五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れるその8 五月

 娘が家族を置いて残るという、中野家の家族崩壊待ったなしの新年を迎えた。

 

 恩師とその娘四人は先程、実家にいる祖父の元へ出かけていった。

 

 俺は他人の家の戸締りを任され、ついでに愛娘一人を預かることに。

 

 

 

「おにぎり、足りるか?」

 

「ふぁい」

 

 

 

 事の元凶である五月は、こたつに座って俺と朝食を頬張っている。塩味が絶妙でほんのり温かいおにぎりはなかなか食べる機会がない。

 

 反抗期気味の五月が明確に家族から孤立しようとした日だ。逸早く自立するのは一花からだと思っていたが、考えてみれば当然の順位なのかもしれない。

 

 何もかもが姉や母親の言いなりだったんだ。それは強制ではなく純粋に家族を慕う気持ちから判断した利口な知恵だったはず。

 

 されど、こいつらの好みはてんでバラバラ。よく仲良しでい続けられたものだと感銘した。

 

 だがそれも…もうじき変わる。姉妹にも譲れないものがいつかできる。

 

 その変化を拒んでいた本人自身がそれを成そうとしていることが可哀想にも思える。

 

 五月は両手におにぎりを持ってパクパクと美味しそうに米を頬張っている。俺は先に完食し合掌する。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

「はむっ…んぐ」

 

「…なあ五月、実家に行く前に話をしようぜ

 って、おい」

 

 

 

 不都合を予期した五月はおにぎりを口にくわえつつ、両手に二つ取って背を向けた。食い意地と拒絶を両立させた荒業を見せ付けられてしまったぞ。

 

 五月は俺に背中を突きつけて、無言でおにぎりを食べている。時折、さっと手を伸ばして追加のおにぎりを回収している。

 

 まあ、そのまま腹を満たしてくれると助かる。後になってお腹が減ったと言われて拗れても困る。

 

 この時間なららいはは起きているだろう。昨晩伝え忘れていた、突然の来客を教えてやらないといけない。携帯を手に取り電話をかけた。

 

 

 

「えっ 五月ちゃん来るの!?

 た、足りる…かな…いや、無理かぁ…」

 

 

 

 妹は肉まんオバケの奇襲に恐れおののいていた。本人はカレーをご所望だ。

 

 可愛い妹分が遊びに来ると知ってらいはは喜んでいた。らいは自身、いつか五つ子が家族の輪から外れて自立することを予想していたのかもしれない。

 

 男の俺よりも妹のほうが五つ子の気持ちを理解できることは多い。案外、この日に五月をらいはに会わせるのは好機なのかもしれない。

 

 電話の相手は妹だけではない。先生から事前に連絡は渡っているのかもしれないが、俺から伝えるのが筋だと思える。

 

 番号を入力し応答をじっと待つ。

 

 緊張しているのが五月にも伝わってしまったようで、食べるのを止めて無言でこちらを見つめていた。

 

 

 

「…上杉君か」

 

「ご無沙汰しています、上杉風太郎です

 …朝早くにすみません」

 

「…いいや、年寄りの朝は早いものでな

 それに、娘と孫が来るのだからな」

 

 

 

 電話の相手は先生の父親だ。

 

 何度か会ったことがある。先生が入院した際には遥々見舞いに来た、先生のご家族だ。

 

 この様子だと先生から五月を俺の元に預けたことは知っているな。

 

 孫を溺愛しているお爺ちゃんにとって、どこの馬とも知らぬ男に預けて良いのか心配になるだろう。

 

 交際相手の実父だ。仮にも娘との結婚を求めている。信頼を損ねるような発言、失態は避けたい。嫌でも緊張する。

 

 ただ、五月が傍にいる以上それを隠すのも苦労する。子供の我侭とは面倒でしかないな。大人は全力で叶えるしかない

 

 

 

「…お孫さんの五月を数日預からせてもらいます

 五人の孫を寵愛されていることは存じております

 ご心配をかけるわけにはいけませんので、僕から報告を」

 

「なるほど」

 

「…」

 

「…あの子…残念がっていなかったか」

 

「ざ、残念とは…?」

 

「食事、おせち楽しみにしていただろう?」

 

「そりゃあ、もう…はい」

 

「…苦労をかけるな」

 

 

 

 五月の食欲旺盛のやばさに救われた… お礼がてら俺の分のおにぎりをやると、五月は不審に思いながらも齧りついた。

 

