零奈というこの名前は嫌い。何も掴めず零してばかりだった。
私のようにはならないでください。
生まれてくる子供に希望を込めて、私は名を付けた。
一花。二乃。三玖。四葉。五月。特別なものが一つひとつ並んでいくように。
失敗ばかりの私の子供でも、手を取り合って生きていけばきっと掴めるから。
辛い時、私は子供たちの笑顔を見つめていた。似たような笑顔に隠れた、あの子たち自身の愛らしい仕草が愛おしかった。
太陽のように温かく眩しい、小さくて柔らかい無垢な指先を掴むだけで心が軽くなった。
付かず離れずにいたい宝物を壊さないように…大事に手で包んでいたつもりでした。
ですが、今は空はこんなにも暗く、重たく鈍い雨音が聞こえる。
あの頃から変わらず、私は失敗してしまいました。
ここには色味のない壁、無機質なベッド、泣き声まで憚られる無音の空間しかない。
今生きていることを教えてくれるのは、冷たい雫が垂れる無機質な窓だけ。
一人じゃないことを教えてくれるのは、小さな寝息。
私の手を取って眠る子の目元は赤く、隣のベッドには疲れ果てた四人の子が転ぶように眠っている。
「上杉君」
一向に。あれから声のない方へ卑しい気持ちが向く。私は内心脅えている。
今日この日をもって幻滅されたのではないか。私は彼に幾度も迷惑をかけてきた。
傍らに置かれた椅子に座る男性は私の元教え子。
昔…優しい子が優しさを見失い、私が泣かせてしまった。
手を取った時の彼の顔は忘れられない…思い起こせばその手を取って寄り添いたくなる。
彼の視線は私の奥にある雨に向かっている。
「ごめんなさい、迷惑をかけしました」
「いつかはこうなると分かってはいた、高校の頃から
確かに十年は持たなかったな」
「…」
眠る五月の指を掴む私の手に嫌な汗が滲む。心臓が嫌な音を立てています。
あれから約6年という年月は短いようで長かった。
彼がいなければ、私はもっと早く倒れていたことでしょう。
大学へ進学した後も、私と同じ教職に就いてからも、私と子供たちが寂しがらないよう顔を見せてくれた。
「五月は強くなりました
パニックになりながら俺に電話をかけてきたんだ
母親のあんたが倒れていても賢明だった」
「五月が…」
「…逆にあんたは弱くなり、俺たちを騙し見栄を張った
入院はともかく、何度も休めと忠告していたの覚えているか、先生」
「…ら…来年は…
来年は、この子たちは中学生なの…休んでなんかいられないわ」
「金が心配か、だが死にかけたんだぞ、あんた
あんたはもっと自分の身体に向き合うべきだった
金が残っていようが、親の命が尽きれば子供は路頭に迷うぜ」
どうやら、十歳年下の恋人から慰めの言葉は期待できないようです。
貴方は私に手厳しくなりましたね。笑ってしまったら、また怒らせてしまうのでしょう。落ち込んだ振りをする子供のように、俯くしかなかった。
小学六年生になれば、親の下を離れても良い程の自立した知恵を得ているのでしょうか。五月は静かに眠っている。
お母さん。死なないで。置いていかないで。泣きながら何度もそう呼んで起こしてくれた子供たちの声が耳に残ってる。
私は今、病院の一室で寝かされている。
理由は彼が怒っている通り。私は倒れて、娘たちに助けられた。彼のご家族を呼び出して救急車で運ばれた。
年々…身体が重く、この身が軋んで悪化していくことを感じていた。職場でも、生徒からも、家族からも、その異変を危惧されていた。
更年期でしょう、とはぐらかした時には…私が慕っている方から十年早いと睨まれてしまいました。
「私は母親になるべきではなかったのかしら」
「…」
まだ大丈夫、明日も頑張らないと。娘たちの為なら私は何だってできる。
一つひとつ繋ぎ合せていくので限界だった。そんな毎日を繰り返すと思っていましたが、今日で駄目だったようです。
こんなはずじゃなかった。私の人生は。
朝から不調だったことに、勤務先の学校にて医者にかかることを強く勧められても私は軽視していた。早退させていただいて一人帰宅したのです。
普段通りならば私は夜に帰る。昼過ぎの誰もいない、私の娘たちがいない静かな家に帰ったところで…記憶が途切れている。
我が家に帰れば働いているはずの母が倒れている。見間違いであってほしかったでしょうに、それを見た子供たちの顔を今は想像できない。
なんて酷い母親。
「…
らいはちゃんと…お父様は
もう帰ってしまいましたか…? せめて謝罪だけでも」
「…」
「…」
「…」
「いえ、あの…」
声を聞かせてほしい。
望みは虚しく。冷たく、むっとした顔で詰め寄られてしまう。顔が近すぎます…
息を切らして走って、すぐに駆けつけてくれたらいはちゃんとお父様。お二方は私の命の恩人なのです。
これまでも娘の為に数々の温情と笑顔を見せてくれた方々。
なのに彼は教えてくれそうにない。
「完治して退院するまで謝っても許さねえってよ、諦めな
