ボクシングは辞めたけど、このたび超絶可愛い幼馴染と付き合うことになりまして 作:マクハリ
家を出て裏手側にあるジムに着くと、トレーニングウェアに着替えた俺は、慣れ親しんだ階段を昇って二階にあるリングの方へと足を運ぶ。
するとそこには、まるで咆哮のような怒号を発しながら暴れ回る一匹の猛獣(♀)の姿があった。
「──オラオラどしたァッ!!!! 顎が遅れてんぞ下手クソォッ!! インファイターがんな簡単に顎上げてどうすんだ!? もっと踏み込め、後ろに下がんな、アウトボクサー相手に距離空けたら相手の思うツボだろうが!! そこは一、二発貰うぐらいの気持ちで相手のやり辛ぇ間合い作って自分のスタイル貫くんだよボケがぁッ!!!!」
「オ、オッス!!!!
「って、なんでアタシの調整中にテメェの指導なんざしなきゃなんねぇんだぶっ殺すぞォォッ!!!!」
「ギャーッッ!!!!」
「…………」
……控えめに言っても、物凄い地獄絵図がそこには転がっていた。
男性ボクサー相手に真っ正面から堂々と打ち合って圧勝するその猛獣の正体は、小麦色に焼けた肌とスレンダーでしなやかな体躯が特徴的な若い女性だった。
真っ赤に染めたショートカットの髪と、バキバキに割れたシックスパックの腹筋が一際存在感を放っている彼女の名は、『
正真正銘、俺と血の繋がった実の姉である。
鷹や鷲のように鋭利に研ぎ澄まされた猛禽の如き瞳が他者を威圧し、普段の言動も相まって見る者に粗暴な印象を与える。
歳は俺より五つ上の二十歳。
そんな我が姉、通称“ヒナ姉”は、ルーキーとはいえプロライセンスを持つジムの練習生を軽くノした後、退屈そうにリングの上から周囲を見回した。
おそらく次の獲物を探しているのだろう。
スパーリング相手に選ばれたが最後、それは実質的な死刑宣告と同義である。
ジムにいた全員が、ヒナ姉と目線が合わないように顔を逸らしていた。
「……うわぁ、相変わらず激しいねぇ、ヒナ姉」
「しっ、今気づかれたら面倒だから、しばらく様子を見よう」
付き添いで一緒に来ていた天音にそう声をかける。
……が、時既に遅し──。
「──おっ、颯多じゃねーか! んだよ、やっと来やがったか、遅ェんだよクソガキ!! オラ、スパーやんぞ、さっさとリングに上がれやカス!! ったく、どんだけ待ちわびたと思ってんだバカ野郎」
……と。
どうやら早速、次の人柱には俺が選ばれてしまったようである。
ちなみに、やたら口が悪いこの姉だが、表情だけを見ればめちゃくちゃ嬉しそうにしている。何がそんなに楽しいのか、ニカッと口角を上げた口元から真っ白な鋭い犬歯がのぞいていた。
気分的にはジャーマンシェパードとかドーベルマンみたいな強面の犬に懐かれたような感じ。
一見恐そうだが、慣れるとこれはこれで愛嬌がある。
「いやヒナ姉! いきなりスパーとか無茶言うなって!」
「あぁ!? 口答えしてんじゃねえ、殺すぞ!!」
うん、慣れると本当、こんなこと言われても何も感じなくなるのだから不思議だ。
「一ヶ月後にやる次の相手が左利きのインファイターでよぉ、急襲力あるくせに一撃の威力もバカ高ぇから割と
「えー……」
相手の意見などお構いなしの相変わらずの暴君ぶりを発揮する我が姉。
というか何だ粘着型って。それじゃまるでストーカーか何かのようじゃないか。せめて突進型かブルファイターと言え。
「おい、天音。そこの棚から十六オンスのグローブ取ってアタシに寄越せ」
「あ、う、うんっ!」
まるで自分の子分みたいに天音に命令するヒナ姉。
しかしどうやら一応、俺のことを気遣ってくれる気はあるらしい。
わざわざ分厚いグローブに着け替え、極力破壊力が出ないように配慮してくれている。
「テメェは十オンスな。ヘッドギアもまあ、一応付けとけ」
「分かった」
言われた通りグローブを装着し、ヘッドギアも着ける。
気休め程度だが、極力目を
ヒナ姉は現役プロで、日本タイトルも射程圏内に捉えたトップランカー。階級はフェザーで、俺も現在の体重だと、区分的にはフェザー級にあたるので、男女の違いはあれど、階級差は無い。
