夕暮れ時、どこか血のような色をした夕陽を受けてほの赤く輝く山々がそこにはあった。
理奈の暮らしている山村の斜面を一体の呪霊が駆け上がっていく。
恐らく人の少ないこの近辺で生まれた物なのか呪力の少ないそれは何かから逃げているかのようだ。
都会ではそうそうお目にかかれない夕日の中を気色の悪い物が駆けていくのはどこか滑稽であるが当の呪霊は必死極まりない。
「■■~っ!?」
ヘドロで人の上半身を模したかのような造形の呪霊の姿は懸命に逃げていく。
が、足がない事による低速ゆえに逃走劇も長く続かない。
すぐに人一人程を丸呑み可能なまでに巨大な顔に追い付かれるとごくん、と丸呑みにされた。
巨大な顔は呪霊を完全に飲み込むとそのまま重力を感じさせない動きで滑るように動き、斜面を浮遊していく。
そうしてやがて山にある社、柴田家の管理する不釣り合いなほど大きな社に戻っていった。
其処には、顔の本体というべき巨大な呪霊がいた。
それは単眼の巨大な存在であり、首から浮遊する顔と同じような不細工な顔を数珠のように提げた異常な姿。
その呪力は巨大であり、このような田舎には有り得ない一級相当の物。
しかし頭部から刺さった巨大な針のような杖故か、単眼からは己の意思というものが読み取れない虚ろに見える顔つきをしている。
「■」
単眼の巨大な呪霊は良く肥えた体を持ち上げると戻ってきた顔を鷲掴みにする。
そして呪霊は掴んだ顔を握りつぶすと己の下げる顔面数珠の一つとした。
いつも通りのルーティンワークのような気軽な動作。
そうして呪霊はまた身を横たえようとしたが、意外なほどに機敏な動作で村の最外部を見つめた。
それは呪具により思考を制限された中でも本能的に行った生物としての本能。
己を脅かす存在が確かに今、この近くに至ったことを呪霊は本能的に察知したのだ。
長閑な村に、呪力に満ちた異物が入った。
村の裏手にある小川のほとり、普段は人がそう立ち寄らない場所は今の理奈にとって数少ない一人で落ち着ける場所だ。
汚れという言葉とは縁のない清らかな清流のかすかな音は耳に心地よい。
理奈はスマートフォン片手に母親と通話中。
二週間後ほど前運悪く理奈の両親は交通事故にあってしまい、幸いにも後遺症などはなかったものの入院する事となった。
その為直前に筋の良い理奈に対してこの村に伝わる神楽を伝承したいと申し出ていた柴田の家に、彼女は居候している。
「うん、私は大丈夫だから。ママも早く良くなってね。
アハハ心配しないで。柴田さん良くしてくれているから
神事と言ってもそんな大変じゃないよ」
理奈は精一杯の虚勢を張って電話に応える。
以前より柴田から申し出があった村祭りなどで行う神事の教練が辛くないかと、理奈を心配している。
親の言葉に思わず泣きそうになるが、素朴な人間性の彼女にしては意外なほどに上手い演技はどうやら母親に通じたようだ。
電話を切る母親の声は明るく、今理奈のいる苦境などみじんも想像していないようだ。
対照的に理奈の顔はいつもと同様に昏い。
そう、理奈の両親は大丈夫だ。
少なくとも今の所は。
でもこの先は? そして自分はどうなる?
「考えても、仕方ないよね……」
そんな暗い未来に目を向ける事を拒むかのように理奈は水に手をそっと入れる。
清流に手を入れそっと呪力を流し水の流れを変え水面に華を咲かす。
それは小学生の頃には己の力をある程度自覚していた理奈のひそかな楽しみ。
今となっては柴田に禁止されている事だが理奈はひそかにこの手遊びを続けている。
一人だけの理奈は未来を考えないように水を弄んでいた。
「おや、これは素晴らしい。
実に清らかで美しい術式、望外の善き出会い哉!」
「えっ…………」
しかし今この場には理奈以外にも一人の男がいた。
見知らなぬ男は上機嫌で理奈の元へ歩み寄ってくる。
「これは、君の術式かい?」
「ええと……」
理奈に声をかけてきた男は、なんとも胡散臭い男だった。
日本人離れして体格の良い男はその体を坊主のように袈裟で包んでいるが、髪を剃っている事はなくむしろ一筋の前髪を垂らす奇妙な髪形をしている。
更に育ちよさげな整った顔立ちは目を細めた笑みのような形が常の表情としているようだ。
理奈はこれまでの人生で会ったことがないタイプに動揺するも、すぐにこの男がどの様な人間か察した。
(あっこの人関わっちゃいけないタイプだ。
漫画とかだと味方のふりして事件の黒幕だったりするタイプ)
例えるならBLEA〇CHの藍〇惣右介。
何がどうあろうと主人公たちの味方ではないタイプの人間だ。
「見た所そうだね、呪力を流す事で水を操る術式かな?