あと今日らいはがあんたん家に泊まる、拒否権はない
こいつらが寂しがるからな」
「か、構いませんが…いえ、尚の事お二人に謝罪しなければ――
い、痛いです…一花じゃないんですから、よしてください」
「母親似のあいつに似て反省はしないんだろうな」
椅子から立ち上がってこちらに屈んできた彼が、両手を伸ばしてきた。
驚く暇もなく頬を抓られた。ゆっくりと触れてくる指先に反抗する意思は失せた。
上杉君が娘たちに怒っている時と同じ物です。よく一花が嬉しそうな悲鳴を上げていました。
身体は変わらず重たくだるい。腕も肌が痛むし力が入らないのです。抗う力もないのですから…虐めないで下さい。
程よく痛い。生きていると感じさせられる痛みがほんの少し視界に色を、彼の不機嫌な顔を鮮明に映し出す。
死んでいたら彼のこのような顔を拝むことはなかった。
困った人だ、と呆れている恋人に見惚れていると…気づけば彼の手で頭を抱えられ、抱きしめられていた。
「…」
「…」
静かな雨音だけが聞こえる。あとほんの少し触れれば彼の心臓の鼓動が聞こえてきそう。
温かく大きな体に守られている感覚に、つい手が彼の背中を掴んでしまった。
あの家で、揺らぐ視界の中、何かを掴もうとしても腕が上がらなかった。
普段の感覚とはまったく異なる、体が切断されたような、異物となった腕は助けを求めることすらできなかった。
呼吸の仕方がわからない恐怖があった。そのまま固くて冷たい床に倒れて、徐々に力が抜けていったことを思い出す。
死ぬかもしれないと私には諦める他なかった。後悔する間もなく意識を失ったのです。
「怖かっ…たっ…」
「ああ」
「一人は嫌です…」
死んでも死に切れない。死にたくない、まだ私には守りたい子供たちがいる。
中学生、高校生…社会人になって、誰かを愛し、愛され…花嫁になるでしょう。そして子供が生まれ母親になるかもしれない。
私の下から巣立って行く子供たちを見届けるまで私は死ねない。
こうして男性の腕の中で縮こまって脅えているのです。こんな姿が母として頼られるものでしょうか。
許されるか咎められるか。そんなものを考えさせてくれないほど上杉君は強く抱きしめてくれました。
手を離してしまっては五月を起こしてしまうかもしれない。泣きつくのは程々に…私たちは腕を下げた。
「先生
なぜあんたはそこまでする…?」
もう次はない、と彼は目で告げている。
愚問ですね、と一蹴してしまいそうな疑問。愛しているからという単純な答えはもう憚られるものになってしまった。
…天上を見上げれば、結局私は答えを見出せないまま…ここにいることを実感する。
「病院はこの子たちを産んだ頃を思い出します」
「…」
「この子たちを産むべきか、迷っていました」
あの頃と違うのは私にはあの人とは違う、心から怒り、慈しんで抱きしめてくれる男性がいること。
私のお腹に五人の子供がいると知ったあの人の顔が脳裏に焼きついている。私たちでは育て切れない、おろしてくれと頭を下げられたのも。
不必要な命なんだと決めつけられ、弱い私は一人で泣いしまった。
この子たちは始まりすら与えられないのか。零にすら至れないのか。私は何も成せない人間なの?
私は嫌だった…あの人の咎めを聞き入れず私は五人の子を産み、この腕で抱きしめた。
産んで良かったと心からそう思う。それは私の我侭。無責任にも、ろくに守れないことを知っていながら私は五つの命を抱えたのです。
実の父親から求められなかった現実があろうと、この子たちには
「どんなに泥だらけで、どれほどみすぼらしく見えたとしても
誰かに求められる、素敵な子になれる
零ではない無限の可能性を持っていると私は信じてる」
誰でもできることが、自分にはできないかもしれない。
自分ができることは、誰もができてしまう。
一人ができることは、全員ができる。
「拙いせいで、きっとその子の手は汚れてしまっているでしょう
汚らわしいと手を払う人だっています
それでも、その手を掴んで、包んでくれる人がきっといるはずです」
汚れているから手を隠してしまう。拒絶されることが怖くて黙ってしまう。優しい子が優しさを引っ込めてしまう。
それはとても悲しいことで、一生懸命に、誰かの為に費やしたものを静かに捨ててしまうの。
もし私がいなくなっても、その優しさを隠さないで生きていってほしい。そう願います。
「勝手、だな」
私の願いは、彼は賛同できないようだった。
似たような言葉でも、あの人から何度も受けた失意と戒めはなかった。
昔は萎縮して口を閉ざした。だから私は続ける。
彼に語りたい、私を知ってほしい。その意図を汲んでくれた教え子は言葉で紡いでくれた。
「努力は報われるべきだ
だが、邪魔が入らないほど甘くない」
「…」
「その手を見て笑う奴が大半だ」
「…そうですね、とても難しいことです
それでも諦めずに突き進む子がいたとしたら…?
