DQ2 四つ葉の勇者~人間に戻った王女に1勇が降臨しました~   作:みえん

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19 季をこえて

 

 

 バズズの肉体が、黒影となり、天に向かって蒸発していく。

 戦闘の土埃もまだおさまらない中、ロルも、カインも、微動だにせず、ひたすら目の前の光景を見つめた。

 

「あ……」

 

 何か言葉を発そうとしても、思いつかない。言えない。ラーの鏡で、初めてレオンと会ったときだって、ここまで呆けることはなかった。

 男は身体を斜に屈め、自身の手を見つめている。身につけた黒の皮の手袋は、男の愛用のものらしかった。あちこちに擦り切れているが、馴染んだようにシワから肌が覗いている。

 ようやく状況が掴めたのか、男はガシガシと激しく頭をかいた。それから両目を瞑り、

「あ――」

 と、半ば投げやりに吼える。

「モシャスか……やりやがったな、アイリン」

 今までの柔和な女顔とは違う。舌打ちの似合う、剛毅な青年の顔で振り向いた。

「まあ、いいか。こうでもしなけりゃメガンテ喰らってたしな。ロル、カイン、先を急ぐぞ」

 

 いや、待て。

 待てよおい。待ちやがれ。

 名前を普通に呼んだことも、大いにツッコミを入れたい箇所ではあったが、その前に、あるだろう。

 ひと言。状況。説明。なんでもいいから、あるだろう。

 ロルもカインも、微動だにしない。できやしない。

 

 漆黒の鎧とロトの紋。両肩の飾り留めからは蘇芳色のマント。兜はないが、細部に施された装飾は細やかで、意匠の逸品であることが伺える。

 年の頃は、二十代後半から三十代といったところか。身の丈はロルの身長の約二十%増し、肌は浅黒く色づき、成熟した上腕二頭筋が程良く盛り上がっている。

 何より目立つのが、耳に掛けられた飾りであった。自己主張の大きい、月の環を模したようなそれは、この男にとっては違和感があるほど、繊細で優美だ。

 

「レオン……かよ?」

「他に誰がいるんだ。――ああ、お前らとは、一応、初対面か」

 アイリンとはよく夢で会ってたんだが、と、レオンは大したことでもないかのように告げる。

「……ハルト、私の声が聞こえる?」

「アレア?」

「そうよ……よかった。あのね、」

「いやいやいや、ちょっと待ったあ!」

 

 カインが強引に会話に割って入る。アレアには悪いけれど、こっちのほうを優先してほしい。とてもついていけない。

「あ、アイリンはどうしちゃったの!? 戻ってきたんじゃなかったの!? これから大事なところなのに!」

 必死に詰め寄るカインに、レオンは自身の手袋をはめ直しながら、静かに答えた。

「モシャスと同時に意識を手放したみたいだな。状況を見て、こっちに託したってことだろう。大体、あいつが俺を呼んでからは、これが基本形だ」

「や、納得できないよ。アイリンが、どうして……」

 あの向こうには、シアがいるのに。

「言うな。この場所はアイリンにとっては鬼門だ。神子力も尽きかけている。限界が近いんだろうよ」

「確かに急いだほうがいいかも、カイン。あれ」

 背後にいたロルがカインの肩を叩く。指を出して示した方向には、上空に紫の雲。そして前方にはムーンブルク王の炎が扉の前に浮いている。

 空は赤々と色を成し、黒い光が雷のように空間を裂いている。裂かれ方は自然の体ではなく、十字架を逆さにしたような、不吉な形であった。

 なんだか、今にでも邪神が降臨しそうな勢いだ。ごくりとカインは喉を鳴らした。

「お前らには見えないだろうが、人魂になっていない未熟な霊も多い。現世に執着のある者なら、襲ってくることも考えられる。気を付けろよ」

 それは、知っている。つい先ほど、アイリンも言ってたことだ。

 ただし、攻略法までは教えられていないのだが……。

 そうこうしているうちに、細かな身支度が終わったらしい。指をならし、首を回し、レオンは前方にある扉を睨む。

「よし。あれが最後の扉だな。あの向こうにシアがいる。行くぞ」

「シアって……」

 

