朝食は食べた。いざ仕事! 千夜の分も食器を洗い、身支度を整えてお気に入りの服に着替えると、私は意気込んで一階へと向かっていった。今日から甘兎のお手伝い。歳上として千夜にも負けないくらい活躍せねば。
さて、店内は……まだ誰もいないか。まぁ、当然だろう。飲食店が開店する時間は普通のお店よりも遅いものだ。仕込みとか言ってたし、多分厨房かな。無人のお店を眺めて頷くと、私はおばあちゃんを探して厨房へと歩く。予想通り、そこにはおばあちゃんが。着物を身に付けており、お酒の影響はないようで元気そうだった。あの後一人で呑んだりはしていなかったみたい。
「おはよう、おばあちゃん」
「おはよう。意外だね。この時間に起きてくるなんて。お昼頃かと思ったよ」
鍋のようなものから視線をこちらに向け、相変わらず気難しそうな顔をした彼女が挨拶を返す。私も多分千夜が来なかったらそれくらい寝てたかもしれないなと思う。などと馬鹿正直に言わず、私は胸を張った。
「ふふん、偉いでしょ」
「まぁ、千夜のお陰だろうね。昨日頼んでおいたから」
サッと鍋に再び顔を向け、彼女は言った。知ってたんかい。うぐぐ、自慢げにした私が馬鹿みたいなことに。
「着替えておいで。制服は用意してあるから」
「え? 折角この服に着替えたのに?」
私は自分の身体を見下ろして不満を訴える。今日着ているのはお気にい入りのワンピース。春に相応しい、うっすらとしたピンク色の可愛らしい服だ。青山さんが来るかもしれないということで意識したのに。せめて開店時間まではこの服装でいたい。ということで私は食い下がる。
「……着替えてきた方が身のためだよ」
が、制服を着る方針は変わらない。それどころか、なんだか小学生がお洒落をしようと頑張るのを微笑ましく見るような優しげな目をされた。やはり一つの服のみでコーディネートするのは幼稚ということだろうか。私のファッションのお手軽さはジーンズにパーカーなどという組み合わせと大差ない。コンビニや本屋くらいにしか出かけなかった私の、精一杯なお洒落だったのだが……ここはお店の上司に従うとしよう。
「分かった。あのさ、私の服、おかしいかな?」
「おかしいというか、幼いね」
「ぐふぅ!」
心配になって訊いてみると、端的すぎる答えが返ってきた。食い気味な返答に、私はカウンターでもくらったかのような衝撃を受ける。やはりスタイルか。身長か。
「その服は悪くないんだけどねぇ。着物は大人っぽく見えるから、着た方がいいよ」
「そ、そう……了解」
少しでも緩和されるならそれがいい。着物が大人っぽく見えるとか、初めて聞いたけど最早すがるような思いである。子供扱いされることはそれほど嫌じゃないんだけど、ここまで言われるとショックが強い。ため息を吐きつつ、私は歩き出そうとする。
というか、私のような見た目の子が着ても七五三だとか思われるのではないのだろうか。とても大人っぽく見えるとは思えない。おばあちゃん時々出処不明なことを口走るからなぁ。
「赤色の着物があんたのものだよ」
「わかった。用意してくれてありがとう」
背中にかかる声へお礼を返す。赤色か。制服ってことは千夜みたいな和服なのだろう。高価なのかなやっぱり。
考えつつ移動し、更衣室と看板の出ている部屋へ。中に入ってみると家具類は鏡くらいで、ただ押入れがあるだけ。本当に更衣室という用途だけで使われているらしい。多分押入れに制服とかがしまってあるのだろう。
「さてと……」
押し入れを前に私は真剣な顔をする。着物はあまり着たことがないけど、大丈夫かな。少し不安だ。
「まぁ、何事も経験だよね」
○
「……これでよし。すっかり着付けのことを忘れていたよ」
案の定、経験者を頼ることになった。何分も格闘しても着ることができなかった私はおばあちゃんへ助けを求め、ようやく制服を身に付けるまでに至る。
「どうだい? 綺麗だろう」
