休日とは思えない時間にセットした目覚まし時計がけたたましく鳴った。
昨夜は眠りにつけるか甚だ心配であったが、どうやら緊張よりも睡魔が勝ったらしい。しかしその戦いは拮抗していたようだ。瞼は重く、薄い掛け布団の僅かな温もりに身を委ねたくて仕方がない。
だが今日これからの出来事を思えば、強制的に意識が覚醒する。愛玩動物のようにぶるぶると頭を振り、首やら肩やらを回したり伸ばしたりする。バキボキコキリと穏やかではない音がするが、インドア大学生にとってはいつものことだ。
枕元に置いてある眼鏡ケースから中身を取り出して装着。それからカーテンを開ければ、高威力の日差しが刺さる。
予報通り今日は暑くなりそうだ。サンサンと煌く太陽が本日もたらすは、カラリとした夏の一日。
絶好のデート日和だ。
今日の目的地である水族館に向かうため、普段は使わないバスに乗った。
バスに揺られる時間は幾ばくかある。今日やらなければいけないことへの覚悟を決めつつ、今日の相手に初めて出会った日を思い出していた。
大学の講義開始前の騒ついた時間。受講生が多いため、空きの少ない座席。不意に掛けられた可憐かつ美麗な声。
断片的に思い出すだけでも頬が緩んでしまう。無理矢理頬杖をついてニヤけた顔を他人に晒さないようにした。それから彼女に恋をした瞬間を反芻し直す。
その時間、僕は友人と連れ立っていなかったため隣の座席は空いていた。受講生の人数と教室の収容人数がほぼイコールであれば見知らぬ者同士で相席なんてザラだ。だから「お隣、いいですか?」という声への返事がおざなりになった。
雑に、どうぞなんて言って、何気なく相手の顔を見た。これは声を掛けてきた人が男だろうが女だろうがやっていたと思う。理由はどうあれ、自分に意識を向けてきた人が気になるのは、人間の性じゃないかな?
そうするとそこには、とびきりの美人がいた。一生に一度、お目にかかれるかどうかってレベルの美人だ。
理屈は一切抜き。本能でわかった。僕はこの人に恋をしたのだと。
いわゆる一目惚れというやつだった。名前も学年も学部もわからない相手だったが、そんなものは関係ない。彼女に惚れたという事実があり、日ごとに増す想いを抱えている。
僕がその人の名前を知ったのは家でテレビを見ていたときだった。人気真っ只中のアイドル、新田美波。高嶺の花にも程がある。
それでも惚れてしまったのだ。恋と言う名の毒が解けることなく全身を回る。しかも強烈な毒が仕込まれたのは学年が違うにも関わらず、その一度きりではなかった。
僕が所属している新聞会での取材に始まり、顔を覚えてもらったことで話せる機会が大幅に上昇した。その都度美波さんの魅力に触れ、更に精神を支配されていった。
あの日から一年と少し。美波さんと少しずつ距離を詰めることに成功した僕は、こうして休みの日に二人で水族館に出かけられるようになった。まあ、二人きりで出掛けるのは今日が初めてなんだけど。
男女が二人きりで水族館。これはもう告白する絶好の機会に他ならない。心臓が張り裂けそうな思いをしながら、今日こそ美波さんに告白しようと決意した。
決意は固い。今更日和ったりなんかしない。でも緊張ヤバい。いやそんなこと考えてる場合じゃないんだ。いやいやそんなことってことはないだろう。それでもまずは今日のデートそのものを成功させなくてはいけない。そうだよ、まずはそれだよそれ。
ちゃんと準備して臨むデートなんていつぶりだろう。高校の時の彼女は、なんかもうダラダラとショッピングモール行ってただけだしなあ。田舎で他にデートっぽいことが出来る所が無かっただけなんだけど。
東京、コワイ。デートスポットの選定からふるいに掛けられている気分になる。うーん、今更足掻いても仕方ないか。美波さんも楽しみにしてくれてる、と信じよう。お父さんの影響で海関係に興味あるって言ってたから、多分大丈夫だよね?
