喧嘩別れした後、明日また顔を合わせると考えれば憂鬱になるだろう。それとも怒りを募らせて仕返しを目論むだろうか。絶縁を突きつけて距離を置くだろうか。人それぞれだ。
和解という形が一番望ましいだろう。風太郎からすれば納得できるものではないが無難なのはこれだ。風太郎は絶縁を突きつけ一切の関係を断ち切ってしまうのだ。
しかしこれは相手が他人の場合に限る。自身の都合だけでできるものだ。
家族はそうはいかない。仮に憎い肉親でも血の繋がりは切れない。切ったつもりでも後に必ず糸は辿られる。それが相手自らなのか、それとも他人が辿るのかは分からない。
姉妹と衝突すれば、その家にいる以上次の接触は避けられない。絶縁は現実的ではない。
対立するのならどちらかが妥協しなければ和解は成り立たない。そもそも和解など甚だ不本意に感じるだろう。それでも誰かが折れなければならない。
自分を押し殺して他人を受け入れる。広い心を持たなければ成せない処世術。我慢強くなければならない。
だが心の弱い者がそれを強いられてしまったら。きっと不幸な生き方だ。
それは何の為に笑っているのか。誰の為の笑顔なのか。意味などない。ただ笑えば楽なのだ。意味などなくても笑えるようになるのだ。
だがそうして知らぬ間に詰め込んでいけば溢れる。欲を堪えて、堪えてきた子が堪えられなくなった時。次はどうするのだろうか。繰り返すのだろうか。立ち直れるのだろうか。どれも報われない。
知っていたら選ぶんじゃないだろうか。直すより壊れたほうが楽になると。
「ガハハハ!
この子が中野さん家の子供か!
ちっこいな!らいはを思い出すな!」
「私ここにいるんだけど」
「何もねえけど好きにしていけ!
お?この牛乳消費期限が切れてやがる
間違って飲ませたらまずいな!」
「まずいのを目の前で飲むなよ」
「お、おなかこわしちゃうような…」
肩を縮めて萎縮している子供の前で期限切れの牛乳を飲む大人がいる。やめてくれ、特にこいつは父親を知らないから自重してほしい。
祭りから自宅に帰った後だ。ちゃぶ台には祭りの屋台で買ったものが並んでいる。親父に買ってきたものだ。せっかくだから祭りの雰囲気を味わってもらいたい。
なのに最初に口にしたのは腐っているか怪しい牛乳。相変わらずの父親だった。姉妹喧嘩してナイーブな子が泊まりにきているのに。
食べてもいいぞ、と親父は四葉に温めたお好み焼きやイカ焼きを切り分けて寄せてきた。あんたの分がなくなるじゃねーか。食べてきたことを伝えると笑って箸を掴んだ。
しかし親父がつい勧めたくなる気持ちは分かる。四葉は目の前に置かれたケーキを一向に食べないのだ。
部屋に入るまでは食べる!と喜んでいたのに親父を見て緊張してしまったようだ。金髪もそうだが頭にかけたサングラスも悪目立ちしている。
「ほら」
「わっ」
「時間が経つとおいしくなくなるぞ」
「あ…あー…む」
風太郎はみかんのケーキをフォークで切って四葉の口に放り込んだ。緊張で食べづらいのだろうか。もきゅもきゅと擬音が発しそうな顔だった。ケーキ一つに何してんだ。
「…おまえがそんなことするなんて意外だな」
「いや、これは」
「お兄ちゃんは中野さん家の子には甘いよ」
「ほー」
「…もう一人で食ってくれ」
「~!」
四葉が何か訴えている。そんなに手を振ったって分かるわけがない。とりあえず口に入ったものを呑み込め。
結局全て食べ切るまで風太郎が食べさせることになった。テレビでもあればそっちに集中するものだろう。そんなものはないから親父にも妹にも見られていた。そりゃあ四葉も緊張する。
ケーキを食べただけなのに露骨に息切れしているぞ。息でも止めていたのだろうか。このままでは明日の朝には恩師の子が冷たくなってしまうかもしれない。全く洒落にならん。
「四葉ちゃんお風呂入ろー?」
「おふろですか?」
「らいはと一緒に入ってこいよ」
「は、はいっ」
らいはと二人きりになれば多少気が紛れるだろう。この子の母親が用意してくれた寝巻きを持って風呂場に案内されていった。
いつもなら勉強でもしている風太郎だが、その前に父親にちゃんと説明するべきだろう。
知り合いの子供が泊まることになった。そうらいはが告げただけで笑って了承しただけだ。何も話していない。
「おまえ変わったな」
「あ?」
「勉強とバイト以外に興味なかっただろ
中野さんの影響か」
親父には自分が染めた髪を戻して勉学に集中するようになったきっかけが先生だと知られている。
気恥ずかしかった。あまり親父の顔が見れなかった。なぜだ。肯定しても問題ないはずだ。
「いいことなんだが…あー…
なんでもねえ」
「なんだよ」
「…先生とは仲良くなって、同い年の子とは仲良くなんねーのか」
「そんなこと考えたことねーよ」
それこそ親父が言った勉強とバイト以外興味がないわけだ。先生のことだってその延長線のようなものだ。きっかけは。
親父は何が心配なのか分からないが言いたいことは分かる。しかし学生と恋愛をしてくれと言われても困る。アレは学業からかけ離れたものだ。風太郎には接点がない。
「前に中野さんのところに泊まったよな
…おまえのやりたいことなら応援するし小遣いが必要なら出す
家に入れている分もおまえが稼いだ金なんだ、使いたい時に使えよ」
「いやいい、その時は相談する」
「おう」
息子が全てを話さないまま父親は笑ってしまった。自分の言い分を堪えて、子供にとって都合のいいものだけ話している。いつもそうだ。
この狭い家で自分のテリトリーなどない環境でも、風太郎は反抗期などなかった。
帰るのも遅い。苦労を見せない。弱音を吐かない父親に反抗期など、子供の甘えなど見せたら負けだった。あんたの子供じゃないように思えてしまう。
「…
親父は辛くなかったのか」
「辛い?」
「…中野先生の家庭、少しは知ってるだろ」
「んー…中野さんの家か
つっても、男と女はちげーぞ
それに、俺にはおまえがいたからな」
「そうじゃなくて」
「そういうもんだ
らいはの面倒を看てたし、しっかりしてるし、家空けてても心配してなかったぞ
こうして他所様の家を労われる奴になったしな」
「…だからそういうのじゃねえよ」
むず痒い。妹の面倒は兄がするもんだ。しっかりしているのは妹のほうだろう。風太郎がこの家に貢献できるようになったのは高校に入ってバイトしてからだ。
しかし今まで風太郎が生まれてから両親が費やしたものに比べたら微々たるもの。到底支えになっているとは考えられなかった。
「なんだ、苦労話が聞きたいのか?