「……うん、そうだね。可愛い制服だよ。ありがとう、おばあちゃん」
千夜の着ていた物の色違い。薄めの赤色でとても綺麗な着物だ。本当に着物には大人っぽく見せる機能があるようで、鏡に映っている私の姿がいつもより大人びて見えた。なんとか七五三には見えない。心底ホッとする私である。
「しかしほぼ裸の状態で助けを求めにきたときは何事かと思ったよ」
「忘れてください」
「忘れなくても何の影響もないよ」
加えて価値もないとでも言いたげである。彼女は私の服をしっかり整えると、頭を少し乱暴に撫でた。シャロもそうだけど、割と頭を撫でてくるなみんな。やはり位置がちょうどいいのだろうか。
「外で掃除をしておいで。道具は外に用意してあるから」
「ん、分かった」
掃除なら私にもできそうだ。知識がなくても、地面を綺麗にすることくらいできなくては。私は頷いて更衣室から出て行く。微妙に歩きづらく、手を伸ばさないと袖から出ない。苦戦をしながらドアを開いたり、靴を履いたりしてなんとか甘兎から外へ。爽やかな空気が私を出迎える。
「ふぅ……眩しいなぁ」
朝日など久しく浴びたような気がする。日差しを防ぐべく手を目の上に当てて、私は空を見上げた。雲ひとつない快晴。真っ青な空には太陽が輝いている。春の陽気を感じられるいい天気だ。夜更かししてゲームしたりするのもいいけど、こういうのも悪くはない。私は微笑んで、出入口の近くに立てかけられていた箒を手に取る。ちりとりも一応置いてあったが、とりあえず放置。
「甘兎前のゴミを掃除すればいいんだよね」
左右を見て呟く。右から左へ、って感じでいいだろうか。石畳だから掃除はし易そうだ。箒を手に、私は甘兎の右端へ。隣にある古い物置のような建物がある境界から掃きはじめる。ひとまず自分の店の前だけ、道の半分くらいを掃除しよう。勝手が分からずに他の人に迷惑をかけたりすることは避けるべきだろうし。
昔にした落ち葉掃除のように力を入れて地面をしっかり掃く。毎日綺麗にしているのだろう。埃などの量は少ないが、それでも小さく煙が立つ。それを逃さぬよう丁寧に仕事をすることを心がけ、私は進んでいった。
「結構楽しい……」
肉体労働ではあるものの、疲労感を超える楽しさがあった。ゲームのやりこみをやっていたりしたので、単純作業が好きなのかもしれない。埃などゴミが集まっていく様は中々に爽快感がある。箒を手に目を輝かせて掃除をする幼い子ども……絵的にこれはどうなのだろうかと頭に一瞬よぎるものの、楽しいのだから仕方ない。
「あら、新人さん?」
夢中になって掃除をしていると不意に声がかかった。手を止めてそちらを見てみれば、見知らぬ中年くらいの女性がいた。ここの常連さんか、ご近所の人だろうか。優しそうな人だ。私は頭をぺこりと下げる。
「今日から働くことになったサヤです。よろしくお願いします」
「甘兎で……学校はいいのかい?」
「はい、一応大人ですので。23歳です」
私が普通に言うと、彼女は目を大きく開いて驚く。
「そ、そうなの……色々事情があるんだね」
「まぁ……そうですね」
ここでドナドナ言うとまたびっくりしてしまいそうなので黙っておく。おばさんは私にとにかく頑張るよう言って去っていった。店が営業したら、この説明を何回かするようになるだろうなぁ。お店の中で未成年に見える人間が平日の昼間から働いていたら間違いなく気になるだろうし。
ま、仕方ないことだ。そこは諦めるとしよう。とりあえず今は掃除を頑張ろう。
○
「……どうしてこう極端なんだろう」
ゴミが多く入ったちりとりと箒を両手に持ち、私はため息混じりに呟く。
あれから一時間ほど経っただろうか。私は気づいたら甘兎前はおろか、数軒離れた建物の前まで綺麗にしていた。楽しくて自分でも気づかないうちに歯止めがきかなくなってきたようだ。途中で気づけたことは僥倖だっただろう。
