ジョゼと虎と魚たち~光の海へ~   作:空想病

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*現在公開中の映画『ジョゼと虎と魚たち』のネタバレを含みますので、ご注意ください。


前編

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「いよいよ、やな」

 

 ジョゼは、部屋のカレンダーに記されたマークを眺め、言った。

 何が、という言葉は、(となり)に腰掛ける青年──管理人の口からこぼれることはない。

 彼女はまるで、我がことのように微笑(ほほえ)みを深め、率直な喜びをあらわにする。

 

「ようやく管理人の……恒夫(つねお)の夢が叶うんやな」

 

 カレンダーに朱文字で記された文字──メキシコ留学。

 長年の夢だった。

 そのために恒夫は、努力を惜しまなかった。

 勉学に励み、論文をしたため、スペイン語を修める傍ら、自ら働いて留学費用を工面した。

 あの事故の後はリハビリにも努め、無事退院し、そうして当初の予定通り、ぜひ来てほしいと言われていたメキシコシティ大学への留学が決まったのだ。

 すべてはクラリオンエンゼルを、その群れを、自分の目で見るために。

 出立の準備も、すでに万端(ばんたん)整っている。

 何ひとつ憂慮(ゆうりょ)すべきことなどなかった。

 ただ、ひとつだけ。

 

「せやのに……」

 

 ジョゼは溜息まじりに肩をすくめる。

 緩やかに波打つ髪を振るって、自分の恋人を、その横顔を振り仰いだ。

 

「ほんまに大丈夫か、恒夫?」

「…………な、なにが?」

 

 いつになく裏返った声。

 恒夫は、子どもでも分かるレベルで、表情(かお)を真っ青に染めていた。

 繋いだ(てのひら)はひっきりなしに震えている。普段の彼からは想像もつかない変調ぶりだが、こうなる理由はひとつしかない。

 

「おまえ、高いところ苦手やもんな」 

 

 ジョゼはいたわるように、恒夫の背中を空いてる右手でさすってみる。が、効果はいくばくもなさそうであった。

 メキシコ留学への旅路は空路(くうろ)──しかしながら、恒夫は観覧車の高さで目をまわすほどに、高い所が苦手なのだ。

 梅田の観覧車でアレだったのだ。上空一万メートルからの眺望(ちょうぼう)など、恒夫の許容範囲を超えて然るべき所だろう。

 

「いろいろとがんばって見たけど、結局、高いとこは怖いまんまか」

「は、はは──いろいろ付き合わせて、ほんと、ごめん、な」

 

 力なく笑う恒夫。

 謝る必要もないことを謝る彼の様子が、面映(おもは)ゆいやら切ないやら。

 むしろ、恒夫とデートできるのなら、たとえどんな場所でも最高の思い出になる──などとは、恥ずかしくて絶対に口にできないジョゼ。

 留学前の一ヶ月。

 高所克服の訓練と称して、恒夫とジョゼは大阪の高い場所を巡る荒業(あらわざ)に打って出た。

 しかし、結果は御覧の通り。あべのハルカスも、天保山(てんぽうざん)の大観覧車も、余計に恒夫の苦手意識を助長したような結果に終わってしまった。

 

「天保山の、海を見渡せるあそこなら、また違うかもって思ったんだけどな……」

 

 出発予定の関西国際空港は、海に囲まれた立地だ。実際にメキシコ行きの飛行機が離陸するときの景色と似たようなあんばいになるだろうし、何より恒夫の大好きな海の景色であればという計算だったが、目論(もくろ)み通りにはいかなかったわけだ。

 

「ほんま大丈夫か? 洗面器いるか?」

「だ、だいじょうぶだって、──うぷ」

 

 気分が悪くなり過ぎたのか、恒夫はジョゼの小さな体に寄り掛かってしまう。

 寝る前の楽しいおしゃべりも、ふと、直近に迫った留学の話題になると、これである。

 日が経つにつれ、恒夫は飛行機に乗る己を想像して、こうしてジョゼに介抱されることが多くなった。

 大学も卒業し、バイトしていたダイビングショップとも別れを済ませ、少しでも二人で過ごす時間を過ごそうと、ジョゼの暮らす新居にお邪魔している状態であるが、

 

「……ごめんな、ジョゼ」

「ん? なにがや?」

「だって、こんな、こんな情けない──」

「あほ。情けなくない。恒夫はよう頑張った。それはアタイが一番ようわかっとる!」

 

 強い口調でたしなめつつ、横になる恋人の頭を、自分の動かない太腿の上に乗せる。

 付き合いたての頃にはこっぱずかしくて顔から火が出そうだった恋人らしい行為も、いまでは……嘘、ほんまは今でも心臓とびでそうなほど恥ずかしい。

 けれど、それ以上に──

 

「そんな怖いのに『留学やっぱやめる』なんて言わん恒夫のこと、アタイはほんま、強いなって、思うてるよ?」

 

 小さな子みたいに頷く彼の様子が愛おしい。

 短い黒髪を撫でてやると、安心したように落ち着いていく。

 あんなにも背中を押してくれた──必死にリハビリを続けて、自分の脚で、歩けるようになった彼のたくましさとたのもしさを、ジョゼはよく理解している。

 そんな管理人でも、ジョゼにはこうして弱い所も見せてくれる。

 ……一年前の自分では想像もできなかったことだ。

 こんな自分でも、ちゃんと人のことを想い、想い合うことができるなんて。

 

「うっかり寝たらアカンよ? アタイの膝枕は、時間制限付きやからな?」

「うん。わかってる。でも、もう少しだけ──」

 

 足の感覚のないジョゼでは、長時間、足を圧迫した体勢を取ることはできない。

 ふと、ジョゼは表情を曇らせる。

 

「ごめんな」

「ん?」

「アタイの足、あんま(ふと)ないから……あんまええ枕にならへん」

 

 恒夫はジョゼの卑屈を叱るように笑みを浮かべた。

 

「ばか。いいよ、そんなの気にしなくて。

 俺は、ジョゼの膝枕がいいんだ」

「……管理人のくせに生意気や」

 

 言いつつ、ジョゼはまんざらでもない様子で、恒夫の閉じた瞼を、額にかかる前髪を眺め続ける。

 恒夫の震えが止んだ。

 恥ずかしそうに微笑む恋人に、ジョゼは膝枕の終わりを告げるように前へと屈んだ。

 ジョゼの髪が、かすかに恒夫の顔を隠す。くすぐったい心地で顔を離すと、彼もくすぐったそうに表情をほころばせた。

 

「──ありがとう、ジョゼ」

「──ええよ、これくらい」

 

 膝枕から起き上がった恒夫。彼の両腕で運ばれるようにしてジョゼはベッドへと横たわり、そうして恋人を寝台に手招く。

 

「なぁ恒夫」

「うん?」

「飛行機に乗った時の、“約束”、覚えとる?」

「うん──頼りにしてるよ」

「忘れんときや」

 

 ぶっきらぼうに言い終えるジョゼ。

 額を合わせ、「おやすみ」と(ささや)き合う二人。

 明かりの落ちる室内。

 恒夫が作り、そして修復してくれたクラリオンエンゼル──魚のランプの明かりが、寝入る二人を、いつかの時のように優しく包み込んだ。

 そんな二人を邪魔すまいと、キャットウォークの頂にたたずむ山村家の同居人──元・野良猫の諭吉が、静かにしっぱを垂らして、くつろいでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 恒夫の寝顔を間近にし、微睡(まどろ)みの水底へ落ちながら、ジョゼは思った。

 

 

 

 

 

 

 ── ああ、この時がずっと、ずっと続けばいいのに ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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