苦労つったってなぁ…おまえら生まれた時からある程度覚悟してたしなー」
「親父みたいに割り切ったり、元気な奴ばかりじゃない」
「んーそうか?
んー
…ん~!」
「何で捻り出すのに悩むんだよ
一つはあるだろ」
親父は唸りながらお好み焼きを食べている。食べてるのに邪魔して悪かったな。らいはと四葉がいる前じゃ聞けないんだよ。
食い終わった親父は母親の写真を見て、頭を掻きながら教えてくれた。
「あーなんだ
母さんがな、いろんなもん残していってくれたからな」
「…」
「母さんのお陰だな! 俺に育児とか無理に決まってんだろ!
おまえも、いろんなもん教えてもらったんだろ
みかんの葛湯、懐かしかったぞ
次はパン焼いてくれ!」
「…懐かしいな
考えとくわ」
「いや気が向いたらでいいぞ
でもそうだな…
母さんが手伝ってくれてなかったらしんどかったかもな!
俺も、おまえ達も」
確かに、死んだ母さんは残していってくれた。思い出も。愛情も。
傍にいてくれていた、そんな当たり前だった過去が少しだけ、独りになってもどこか心を軽くさせてくれた。
らいはも親父も同じだったようだ。それぞれ受け取ったものは違うだろう。どんなものだろうか。触れてはいけないようで聞いてみたい気持ちもある。
しかし、親父の意見は先生の参考にはなりそうになかった。あの旦那は何も残さず妻に傷を負わせて消えていった。考えると殴りたくなるものだ。
「うえすぎさーん」
「おまえ、またそれか」
「かみ、ふいてくださいー」
四葉が風呂から上がったようだが、顔だけ出してこっちを見ていた。少し濡れているように見える。また拭けというのか。
手招きするとタオルを片手に裸の姿で駆け寄ってきた。親父が驚いていたが風太郎がタオルで拭き始めると笑っていた。やらなきゃ風邪ひくだろうが。らいはも上がったようで親父が先に風呂に入ることになった。
立ち上がって母親の写真を見て、少し笑っていた。最愛の人を亡くした時この人は何を思ったのだろうか。風太郎は知らない。きっと親父は話さないだろう。
ただ、いつ見ても父親の背中は大きく、強いものだった。男と女は違うと言ったが、強くあり続けるというのは地獄なんじゃないか。楽になれる日はあるのか。救われる日はあるのか。救いは何になるのだろうか。
「うえすぎさん?」
「ああ、わるい」
「…みんな、おこってるかな」
「どうだろうな」
親父の話に気を取られていた。風太郎は目の前でされるがままに体を拭かれる子供を見る。ついさっき笑いながら駆け寄ってきた子が俯いている。
三玖と衝突し、仲介しようとした一花に当たり、咎める二乃と五月も拒絶した。普段の四葉が振るうものではない。子供らしい我侭なのにどうしてこの子はここまで心を痛めなければならないのだ。
最近見える四葉の不調。自宅に帰る前に母親から聞いた情報を踏まえると馬鹿正直に本人に聞いても効果は薄いようだ。子供のくせに生意気だ。
四葉の体を拭き終えて、寝巻きに着替えさせてから尋ねてみた。
「おまえ、いつも好き勝手遊んで周りを振り回してるくせに鬼ごっこに拘るよな
他に好きなことはないのか」
「…あるけど…
みんな、あそんでくれなくなったから…」
「嘘つけ、鬼ごっこで遊んでくれたって聞いたぞ
なんだ、4対1で虐められたか
日頃の恨みを晴らされたか」
「そ、そんなんじゃないよ!
…しんぱいされてあそんでも…うれしくないもん…
もっと…ふつうにあそびたい…」
「普通に遊んでくれないのか?」
「…ふつうにさそっても、あそんでくれなくなっちゃった
三玖はうえすぎさんのことばっかりだし、おそとであそぶのやだって
二乃もさいきん、おかしづくりで、おててよごしたくないって
ふたりがあそばないと、一花も五月もあつまらない」
それはつまり…俺のせいか!? 風太郎は胃が痛くなった。
姉妹が四葉から風太郎を取ろうとして起きた此度の喧嘩だが、元は風太郎が四葉から姉妹を取ってしまったことが原因だったようだ。なぜそうなる。
果たして四葉は自覚して説明したのだろうか。内心風太郎を恨んでいるのだろうか。考えると恐ろしい子だ。
そこからなぜ、風太郎と遊びたいという願望に変わった理由は分からない。母親の話では鬼ごっこが楽しいからだと推測できるがこの話を聞いてしまうと早計だろう。
「毎回外で遊んでるわけじゃないだろ?
