カラン、カランとベルの音が。耳にこびりついていた音が心地良く鳴った。
「いらっしゃいませ
クリスマスケーキのご購入ですか? 店内で召し上がられますか?」
「店内で」
「何名様ですか?」
「一人です」
「聖夜のケーキ屋に男の人が一人ですか、畏まりました!」
「…失礼極まりない店員だな、店長に頼んでクビにしてもらおう」
REVIVALという看板が立つケーキ屋に来店した直後、軽いジャブをかませてきた妹から熱烈な歓迎を受けた。
思春期の女子高生にとって、バイト中に身内が来たと知れば顔も見たくないだろうよ。
わかる、わかるぞその気持ち。俺の場合は血縁のないチビっ子五人に対してだったけど。
「可愛い妹のちょっとしたお茶目だよ
というか何しにきたのさー ケーキ買うなら予め予約してよね」
「冷やかし――ごほん、年一多忙な日に働く妹を労ってやろうかと思って来たのに
混んでる割に余裕あるじゃねえか、お兄ちゃん安心した」
「わーありがと もう帰っていいよ」
「いらっしゃい、上杉君」
12月24日。本日は町中が色鮮やかな装飾で賑わうクリスマスイブ。
ケーキやチキンを買って、友人や家族と食卓を囲って、子供は一年に一度のクリスマスプレゼントを願って、恋人同士は…理由さえ見つければ飛びついて惚気るだけの平常運転。
カウンターの前から、学生時代からよく知る店長が顔を出してメニュー表を渡してきた。ま、また手伝えとか言うんじゃ…
「生憎、満席
コーヒーで一服するのに30分は待つ、テイクアウトを勧めるよ
今年は中野さんから予約を貰えなかったんだけど、君が買いに来る予定だったのかい」
「いや妹が…女子高生がせっかくのクリスマスに働いていると知って五つ子が同情して
今年はなしの方針だったんです」
「何だ、らいはちゃんのせいか」
「わ、私のせいっ!?
なんか最近よそよそしいなーって思ってたけど、そんな理由!?
クリスマスに働いて悪いかー! 寂しくないからねー! ねー店長!」
「僕は明日のクリスマス当日に奥さんとデートだから、寂しい人にカウントしないでね」
「あ、明日私フルでシフト入ってるのに…
…もうさ、五人が高校生になっても彼氏いなかったら笑ってやるもんね…彼氏見せびらかしてやるもん」
「それまでできるといいな、応援している
俺は学生の頃にはいたけど」
「冷やかしは帰れ~!」
気にしている部分だったのか、らいはの態度は案外素っ気なかった。俺と親父がいる以上、彼氏のハードルは非常に高いからな。
冷やかしではない証拠に、受け取ったメニューから適当にケーキを選んで店長に返した。結局、中野家は今年もこの店でクリスマスケーキを買うことになる。
先生のパンケーキもあるんだ。追加でホールケーキを買うなんて贅沢の極み。末っ子が一日で完食しちまうので一家が胃もたれに苦しむ心配はない。
フロアのテーブルは満席、ドアベルは人の行き来で鳴り続く。レジ前はケーキの持ち帰り客で並んでいる。どう見ても俺が働いていた当時よりも客が増えてる。
忙しいが、それなりに充実した時間を過ごせているようで。らいはは兄の冷やかしに元気が余る程明るく返してきた。
レジ待ちの列に並び、ケーキを一つ買った。甘い物が苦手な三玖でも食べれる、四葉の好きな蜜柑も沢山乗ったフルーツケーキを。
「メリークリスマス!」
「…あいつらにも言っておく」
「うんっ!
