五等分の園児   作:まんまる小生

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涙は零れず恵みは静かに零れる最終話 あの日の月を

 木の枝が擦れる音を耳にして起き上がった。

 

 

 

「…さむっ」

 

 

 

 途方もない夢を見ていた気がする。

 

 硬い地面の感触のせいで、起き上がった頃にはもう薄っすらと短絡的に朧となった。

 

 よく見れば周りは真っ暗。嫌な予感がして手元をよく見ると…火が消えかけてるじゃねーか。

 

 あれから何時間か経ったか。焚き火の燃え後を見ると大体夕方の六時ぐらいか。

 

 この程度の火が燃え続けるには3時間ぐらいが限界だと本で読んだことがある。

 

 消えかけた火に酸素を送り込むか。立ち上がろうとしたところで、先程の音が続いていることに気づく。

 

 

 

「上杉君! 返事を!」

 

 

 

 先生の声だった。

 

 随分と久しく聞いていなかったような、そんな感覚を頭を振って振り払う。

 

 こんな暗闇の中を探しに来たというのか。

 

 恋人に無茶させるなよ、と自分を戒めたくなる。半年前入院していた人だぞ。

 

 

 

「先生!」

 

「う、上杉君

 あぁ…よかった、ご無事で」

 

「一花から聞いてなかったか?

 怪我もしてないし、場所もわかっていただろ」

 

 

 

 聞いちゃいねえ、先生は崖上から懐中電灯で照らして辺りを見渡した。

 

 まあ幸い、火起こしに利用した縄がロープ代わりになる。適当な木に結び付けて垂らしてもらえれば這い上がれる。

 

 心配をかけてすまなかったと謝りたい気持ちが早まるが、今はここから抜け出すことに専念する。

 

 

 

「先生、今からロープになるものを――」

 

「上杉君、捕まってください

 引き上げます」

 

 

 

 見上げると、先生が崖際ギリギリまで膝をついて、手を差し伸ばしていた。

 

 そ、そこまでされなくても、ロープで十分なんだが。

 

 

 

「上杉君、手を伸ばして」

 

「わ、わかった」

 

 

 

 理屈とか効率がどうこうよりも、掴んでほしいと訴える女の手を取ってしまった。

 

 先生に手首を掴まれ、力強く引き上げられる。

 

 思っていたよりも容易に真上に手が届き、どうにか這い上がることができた。

 

 大晦日から思い知らされたが…この人の力、思っていた以上にある。スポーツ万能になりつつある四葉の母親なだけある。

 

 お互い息が絶え絶えになって、その場にへたり込む。

 

 

 

「先生、すまない…ありがとうございます」

 

「いえ、無事で何よりです…」

 

「…せ、先生…」

 

 

 

 懐中電灯が足元を照らし、暗闇に写る先生の姿を目にして驚くしかなかった。

 

 先生とはスーツ姿で旅館で再会した。その姿のまま出てきたようでコートから覗くスカートとストッキングが所々破けていた。枝で何度も引っ掛けてしまったんだろう。

 

 山を登るための運動靴も土で汚れていて、こんな暗い山の中走らせてしまった。

 

 

 

「…申し訳ない、先生

 あんたにここまでさせてしまった」

 

「好きな人だから、当然よ」

 

「…」

 

「…

 い、言わせないでください」

 

 

 

 …本当に敵わない人だ。

 

 お返しにはならないが、俺は先生の肩を抱いて胸に抱き寄せる。

 

 夢の中で、こうしたいとずっと求めていた。

 

 理由は分からないが、それだけは思い出した。

 

 恩師の手が俺の頬をなぞる。土汚れがまだ付いていたようだ。

 

 

 

「…帰りましょう、一緒に」

 

「ああ、一花にも礼を言わないとな」

 

 

 

 何かを伝えるべきだと頭の中ではわかっている。

 

 五人が祝福してくれた、その喜びと愛おしさはまだ胸に残っている。

 

 譲りっぱなしは癪だ。先に立ち上がり先生の手を取ると、彼女は困ったように笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上杉さーん、まだ寝るには早いですよー!