普段家で何をしてるんだ?」
「ぬりえとか…おにんぎょうとか…テレビとか…
…あとはけんかして、おこられてます!」
「変わらねえな」
笑ってんじゃねえよ。つい風太郎も笑ってしまった。笑えない話だがこの子が笑っているだけで十分だ。四葉は風太郎の笑顔に嬉しそうな反応を見せた。
「おかあさんもげんきです!」
「そうか」
「えへへ…うえすぎさんのおかげですよ」
「何もしてねえぞ」
「してるよ!
だって、いっぱいわらってるもん!」
先生が何を思っているのかは知らないが、心の病を抱えている身で笑顔を見せるのなら良いことだろう。良かった、と風太郎は安堵した。
風呂に入って喉が渇いただろう。牛乳は先の親父の一件があるからやめておこう。風太郎はコップに麦茶を注いで渡した。
嬉しそうに受け取った四葉はにこやかに尋ねてきた。笑ったり落ち込んだり笑ったり、忙しい奴だな。
「うえすぎさんは、おかあさんとけっこんするの?」
「おまえ、それ絶対に他の奴に言うなよ」
「ふにゅー!?」
笑って飲み物を飲もうとする子供が苦悶の表情をしている。少し気を許すとこれだ。
腰に手を当てて麦茶をあおる四葉に指でコップを押してやる。頷くまで下げさせんぞ。泣いたら困るから程ほどにしてやる。
口からコップを離した四葉は懲りずに訴え続けた。
「うー…でも、おかあさんがすきならいいのに」
「そんなつもりはないって言ってるだろ」
五月もこの話にうるさくなっている。何を期待しているんだ。父親にさせたいみたいだが五月も四葉も父親を詳しく知らないだろう。単純に傍にいてほしい願望じゃないのか。
寂しかったり遊んでほしいのなら付き合うつもりだが、妙な捉え方をされると困るのだ。シングルマザーに余計な気遣いなどさせたくない。
「先生もそう言ってるんじゃないか
しつこいと嫌われるぞ」
「うーん…おかあさんにきくとね、なにもいわないの」
「それ怒ってるか困ってるかのどっちかだろ」
母親の不調は見抜くくせに何でそれが分からないんだ。興味のないものには反応しないのだろうか。
らいはも寝巻きに着替えて戻ってきた。明日返せるようにと四葉の着替えを洗濯していたらしい。気が利く妹だ。
妹の前で先生と結婚なんて話はできない。親父も風呂から上がり、風太郎も入ることにした。
らいはと遊ぶのかと思ったら四葉はついてきた。狭い脱衣所までついてきて、風呂でシャワーを浴びている最中も話しかけてきた。おかげで自宅の風呂なのに腰にタオルを巻くはめになった。
楽しそうに笑っているが、ここまでされると分かる。不安なのだろう。この子は自覚していないのかもしれない。いつも一緒の姉妹がいなくて寂しいのかもしれない。
何かを求めて、心の隙間を埋めたくて必死なんだ。風太郎は風呂場のドアは開いたままその声に付き合った。
「四葉、らいはと寝るのか?」
「…
こっちがいいです」
「マジか」
「い、いやですか…?」
「一夜でおまえの寝相の悪さが嫌になったと言ったら諦めるか?」
「ご、ごめんなさいっ」
「お兄ちゃん我慢だよ」
幼い子供がいるわけで、少し早めに消灯することにした。
布団を三つ並べて、玄関側の父親から並ぶ妹と風太郎はそれぞれ寝る準備をしていた。親父は明日早いこともあって早々に寝るそうだ。
親父が寝る様子を見て四葉は声のボリュームを下げていた。気を遣える子だ。それを寝相に活かしてほしい。申し訳なさそうに風太郎の布団が選ばれてしまった。
中野家に泊まった日。一番奥で寝ていた子が三人の姉妹を乗り越えて風太郎に蹴りを入れていたのだ。
風太郎とらいはの間にスペースを空けた。四葉は笑ってその間に横になった。布団と布団との溝を背にすれば寝づらいだろう。やや風太郎の布団に寄った。
皆が床について風太郎は部屋の灯りを消した。消灯しても四葉とらいはは話し込むのだろう。そう思っていた。
祭りの後だ。らいはも四葉も眠そうだった。四葉と話したいことは沢山あるようだが話の半ばで眠ってしまった。今日は助けられた。ありがとう。風太郎はらいはの布団をかけなおした。
我が家の夏の夜は基本扇風機で涼んでいる。暑苦しければ冷房をつけるが今日は涼しい夜だった。時折響く風鈴の音が祭りの後だと教えてくれるような気がする。
「うえすぎさん」
「ん?」
「おとまりしたとき、五月となにはなしてたの?」
あの時の五月に似て隣で寄り添っている子供は全く目を閉じていなかった。
明日は四葉が望んだ通り、この子が満足するように遊ぶ予定だ。休める時に休んでほしい。
「早く寝ろって話」
「じゃあはやくねます…」
「眠れないんだろ」
「…
じゃあ…これ」
「あ?」
四葉が風太郎の腕を引っ張る。何がしたいのか分からないが力を抜いてされるがままにした。
枕をどけて、腕を伸ばして、二の腕を枕代わりにされた。枕は三個しかないから貸してやったのに恩知らずな。その枕を返してもらった。
「腕枕か」
「えへへ…おとうさんみたい」
「父親でもしねーよ」
「そうなんですか?