無駄に頭を使っていたところ、車内アナウンスが耳に入る。僕が降りるバス停だ。
左手首に巻いた腕時計に目線を落とす。待ち合わせの時間よりだいぶ早い。なるべくソワソワを我慢してから家を出たつもりなんだけどな。でもこの炎天下に美波さんを待たせるよりマシだよね。うん、そういうことにしよう。
チャリンチャリンと乗車賃を支払い、目を細めながら外に出る。まっぶし。こりゃビタミンD大量につくられるな。
バス停と水族館はそれほど離れていない。ていうか超近い。ふっと目を向けると、こちらに向かって手を振っている人がいた。基本的にそんなことをしてくれる人に縁がない。同じバス停で降りた、僕以外の人が対象だろう。
と、ぼっち脳が考えるより先に判断を下したが、それは大きな間違いだと視覚情報が訴える。
嘘でしょ。時間よりまだ早いのに。
僕は一目散に走りだした。視線は右手を振っているあの人にクギ付けだ。
美波さんも、僕とのデートを楽しみにしてくれてたのかな。なんて、バカみたいな妄想をしてみる。こんな風に浮かれるくらい、既にワクワクが止まらなかった。
「早いですね、美波さん」
息を切らしながら話しかける。
僕が何も言わなかったら、美波さんはきっと僕の呼吸が整うのを待ってくれていただろう。でも折角一緒にいるんだ。死にそうな目に遭ってるわけでもないし、話したい。
「遅れちゃいけないと思ったら、早く着きすぎちゃった。野崎くんだってまだ時間前だよ? 走らなくてもよかったのに」
「早く、会いたかったから」
「ふふっ、ありがとう」
恋愛偏差値低めのシャイボーイが出来る精一杯のアピールもさらっと流される。傷ついてなんかないんだからね……。いつものこと過ぎて……。
「それに僕から誘った手前、あんまりお待たせするわけにもいきませんから」
「優しいね。それに律義で……、真面目?」
「そっくりそのままお返しします」
ふーっと大きく息を吐く。うん、息も整ってきた。
僕の様子を見て、美波さんが声を掛けてくれる。
「そろそろ中に入りましょうか」
「はい」
横目で様子を窺いながらそっと歩調を合わせる。女性にしては身長が高い人だと思っていたけれど、意識して歩いてみると僕よりも小柄な異性の身体つきだと改めて感じた。
なんか今、僕の方がリードされてない?
このままで告白なんかできるのか。告白自体は出来たとしても、もうちょっとこう、かっこよくて頼れる所を見せておいた方が……。いや、今更何言ってるんだ感が凄いな。僕、そういうとこ本当にどうしようもないんだった……。
二人並んで巨大な水槽を見ていった。ウミガメ、エイ、サバ、クラゲ、エトセトラエトセトラ……。
ぽけーっと眺めている僕とは対照的に、美波さんは楽しそうだった。
美波さんが楽しんでるならなんでもいいや。なんて格好でいたら、魚たちの知識に乏しい僕のために解説ボードにも載っていないような知識や雑学を踏まえて逐一解説してくれた。女神かな? 女神だね。
ウミガメは産卵の時に涙っぽいものを流すけど実際はただの塩水を垂れ流しているだけだとか、日本でよく見る鯖はスズキ目、サバ亜目、サバ科、サバ属、マサバというなんともサバサバした分類だとか、キクラゲはきのこだけど中華クラゲは本当にクラゲだとか。元々無駄な雑学を多く知っているつもりだったけど、興味があって知識を蓄えている人にはやっぱり敵わない。
美波さんとデートということで非常に浮足立って、水槽の中身をほとんど見られていなかった。けれど一生懸命に僕へ話してくれるものだから、すっかり満喫してしまった。
同じものを見て、少し話して、一緒に楽しむ。文字に起こしてしまえば結構普通のことだけど、これだけのことが僕は凄く幸せで、胸がキューっと締め付けられる感覚がした。
好きだなあ、と口の中だけで呟く。一度もちゃんと伝えられていない想い。
受け入れてくれるならば、僕が貴女から貰った沢山の幸せを、僕が貴女に一番返せる存在になりたい。
「もう少しでイルカショー始まるみたいですけど、見ていきますか?」
「せっかくだし見ていきたいかな。野崎くんもいい?」
「もちろん。駄目だったら提案してませんよ」
水族館のイベントと言えばほぼイコールでイルカショーが浮かぶ人は多いみたいだ。開始直前に来たわけではないのに、観覧客の席は既に六割がた埋まっていた。
前方の席は空いているが、念のため避けておいた方が良さそうだ。一分ほどキョロキョロした結果、中段の端っこの席を確保できた。
辺鄙な席だけど、そもそも人が多いので必然的に美波さんとの物理的距離が近くなる。心臓爆発しそう。
「そういえば、アレって本当にあるのかな? そこのカップルさんってお客さんを指名するの」
「どうなんでしょう。普通に考えて、ないと思いますけど」
「その心は?」
「本当に仲睦まじいカップルならいいですけど、そうとは限りませんから。例えば、ただの友人。きょうだい。友達以上恋人未満。偶々世間話をしていた赤の他人同士。偶然出会ってしまった会社の同僚。破局寸前ながら最後の思い出作りで来ていた擦れまくりのカップル……」
「なんでどんどん拗らせていくの!?」
「美波さんが大喜利風に訊くからつい」
「そんなつもりなかったんだけどな」
本当はふざけた答えを考えるのが楽しくなっちゃったからです。
