあいつの昼休みが削られる。兄は容赦せずに通話を切った。逃げたわけじゃない…
らいはの指摘はごもっとも。今更後に引ける立場ではなく、男なら恋人の為に努力あるのみだ。
それに子供たちの意見も…あれはどちらかというと反対というより我侭だ。
その我侭が随分と現実味のないものというか、好意の押し付け方がなんとも子供らしい。
小学校6年の二学期もあと残すは一月。半年も経たずに小学校を卒業することになる。
子供の拙い我侭もこれが最後になるのかもしれない。時期に疎まれる事が多くなる。、
五人の幸せを願っている。だが、その望みは叶えられない。あの子たちは俺の我侭に手を重ねてくれた。
もしかすると、俺は決め付けているだけで…この先別の選択肢を取るのかもしれない。謙虚でありつつ子供第一なあの母親はそれを拒みはしないだろう。
何をしたところで、誰を選んだとしてもあの五人は幸せと不幸せどちらかを受け入れるしかないはずだ。
誰かの幸せによって別の誰かが不幸に陥る。誰かの不幸が自分の幸せになる。自分の不幸に指を指し笑うのが他人だ。
現実的ではないんだ、あいつらの考えは。幼稚で…あまりにも愛らしい。だが好意に甘んじて選べない人間は全員を不幸にする。
だから話すしかないんだ。受け入れてもらうように。
その代わり、命を懸けておまえらを守り幸せにしよう。いつかおまえたちに、共に隣を歩む者が見つかるまで。
決意を固めたところで…今は職務中だ。熱を冷まして、寒い外気から逃げて職員室に戻った。
「う、上杉先生…」
職員室の窓から中の様子を窺っていた女生徒と目が合うと声をかけてきた。
…ここで教師として勤めている中で一番の悩みというか…困った生徒だ。一番に困っているのは当人のようだが。
昼休みも終わる頃。時間をずらして昼食を取ろうかと思っていたところに生徒が職員室を訪ねてきている。
もうじき授業だというのに。女生徒は何を求めて教師に声をかけてきたのか。教え子の悲鳴を見過ごす教師は失格だ。
不登校、虐め、家庭問題、成績不良。色々と難儀な子だ。その上大人を警戒し、信用しようとしなかった。
よく俺の面倒を看てくれる先輩が受け持っているクラスの生徒だ。担任から相談を受けて何度か話をしている。父親とのすれ違いから学校生活に支障を来していることも知っている。
そんな生徒が俺に声をかけている。
助けを求めているその手を取るのが教師だろう。かつてあの人が手を取ってくれたように、今度は俺が。
「昼飯は食べたか?」
「…」
「入りなさい、特別美味くはないがコーヒーはタダだ」
本当に大丈夫かだと? 全然大丈夫じゃない。
5限の授業を受けさせずに、生徒を職員室に連れ込んでると知られたら学年主任にまた睨まれるんだぜ。正当な理由があっても批難されるのが世の常だ。
結局昼飯は見送りのようだ。どれほど悩みを抱えていようと、誰も聞き入れてくれないだろうし仕事が優先される。
人の悩みとはそれほど難しく重い。他人の気持ちを全て理解できないのだからその重みもまたわからない。
社会人になっても子供のように些細なものに悩み生きていく。
だからこそ生徒の悩みが解決できるよう、真摯に向き合ってみせよう。
古臭い匂いが拭え切れないアパートの一室に、五人の子供が集まっていた。
「みんな集まったところで…五つ子緊急会議を始めます!
主催はこの四葉が勤めますのでよろしくお願いします!」
トレードマークの緑色のリボンを揺らす四葉はこの日、姉妹を集めて会議を設けた。
普段姉妹のトラブルメーカー兼ムードメーカーを担っている四葉は明るい声で開催を宣言したが、四人の反応は芳しくなく。
この場には母親も姉代わりのらいはもおらず、一番に頼りにしていた風太郎もいるわけがなく。
五つ子が周囲に気を配らずに本音を口に出来るこの会議にて、剣呑な空気が淀み始めた。
「四葉から開くなんて珍しい…いつも単独行動取るくせに」
「そうね、五人の中で決まって四対一で分かれるのがお約束よね
だから尚更嫌な予感しかしないわ」
「フータロー君とびしょ濡れになって帰ってきた時から妙に明るいし
分かりやすい性格してるよね四葉」
「単純な四葉が羨ましいです…私、最近食欲ないです…」
「なんかとても悪意を感じるけど、私は動じないからね!」
姉妹からの冷ややかな物言いに四葉は胸を張って弾き返した。
四葉は風太郎との一件の後、大好きな母親との交際を認め応援すると決めた。存分に甘え倒すことも決めて。
そんな子供が抜け駆けしたい欲が潜めつつも、風太郎から四人の説得の協力を頼まれ、今に至る。
「お子様パンツ早く卒業したほうがいいよ」
「もうそれただの悪口! というか一花がませてるだけだし! クラスの子もはいて……たし、たぶん」
「ただの助言だってば
ほらほら、四葉は何を話し合う為に呼んだの? お姉ちゃん聞いてあげるから」
「あ、待った! そうやってマウント取るのは今回駄目!」
気乗りしない姉妹の様子を見て四葉は焦りと同時に苦笑に似た諦めを抱いた。
風太郎に指摘されたもの。家族を思う気持ちに慢心し、家族の気持ちを無視してきたツケが今返ってきている状況にある。