 トランプしませんか、七並べです!」

 

 

 

 先生の助けの元、無事に旅館に帰った後。

 

 軽く遭難していた身は、一花がすぐに知らせてくれたことで特別目立った怪我もなく穏便に事が済んだ。

 

 表面上は。先生が一報を聞いた後の行動は素早く、結局一人で恋人を回収することに成功した。これ逆じゃない?

 

 お騒がせしてしまったことを爺さんと先生に平謝り。一花に礼を伝えて一件落着となった。

 

 …果たして爺さんからの評価が著しく下がっていないか不安なのだが。

 

 

 

「私もやる、フータローに3が集まるように呪いを」

 

「じゃあ私は2を」

 

「四葉は4を!」

 

「どういう嫌がらせだ…

 ボードゲームぐらいなら付き合ってやる」

 

「やったー!」

 

 

 

 そんな気も知らずに子供たちは遊べと強請ってくる。旅館の客室を一つ借りて休んでいるところに三人が襲撃してきた。

 

 七並べ、参加者は俺と二乃、三玖、四葉である。

 

 …物の見事にハートの2、3、4が俺の手札にねじ込まれているんだが…何かの陰謀か。呪いの効果強すぎ。

 

 

 

「…思ったんですけど

 これって一花がいないとハートの1だけ持ってる人が負け確定になるんじゃ」

 

「気づくのが遅いんだよ、これは最後に出すぜ」

 

「これは酷い、やり直しを要求する」

 

「諦めることね、三玖」

 

「せめてトンネルかジョーカーありにして…」

 

「仕方ねーな…」

 

 

 

 賑やかな遊びだった。柄にもなく子供とのゲームを楽しんでいた。

 

 何回か勝負した後、シャッフルしたカードを配る手を止めて、三人と向かい合った。

 

 

 

「…一花との話も終えたんだ」

 

「それじゃあ、聞いたのね」

 

「…」

 

「あはは…なんか…照れちゃうね

 …ううん、なんか寂しいかな、これからずっと一緒なのに」

 

 

 

 形式上、五人全員との話を終えたことになる。

 

 そして一花が言っていた、五人が伝えられなかった気持ちも、あの子からちゃんと聞かされた。

 

 二乃はすました顔で、四葉は喜びと寂しさを二分させたような顔をしていた。

 

 三玖は立ち上がり、俺の傍まで寄って抱きしめてきた。

 

 

 

「…約束、忘れないでよ

 でないと、怒る」

 

「ああ、間近で見られてそうだからな、気をつける」

 

「なら…よし」

 

 

 

 涙はもう流すことはない、三玖は満足気に笑っていた。

 

 三玖が離れ、彼女は二乃の背中を叩いた。

 

 罰の悪そうな、何かを言いづらそうに目を伏せる二乃は渋々前に進み出てきた。

 

 

 

「どうした?」

 

「あ、あの…フー君

 これは、その…あくまでも、希望なんだけど」

 

「あ、ああ…可能なものなら応えてみせる」

 

「…フー君のお母様のお店のことよ」

 

 

 

 お袋の喫茶店? 寝耳に水の話題に顔をしかめた。

 

 前に実家に連れて行った時に身内の事情に触れることになって、気まずかったと五月から聞いたのだが、どういうつもりなのか。

 

 

 

「わ、私、料理人になりたいの、ケーキ屋さん」

 

「…ああ、昔からの夢だったな」

 

「まだ子供だし、信じてくれないかもしれないけど

 店長さんから腕は良いって言われてるわ、天才よ天才

 だから…もしも、私が大人になってもお店が閉まってたら

 私にあのお店、貸してほしいの」

 

 

 

 本気なのか、この子。

 

 二乃が語る、理想の夢につい…胸が熱くなった。

 