零奈さんにもよろしく伝えてね」
明るい声で見送られてケーキ屋を出ると、12月の寒さが身に染みる。ケーキが傾かないように気をつけて歩いていく。
19時を過ぎた頃、真っ暗な夜空には星は見えず、クリスマスムード一色の商店街は眩しい。道中はやはり男女のカップルが多かった。
学生も21時を過ぎて遊び倒すことが多い日だ。小学生ですらクラスメイトが集まって飲食店で祝うこともある。
学生時代のクリスマス、先生と五つ子と過ごすことは多かったがクラス内の打ち上げには参加しなかったな。唯一誘われた高校3年のクリスマスも断ったんだ。
先生はそれを知って申し訳なさから落ち込んでいた。なぜかと言えば、俺が不在になると三玖が泣くからだ。甘い物が苦手なあいつには楽しみが殆どなかったらしい。
他者とは疎遠になったあの選択を後悔はしていない。
だが一生に一度しかなかったんだ、俺も今では勿体無かったと――
「あ、上杉君じゃん」
「あ? おーマジだ おい上杉ー!」
「…」
地元のケーキ屋の近くだ。そのケーキ屋もすこぶる有名になったわけで、知人に出くわす可能性は高いと知っていた。
聞き覚えのある声と掴まれた肩に振り向く。
「おいコラ、無視か
それケーキだろ、一花ちゃんにあげるんだろ?
ならそんな辛気臭い顔してないで、もっと笑ってみろってんだ」
「相変わらず一花気に入ってるんだな、嫁に刺されるぞ」
「刺しても馬鹿は治らないし
あ~、小学生に旦那取られるとかマジ泣くわ」
「い、いや、そんなんじゃねーよッ
あんな良い子いねーだろ普通」
もう慣れたと言いたげに、女の方は大げさに肩を竦めて苦笑している。
友人と呼べるのか定かではない、数少ない…クラスメイト相手に寒さで固まっていた身が少しほぐれた。
結婚式以来か。やはりこの関係はいまいち分からない。
「…久しぶりだな、前田、松井」
「それは元だってば、今は私も前田」
「へっ 元気そうじゃねえか上杉」
高校3年のクラスメイト。前田と、彼の妻になった松井。数年前に結婚した二人だ。
確か…子を身篭っていると聞いた。酒の席で竹林から。
俺の視線に二人は察したようだ。松井は苦笑して自分の腹部を優しく撫でた。
松井のお腹には小さな命が眠っている。妊娠したそのお腹を撫でるクラスメイトの表情はこの場の誰よりも大人びて見えた。
同級生が一児の親になる。感慨深い光景だ。
「ほんと生活しんどくてさ、お正月まで実家帰りだから楽させてもらってる
まあ今日は…せっかくのクリスマスだし、ただ家でのんびりするよりかは、ね」
「なるほど、今は束の間のデートか
邪魔しちゃ悪いし退散するわ」
「うっせ…って、待てよ
おまえこそ中野先生とはどうなんだよ」
「…ご覧の通り一緒にケーキ食う予定だ、子供たちも一緒に」
「相変わらずゾッコンってわけね
中野先生ねー、子供がいながら十歳年下の男と交際か
お金持ちとは正反対だし、中野先生だからできるんだろうなー」
「そういや俺、退院祝いしてなかった
…上杉、ちょっとここで待っててくれ」
「手荷物が増える、おまえが直接渡せよ
先生も昔の教え子に会いたいはずだ、その内顔見せてやってくれ
父親になると知ったら、あの人喜ぶはずだ」
「お、おう、そうか…
父親か…まだ実感ねーな」
同意、と言いたげに二人は顔を見合わせた。
この二人とは結婚式以来の再会であり、結婚式の前田の祝辞を勤めてスピーチをしたことがある。
何で俺なんかに。そう理由を尋ねれば、交際するきっかけをくれたのが俺だから、それが理由だったらしい。高校3年の思い出を色濃く思い出させるもので青臭く感じてしまう。