 ひとまず報告は入れた。先生の一報があってこその理解を得られたことだろう。

 

 ここまでするべきか、やや過剰である自覚もあるが…あの五つ子を思い遣る気持ちを曇らせたくない。

 

 こんな男に頭を下げて、娘と孫を支えてほしいと言わせてしまったんだ。

 

 

 

「しかし、娘を貰われる前に…孫を取る報告をされるとはな」

 

「その際は、改めてお伺い致します」

 

「そうか

 …また遊びに来なさい、そのほうが孫も喜ぶ

 正月の料理も残ってしまうしな」

 

「…ありがとうございます」

 

 

 

 了承は得られた。あちらから切るのを待ってから通話を切った。

 

 どっと疲れた。一分話したか、その程度の短い会話に神経が削られた。恋人の親族というだけでこうも気を張ることになるとは。

 

 昔のほうがもっと気楽に話せていた。あの爺さんに笑われていそうで、当時の若かりし自分の言動を粛清してやりたい。

 

 

 

「上杉君…」

 

「…何でもねえよ

 昼はらいはの飯があるんだ、腹空かせておけ」

 

「…うんっ」

 

 

 

 人の顔色を窺う五月に、いつものように笑ってみせる。しばらくは意地悪なお兄ちゃんでいる約束だったからな。

 

 昼まで時間はある。今が9時前、しばらく家主が不在になるこの家の掃除でもしておく。

 

 五月も手伝ってくれて、思いの他会話はスムーズに流れた。

 

 適当に時間を潰し、戸締りをしっかりと終えてドアに鍵をかける。家の鍵は紐に結ばれていて、五月に返すと自分の首にかけた。

 

 五月はお泊り用に衣類や冬休みの宿題を詰めたリュックを背負っていた。

 

 

 

「…あいつら、宿題持っていったのか?」

 

「? いえ」

 

「…どう思う?」

 

「不真面目ですっ」

 

「帰ってきたら言ってやってくれ」

 

「…上杉君が家庭教師してくれないから、全員成績下がっちゃったんですよ」

 

「責任転嫁するな

 まあ…夏頃からしてやれなかったな」

 

 

 

 途中からそれどころじゃなかったし。俺が先生と婚約すると知った後の五人のモチベは低かった。

 

 俺の教え子である北条の件もあったからな。あいつに注力したくて帰りが遅くなった分、家庭教師の時間は減ってしまった。

 

 そもそも小学生はテストは差して重要視されない。中学ではそうはいかないから、俺も先生もこいつらの勉強を見ることになりそうだ。

 

 雑談を挟みつつ、アパートを出て俺の実家へ向かった。

 

 うえすぎ。相変わらず廃れてしまった看板を見上げる。

 

 店主がいなくなって、かれこれもう20年か。いつかは下ろさないといけないよな、看板。

 

 五月も俺を見習ってそれを見上げる。小学生から中学生に上がる年頃だと聞けなかった話を知りたがるものなのかもしれない。

 

 

 

「二乃から聞きました、お店のこと…借金のこと、上杉君のお母さんのこと

 自分だけ知ってるのは、ちょっと気まずかったみたいで…」

 

「そうか…」

 

「…たぶん、皆考えたよ」

 

「あ? 何を?」

 

「…

 私たちのお母さんが、もしも…死んじゃったら」

 

「…」

 

 

 

 俺の母は幼い頃に交通事故で亡くなっている。

 

 先生は今年の夏に倒れた。

 

 もしかしたら命を落としていたかもしれない、二分された結末の上に子供たちは立っている。

 

 もしかしたら母親がいない、そんな確立に当たってしまった世界があるのかもしれない。

 

 助かったからと言って、今後別れがないとも限らない。五つ子は俺たちの家の事情を知って、再び考えついたのだろう。

 

 シャッターが下りた店の横、日陰になる階段に座り込む。五月も隣に座った。

 

 

 

「おまえとは昔、似たような話をした」

 

「…助けてくれるって約束ですか」

 

 

 

 6年も前の約束だ。小さな、幼子との約束。

 

 母親が病にかかっていることを知った、まだ幼稚園児のこいつは眠れない日々に苛んでいた。

 

 俺は、もしもの世界で助けてみせると約束した。

 

 母親が亡くなった時、助けるから。そんな、あってほしくない約束を。

 

 

 

「良かったじゃないか

 おまえの母親は無事に帰ってきた」

 

「違う…」

 

「…」

 