 まだ小学生が象る夢の姿でも、あの店を使いたいと求められたことに言葉にできないものがあった。

 

 

 

「だって、勿体無いじゃない

 あんな素敵なお店、フー君のお母様のお店が廃れちゃうなんて

 ど、どう…?」

 

「ああ、親父に話してみる

 きっと喜ぶぜ、らいはもきっとな」

 

「あ…ふふ

 それまでちゃんと勉強しておくわ、楽しみにしてて」

 

「ああ、楽しみだ」

 

 

 

 そんな未来があったとしたら。お袋の無念を晴らすとか夢を継ぐとか、そんなことは求めていない。

 

 この子が夢を掴んで、灰色に染まっていくだけのあの場所に再び色が芽生えたら。

 

 意味はあったんだと、そう思わせてくれることが何よりも嬉しい。

 

 二乃は気恥ずかしさから赤くなった顔を隠してそっぽを向く。

 

 

 

「上杉さん、とうとう五人目が上杉さん派に加わったんですね」

 

「おまえには長いこと手伝わせちまったな、体力は無駄に多いから心配してなかったけど」

 

「そんな理由で一番に選ばれたんですかっ!?」

 

「…ありがとな、四葉」

 

「…上杉さん、お兄ちゃんから…お父さんになっても

 いつものように遊んで、甘えても…いいんですよね?」

 

「ああ、年相応なもの限定でな、あと物理的なのもお断り」

 

「た、タックルはもうしませんから…たぶん」

 

 

 

 始終、変わらず明るく応援してくれた子に感謝を送る。

 

 一時不貞腐れて愛想尽かされることもあったが、それでも応援してくれていた。

 

 この子を一番に選んだ理由は、四葉の問題を一番危険視していたからだ。

 

 五月とは傾向が違う、家族から離れて生きようとする不器用さを見逃せなかった。

 

 おまえなんか嫌いだと突き放してまで怒ったんだ。

 

 この子も覚えているだろう、あれからは逆に家族の輪を取り戻す為に俺に協力してくれた。

 

 唯一の妹にあたる五月を心配していたんだ。五人全員がようやく同意見になったことに一番喜んでいる。

 

 

 

「上杉さん、前に言ったの覚えてますか」

 

「前?」

 

「ほら、お母さんの花嫁衣装が見たいって、アレです」

 

「ああ…」

 

「ママは私たちの憧れだもの」

 

「見たい、お母さんが本当に、ちゃんと幸せを掴んだところ」

 

「…」

 

 

 

 結婚式、ね。結局そこに行き着くのかと苦笑してしまう。

 

 五月も見たいと言っていたしな、あの人は着飾れる年じゃないとかふざけたこと言っていたし、説得に苦労しそうだ。

 

 ふと、戸がノックされる。

 

 

 

「上杉君、いいかね」

 

「お、お父さんっ?」

 

「お爺ちゃんだ」

 

 

 

 わざわざここまで足を運ばせてしまったようで、急いで戸を開けて中に招く。

 

 座布団を用意しようとしたところで、手で止められた。

 

 

 

「此度の騒動、褒められたものではないな」

 

「は、はい

 自分がついていながら、申し開きもありません」

 

「お、お爺ちゃん

 上杉さんだって一花を大事に思ってるから…あんなことになっちゃったけど」

 

「フータローは自分を犠牲に一花だけでも守ろうとした…責めちゃ嫌」

 

「ね、お爺ちゃん、お願いよ」

 

「おまえらは黙ってなさい」

 

「な、何よ、フォローしてるのにっ」

 

 

 

 その気持ちだけでありがたい。だが理由はあれど、親が子供を守るのに理由なんて求められないんだよ。

 

 保護者でありながら一花を危険な目に合わせた。それだけで自分に不手際があったのは事実だ。

 

 山なんかに入る必要もなかったし、遭難する前にあいつを強引に連れ戻すことだってできた。、

  

 深く頭を下げる。やはり信用を損ねてしまった。

 