仲違いしていたわけではない。むしろ四葉なりに家族を守ろうとする優しさを姉妹は好んでいる。
だが、それでも一人でいようとする四葉に四人が何も思わないわけがなく。知らぬ間に風太郎に肩入れし、一人だけ輪から外れたことに遺憾のようだった。
気まずさを感じる妹に一花が気を利かせるが、意地を張って対抗する他ない四葉には断るしかなかった。
分からず屋、と好き勝手我侭を言う家族に不満に思うものもあった。当て付けるように続けた。
「私は上杉さんを応援するよ、もう我侭は終わり
大好きな人には幸せになってほしいから」
言葉にする前から察していた四人は黙って四葉の宣言を聞いていた。
五人全員が大好きな母親と兄代わりの風太郎を好いている。それは家族愛か…背伸びした感情なのかは把握し切れていない。
自分の答えを探し出す前に思いを伝えないといけない。でないと二人は諦めてしまうから。
四葉も、まして他の四人もまた、自分たちを愛しているが為に幸せを手放される事を望んでいない。
やっちゃいけないことだと風太郎から教えられたから。向き合いなさいと励ましてくれた人の表情をそれ以上曇らせたくなかった。
そんな四葉の心中までは知らない四人の顔は晴れない。四葉は説得を続ける。まずは相手の意見を聞き出すことに。
「みんなは? それでも我侭言いたいの?
じゃあ、あの時みたいに反対の人は手挙げ――少しは躊躇おうよ!?」
「あんたの心変わりが異常なのよ」
「美容院で応援するって言ったのに!? 心変わりはどっち!?」
「あれは…まあ…お母さんああしないと動いてくれないし…」
「嘘じゃない…けど」
「もっー! お母さん凄い奥手なんだよ!?」
挙手を募れば反対の挙手が四つ。姉妹の迷わない手の動きに四葉は憤慨した。
「ほらほら、お母さんから言われてるじゃん? 嘘だけはつかないでって
フータロー君も似たようなこと言ってたし」
「…結婚ってそう軽々しくするものじゃないし、一度したら離れられない…
だから取り返しがつくうちに、隠さず言いなさいって…
お母さんが望んでるんだよ」
「さすが離婚経験者だね、再婚に慎重だ」
「あんた、その話題はフー君にはっ倒されるからやめなさいっての
私たちがフー君好きだからママも慎重なんでしょ」
「もう、駄目だよみんな
そんな我侭言ってられないでしょ
上杉さんとお母さんはずっと私たちに尽くしてくれたんだから
言いたいこと全部言って私たちはスッキリするけど、それが正しいことなの?」
所詮は子供の我侭だと自覚している一花と二乃、三玖は四葉からの指摘に言い返せなかった。
母親の言葉もある。風太郎も困ってはいても我侭を聞いてくれると言っている。許されるんじゃないかと思えば当然願いは潰えないままでいたい。
だが、風太郎は自分たちを子供としか見ておらず、意中の男性が慕う相手は、彼と同じくらい慕っている人。美人で幸せになって欲しいと願う母親だ。
もうやめよう、と四葉は三人を諭そうとするが…妹の五月の視線が鋭く、四葉はついたじろく。
「…四葉は上杉君に言いたいこと言って仲直りしたんじゃないんですか
いつも一人で出て行って…上杉君に迎えに来てもらって、ずるいです」
「―」
「あれま、図星」
「少なくとも四葉、これに関してはあんたに言われる筋合いはないわ」
「…言いたいこと言わないで、お母さん心配させたのは四葉」
「う…ぐ…そ、それは…そうだけど…」
言いたいことを言ってスッキリしたのは自分だった。四葉は言い返せず弱気になってしまう。
姉妹からの視線が思っていたよりも厳しくなりつつある。ここ数日悩みに悩んでストレスの元になっている話題であって皆ピリピリしていた。
やっぱ私には無理だよぉ… 四葉は内心、無茶を振ってきた風太郎に泣きつきたい一心だった。
五月の目が今まで見たことないほどきつく睨んできて、姉は半泣きだった。
「四葉」
「な、なに…三玖」
「我侭なのはね…重々承知だよ、悪いとも思ってるんだよ」
困り果てた四葉に一花が苦笑して間に入ろうとしたところで、三玖が声を上げた。
決まって風太郎の話題では口を紡いでしまっていた三玖にしては珍しいことだった。
俯きながらも三玖は告げた。
「でも希望があるのなら私は…諦めたくない」
「希望って…」
「フータローだって、私と同じ年齢差でお母さんと結婚できるのなら
私だって…フータローと」
「…でも、上杉さんが選んだのはお母さんだよ?」
「うん…でも、私はやだ…
この気持ちを押し殺してずっとフータローと暮らすなんて無理だし、嫌だから
だから私は…振られるまでは我侭言いたい」
「…自分勝手だよ」
「自分勝手だよ
だから嫌われても…文句言わない」
かれこれ6年、三玖が風太郎を兄として慕い好いている様を見続けてきた家族は呆れつつ、同情もしていた。
好きという気持ちを押し付けても、理性が欠けていれば疎まれることもある。
三玖は子供ながら風太郎を一途に慕っていた。その思いがこのような形で終わることに不憫さも感じられる。四葉は最後まで咎められなかった。
