夕方の結城家は、いつもより静かだった。
冬の日は短く、窓の外はもう薄暗い。街路灯が点き始め、冷たい空気がガラス越しにも伝わってくる。
今日は十二月二十四日。
クリスマスイブ。
本来なら、家の中はもう少し慌ただしくてもいいはずだった。
テレビでは特番が流れ、街ではイルミネーションが輝き、人の声と音楽が溢れている。
けれど、この家にはそれらがほとんど届いていない。
⸻
玄関先。
ララはコートを羽織り、楽しそうに身を揺らしていた。
「リトー、そろそろ行こ? 遅れちゃうよー!」
「わかってるって」
リトは靴を履きながら、廊下に並ぶ美柑とルノを見た。
「じゃあ、行ってくるな」
「うん。いってらっしゃい」
美柑が手を振る。
ルノは少し遅れて、同じように小さく手を振った。
「……いってらっしゃい」
ララは一度立ち止まり、ルノの方へ身を屈める。
「ルノは今日はお留守番なんだねー」
「……うん」
「無理しなくていいんだよ? にぎやかなの、苦手でしょ」
ルノは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……ひと、いっぱい」
「そっかそっか」
ララはにこっと笑う。
「じゃあ、今日は美柑とクリスマスだね!」
「……うん」
「ケーキ、ちゃんと食べるんだよー?」
その言葉に、ルノはほんの少しだけ、表情を緩めた。
「……たべる」
「よし!」
ララは満足そうに立ち上がり、リトの腕を引く。
「それじゃ、行ってきまーす!」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
残された廊下で、ルノはしばらく玄関を見つめていた。
美柑の袖を、きゅっと引く。
「……いっちゃった」
「うん。今日は私たちだけだね」
美柑はそう言って、少しだけ柔らかく笑った。
「戻ろっか」
二人は並んで廊下を引き返す。
途中、ルノは一度だけ後ろを振り返った。
もう誰もいない玄関を、確かめるように。
「ん?」
「……みかんとふたり」
美柑は足を止める。
「どうしたの?」
ルノは少し考えるように視線を落とした。
言葉を探す時間。
問い返され、ルノは美柑を見つめ小さく笑った。
「……いっしょ」
「え?」
「……ひとり、やだった」
それだけ言って、また歩き出す。
美柑は一瞬、言葉を失った。
――ああ、そういうことか。
人が多いのが苦手なのも、きっと本当だ。
でもそれだけじゃない。
自分がここに残るから。
だから、この子も残った。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「…ありがとう」
思わず、そう口にしていた。
「……?」
「なんでもないよ」
美柑は微笑んで、歩調を合わせた。
⸻
リビングでは、テレビが静かに音を立てている。
美柑はキッチンに立ち、慣れた手つきで最後の仕上げをしていた。
「ごはんできたよ」
テーブルの上には、いつもより少し豪華な料理が並んだ。
ローストチキン、グラタン、サラダ、スープ。
そして、箱に入ったホールケーキ。
「今日はクリスマスだからね」
「……いっぱい」
「でしょ。リトたちもいないし、二人で食べきれるか微妙だけど」
「……のこしちゃうの?」
「明日食べればいいからね」
そう言って、美柑は微笑んだ。
二人で向かい合い、手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
チキンを一口食べて、ルノは少し目を見開いた。
「……おいしい」
「よかった」
美柑はほっとしたように息を吐く。
「こういう日、ちょっと特別だからさ」
「……とくべつ?」
「うん。楽しい日、ってこと」
「……ふーん」
完全に理解しているわけではないが、嫌な響きではないらしい。
食後、美柑はケーキを切り分け、小さなフォークを手に取った。
「……?」
「はい」
そう言って、美柑はフォークを差し出す。
ルノは少し戸惑いながら、口を開けた。
「あーーん」
「……ん」
ケーキが口に入る。
「……!」
目が、わずかに見開かれる。
「……あまい」
「でしょ?」
そのまま食べ進めていると、ルノの口元に、少しだけクリームがついた。
「あ」
美柑は気づき、指でそっと拭う。
「ほら」
「……」
ルノは一瞬、動きを止めた。
「……みかん」
「なに?」
「……なんか、へん」
「へん?」
「……でも……」
言葉が続かない。
「……なんか、ぽかぽかする」
ルノの笑顔を見た美柑は一瞬、指を引っ込めるのを忘れた。
「……そっか」
それだけ言って、微笑む。
⸻
夜が深まるにつれ、外の空気はさらに冷えていく。
二人はこたつに入り、並んでテレビを眺めていた。
「さむい?」
「……ちょっと」
美柑はこたつの温度を少し上げる。
「これでどう?」
「……あったかい」
しばらくすると、ルノのまばたきが増えていく。
「……ねむい?」
「……ん」
「ここで寝る?」
「……いい?」
「いいよ」
ルノはこたつの中で体を丸める。
その手が、無意識に美柑の袖を掴んだ。
「……みかん」
「なに?」
「……いなくならない?」
美柑は一瞬、言葉に詰まる。
「……大丈夫」
「……ほんと?」
「ほんとだよ」
そう言って、そっと頭を撫でる。
「ここにいる」
ルノは小さく息を吐き、そのまま眠りに落ちた。
外では、静かに雪が降り始めていた。
華やかな夜の裏側で。
この家には、小さくて温かな時間が流れている。
まだ名前のつかない関係。
それでも確かに、距離は縮まっていた。
美柑は眠るルノを見下ろし、胸の奥でそっと思う。
――この子は、守るべき存在だ。
それだけで、今はいい。
この夜は、二人だけの、小さなクリスマスだった。