私がその子がそう在れた理由の一つになれたとしたら
その子の人生の…唯一の、決して零ではない存在になれたとしたら」
どうしてそこまでするのか。
教えてくれたのは君だから、上杉君。
あの頃は、髪は金髪でやんちゃそうな子だったわね。
私を見上げて、私のようになりたいと望んでくれた時から。
もう一度、あの瞬間、宿った喜びを感じたい。そう願ってやまなかった。
「素敵じゃありませんか」
子供がいながら、私は子供のように、子供の頃の夢を叶えたかった。
私は変わりたい。変われる誰かに出会いたい。その人を変えられる何かになりたかった。
もう、私の夢は…叶ったのでしょうか、上杉君。
ベッドに横になりながら手を伸ばす。もう少しで届きそう。
だけれども、彼はやはり認めてくれそうにない。
再会してからそうでしたね、私たちは何度も思いを打ち明けても認められないままでいる。
「素敵だと思う…先生の夢
弱い者に寄り添い、励まして鼓舞する心配りを含んでいる
だが、現実的じゃないんだ先生…夢物語だ」
私の夢を叶えてくれると、そう願っていた子は目を伏せてしまった。
「誰だってなれるものなら一番になりたい、できるようになりたいさ
周りと比べて、今の自分でも許される安心感、妥協を許されたいんだ
他人を傷つけ陥れてでも、努力の仕方が違うだけで皆必死なんだ」
誰かに傷つけられ変わってしまった。その優しさをどこかに捨ててしまった子が私の目の前にいる。
笑ってもよかったでしょうに、彼は私の幼稚な夢を諭し、優しい声で教えてくれる。その姿に私は変わらず、力が抜けきった手を伸ばした。
娘たちが上杉君を慕うのも無理ないでしょう。
困った顔して戸惑う上杉君は、溜め息をついて私の手を握ってくれた。
「人の努力を美化するなよ
先生は愛する者に一度は裏切られた
…懲りてないのか? 俺は懲りたぜ、流石に」
「…ええ」
「…なあ先生
あんたは他人に集中しすぎなんだよ、仕事に真面目なのはいいが度が過ぎる
娘にだけ気を遣っていればいいんだ」
「私を必要としてくれるのなら、私は答えたいわ」
「生徒を含め、他人はそんな大層なものじゃない
少しは力を抜くべきだ、先生
良いことをしたって失敗すれば他人に笑われる、不出来を指摘する
色眼鏡で人を見て、理想を押し付けたって答えられない奴はいるんだぞ」
「…
貴方が救われたというのなら、私は続けます
それが、私が知る正解ですから」
貴方と出会い、求められる意味を知ることができたから、今の私がある。
娘から慕われているだけで幸せなのに欲張りにさせたのは君よ。貴方と結ばれ、こうして手を取ってくれることに幸福を感じている。
苦労もありました。失敗もありました。間違いも数え切れないほどありましたが…この一点は変える必要はないのでは。
私の手を掴んでくれる上杉君の手が緩み、解かれそうだった。
「…あんたは俺以上に、他人を見下している
自分の助けにはならないと端から決め付けて、あんたを助けたいという意思も踏み躙っている
人の醜さすらまともに見ようとしない…
俺を頼らないのは他人だからか?」
「う、上杉君、それは違います
私は貴方に頼りきりで…もうこれ以上求めて良いわけが」
「父親代わりになる約束は取り消させてもらう
あんたが男を見つけるまでの期限の間だったしな
…あんたに優しい理想の他人も、恋人も辞めだ」
「ま、待って――」
甘え過ぎた、見限られた。
不安を悟った直後浅ましく声をかけてしまう。
行かないで、と掴もうとする手が、彼の両の手で包まれていた。
見捨てられると不安に駆られていた人間には混乱するしかない。
「結婚しよう」
「…え」
見捨てられると、みっともなく泣きかけていた女には混乱するしかない。
ただ…それ以上に、彼の真剣な目に魅入ってしまい、あの時と同様に呼吸の仕方を忘れてしまった。
「え、ええええっ!?」
「…静かに頼む」
顔を赤くして、私の口元が彼の手で塞がれた。子供たちが起きてしまうかと目を配れば、安らかに眠ったままだった。
プロポーズされるとは思いもしなかった。死にかけた今日にですか、急過ぎですと文句を言ってしまいそうです。
お陰で今日は…二度も息を止められてしまいました。十歳年下の子に叫んでしまう程に余裕のない自分が憎い。
「あんたにはしばらく入院してもらう」
「!? ま、待って下さい
先程も言いましたが、この子たちは来年進学が」
「金に余裕がないのはわかっている、あんたの入院費も加われば絶望的だろう
いいか、今回あんたがぶっ倒れたのは自業自得だ」
…
プロポーズを受けて…×1とはいえ、私も女なのですよ上杉君。
舞い上がっていた気持ちが嘘のように冷めていくのがわかります。自業自得は言いすぎです。
押し黙るしかない私に上杉君は変わらず、私の手を握ったままだった。
「入院費は覚悟しろ
だが、それ以外のこいつらの学費は俺が払う