臆病で、自身に過剰な自信など到底持てない三玖は幼稚な願望だと自覚している。自分はまだ子供で好かれる人間じゃないと思っている。
開き直りにも近い三玖の考えは姉妹では止められないと四葉は口を閉ざした。風太郎がそれを良しとはしないから。
我侭も言わせてくれない奴が家族になれるわけがない。先日、家族を慮る気持ちだけで家族を見ようとしなかった、四葉が知る答えだ。
子供相手でも真剣に向き合ってくれたからこそ、嘘はついちゃいけなかった。
「…三玖は諦めが悪いから
五月ちゃんは? あれだけ駄々こねて泣いてたけど」
「…私は…」
少し前ならこの三玖の発言に一番に噛み付いていただろう。三玖から五月へ視線が集まり、末っ子は後ずさる。
三玖は本心を打ち明けた。何と言われようと諦めないという姉の回答に、五月はほんの少し張っていた肩の力が抜けた。
そんな様子に一花と二乃は俯いてばかりの三玖の背中を叩いた。叩かれた本人は渋々、照れくさそうに背筋を伸ばした。
どん臭くて面倒くさい姉妹だが、四葉と五月にとって頼れるお姉ちゃんだ。もう少し自信を持てと姉の二人は苦笑していた。
「お母さんが入院してから…わかったんです
やっぱり上杉君が傍にいないと駄目なんです…」
母親の入院と聞いて、五つ子は忘れられない日を鮮明に思い出した。
今からおよそ半年前の6月の中旬。暑さも段々と夏のものに変わり始める季節だった。
いつものように朝起きて、母親を見送った後に小学校に登校し。
授業を聞いて、昼休みは給食を食べて、放課後までまた授業。
そんないつもの日々を五つ子は過ごしていた。
違っていたのは、鍵がかかっていない自宅のドアを恐る恐る開いた。
そして、見慣れた光景の下、母親が倒れていた。
「もし…
もしも、お母さんが亡くなってたらどうなってましたか…?」
徐々に膨れ上がっていた不安が現実となった瞬間だった。
あの時の恐怖は母が死ぬかもしれないという、ほんの少し先の未来で突きつけられるものに染まっていた。
全員が、頭から離れずに残っていた不安だった。
だからこそ、母親が退院してからは…五人にとって心から救われた、幸せの日々だった。
そのはずだった。少なくとも五月はそれを信じていた。
「私は上杉君に泣きついてます
お母さんは無事に退院できて、やっと私たちは笑って生きていけるんだと思ってました
大好きなお母さんと今まで通り一緒に、心配事もなくなってこれからって時に…
…何で行っちゃうんですかぁ…」
「う、上杉さんがお母さんと結婚すれば一緒に暮らせるんだよ?
どこにも行かないよ?」
「…」
「そ、それって…」
五月は自分の胸元の衣服につけていた小学校の名札を手にしていた。その中に入っているものを取り出した。
ボロボロの紙だった。
折りたたまれたものを広げて、五月はまた泣いてしまった。
こまったらでんわしろ うえすぎくんの
電話番号と綺麗な平仮名の文字の横に、五月が書き足した…子供の頃の文字が書かれている。
「何かあればお兄ちゃんが助けてくれるって、ずっと信じてました
あの時…助けてくれました…っ」
あの時、母親が倒れた時、間違えずに風太郎に電話をかけられた理由だ。
もういなくなるかもしれない。手を繋いで大好きなお母さんの思い出話を聞かせてくれた、そんな人から貰った大切な紙だ。
五月にとってのお守りだった。だから手放さないようにいつも隠し持っていた。
助けてくれるから大丈夫。そんな安心感があったから。
「上杉君は、私の…大事なお兄ちゃんなんだよ…っ」
意地悪ばかりでからかってくる、年上の男の子との時間が楽しかった。
困り果てて頼ってしまい、嫌な顔する時はあれど…そんな困った顔をして笑うところが好きだった。
身内には言えない自身の不甲斐なさが、なぜか彼には言えた。
母親の心配の種になりそうなものは常に取り除かなければ、大好きなお母さんが安心できない。
それなのになぜか、彼には言ってしまう。
こっちを向いてほしくて。私に構ってほしい。そんな幼稚な好意の表れだと成長するに連れて理解できた。
「上杉君がお母さんに取られちゃうの、嫌だよぉ…!」
我侭でも何でもない、拒絶を持っていると五月は姉妹に告げた。
とんだ我侭に、何か反対意見が飛んでくると身構えていた五月は俯きがちだった。
だが視線を上げると姉妹の表情は困惑の一色だけだった。気持ちが似ていたからだ。
あの母親に甘えてばかりだった五月に、衝撃を受けた四葉は驚き慌てていた。
「は、反抗期…!」
「い、いや、それとは違くない?」
「これは…ママも落ち込むかなぁ」
「四葉は単独活動
私と一花と二乃は風太郎寄りの立場
お母さんにとって、最後の砦の五月が離れたら…たぶん泣いちゃう」
「…」
応援しているはずの母親が孤立無援だとバレたらどうなるか。答えは簡単、母親が泣く。
即効でその答えに行き着いた五つ子はしばし沈黙し…
悲しいかな、こういった状況では末っ子は犠牲にされやすい。
「あんた、結婚しても親孝行して一緒に暮らすって言ってたじゃん」
「五月ちゃん、お母さん大事にしよ、ね?」
「なっ! い、一花に言われる筋合いはありませんから! ま、まだお母さん好きですよ!