寒空の下で少し立ち話をすることになった。思い出を語れば時間はあっという間に過ぎてしまいそうだった。
「今日は冷える、楽しむのもいいが奥さんと子供が第一だぜ」
「余計なお世話だ、そんくらい分かってるつーの」
「ご忠告どうもー」
男二人なら気を遣うこともなかったが、俺の手にはケーキがあるし、もう一人のクラスメイトとその赤子を考えると潮時だった。
お開きの合図となり解散する。
次会うのはいつになるのか、数年後になるのか定かではない。結婚式には呼べと口酸っぱく言われたが。
仕返しに前田にスピーチを頼んでやるか。そう笑い飛ばしてお互いに背を向けて別れる。
…二人から声をかけてくれたんだ。振り返り、歩み寄ってまで。
「二人共」
「あ?」
「ん?」
二人の夫婦は肩を寄せ合っていた。昔は手を繋ぐまでにじれったい思いをさせられた。
お互いに手を結んで、なんてことのない日常に幸せを感じているのなら。
良かったな、そう心から祝福をしたくなる。
「…おめでとう」
…らしくない。ああらしくない。
「…おう」
「それ、結婚式でも聞いた
ありがとね 今度お茶でもしようね」
二人は手を振って返した。それを最後に今度こそ背を向けて別れた。
明るい光景を背に静かな住宅街へ向かう。
少しして…もう一度振り返った。
遠い先に小さな二人が見えた。
松井が前田をからかっているように見えた。照れて恥ずかしがっていることを嫁に看破されたようだ。ご愁傷様だな。
次会う時はいつになるのか。別に会えたからって特別な日にはならないだろう。
だが一つ言えるのは。
友達の幸福を願う時きっといつかまた会える。そんな気持ちになりながら恋人の元へ向かった。
中野家のアパートで、五つ子は自宅でクリスマスを祝うと聞いていた。
ケーキを片手にその家の敷居を跨いだら、クリスマスパーティの会場となる小さな家の明かりは思っていたよりも暗かった。
「静かだな」
「ごめんなさい、娘たちはクラスの打ち上げに参加しています」
「ん? 今日は家にいるって話じゃなかったか?」
「お友達のご家族の方が帰りに送ってあげるから、とクリスマス会に誘ってくれたそうです
無碍にするのも申し訳なかったのでしょうね」
「とうとう今年で振られたか
まあ小学校最後だしな、良い思い出になるんじゃないか」
小学校の友人は中学校でも続くことが多いが、そうではない人もいる。あの子たちにも事情があるのだろう。
急な予定変更に、本来豪華な装飾で飾られるはずの室内にクリスマスの色はなかった。子供たちがいないのなら仕方ない、ツリーがあるだけ十分だ。
買ってきたケーキを冷蔵庫にしまう。サプライズのつもりだったがメンバーの大半が不参加となると喜びよりも申し訳なさが勝る。先生は頭を下げていた。
冷蔵庫の中には今日の為に買った食材がぎっしりと詰まっていた。果たして今日これを消化できるのだろうか。
静かな家で先生は一人で洗濯物をたたんでいた。
…帰ってきてまだ間もないんだろう。淡々と無言で取り組んでいた。
「…あの、先生」
「落ち込んでなんかいません」
「無理ある」
冷えてしまった洗濯物をたたむ恩師の背中は哀愁が漂っていた。
元より娘と一緒に過ごすって話だったしな、落胆の度合いが高いのも仕方ない。
パンケーキ、作るのに張り切っていたんだ。二乃から好きだと言われて、内心嬉しかったに違いない。
今は待つしかないが、帰ってきたら温かく出迎えてやればいい。
先生が一通り作業を終えて、こたつに座ったところで話を振った。待っている間の話のネタには困っていなかった。