 違和感。

 カインは急ぐことには同意しても、レオンの言動には引っかかりしかない。

 まさかと思うけど、本当は中身がアイリンのまま、アイリンがレオンの振りをしているだけなんじゃあ。

(だったら、さっきのバズズへの攻撃が……説明できないか)

 まとまらず、頭を振る。

 

「邪神降臨の儀式が始まってるわ……これからおそらく、ここにいる霊が全部、邪霊になる。精霊たちも皆、我を見失ってしまう。あの雲のせいで」

 アレアの懸念通り、紫と緑に換えられた濃いベールが、徐々に高度を下げていく。

 

 渦巻く雲が巨大な塊となり、火の玉らしきものが吸い込まれていく。とりまく黒の光は、生ある侵入者を拒むような禍々しさを醸し出していた。

 まるで宙に浮く山だ。あの中央までいくのには、どうしたらいいのだろう。

「早くしろ。まずはここの扉を越える」

 おし、と気合を入れて扉を開けにかかるのはロルであった。

 他は瓦礫の山なのに、ここだけ何も被害がないことが、むしろ不思議だった。

 まるで新しく作り替えたような。それでいて、何年も時を費やしたような印象も受ける。周りを見れば、明らかに浮いた風景だが、これがもし平時であれば、鏡ほどにも気づかないだろう。それほど、かつてのムーンブルクに酷似している一面なのだ。

 

「あ、開かない……?」

 そんなバカな、とカインも扉の開放に加わる。やはり、開かなかった。

「これは……魔法か?」

 横で壁をトントンと叩く。レオンが扉を開ける魔法を放とうとしたのだろう、息を吸い込んだあたりでアレアが待って、と呟いた。

「アバカムじゃないよ、これ。古代エルフがよく使ってい隠れ門の術だよ。ほら昔、ハルトの師匠さんがよく作ってたじゃない。あれは、これの簡易版だよ」

「だがあれは、エルフのみが出来るはずじゃ――」

 手をパタパタと揺らして、アレアは遮った。

「うん。この扉のほうは、ストロス一族がそのままエルフの術を伝承したものだと思う。でも、人間か創るときは、伝承する際に制約を設けたはずだから、必ず別のところに契約の鍵が存在するんだよ。昔は「魔法の鍵」って言ってたけど……心当たりはない? 合言葉だったり、アイテムだったり、踊りだったり」

「まさか……」

 レオンは扉の一部をさぐる。すると赤土が一部分崩れ落ち、青銅の版のようなものが現れた。

「……あ、これかな? 見て、中央に手形みたいなのがある。鍵じゃないかしら」

「手形!?」

 ロルが慌てて、背負い袋から石板を出した。

 ロトの墓で見つけたそれは、石板にしてはおかしな特徴がある。

「勇者ロトの、手」

 手のくぼみに石板を合わせ、はめ込む。ぴたりと合致した。

「よし!」

「よーし!」

「何も起きないな」

「え、うそ。ここまできて!」

「他にもなんかあるんじゃないの?」

「ロトの銅像で殴るとか? あるいは、レオンで殴るとか?」

「違う。石板の裏に書いてある文字が怪しいだろ、どうみても」

「書いてある言葉って、なんだっけ」

 

 ロルはいったん屈み、石板の裏に書かれている文字を読んだ。

 しかし、ロルは文字が読めなかった。慌てて石版をレオンに差し出す。

「レオン、読んで! ほら、金やる!」

「金で人を動かそうとするな!」

 ばきりと鈍い音とともにロルは殴られた。この理不尽さをどうしたらいいのだろう。カインに視線をやると、即座に目を逸らす。――うん、面倒くさいんだな。

「……おとうさん、大好き」

 レオンが棒読みで伝えると、ロルは石板を再度、扉にはめ、すぅと息を吸い込んだ。

 

「おとうさん、だいすきぃぃ――っ! 父上ぇ――っ、父上の育てたバナナ美味いよ――っ! 俺、なんでも食べるよ、だいすきだよ――っ!」

 続いてカインも。

「父上――、別に好きでもなかったけど、これから好きになれるかもしれません――! あ、あと、チェリが寂しがってるよ――っ! もっと気にかけてあげて!! ついでに、おとーさん、だいすきいいっ」