身長についてはヒナ姉が173㎝で、169㎝の俺よりも少し高い。女子フェザー級の中でも長身のボクサーだろう。
身長差があるので当然だが、リーチに関しても俺より上である。
ウェイト的にもヒナ姉にしてみれば俺はかなり実戦に近い相手であり、そのうえ次の相手が珍しいサウスポータイプのインファイターと来れば、ヒナ姉が俺に声をかけてくるのは当然の流れと言える。
とはいえ、今の目の状態でヒナ姉相手にどこまでやれるか……。
「いいか、間違っても手加減なんかすんなよ。本気じゃねぇなら何の練習にもならねぇ。サンドバッグ殴ってたほうがまだマシだ」
「分かってる…………」
「……無理しないでね、颯多」
「うん……」
短く頷きながらリングに上がり、コーナーを背に一つ大きく息を吐く。
しばらく距離を置いていたが、やはりここに立つと、不思議と気分が高揚する。
そこら中から戦意が漲ってきて、闘志が燃えるという感覚をハッキリと知覚する。
やっぱり俺は、まだボクシングが好きなんだと改めて実感した。
──気持ちを最大限に昂らせ、セットポジション。
「おーし、んじゃあ始めっか。……んぐ」
俺の準備が整ったことを確認して、ヒナ姉が口にマウスピースを咥え込む。
そしてリング下のタイムキーパー役の練習生に目で合図を送ると、それを皮切りとしてカンッ!!と、試合開始のゴングが鳴り響いた。
かくして、ファーストラウンドの幕が開ける。
「────!」
先に動いたのは俺。
試合なんて久しぶりなのに、身体は自然と前に出た。
地を滑るようなスタートダッシュ。
初速にして最高速を乗せた渾身の踏み込み。
ロードワークでひたすら鍛え上げたダッシュ力を、先手必勝と言わんばかりに初手から遺憾なく発揮する。
ヒナ姉のボクシングスタイルはロングレンジからのヒットアンドアウェーを主体とする、お手本のようなアウトボクシング。
普段の粗雑な振る舞いからは想像もつかないような、繊細で華麗なボクシングだ。
軽やかなフットワークと長いリーチで常に相手を翻弄し、やがて痺れを切らして飛び込んできたところへ間髪入れずに特大のカウンターを放つ。それがヒナ姉の必勝パターンである。
対して俺は、右利きでありながら左利きの構えを取って戦う、コンバーテッドサウスポーと呼ばれるスタイルの突進型インファイター。
身長差もあり、相手よりリーチで劣る分、俺が有効打を当てるには最低でもクロスレンジまで肉薄するしか手段はないが、相手は現役のプロ。それも女子ボクシング界でも五本の指に入るとまで言われている超技巧派のアウトボクサーだ。
そう易々と接近を許してくれるほど、ヒナ姉は甘い相手ではない。
「────」
ヒナ姉の間合いに入った途端、牽制の高速ジャブが飛んでくる。
しなるような鋭い突き。捌くだけでも随分と骨が折れる。
動体視力がまともに機能していない今の目では、到底見切ることは不可能であろう高速ジャブとワンツーのコンボ。
「…………っ!」
けれど、自分でも驚くほどスムーズに反応できた。
自然と身体が動いて、最小の動作で全ての攻撃をグローブを上げて受け切る。
右目の手術前と、ほとんど何ら変わりの無い反射速度に、俺も戸惑いを隠せない。
いったいこれはどういうことだろうと理由を考えてみると、やがて一つの結論に行き着いた。
──“ああ、これは相手がヒナ姉だからだ”、と。
そうとしか考えられなかった。
俺とヒナ姉は小さい頃からずっと一緒にこのジムでボクシングをやってきた。
当然、スパーリングの回数も数えきれないほど膨大で、ラウンド数にしてみれば数百にも及ぶ。
それほどの数をこなしてきたのだから、俺とヒナ姉は互いに互いのリーチや戦闘スタイル、動きのクセまで完璧に理解し合っている。
だからこそ、まともに動きを見切れない今の目でも、わずかな初動の瞬間さえ捉えることができれば、後は身体が勝手に覚えた通りに反応してくれるのだ。
つまり、俺は……。
ヒナ姉が相手の場合にのみ限り、以前と何ら遜色ないボクシングができるということ──!