あんたが子供たちと離れ離れの間は俺が責任持って、あんたの娘を守る」
「…」
「例え、あんたが入院中…亡くなったとしても
この約束は有効とする、永遠にな」
俯いていた視界では、その時の彼の表情を見てあげられなかった。
今でも私はこの過去を悔やんでいる。
「え?」
「…」
「…上杉、君」
私は愚かで無知だった。
さっきからずっと…掴んでくれるこの手が、ほんの少しだけ震えているのになぜ気づかなかったのか。
医者からは命の危険があったと言われた身。今が助かったからと言って…この先無事に生き残る保証などありません。
逆に…今後はさらに命が危ぶまれることに目を向けるべき。
私は一命を取りとめ、娘と最愛の人に囲まれるこの空間に安心し切っていた。
「どうか約束してほしい、先生」
「…」
彼は違った。
ありえるかもしれない可能性に心を苛んでいる。愚かにも程があった。
私がもし途中で力尽きたとしても、子供たちを守り育ててくれると…彼は誓ってくれたというのに。
こんなにも私の不出来な願いに寄り添ってくれるというのに、私は自分のことばかり。
もう後がないかもしれない。思い半ばで惨めに死ぬかもしれない。
それでも私に…結婚しよう、と告白してくれた。
「あんたが退院し、この約束を守り通した時
考えてくれないか、先生」
「…わ、私は…」
「父親代わりではない、二位なんかじゃない、あんたの一番にさせてくれ」
「っ 私はこの子たちの…」
彼とは交際はしていても、将来の話は避けてきた。
貴方を慕うのは私だけではなかった。私の幼い娘たちがそう。言ってしまえば…結婚に反対されるに違いない。
私が十歳も年下の子に恋をしているのです。
娘たちにも彼と結ばれる可能性がゼロではなく、私がその芽を摘み取るわけにはいかなかった。
理性が良しとはしていない。その理性が砕かれ、溶かされていく自分の弱さと、彼の気持ちが痛いほど伝わる。
「俺にはあんたが必要なんだ
あんたに未熟者と言われたまま…変わっていないかもしれない
六年前の約束をまだ満たせていないのなら、証明し続けよう
あんたが好きなんだ、俺にとっての一番は…先生なんだ
結婚してください」
返す言葉はなく、私の答えはあの日から決まっていた。彼には勝てないと、肩を借りて泣いたあの日からわかっていた。
私の幸せが娘たちの不幸せになりえるかもしれない。言葉にならない気持ちのまま、私は最愛の男性の手を握る。
上杉君が、風太郎君が心のままに告白してくれた。なら私も親としての見栄は、今は手放して伝えるべきだ。
「上杉君」
「はい」
「どうか、一緒にいてください…」
君ほど、好きな人を喜ばせる言葉を口にはできないけれど、本心を知って欲しい。
貴方にはこれから先、私なんかよりも素晴らしい女性に出会えるでしょう。恋をして、結ばれて、貴方を幸せにしてくれる方がいるはずです。
その機会を摘み取って独り占めしたい。口には到底できない気持ちを、伝えてもいいのでしょうか。
私の手を掴む人が愛しくて仕方ない。掴む手を引いて、抱き寄せたかった。
「中野さん、起きていますか」
雨音しかなかった外界から、ドアを叩く音が重なる。恐らく看護士でしょう。
ぱっと手を離して、ドアを開かれる前にはお互いに距離を取る。
ドキドキと喜びと緊張で高鳴っている心臓の鼓動は収まりそうになく、彼に背を向けて布団を被った。
大きく身動きを取れば隣で寝ている五月が起きるのは当然。五月が起き出したところで上杉君は隣のベッドで眠る四人も起こした。
「面会時間、過ぎてますよね」
「ええ…申し訳ありませんが、また明日お越しください」
もう少し子供たちの寝顔を見ていたかったのですが、もう終わりのようです。
寂しい気持ちがないわけではありませんが、今は彼がくれた温かい気持ちから、娘たちを笑って見送れそうです。
もう心配しなくても大丈夫よ。こちらに集まってくる五人の娘を一人ひとり抱きしめた。
「お母さん、もう嘘はダメだからね」
「ママ、前にも言ったじゃない…もっと私たちを頼ってって」
「お母さんに親孝行するって決めてるんだから…お願いだから、無理しないで」
「お母さん…もっと頑張るから、お願いだから…」
母の腕から離れて行ってしまうことを恐れていた私には…娘のその言葉に涙が滲んでしまいそうだった。
もう一度だけでいい。もう一度頑張るから、私に子供たちを見守る機会をください。
「お、お母さん…ごめんなさい、私寝ちゃって」
「…五月、今日は疲れさせてしまってごめんなさい
良い夢を見てね、五月…もう怖いことなんてないのだから」
「…はい…」
「…
上杉君、どうか私の娘たちをお願いします」
「…それは、約束してくれると受けていいんだな?」
「はい」
「…んー? フータロー君、お母さんと何話してたの?」
「おまえらの世話が死ぬ程大変だって話、相談だ」
「私たちが寝ている横でそんな…ん?