うーん、よくわかんない、えへへ」
「…おまえがしてほしいことだろ」
「おー、そっか
…ししし、なんかいいですこれ」
随分と嬉しそうに笑ってくれるのはいいが、それ以上近づかれては困る。今は夏だし、シャワーを浴びた後で涼しい夜だとしても脇汗が心配でもある。ずるずると寄ってきても笑ってるから大丈夫だろうか。
そのまま放置していると胸元の寝巻きを掴んでしがみつかれてしまった。そこまで姉妹と同じか。以前五月と三玖に挟まれて身動きが取れなかった夜を思い出した。
「やっぱり、うえすぎさんがおとうさんだったらよかったのに」
「…父親じゃなくても、このぐらいしてやる」
「ほんとですか?」
「今してやってるだろ」
「そっか…なら…いいの、かな…」
子供が親を求める気持ちに理由などないだろう。あえて理由を付けるとすれば、この子は助けを求めていたのかもしれない。
母親を助けてほしい。自分を助けてほしい。子供が大人に頼りたい気持ちだ。実の父親がいないのならそれ以外、母親か…周りの大人が助けなければならないだろう。
この子を知ればきっと手を貸そうとするだろう。風太郎がしているように。幼稚園の先生に、これから会うだろう小学校の先生に、素直に大人に助けを求める子になってくれ。
腕の中で眠る子にそう願い、今まで頑張ってきたことを褒めるように、風太郎は優しくその子の頭を撫でた。
翌朝。夜の涼しい気温が上がってきているのを感じる早朝。風太郎は四葉と一緒に歯磨きをしていた。
歯磨きが苦手のようで、昨日はらいはと風呂上りに済ませたそうだが今朝になって手伝って、と甘えてきたのだ。こっちが歯磨きをしている最中に。
仕方なくこっちが中断して手伝ってやった。小さな歯を丁寧に磨いてやる。四葉は何が楽しいのか眠そうな風太郎の顔をずっと眺めていた。首が疲れないのか。
歯磨きを終え、顔を洗いタオルで拭いた四葉は笑った。
「しずかだ!」
「…だろうな」
朝の静けさが珍しいようだ。五人の姉妹がいれば何をやっても騒がしかったり順番待ちしたり朝から忙しいのだ。よく知っている。トイレ待ちも面倒くさかった。
「顔を洗うのも順番待ちだったか
上からいって四番目か?」
「?
にばんめですよ?」
「ほー、下からか…?
誰が決めたんだ」
「一花ですっ」
「ふーん、妹思いで良い奴じゃねーか」
「…うん」
喧嘩してしまった姉に何か思うものがあるのだろう。笑顔が消えてしまった。優しい姉を信じろ、というのは簡単だがそれでは四葉はまた遠慮する日々を送るだろう。困った子だ。
「あ、どきます!」
「もう終わってる」
「あ、あれ?」
「おまえの後ろからでも届く
だからそのタオルはよこせ」
洗面台から退いた四葉が驚いている。タオルは持っていくんじゃねーよ。濡れた顔を見てわかんねーか。
四葉が顔をぱしゃぱしゃと律儀に洗っている最中に口をゆすいだし、タオルでごしごしと拭いている最中に顔も洗ってしまった。あとはおまえが持ってるそのタオルだ
タオルを奪って顔を拭くと四葉が腕に飛びついてぶら下がってきた。
ぐおおお。子供より長いだけで力持ちなわけじゃないぞ。
「おとうさんは?」
「だからお父さんじゃない…いいから離れろ…」
「ちがうよ、うえすぎさんの、おとうさんです」
「親父は仕事だっ」
「な、なつやすみなのに!?」
「全国民がお休みだと思うなよ、幼稚園だってやってるところあるんだからな」
「あれ!? ようちえんもおやすみなのに!?」
夏休みでも忙しい親が沢山いるんだよ。おまえはその点運がいいぞ。預けられる子供が決して不運だとは言わないがな。
「俺も午後はバイトだから遊ぶのは午前中な
その後お母さんのところに帰るぞ」
「は、はーい」
顔もさっぱりしたことでらいはと朝食を食べることにした。食パンと牛乳が多いのだが今日は四葉もいる。奮発してサラダも添えられた。運がいいな四葉。
余談だが朝食前に歯磨きするほうがいいのだ。口内の菌を食物と一緒に食べないように。先生も知っていたようで四葉の生活習慣に取り組まれていた。理由を教えても四葉は首を捻っていた。ダメか。
「四葉ちゃん寝相悪くなかったよね
お兄ちゃんの嘘つき」
「蹴られはしなかったがすげー締め付けられたぞ
途中でボタン外したわ」
「?」
お腹が空いていたのかパンにかじりつく四葉は分かっていなかった。おまえ熟睡してたもんな。横向きだと涎が垂れそうだったから仰向けにしてやったり、寝巻きがめくれて腹が出てたのを直してやったのに。
何度も寝巻きを捕まれ、足が絡んだり乗せられたり散々だった。あまり眠れなかった風太郎だった。
間違いなく寝相は悪い。何度も寝返りを打とうとしてその度に身体が傾いていたからな。今日大人しかったのは風太郎の微調整が効いたからだ。影で努力していたのだ。させられていたのだ。
「四葉ちゃんのお昼ご飯はどうするの?」
「こっちで食べられないだろうな
先生のところで食べてもらうか」
「わかった、連絡しておくね」
らいはは携帯を取り出してメールを送ったようだ。こんな朝早くからいいのだろうか。いや、先生なら四葉を心配しているのかもしれない。早めに連絡したほうが良いか。
風太郎のケーキ屋でのバイトが12時から21時までだった。夏休みは大体がロングだ。店長の気配りで連日は避けるようにしてもらっている。昨日は17時までだったから今日がロングとなったのだが。
「今日は遅いんだ…間が悪いね…」
「仕方ねえだろ」
ただでさえ店長には子供たちのことで気を利かせてもらっているのだ。正直四葉には午後まで付き合ってやりたいが休むわけにはいかない。
「何して遊ぶの?」
「鬼ごっこだ」
「おにごっこです!」
「飯食って歯磨いたら行くぞ
満足させてやるから楽しみにしてやがれ」
「うん!