「────!!」
そう悟った瞬間、恐れを捨て一気に前に出た。
振り抜かれたジャブを掻い潜り、引き手のタイミングで肉薄してロックアウェーの要領で急襲する。
「…………ッ!?」
今の俺がまさかこんな風に動けるとは思っていなかったのだろう。
いとも容易く接近を許してしまったヒナ姉が、虚を衝かれたように大きく目を見開いた。
そうして生まれた一瞬の隙。
それを見逃さない。
運良く巡り合ったチャンスを無駄にはせず、クロスレンジでシフトウェイトを駆使した怒濤のラッシュを叩き込む。
「────ッ」
舐めるなッ!!
そんな声が聞こえた気がした。
場数を踏んで磨いた動体視力と反射神経、鍛練に鍛練を積み重ねたフットワークで俺の渾身の連打を
だが、近距離での殴り合いはインファイターである俺に分がある。
距離を取るためジリジリと交代していくヒナ姉にぴったり張り付いて圧をかけ、遂にロープ際ギリギリまで追い詰めた。
「────」
ロープのしなりを使って身体を逸らし、冷静に俺の拳を見切るヒナ姉だが、俺もスタミナと強打の回転率にはそれなりに自信がある。
一度間合いに捉えた相手は死んでも逃がさない。
足の止まった今なら、ここがガラ空き──!!
「…………あがッ!!」
クリーンヒット。
上にばかり意識を割いて手薄になっていたボディへ、腰の乗った強烈な一打がもろに入った。
そこへもう一発、容赦なく叩き込む。
いくら腹筋を鍛えていようと、
ヒナ姉の長身がくの字に曲がり、連鎖的に顎が下がった。
そこへ──。
「────ッ!!」
足裏から丹田、腰、そして腕。
カチリ、と全てのピースが綺麗にハマった感覚。
──ここだ、ここで打て……!!
全身がそう訴えかけているような気がした。
気、拳、体。身体中、全神経。全ての要素がただ一点に集約され、ここぞとばかりに腕を振りかぶる。
下からのコース。そうして炸裂するのは、必殺の威力を込めた渾身の左アッパー──!!
「──な……!?」
「──あ、やば……」
──と、そこで気付いた。
そういえば俺は試合用に近い薄いグローブで、相手は試合を間近に控えた超人気ボクサー。
そんな相手にKO必死の痛烈左アッパーなど食らわせて万が一のことがあれば不味いのではないか? と。
ジュニアの頃からパンチ力においては大会屈指の破壊力と称されていた俺の左は、中三の頃、親父をしてプロのハードパンチャーに匹敵すると言わしめたほどだ。
久しぶりのリングに興奮してヒナ姉の言葉通り本当に本気で、勢いだけで言えばそれこそ相手を殺すような気持ちでかかってしまったが、今になって急に冷静になり、全身から滝のように冷や汗が流れる。
しかし一度振り抜いてしまった拳は止められず、直前で僅かに制動をかけながらも、俺の必殺左アッパーは見事にヒナ姉の顎に直撃した。
「が、ぁ………………」
案の定、壊れた振り子のようにロープをバウンドして前方にドサリと崩れ落ちるヒナ姉。
……客観的に見て、これ以上ないほどに完璧な、見事な
──やべぇ、絶対後で殺される……。
★★★★★
「──こんのバカ!! バカ!! バーカ!! バッカじゃねえのお前ッ!? 本気で来いとは言ったが、なに本腰入れた必殺KOブチ抜いてんだテメェッ!! 下手なやつなら顎砕かれてんぞアレ!!」
「……うーむ。我ながら不思議だ。まさかあんなに気持ち良く決まるとは……。俺の中でも歴史に残る完璧な1RKOだった」
「ラッキーパンチで浮かれてんじゃねぇ!! スパーの戦績ならアタシのほうが勝ち越しだってこと忘れんなッ!!」
スパーリングを終え、無事に起き上がったヒナ姉にシャツの胸ぐらを掴まれながら怒鳴り散らされる。
今回は幸運にも間合いに入れたから良かったが、いつもなら俺の突進も完璧にいなされて1Rじゃ到底勝負などつかない。
今回の勝因は全て、ヒナ姉の油断によるところが大きい。
いや、だがそれにしても本当に見事で気持ちのいい試合だった。
「お、お疲れさま颯多……」
見れば天音までちょっと引いていた。
「……ってかお前よ、普通に見えてんじゃねぇか」
パッと突き飛ばすように胸ぐらから手を離しながら、ヒナ姉が告げる。