 一拍。

「……何も起きないね?」

 アレアの反応が重くて痛い。

「うーん、じゃあさ、『おとうさん』じゃなくて、自分の好きな人の名前を叫ぶとか、どう?」

「いいかもね。よし、それでいこう」

 特に指標があったわけではないが。安直に考えて、鍵となるものが「好意を表すこと」であれば、間違ってはいないはずだ。二人は石板の裏に手を添え、それぞれ渾身の想いで叫ぶ。

 

「アイリ――ン、大好きだ――っ! 今度、海の幸食い倒れツアーに行こうな――っ! それからカインも、父さんも、国のみんなも、もちろん好きだ――っ!」

「シ――ア―――~~~~っ!! 前々々世から、大好きだよ――――――っ! 旅が終わったら、デートしようね~~~~っ!」

 

 ぜえはぁ。

 迫りくる天の暗雲も、魔の脅威も、一歩足を留めそうな勢いで二人は叫ぶ。声の限りに想いを込めて、羞恥も忘れ、ひたすらに叫んだ。……が。

「何も起きないね?」

 もはや、アレアの言葉が刃のように痛い。稲光に打たれても、ここまで痛くはない。なんだろう、妖精ってもっと優しい存在のような気がするけど、認識が違ってたかな。

「ほんと、どうしたらいいんだよ……」

「僕にもわからないよ、ロル……」

 ――うん、知っているさ。普通なら、こんな愛を叫んだところで、何も変わらない。

 だって、自分は世界の中心にはいない。勇者の子孫、たかがそんなステイタスで、奇跡なんて呼び寄せられられない。世界はもっと大きなもので回ってるってことも。

 わけもなく疲労を感じて、門の前でたまらずカインは片膝をついた。

 ロルも、「なんでだよ!」と言いながら、扉をガンガンと叩き始めた。頬は紅く、苛立ちと焦りが二人の表情に色濃くなってゆく。

 

「……ハルト、もういいよね?」

 灰色の光景の中、アレアは透きとおるような綺麗な声で呟いた。二人が振り返る。

「これはねぇ、言葉に真実がないといけないんだよ。だから、今のままで叫んでもダメなの」

 見れば、アレアからは細かくて青く光る粒子が沁み出している。振り返ってみれば、何か術を施している途中だったらしい。ロル達が叫んでいる間、続けていたのだろう。

 螺旋を画いたその青の光は、やがて輪を成し、三人を強く取り巻いていく。

「アレア……知ってるならなんで、」

「つい、叫ばせたくなって」

 ふわっと笑い、羽からこぼれる銀砂で空中に何かを画いた。妖精の術だろうか。魔法陣の様な円環は、辺りの風景を全て飲み込んでゆく。

 青にけぶる景色の中、レオンが僅かに頷いたように見えた。

 

 

   +++

 

 

『ハルト……ハルト、私の声が聞こえる?』

 

 海の底に沈む途中で、そんな声が聞こえた。

 

 ――幻聴か。

 もうとっくに、お前の声は聞こえなくなったはずだった。

 このまま、眠るつもりでいる。もう……起すな。

 

『聞いて。ヨハンも、マリアも、フィーロも……肉体は死んでも、魂がまだかろうじて漂っている』

 

 そうだ。だから、俺にはここで生きる意味はない。

 逝かせてくれ、共に。

 

『この子たちは勇者の血が濃い……これから、時を越えて、魂を未来に届けにいくわ。うまくいけば、誰かの肉体に宿って、その時代を生きられる。……あなたはもう、私の加護を得られなくなるけれど……』

 

 やめろ。

 そんな馬鹿げたことをして何になる。

 大体、その子たちはもう。

 

『ええ。二回目の死の集約で死ぬ運命だった……。けれど、この子たち、魂がずっと天へ還らないでいるのよ。きっと、貴方をひとり、残しては逝けなくて』

 

 じゃあ、どうしろと?