 一花を危険な目に合わせたことに負い目がないわけじゃないが、ダメージが強いのはこの人からの評価のほうだった。醜い人間だ。

 

 

 

「…零奈は酷く焦燥していた

 わかってやってほしい」

 

「…」

 

「それだけだ」

 

「…あの、お父さん」

 

 

 

 叱咤を受けるつもりでいた、が。頂いた言葉は、娘を慮ってほしいという、切ない願いだった。

 

 そのためにわざわざここまで足を運んで、恐縮と共に感謝の気持ちもある。

 

 礼を言うのは奇妙だ。この人も若輩者からそんな物を求めていないだろう。

 

 …

 

 

 

「…

 零奈さんが前に婚約した時の…婚約指輪

 い、いくら…でした?」

 

「…は?」

 

「え」

 

「指輪?」

 

「何で値段…」

 

 

 

 何を聞いているんだ俺は…頭打ったか、だからあんな奇妙な夢を見たのか。

 

 

 

「なぜそのようなことを聞く」

 

「零奈さん本人には聞けませんし」

 

「ああ…」

 

「金額で良し悪しを計るつもりはありません

 ですが…前の男の物より、良い物を贈って…全て上書きしたいのです…

 お、お願いします! 知っていたら教えてください」

 

「…

 は、はっはっは…

 なんとも、そうだな…男なら気になるか」

 

「…」

 

 

 

 笑われてるじゃねえか…聞くんじゃなかった。

 

 項垂れかけた頭の、耳にやっと聞こえるかの細い声を耳にした。ぽつりと。

 

 目を向けると爺さんはにんまりと笑って、戸を閉じて去っていった。

 

 

 

「…いくらだったの?」

 

「…教えない」

 

「きゃー! フー君ってばもう、健気なとこ見せつけないでよ、もう!」

 

「上杉さん、愛ですよ

 愛があれば十分お母さんを満足させてあげられます」

 

「男はそんな単純じゃねーの」

 

 

 

 五つ子がいる前で恥ずかしげもなく、前のめり過ぎた。お陰で三人が喧しいほどにからかってくる。

 

 トランプでも再開しようかと勧めたが、恋愛にうるさい二乃の火が燃え盛ってしまい、俺の恋愛経験を根掘り葉掘り漁られるはめになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い一日を終えて就寝につく。

 

 空は満月で、多少寒いが明かりのない部屋をくっきりと照らしてくれていた。

 

 …ここは一人部屋だと聞かされていたんだがな。

 

 なぜか俺両隣には布団が新たに敷かれて先程の三人が眠っている。先生の部屋がさぞ広く感じられるだろう。

 

 四葉は寝相が悪い。突き出た腕が三玖の頬に当たって、被害者は顔を顰めながら眠っている。これを放置すると俺を飛び越えて二乃にまで被害が及ぶ。

 

 四葉が風邪を引かないように掛け布団をかけてやる。

 

 

 

「…」

 

 

 

 三人のあどけない寝顔を見つめる。

 

 特に何も浮かばず、ただただ眺めていた。思うのは単純に、この子たちの幸福だけだった。

 

 ふと、携帯が鳴った。

 

 こんな時間に、もう日付は過ぎている。

 

 

 

「先生?」

 

 

 

 着信があった。

 

 中野零奈。恩師からの電話だった。

 

 こんな時間に。しかも電話とは珍しい。

 

 …コールは止まらず、子供たちを起こさないよう静かに応答した。

 

 

 

「今から会っていただけませんか…?」

 

 

 

 六年前の記憶のものと、同じ。控えめなお誘いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この島には随一の観光スポットがある。

 

 誓いの鐘。そう呼ばれている西洋風の小さな鐘。

 

 この鐘を二人で鳴らすと、その男女は永遠に結ばれるという伝説がある。

 

 ちなみに俺はその鐘を何度も鳴らしている。小さな子供たちを相手に。それも五人と。

 

