五等分の園児   作:まんまる小生

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五等分の教え子 フータローは悪い先生

 思い出を作ろうと言っていたのに、得られた物は手の平に収まるだろうか。

 

 時刻は思いに反して早く過ぎていった。日が暮れて空が暗くなるに連れて、三玖と俺は度々時計を見返していた。

 

 

 

「もう遅くなってきたね

 夕食はどうしよっか」

 

「どうするも、家で五月と四葉がお腹空かせて待ってるわよ」

 

「もうそんな時間か」

 

 

 

 あれから三玖のご機嫌取りに奮闘して数時間。楽しめたようなそうでもなかったような、形容し難い一時だった。

 

 どう説明したら良いか…控えめに言って今日の三玖は不運祭り。厄日に近い日だったんじゃなかろうか。

 

 トランプをすれば三玖がボロ負けし、姉による性質の悪い罰ゲームを一身に背負い。

 

 菓子作りにチャレンジすればクッキーは丸焦げで、製作者としての意地を張って食ったせいで腹を壊し。

 

 四葉から悲しい報告がきていた。お気に入りの戦国時代のドキュメンタリー番組の録画ができていなくて、三玖は静かに泣いた。

 

 聞けば今朝の占いも最低だったと余計に落ち込む始末。

 

 …厄日だな、間違いなく。竹林にも会ったしな。ほとほと報われない奴で流石に不憫に思う。

 

 …そもそも、デート相手が俺だった時点で不幸の始まりだったのか。いかん、これは考えないでおこう。

 

 望んでいた時間が終わりを迎えようとしている。姉二人は帰るそうで、三玖の反応を窺う。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…まだ、帰りたくない…」

 

 

 

 家に恋人を招いて、彼女に言われたい台詞の一つだったかもしれない。

 

 しかし、必死に抗おうとする三玖の気持ちに痛々しさがしか感じられなかった。

 

 まだ希望はある。そう望んで上手くいったことは多くないだろうに。

 

 わかっていても望んでしまうのは人間の性だ。原動力であり、成功の元となる。

 

 だが、失敗ばかりな人間はその一歩が重く、せっかく振り絞った結果がこれでは…後悔しか生まれない。

 

 一花と二乃は妹の虚勢を見抜いている。それもまた、三玖にとって胸が痛いものでしかない。

 

 苦笑と哀れみの空気を払拭したのは、陽気で明るい、一花のむかつく笑顔だった。

 

 

 

「ね、フータロー君

 今日最後のお節介いいかな」

 

「?」

 

「三玖、泊めてあげることはできる?」

 

「何?」

 

 

 

 一花の要望に俺と三玖は驚いて互いに見合う。予定のないスケジュール変更に戸惑うしかなかった。

 

 過去に五月が泊まったことは多々あったが…当然、三玖は初めてだ。

 

 そもそも学生内で囁かれている三玖との噂もある。仮にも泊まったと知られたら面倒なことになるし、三玖もリスクは避けたがるだろう。

 

 三玖は何度も俺の顔色を窺って、しどろもどろに小さな声を漏らすだけ。

 

 俺は何も言わず、一花も俺の返事よりも三玖の態度を気にかけているようだった。意図を察した三玖は重い口を開くしかない。

 

 

 

「泊めるって…な、何言ってるの一花」

 

「フータロー君は何度もうちに泊まってるじゃん

 五月ちゃんっていう前例があるし

 断らなくちゃいけない理由はないんじゃないかな」

 

「で、でも噂とか…」

 

「もうフータロー君のお家入っちゃってるし、今更じゃない?」

 

「…」

 

「三玖も、帰りたくないんでしょ?

 ほら、勇気出すって言ったんだから実行あるのみ!」

 

「…

 ふ、フータロー」

 

「構わないぞ

 五月だけ良くて、おまえだけ断る理由はないな」

 

「はい、それじゃ決まり

 今日は三玖にとっての初めてのデートで、初めてのお泊りー おめでとうっ」

 

 

 

 ぱちぱち、と一花は拍手して場を和ませる。決断しすぐに行動できる姉はやはり五つ子のリーダーと言える存在に見える。

 

 が、極めて内向的な三玖は急展開に追いつけていない。即座に決まった異性の家に一泊するこの珍事に、ガチガチに固まってしまった。

 

 三玖が泊りか…果たして大丈夫なのだろうか。五月のように神経が太いわけがないし、途中でリタイアしないか?

 

 俺の心配は二乃も同じなようで。二乃は凝り固まって卑屈さに曲がりつつある三玖の背中を叩いた。そして俺から隠れるように台所のほうへ連行。

 

 

 

「あんた…まさかさっきのアレと張り合ってるんじゃないわよね?」

 

「あ、アレって?」

 

「そりゃあ…アレよ…

 私と上杉がベッドで…」

 

「…乳繰り合ってたね」

 

「ち…!? ば、バカ言ってんじゃないわよ

 上杉の面子もあるし誓って言っておくけれど、何もされてないわよ私」

 

「言い逃れできない光景をしかと見たから

 …やっぱむかつく

 後で四葉と五月から連判状募って極刑予定だから」

 

「れ、連判状…?