あの人が結婚するのが早すぎるんです! お母さんの再婚も反対です!」
「今のところフータロー派は私たち三人で十分」
「あ、待った! 私は上杉さんとお母さんが結婚するのに賛成派だからね!
今二人を困らせているのは皆なんだから、三人が上杉さん派は認めないよ!」
「私はフータローが好きってずっと言ってる、四葉は遅れて横槍に入っただけ」
「な、何と言ようと我侭言う人は上杉さん派に入れてあげませーん!」
真の風太郎寄りは自分だと豪語する四葉が許せないらしく、三玖は険しい目つきで睨んでいた。
気分を害したのは二乃も同じく。三玖に代わって生意気言う妹に反抗してきた。
「そもそもあんた、何で今までソロ活動に耽っていたのよ、私たちが嫌いか」
「え"っ
ち、違うよ! わ、私はお母さんが…お母さんの負担にならないようにと思って」
「それでお母さんを心配させてたんじゃ逆効果じゃない?」
「う…ぅぐ、だ、だけど…
お母さん倒れちゃったし、やっぱり…っ
もうしないけど、嫌いなんかじゃ…」
「んー…でもそっか…四葉がお母さんのこと心配してて良かった
私もフータロー君好きだけどその気持ちは分かるよ」
「では四葉は私と同じ、今でもお母さん大好き派でこっちですっ
四葉は何よりお母さんの健康を気にしていると信じていました」
「五月っ! 五月ならわかってくれるって思ってたよ!」
「こっちって、五月はフータロー派じゃなくていいの?」
「これなら私が離れてる間、四葉がお母さんを慰めてあげられますっ」
「わかったよ、お母さんは任せて!
…あれ、なんか陣地狂ってない?」
「流されやすいなぁ」
「四葉よわっ」
「四葉抜けます!」
五月に手玉に取られて、風太郎派の主張を覆された四葉は即座に脱退を宣言した。
結局、五月は三玖と同じく最後まで諦めない派に加わることに。四葉の考えに賛同せず、反対の挙手を挙げたままとなった。
げんなりする四葉は残りの姉二人に視線を送った。
「…二乃と一花は?」
「…まぁ…概ね同じって感じ? もちろんお母さんも大事だけどね
でも、それで嘘をつくかは別問題」
「お、お母さん応援するって言ったのに…!
お母さん悲しむよ」
「一家揃ってフー君好き過ぎなのが問題なのよね」
多くは語らない、と一花と二乃は踵を返して各々家事を始めてしまった。長話をすると夕食に間に合わなくなる。
温かくて美味しいご飯を作って母を迎えたい二乃と、疲れて帰ってくる母が家で苦労しないよう家事をする一花は、やはり母親を蔑ろにしてはいない。
…事の原因は、五つ子たちよりも十も、二十も年上の大人が見せる子供への見栄だ。
嘘はつかないでほしい。そんな二人の優しさは現実的ではなく、厄介な人を好きになったと四葉は溜め息をついた。会議もこれまでとなった。
「二乃ー 携帯貸りるね」
「いいけど、あんたが使うなんて、これまた珍しいこと――はっ」
冷蔵庫から食品を出して夕食作りに取り掛かる二乃が、なぜか台所を離れ、携帯を手に取る四葉へ詰め寄る。
急に何事かと、四葉は携帯を手に持ったまま二乃から距離を取る。
解散した他の三人もその騒がしさに振り向いていた。小さな家だからすぐにバレるのだ。
「な、なにかな? 二乃」
「あんたまさか、フー君とママにチクる気ね!?」
「ぎくり」
そもそも風太郎に頼まれている身。報告は当然のことだが二乃からは裏切り者扱いである。四葉は滝のような汗を流していた。
お、おかしいな…私上杉さんに孤立するなってアドバイスしてもらったのに…悪化してるような。四葉は理不尽さに嘆いた。
図星を突かれ、ボロが出たところで一花も二乃に加担する。四葉はもう逃げる体勢に入った。
「そこ待った! 抜け駆けして自分だけ褒めてもらおうなんて、お姉ちゃんが許しません!」
「褒めてもらいたいなら二人を応援しよう!?」
「私たちを踏み台にして良い目見ようとするその魂胆が気に入らないのよ!」
「踏み台も何も、まんま障害になってるじゃん!!」
「待てー!」
「携帯持って走るなー!」
「わーん! やっぱ4対1になるじゃん!」
四葉は携帯と玄関の靴を手にして家を出た。
脱兎の如く、裸足で寒空の大地を駆けて行った。逃亡劇にもならない一方的な展開だった。
やりすぎたかと一花と二乃は慌てて靴を履いて四葉を追った。