「お母さんが退院した時、嬉しかったんだよ

 もう怖いことなんてない、これから楽しいことが沢山あって、お母さんとずっと暮らせる

 でも…上杉君から

 助かっても今がずっと続かない、変わっちゃうって言われて…もっと怖くて

 これ以上の幸せなんて、あるわけないのに」

 

 

 

 やはり、俺のあの時の発言が一石投じるきっかけになったようだ。

 

 手に入れた幸福を取り零して、変わり果てた先が不幸せだと思い込むそれは、今の今まで母の死を恐れていた故に致し方ない思考だろう。

 

 だが俺が伝えたかったのは、良くも悪くも…家族はいつか離れ離れになること。

 

 いつまでも五人一緒とはいかない。

 

 少なくとも四葉は母親の負担を思って反感を抱き、長女である一花は自由を求めているはずだ。一番に甘えぬるま湯に浸かる五月に止められるものじゃない。

 

 

 

「お兄ちゃんとお母さんが結婚するって聞いて、すぐに分かりました

 もう終わっちゃうんだ

 でもみんなが、三玖は絶対に嫌がるから…やめてくれると思ったんです

 …三玖も、一花も、二乃も…四葉も止められなくて

 本当に何もかも全部変わろうとしてて、嫌で、だから上杉君に酷いこと言って

 だって、上杉君だけは…取られたくないんだよ…おかーさんにだって」

 

 

 

 涙目になった五月は度々嗚咽を零して、話してくれた。

 

、そして最後に、鞄の中から小さな紙を取り出した。家族全員が知るこの子の宝物を。

 

 色あせたメモ紙には番号が書かれている。

 

 助けて欲しい時には呼べ。そう、昔描いて渡したものだ。

 

 五月は選んだんだ。母親と俺、選ぶのなら。

 

 

 

「約束、してくれたから…

 お母さんいなくても、上杉君が助けてくれるってっ」

 

「…」

 

「思っちゃったんです

 お母さんが亡くなっても、泣いても…上杉君が助けてくれたら

 不幸にはなってなかったんだ

 それどころか…もっと違う、欲しいものが手に入って――いふぁい、いふぁいれす! はなひてぇえ!」

 

 

 

 不穏当なことを口走る子供の頬を引っ張る。あまりの痛さに涙が引っ込んだようだ。

 

 そのような理由で俺が選ばれたとなると先生が泣くはめになる。誰も望んでいないというのに。

 

 叱ってしまったが、そう思うのは当然だ。

 

 選ばれる者はたった一人で他は捨てられる。ならば最初から天秤にかけさせなければいい。

 

 とても口にはできない、卑怯な策略。

 

 まして相手は愛してくれた母親だ。親不孝者になる気か、こいつ。

 

 無理だろ。こいつの根っこはどうしようもない、甘えん坊なのだから。

 

 

 

「憧れの人が不幸に陥って亡くなることを、おまえは本心から望めないはずだ

 あの人が亡くなったらおまえは…母親や自分が不幸ではなかったことを証明をするために

 おまえは我武者羅にあの人の背中を追いかけるだろ

 おまえは母親を目指しているんじゃなかったか?」

 

「…

 …お母さんは、私のようになるなと言っていました」

 

「おまえはそれで納得したのか?」

 

「わかりません…

 お母さんも失敗とか苦労をいっぱいしてるから…

 同じ目に合ってほしくないから、ダメなのかな…って、それはわかるんです

 でも私はそんな、頑張ってくれたお母さんが大好きです…」

 

「…報われた人生とは言えないのかもしれないな」

 

「報われる為には、上杉君と結ばれる必要があるのも分かってます」

 

「それは違う」

 

「…え?」

 

 

 

 五月はぽかんと間抜けな顔を晒して驚いている。自分が思い悩んでいたことが誤りだったと指摘されてフリーズしたようだ。

 

 二乃も、四葉も、子供たちは母親にとっての幸せを決め付けるような言葉が多かった。

 

 あの人は恋愛よりも子供を優先している。何度も言うが、あの人は五つ子の母なんだ。

 

 何度俺がおまえらのせいで振られているか分かっていないようだな。

 

 本人に代わって説明してもいいのだが…俺も全てを知っているわけではない。語るべきものではない。

 

 だが、他人がどうこう言おうと自分の夢と幸せは、自分だけのものだ。

 

 

 

「あの人言ってなかったか?