 ま、まあ…アレよ

 何かされたら走って逃げてきなさい」

 

「…

 フータローはそういうことしない、絶対」

 

「その根拠のない過信が私には信じられないわ…」

 

「…だって二乃、何もされてないんでしょ?」

 

「…やっぱむかつくわね」

 

 

 

 台所の壁に向かって座り込んでいる二乃から意味深な視線を向けられている。何だ、言いたいことがあったら言いやがれ。

 

 薮蛇でしかないから黙っておくのが賢明か。二乃からも反対の意見はないようで、三玖の泊まりが決定してしまった。

 

 長い一日を終えて、一花と二乃は帰宅する為に玄関へ向かった。お役目御免ということで、お節介二人の勤めはこれで終わりになる。

 

 これから翌朝まで一人になる三玖に、一花と二乃は手を振ってドアを開いた。

 

 

 

「それじゃあねフータロー君 楽しかったよ

 三玖、明日は質問攻めだから覚悟してよー?」

 

「上杉、くれぐれも三玖を頼んだわよ

 三玖も、ドジなんだから迂闊なことしないように、大人しくしておくことね」

 

「う、うん…四葉と五月にもよろしく伝えておいてね」

 

 

 

 家族からの激励に似た冷やかしと小言を最後に、がちゃりとドアは閉じられる。

 

 賑やかな二人は去っていき、静まった空間に二人だけ取り残される。

 

 薄暗い玄関で三玖が俺へ振り向く。いてもいいのか、未だに迷っているような…仔犬を連想させる目だった。まったく。

 

 

 

「…おまえ、泊まる為の用意とかしてないよな」

 

「え?

 う、うん してない…そもそも予想外だったから何も」

 

「なら後で歯ブラシとか買わないとな

 寝巻きは五月も使ってるジャージがあるから、それ使えばいい」

 

「ふ、フータローのジャージ?」

 

「らいはが泊まった時用のだ、五月が着れるんだからおまえも問題はないだろ」

 

「そ、そっか

 迷惑かけてごめん…私今から買ってくるよ」

 

「付いていこうか?」

 

「大丈夫だよ、このくらい…流石に子供扱い

 それに二人にまだ話したいことがあるから、ちょっと行ってきていい?」

 

「…わかった、気をつけて帰ってこいよ」

 

「うん」

 

 

 

 お節介な姉に用があるのなら、急いで行ったほうがいい。

 

 三玖は手早く財布や携帯など必要なものだけ手にして玄関へ走った。

 

 閉じられたドアを念のため施錠しておこうかと後を追う。三玖が靴を履き、ドアを開いたところだった。

 

 開かれたところから夕日の日差しが漏れる。眩しいオレンジ色の明かりを背にして三玖は振り向く。

 

 

 

「…」

 

「…」

 

「…ふふ」

 

「…何笑ってんだ、早く行ってこい」

 

「ううん、つい

 いってくるね」

 

 

 

 笑って誤魔化された。口を僅かに開いて、何かを言いかけていたのはわかった。

 

 三玖は廊下に出て、見送る俺へ手を振ってマンションの階段を降りていった。

 

 

 

「…子供扱いか…確かにそうだな

 俺も自重しねーと」

 

 

 

 風のないこの夕暮れの光景は、どこか小さな背中を連想させる。夕暮れは、遊んでいた子と別れる時間だから。

 

 なぜか理由もなく、あるはずもない懐かしい匂いがしたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フータロー、私も手伝うことある?」

 

「昼は任せきりだったんだ、夜は俺が作る

 おまえは好きに寛いでろ」

 

「…そう言われても…」

 

 

 

 家事に対して技量も興味もなさ過ぎるとぼやかれていた三女が、忙しなくキッチンに顔を見せに来ている。

 

 三玖がビニール袋を片手に戻ってきた後、俺はキッチンで夕飯作りを始めていた。

 

 客人を招いておいて昼食をご馳走になったんだ、家主として最低限のおもてなしをしなくては上杉家が落ちぶれる。

 

 夕飯を作ることは前々から想定していて、三玖が好みそうな和食を作る分の材料は揃えていた。

 

 事前に二乃とらいはからリサーチをしており、準備は万全に済ませてある。今日は三玖を存分に喜ばせやる、汚名返上の絶好のチャンスだ。

 

 という事情もあって、三玖に料理風景を覗かれてネタバレしても面白くない。丁重にその背中を押してテレビに誘導しておくと諦めてくれたようだ。

 

 

 

「…」

 

「…こっち見んな」

 

「…ふふ、フータロー…なんか…えへへ」

 

「何だよ」

 

「エプロン姿、可愛い」

 

「寛げとは言ったが調子に乗れとは言ってないからなー」

 

「照れない照れない」

 

 

 

 諦めたらしいが、度々こちらを振り向いて目が合ってしまった。食い意地張った五月と並ぶ執念だ、流石五つ子。

 

 男がエプロンして悪いか。らいはがくれた一着しかないエプロンの胸元にはNYAAAANと縫われた猫がプリントされている。貰った数年後にらいはを恨む日が来るとは。

 

 気を取り直して調理に取り組む中、かしゃっと嫌な音がして何かと思ったら、スマホを構えた三玖に隠し撮りされた。

 

 

 

「…何をしている」

 