本当に出て行ってしまうのではないかと不安もあった。二人にとって大切な家族なのだから。それでも怒ってはいた。
残ったのは大人しい三女と真面目な五女だけ。騒がしい三人が出て行ってしまった家は無音だった。
「…あれだけ騒がしい子供のお父さんになりたいなんて、フータローってば変人」
「三玖、恐らくあの三人よりよっぽど私たちのほうが評価低いですよ」
「無情…」
「うぅ、二乃が行っちゃったらお夕飯、遅くなっちゃいそうです…」
ままならない現実に子供はただ文句を言うしかない。まだ無力で知恵もない身、致し方ないと諦めるしかない。
欲しいものを得たいと、早く大人になりたいと願うのは当然のこと。
変わりたくないと、子供のままでいたいと願うのは当然のこと。
「どうしたらフータローの一番になれたのかな」
「もしも同い年で生まれたら違ってたのでしょうか…」
「…フータローと学校、行きたいな…」
「でも上杉君、意地悪ばかりしてきそうです」
もしも…そんなことがあったらいいな。子供はありもしないと分かっていてもそこに夢を見る。
叶いっこない妄想でも、そんな世界に求めているものがあるのかもしれない、二人は実りのない夢に笑った。
「五月、お煎餅あったよ いる?」
「食べます」
悩んでいる時、気分転換は大事。
美味しいものを食べている時の五月は少なくとも嬉しそうに笑って幸せそうだ。
そんな、元気のなかった家族が笑っている姿を見る三玖もまた、くすっと張り詰めていた気持ちが解かれるようだった。
メールにて悲痛な叫びが届いていた。
「上杉さん! 私にはこの役目は重たすぎます! 助けてください!」
「お兄ちゃん今夜は飲み会だから、今日はそっちに行けません あしからず」
「駄目なお父さんじゃないですか! やっぱり結婚反対しますよ!? 上杉さああああん!!」
大げさなメールの一文が届いた、その数分後。
「今のは忘れて」
「おまえ二乃だろ、四葉はどうした」
「知りません
あと今日来ないのなら早く教えなさい、ご飯余るでしょうが」
…この携帯、メールだとまず相手が五つ子の誰なのか探らないといけないのが面倒なところだ。
四葉が助けを求めてきたが、なんか大丈夫そうだし放っておこう。二乃と喧嘩でもしたのかもしれないが、大体予想がつく。
生憎今日は構ってやれない身だ。居酒屋に子供を同伴させるわけにはいかないのでな。頑張ってくれ。
退勤後に飲めるとわかっていれば、今日一日頑張ろうと思えるものだ。子供には分からない大人の楽しみだ。
昼の授業を終えた放課後。生徒は帰るなり部活なり委員会なり、この時間からが生徒にとって思い出に残りやすいものではなかろうか。
強制されたものではない、友人と接する時間が増える頃だ。高校生らしい思い出を作れるのではなかろうか。
疑問系なのは俺自身、そういった思い出が薄いからだ。関わったのはクラスメイトではない、別の学年の教師とその子供たちだった。
青春を謳歌したい生徒にはろくな助言はしてやれそうにない。が、教師として教えられないことがないわけじゃない。
校舎の外から運動部の掛け声を耳にしつつ、教室を見渡す。
この放課後の時間、部活も委員会も、教室も違う生徒が席について参考書を広げていた。
自主勉強とは精が出るなと褒めてやりたいが…困ったことに必要に迫られてやらされている連中だ。
俺はそんな奴らの手伝いに呼び出されたに過ぎない。恩師と比べれば…あまりにもちっぽけなものだった。
「フーセン」
「何だ」
「この問だけど…意味わかんね」
「補足書いただろ」
「意味わかんねっつってんだよ、二回も言わせんな」
勉強に取り組んでいるのは三人の生徒だ。
その内の、この学校の生徒にしては珍しい、髪を金髪に染めてピアスをした男子生徒がいる。俗に言う不良生徒だ。
椅子を傾けて天上を仰いで、お手上げだと不貞腐れているようにしか見えない。
フーセンという呼称は侮蔑の意味もあるだろう、その名で呼ばれた俺は席に寄ってその問題用紙を取った。今日は数学を頼まれていた。
ちなみに…風太郎という俺の名前、なんとも昭和の匂いを感じたらしい生徒が考えて広めたらしい。
まだ勤めて半年の身、覚えられるほうが優先度が高い為咎めはせず放置している。
問題用紙に書かれた生徒の式を見て、返した。大体察した。
「どこまで理解できてんだ」
「全部だ全部ッ! あ、わかってない意味でな!