 つまり信用性はないということだ。

 

 

 

「京都で出会った貴方と再会してから、まだ十年も経っていないのね」

 

 

 

 満月に照らされた鐘を二人で眺めている。

 

 風もなく、雲もなく、上着を羽織ってもほんの少し寒い、ただのそんな夜。

 

 

 

「先生の子供が五つ子だとは思いも寄らなかった」

 

「私も、あの子たちがあんなにもあなたを慕うとは予想外でしたよ

 三玖と四葉はあなたに夢中のようでしたし…取られた気分でした」

 

「妬かないでもらいたい」

 

 

 

 高校時代、まだあいつらが幼稚園の頃はよく振り回されたものだ。

 

 父親がいない、母親一人で五人の子供を育てていると知って、何か力になろうと自分から声をかけた。

 

 未熟者だと見抜かれて悔しい思いもあった。

 

 再会できた嬉しさと、認めて欲しい欲求から始まったお節介が、後にここまで影響するとは。

 

 苦労が絶えない身だと心配もしていた。子供たちから助けてほしいとせがまれ、他人の家庭事情に口出しさえしていた。

 

 

 

「先生から距離を取られた時は参ったぜ」

 

「…それは私の台詞ですよ」

 

「え…? 俺何かした…しました?」

 

「私もあなたから袖にされたもの」

 

「み、身に覚えがないんだが…」

 

 

 

 子供たちと接するのは高校3年になるまで。

 

 そう期限を設けられ、危うく逃げられるところだった。

 

 からかい混じりに懐かしんでいると…隣の女から睨まれた。

 

 なぜ俺が悪者扱いに…? 心底不服だ。

 

 

 

「…顔を合わせる度に敬遠されました」

 

「…あ、あれは…あんたのしつこさが異常だったし」

 

「ほらっ! 覚えてるじゃありませんか!

 思い出の子に嫌われたのかと気が気じゃなかったわ…」

 

 

 

 思い出した、高校2年の春に先生と再会してすぐのことだ。

 

 食堂で相席になって恩師と再び合間見えたのだが…当時、俺の立場は微妙だった。

 

 他人を毛嫌いしていた俺は、先生から認められないことに腹を立てて、一方的に見限ろうとしたんだ。

 

 冷たい態度で突き放そうとしても、先生は辛抱強く俺と向き合ってくれたんだ。

 

 

 

「せ、先生には感謝している、何度も声をかけてくれたからな

 流石に度が過ぎる不貞腐れた態度でしたが…

 わ、若かったということで許してくれませんか」

 

「今後次第としておきましょう」

 

「今後って、もう十年ぐらい昔の話なんですけどね!」

 

「上杉君、私たちの間に時効はなしとしましょう」

 

「…あんたが根に持つタイプなのは知ってたよ」

 

 

 

 その縛り、あんたも首が絞まるものが多いぞ。

 

 恋人への不満を本人に直接言いつけて清々したようで、先生の機嫌は良さそうだった。

 

 時効…そうだ、時効と言えば。

 

 結局貰えなかったな。

 

 初めて会ったあの京都で、俺に買ってくれたというあのお守り。

 

 先生は結婚して子供を産んだ後、新婚旅行でもなく、一人で京都を観光していた。

 

 その理由は本人にとって気の休まるものではなかった。

 

 だが、出会った俺を思い出の子と言っていたあたり、やはり…悪いものではなかったんだ。

 

 …ならば、今度こそ何の後ろめたさもなく思い出に浸ってほしい。

 

 

 

「いつか…京都に行かないか、先生」

 

「京都に、ですか」

 

「…またあんたと一緒に歩きたいんだ

 次はパートナーとして」

 

「…そうですね、私も…願わくばもう一度」

 

 

 

 変わらず月明かりを見上げていた、が。先生はこちらへ向き合った。

 

 月光に照らされる彼女は儚い印象がより際立つ。風が吹けば消えてしまいそうな夢の人のように思えた。

 