あ、えっと…リボンつけて!」
「今食ってる……あー、わかったわかった
こっちこい」
「…お兄ちゃんって将来良いお父さんになるよ」
こんな面倒くさい子供が実の子供にだったら疲れて引き篭もるわ。
いや、何で実の子供でもない子にここまでしているんだ。おかしいよな。ふと風太郎は疑問に思った。
面倒くさい子にいつものリボンを結んでやる。
寝相が悪くて眠気もある。急に甘えられて腕を痛めた。甘えたかと思ったら落ち込んで分かりづらい。遊ぶと疲れるが遊ばないともっと疲れる。面倒な子だ。
リボンを付けた四葉が座る風太郎の膝に飛び込んできた。これから遊べることが嬉しくて溜まらないのだ。
食事中はやめろと咎める風太郎の目がとても優しいものだと妹はそう見て取れた。
以前遊びにきた公園に着いた。四葉からの要望だった。四葉が鬼ごっこに拘る理由を考えるとここが適所だ。一度鬼ごっこをした場所だ。かくれんぼのはずだったんだがな!忘れてはいけない。
朝の8時を過ぎた頃だ。夏の猛暑はこれからだろう。まだ公園には人気は少ない。熱中症を危惧して持参した水筒や日傘代わりの折りたたみ傘をベンチに置いておく。公園に水道はあるが念のためだ。
四葉はやる気が漲っているようで準備運動をしていた。おまえがそんなことし始めるの見たことねーぞ。やるのはいいがどうやって捕まえてやろうか。
「ルールは公園から出ないこと
戻れと言ったら戻ること
あと時間制限もつけるからな」
「えー」
「…1時間とかだったら五分置きに休ませてもらうぞ
まあ20分だな、ちゃんと本気で遊んでやるよ
捕まれば俺の勝ち、逃げ切ったらおまえの勝ち
おまえが勝ったら次の休みに好きなケーキ奢ってやるよ」
「!
わかりました!」
ケーキが食えると聞いて目の色が変わった。みかんのケーキが食いたいんだろ。本当に好きだな。
少し二人の距離を取ってから風太郎の、よーいどん、という声を合図にして始めた。
既に背中を向けて走り出すのを待っていた四葉は早かった。
それでも風太郎はその背中を捕まえた。
「…あ、あれ?」
「ぜぇ…はぁ…まずは一勝」
「えー!?」
四葉が唖然としている。現役高校生を嘗めるなよ。
以前のような足場の悪い林や山道だったら難しいが、平地での全速力で子供に負けてたまるか。
四葉は前回の苦戦を見ていたのもあって、すぐに捕まってしまったことに呆然としている。そのままベンチまで連行した。あそこは日陰で涼しいのだ。
なぜ連れて行かれることになったのか分からない四葉に告げてやる。
「はい罰ゲーム」
「ええええ!?」
「俺の質問に正直に話すこと
これを破れば前におまえたちが母親に渡した似顔絵の――」
「ダメですぅう!」
公園に四葉の悲鳴が響く。遊ぶのはいいが下手したら警察官が来ないか心配になってきた。
コップ付きの水筒から冷えた麦茶を注いで渡してやる。脱水には気をつけないといけない。
罰ゲームと言ったがついさっき思いついたものだ。自分だけ奢るのも癪だったから捕まえた時にこれにしようと決めたんだ。
何を聞くか迷ったが、良い機会だ。聞いてしまおう。あまり待たせると不安から脂汗を垂らす四葉がもたないようだ。
「一花は好きか?」
「へ?」
「あいつはな、同い年でも長女として頑張ろうとしている
妹思いの優しい子だ
あの時も、三玖とおまえを守ろうとしていた」
「…」
いくら慕っていても、喧嘩別れした相手の話題だ。相手を褒めれば自然と敵対している自分が辱めを受けているように感じる。
四葉は俯いてしまった。
「だけどなー
あいつはそれ以上にドジだし、ガキ大将で人の物を盗るわ、小細工使って大人を騙そうとするどうしようもない奴だ
大人になるとか訳分からんこと言ってコーヒーを吐いたり、風邪ひいたのに親に嘘をついた後、さらに目薬で泣いたフリをする奴だ
おまえより評価が下がって一位から最下位にどーんっ!って落ちた不届き者だ」
「え、ええええ!?」
さっきまで褒められていた姉が急に貶されて妹が驚いている。顔を上げて慌てだした。
「一花はそんなわるいこじゃないよ!
