夜明け前の薄霧の中に、鬼の住処(すみか)の杣屋が見えた。
自分はそこに向かってひた走る。
村長は鬼の行方は知らぬと言う。
いつも通り祠に反物が入っていただけだと。
そもそも鬼と直接会った事すらない。
薬で動けなくした生け贄を穴に放り込み、祠に文を置いて知らせるだけ。
(何の咎も罪の意識も負わずに邪魔者を始末出来る上、極上の反物まで手に入る。それは手離したくないだろうな。相手が鬼でも魔物でも)
村人の賛同は得られない。
むしろ邪魔をしようと追って来る。
とにかく今は、杣屋に鬼が戻っている可能性を考えて雪道を登っている。
あの子供には気の毒だが、鬼を倒せる刀はあれ一本ではない。
昔折った刀を再利用した小口が懐にある。小さ過ぎて戦闘に使った事はないが……多分あの鬼の細い首なら事足りる。
――?
明かりが灯っている。
鬼は明かりを必要としない筈。
バキン!!
空気を震わせる高音が響いた。
続いて、バキバキガガシャン!! と、尋常ではない騒音。
すわ、誰かが鬼に襲われている!?
肺が悲鳴を上げるのをいとわず必死で駆け上った。
戸口に立ち息を呑む。
すえた臭いが充満する中。
土間に置かれた提灯に、一人の女の姿が浮かび上がる。
鬼ではない。
人間の女だ……多分。
乱れた髷髪(まげがみ)から着物から、赤黒い液をしたたらせている。
怪我をしている訳ではなさそうだ。
元気一杯に棚を蹴り、転がったカメを一つ一つ土間に叩き付けて割っていた。
飛び散った赤い液が彼女を異形に染め上げていたのだ。
「な、何をしてい・・!」
口と鼻から酸気がなだれ込んでむせかえった。
後ろから追い付いて来た村の男達も、ぐぅ、と喉を鳴らして立ち尽くす。
「鬼はやっぱりケチっていやがった。反物は無かったけれど、こんなに染料があるじゃねぇか」
ぬらぬらと赤黒い顔で口で、女は喚く。
「他所の家ばっかりいい思いをして、不公平だろぅが、えぇ!? 女の子が生まれただけで偉そうに、どいつもこいつも見下しやがって。馬鹿な息子どもは他村の娘を貰いやがるし、無理して産んだ末の子もハズレだった。親戚や亭主が男腹だと罵るんだよ。どんな気持ちになるかお前らに分かるか? もう沢山だ、皆壊してやる。お前らのせいだ。お前らのせいだぞ」
内容に気圧されたのもあるが、この臭気の中よくぞそれだけ喋れる物だと、その執念にも唖然とした。
駆け込んで女を押さえる男衆とは逆方向に、自分は静かに後退(あとずさ)りした。
これは…………人間内の問題だ。自分は手出し出来ない。
とん、と背中に何か当たる。
梅ノ木の幹。
夜明け前の薄明に、ここが一面梅林である事に気付いた。
芽吹いた蕾がほのかな香りを放っている事にも。
――・・さわ
気配。
背後の梅の枝の上に立つ者が居る。
「振り向かないで下さいまし」
例の、律とした声。
「目が合うと、双方殺し合わねばなりませぬ」
「律儀だな。まだ村人の便利なハッカクサマでいるつもりか」
「…………」
「今まで何処に居たのだ」
「新田(しんでん)の……」
「んん?」
「新田の娘御の家を覗き見に行っておりました。花嫁衣装を見てみたかったので」
・・・何だろう、肩から膝から、脱力した。
杣屋から、女と村人達の言い争いが聞こえて来る。
「自分以外の者だけ得をするのが許せない。あたしは悪くない。不平等を作った鬼のせいだ」
「こんなに割っちまいやがって。これじゃしばらく反物が下りて来ないんじゃないか。当てにしている家が多いのに、困った」
「まぁ生け贄を多い目に放り込んで許しを請うしかないな。ハッカクサマだって我々と持ちつ持たれつなんだ。機嫌を取り続けていれば、その内何とかしてくださるだろう」
「…………あの染料が四十年物だと、村の者は知らないのか?」
「大昔は知っていたと思うのですが」
背後の声は淡々と喋る。
「伝承されてはいなかったようですね。私は大切な事だと思っていましたが」
「お前は、もう少し怒ってもいいと思うぞ」
杣屋の中がまた騒がしくなった。
女がまた癇癪を起こし、男達はそれを押さえて縛り上げながら、もう生け贄穴に放り込む算段をしている。
「不満があれば話し合えばいいのに……」
「不思議だな、今ここに居る者の中で、お前が唯一、話が通じる相手に思えるぞ」
ふふ、と梅の枝がさざめいた。
「でもやはり、私(わたくし)は人と関わる者ではなかったのでしょう。『鬼』は人の心に浸潤(しゅんじゅん)する。血で伝染(うつ)さなくとも人を鬼に変えてしまう。何百年もかけて、今更やっと気付くなど」
そんな事はない・・とは言ってやれなかった。
『ハッカクサマ』という絶対的な存在に阿(おも)ねきった結果、村内に自浄の努力が育たなかったのは確かなのだ。
(俺に討たれてはくれまいか)
本来はそう言うべきだ。
しかし喉元まで出た言葉を、別の感情が押し退けた。
「そろそろ何処かへ隠れてはどうか。直(じき)、陽が昇る」
見えなくとも、背後の人物が自分を凝視しているのが分かる。
軽蔑の目で見ているのか、それとも……
「私が最初に人を喰ぅたのは」
背中がヒヤリとした。
何故今それを聞かせるのだ。
「私の家族でした。父様と母様と幼い弟と。気が付くとみんなとっても小さくなって、私の周りに在りました。鬼の親玉のヒトがいて、鬼に出来たのはお前だけだと言いました。思ったような姿にならなかったからすぐに消してしまいたいが、人を喰い続けるなら生かしておいてやると言われました」
………もう、いいから、やめろ。
「私が人を喰らうのは、村人に利用されているからではなく、ただただ自分の命乞いの為です」
次にやるべき動作が約束されてしまった。
もとよりやるべき事はそれ一つだった筈。
(くそ! ・・何故、出逢った瞬間首を落としてしまわなかったのか!)
「あ」
鬼が何かに反応した。
―― どん!!
遠くで、山の空気が震えた。
「なんだ!?」
杣屋からも男達が飛び出す。
背後の枝が大きく揺れた。
高みに居た彼女には、何があったか見えたのか。
――後を追って来てください――
頭の中に響く声。
そして、自分の頭上を飛び越える、白い大きな両翼を見た。
彼女は梅の枝の高みから、ずっと目で追っていたものがありました。
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