いやはやこんな辺鄙な山奥で素敵な出会いがあるとは。
偶には遠出をしててみるものだね!」
「は、はい……そうですね」
にも拘らず男から理奈は遠ざかることができない。
戯れとはいえ術式を行使するところを見られてしまった事もあるが、膝を曲げて理奈に目線を合わせる男には何処か己の悩みを話してしまいたくなるような抱擁的な魅力を感じてしまうような気がした。
例えば宗教か、軍隊か、なんにせよ強い信頼による紐帯を必要とする集団を束ねる指導者のような。
まさにカリスマというべき魅力が男にはあり、ほんの二言三言言葉を交わしただけで理奈は引き込まれる自分を感じていた。
「ああこれは失礼。思わぬ幸運に年甲斐もなく興奮してしまったよ。
私は夏油傑という者だ。
君と同じ、呪術師だよ」
予想以上に丁寧に、そして穏やかに男は夏油と名乗った。
珍しい名前だが理奈には両親に連れられ夏油温泉に行った事がある理奈は読み方が分かった。
しかしそれ以上に注目すべきなのは呪術師であるといった点についてだ。
「夏油さんも……呪術師なんですか?
私、他の呪術師の人初めて見ました」
「ああその通り。
私はこれでも呪術師になって長くてね。
一時期は特級術師だったこともあるんだよ」
「特級!? それは凄いですね」
理奈は柴田から呪術師の基礎知識についてレクチャーを受けている。
曰く呪術師及び呪霊の等級は大まかに四級~特級へ分かれているが、それぞれの等級の術師は同じ等級の呪霊を確実に祓えるかが任命基準になるという。
例えば一級術師は一級の呪霊を確実に祓うことができる力量を持つという事で、特級である夏油は呪霊でも特級という神話伝承の魔物や自然への強大な恐れが具現化した存在を確実に祓うことができるという事。
誠に多くの呪術師の中でも、規格外の実力者であることは確実であった。
「ははは、若いお嬢さんに褒められると年甲斐もなくうれしく感じてしまうな。
しかし他の呪術師は初めて見た、か……ふむ」
夏油は理奈の言葉に朗らかな笑みを浮かべるが一転して顎に手をやり考え込む。
理奈は何かまずい事を言ってしまったかと思うが、何か言う前に夏油は山の方へと目をやった。
「もしかして、君のご両親も呪術師ではないのかな?」
「はい……そうですけど何かおかしなことが?」
「いや、非呪術師の家系から突然変異的に呪術師が生まれるのはそう珍しい事ではない。
事実私も一般家庭の生まれだが。
成程、山の呪霊は―――――」
理奈のように術師の家系でないが呪力を扱う力を持って産まれる人間は少なくない。
多くの者は年少のうちに己の術式と共にその事実を自覚する。
そして往々にして孤立感から犯罪に走る事もあるのだが────それは今この二人の間では関係のない事である。
「君は何か問題を抱えているようだね」
「っ……!」
夏油の言葉に理奈は慌てて目をそらす。己の無警戒さが恨めしかった。
経験を積んだ大人の目は子供の隠し事など容易に看過する。
そんなことはここ一か月毎日毎時毎分分からされている事だというのに!