と、とっちゃうけど、ほんとうにいやなことはしないし
こまってると、たすけてくれるし
おかあさんも…たよりにしてて…」
「でもそれ以上に問題起こしてるからな」
「え、えと…えっと
でも、わるくちいっちゃダメなんです!」
「ふーん
…じゃあ、次いくぞ」
「あ、あれ?
は、はい!」
急に話を切られて四葉が慌てて麦茶を飲み干した。あまり長く話すと他が聞けなくなるからな。
二回戦となる。四葉と再び距離を開いてから始める。
だが、四葉は待ったの手を見せてきた。
「待った!
うえすぎさん、もっとはなれて!」
「はいはい」
一回戦目の二の舞は避けたいのだろう。賢いな。さっきより二倍の距離が開いた。
よーいどん、の掛け声で始まる。
距離を二倍にしたところで大して変わらない。全速力で走りその背中を捕まえた。
「うきゃー!?」
「はい罰ゲーム
ほら、こっちに来るんだ、暑いんだから」
「うわーん!
たのしくないですー!」
「良い機会だ
鬼ごっこがトラウマになって嫌いになればやめるだろ」
「と、トラウマ…?
なんかわかんないですけどいやですー!」
日差しがきつくなってきたのだ。十分も経っていないのに夏の暑さは非情だ。早くベンチに戻った。
二連敗に轟沈して俯く敗者に麦茶を手向けてやって罰ゲームをさせてもらう。
「二乃は好きか?」
「うー
二乃のおかしすきです…おいしいですよねっ」
「確かに毎回上達している、器用な子だな、こっちも教え甲斐がある
おまえも見てたから分かるだろ、俺とあいつすげー仲悪かっただろ」
「あれって二乃が、いやがってたんだよ?」
「ぶっちゃけ俺だって好きじゃなかったわ」
「ええええ!?
だ、だってあんなに!?
あれ!?」
「でもあの子と手を繋げたのは素直に嬉しかったがな
子供相手に馬鹿なことしてたが、あの子に認められた時は嬉しかったぜ
今だって菓子作りは面倒だが二乃が笑ってるから続けられてるんだ」
「…うんっ!
うえすぎさんとてもやさしいから、二乃も――」
「まあ生意気なのは変わらないがな」
「…」
四葉は笑ったまま固まっている。子供のくせに良いリアクションをしてくれる。なんだか楽しくなってきたぞ。
「菓子作りだってな、上手くはなってるがまだまだだ
つーか、レシピ通りに作らなくなったし、甘えてきたと思ったら忘れちまったのか、ころっと態度を変えるからなあの天邪鬼
三玖とよく喧嘩するし、二番目の姉だってのに一花とは全然違うだろ
あいつが一番我侭だし、甘えん坊のくせに甘え方が下手なんだよ」
「に、二乃は…その…その………そのっ」
「何も言えないだろ」
「に、二乃はみんなまもりたいんです!
わがままなのは、その…うえすぎさんがひどいからだよ!」
「こら、俺は二乃にはすげー甘いぞ」
「二乃はうえすぎさんのこと、すきなのに…」
「ほー」
「しんじてない!?
三玖もだけど、二乃がいちばんさいしょに、きげんわるいの!
あえないと、こっそりないてました!
だから…つめたくしちゃダメ!」
「…そうだな、わかった
…次やるぞ」
それは初耳だ。母親がいない寂しさを抱えているのは知っていたし、それは未だに解決されていない。寂しくないわけはないが、寂しくても姉妹と過ごしている内は大丈夫かと思っていた。
だが、まさか嫌っていた自分と会えなくなったからって泣くのか。あの子が。素直に慕ってくれるし甘えられることはあったが泣かれるとは思っていなかった。
正直、二乃とは菓子作りの点以外で深く接することは避けていた。あの子が大事にしたいのは家族だ。返ってお節介になるかと思って見守ることを重視していたのだが、改めた方がいいのだろうか。
次会った時にそれとなく見てみよう。お菓子作りしようってせがんでいたからな…また、あの子が好きなパンケーキにしてみようか。
やることを決めて、気分を切り替える。今は隣で憤慨している子が先だ。
「まった!
じゅーびょう!
じゅーぎょう、まってください!」
「おまえ森に逃げるからやだ」
「ダメなの!?」
「いや、いいけど」
次は簡単にはいかないようだ。仕方ない、走るのは疲れるしのんびりいこう。
十秒待つことにする。カウントし始めると四葉は慌てて山なりの林へ走っていった。非常に面倒である。前回と同じくあの子が手加減するまで捕まえられないかもしれない。
風太郎は十秒経った後、森を確認しながらベンチから離れて森の隅の茂みに隠れた。四葉が走った方向から死角になる位置だ。
少しして、四葉が待ちかねたのか森の中の一本の木から顔を出してベンチのほうを窺っていた。そこに風太郎はいるはずもなく、きょろきょろと周りを探っていた。
風太郎は物音に注意して背後から回り込み、その背中を叩いた。
「ひっ、ひゃああああああ!?」
「はい罰ゲーム」
「こんなのおにごっこじゃないですぅうう!」
「くくく、おまえが馬鹿なのが悪い
言っておくが、おまえとあの時遊んだのは
かくれんぼだからな!」
「いまはおにごっこぉ…!」
突如背後に現れた風太郎に四葉は悲鳴を上げた。驚いて転びそうになったところを掴んで抱えてやると、ぽかぽか叩かれた。
もはや半泣きだった。ベンチのほうを見て不安そうに自分を探す子供の姿は少し心が傷んだ。文句を言いながらも四葉は風太郎を掴んで離していない。膝をつくと案の定首にしがみついてきた。
悪かった、と謝って四葉を抱えながらベンチに戻った。罰ゲームは受けてもらうがな。代わりにケーキは奢ってやるから今は許せ。
ベンチに連行して続けるとする。
「三玖は好きか?」
「そのつぎは五月なんですね」
「三玖は酷いな
甘えん坊で可愛いのはいいが、自立できるのか不安だ
考えてみろ、小学校はな、クラス分けがあるんだ
幼稚園みたいに五人揃ってることはまずない
もし三玖が一人になったらどう思う?」
「…」
答えない四葉は小学校をよく分かってないだろう。だが一人になったらどうなるのかは考えたようだ。姉のことを考えて妹の顔が強張ってきた。妹からも不安に思われてるぞ三玖。
「俺はそれが心配だな」
「あ、やっぱり…うえすぎさん三玖がすきなんだ…」
「あいつ大人しいと思ったら、案外我侭なんだな
好きなもんは全部独り占めしてるんだろ
良い子なのは確かだがな、あのままじゃ小学校で虐めの原因になるぞ
そんな姉がいたらおまえも大変だろ、協調性なさそうだもんな
その割に臆病だし…陰気な子になったらおまえらを見る目も変わるってもんだ」
「?