これ手書きだろ、問題ミスってんじゃねえか!?」
「そんなわけあるか、前の問題は解けている
焦らず考えてみろ、ここは…」
「お、おう」
この学校は所謂お嬢様やお坊ちゃまというか…金持ちの子が多い。
姉妹校の黒薔薇も有名な女学院で、女子高なら黒薔薇、共学ならうちといった印象がある。
生真面目な生徒が多く、教師としては他校と比べて教育に対してストレスはそう多くはないのだろう。だが、やはり反抗する生徒はいる。
悪評が広まっていた生徒が教えを請おうとしても、授業以外の時間を使ってまで構ってやれる教師は少ない。自業自得だと嘲笑う生徒もいたそうだ。
こいつが頼れる相手というのが、今年やってきた新米の教師だけというのも不憫なものだ。
確かに成績は悪いが地頭が悪いわけではなさそうだ。だから補足にそれとなくヒントを書いておいたんだが…こいつ飛ばしやがったな。
口で説明すると、やはりすんなり解けた。それとなく睨んでやったが、当人は自力で解けたことにご満悦らしい。
「つーか、何で今時手書き
パソコン使えねえのか、田舎者かよ」
「見づらかったか」
「そうじゃねえよ、めんどいだけだろ」
「俺はこのほうが作りやすい
それにパソコンはまだ慣れていないからな、時間がかかる」
「へっ やっぱ田舎者じゃねえか」
「こほん」
厳密に言えば、まだ勤めて間もない身で学年主任から制作したプリントは目を通したいと言われているせいだ。
前任が作ったものを基盤にして作れと言われていて、その内容もよくできているし俺も文句はない。授業にもそれを使っている。
だが、制作したものは全て連携しろと言われているのだ。ノートPCで作れば色々と面倒なんだよ。個人のお節介で余計なものを交えたくない。
そんな事情はあっても生徒には関係がなく、好き放題言われそうなところで隣から割り込みの声が上がった。
不良まっしぐらな男子生徒とは正反対の、背筋を伸ばして優雅に勉強に取り組んでいる女子生徒だった。いかにも風紀委員って感じの。
加えて、この二人は非常に仲が悪い。まあ自然な流れだ。隣と言ったが当然、席は一つ間を開けて座っている。
「あなた…教えを請う立場なら言葉遣いを改めるべきでは」
「うっせぇな、ただ質問しただけだろ」
「この授業に関係のない内容でしょう」
また始まった。嫌いなら関わらなければいいってのに口を出さずにいられないらしい。
この放課後の特別授業は生徒から相談を受けて設けたものだが、寄寓にも該当する生徒が複数いるもので、仕方なく三人まとめてみている。
なのだが、このお嬢様という呼び名が似合う女子生徒は至って成績は優秀。クラス内でも一位の学力を持つ。勉強に困る理由はないと見た。
それでも是非教えてほしいと熱意があった為了承した。のだが、別の熱が上がってないか。
「上杉先生、そう呼べなくて?
放課後、私共の為にお時間を割いて頂いているのです
教育熱心な真心に感謝し、敬うべきでしょう」
「綺麗事並べやがって
おまえも結局は良い様に利用してるだけじゃねーかッ
おまえら金持ちは理由を見繕って、やってることは下劣のそれだ、自覚しやがれ」
「金持ちというレッテルを勝手に貼るのは構いませんが
最低限の礼儀を正せない身勝手までも他人のせいにされては…
もしかして、笑われたいのです?
失礼、私そういう言葉遊びには疎くて」
「礼儀を尽くすほどのもんじゃねえからなぁ
非難を受けたら他の話題で誤魔化すあたりがせこいってんだよ
こんなのが依怙贔屓で役職貰うってんだからマジで良いご身分だな」
「貴方は常に己の劣等感を誤魔化してばかりでしょう
唯一、他はいくらお粗末でも許されていた、たった一つの長所を廃らせて…馬鹿ですの?
貴方がこんなことをしても、無駄ですわ
時間の無駄、勝負する舞台を間違えていると、まだわかっていないんですの?」
「委員長…てめえ」
「あなたこそ、空気を悪くしているのはご自分だと自覚されては――」
「喧嘩するなら出て行け」
油と水でお互い馴染めないとわかっているようで、とことん貶し合っている。
反発し合うのは、相手の言い分を少なくとも理解できるからか。
おのずと収まるかと期待していたが、その気はないようで釘を刺した。
出て行くわけにはいかないようで二人は押し黙った。もうそろそろテスト近いからな、切羽詰まっているからこいつらはここに来たんだろう。
「俺に対する態度など二の次でいい
今は一点でも成績を上げるために勉強しているんだろ」
「上杉先生…なぜこのような素行者にまで」
「おまえも大して変わらねえからな」
「なっ 先生、それは心外です!」
「自覚してねえなんて可哀想な奴だな委員長」
「おまえを持ち上げたつもりはないぞ、いいから問題に集中しろ
テストまでそう日もないぞ」
「…うす」
「何で私がこんな敬語も使えない生徒と同列に…っ!」
教師として諦観しているのもどうかと咎められそうだが…俺は止める気はない。怪我しない限りな。
他人と関わって、自分を肯定してくれる者ばかりなわけないだろう。
馬鹿にされ、後ろ指を指され、陰口も、あらぬ言いがかりも、侮辱もされる。
子供の内は許されることが多い。反発し怒ることも、泣くことも。
だが社会人となった後、それが許されないことが多すぎる。
罵詈雑言受けてもへらへらと笑うことを強いられるかもしれない。泣かずに歯を食い縛ってやり過ごす日があるかもしれない。
大人になってから初めて受けるのと、子供の頃に経験しているのでは気持ちの持ちようが違う。今は向かい合えばいいさ、自分の糧にするために。
一騒動あったが時間は過ぎ、残りは課題を渡して終了となった。
「あの…上杉先生
私、ただプリントを頂く為に足を運んだわけではありません
もう少し教えていただけませんか」
「…今日は別件がある、悪いな」
「い、いえっ! 出過ぎた発言でした
次回を楽しみに待っていますね、先生」
「ああ、帰ったら習い事もあるんだってな…無理するなよ」
「平気ですわ、私やると決めたら何事もやり通します」
まだ教え足りない、プリントだけ渡されるだけで済まされるのは不本意だと訴えてきている。俺の昼休みの苦労の結晶はお気に召さなかったようだ。
継続は力とも言うが、不要だと見限ったらすぐにやめたほうが良いとは思うんだが…ちゃんと考えてくれよ。親の期待を一心に受ける子供は純粋だった。
授業を終えて二人は教室を出て帰った。廊下からは二人の暴言が響いている。一緒に帰るなんて、本当は仲良いんじゃないの?