やはりヒナ姉もそのことに動揺していたらしい。
俺はヒナ姉に、さきほど試合中に考えていた自分なりの結論を説明した。
パンチが追えなくてもヒナ姉相手の場合にのみ限り、身体が勝手に動いて回避やガードが可能なこと。
それと同時に、俺がまともに戦えるのはヒナ姉だけで、今でも動体視力はほとんど機能していないことも。
それらを自分の言葉で出来るだけ分かりやすく、順序を立てて説明する。
「……なるほどな。理屈はめちゃくちゃだが、意味は理解できる。何せアタシも似たようなモンだからな。お前が相手なら、その気になれば、片目でも十分やれそうではある」
ふん、と不満そうに鼻を鳴らしながら、ぶっきらぼうな態度ではあるが一応納得はしてくれたらしいヒナ姉。
俺自身不思議なのだ。
普段はキャッチボールすらまともにできないくせに、ヒナ姉が相手だと疾患なんて何もないように普通に打ち合える。
正直、楽しかった。
もう二度と、まともにボクシングなんかできないと思っていたのに、今日のヒナ姉とのスパーリングは、なんだか目を手術する前の自分に戻れた気がして胸が高鳴った。
興奮して制御が利かなくなったのも、きっとそのせいだろう。
「あの、姐さん。一つ質問いいっスか?」
と、一緒に話を聞いていた練習生の一人がおもむろに手を挙げた。
「んだよ、殺すぞ」
言葉はあり得ないぐらい物騒だが、表情から察するに「いいぜ、何でも言ってみな」といった感じだろうか。
ここまでいくと普通に通訳が要るレベルだ。
「言い
チラチラ俺の表情を気にしながら、俺より、というか普通にヒナ姉よりも年上に見える厳つい顔したウェルター級のお兄さんが、そんな風に指摘する。
おそらくこの人は俺がスパーリングする姿を見たのは初めてなのだろう。
たしかに俺の構えは、普通のインファイターよりも上向きでボディへの守りが手薄になっている。
首から下に関してはほぼノーガードと言っていい。
しかしヒナ姉は、先ほどの試合でただの一度もガラ空きのボディを狙うことはなかった。得意のカウンターブローだっていくらでも叩き込める隙があったのにも関わらずだ。
「アタシは無駄なことはしない主義なんだよ」
「無駄って、いやいや。ボディが狙えるんなら打っておくにこしたことはないでしょう。だって姐さんだって実際──」
「あ゛ぁ゛!?」
「ひっ……!?」
ヒナ姉がドスの効いた声で威圧すると、質問したお兄さんは情けない悲鳴を漏らした。
何度見ても迫力がエグい……。
「だったらテメェ、コイツに思いっきりボディ打ってみろ! ただし素手はやめとけ、死ぬぞ。
「……は?」
「オラ、よく見ろッ!!」
「わっ、ちょっ!?」
ヒナ姉が俺のシャツの裾を掴んで勢いよく持ち上げる。
そうすることで、シャツの下に隠されていた俺の腹筋が衆目の面前で露となった。
それを見て、その場にいたほとんどの人間が息を呑む。
「──グロ……」
俺の腹部を見ながら、誰かが呆然とそんな呟きを漏らした。
失敬な評価だが、実際俺も自分でそう思っているので何も言い返せない。腹筋だけ世紀末とはよく言ったものだ。
そう。俺の腹筋は、綺麗とか美しいとか、そんなものとは無縁なほど、無骨なんてレベルを越えて尋常じゃないぐらい発達していた。
もちろん、強度に関しても並のボクサーの比ではない。ほとんど岩盤と同義だ。やろうと思えば大根もすりおろせるかもしれないレベル。いやさすがにそれは無理か。
「どうやってここまで鍛え上げたのか知らねぇが、コイツの腹筋は岩や鋼みてぇに硬ぇ。まともに打ったって拳痛めるだけだ」
「で、でもいくら強度があっても、ボディ打てば内臓が揺れて膝も落ちるでしょう……!?」
「コイツはバカみてぇに内臓も頑丈なんだよ!! 呼吸器系は特にな!! ボディを何発叩き込もうがビクともしねえし、逆にボディ狙った瞬間大砲みてぇなカウンターアッパーを合わせてきやがる。分かるか!? コイツはな、
「そんなむちゃくちゃな……!?」
「うるせぇ言い返してんじゃねぇ殺すぞ! それが事実なんだから仕方ねぇだろうが!!」