よくわかんないけど、三玖はそんなこじゃないよ!
とってもやさしくて、一花をとめてくれるもん!
五月におかしあげるし、おねがいきいてくれるし
二乃とけんかしても、すぐなかなおりするもん!」
「そっか」
「…でも…
うえすぎさんとったら、三玖がこわい…」
「台無しじゃねーか」
「三玖こまってたもん
はしるの、にがてでもがんばってました!
ころんでもなかないよ!
ころんだらね、だいじょうぶ?っていってくれるの!
だいすきな、おねえちゃんだよ!
……なかなおり、したいっ…」
「…そんなに優しいならできるんじゃねーの
次やるぞ、麦茶はいいのか」
「おなかいっぱい」
「じゃあ俺が飲む」
興奮して、泣きそうになった子の頭を撫でてやる。そう思ってるのなら不安になることはないだろ。分かってても怖いのは当たり前だがな。でも口にして分かることはあるはずだ。
麦茶を飲んで再び始めるとする。
「まった!
つぎは、つぎこそ、しんけんしょーぶです!」
「マジになってるのはおまえだけだ」
「やだ!ちゃんとやるの!」
「わ、わかったわかった」
怒らせてしまったか、強い拒絶を見せてきた。流石にだまし討ちで捕まえられたことは不満でしかなかったようだ。
「よーいどん」
「じゅーびょうですよ!」
慌てて森へ駆け出す四葉を見送った。悲しくて泣きそうになったり、懸命に姉を擁護したり、ふと落ち込んだり、なぜか笑ったり、慌てて走ったり。忙しい奴だな。
十秒が経った。今回は負けるかもしれないな。
森から追い出さないと勝てそうになかった。足の速さは勝っても子供のような身軽で俊敏な動きはできない。全速力で足場の悪い道を走れば転ぶだろう。大人は分かる。
小走りで四葉を見逃さないように追った。遠目ではこちらを振り向いては逃げる四葉が見える。
こうしているうちはいい。多少遠回りになってしまうが、四葉が森に戻れないようにじりじりと攻めた。四葉が焦ってウロウロしているのが見えた。
「ずーるーいーでーすー!」
「何言ってんだ…
仕方ねえな」
「やー!?」
ずるいと言われたから走りだすと悲鳴が聞こえた。急に走ってきて驚いたのだろう。四葉が逃げた。ここまでいけばもう森から追い出せる。
森を抜けると、以前二乃が隠れていた土管が見えた。平地なら四葉を簡単に捕まえられる。それを分かっていた四葉はその土管の向かいに立ってこちらを見ていた。
土間に近づいて、土管を挟んでにらみ合った。四葉は息が切れていた。
「降参か?
疲れてるなら大人しく捕まって次の鬼ごっこでもいいぞ」
「ばつゲームするんですか?」
「五月の分があるしな」
「みんなのわるくちはいやです!」
「じゃあ捕まらないようにな」
「わー!?」
四葉が逃げた先はジャングルジムだった。子供が怪我することを危惧して遊具を取り外す公園が多いが、ここは色々と置かれているようだ。
四葉は慌てていても器用に登っていった。
「…」
「ど、どーですかうえすぎさん!
つかまんないよー!」
「おまえ、それは捕まるだろ」
「え?」
「少し手を伸ばせば届くぞ」
「わわー!?」
子供の頃はこうした遊具が大きく見えたものだ。高校生になればその小ささに自身の成長を感じるものだ。
四葉が登った高さは精々2m。子供には何倍もある高さだが風太郎からしたら簡単に届く高さだ。
それを知った四葉はさらに上に登ろうとして、ちらちらとこっちを見ていた。
「なにしてんだ」
「うえすぎさんものぼるの!」
「登った隙に下りて逃げる気だろ、卑怯な」
「ええええ!?