もしかしてフー君、お母さんが入院してる間」
「…フータロー、一緒にいてくれるの?」
「ほんと…? 上杉さん、一緒に暮らしてくれるの?」
「…おまえらを放っておけるわけないだろ」
「ぅ、ぐす…うぇえええぅっ おにいちゃぁあああああんっ!!」
「五月…おまえ
また泣くのか、脱水で干からびるぞ」
大好きなお兄ちゃんが私の代わりにお世話をしてくれると知って、娘たちは彼の手を取りお礼を伝える。
五月は寂しさを覚悟していたようで、ひしっと抱きついて上杉君の優しさに大泣きしてしまった。私のせいよね…ごめんなさい。
また明日。そう手を振って…私はこの世で一番大切なものを見送り、ドアは閉じられた。
騒がしい声も徐々に聞こえなくなっていく。
…やはり、一人は寂しいわ。
「…すみません、騒がしかったでしょう」
「…厳しいことを言いますが、これだけ騒がしくなる程大切なご家族がいるのなら
もっと自分の体と向き合わないといけませんよ」
「…」
過労で倒れた身。この身を案じてくれる者がいながら、理由のない決め付けから事態を軽視してきた罰が下った。
過労で亡くなる方の大半が私のように自身を労わらず、毎日命をすり減らしている方ばかりだと聞かされた。なぜなら…働かないといけないから。
世の中そう甘くはない。彼が私の夢を冷めた言葉で諭したのも当然で…思うようにならないことばかり。
まだ小さい娘がいる母として、恐らく同じ子を持つ女性であろうこの看護士にとって、認め難いものなのかもしれない。頭が下がる思いだった。
気落ちした私に、優しい声音で教えてくれた。
「…ずっと手を握ってらしたんですよ」
「…?」
「彼、婚約者…かしら
貴方が運ばれてね、ここにいらしてから…眠っている間ずっと
…お子さんと妹さんを励まして、気丈な方よね」
「…」
「大切に思ってくれる人を悲しませてはいけませんよ
置いていかれた人は、ずっと抱えて生きていくんですから」
「…はい」
教えてはくれなかった彼の控えめな愛情を知って、手の平を見つめた。
起きた頃には娘たちと、らいはちゃんとお父様、上杉君に囲まれて気づかなかった。
一緒にいてくれたのですね。そんな安心感から彼と結ばれたいという我侭をより一層強く、にやけてしまう程に願わずにいられなかった。
以前…最愛の人に向けて、もっと自分の体を大事にしろと怒ったことがある。
ぶっ倒れた時には自業自得だと手酷く突き放したこともある。偉そうに上から目線で、年上であり恩師を罵倒したのだ。
社会人になれば学生と違って仕事が生活の基本になる。学生とて自由時間があるとは限らないのだが、責任が薄い分気楽なものだ。
責任である。仕事を担い、代価として給料を得ている以上責任は付き纏ってくる。決して軽いものではない。
だから無茶をして体に鞭を打ってでも働かざるを得ない。しがない社会人は必死に金銭を稼ぐしか生きる術を持っていない。
例え朝から不調を感じても、働かなければならない。家族を養うのなら気楽に休めないだろう。いや、休めと言ってやりたいんだが…あの人は頑固者だ。
休めばいいんだ、どうせ悪化して後日倒れるんだから。仕事も効率が落ちるし他人に感染などしたら自業自得では済まされない、加害者になるのだから。
休めばいい。そうわかっていても、男には引けない場面がある。
「あの…上杉先生? 本当に大丈夫ですか?」
「も、問題はありません…」
「…明らかに午前よりも顔色が悪くなっていますよ
遅刻したのも具合が悪かったからでは?」
「…決して酔っているわけでは…」
「はい? え、飲んだのですか?」
「あ? いえっ!
違います、飲むわけないです、昨日も飲んでません、もう飲みません」
「い、いや別にプライベートで飲むなとは言ってませんよ
朝に飲むのは勿論論外ですが」
「飲んでません…すみません、今のは忘れてください」
「重症じゃないですか…」
頭が回っていない。職員室で頼まれた書類の作成に取り組んでいるのだが、先輩の気遣いに手が止まってしまった。
体調が悪い。寒気がするし、頭は痛いし、肌も痛い、だるい。完全に風邪をひいてしまっている。
今朝は先生の家で寝泊りしていたこともあって、遅刻して出勤してきたのだ。理由は…馬鹿正直に言っていいものではなく…四葉を除く一家全員に押し潰されていたせいだ。
それだけならまだ良かったのだが…掛け布団をひん剥かれて寝ていたのがまずかったようだ。加えて酒が入っていたこともあって、体が冷えてしまったようで。
ここまで来ると嫌でも自覚してしまう。この不始末、誰のせいか。
(昨晩飲みに行って、女と夜の街を歩いた挙句終電を逃し、恋人の家に押しかけて泊まったら風邪をひいたって…言えるわけがねえ…)
断じて認められない。こんな理由で休むことは教師を目指した自分のプライドが許さない。というか先生にも知られたくない…かっこ悪すぎだろ俺。
別の意味で頭が痛くなってくるので仕事に集中する。咳が出ていないのが幸いだった。誰かに移す前に仕事を終わらせて帰るべきだ。
自己管理を徹底しろと先生に言った言葉が自分に返ってきている。案外、体調管理とは難しいものだ。誰だって風邪をひきたくてひいているわけじゃない。
グロッキーになっているところに、職員室のドアがガタンッ!と乱暴な音を立てて開かれた。気に留めず集中していたかったが足音がこっちに向かっていやがる。
「ちーっす、フーセンいるか?」
「…」
「な、何だよ、そこまで睨むかっ!?」
「職員室は静かにしろ、普通にうるさい」
「黒田君、上杉先生に用かい?