 

 眠らせてやれ、ともいえない。

 かといって、生き還れ、とも言い難かった。

 たとえこいつらに、次の未来が約束されていても、幸福であるかはわからない。

 もし、また、こんな運命が繰り返されるのなら。

 

『貴方が拒んでも、この子たちは生きたがっている。まっすぐに生へ向かう魂を、私は止めることはできないわ』

 

「……後のローレシアを見るのか?」

 

 口をついて出た言葉は、諦めでも、希望でもなかった。

 ふと。

 思った覚えのないことが、無意識に滑り出たのだった。

 

『うん。きっと……きっと、見ると思う。ハルトの次の次の……もっと先の世代に』

 

 ……バカ野郎。

 どこまで俺を働かせる気なんだ。

 そんなこと言われたら、ここで死ねない。神にいいように使われても、騙されたように働いても、先細りの運命に翻弄されても、それでも――何を恨んでも憎んでも、結局、死ねないじゃないか。

 

 こいつらが、あとの時代の、ローレシアを生きるのなら。

 

 俺は、どんな手段でも、生き続けて。

 最期の最期まで、あの大地を。

 

 

   +++

 

 

「――あ」

 

 一瞬、長い夢を見たのかと思った。

 確かに海の底にいたのに、今。

 螺旋状の青い光に包まれながらも、地面にあるのはムーンブルクの荒廃した大地だ。

 

 カインはロルを見た。

 ロルも、視線に気づき、カインを見た。

 海の中で、果てしない夢を見た、いや、通り抜けたといっていい。まるで自分の一部だった魂の欠片が、ぴたりと内に収まったような、不思議な感覚を受けた。

 

 ロルは隣を見上げた

 黒い鎧をまとった長身の男がいる。じっと視線を送ると、むこうもこちらに気付いたらしい。無言のまま、自分を見据える。

 にこりともしないし、ムッとしているわけでもない。ただ。

「……と」

 口に出すのを一瞬、躊躇した。でもそれがかえって、己の中での真実味を増幅させる。

「……父さん……?」

 答えはない。

 やはり、こちらを見据えたまま。

 黒い瞳の奥に、自分が映る。目の前の男よりも、小さく青く、ぽかんと見つめている自分が。

 こんなことは、きっと、初めてではなかった。

 

「……知っていたのかよ? 最初から。俺たちがあんたの……」

 ハルト、と呼ばれていた男が、ゆっくりと口を開いた。

 レオンではない。少なくとも、これまで一緒にいたレオンという男は、そこには、もういなかった。

「……ムーンペタで」

「うん」

「食べた飯は、美味かったな」

「うん」

「あれのために、俺は呼ばれた。……これ以上ない、時間だった」

 

 天を仰ぎ、目を閉じた。

 今のレオンは――声が違う。

 少しかすれたような、低い声。

 知っていたレオンよりもずっと、穏やかでゆっくりで。

 

 覚えがあった。

 自分にはない、深く黒い瞳が、その奥で、「大事だぞ」と言い聞かせるようにまっすぐに自分を見る。どうしても聞かなければいけないときは、ちょうどあんな瞳をするのだ。

 十三歳のとき、自分が死んでいくという予感があった、あの夜。

 何度も、何度も、自分の体を繰り返し、さする手を……硬い皮膚の掌を、忘れるわけがない。

 生きたかった。

 父さんが、呼んでいたから。

 妹と弟が、となりで、泣き叫んでいたから。

 でも、俺は――。

 

 カインが隣に並んだ。同じような顔で、同じように男を見上げ、視線を交わす。

「なんで、もっと、早く……」

 言ってくれなかったの、と口の形が動く。

「無意味だろう。お前らがわからないのなら」

 

 そこで、ひときわ大きく雷光がはじけた。視界の色を奪い去るほどに、峻烈な黒の光に、皆は一斉に紫雲の塊のほうへ目を向ける。

 空間が縦に割れた。地上への通路といわんばかりに、筋道を造ったそれは、斑に光る闇で満たされていた。

 邪神が、とうとう目的を見定めたのかもしれない。あれが落ちてくれば、シアは。あの娘は。

 

「ロル、石板の言葉を」

 求められ、素直に従った。

 ガシャリと扉が音を立てる。石板の光は消え、代わりに覆っていた膜が消えていく。門はその形を大気に溶かし、瓦礫の風景と一致させる。

 生命体に反応したのか、途端に結界の中にあった紫の臭気や黒光が、こちらを取り込もうと手を伸ばしてきた。

 レオンは二人の肩に手を置いた。

 はっとしてロルもカインも見上げると、レオンは一瞬、手に力を籠め、それから二人の頭をくしゃりと撫でた。

 