生徒は帰ったが、最後の一人がまだ残っている。
昼休み、職員室を訪れたあの女子生徒だ。
厄介な他人が出て行ったら露骨に机に突っ伏していた。相当気まずかったようだ。
「先生はいつもあの二人に教えてるんですか」
勉強用にかけていたメガネを外して、生徒は口を開いた。
今まで黙っていたのはあの二人に関わりたくなかったからだろう。ある意味賢い。
「ああ…理由は異なるが、テストで点数取る為に頼まれた」
「…そうは見えないけど」
「なぜ?」
「…他のクラスでも、あの二人のことは風の噂程度で聞いてます
スポーツ推薦で入学した特待生…でも、成績を上げられず部活を辞めて荒れた不良男子
一方で、学年でも最優秀の成績を持つ…家柄も才能にも恵まれた風紀委員長
先生に頼むような人には見えない」
「…言いたいことはわかる」
勉学において目を向けないか、教えを請う必要がないかのどちらかだ。プライベートの時間を削ってまで授業を求めはしないだろう。
一応理由を知っている身だが、彼らの私情を話すわけにはいかず肯定だけしておく。
女子生徒は乾いた笑い方をして、さっきまで彼らが座っていた席を見つめていた。
「悩みがなさそうで羨ましいです
さぞ甘やかされた…甘えていい環境で育ったんだろうね」
「…総じて良い環境なのは、否定できないだろうな」
「ほんと、自分勝手に、自由に生きている…
子供の我侭が通じる世界で甘やかされてるに違いないです
優れた才能を簡単に捨てて自棄になっても許される
大して努力もしないで、涼しい顔して簡単にやってのけて…周りから褒めちぎられて…親にも期待されて
私みたいに家族に疎まれるような苦労を知らないんですよ
…だからあんな風に笑える」
「…」
「…何で、私ばっかり…
何で……何でなの……私なんか、見てくれもしないのに…っ」
自分が不幸に合った時、それまでの日常が幸せだったと思い知る。
これから毎日を大切に生きていこうと平凡なものに無上の価値を見出すだろう。
それと同時に他人に対しても同様に。自分はこれほど困っているのに、何でおまえは笑っているんだ、と…酷く妬ましく、やるせない気持ちになる。
動物も同じ本能を持っている。人は成果物に対して不満は抱かない。
抱くのは自分への待遇だ。他人よりも劣っていると知った時、その劣等感から不満を抱く。
理性的ではないが咎められないものだ。止めても止められない衝動だ。
諦めたほうが楽になれる。だが理屈でどうこう処理できるほど簡単には生きられない。
悔し涙を流す生徒は、きつく拳を握って耐えていた。握り締めた手では誰の手も掴めず、自分を傷つけるだけだ。
「縁遠い相手だ、お互いに」
「?」
「遠くに追いやれば、陰口も言いたい放題だ」
「…」
「決め付けるのは楽だ、無駄な選択肢も悩む時間も削れる
何十人、何百人と他人と接する中でいちいち個人を評価していられない
利口な手段だ」
学校とは多くの同世代の人間と無条件に接する場である。求めていなくても、拒絶しても接しなければならない。人によれば地獄のような環境だろう。
まだ成熟していない子供たちにとって学校生活が全てと言っても過言ではないのだ。
この生徒は悩みを抱えている。それも肉親が関わるもので、自身の生活に大いに支障を来たしている。
途方に暮れて迷っている。その上メリットもなく学校に通わされ、孤立した中勉学に集中しなければならない。
仕事とは違うんだ。この子には得られるものはない。ただ重苦しい待遇を受けて耐えるしかない。
助けを求められる他人はおらず。求めようとする自分の浅ましさも嫌っている。ならば…見下していたほうが気楽だ。自分は救われる。
「だが、我が身可愛さで他人を貶める最低なやり方だ
知り渡れば、他人から嫌われ疎まれる…惨い仕打ちを受けたとしても自業自得だ」
「…疎まれたって別に構わない…」
痛みに慣れたと生徒は自虐する。
形振り構っていられない状況で他人を思い遣ることなんて…できない。それは弱さではなく、他人がそうさせる。おまえは悪くはない。
だが、それに甘えて手を染めれば、誰も同情してくれない。
過去失敗した人間が教師として教えられることは限られている。失敗した後悔を糧に助言することしかできそうにない。
「もしもそいつと友達になる時…手なんて握れないよな
影で見下していたなんて言えるか?」
「見下してなんて…」
「…これも、決め付けていることに他ならない
だがお互いに遠くにいたら、気づかなかった」
「…そもそも…知りたくないでしょ、誰も」
「どうだろうな、それもまた遠くに追いやっている内は気づけない」