今手が離せなくてね、僕で良かったら」
「用っつーか…」
黒田と呼ばれたこの男子生徒は昨日、自習室にやってきたやんごとなき不良生徒だ。この御曹司とお嬢様の多い学校には珍しい生徒で、全教員が知っている。
スポーツ推薦で入学してきたようだが、陸上で鍛えてきた足は靭帯断裂で今は満足に走れない。スボンの上からでは見て取れないがギプスで固定され、その足はスリッパを履いている。
その上制服は着崩して着ており、もう冬も近いのにシャツの前は大きく開いている。生徒指導の顧問が見る前に早く帰れ。
不良生徒は放課後なんかに好んで職員室に近づかないと思っていたのだがな。何の用か問うと要領を得ないような渋い顔をされた。
「昨日一緒にいた奴、あの黒髪の
3組の教室で言い争いしてたぜ…つーか虐めだな、あれ」
「なに?」
「ぼ、僕いきますっ ありがとね黒田君」
黒髪の…いや、虐めというワードから連想されてしまう生徒がいる。
先輩は担任としてすぐさま職員室を出て行った。まだ教室に残っているのか…早計というか、真面目というか。
俺もすぐさま追いかけるべきなのだろう。だがその前に聞いておきたい。
「おまえは止めたのか?」
「は? あー…なんかうるせえからこう、思いっきりドアを蹴ってな」
「足を労われ、ドアを蹴るな
それで?」
「いや、ちょっと絡んだら解散しちまった
あいつも行っちまったし、よくわかんねえ」
「…止めてくれたのか、悪いな」
「いや、よくねえよ
あいつ水浸しだったんだぜ?
水をかけられたんだよ、バケツで思いっきり…昭和かよってんだ」
「…」
「どこ行ったのか知らねえけど、俺が濡れた床掃除したんだぜ!? 先公には俺がやったとか思われたしよぉ!
マジでふざけてやがる、今度見たらあのブサイク共の顔面ぶん殴るぜ、いいよなぁ!? 思い出すだけでむかつくぜ!
お嬢様には雑巾は初めてってんなら、バケツの綺麗な使い方まで一から全部教えて――」
「わかった、うるさい、助かった、もう帰っていいぞ」
「てめえフーセン!! それが教師の態度か!?
…まあ、俺も礼を言われたくてやったわけじゃねえ
先公ならどうにかしろよな、ニュースで自殺とか見たくねえからな」
「わかっている、おまえの苦労を無駄にはしない」
あいつのことだと…濡れたまま帰ったんだろうな。風邪ひいてないだろうな…
黒田に礼を言いつつ職員室を出て、携帯を手に取る。有事の際に呼べ、と連絡先を交換してあるが…やはり電話には出なかった。
虐められ傷ついた時、手はきつく握り締められたままだろう。誰かの手を取れる程の余裕はない。痛みに必死に耐えているのだから。
虐めを受けた女子生徒を優しく慰める言葉は俺は知らない。デリカシーないと妹によく咎められる身だ。返って失敗する可能性のほうが高い。
「しつこいな…なに、先生」
何度目かのコールで電話に応じてくれた。しつこい男は嫌われると云うが、しつこいなりの理由があることを考えてもらいたい。
水をかけられたのか。なぜ助けを求めなかったのか。一方的に暴くことはできる、この子はきっと答えるだろう。
惨めに追いやられた気持ちを汲めば、触れるべきではないのかもしれない。時間を置くべきなのか、すぐさま声をかけるべきなのか、答えはわからない。
「不良生徒が代わりに床を掃除したそうだ
…礼ぐらい言っておいてやったほうがいいんじゃないか」
「…あいつが、すぐに行けって言うから」
「?」
「上着、貸してくれたから…明日お礼言うつもりだった
というか先生が知ってるってことは…あいつ、言ったの? やっぱ空気読めない奴」
「…野暮だったな、すまん」
「何のこと?」
「遠すぎたらこうはならなかったってことだ」
どうやらあの不良男子、冬だというのにブレザーがないと思ったらびしょ濡れになった女子に貸したようだ。かっこつけやがって。
今回の件を考えれば、もう猶予はないと判断するべきだ。学校側がどこまで関与するべきなのか、本来ならご家族と検討したいところだが…できないでいる。
だがほんの少しだけ幸いなのは、電話から聞こえる声はそう落ち込んだものではなく…人の優しさを垣間見た生徒は今日この日を悲観はしていない様子だった。
もしかしたら何かが変わってくれるんじゃないか。俺がよく知る苦悩する生徒たちが手を取り合って学校生活を楽しんでいる姿を思い浮かべた時、無性に嬉しさが溢れて隠すのに苦労した。
一方で、生徒の変化に一喜一憂しているだけでは教師として不適格だと言わざるを得ない。
「それ以前に…酒と女絡みで体調を悪化させた時点で社会人失格だ」
水を被ったわけでもないのに風邪をひいている馬鹿がいるぞ。体調悪いならとっとと帰れと学年主任に背中を叩かれた帰路の途中だ。ついでに風邪薬も渡された。
このような痴態、教え導かなければならない教え子たちにも、娘になるはずのあの五つ子たちに言えるわけがない。ついでに過去に説教かました先生に対しても。
乾いた笑い声しか上がりそうにない…昨日の行いを後悔してもし切れない。竹林が絡んでこなければこんな惨めな思いをせずに済んだんだがな…!