 綺麗過ぎるのも怖い。恋に夢中になれるほど俺は楽観的にはなれない。

 

 

 

「今日という最後まで、娘と向き合ってくれたのですね

 あなたには苦労をかけてばかり」

 

「今更だな

 …一応、条件は満たした」

 

「…私で良いのか、今でも不安になるわ

 優しさに付け入って、甘えているのはあの子たちではなく…私だわ

 殺しているのよ、あなたの気持ち」

 

 

 

 謙虚な姿勢は相変わらずか。

 

 再会してからそうだ、自分の評価は下、優しくされる価値はないと身を引こうとする。

 

 病室で告白した約束を覚えているか。一昨日は答えようとしてくれたが半ばで遮られてしまった。

 

 …しかし、殺しているとは酷い例えだ。結婚は墓場と云われるが、そっち繋がりか?

 

 

 

「私はね、風太郎君…

 君と出会ってから…この気持ちは一貫して変わっていないの」

 

「…?」

 

「助けたい、そう思わずにいられなかった」

 

 

 

 哀れみと後悔、そんな目で見てくる。

 

 なぜ彼女がそのようなものを向けてくるのか理解できなかった。

 

 恩師との初対面は…俺が京都で、妙な変人に絡まれていたところを助けられたんだ。

 

 再会してからも、恐らく見るに耐えない男だったろう。

 

 教師として教え子を守りたい一心で俺の手を取ってくれた。

 

 その後もバイトと五つ子たちとの時間に費やす俺を危惧していた。将来を軽視する俺を叱咤し、病を抱えていながら俺の手を振り払おうとした。

 

 

 

「何があったのか私はわからない

 君も話そうとはしない…

 きっと辛いことが幾度もあったのでしょう

 君が挫けてしまうほど、残酷な言葉を吐かれたのなら

 

 私の夢は現実的ではないと諭した君は、人の敵意と無作為の悪意をよく知っている

 それは…傷ついた子にしか、わからないわ

 

 覚えてる?

 

 高校で…あの食堂で思いがけない再会をした日

 風太郎君、表情が強張っていたわ

 

 以前相談を受けた、孤立してしまった生徒が君だと知って…悲しかった

 京都で会った思い出のあの子が…そんな目に合ってしまうなんて考えられなかった」

 

「…自業自得だ

 先生の期待に応えられなかったのは残念で仕方ないが

 そこまでの人間だったんだ

 …正直、あんたから施しを受けていい人間でもなかったよ」

 

 

 

 若気の至りで笑い話にでもなれば良かったのだが、恩師の前では猛省するしかない。

 

 他人を見下して蹴落とそうとする人間を、優しい、と諭してくれたことは嬉しかった。

 

 だがありえないんだ、そんな戯言。

 

 狂人だと恩師が侮蔑されかねない。それだけはやめてほしい。

 

 

 

「今でも、そう思い続けているのですか

 教師となっても、他人は無価値ですか」

 

「…俺の教え子に

 虐められていながら、虐めてきた相手の身内を守ろうとした馬鹿がいる」

 

「…」

 

「…無価値な人間はいる、だが…

 もっと、他人に向ける目を養うべきだったと後悔している」

 

 

 

 努力しない者、人の努力を嘲笑う者、どうしようもない人間は必ずいる。

 

 俺は特別な人間ではない。俺ができることは誰にでもできる。それは確証を持って言える。

 

 だが、できない連中が多すぎる。

 

 結果を残している俺はそんな奴らとは違う。

 

 そう思い込むことで逃げていたかった。

 

 

 

「俺にできることは誰にでもできる

 誰だってできることだ、可能性は誰にだってある

 

 誰だってテストで100点を取る潜在能力を持っている

 

 だが、できない人間が大半で、俺はそんな奴らを怠慢だと見下していた

 …あいつらを知って、愚かだったと思い知らされた」

 

 

 