「……夏油さんには、関係のない事ですよ」
顔を背けながらそうこぼした理奈は沈黙に耐えきれない。
夏油の方に恐る恐る目を向けると彼はまっすぐ自分を見据えていた。
その目は先程と違い少し見開かれていたが、意外な事にその目には理奈にもわかる程にはっきりと穏やかな色があった。
「理奈。正直に言うと私は君とは今日会ったばかりで君が何が好きなのか、どんな音楽を好んでいるかも全く知らない。
だけど私たち呪術師はこの腐りきった世の中で数少ない、この腐れた世界の真の姿を共有できるいわば家族のような存在だ。
だから、君の苦しみについて話してほしいと思う」
理奈に対するいたわりの言葉。
子供心にも感じられる誠心のこもった言葉に理奈は思わず心が動かされた。
「夏油さんには迷惑なだけで、赤の他人の事なのに、いいんですか?」
「当然だとも。
私の経験上もそうだったのだけどね、人間苦しんでいる時だからこそ親しい人間には相談しにくい物だよ。
折角の機会だ。私が聞いてあげよう」
夏油は救いを求める理奈の心情を完璧に理解している。
故に理奈は夏油に話してしまった。
己の抱える問題について。
呪術師である理奈は幼いころから呪霊を見る事が出来たが、特に問題が起きたことはなかった。
人の少ない長閑なこの村ではめったに呪霊が出ることはなかったし、仮に出たとしても呪力をそれなりに持っている理奈にとっては脅威とは呼べない低級の呪霊で、脅威度は蠅と変わらない程度の存在であった。
その頃には理奈は「これは害虫とそう変わらない物なのだ」と認識し、特に危機感もなく単に家族や周りの人が気味悪く思うだけとほとんど相談した事がなかった。
それがいけなかったのだろうか。
理奈は一か月ほど前に、楓についていた蠅頭を祓ったのを柴田に見られてしまった。
寝違えたことも重なり、肩の重さに苦しんでいた楓を見ておられずつい焦って目立つところで払ってしまった。
その時は何事もなく理奈も柴田が呪霊が見えるとは知らなかった。
が、世の中予想通りにいかないものだ。
半月ほど前に柴田は理奈を密かに呼び出した。
「それで柴田は、私に言いました。
自分に力を貸せと」
柴田は理奈が言う通り非術師であり、本来呪霊を認識することはできない。
だが、どこからか持ち出してきた呪霊を認識することが可能な眼鏡型呪具、ちょうど柴田の夫が没する直前から掛けだしたそれで理奈のやっている事を理解することが出来た。
そうして呪霊と呪術師について詳細まで知っていた柴田は理奈にモグリの呪術師として稼がないかと持ち掛けてきた。
当然ながら理奈は断ったが、それは彼女を不幸の入口へ強制的に立たせるものだった。
柴田が持っていた呪具は眼鏡だけでなく、一体のみとはいえ呪霊を使役する事が出来る杖。
社に封印された強力な呪霊を使役可能な杖を柴田という悪党が持っていたのは最大の不運。
己に逆らう理奈に対して柴田は容赦なく力を振るった。
「その次の日に私のパパとママが交通事故で入院しました。
それで二人のお見舞いに行って帰ってきた時に柴田は笑って、次はないぞと」
柴田は言う。
儂の持つ杖は山の社へ封印された呪霊を操ることができる。
抵抗しても無駄だ。あの呪霊は外法で縛られているが強力な一級呪霊でお主に勝ち目はない。
もし儂をうまいこと殺したとしても自動的にあの呪霊が暴走しこの村を滅ぼす。
だからお主は儂に協力するしかない。
家族や友達を殺されたくなければ黙って儂の仕事を手伝え。
「だから私はっ呪霊と戦う訓練をここ二週間受けていました……。
でも、もう無理です。私はあんな気持ち悪い化け物と毎日のように戦うなんて無理……!
それに人を殺したくなんてないよ……!」
表面上は良き村長としてふるまう柴田の人心掌握術と理奈への支配は揺るがない物。
だから理奈はこの後も柴田の道具として使い潰されてしまう。
理奈は想う。この先自分に待ち受けているのは人殺しとしての汚れた生と呪霊に尊厳を蹂躙されつくした末の無残な死かいずれにせよ、そう遠くない先に悲惨な事になるだろう。
理奈は術式を使う事が呪術師でも、根本的な強さとは無縁の普通の少女なのだから。
呪霊と人の世の裏側の穢れにまみれて、生き抜くことなどできない子供なのだから。
「死にたくないよ……やだぁ……いやだよぉ」
抑えていた物が決壊し泣き出す理奈。
少し前まで確かにあった幸せが穢されていき、壊れていく日常。
それは普通の少女の精神を折るには充分な苦難であった。
か弱く打ち震え泣きじゃくる理奈。
黙って話を聞いていた夏油は不意に理奈の頭を撫でて優しくささやいた。
その手つきは年月を経てなお穏やかにそこに有り続ける老木のような安心感がある。
紳士的で優しい手だった。