美波さんは困り顔っぽいものを浮かべていたけれど、程なくして笑みが零れた。
真面目に教えてくれてるのも困ってるのも笑ってるのも魅力的って、本当にズルいなあ。
「野崎君はおもしろいね」
「僕そんなにひょうきん者ですか?」
「ううん、そうじゃないの。野崎くんといると楽しいなあって」
一瞬固まってしまった。それからパッとショープールを向いた。いつもなら美波さんの言葉を無視するようなことは絶対にしない。
でも思わずそうしてしまったのは、今の言葉がびっくりするくらい嬉しかったから。涙が出るんじゃないかってくらい。
「よかった」
はらりと漏れた言葉は誰にも届かず、ショー開始のアナウンスにかき消された。
少しだけプールを見るのに苦労する角度だったけど、イルカたちの活躍は見えていた。でも意識には全く入ってこなかった。
原因はさっきの言葉。そしてそっとはしゃいでいる美波さん。「わあ!」とか「すごい!」とか歓声を控えめに上げながら、始まる前よりもちょっとだけ身を乗り出してショーを見ているのがかわいすぎて困る。
大人っぽいのに子供っぽいところとか、笑顔とか、優しいところとか、関わりが少なかった後輩の名前をすぐに覚えてくれたところとか、最上級に嬉しい言葉をさらっとくれたりとか。素敵な所を見つける度に毒を打ち込まれる。
その毒は僕に美波さんのことばかり考えさせてしまう。今のように。
ああ。好きです。
『――ご来場いただきありがとうございました』
アナウンスと周囲の拍手で我に返る。結局イルカは見てるだけだったな。何一つ記憶にない。意識はずっと美波さんだけに向かっていた。
「はあ。楽しかったね」
「そうですね。かわいかったです」
あ、違う。かわいかったのは美波さん。イルカがかわいかったってことで誤魔化されて欲しい。
「うんうん。イルカってかわいいし頭良いし、すごいよね」
純粋! かわいい! でも適当に答えちゃったから少しばかり心が痛い。
次の予定はどうしようかと考えようとすると、僕の頭に美波さんの手が乗せられた。
「熱いね。大丈夫?」
「えっ、あ、はい。……なんで?」
驚きすぎて全く文章にならない。上手く回らない頭で言葉を絞り出す。
「あっ、ごめんね。なんだかボーっとしてるように見えたから。中に入ってちょっと休もうか」
パッと手が離されると残念な気持ちに襲われる。おかわりが欲しい気持ちと、汗かいてるからあまり触ってほしくない気持ちがせめぎ合って大渋滞。
立ち上がって何となく周りを見ると、辺りに人はほとんどいなかった。炎天下の中、屋根のないここに長居したい人はそりゃいない。
もしかして、今チャンスでは?
「野崎くん?」
動かない僕を気遣って呼んでくれる。彼女の綺麗な琥珀色の瞳を見つめた。
「美波さん」
「どうしたの?」
いつも通りの柔和な表情と声を返される。僕の心臓はこんなにも高鳴っているのに。
「美波さんのことが好きです。ずっと言えなかったんですけど、前からホントは好きでした。僕と付き合ってください」
気温と緊張の影響で汗をびっしょりかいている。冷たいプールの中で泳いで跳んで。そんなイルカが羨ましい。
勢いのまま下を向いていた顔を恐る恐る上げる。頬を赤く染めた美波さんと目が逢った。
「はい。よろしくお願いします」
照れた様子で優しく頷いてた。
ぶわりと熱い風が吹いた。僕の心の中か、それとも僕たちの周りか。判断するには、頭も心も身体もあまりに暑かった。
・主人公
野崎光一。19歳。美波と同じ大学の一年後輩。
同じサークルの人や美波の友人らには好意がダダ漏れだったのに当の本人にだけ気づかれない系。多分犬っぽい。 美波の弟から「早く姉さんと付き合ったらどうですか」と半ば呆れられていた。
名前の由来は野崎梅太郎と皆本光一から。作者は、名前つけたいけど考えるのめんどくさい病の患者なので中村悠一氏のキャラから今回はつけました。何故中さんか? わしゃがなが好きだからだよ。
・新田美波
作中では一年プラスされて20歳。女神ヴィーナス(サキュバスではない)。
光一にはただ懐かれているだけと思っていた時期がかなり長かった。実はずっと両想いだったけど光一から告白して欲しくて泳がせていたとか。ゲームはポンコツなのにこんなところは策士。
プロットをこねくり回してる間に2枚もSSR来てくれたので満足してます。作者的にはもうちょっと布面積ナーフされた衣装が欲しい。美波の魅力はえっちなところだけじゃない。
・参考文献
銀のイルカと熱い風。
本当は曲全部使いたかったけどぶっちゃけ書く時間がなかった。付き合いたてほやほやのカップルがイチャイチャしてるだけだしねえ。
最初は光一の一人称が「俺」だったけど楽曲に合わせて「僕」になった。万一直し切れてなかったら教えてください。
SEASOS全部から取るつもりはないので秋に別れたり春に再会したりはないです。そこまでやれるならまず銀イルカ全部やってる。
本当は長編で書こうと思ってたけど、書きたかったのがマジで今回の所だけだったから短編にしてよかった気がしてる。
前回の川島さん、今回の美波以外も話を考えているアイドルは一応います。
しかし現在絶賛停滞中なので燃料(キャラリクエスト等)をいただければ優先して考えます。先に書いたように、名前付けたい病なのでお名前リクエストも同時募集です。