「私は風太郎が間違っていたとは思わない」
竹林が教えてくれた言葉を思い出す。なんともタイムリーな奴だと呆れてしまう。
「虐められても一人でいる強さって、あると思うな
助けを呼べって言うのは簡単だけど…難しいじゃん」
わかってはいる。だが竹林、教師ならば頼れと言うしかないだろう。教師でなくても誰かに頼り助けを求めるべきだ。
…俺、おまえにそれは不要だと言ったんだったな。なんということだ…俺は自分で自分の首を絞めている。果たして何が正解なのだろうか。
…どのみち、所詮は他人なのだから。こちらから手を差し伸べても掴めないんだ。望んでいたとしても身を守るので精一杯な子に声は届きづらい。
一人でいる強さは確かにある。だが開き直って諦観するわけにはいかない。さじ加減が難しいんだと、教師側に立って思い知った。
だが…今は休むべきか。家に着いたところで汗だくで、ベッドに突っ伏して一休みするしかなかった。
幸いにも今日は金曜日。明日は休みだ。土日を活用して風邪を完治させないといけない。
普段なら週末の土日は先生と五つ子と顔を合わせることが多い。だが今回はよしておこう。風邪を移すわけにはいかない。
気が進まないが先生に連絡を入れることにする。前日酒を飲んで竹林に会っていたことを知っている恋人にだ。
その手前、携帯が震える。画面ではらいはからの着信を知らせていた。
お兄ちゃん、こっちのほうが気が進まない。身内相手に渋い顔をしているだろう。
「お兄ちゃん、お願い! 勉強教えてー!」
「…」
「ほら、昨日のお昼覚えてるかなー?
妹がこうして頼んでるんだから、ね?
土日のどっちかでいいから、ご飯ご馳走してあげるからさ、お兄ちゃん」
先日、欲しい物はあるかと聞いて、何もないと笑って答えた妹が甘えた声で強請っている。情を振りまいた兄は頷く他なかった。
しかし、これはある意味俺の高校時代の選択が正しかったと妹に証明させた瞬間でもある。やはり学業を重視してこそ学校生活なのである。
友達いないなんて寂しい高校生活だったと文句を言われた身だ。今が下克上の時だ。
「ふ…はっはっはっは!!
ほら見たことかっ! 他人様の心配するより先に自分の心配をしろってんだ!
やっぱり青春とか恋愛よりも勉強が一番ってことだ、俺の勝ちだな――うぇ、げほっ!こほっ!」
「あれ、お、お兄ちゃん風邪? なんか声枯れてるし…大丈夫っ?」
「やべ…っ 調子乗りすぎたか」
「…」
「…」
「お兄ちゃん?
昨日の話覚えてるよね?」
らいはの甘えた声が消え、不服ながら馴染みのある呆れた声が上がってきた。用が済んだのなら電話切っていいか。
昨日の話と言われても、勉強しろって話じゃなかったっけ。
「こらー!!
ご飯抜いて仕事ばかりして、夜はお酒飲んで、次の日には風邪ひいて…お馬鹿ぁ!
見損なったよ! ちょっと土日こっちに帰ってきなさい! 監禁だよ監禁!」
「説教はお断りだ…これは不幸が重なった結果であってな、俺は悪くない」
「もー! 妹から説教されるくらいだらしないお兄ちゃんが悪いんでしょー!!」
ごもっともな指摘だ。だが兄を実家に拘束しないでもらいたい。面目丸潰れにされちまう。
これは宥めるのに苦労すると思いきや、らいはの勢いはすぐに鎮まってしまった。
「らいは?」
「…お兄ちゃん無理してない?
零奈さんみたいに…倒れたりしちゃダメだよ?
お兄ちゃん一人なんだから…誰も気づけないよ…」
「こ、怖いことを言ってくれるな
至って健康だ、心配するな」
「…
早く結婚しなさい
というか、高校生で教師との禁断の恋に走った人に勝てるわけないし」
「そこに無理矢理繋げるな!?」
「三玖ちゃんと五月ちゃんから聞いてるんだからね
お兄ちゃん甘えん坊筆頭な子たちで手強いけど、ちゃんと話してあげてね」
「…あいつら、どうしてる?」
「元気ないというか、皆声を揃えて原因はお兄ちゃんだって怒ってたよ
姉妹喧嘩も多いし…軽く家庭内崩壊?」
「…」
「私も協力するから、頑張ろう?」
「…く…っ!!
今は優しくしないでくれ」
「どしたの急に…」
遠回しに兄の不甲斐なさを指摘されてぐうの音も出ない。おまえは俺のお袋かっ! 十も年上の彼女がいるとそこらへん非常に複雑なんだよ!