 自分の幸せは、おまえたちが幸せになることだって」

 

「は、はい」

 

「全てを娘に縋る点は間違っている

 先生もそれを自覚しているし…今更後戻りなんてできないんだろうな、何度も謝ってる

 間違え続けてきた先生は、自分を肯定しない」

 

「…」

 

「だが…おまえら次第で、先生の生き様は変わってくる

 おまえたちが将来、母親に感謝し恩を感じたのなら…おまえらの母親は正しかったと証明される

 誰が何と言おうと、おまえたちが肯定すればいい」

 

 

 

 文字通り命を懸けていたんだ。愛する娘が、命を擦り減らして生きてきた人間のようになってほしくない、それが本音だろう。

 

 血が滲む毎日の中に喜びや達成感も必ずあったはずだ。先生は子供たちと暮らす日々に希望を見出した。

 

 母が憧れなんだと五月に言われて、あの恩師が冷静に娘を咎められるだろうか。

 

 恥ずかしそうに夢を語っていたあの人が、何も思わないわけがない。嬉しかったに決まってるぜ。

 

 …全部言ったらげんこつを貰いそうだ。

 

 

 

「さっきの話で、おまえの根本はわかった

 泣き虫、意気地なし、甘ったれ、意地っ張り、大食い

 俺といたって、おまえは満足できねーぞ」

 

「うぅ…そうなのかな…」

 

「おまえが何を選ぶのか、強制はしない

 本気なら五年ぐらい待ってやる

 それに頷かなかったのは、他でもないおまえだろ

 …もうわかっているんじゃないか」

 

「う、上杉君が好きなのは…ほ、本当だよ」

 

 

 

 五月の額をつついてやる。平然と告白してくるあたりがお子様だ。

 

 結局母親が何と言おうと、俺が説得しようとも、他人の声には納得できないんだ、五月は。

 

 いつかは俺も先生も否定されるだろう。この子の答えに。

 

 自分だけの答えを見つけなければずっと探し続ける。

 

 高校生か社会人くらいになれば自ずと正解に導いていたはずだろう。生憎今は小学生、まだ拙さが残っている。

 

 …いくら成長しようとも、この子が望むものはそう変わらないんじゃないか。

 

 甘ちゃんだと罵られて落ち込んでいく五月の頭を撫でてやる。

 

 

 

「おまえは今が続いて欲しいと願った

 もしも先生が亡くなったら…その時のおまえが望むとしたら、この世界だ

 何が何でも母親を手放したくない、他はもう選ばない、この世界を選び続けるんだろうな」

 

「…」

 

「だが…五月、わかる時がくるはずだ

 不幸は不幸のまま終わらない

 子供はいずれ成長して大人になり、家族の下から離れていく

 俺を選んでも、おまえが停滞しているだけ

 そう遠くない内に四人の姉妹は巣立っていくぞ」

 

「そんなの…お母さんにも言われました

 わかってます…でも、いつかの話じゃないですか」

 

「ああ、まだまだ先の話だ

 だがおまえは、そのいつかを怖がっている

 いつかはこの日々が終わることを、悟ったんだ」

 

「―」

 

 

 

 姉妹は変わり始めている、先生が倒れた日に何とも思わない娘なわけないだろう。

 

 いつまでも五人一緒なんて無理だ。だからと言って不幸にはならない。おまえたち五人はお互いに支えあって、一緒に乗り越えていく。

 

 だが、その問題や壁はおまえ個人の物だ。励まされた後は一人で挑むことになる。

 

 その時、選ばないといけない。選ばなくちゃいけない日がくる。

 

 

 

「おまえはもう、選ばなくてはいけない

 おまえの理想は、今ではなかったんだ」

 

「上杉君もいて、お母さんと一緒に暮らせるのに

 これ以上欲しいものなんて」

 

「もう自分で言ったじゃないか

 もっと先、それこそ

 おまえが憧れたものになれた日なんじゃないか」

 

 

 

 得てしまったら、その次を求めてしまう。それは我侭で、成長の証だから。

 

 昔から望んでいたじゃねえか。俺と手を繋いでいる時によく聞かせてくれた。

 

 俺も同じだと言って、お仲間だと嬉しそうに笑っていた。

 

 結局、そこに行き着いた。

 

 生粋の馬鹿真面目だ。とっくのとうに、俺は振られていたようだ。

 

 

 

「憧れ…

 で、でもお母さんはなるなって言ってましたし」

 

「…何度もおまえは文句垂れてたじゃねーか

 関係ないんじゃねーの」

 

「も、文句…」

 