「途中、前田と松井に会った
妊娠していてな、寒い中デートを楽しんでいた
すっかり外はクリスマスムードって奴」
「…教え子が親になるというのは、やはり嬉しいものですね
実は、松井さんは私が入院中に一度お見舞いに来てくれたのです」
「え…そういえば、竹林とも入院中会っていたらしいな、あんた」
「ええ、子供が生まれ母になることに不安がある、と松井さんから相談を受けました」
「五人も育てたんだからな、教えを請うには適任だ」
「松井さんには前田君がいます
貴方が好きになった男性を信じて、甘えてみなさいと伝えました
…旦那が頼りにならない、と一刀両断されたわ」
「前田…」
奥さんからしたら旦那は頼りなく見えるものなのだろうか。俺も注意するべきか。
教え子の話題に恩師は頬を綻ばせていた。
俺もあんたのように、自分の教え子に対してそんな風に笑えるだろうか。少し憧れた。
しばらくこたつで温まっていたが、五つ子は帰ってはこなかった。
…いつ帰ってくるんだ。暇なら二人で飯作っちまおうぜ、腹減った。
「連絡取らないの?」
「…邪魔してはいけませんし」
…仕方なく、意地を張る先生に代わって五つ子の携帯にメールを送る。友人のご家族が一緒なんだから、その人から連絡が来る予定なのかもしれない。
メールの返信は早かった。
というか電話がかかってきた。応答すると、五分の一の確率は一花だった。
「フータロー君、もう来てるの?」
「ああ、後はおまえら待ち
こっちはこっちで適当に食ってるからよ
ケーキ買ってきたんだ、帰ったら一緒に食おうぜ」
「ちょ、ちょっと待ったぁ!
私たちあまり食べてないから! ご飯残しといてね!!」
「食べてくるんじゃなかったのか?
金払った分食ってこいよ」
「えーと…ほら、こういうのって気を遣うじゃん?
私も皆もお腹いっぱいにはなれないよ」
「そういうものですか」
「そういうものなのです」
新社会人の歓迎会か何かの心境だぞそれ。満腹では帰れないので夕食を一緒に食べたいとのことだった。
楽しめているのなら良いのだが…二乃と三玖から愚痴が飛んできそうだ。俺と先生が愚痴を言い合う前に娘たちの不満を聞くはめになりそうだ。
「だからお母さんにも伝えておいてね?
やっぱりクリスマスは家で過ごすのが一番だよ」
「家で怠けたいだけのくせに…わかった」
外では仮面を被っているに違いない長女は妹の他にも、友達にお節介を焼いているんだろう。楽なもの限定で。
見抜かれたことに一花は笑っていた。が、その声のトーンがやや落ちた。
「ちなみに…
五月ちゃん、そっちにいる?」
「五月? いや
あいつこそ、食い意地張って満腹だろ」
「五月ちゃん途中で抜けちゃったんだよ
三玖と四葉が一緒に帰ろうとしても断られちゃって…そっちにいないの?」
「…何時頃の話だ」
「うーん、30分ぐらい前かな
もうそろそろ帰ってるはずなんだけど…だ、大丈夫かな、真っ暗だし…」
一花の声音は心配と不安に染まっていた。暗い夜道を一人で帰った妹が心配なのだ。
五月の様子はわからないが三玖と四葉の誘いを振ってまで一人になりたかったのなら、簡単に止められる様子ではなかったのだろう。
「わかった、帰ってきたら連絡する
おまえは最後まで楽しんで…って、無理か」
「うん…私も一緒に帰れば良かったかな…」
「…大変だな、お姉ちゃん」
「あはは…」
労う言葉に一花は苦笑いしていた。また後で連絡することを約束して通話を切る。