「記念」

 

「…」

 

 

 

 また一つシャッター音が響く。図に乗りすぎだ。睨むと三玖は足早に俺のベッドまで逃げていった。

 

 …楽しんでいるようなら、何でもいいか。三玖、これが子供扱いということだぞ。後で覚えておくんだな…

 

 もしも十年前に別れるようなことがなかったら、こんな悪戯もあどけない笑顔もあったのかもしれない。そう思うと…胸がいっぱいだった。

 

 一時間後、しばし待たせてしまったがようやく夕食を作り終えた。

 

 作ったのは焼き魚に、柚子を乗せた大根と蛸の煮物、後はサラダに白米、味噌汁である。二乃が見たら地味だと苦情を入れられそうだな。

 

 

 

「美味しそう…やっぱフータロー料理上手だね

 ご飯作ってくれてありがとう」

 

「二乃との一件から勉強し直してるところだ

 多かったら残してくれ、明日食うから気にしなくていい」

 

「うん…ちょっと多めな気がしなくもない…

 …でもこれってつまり、五月のお泊りによる弊害だよね」

 

「さ、さぁ食べよう 是非おまえの感想聞かせてくれ」

 

 

 

 無用な詮索をする三玖を椅子に座らせて夕食を食べることにする。

 

 いただきます、と手を合わせる。三玖はおずぞずと味噌汁に手を伸ばし口をつけた。

 

 ずずっ…と一口。続けてもう少し口にした。

 

 

 

「…ほっ…おいし…」

 

「…ならよかった」

 

「らいはお姉ちゃんのと似てる、これがフータローのお家の味なんだね」

 

「強いていえば、らいはが作る味になるな

 気に入ったのなら、らいはにも伝えてやってくれ」

 

「そっか…お母さん早くに亡くしてるんだったね…お姉ちゃん、凄い

 …うん、煮物も美味しい

 私じゃこんなに上手く作れない、凄いよフータロー

 五月が喜ぶのもわかる、こんなに美味しいご飯作ってくれるんだもんね」

 

「…ベタ褒めされると恥ずかしくて食えなくなる

 冷める前に食べちまえ」

 

「また、照れてる…

 ふふ…可哀想だから、意地悪しないで食べてあげる」

 

「…」

 

 

 

 …この物言い、そして先程の事も踏まえると…少しは殻が破れたということか? 背中がむず痒くて調子が狂う。

 

 危惧していた三玖の心境は思っていた以上に健全な物に回復していたようだ。一番の不安要素が解消されたことに嬉しく思う。

 

 ただし、やはり十も年下の子供にペースを握られているのは癪だ。

 

 三玖と言ったらこう…小さくて、小生意気でも泣きついてくる愛らしいイメージがあるんだ。十年前の話だがな! 昔は可愛かったのになー!

 

 普段見せる気弱な態度も世話を看てやりたくなる保護欲をかきたてられるものだ。それを崩されるのは正直面白くないな。

 

 悪戯のお返しをさせてもらおうじゃねえか。箸を手に持ち、大根の煮物を一口サイズに割った。

 

 

 

「そういえば今日一日、本題のデートっぽいことはできずにいるな

 お詫びと言ったらこれぐらいしか思いつかなくてよ」

 

「お詫び?」

 

「あーん」

 

「…っ!?」

 

 

 

 大人をからかうからだぜ、報復してこないと思っていたのか三玖、甘いぜ。

 

 箸で摘まんだ煮物を三玖の口元に寄せる。当然、三玖は背筋を直立させて箸から間合いを取った。

 

 挟む力を強めれば汁が垂れてしまい、雫を受け止める為にもう片方の手の平も下に添えている。

 

 

 

「ぁ、ぁーんって…」

 

「デートならこのぐらいするだろ、定番じゃねえか」

 

「す、する? 普通」

 

「するする、しなけりゃ後日別れ話に発展するくらいだ」

 

「そんなわけない…っ からかわないで」

 

「ははは、仕返しだ」

 

 

 

 羞恥心が募り、落ち着きを失って狼狽する三玖がおかしかった。やはりこうでなくては。

 

 ただし、やりすぎは注意。怒らせる前に箸は引っ込めるしかなかった。

 

 箸を引く前に…かちゃり、と音がして目を向ける。

 

 三玖が自分の分の箸を茶碗の上に置いたのだ。そしてやや屈んで、長い前髪を指で掬った。

 

 

 

「あ、あーん」

 

「…

 あーん」

 

「ぁ…ぁむ」

 

 

 

 三玖が恥ずかしそうに口を開けてぎゅっと目を閉じた。その小さな口の中へ箸を収めて食べさせてやった。

 

 震えて羞恥を堪える三玖のぎこちなさは天下一品。箸を噛まれ、引き抜くのにちょっと大変だった。

 

 

 

「不器用な奴」

 

「んっ?」

 

 

 

 箸を引き抜いて気づいた。お互い慣れないやり方だったせいか、三玖の口元に小さく切った柚子が付いていた。

 

 小さすぎて張り付いていることに気づかない三玖には、口で教えるよりも取ってやったほうが早そうだったから。

 

 口元についたものを指で掬い取り、つい舐めてしまった。

 

 それをバッチリ三玖が限界を超えそうな程に赤面してしまった。

 

 

 

「あ、ぅ…ぁが…ふ、フータロー…ッ」

 

「…あ

 やべ、癖でつい」

 

「………」

 

「いや、これは本当に無意識だ!