「他人が何と言おうと諦めきれない、とんだ我侭娘だ

 不向きだろうと、憧れた人自身が否定しても、自分の夢なら掴み取ってみせろ」

 

 

 

 五月は狼狽していた。本当に良いの?と迷っているその目は小さな希望に揺れていた。

 

 反抗期に突入しても、うじうじと悩んで顔色を窺う子だ。母親を慕う子供には難しいことなのかもしれない。

 

 恋よりも憧れを取りたい。その点は俺とよく似ている。

 

 なら、一つだけ。似た者同士、先輩から一つ良い事を教えてやろう。

 

 夢だけで語れるほど生半可なものではなくても、あえて言おう。

 

 

 

「俺はあの人に憧れて教師になった」

 

 

 

 俺の言葉にはっと気づき、五月の目から迷いが消えたように見えた。

 

 自分を肯定されるよりも、大好きな人が間違っていなかったと証明されることに胸を震わせて涙を零した。

 

 恋が実り涙すれど、夢が叶うことに大粒の涙を零す。

 

 笑って、自慢して、この子が信じるものを選べるように答えよう。

 

 

 

「教師って、案外楽しめるものだぜ」

 

 

 

 あの人が何と言おうと俺は否定する。貴方が否定しても、間違いではない。

 

 これは俺の夢だから。恩師に憧れて志した、俺だけの夢だ。誰にも否定される謂れはない。

 

 五月は涙を拭って、もじもじと…それでいて、はっきりと言葉にしてくれた。

 

 

 

「私はお母さんのような…立派な人になりたいんです

 ちゃんと、見てきたから

 良い事ばかりじゃなくても

 お母さんにはなれなくても、目指したい!」

 

「それが分かっていれば、おまえは間違わずに突き進めるだろうよ」

 

 

 

 熱意が溢れて抑え切れないようで、五月は俺の腕を掴んで夢を語る。

 

 その姿はやはり母親によく似ていた。

 

 何も不安に思うことはないだろう。夢はそう遠くはない。おまえの憧れの人はこれからも傍にいる。

 

 一つ見誤っていたとしたら。

 

 この子が俺を見上げる目を、受け流せず逸らすしかなかったこと。

 

 憧れはもう一つあるんだよ。

 

 口にはしない、そう訴えかける、そんな目だ。

 

 真っ直ぐに向けられた気持ちに、幼さは残っていなかった。

 

 そんな子供の視線が、俺の目を通り過ぎて、階段の上へ向けられた。

 

 

 

「そんなところで何やってるの…?」

 

「…」

 

「…」

 

「やっぱ仲良しじゃん

 早くおいでー 待ってるから」

 

 

 

 背後からの声に気づく。元旦の昼間に、階段に座って話し込んでいたんだった。

 

 サンダルを履いたらいはが玄関から顔を出してこちらを見下ろしていた。

 

 自宅の敷地内にたむろっている俺たちに、らいはが怪訝な顔をして居間に戻っていった。

 

 膝がくっつくほどの近い五月と目を合わせて、くすくすと子供は笑った。

 

 未来なんて、明日のことなんてわかりやしない。だから今を尊重し、楽しむべきだ。

 

 

 

「さあ、お楽しみのおせちです! 上杉君、早く行きましょう!」

 

 

 

 立ち上がって一段一段階段を上がっていく。昔から何度も何度も繰り返した。

 

 五月は急かして俺の背中を押してくる。階段だから危ないのでやめてもらいたい。

 

 とんっと小さな力を最後に、五月は手を離した。

 

 それが、最後。

 

 

 

「…五月?」

 

 

 

 振り返ると、五月は照れくさそうに笑って、小さく手を振っていた。

 

 その手は、俺の袖を掴む弱々しいものだった。何も、掴まないまま…手を引っ込めたんだ。

 

 ありがとね。

 

 祝福と、それとは別の気持ちを込めて。

 

 もう、選んだんだ。自分が望んでいたものを思い出して、最後のお別れを。

 

 まだ甘えてもいい、と手を差し伸べようとして、やめた。

 

 これ以上の、余計な気遣いは傷つけるだけだ。

 

 

 

「…兄離れ、か」

 

 

 

 今を望んでいたのは…おまえだけではなかった。

 

 変わってしまった今を惜しむ手を下ろす。もう後戻りはできない。

 

 きつく握らなくても大丈夫。この大切な気持ちは零れない。

 

 それを知っていたから、俺も五月も…心から祝福して見届けることができたのだろう。

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