「――お前らは、失くすなよ。俺を、運命を、今までの勇者を、越えていけ」

 そのぬくもりがまだ残っているうちに、ルビスの守りが光り、竜の姿になる。

「レオン、待っ……」

 瞬く間に、高く高く飛翔し、すぅと紫の雲の中へと姿を消した。

 黒光りがレオンを襲っているのだろう。やがて尾ひれを付けた塊になって、雲の隙間を飛翔するのが見えた。

 ロルの心臓に、一筋の清浄な空気が突き抜ける。それはカインも同じことで、竜の尾を追う瞳に、新たな輝きが浮く。

 そうだ――おそらくもう、そのときなのだ。

 

 竜は影の奥へと入っていた。中央部分の、わずかに紫の影が開けたところで、レオンは自身の姿を人へと戻した。

 下降した先に、一人の少女が捕らわれている。

 禍々しい邪神の祭壇に括り付けられ、周りには二重の魔法陣が張り巡らされている。

 

 少し離れた小さな魔法陣には、不思議な文様を体に画いた少女が、祈りを唱え、さらに向こう側には、剣と槍、弓を構えた兵士が待機していた。

(――あれか……!)

 上空から中央の魔法陣の中へとつっこむと、激しい抵抗が襲った。

 電撃が全身へといきわたり、皮膚が裂けた。体中に砲ができ、瞬く間に破裂する。

 あらゆる音は遮断され、聴力はなくなり、空気を押し込まれたような圧迫を受ける。それもかまわずに、捕らわれた少女に触れようとすると、指先から色が変色し、蝋のように溶けるのだった。

 痛くはない。

 生きているという感覚も怪しいものだが、少なくとも、痛くはないと思った。

 痛みとは、本当の痛みとは、こんなものではないのだ。

 剣で心臓をえぐられようと、千の針を突き刺されようと、長く長く、沈殿し腐敗してゆく、虚無の時間よりは――。

 とっさに左耳につけた耳飾りを触る。金の円環の中心が反応し、主を守るようにくるくると回り、微量ながらも七色の光を放ち始める。

 意識が痛みの僅か上を行った。軽い紙切れになったような体をどうにか保ちながら、レオンは少女にむかって吼える。

 

「シア……マリア!!」

 血液がぼとぼとと、大量に吸い込まれてゆく。

 魔法陣の結界抵抗によって、身体は浮いたまま、シアのすぐ傍で、レオンはなおも叫んだ。

「戻ってこい……! ――お前が、一番手のかかる奴だった……昔から、何をするにも怖がって、すぐ泣いて……! いいから……辛いことを無理に我慢するなと、何度も言っただろうが……っ!」

 

 掴んだ。紫色の髪を。

 それから、むき出しになった肩を。

 身体に変な文様が画いてあるのが気に障る。――自身の流れ出る血で、必死に消した。

「バカが……お前にタトゥなんぞ十年早い……っ!」

 シアの目から雫が落ちた。

 氷の彫像のようだった顔に、一筋の赤みが差す。レオンが触る肩から、パキパキと音を立てて封印が瓦解していく。

 次に放出し辺りを包んだのは、黒い光でもなく、紫の影でもなく、眩しい、豊潤な七色の光だった。

 

   +

 

 ロルもカインも必死に走った。

 空を飛ぶ手段はない。あの禍々しい雲の塊まではおよそ数ミロの少ない距離であったが、魔物化した霊や、もともと住み着いていた魔物が多く、いなしていくだけでも時間がかかる。

 夢中でひたすら走り、雲のふもとに着いた辺りで、突然、ぱぁとそれらが霧消した。

「えっ!?」

 敵かと思ったのだ。とっさに剣を構え攻撃に備える。カインも黒の光の行方に集中した。

 先に剣を降ろしたのはロルである。

 良すぎる視力で「ンッ」と前方を見据えると、見慣れた人間がいるではないか。

「――シア! レオン!」

 はっとして、カインも全速力で走りだす。

 