取り越し苦労に終われば良い。自分が勝手に心配しただけだから、何事もなければ姉は何も言わない。
面倒を看る立場にあるがどこまで口出ししたらいいのか、年長者はその点見極めるのが大変だ。
先生には五月を迎えに行くと伝えた。電話の内容を聞いて察してくれた先生はここで五月の帰りを待つそうだ。
玄関を出て、五つ子がいた飲食店のほうへ向かうとする。
暗くて気づかなかった。道路へ出た直後、アパートを囲む塀を背にうずくまる子供がいるとは思わなかった。
危うくぶつかりそうになったところを踏ん張る。こんな夜に誰だと見下ろす。
やはりというか…五月だった。
一人でこんな真っ暗の中、道路の脇に座り込んでいた。
「…」
「…」
五月は一度は顔を上げて、俺だと分かっていながら顔を伏せられた。
こんなところに一人でいたら警察か不審者かご近所さんに連行されるだけだぞ。何をやっているんだこの子は。
寒いのに上着一枚だけ羽織って寒そうだった。地べたにお尻を付けて身を震わせていた。
…意地っ張りめ。そこまで意地を張りたいのならご勝手に。俺は隣には座らん。
「楽しかったか?」
「…」
家で母親が待っているんだ。この子が求めた、無事に帰ってきた大切な母親が。
願っていた日常を取り戻せて五月は心から満足していただろう。
あの夏、あの家のドアが開かれた先で、母親の腰にしがみついて嬉しそうに笑っていた。
おかえりなさい、と温かく俺を家に招いてくれた。
それも、もう遠い昔のような感覚に陥る。
真冬の夜にこんな惨めな思いをするとは五月は予想していなかっただろう。
惨めだと自覚していたのか、五月は肩を震わせた。
「帰ったら…っ
上杉君が…いて…」
「…」
「…帰りづらくて…!」
俺のせいか。まあ、わかってたが。
震える肩は止まらない。我慢するのも限界のようだ。
五月は泣きじゃくった。鼻水も垂れて、体も冷えてしまって、心の底から困り果てていた。
「もう、私…自分でも何が正しいのか…わかんないよ…っ!
意味ないことしてるって、わかってるの
でも…!
こんなはずじゃなかったのにぃ…!!
何でぇ…!」
五月の言葉に返事が見つからない。五月が望む本音は…わかっているが、現実的ではない。
いつか分かってくれる。それは惨い期待だ。
五月は絶対に認めようとせず、分かってはいても拒絶しているのなら。
…この子は強い子ではない。昔からそうだ。
お調子者で。我侭で。臆病で。自分勝手で。寂しがり屋で。
優しい姉が四人もいるんだ。頼りにすれば助けてくれる、美味しいご飯を作ってくれる、欲しいものは譲ってくれる、困っている時は体を張って励ましてくれる。
だからこそ、不器用で真面目な子に育った。
「勿体無いぜ、貧乏人が」
涙ぐむ五月の両脇に手を差し入れて強引に立たせる。
こっちを見ろ、と涙でボロボロな五月の顔を手で包む。
嘘はいずれ見抜かれる。いつかは糾弾され否定される。
全てを話す必要はない、と昔…親父は教えてくれたことがあった。
子供扱いしないで、と背伸びする子供では選ぶ資格はない。
五月は嗚咽を堪えるので精一杯のようだ。唇を震わせて、小さな隙間から声が漏れている。
「温かい家、帰りを待つ家族、母親の飯とケーキまで付いている
それを手放してまで、おまえは何をしたいのか
もう一度考えてみろ」
「…
わ、私は…
私は…このまま、ずっと…今がずっと…」
「なら、おまえが願い、必死に掴み続けている今を
今日を楽しむべきじゃないか?」
「今日…クリスマス…?」
「ああ、一時休戦といこう
今はおまえの都合の良いお兄ちゃんに戻ってやるよ」
「…い
いいの…?