 小さな五つ子はまだまだ幼い子供 いつも馬鹿なことばかりしている。

 

 怒られて、泣いて、傷付き合って、できないからこそ互いに支え合って生きてきた。

 

 あいつらはいつも一生懸命で、母親を慕いながらも、思うようにならない現実にもどかしさと不安を抱いていた。

 

 貧乏だから

 

 父親がいないから

 

 母親が病気だから

 

 失敗ばかりで、一人ではできないことだらけ

 

 したくてもできないことがあるんだ、できるはずができないことだってある。

 

 

 

「この先あいつらはあのまま、馬鹿なまま育っていくのかもしれない

 もしも、俺があいつらと同い年だったら そんな話をしたんだ

 

 …好かれることはなかったな

 

 きっと俺はそいつらを小馬鹿にしていただろう

 はっ…教えを請われたって付き合ってやらねえよ」

 

 

 

 あの夢の中で、五月は彼に勉強を教えてほしいと頼んでいたな。

 

 最初は断っていたが…いずれ、彼ならきっと教えてくれる日が訪れるだろう。

 

 俺には無理だ。

 

 一発で見下して、嫌われて、それでおしまいだ。

 

 語るにも劣る、くだらないギャラリーの中に埋まってしまう。

 

 

 

「ですが、貴方はあの子たちの家庭教師でしょう?」

 

「…」

 

「あなたとあの子たちは似ているようで違いますから、恐らく一筋縄では上手くいかないでしょうね

 ですが、小さな繋がりが貴方達を繋ぎとめる絆になる

 もしかしたら、小指を結ぶ赤い糸になるのかもしれませんね」

 

「まさか…」

 

 

 

 家庭教師から始まる恋か?

 

 想像できないな…というか同級生で家庭教師なんて不可能だ。

 

 無理難題な夢を見る先生はなぜか嬉しそうに、緩む唇を隠して笑っていた。

 

 娘が素敵な恋をできますように。

 

 娘に知られればお節介だと怒られてしまいそうな、真摯な気持ちを込めて。

 

 先生から指を握られ、小指同士が絡みつく。

 

 冷たくて、ゆっくりと結んだ。

 

 

 

「そうですね…私もお願い、しておきましょうか

 四葉が貴方とクラスメイトになれたら、お嫁さんにしてもらうとのことでしたから」

 

「…」

 

「どうか教えてあげてくれませんか

 貴方を困らせてばかりな私の娘たちを…どうか

 きっと貴方を笑顔にしてくれますから

 お願いしますね、風太郎君」

 

「…苦労しそうだな、そいつ」

 

「ええ、大変でしょうね」

 

 

 

 指切りの約束を。

 

 誰のものか定かではない。気休めにしかならない無意味な約束を。

 

 四葉のお願いに母親が便乗してきやがった。四葉を嫁に貰うの公認か…それは気が早くないか。

 

 つーか学生時代の拙い黒歴史を掘り返すなんて卑怯だぜ。あんただって嫌だろ。

 

 …まさかと思うが、あの昔話の仕返しか?

 

 自分の名が嫌いだと言われて、生意気なこと口にしていたような記憶がある。

 

 掴む手を払うと、先生は申し訳なさそうに笑っていた。

 

 

 

「もう一つ聞かせてください

 風太郎君、せっかくの修学旅行…なぜ一人に?」

 

「どこまで知りたいの、あんた」

 

「いいじゃないですか、もう遠慮しなくてもいいのでしょう?」

 

「くっ…

 …ぼっちの事情なんて教師なら想像つくだろ、居場所がなかったんだよ」

 

 

 

 娘が認めたと知って図々しくも貯めていた質問を消化する気らしい。長い夜になりそうだ。

 

 

 

「俺はグループにはいらない存在だった

 俺よりも馬の合う奴と一緒にいたほうが良いだろ」

 

「…なるほど、それが竹林さんですか」

 

「…」

 

「…あら、図星」

 

「…」

 

「ふふ」

 

