スチームパンクなラノベ的クトゥルフ神話モノ 作:四十九院暁美
時は大正二〇年、一二月九日。
我々の知る世界とは少々違う、煤と排煙に彩られた、煌びやかな頽廃に浸る世界でのこと。
真冬の乾いた風の吹く帝都東京にて、この物語は始まる。
辺りを見回せば、肩を落として死んだ目をしたスゥツ姿のサラリィ・マン、当世風に生きるのよと強い足取りの職業婦人、今日は帝劇明日は三越と歌う成金の奥様方が道を往く。街角を見やれば、仕事を探す立ちんぼが右往左往し、浮浪者(ルンペン)どもは今日も元気にゴミ漁りに精を出している。
道路を見れば、同盟國たる大英帝國由来の蒸気自動車がシュポポと煙を吐き出しながら行き交い、日本が独自開発した蒸気機関を積んだ路面汽車はガタリゴトリとのんびり走っていて、その中に度々混じる人力車や馬車が、時代の流れとノスタルジィを感じさせた。
英國で発明され、異常とも称されるほどに急速かつ、大規模に発展を続ける蒸気機関。
かの英知の導入によって、日本は列強諸国の仲間入りを果たしたけれど、古きが失われつつあることは、あな、まこと悲しきこと。老人たちがまだ幼き日には、少しだけ見れたという青い空も、今ではすっかり灰色一色で。時の移ろいというのに、センチメンタルを覚えずにはいられない。
そんな、頽廃的浪漫の匂いがする帝都の街に、南条伊織の通っている學校はあった。
帝都は神田町に悠然と聳えるは、西洋屋敷風の二棟からなる建物。
すなわちここ官立女月神師範學校は、教員を養成する學校である。
卒業後に教職へ着くことを条件に授業料の免除と、望むならば生活の保障がなされるため、伊織のように家が貧しい者にはありがたい學校だった。
今はちょうど、朝の登校時間である。
西洋貴族の屋敷を思わせる正門は、今まさに登校してきた生徒たちでごった返しており、石畳を叩く革靴の音は驟雨もかくや。喧騒もまた耳を聾さんばかりであった。
「すまないな、伊織。手伝ってもらって」
「ううん、気にしないでよ」
まだ人気の少ない実習棟の廊下を歩く人影がふたつ。
小さな影と、大きな影だ。
小さいほうは赤城凛ノ介。
伯爵位の華族であり、代々続く陸軍家赤城の三男である。五尺に届かぬほどに小柄だが、体格に見合わぬ剛毅果断な好漢と評判である。
大きなほうは南条伊織。
元は孤児であったが、現在はしがない書生として寄宿舎に下宿している。六尺五寸もある大柄だが、似合わぬほど温厚と評判である。
二人はこの學校でも特に有名で、その背丈の違いから”女月神のでこぼこ組”なんて渾名されていたりする。
「それにしても、凛が頼みごとなんて珍しいね」
「うむ。今朝方、急に視聴覚室の暖房が故障したと教師方に云われて、手伝いに出向いたは良いのだが……まあ、自分で云うのも癪だが、俺はこの背丈だ。重い物を運ぶには、いささか以上に不便でな」
「そっか、確かに君の身体だとそうだよね。牛乳はちゃんと飲んでる? あれには身長を伸ばす効果があるらしいよ」
「馬鹿にしているのか? 毎日の食事で欠かしたことはない」
「それで、その小ささ? 不憫だね」
「殴るぞお前、それはもう手痛く殴るぞ」
「なはは、ごめんごめん」
軽口を云い合いながら、実習棟を抜けて本棟に入る。渡り廊下の扉を開けた途端、飛び込んできた生徒たちの声が渡り廊下を突き抜けた。
女月神師範學校は非常に巨大な學校であるゆえに、在籍する生徒の多さについても他とは一線を画す。ゆえに声の波濤は勢い甚だしく、二人の身体を揺さぶるほどだ。