 すまん、やりすぎたな」

 

「…」

 

 

 

 調子に乗っていたのは俺だった…!

 

 妹や…昔のこいつらにしていた癖が暴発してしまった。自然と三玖の口元に指先が行って、口まで運んでしまった。

 

 年頃の女子高生に対して無配慮過ぎる行為にただ謝るしかない。食べさせてあげた行為自体該当するのは目を瞑ってもらいたい。

 

 三玖は居た堪れない様子だったが、俺の狼狽する姿を見て…自分の箸を手に取った。

 

 怒らせたかと思いきや、煮物から一つ柚子の切れ端を掴み…口元に付けた。

 

 

 

「…ん」

 

「…」

 

「…んんっ…」

 

 

 

 柚子を口元にくっつけて、小さく咳払いをしている。

 

 恥ずかしいくせに、随分と積極的な奴。

 

 お望み通り、それを指で救い…食べちまった。

 

 三玖はその一連の動作を凝視して、見届けた後はやはり俯いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後は熱に浮かされたように、考え事に没頭する三玖になかなか声をかけられなかった。

 

 俺のベッドに座り込んでスマホを弄り、投げ出しては寝転がって天井を眺めてたり、急にゴロゴロ転がっては壁際に張り付いてたり…怪しすぎた。

 

 狭いところが落ち着くとは前から聞いている。無我夢中で平穏を求めているんだろうな…俺と目が合うと露骨に挙動不審になってる。

 

 いかに五月が豪胆な奴なのか思い知らされる。ほんと、五つ子なのに似ても似つかない姉妹だ。

 

 思い出を語るには物足りない時間。静かにテレビを眺めて、入浴を済ませ、諸々終わって…就寝することになった。

 

 三玖は馴染みのヘッドホンを手に持って、もじもじと身を揺らしていた。

 

 

 

「…ベッドで寝るか?」

 

「い、一緒に?」

 

「なわけない

 敷布団があるから、誰かがそっちだ」

 

「五月はどうしてた?」

 

「気まぐれで選んでたぞ、あいつ」

 

「…なら今日は…私がお布団

 フータローのベッドだと…フータローの匂いで眠れなさそう」

 

「え、臭かった?

 べったり寝転んでたくせに」

 

「そ、そういう眠れないじゃなくて…」

 

 

 

 慣れない寝床じゃ眠れないということか。普段三玖はベッドで寝ているから敷布団は嫌がると思っていたんだが構わないそうだ。

 

 時刻は21時過ぎ。まだ寝るには早いが、三玖は今日一日気を張り詰めていたこともあって眠そうだったし頃合だと思う。

 

 部屋の明かりを常夜灯に切り替えて、お互いに寝床に着く。

 

 デートの締めとしてはなんとも味気ない。結局あの夕食の後まともに話せていない。

 

 身動きする音はなく、時計の針が動く音だけが耳に届く。気づけば22時を過ぎていた。

 

 三玖のほうへ目を向けると、高低差があって気づけていなかった。

 

 知らぬ間に三玖から見られていた。

 

 

 

「眠れないか?」

 

「…うん」

 

「疲れただろ、今日一日」

 

「うん…振り返ると長い一日だった気がする

 でも今は目が冴えちゃって…」

 

「…少し気分転換に話でもするか」

 

 

 

 眠れない奴に眠れとは言えるわけがなく。長い夜を一人で過ごさせるわけにはいかない。

 

 俺が起き上がると三玖も億劫そうに体を起こした。寝巻き代わりのジャージがめくれないよう慌てて身嗜みを整えていた。

 

 だぼっとした服装でも三玖の体格が見て取れる。五月でもそうだったが…やはり年頃の異性が同じ部屋で寝泊りすると、嫌でも目に付いてしまう。

 

 頭を振って三玖をベッドに腰かけるよう手招きする。

 

 俺の苦悩とは裏腹に三玖はゆったりと、躊躇いなく俺の横に座った。今は視線の外にいてくれたほうが話しやすいかもしれない。

 

 肩が冷えないように掛け布団を三玖にかけてやる。

 

 

 

「フータローも」

 

 

 

 三玖の優しい気遣いで一枚の布が二人を包み込む。お陰で肩と肩がくっついている。

 

 恥ずかしさもあってか、俺にかけられた布団が頭まで覆っている。小さなドームの中でこいつの顔を見るはめになり、色々と台無しにされた。

 

 三玖は、姿勢も、目も、俺のほうへ向けていた。こういう時の目は…何かを訴えている時。

 

 

 

「ねえフータロー、一つ聞いておきたかったの」

 

「…どうぞ」

 

「…あの赤い花の栞、まだ持ってる?」

 

「…」

 

 

 

 赤い花。小さな子供に貰ったコスモスの花。花言葉は…

 

 今はその雑念が不要でしかなく。立ち上がって俺の机へ足を運ぶ。

 

 貴重品が入った箱が一つ。その中には…古いお守りともう一つ、赤い栞が入っていた。

 