 影の隙間からゆっくりと、一人の男がシアを抱きかかえて歩いてくる。

「シア、大丈夫!? 意識は、身体は!」

 カインがシアの顔を確認してから、となりを見上げて、ぎょっとする。治癒魔法を施したあと、すぐに手を伸ばした。

「レオン、シアをもらうよ」

 そっと移すように抱える。そうしなくては、レオンが倒れてしまいそうに見えたからだ。

 しっとりとした白い身体を抱えると、震えているような吐息が耳をかすめる。意識はしっかりしているらしい。瞳の光は、いつもの彼女だった。しかし。

 

「カイン様……」

 か細すぎる声に、思わず耳を寄せる。安心したのか、目の端からいくつもの涙の筋が流れていた。

「あ、会いたかっ……」

「僕もだよ!!」

 言い終わらないうちに、ぎゅっと抱きしめる。それから彼女は、安堵したようにすぐ傍でカインに囁いた。

「……助けて、もらったの、私」

 うん。と、カインも鼻をすすった。

「動けなくて……もう、ダメだって思って……でも、ハルト父様、強かった……」

「うん……だって、僕らの父さんだもの」

 鼻を啜る。

「カイン、回復! もっと!」

 切羽詰まったロルの声が飛んだ。治癒魔法はしたのに、と、今一度振り向いた。

「レオンが、おかしい。回復効いてねえ」

 立ったままである。よくよく見れば、汚れだと思っていた部分が、黒く変色したえぐれた肌だ。慌てて、回復呪文を重ねるが、途中でレオンに手で制された。

「もういい」と、仕草が答えたような気がして、カインは顔を強張らせる。

 

 逝こうとしている。

 魔法で元に戻るかと思いきや、頭の端から色素が薄く溶け、代わりに元のアイリンの髪色がのぞいていた。

 アイリンの帰還を望まないはずはない――けれど。

 身体が大気に溶け始めている。それに気付いたロルが、とっさに服をつかんだ。

「なんでだよ……まだ、わかったばかりじゃないか。いくなよ、早すぎんだろ……!」

「そうだよ、まだ、ハーゴンも邪神も倒していない。それに、もう足手まといにはならないよ。昔の記憶があるし、なんだか記憶と一緒に、別の強い力が加わった気がするんだ……!」

 レオンは目を閉じている。

 こちらの声は、もう届いていないのかもしれなかった。

 

 シアを送り届けたときに、役目は終わった。

 それゆえ、元の処へ還ろうとしているのだろう。それもわかっていた。

 今にも倒れそうになるレオンを――アイリンを、ロルはがしりと掴む。

 呼びかけても、答えはない。

 代わりに、レオンだったはずの姿から、金の環の耳飾りがカシャリと地に落ちた。

 淡い、タンポポの綿毛のような粒子たちが、ますます小さくなって、天へと昇っていく。

 

 

『――ハルトってば。まだ早いよ、目を開けて』

 

 ぽぅとぼやけた夢の様な空間で、アレアの声だけが鮮明に響いた。

 先ほどの青い粒子が再び舞いあがる。今度は包むことなく、高いところへと消え、やがて、辺り一面に、流星のように降り注ぐ。

 

「あ」

 ロルが空を指差した。そこに、肖像画で見たことのある女性の姿があったからだ。

「そうか……霊が集まってるから……」

「迎えに、来たんだね」

 青く戻りつつある空に溶けた、亜麻色の髪の女性がいる。

 レオンの体の魔法が解け、半分以上がアイリンとなったあたりだった。少し離れたロルの頭上から、微かに人の声が響いた。

 

「ローラ」、と。

 ロルは目を凝らす。昼間なのに、降りゆく流星が、ひたすら眩しい。

 最後に、二人が優しく抱き合うところで、とうとう僅かにも見えなくなり、遠い空だけが広がった。

 隣では、アレアが笑顔で手を振っている。

 カインも、シアも、二人を見たのだろう。今は、互いに微笑みながら彼方を眺めている。

 

「……なぁ、アレア。レオンはどんな顔してた?」

 気になって訊いてみると。

「泣いてた」

 クスッと、笑いが返ってきた。

 

「泣くんだ……」

「うわー見てみてえ」

「あ、姫様が……」

「おかえり、アイリン」

「おかえり」

 

「……ただいま」

 ロルがアイリンの手を、両手で包んだ。

 アイリンは、澄んだ涙の膜を細め、柔らかく微笑んだのだった。

 

 

 

                                            四つ葉の勇者・完

 


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