お母さんが一番なのに」
「いつでも、おまえら五人が一番だ
いこうぜ五月、母ちゃん待ちくたびれてるぞ」
五月の手を取って、家に戻る。五月は慌てて両手で俺の手を掴んできた。
手だけじゃ足りなかったようで、五月は腰にしがみついてきた。鼻水が付いたが…そのまま抱き寄せた。
五月の粘り勝ち…とはいかないんだろうな。根を上げたのは五月のほうだ。
同情して俺が折れただけ。これは二乃と三玖と四葉、あの三人を差し置いてやっていいことではないだろう。
だが…妹が酷い顔して泣いているんだ。少しくらい情を向けてくれるだろうよ。
五月を連れ戻したのはいいが、娘が泣いていると知った先生は詮索はしないでおいてくれた。
しかし、携帯を片手に困っているようにも見えた。
「上杉君、一花たちからもう帰ると連絡がありました」
「ああ、迎えが必要か?」
「先に帰らせてもらうそうで…ご家族の方が車で送ってくださると言ってくれていますが
…五月をお願いしていいですか?」
娘が泣いているというのに、この場を離れることが申し訳ないと感じているのだろう。母親として慰めたい気持ちはあるはずだ。
五月の背中を優しく叩く。帰りたかった家に会いたかった母親がいるんだ。
娘を憂う母親の下に五月は手を伸ばしてしがみつく。
先生はその勢いに少しよろめいて、娘の肩を抱きしめた。
冷えたその肌に驚き、母親は娘を暖めようとストーブの近くに移って暖を取らせた。
四人の迎えは俺が行くべきだろう。五月は先生と話をするべきだ。それが必要と感じられる。
「五月」
だがその前に、今は都合の良い兄貴分でいると決めた後だ。
持ってきた鞄の中から包み紙とリボンで結ばれた箱を五月に手渡す。
五月はそれを受け取り、交互に見やった。
「メリークリスマス
これから飯作るんだ、今日一日を楽しもうぜ」
「…」
「ケーキ、まだ食うなよ?」
「た、食べませんっ
待ってます…から、早くね?」
五月はクリスマスプレゼントを両手に握り締める。
意地の悪いお兄ちゃんにムキになる子供は、泣いた後でも楽しげに笑ってくれた。
「何を貰ったのですか?」
「…マフラーです
使ってるの、もうちっちゃいから…」
「そう、あれも上杉君がクリスマスにプレゼントしてくれたものでしたね」
「…大事に使います」
風太郎が外へ出向いた後、五月はストーブの前で真っ赤に染まった指先を温めていた。
贈り物のマフラーを首に巻いて、温かさが増したことに五月はくすぐったそうに丸まっていた。
五月が振り向けば、母親は遅くなった夕食の準備をしていた。その光景にあまり食べずに帰ってきた五月の腹が鳴ってしまった。
母親にも聞こえたようで、待っていてね、という返事に五月は余計に恥ずかしい思いをすることに。
「お母さん」
「…はい」
お話がしたい。そんな娘の要望に母親は手を止めた。
夕食が遅れたら五月にとっても困ること。それでも五月は、二人きりのこの状況を逃したくはなかった。
お互いにこたつに足を入れて向かい合う。母親と向き合って話すのは珍しいことだった。
「お母さんは今、幸せ?」
「ええ、もちろんよ
でもね五月、お母さんの幸せは…貴方たちが幸せになること
それが一番なの」
何度も聞いて、同じ返事が返ってきた質問。
昔から…母親が心配な気持ちから何度も聞かずにいられなかった。
だが安寧を求めることを押し付けて、母親に同じ答えを強いらせていたんじゃないか。五月は今それに気づいた。
その醜い願望は杞憂だった。母親の続く言葉はいつもとは違っていた。
「もし…五月が将来、上杉君といたいのなら
それを上杉君が望むのなら
私は応援します」
「ほ、本気なんですか? 私、子供だよ?