らいはとの会話では必然と中野家が関わってくるこの流れに溜め息が出てしまう。女の連帯感に野朗一人では対抗できそうにない。
妹に心配かけてはいけないだろう。こればかりは猛省しなければ。らいはは高校生になって逞しくなったが、やはりその分俺や親父に対して過保護気味だ。
五つ子と昔のように遊ぶ仲に戻ってから憂いは晴れるかと思いきや、兄の不甲斐なさが目立ってぶり返してしまったようだ。これには親父からも怒られそうだ。
零奈さんとちゃんと連絡取るように! と最後にお節介を焼かれて電話は切られる。しようとしたところなのに…やる気を削がれてしまうぞ。
らいはの言う通り、三玖と五月…二人だけではない、手を取ってくれた四葉を除く四人と話をしなければならない。今朝は四葉に助けを求めてもそっぽ向かれたが深く考えないでおく。
げんなりした気分が拭えないまま、肝心の思い人に連絡を取る。
…
重ねて言うが、前日酒を飲んで竹林に会っていたことを知っている恋人にだ。この時点で嫌な予感しかしない。相手は恩師だぞ。
「自業自得ね」
「…」
どうやら、十歳年上の恋人から慰めの言葉は期待できないようだ。
「体調管理ぐらい自分でなさい
子供ですか」
「…鬼教師」
「私の知る鬼教師は、愛の告白した直後に冷めきった目を挟む方ですね
私自ら語るのは心苦しいのですが…どなたか教えて差し上げあげましょうか、上杉君」
「いいえ結構です」
「遠慮なさらずに、胸の内に秘めたままではもったいないもの」
「勘弁して下さい」
聞き間違いだと嬉しいのですが…言葉の棘が太すぎるぞ先生。そいつ知ってますし、他に該当者がいたとしたら困るんですけど。
過去の言葉を撤回して先生を誠心誠意慰めてやりたかった。気恥ずかしかったんだから仕方ないだろ…。
だがそれは別として、朝あんたに泣きつかれ、もとい押し潰された恨みは忘れないからな。遅刻した原因はあんたにある。顔が近すぎて無駄に緊張させられたんだからな。
「冗談はここまでにしておきましょう
あなたが風邪とは珍しいですね…よろしかったら明日そちらへ向かいますよ」
「いえ、そこまで子供扱いしないでくれ
一日寝ていれば治る」
「…交際しているのなら看病ぐらいしに行くわ
貴方は私の断りなく見舞いに来ていたでしょう」
「許可は子供たちから貰った、言いがかりだ」
「…卑怯者」
「風邪が移るから来るなっつーの」
「…
思えば、恋人らしいことができないまま…結婚することになるのかしら、私たち」
「恋人らしいこと、ね…
俺たちほとんど電話もしないしな…変だと思うか、先生」
「すみません、そういった類の知識は私も疎いので」
「…確かに先生とはイメージがかけ離れているな」
「…私の学生時代でも電話ぐらいありましたが?」
「そっちのイメージではありません…人聞きの悪い」
一人でいるこの部屋で、やはり先生の声が聞こえるのはどこか安心感がある。思えばあの家を出てから体調を崩すのは今日が始めてか。
体調を崩せば市販役とはいえ高い金払って薬を飲まなきゃいけねえし、バイトもできなかったからな…病には気を遣っていたはずなんだ。
「…雨で濡れてしまったせいでしょう、私が誘ったから」
先生の言葉に合点がいく、確かに秋の雨の日にずぶ濡れになれば体調を崩すか。後に夜更かしもしたし…原因がわかった気がする。
電話から聞こえる声はややか細く、頭痛がする頭では考えがまとまらないが、先生には暗い顔をさせたくはなかった。
「あんたと一緒なら濡れたって構わない
その、青臭いこと言うが…あんたに叱られてほっとした…嬉しかった」
「…」
「これ以上は甘えると羞恥で死にそうだ
だから、来られたら困る」
「…難儀な方ですね
私とのデートでは毎日濡れるつもり?」
「黙って察してくれ」
「わかりました、仕方ありませんね
何かあったらすぐに連絡をください」
「ええ…助かります」
俺とそう恋愛経験はない、と物腰が低かった恩師が随分とご機嫌な様で。俺は電話越しに何を話しているんだ…
今週は会えそうにない。用件を伝え終えてしまってはこれ以上長話する必要もなくなった。
電話を切るのはいいが、タイミングが掴みづらい。この人は些細なことも気にかけて落ち込んでしまいそうだ。後非常に根に持ちやすい。
恋仲でも他人行儀な面が多い俺たちは最後まで堅苦しい挨拶で通話を切るだろう。
「また明日電話します、お大事に」
「はい、先生も休日は休んでくださいよ」
「…」
「…? 先生?」
「ごめんなさい
やはり…寂しいわね、会えないなんて
…愛しています、風太郎君」
「…」
「おやすみなさい、良い夢を」
堅苦しさが溶けた優しい声音だった。通話が切られ、雑音を耳にする前に俺も携帯を放り投げた。
子供に譲りがちな人からの声が頭痛と合間を回ってリフレインされている。
まだ夕飯も風呂も入っていないのにベッドに横になってしまう。
「熱が上がっちまうだろうが…
来るなって伝えて正解だったな」
恋愛など愚かだと言い続けた男の末路がこの有り様だ。せめて顔を見て言って欲しかったと強請ってしまうのは強欲だろうか。
男なら愛の言葉ぐらい返してやればよかった。くだらない後悔に悶々としながら眠りについた。