 

 

 バレた…俺の小学生の頃の初恋が竹林だったと見抜かれた。

 

 何がおかしいんだ、笑ってんじゃねーよ。

 

 こっちは全然面白くない。胸の内をかき回されて不快でしかない。

 

 俺はあんたの元旦那の顔を知らないのに、自分だけ先に解放されるなんて不公平だ。

 

 

 

「その目、むかっとくるぜ

 悪いか、ガキの失恋なんてどの世代も星の数あるぜ、笑ってんじゃねえ」

 

「ごめんなさい

 えっと…怒らないで聞いてほしいのだけれど

 健全…いえ、これは失礼ね」

 

「今更躊躇ってんじゃねーよ」

 

「…

 学生らしく、可愛い同級生の女生徒に恋する男の子は…

 その、可愛いじゃないですか

 こうして顔を赤くして照れてしまうところも、つい愛でたくなってしまうわ」

 

「嫉妬すら抱かれないとはなっ! 通りで結婚に乗り気じゃないわけだ!」

 

「いいえ、安心したわ

 一度は誰かを好きになった上で、私を選んでくれたのですね」

 

 

 

 …昔はともかく、今になってあんたを慕う気持ちすら疑われたら困る。

 

 恋愛事において過大評価は滑稽でしかない…馬鹿がすることだ。

 

 だが…

 

 

 

「…先生と知らず、髪を切ったあんたに見惚れて思い知った

 あんたは言っていたな

 五つ子を見分ける術が愛の力だと」

 

「―」

 

「…馬鹿になってしまったな」

 

 

 

 陶酔するほど、俺はあんたに惚れてる。

 

 盲目でありながらそうではない、あんたの内面も外見も…全てに惹かれてる。

 

 小指を離し、恩師の手を掴む。

 

 ただ待っているだけじゃ掴めない。

 

 貴方に必要とされたい。俺だけを求めてほしい。

 

 後悔に蝕まれ、五人の子を愛し、夢を秘し隠す彼女は静かに俺を見つめていた。

 

 

 

「俺には貴方が必要なんだ

 これから先の将来、傍にいて…ずっと支えてほしいと願っている

 貴方から求められる人間になるよう…俺は変わってみせる」

 

 

 

 父親の代わりになる、そう約束した。

 

 子供たちに認めてもらえたら、そう約束した。

 

 約束と約束を紡いでいく。これもまた、馬鹿みたいに同じことを繰り返しているに過ぎない。

 

 月明かりの下で、手を差し出す。

 

 

 

「好きです

 結婚してください」

 

 

 

 澄んだ空気が指先を浸透して、冷たかった。

 

 握っていた小指だけは、今でも熱い。

 

 先生は一歩、俺に歩み寄る。

 

 

 

「風太郎君

 私は貴方を困らせてばかりです

 当然よね、貴方に叱られることを望んでいるのだから

 笑ってしまいますか」

 

 

 

 それは、手を掴めないということか。

 

 謙虚に、困ったように笑っていた。

 

 

 

「月が綺麗ですね」

 

 

 

 ふと、夜空を見上げる。

 

 鐘の先、二人を照らす満月が浮かんでいる。

 

 手を握られた。月に目を奪われた隙に。

 

 思い出になる、そう言って離れようとしたこの人の手を、握り返すことしかできなかった。

 

 

 

「あの日の欠けた月を忘れたことはない」

 

 

 

 俺はあの瞬間を大人になってからも夢に見る。

 

 求めていたのは、この瞬間だったのかもしれない。 

 

 月明かりを背に、恩師を見つめる。 

 

 

 

「本当に 今日は綺麗な満月だ」

 

 

 

 涙は零れず恵みは静かに零れる。

 

 何度も泣いて、やっと得た幸福は平凡なもの。

 

 それでも、こんなにも愛おしくて、手を握る。

 

 先生に鐘の下へ手を引かれ、月明かりに隠れるように二つの影を並べていた。

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