それに上杉君が幸せになるには、お母さんがいないと」
「…
そうね、五月が自分に自信を持てないのなら…上杉君は困ってしまうわ
お母さんが、そうだったから」
両思いのはずの母親が寂しそうに娘を見つめる。なぜそのような眼差しを向けるのかは五月にはわからなかった。
思えば、風太郎と母親が仲良しというだけで、その経緯やきっかけなどは知らなかった。
昔一度聞いたような、微かな記憶があるような。
母親の生徒だったこと。京都で昔会ったこと。同じ教師になっても先生と呼び慕っていること。五月が覚えているのはそのくらいだった。
「でもね、お母さんは…そんな未来がないとは言いきれないと思うの
掴めるはずよ、五月」
「どうして…?」
諦めよう。叶わないから傷つく前に、何度も言い聞かせようとしてきたのに。
その必要はないと許す母親の言葉に五月は静かに問う。
「上杉君は今何歳?」
「えっと…23? 先生になるのは最速だったって一花が」
「ええ、五月は?」
「え? わ、私は12歳です」
「私が24歳の時に、12歳の上杉君と初めて出会ったの」
「…聞いたことあります」
「その五年後にお付き合いしたの
なら…貴方たち全員に可能性がないとは言いきれないでしょう?
上杉君、貴方たち五人を愛していますし、これから本気で好きになってくれるかもしれないわよ」
「そ、そうなの…かな?」
「嬉しそうね」
「い、言わないでよっ」
思い人の話題で母親に突っつかれる娘は恥ずかしくてたまらなかった。母親との恋バナがくすぐったかった。
その言葉は嬉しいに決まっている。姉妹だって聞けば、叶わないと知っても希望はあったことに喜ぶはずだから。
顔を隠そうとマフラーにうずくまる五月。しかし零奈の目が優しげだったのもそれまでだった。
何かを決めたのか。母親は娘に問う。
「五月
貴方はこの家で私がこれまでどのように生きてきたか、知っているでしょう?」
「…
知ってます…でも」
「…でも?」
「で、でも、お母さんは沢山辛い思いをして、私たちを育ててくれました
私、お母さんのようになりたいんです」
母親は自分を蔑むことが多かった。娘である五月はそれが心配だった。
自分に自信がない人だ。それでも自分たち五人の為に身を捧げて育てようとしてくれる母親が大好きだから。
五月は何度も口にした。母親が好きという気持ちを。
頑張って。困ったら頼って。そんな気持ちを込めて、母親を慕っていた。
だから、何度も繰り返してきたように。
再び言ってしまうんじゃないかと…それを求めない五月は、胸いっぱいの気持ちを伝えた。
「…いいえ、私のようになってはいけません」
「ぁ…」
母親のようになりたい。五月のそれに嘘偽りはなかった。
しかし、真正面から母親から否定されたのは初めてだった。
何度も聞いた、何かを諦めるような母親の言葉。肯定も否定も…娘は何も言えなくなるのだ。
それでも五月は、今日だけは抗った。
「で、でも…いいじゃないですか
おかーさんは、上杉君に好きになってもらえて
成りたいって、思うじゃないですか」
「五月」
「このままじゃ本当に嫌われちゃうんです
変わらないとダメなんだよね?