拾い範囲を掃除したお陰で、集めたゴミを拾うだけでも一苦労だった。住人の方々にはとても感謝されたけど、掃き掃除にこの時間は怒られそうだ。あ、怒られそうといえば――
「おばあちゃん何してるのかな」
呼びにも来ないし、何かしら作業はしているんだろう。和菓子でも作ってるのかな。
「道具は……ここでいっか」
箒は甘兎と隣の建物の間に。ちりとりに取ったゴミはそこに置いてあったゴミ箱へ入れておく。これでよし。
「ただいまー」
道具を置いて入り口かた入ると厨房へ帰還。中で作業をしていたおばあちゃんへ声をかける。彼女はなにやら道具を用いて餡らしきものを作っていた。
「お帰り。随分長いことやってたね」
「あはは……楽しくてつい」
「そうかい。あんまり夢中にならないようにね」
意外だ。怒られなかった。驚きつつ手を水で石鹸をつけて洗う。
「次は店内の掃除を頼むよ。布巾はそこにあるから、綺麗にしながら使っておくれ。モップもある」
「ん、りょーかい。ちなみにこのお店、開店は?」
「10時だよ」
10時か。壁にかけられた時計を見やり、私はぼんやりと考える。現在の時刻は9時。店内の掃除を念入りにしても間に合う時間だ。
それにしても私どんだけ集中して掃き掃除してたんだ。時間を確認して改めて恐ろしく思ったよ。
「さ、掃除だ掃除だ」
手を洗い、布巾とモップを持って私は無人の店内へ。さっそくテーブルの掃除から手をつけようと決め、空気を入れ替えるべく窓を開けるのだが――何故だろう。私は何者かの視線を感じた。誰かがここにいて、私のことを見ているような気がする。きょろきょろと辺りを見回すも、それらしきものはどこにもいない。丸い台に鎮座したうさぎの置物があるくらいだ。
全身が黒く、目の周りや鼻、口、お腹が白いなんだかパンダみたいなうさぎである。頭に冠を乗せていて、無表情ながら可愛らしい。作り物にしては柔らかそうな質感だ。まさか剥製?
「ん……?」
黒うさぎを凝視していた私は首を傾げる。今、まばたきしたような……。それに心なしか耳も微かに動いているように見ええる。本物……なのだろうか。恐る恐る手を伸ばす私。黒うさぎはまったく反応せずにジッとしている。少しして、額に指先が触れた。柔らかい。温かく、近くで見れば呼吸に合わせて身体がかすかに上下している。生きていると確信できた。
「うさぎが店内に……どういうお店なんだろう、ここ」
昨日来たときや今朝は置物としか思えなかったのに。世の中不思議なこともあるものだ。感心しつつ私はうさぎから指を離した。本来なら抱きしめたいところだが、今は仕事中。あまり動物には触るべきではないだろう。
「それにしても大人しい子だなぁ」
私がテーブルを拭いていても彼は視線すら向けない。これでは置物と間違ってしまっても仕方ないだろう。何かに捕まってもジッとしてそうだ。テーブルを拭きつつ私はのんびりと考える。
「汚れが――ふぇっ?」
テーブルについた汚れに意識を向け、一生懸命になって擦っていると、どこからかバササと音がした。鳥が飛ぶときの羽の音だ。もしかしてあのうさぎ以外にペットが? と、期待を込めて私はテーブルから店内に視線を向ける。すると見えたのは、黒うさぎの上に乗った黒い鳥――カラスだった。
「え?」
カラスがペット? 予想外な光景にぽかんとする私。すると次の瞬間カラスは飛び立ち、黒うさぎを連れて私の開いた窓から飛び去った。遠ざかっていく羽音。二つの黒は徐々に小さくなっていく。春は出会いと別れの季節。カラスとうさぎは出会い、そして私と別れたのだ。新たな門出と別れである。
「え……ええぇぇ!?」
私はそれはもう驚いた。思った通り捕まっても大人しかったのだが、まさかカラスに捕まってもジッとしているなんて。あの子は生きることを諦めたりしているのだろうか。
「とりあえず追跡!」
私が開いた窓からカラスは侵入したのだ。これであんこが鳥の子になったりしては大変である。私は布巾とモップを置いて窓を閉めると、慌ててカラスの後を追った。