 それを三玖に手渡した。薄暗い中で色を認識しようと、三玖は目を細めてみつめている。

 

 十年前、ちっぽけな子供が告白してくれた。今、その子が俺の隣にいる。

 

 忘れられて当然だと思っていたのに、まだ幼稚園児の分際で覚えているんだと教えてくれた。その努力と気持ちは嬉しくも、束縛にならないか不安の種でもあった。

 

 

 

「引っ越しても持ってきてくれたんだ」

 

「まだ使えるし、捨てなくてもいいだろ」

 

「…もうボロボロなのに

 フータロー

 もし私が花をプレゼントしたら、受け取ってくれる?」

 

「…ただの花ならな」

 

「…うん…」

 

 

 

 三玖は栞を返す。受け取った俺は元の場所に戻す。

 

 座りなおせば、三玖から弱々しい力で腕を掴まれ、胸に抱かれた。

 

 …このような振る舞い、兄としての家族愛ではなく、異性のそれだと思うのが自然だろう。

 

 

 

「もう一度は駄目かな」

 

「…あれを上回るとは思えないな」

 

「うん…私も無理だと思う、恥ずかしくて死んじゃう」

 

「まったくだ、花なんか持ってきやがって

 普通は大の男が将来のパートナーにプロポーズする時にやるもんだ

 お陰様、今でも脳内にこびり付いてやがる」

 

「い、言わないでっ」

 

 

 

 こればかりは発案者であるおまえの母親に文句言っていいぞ。子供には事の重さを理解できるわけがなかった。

 

 まんまとしてやられたわけだ、俺と三玖は。恩師の置き土産に振り回されちまっている。

 

 あんな小さな、一輪の花が縁を繋ぎ止める代物になるとは思いもしなかった。

 

 もう一度は受け取れない。この意味は二つある。

 

 俺は三玖からの返事を待つとは言ったが、望んだ答えを返すとは言っていない。三玖も分かっているはずだ。

 

 口で述べるのも甚だしい。まだ未確定で完成されていない問いに、もう回答が用意されているなど…誰が言えるか。

 

 十年前の子供の時の話。本来なら笑い話にもならない黒歴史。歳の近い異性なり、頼れる男なり、そんな恋に熱中していた方が健全だと思う。

 

 俺は三玖に問えない。三玖もまた、失敗すると分かっては言えない。時の経過は三玖を焦らせるだけの毒にしかならないかもしれない。それが不憫で仕方ない。

 

 

 

 

「…贈らないよ」

 

「…」

 

「今はこれだけで十分

 フータローには迷惑でしかないかもしれないけど

 こうして傍にいられるのが嬉しいから」

 

「…ここまでくっついていることに、か?」

 

「…恋してるって気分になれる

 ちょっと自分が誇らしくなってる

 こんな私でも、学生らしく青春してるって思えるから」

 

「教師が相手で青春って言えるのか?」

 

「…少なくとも、昔は…話題にするだけで馬鹿にされてたから」

 

「…」

 

 

 

 昔良くしてくれたお兄ちゃんが好き。そう友達に告げて、心のない非難を受けたと教えてくれた日があった。

 

 それと比べたら今の自分は輝いている。そう思い込んでいる。

 

 …危ういとは思う。その純粋さは…言ってしまえば当時の、小学生の頃だったら見合っていただろう。

 

 もう高校生となった今では邪なものが入り込んでいることに、こいつは気づいていない。

 

 

 

「三玖」

 

 

 

 俺の腕を掴んで、肩も頬も摺り寄せてくる三玖を…腕を伸ばして押し倒した。

 

 見下ろせば、薄暗くても状況を理解できないで目を見開いている三玖の顔が見える。

 

 

 

「ッ!?」

 

「おまえの望む日々がいつまでも続かないと分かってはいるんだろう

 ならば…自分から壊さなければ、ずっと続くと」

 

「フータロー…?

 い、痛いよ…

 こ、こんなことしたら本当に誤解されちゃうよ」

 

「…俺が壊すとは思っていなかったか?

 夜に男の家に二人きり、考えもしなかったか?」

 

「―」

 

「それとも、俺に襲われるのは本望だったのか?

 一花に言われたとしてもだ、そう思われても文句言えないぞ三玖」

 

 

 

 掴み、組み伏せている三玖の肩が震えているのが分かる。

 

 昼間の二乃の時とは体勢は同じでも空気は違う。荒くなっていく三玖の呼吸が、ジャージ越しの胸元を大きく上下させている。

 

 ベッドに押し倒されて、力任せに押さえつけられれば…か弱い女は暴力の下で好き勝手に弄ばれるだけだ。

 

 慕っていた大人に裏切られた、この状況に三玖は理解が追いついていないらしく、震えた声で先延ばしを募るだけだった。

 

 

 

「…考えなかったのか、本当に

 俺が聖人だと、無害な教師だから安心して眠れると思っていたか?」

 

「か…んがえは…

 で、でもフータローがそんなこと

 私のお母さんを好きだったフータローが、お母さんを裏切る訳ないから」

 

「期待外れで悪かったな、そんな出来た人間じゃない

 それにだ…こういった状況、基本男は理性的じゃない

 力任せに女を抱くことしか考えてないぞ」

 

「…

 し、したよ、考えた

 でも…こんな風には」

 

「都合の良い奴だな

 子供の時はともかく、今のおまえらは一歩間違えれば泣きを見ることになるぞ

 俺がこのまま、おまえを襲っても――」

 

「だ、だって…!