「……いったいどんな鍛え方したらそんなになるんだ」
「……え、えへへ……」
戦慄したように呟く練習生だったが、なぜか俺の隣で話を聞いていた天音が唐突に頬を染めながら照れ笑いを浮かべ、怪訝そうに首を傾げていた。
うん。この腹筋を手にするために、天音には随分世話になったからな……。ちなみに心肺機能の強靭さについては生まれ持ったモノで、普通にトレーニングしている内に自然と身に付いたものだ。よって何か特別な訓練をして身に付けたものではない。
「……にしても、そうか。お前は少なくともアタシ相手ならまともにボクシングが出来んのか。へへっ、そいつはいいな。よーし。ならいっそ、アタシ専属のスパーリングパートナーとして、付き人でもやるか?」
「は……?」
「どうせその目じゃプロになったってやってけねぇだろ? だったらよ、アタシのサポーターに回って一緒に全国巡ったほうが、お前にとってもよっぽど有意義じゃねぇか? 少しでもボクシングに関われるんならよ。安心しろよ、日本を獲ったら、すぐに世界だ。お前一人ぐらい、アタシが面倒見てやるよ!」
そう言ってバンッ、と、ヒナ姉が思い切り俺の背中を叩く。
どうやら思いつきで言ったみたいだが、なるほど、悪くない提案だ。
ヒナ姉はメディアへの露出も多い人気ボクサーで、元世界チャンプの二世、且つ女性ということもあり、世間からの注目度も高い。今のままでも、充分にボクサーとして食べていけるだろう。そんなヒナ姉に付いていけば俺も食いっぱぐれることはあるまい。
何より、そうすれば就活もしなくていいってところが凄く魅力的である。
「……うーん、考えとくよ」
「おう! ちょっと目がイカれたぐらいで、テメェの才能をこのまま眠らせておくには惜しいからな! アタシがしっかり有効活用してやるよ!」
「ははっ、うん。そうだね……」
「…………」
自嘲気味に笑う俺に、ヒナ姉はどこか優しげに目を細めて頷きを返した。
言い方は少しアレだが、ヒナ姉はヒナ姉なりに俺のことを考えてくれているのだと、その表情から読み取れる。
コレはコレで、面倒見の良い優しい姉ちゃんなのだ。
「──よっしゃ、一息ついたトコで練習再開だテメェら! 親父が居ねぇからってサボったら承知しねぇぞ!!」
「「「「オッス、姐さんッ!!」」」」
そうしてヒナ姉の号令の下、練習生たちが一斉に、それぞれトレーニングを再開する。
いつ見ても物凄い統率力だ。まるで軍隊か何かを思わせる。
「おーい、ヒナ姉ー! もう帰っていいのー?」
「おう! とりあえず今日のトコはなー! また今度調整付き合え!」
「ハーイ!」
どうやらスパーリングの相手をしたことで、今日の俺の役目は終わったらしい。
てっきり、もっとみっちりトレーニングの相手をさせられるかと思っていたので、それなりの長丁場を覚悟していたのだが、早く終わるならそれに越したことはない。
試合も控えていない人間がこれ以上ここに居座っても、ジムの皆の邪魔になるだけだし、部外者はさっさと退散することにしよう。
「それじゃあ帰るか」
「うん!」
傍らの天音から、そんな元気の良い返事が返ってくる。
「ねえ、帰ったらウチで映画観ようよ。今日もお母さん仕事だし、リビングの大っきいテレビ使えるよ」
「おー、いいな。じゃあカーテン閉めきって照明とかも落として雰囲気出そう。コンビニ寄ってポップコーンも買うか」
「それだ」
そんな取るに足らない会話を繰り広げながら、二人でジムを後にする。
──名残惜しい、と、そんな感情も心のどこかにはある。
ずっと夢だったプロボクサーへの道は絶たれ、今の俺はたぶん、魂の抜けた脱け殻にも等しい状態だ。
……もうまともにボクシングなんてできない。
心なんかとっくに折れているはずなのに、けれども、彼女──須ノ原天音という少女が隣に居てくれたおかげで、俺はこうして自らの人生に絶望することなく、今日まで真っ当に生きてこれた。
本当に、彼女には感謝してもしきれない。
これから先、何が起こって、人生どうなるかは分からないけれど。
願わくば、ずっとこんな平和な時間が続いてほしいと、心からそう思った──。