だから…お母さんみたいに」
今までの自分がダメだったのなら、失恋したのなら変わらないとダメじゃないですか。
上杉君もお母さんも、皆してるじゃないですか。
変わらないと置いてかれてしまうから…一人ぼっちは怖いから。
でも、そのやり方がわからない。周りを困らせているのは分かってるのに。
視線だけは俯いていく。
五月には鎮まってしまった沈黙が怖かった。
ふと、柔らかな感触に見上げる。
気づけば母親が隣に、傍に寄り添って胸に抱きしめてくれていた。
「自分が成りたいもの
したいことがあるよね」
その言葉は、あまりにも母親には縁遠い…希望の言葉。
「でも、頑張ってもできなくて
人前では言える訳なくて…格好悪い自分を隠すので精一杯
好きな人の前では好きになってもらえる自分でいたいから…嘘をつくの」
それは凛々しくカッコいいはずの、母親の生き方。
「惨めで、怖くて、逃げたくても…我慢だけはできるから
変わりたくても変われない自分を嫌いになる
…でも、変われないと決めつけられた自分よりは好きになれる」
もう諦めてしまっている、母の言葉だった。
それは母親のこれまでの実体験なのか、五月にはわからなかった。
ただ、嘘をつかなきゃ、無理をしなくちゃ怖い時がある。その気持ちは分かるような気がした。
「五月は自分が望むものを求めればいいのです
怖がらないで、嘘をつき続けないで」
本当の気持ちを言って。それは風太郎が求めていたものだった。
それはもうずっと前から言っていることだった。だが、聞いてくれないのがあの人だった。
「…
私は…変わってほしくない
今がずっと続いてほしいです」
「…叶わないとわかっているでしょう」
「…」
「永遠なんてないわ、五月
五月が大人になって、誰かと結婚して、子供が生まれて
お爺ちゃんがいなくなって
上杉君のお父様が、私が死んで
上杉君も、らいはちゃんも
いつかは貴方達を置いて、いなくなってしまうのよ
ずっとは生きてはいられないの」
「それは、もっと、もっともっともっと未来の話じゃないですかっ
お母さんは生きてます!
これから、親孝行して、一緒に、いっぱい…!
上杉君にも!」
「…ありがとう
でもね、小さなものでも、少しずつ変わっているのよ
貴方が上杉君と喧嘩したのも
こうして、五月とこんな話をするのも
貴方が変わって、周りが変わってきたからよ」
そんな寂しくて辛いことを言ってほしくなかった。せっかく退院できたのに。またもや五月は泣きそうだった。
二乃から聞いたことがあった。風太郎の母親は早くに亡くなっていると。
自分はやっぱり甘えん坊なのかな。五月は到底認められなかった。
好きな人と、家族とずっとこのままがいい。それがいけないことなのか。
変化を恐れる五月に、零奈は困り果てた。
人間いずれ死ぬ。親が子を置いて死んでいくのが世の常であり、自分もまた父親を見送る日がそう遠くないと知っている。
零奈は視線を泳がせて…抱きしめていた五月から一度離れた。五月は黙って冷たい床に手をついて項垂れていた。
「五月、おまじないをしてあげましょう」
母親は小物入れを手に戻ってきた。
所詮は子供騙しだとやや自虐気味に。
それでも、大丈夫だと言う根拠があるのか。
いつになく母親の声は弾んでいて励まされるものだった。
「おまじない?」
「願いが叶うの
一度しかしたことないのですが…叶ったのよ」
いまいち理解はできなかった五月は、母親から少しの間だけ目を閉じているように頼まれる。
素直に聞き入れて五月は背中を向いて目を瞑った。
何かを開く音、そして文字を書き走らせる音。
鉛筆? 五月がその音に耳を集中させたところで肩を叩かれた。もう終わってしまったらしい。
何のことか分からない五月の手の平に、小さな筒が置かれた。
五月には見覚えのある代物だった。
「お守り…?」
今年の修学旅行。京都の清水寺で買ったお守りだった。健康祈願の。
母親の回復を祈って、五人で買ったものだ。母親と風太郎とらいは、勇也、そして自分たちの分を。
しかし、このお守りは今年買ったものと比べて明らかに古かった。
傷も多く、お守りの文字が掠れている。
何年前の物だろう。五月は慎重にそれを握り、母親を見上げる。
「一度叶ったって、最初は誰にあげたんですか?」
「…
内緒です、無くさないでね」
「えーっ 気になるよ」
嘘だった。
五月はほんの少し、察していた。
母親がこんな顔するのだから。こんなにもお茶目に柔らかく笑うのだから。
昔聞いた薄っすらとした記憶の中で、大好きな男の人と手を繋いだ日に、聞いたことがある。
先生と一緒に歩いた京都の町の思い出。そこにお守りがあったかは覚えていないけれど。
大切なものをくれたんだ。
今はそれだけが、何かを繋ぎ留めてくれるのに十分な贈り物だった。