「…」
物好きはいるからな。周りの人間全員が自分を見下していると思い込むのは自意識過剰ってもんだ。
世迷言だと生徒は聞く耳持ちたくないようで、そっぽを向かれてしまった。
いつしか、失敗した自分を変えようと決意し…望み通り変わったとて。
相手が許してくれるとは限らない。相手は見抜いている、その浅ましさと姑息な本性を忘れてくれない。
過去、俺は許さなかった。陰口ばかり叩く他人の謝罪など、おまえらが罪から解放されるだけで被害を受けた俺は傷付いて終わるだけになるだろう。
人を侮辱するのなら、最後まで訂正するな。それが罪だ。なかったことにするなど、傲慢だ。
だからやるもんじゃない。人を見下すなんてな。
そう教えたいのだが…難しい。正論とは限らないし、悩んでいるところに上から一方的な発言は返って反感を抱くだろう。
「勉強進めるか、見てやれなくて悪かったな」
「ううん、いいですよ
どうせテストで上手くいっても、お父さんは私のこと腫れ物扱いにするのは変わらないし」
「…」
「もう周りの陰口も慣れてきたし…
先生がしつこいから今日は来ただけ」
「なら…やめるか?」
「…」
「この勉強会が必要ないのなら正直に言ってくれ」
「そうじゃないけど…」
「その返答はいらないって言っているようなものだ」
「そ、そうじゃなくて…
先生…担任もだけど…
私のこと心配してくれて そんな人たちを蹴ったら…もう私終わりかなって」
一応と言ったところか、気を遣っていることに生徒は恩義を感じてくれていたようだ。はぐらかしつつ笑って打ち明けてくれた。
この子にとって頼れる大人はほんの一握りのようだ。数回会った程度の教師にそこまで恩を感じるとはな。
昼休みの相談の内容では、学校でも家でも居場所を失ってしまい、今日一日ずっと耐えていたらしい。
虐めを受けるのも恐らく時間の問題だと。なにせ自分の父親の栄光を恨む者が多く、その子供が同じクラスにいるようだ。
余程の権威を誇っていたのだろうが、落ちぶれてしまったようで嘲笑う輩が多いらしい。
この手の騒動に対して学校側にできることは、実質生徒の一時保護だけだ。後は適任者に預けるだけで終わってしまう。
正直心配が絶えない。この子の担任である俺の先輩も努力はしているが、本人の父親が非協力的で娘の身を案じないタイプのようだ。
仮にも、教師である俺がこの先誰かと結婚し、その娘たちと幸せを得ようとする傍らで…俺の生徒が不幸になっていたとしたら。
…遠くにいれば知ることはなかった。だが今、この生徒は俺の目の前にいる。義理を感じて恩を果たそうとする子供は笑っていた。
「えへへ…私友達いないし
上杉先生に悪いかなって思って…来たんです
だから…勉強は理由じゃなくて――」
「よし、やめよう」
「せ、先生」
生徒と関わる理由の一つ。それを捨てようとする教師に生徒は驚き困惑していた。
高校生ってのは…とても繊細な年頃だ。
中学と違い義務教育でもない、部活に励めば未来を掴めるかもしれない、バイトで金を稼ぐこともできるし、恋愛だってしたいだろう。
俺としては学業に専念するべきだと声を大にして表明したいが、高校生の頃あの人に恋して良かったと思っているのだから口が裂けても言えない。
この子にとって今欲するものは何か、教師が決めつけて良いものではない。この子の人生なのだから。
「人の顔立てなくても、俺はおまえの教師だぜ
勉強以外に大切な物だってある それも正解だ」
必要だと、手伝ってほしい、教えてほしいと手を差し伸ばされた時、力強く引き上げてみせよう。
何も間違っていないことを教師として全力で背中を押そう。憂いなく前に進めるように。
「屋上行くか、また飲み物奢ってやるよ」
「…」
「うちは貧乏なんでな、集られたらたまったもんじゃねえ
だから内緒だぜ」
「…はい」
何かが変わったわけでも、悩みが解決したわけでもない。今すぐ救われたいのに、無駄な日を過ごしていると感じるだろう。
生徒はほんの少し笑って鞄を手に取る。昼と比べて少しは気は紛れたようだ。
複雑な家庭事情に、他人である俺がそう簡単に解決に導ける程自惚れてはいないが、先生のようにはいかない歯がゆさがある。
申し訳ないなと謝罪も込めての奢りだった。屋上で缶を片手に寒空を眺めて気分転換に耽っていた。
日が暮れる頃だ。果たして今日一日、実りのあるものだっただろうか。こいつにとっても。
そんな憂いを晴らすかのように生徒は生意気な口調で教師をからかってきやがった。
あの人のような威厳は俺にはないと思い知らされたが、存外悪くない時間だった。