「辛かったね理奈。
本当に誰も頼れない中一人で、よく頑張った。
後は私に任せておきたまえ」
夏油は優しく理奈の背を撫でまるで兄であるかのように暖かい声で理奈の孤軍奮闘をねぎらう。
その慈悲に満ちた姿は、あらゆる人々の苦悩を救済する高僧の如き聖性がうかがえた。
「後は私が何とかしよう
心配ない。先程も伝えたが私は元は特級術師だ。
すぐさま解決してまた君が……笑えるようにするとも」
「夏油さん……ありがとう、ございます……!」
「礼はいらないよ」
応用に応える夏油は真剣に理奈の身を案じ、己の力量からすると楽とはいえ何の得もなく立ち上がってくれた。
そんな理奈にとっての救世主である夏油は理奈の涙をぬぐうと立ち上がる。
門構えであたりを付けたのだろうか、まっすぐに柴田の家へ向かっていく夏油の姿は頼もしい物だ。
それはまさしく人々を救う聖者か、または魔を滅ぼす英雄か。
今や理奈の唯一の希望となった夏油は光り輝いて見えた。
光の戻った理奈の目を見ながら夏油は宣言する。
それはまさしく託宣であった。
「私は同じ呪術師の家族として君を救おう。
君がこれからも幸せに笑って生きられるように。
故にあの社の呪霊を祓い──────―」
夏油は理奈に振り向く。
「その柴田とかいう
その目には理奈への信愛や義務感だけじゃない。
憎悪を始めとしたありとあらゆる負の感情が込められていることが見て取れた。
その目は理奈に対して夏油傑という男の本質を雄弁に伝える。
夏油傑という男は一本の芯を知恵の輪よりも複雑に捻じ曲げ、両端だけまっすぐなように同一線上に整えたそんな歪み切った音尾であるという事を。
夏油の言葉を問い返す事も出来ず、呆然とする理奈の前で使命感に満ちた夏油は悠然と歩んでいった。
呪霊という糞を吐き出し今なお
夏油傑は呪術師であると同時に、極度の非呪術師に対する差別主義者である。
彼は非術師を猿と蔑み、呪術師を家族と称し彼は暗躍してきた。
今日この場に立ち入ったのは何らかの陰謀による物ではなく、その暗躍の一環として呪霊を収集した帰り道に立ち寄った単なる偶然である。
が、何の得がなかろうとも同じ理奈を脅迫し搾取する柴田を許す理由は毛頭ない。
「全く……猿同士が集って程度の低い猿知恵を回しているとはね。
実に不愉快だ」
柴田の家の裏側に止まった黒塗りの高級外車をみた夏油は吐き捨てる。
恐らくは柴田とつながりのある裏社会の者か何かだろう。
まあ何だろうと夏油にとっては脅威ではないし、することも同じだ。
(愚鈍で醜悪な猿共の群れ。
全く……あの時と変わらないな。つくづく猿は滅ぶべき生き物だと再認識させられる)
耐えがたい程に剥き出しな猿の醜悪さに、夏油はふと己が決定的に猿を嫌いになった事件を思い出す。
あの時に夏油が救った美々子と奈々子のように理奈も自分の仲間になってくれるだろうか。
理奈も彼女達と同様に無能な猿に苦しめられた者であるからきっと共感してくれるはずだ。
そして美々子と奈々子の新たな友人に。
そんな未来予想図は悪くない。
(気の合う人間と過ごす青春は良い物だ
だから理奈には────―おっと、我ながら気が早すぎるか)
己の気の早さに夏油は苦笑する。
もうこの時点で終わったような気になってはいけないなと己を戒める。
まずは確実に猿を殺して理奈を安心させてあげないと。
「おいなんだてめえ。坊主を読んだ覚えは──―」
「煩い」
「がぴょぺっ」
柴田の邸宅の玄関の裏側。
目立たないように控えていた黒服に誰何されるが夏油は適当に殺した。
そのままドアを蹴破り黒服の猿を抜く手も見せずに殺していく。
そして夏油は奥の引き戸を開いた。
引き戸を開けると夏油から見ても成金臭い品に欠ける調度の部屋にいるのは小太りの禿男と陰険そうな老婆、おそらくこれが柴田であろう。
猿の中でもかなり醜悪な存在が理奈を害そうとしていたことに夏油は非常に不快感を感じ、思わず懐の消臭スプレーで袈裟の消臭を行った。
「おお臭い臭い。猿の中でもひときわ臭いな。
これなら肥溜めの臭いの方がまだましだ」
「な、なんだ貴様はっ!? 何処から入ってきた!」
「土足で踏み入りおってからにクソ坊主がっ」
口々にわめく二人に対して夏油は構わず指を立てる。
そして厳かに、憎しみを込めて呟いた。
「何を勘違いしているかは知らないが、私はお前たち猿共と話す気はないんだ。
私がお前達に要求することはただ一つ」
言葉と共に夏油の目が開かれ、同時に口の端が陰惨な三日月に吊り上げられる。
それは弱者への強者の宣言であり、判決である。
「苦しんで死ね」
夏油傑は家族を傷つける猿共を許さない。
割と短い話ですが次回でラストです
夏油傑「猿殺すべし。慈悲はない」