 私は…振られることしか、考えてなかったからっ

 ずっと子供で、目もくれないで…」

 

「…」

 

 

 

 力でも、言葉でも、責め立てられた三玖は泣き崩れそうだった。余程ショックだったのが、嫌でも分かった。

 

 考えなかったわけではない、そんなお気楽者じゃないが…一つの期待を押し潰すためにはまず先にその警戒心を潰す必要があった。卑屈な人間の精一杯な処世術だった。

 

 三玖は震えながら、俺の腕に手を沿える。

 

 しかし、離して欲しいという感情はなく。

 

 俺の手を強引に…肩から下へ指がなぞり、逸らせようとしていた。

 

 必然、胸の方へ向かっていく。魅力的に育ち、男の卑しい目を集めるものに触れてしまう。

 

 力を緩めれば指を這わせることは容易。三玖は俺に体を許すことになる。俺の問いに、三玖は妥協という答えに至る。

 

 もうこれ以上の意地悪は無理なようだ。

 

 

 

「三玖、あのアルバムを見た二乃の話…覚えてるか?」

 

「…

 アルバムって…告白されたって」

 

「交際はしていないが、何もなかったわけではない」

 

「え」

 

「…」

 

「え…ぇ…?

 フータロー…」

 

 

 

 好きだと慕ってくれる子に、ナンセンスな自白だ。

 

 だが、無自覚に慕われても…損をするのはおまえだけだ、三玖。

 

 男を見る目がないんじゃあ…俺から言うしかない。

 

 

 

「…俺が好きだった先生は、誰かと体を重ねていた…当然だ

 俺の知らない男を愛して、子供を孕んで、おまえらを産んだ

 

 俺が掴みたかったものを、どっかの誰かが既に得ている

 学生の内はなかった欲が生まれて、いや…押し殺していたんだ

 虚しいと感じるようになり、誰かに求められることで払拭したかった

 

 だから俺は…今のおまえのような選択を求めた」

 

「…」

 

「二乃や五月から見たら、ケダモノに当たるな」

 

 

 

 三玖は俺の腕を掴む手を離した。

 

 デート相手に言うことじゃない内容だな。もはや今更でしかないが。

 

 少し間を置いてから話した。怖がっていた三玖は徐々に俺の目を見てくれるようになった。

 

 肩を掴む手の力を緩める。痛い思いをさせてすまなかった。

 

 

 

「在学中に告白され、そして卒業した後にもう一度告白された

 最低なことをしたんだ、本来なら止めるべき選択だった

 告白は断った上で、それでも俺は求められる事に嬉しくて

 …求められるがままだった」

 

「…」

 

「誓って、おまえらと再会してからはそんな不誠実な真似はしていないし、する気もない

 信用はかなり低いだろうがな」

 

「…そのくらいは覚悟してた

 フータローだって、大人だし男の人だから

 でもお母さんは本当に…フータローのこと好きだったと思うよ?

 お母さんを捨てた男と…その…昔は

 だ、だ…

 だ…抱かれたからって…」

 

「顔、すげえ真っ赤」

 

「…

 正直、十年前のフータローとお母さん

 してたんじゃないかって話してたよ、一花が…

 …お母さんには悪いけど、想像したくなかった…流石に複雑…」

 

「子供が何考えてやがる…

 あの人が生徒とするわけねえだろ…犯罪だ

 別に先生の元旦那との肉体関係を僻んで会わなかったわけじゃない

 そもそも俺が、子供がいるってのにあの人を勝手に慕っていただけに過ぎない」

 

「そんな言い方、しちゃ駄目だよ」

 

「…俺が軽率な行為に溺れたから、会いづらかっただけだ

 好きだなんて、言えるわけがない」

 

「…あまり想像できない

 フータローが、どうしてそんな後悔するようなことを選んだのか

 虚しいとか…人が恋しかったってこと?」

 

「…どれほど理由を取り繕ろったって、欲に負けただけだ

 おまえが大事に大事に胸の内にしまっているそれは、崇高なものじゃなくなっている」

 

 

 

 言いたいことは言い終えた。三玖も迫っていた貞操の危険は免れたことに胸を撫で下ろしている。

 

 肩から手を離し、三玖を解放する。起き上がった三玖は…当然ながら、俺とは少し距離を取って座りなおした。

 

 

 

「慕ってくれるのは嬉しい、極力尊重したいとは思っている

 ただし、それには適度な距離感は必要だ

 対外的にも、おまえの精神的にも

 …後は俺の堪え性も」

 

「…あそこまでしても、手出さなかったくせに」

 

「先生の娘だからな

 それにだ、おまえに本当に好きな男ができた時に後悔するぞ」

 

「…」

 

「急かしはしない、おまえが俺を覚えてくれたのは嬉しかったんだ

 その礼代わりって訳じゃないが、おまえにとっての落とし所が見つかるまで付き合うぜ」

 