い、いいの、のぼるの!」
見上げると四葉は泣きそうだった。どうやら罰ゲームが相当嫌なようだ。
仕方ない。逃げられるかもしれないが登るとする。足をかけるとその棒が細くて小さいもので昔と違うことがよく分かる。
「…」
「見てんじゃねーよ」
「はやく!」
あまり速く登って四葉を急かすのは怖い。ゆっくり登った。
四葉は逃げなかった。なにやら不敵に笑っているのが無性に腹が立った。
随分と自分が四葉を見上げていることに気づいた。
高さは3m弱といったところか、四葉は頂上まで登り立ち上がっていた。細い棒を足場に器用に立っていた。
「仕切りなおしだ」
「え?」
「危ないから十秒数える
降りて逃げな」
「あ、こわいんですかー?」
「罰ゲーム増やすぞこのやろう」
言っても聞かないようだ。生意気なその顔でよく分かる。あまり長話をするのも良くない。夏の日差しで汗をかいているのだ。立ちくらみなどしたら転倒する。
しかしこちらが早く動いたせいで驚いて転ばせても問題だ。ゆっくり登って追い出すことにした。
余裕を見せつけたいのか、四葉は手を使わずに頂上を歩いて見せた。こっちからはその余裕ぶっこいた顔は見えんぞ。足と靴しか見えないのだ。
前を向いていたその靴が急にこちらを向きだした。おそいですよーなどと聞こえる。器用にくるっと振り向いたようだ。生意気な奴。
その靴が、つま先が上を向いたまま、カツンと嫌な音が響いた。
上を向く暇はなかった。嫌な予感がしたから急いで駆け上がった。靴しか見えなかった視界に四葉の腕や膝、顔が見えた。
足を滑らせて落ちている。
「四葉ッ!」
頭から落ちている。風太郎は蹴って四葉を抱えた。意地でもその頭だけは抱えた。頭を胸に抱えて両腕で包んだ。
自分の足が鉄の棒に当たる感覚がした後、そのまま地面に落ちた。転がって砂埃が舞った。
背中と肩が痛い。足がジャングルジムに当たったがそこは何も問題はなかった。あれが当たったお陰で少しでも落下が緩やかになったのかもしれない。だが痛い。
胸の中にいる子は風太郎にしがみついていた。動いていることに安堵して抱きしめる腕を解いて大の字で寝転んだ。
四葉は震えながら恐る恐る立ち上がった。
怪我はないようだ。少し砂の汚れが目立つが、見上げる子供には赤い色も痛みを堪える様子もなくて安心した。しかしリボンは外れてしまったようだ。抱える時に取れてしまったか。
リボンを探そうと痛む体を起こそうとして、目元にどろっとしたものが流れた。
「うえすぎ…さん…っ
ち…ちが…っ」
「あ?」
四葉がわなわなと震え始めた。風太郎を見てショックを受けていた。
左目の目元を拭ったら、それは血だった。拭っても止まらず垂れてくる。顎まで垂れてきて顔半分真っ赤になっているだろう。
しかし頭部に痛みはない。地面に打ったのは背中だったしそこまでの怪我ではないはず。痣にはなるだろうが。それは風呂の時に確認すればいい。
転がった時に小石で切ったのだろうか。辺りを見ればリボンが落ちていた。そのリボンからこちらに向かって血の痕があった。切ったなこれは。
「ご、ごめ……ごめんなさ…い」
出血の原因を確認していると、四葉は謝ってきた。かちかちと歯が擦れる音。それを抑えようと両手で口元を抑えて、肩を大きく震わせている。その目には大粒の涙が流れていた。
目を瞑りたいだろう。懸命に、目を見開いて、震えながら謝った。
「気にするな四葉
血出てるけど痛くねーよ」
血は拭ったほうがいいか。傷口がどこか分からないがハンカチで血を拭って止血を試す。だが血は止まらずあっという間にハンカチは赤黒く染まってしまった。
…とりあえず止血は諦めよう。
今は泣き崩れそうな子を諭さないといけない。
「死んだりしねーぞ
少し切っちまったみたいだ
運が悪かっただけだ、気にするな」
「…」
震えている。震えながらなお、ごめんなさいを言おうとしている。掠れた声と擦れる歯の音が止まらないようだ。
後ずさりしていた。自分のせいで傷つけたこと、嫌われることに心の底から脅えているのだろう。拒絶と後悔の色が濃く見える。
見ていられなくて風太郎は手招きして見せた。だが泣いている子には、怒られると思って動けるものではなかった。
風太郎は立ち上がり、逃げようとする子の手を優しく掴んだ。そのまま引いて抱き寄せた。
両手を使うと手に付いた血が子供に付いてしまうが、そのまま抱きしめた。
「怒ってねーよ
無事でよかった」
「ご、…めんなさい
ごめ……あ、ぁ」
「…おまえ、こういう時なんて言うのか知らねーだろ」
「!
ごめんなさいっ
ごめんなさい…う、ぅぅ…う"っ」
「それも大事だ
おまえの優しいところだ
俺の好きなところでもある
でもな、もう少し考えてみろよ」
「はぁ…はぁ…」
謝ろうとして、口を抑えて前屈みになった子の背中を優しくさする。不安が高まっているのが分かる。あまりにも不憫だ。そんなこと考えなくていい。
「けが…」
「…その前だ」
「ま……まえ?」
「ああ」
「…
…わ、からない、よぉ…!」
「見てたぞ
滑って、あんなにびびって…酷い顔をしてたってのに
俺が助けた時安心しただろ」
「…」
「ありがとう、でいいんだ四葉
怖かったな、もう大丈夫だ
おまえが無事でよかったぜ、四葉」
「――ッ
えっえぅっ
うえぇえええええんっ!」
胸にしがみついて泣きじゃくる子を抱きしめる。嫌ったりしない。脅えなくていい。
人から嫌われることに臆病な子だ。傷つければ震えて足が竦む子だ。血に脅える子だ。
優しすぎる子だ。
お調子者で。我侭で。臆病で。自分勝手で。寂しがり屋で。
優しい子だって知っている。だから泣かないでくれ。