「…うん」

 

 

 

 神妙な顔をして三玖は俯いていく。度が過ぎた説教で今日がデートの日だと忘れてしまうだろう。

 

 時期を考えると遅いくらいなんだがな。もう高校2年生。恋愛をしたとしても、大学受験を考慮すれば楽しむ期間は一年もない。

 

 三玖自身が自覚しているのなら、迷うことはないだろう。実りのないものを我武者羅に求めるよりかは、もっと別の…自分のメリットになるものを選び費やすべきだ。

 

 半ば諦めろと虐げている行為だったことは俺も反省するべきだったと思う。怖がらせてしまったあの顔が脳裏に残って離れない。

 

 

 

「…肩痛かったか、痕になってないか?」

 

「平気」

 

「…」

 

「…もう、寝る」

 

「ああ…」

 

 

 

 もう時刻は0時を過ぎそうだった。三玖は…すっとベッドから離れて立ち上がる。

 

 すぐさま寝床に入るかと思ったら、三玖は立ち尽くしたまま。

 

 迷い、考えているのは分かった。ただ見据えてその時を待っていると…背中越しで語りかけてきた。

 

 

 

「…怖かったし、痛かった」

 

「…」

 

「…でも、フータローの顔見たら何か違うと分かった

 ずっと優しかった…と思う

 怒っても、やっぱり私のこと心配してくれた」

 

「強がりはよせ

 おまえは明らかに恐れていた

 誤魔化して、慰めて、なかったことにしてもおまえが損するだけだぞ」

 

「…私、は」

 

 

 

 三玖は振り返って、座って見上げている俺を見下ろす。

 

 唇をきつく結んで、長い前髪に隠れた瞳は…明かりのない中でも揺らいでいないことが分かった。

 

 三玖は俺の手を掴み、引き寄せる。

 

 立ち上がりかけたが、立つことはできなかった。三玖が目の前に歩み寄ってきたから。

 

 三玖は、震えつつも躊躇わなかった。妥協しなかった。

 

 

 

「お、おい」

 

「答え

 もう…分かるよね、フータロー」

 

 

 

 俺の手の平を、自分の胸に押し付けてきた。

 

 布越しでも温かく、柔らかい感触と共に形が変わっていく。

 

 もっと深く、多くの女性と比べて大きい胸に強く引き寄せてくる。

 

 三玖が掴んできた手は俺の右手。三玖の胸の、左側に触れている。

 

 

 

「こんなに…ずっと、ドキドキしてる

 凄いよね…押し倒されただけで…単純

 今まで生きてきた中で一番」

 

「…」

 

「…わかる?」

 

 

 

 心臓の鼓動を知ってほしい、とそのような目的から胸を触らせた。

 

 三玖は頬を染めて必死に訴えている。

 

 俺の意地の悪い質問に、馬鹿真面目に…しかもその方式は間違っていると教えても尚、構わずに自分なりのやり方で示そうとしている。

 

 だから…生意気だってんだ。昔と似て、

 

 俺が知るどんな奴らをも越えて、その思いを伝えようとしてきやがる。

 

 

 

「…三玖、体を張って貰って申し訳ないんだが」

 

「っ…?」

 

「…ジャージ越しだと、どう足掻いても分からん」

 

「…」

 

「まったく」

 

「ひゃっ…」

 

 

 

 しかしやはり、拙いことには変わりない。

 

 熱意はあっても結果が行き届かなかったことに、さらに赤くなる三玖を強引に抱きしめた。

 

 座っている俺に跨って、俺の太ももの上にお尻を乗せた三玖は大慌て、今度は三玖が俺の肩に手を置いた。

 

 さっきまで触れてしまった三玖の胸が俺の顔元まで近づいてしまった。三玖の羞恥心も限界に達してしまうだろう。

 

 俺は三玖の後頭部に手を寄せて、少しずつ抱き寄せた。

 

 今度は優しく。昔泣いていたこいつをあやしていた時のように。

 

 結局、子供扱いは変わりそうにない。昔と変わらず、やはりこいつが、五つ子が好きなことに変わりはない。

 

 気は紛れたようで、三玖は力を抜いて俺の肩に顎を乗せて…しがみついてきた。人一人分の重さを感じつつ、その背中を撫でる。

 

 

 

「安売りするな、急いた考えに至らないようにって意味で待つって言ったのに

 おまえが真剣なのは十分わかった」

 

「…」

 

「…デートはもう終わりだ、もう寝ちまえ」

 

「う、うん…」

 

 

 

 背中に回りそうだった三玖の手が、俺の言葉を受けて下がっていく。

 

 意思表示は示したが、結局は平行線を辿るだけ。結果…三玖を不安にさせて、いらぬ強がりをさせるはめになった。

 

 今日一日、デートしたとは言えない散々な体験だっただろう、始終…嫉妬と羞恥にまみれた一日だったと思う。

 

 …これではフェアじゃない。

 

 俺は少なくとも、三玖の紛れのない気持ちが嬉しかった。体を張って教えてくれた。

 

 だから、俺もまた体を張って返すべき、か。

 

 俺に跨ったままの、不安定な姿勢から立ち上がろうとする三玖の両頬に手を沿えた。

 

 驚き固まる三玖の、唇ではなく…汗ばんでいるその額に口付けしてやった。

 

 

 

「―」

 

「…悪い男に騙されると、こうなる」

 

 

 

 立ち上がろうとしていた三玖が、腰が抜けたかのように呆然と俺の足の上に落ちてくる。

 

 己の額に手を沿えて、本当に口付けされたのか確かめようとしている。当然、触れても分かるはずがなく。

 

 狼狽する三玖は俺を見ては、体を逸らして長い髪を揺らす。俺の膝上で落ちないよう、俺の肩を掴んだまま俺を見下ろして。

 

 

 

「ふ、フータロー…?

 今の…き、キスって…」

 

「あー めっちゃ恥ずかしい」

 

 

 

 喜んでくれたのか、俺の黒歴史が更新されたのか定かではないが。

 

 最後の最後まで相変わらずの。三玖の初のデートは幕を閉じることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。時刻を確認すると朝の8時頃。

 

 いつもより少し遅い起床時間。ベッドから起き上がって顔を洗いに向かう。極力音を立てず、布団で眠る教え子の足を踏まないように。

 

 五つ子が…俺の家に限っては該当するのは五月しかいなかったが。朝の身嗜みには気を遣っている。あいつらがぬくぬくと眠っている間に。

 

 事を済ませて戻ると、三玖は布団にくるまったまま。その顔は俺とは反対側を向いており、長い髪が遮って窺えず…起きる気配はなさそうだ。

 

 

 

「…眠れたようだな

 昨日は可哀想だったし、朝食は豪華にしてやるか」

 

 

 

 三玖が寝ているうちに着替えも済ませてしまおう。寝ているのならここで着替えても問題ないだろう。

 

 休日のこの時間は静かなもの。三玖は朝は米食を好いているので炊いてやることにする。

 

 ベーコン付きの目玉焼きとか普段作らないが可愛い教え子の為ならある程度の散財は厭わない。小さな贅沢でしかないがな。

 

 …もう9時前となり、流石に起きてもらいたい頃合だった。

 

 

 

「三玖、三玖」

 

「…」

 

「朝だぞ、三玖起きろ」

 

「…」

 

「…」

 

「………」

 

「…おまえ、寝れたのか?」

 

「寝れるわけがない、あんなことされて」

 

 

 

 ぐるん、と壁側を向いていた三玖が反転。目元にクマができた顔で睨まれてしまった。

 

 こいつ起きていやがった。つーか、一睡もしてないの?

 

 狸寝入りとは恐れ入る。起きている三玖の横で着替えていたこともあって、嫌な汗が吹き出てきた。

 

 三玖は恨めしそうに、自分の額を押さえている。ついからかいたくなる仕草だった。

 

 

 

「ドキドキしたか?」

 

「…こんな顔、皆に見せたら絶対に誤解される

 夜、何やってたのって…あらぬこと言われちゃう」

 

「そ、それはまずいな…俺の教師人生も危ぶまれる」

 

「…

 元通りに…元気出る方法、知ってる?」

 

「…」

 

 

 

 …やはり、敵いそうにない。

 

 布団に身を隠し、顔だけ覗かせてこちらに問いかける三玖は…どこか不敵そうに見える。

 

 不眠の原因だったというのに、もう一度と求められると。

 

 

 

 

「ああ、知ってる」

 

「…なら…して、ほしい」

 

 

 

 子供なのはどっちなのやら。止めるべきだとはわかっていても。

 

 やはり嬉しく。求められるがままに叶えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「思い切りが良いというか…我侭なだけというか

 それに絆されちまう俺も改めるべきなのでしょうが…

 一つだけ、貴方に言いたかったことがある

 あの花を三玖に渡したのはあんただったな、とんだロマンチストだ」

 

 

 

 手向けたの花は菊の花。白い花。

 

 恩師の墓には娘五人が供えた色取り取りの花たち。その中には時期の関係か、秋に咲くコスモスはなかった。

 

 もしあの人もまた、あの赤い花を好んでいたのなら…秋に墓参りに来た時に贈っても良いだろうか。

 

 語るにはあまりにも粗末なもので、恩師であり、あの五つ子の母親に馬鹿真面目に報告するには勇気がいった。あの人怒ってないだろうな…

 

 三玖の臆病さ、物静かで主張の弱い性格は…優しい性格があっての個性だ。

 

 そんな奴がここ最近では少しずつ…自分のしたいこと、求めることを教えてくれる。母として求めていた変化ではなかろうか。

 

 いつかは憂いなく笑ってくれる日が来るだろう。

 

 どこに行き着くかは今は分からなくても、五人それぞれが巣立つ時にはそれを見届け、その背中を見送ろう。

 

 

 

「四葉は…貴方が亡くなってから姉妹と向き合い、一人でいることは辞めるようになったと聞いている

 自己犠牲のあの難儀な性格は…変わっていませんが

 …あいつが素直に俺に甘えるようになって、少し驚いている

 貴方を慕いつつも甘えられなかったんだ…勿体ないと思っただろ、先生」

 

 

 

 母を愛し、愛されようとした娘たちは今では貴方との思い出を誇らしげに語っている。そんな思い出話を恩師へ語ろう。


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