濁流が如き人波をかき分けて――と云っても、伊織の体格ならば易いことだが――教室に入ると喧騒が幾分か和らいで、二人はやっと自分の身体になった気がした。
「っと、時間をかけ過ぎたな。すまない」
壁の時計を見ると、時刻はすでに八時。あと一瞬だけ教室に入るのが遅ければ、遅刻であると教師に咎められていただろう。
「ううん。間に合ったから、大丈夫だよ」
「そうか。とにかく、間に合って良かった」
凛ノ介が、ほう、と胸を撫で下ろして自分の席に着く。
伊織も急ぎ自分の席に着くと、それとほぼ同時に予鈴が鳴って、教師が入って来た。すでに老年に差し掛かっている和装の男であった。
「おはよう」
教壇に立つなり短く挨拶の声を上げた教師に、教室の生徒全員が立ち上がると声を揃えて応じる。毎朝の、見慣れた風景であった。
「結構。では、今日も一日頑張りませう」
それから、しばらくして。
長いようで短い一日の授業が終了すると、教室には解放感に溢れた空気が漂い始めた。
友人たちと何処ぞへ向かう生徒や、早足で帰路に就く生徒。あるいは、体育館や道場へ向かう生徒。それに、教室に残って自習に勤しむ生徒。放課後の過ごし方は、多種多様だ。
そんな中で、今日の伊織の過ごし方はといえば、帰路に就くほうに該当した。
「伊織、少しよいか」
「凛? どうしたの、何かあった?」
伊織が今まさに帰ろうと、玄関で外靴を履いている時だ。不意に凛ノ介から、声をかけられた。
何処か神妙である。一瞬、まだ何か頼み事でもあるのか。心中で疑って身構えたが、次の言葉で伊織はすぐに警戒は霧散した。
「いやなに、今朝の礼をしたくてな。買い食いにでも誘おうと思ったのだが、もしや用事でもあったか?」
「いいや、ないよ」
問われて、首を振る。
ちょっとばかし借りたい本があるので、帰りに貸本屋にでも寄ろうと思ってはいたが、はっきり云って些末事の類だ。わざわざ誘いを断ってまで片付けることではない。
加えて、凛ノ介のほうから誘ってくるのが珍しかったから、こちらを優先したかった。というのもある。
いつもの彼ならば”家の事情”ですぐに帰ってしまうところを、こうしてわざわざ誘ってくれているのだ。断る道理はなかった。
「そっちこそ、いいの?」
「ああ。今日は”定期健診”の日だから、行っても会えぬのだ」
「なるほど。そういうことなら、ありがたく御馳走になろうかな」
「よし、決まりだな! ふふん、実は銀座に行きつけの甘味処があってな? 前からお前と一緒に行きたいと思っていたのだ」
伊織の気の良い返事を聞くと、途端に凛ノ介は嬉しそうな笑みを浮かべると、軽やかな足取りで教室を出て行く。
大人ぶった口調をしているが、その実、子供っぽいのが凛ノ介という少年である。
伊織としても、彼のこういう可愛らしい面は好ましくあり、友人以上に付き合いを深める要因にもなっていた。
「どうした伊織、何か忘れ物でもしたか?」
ついてこない伊織を疑問に思った凛ノ介が、ひょっこりと戸の隙間から顔を覗かせる。小さな背丈も相まって、傍から見ると完全に幼子のそれだった。
「ううん、何でもない。そんなに急がなくてもお菓子は逃げないよ、凛」
「こっ、子供を窘めるみたいに云うな! 俺はただ、そのだな!」
「うんうん、わかってるよ。僕も待ちきれないからさ、早く行こうか」
「ぐくっ、子供扱いを……!」
じゃれあいもほどほどに外へと出ると、ビュゥと、肌を突き刺すようなひどく冷たい風が吹いた。
羽織っている厚手の外套なんてものともしない真冬の寒さに、二人は揃って首をすぼめてしまう。
正門から道路に出ると、蒸気自動車が傍を通る度にこの風が吹くものだから、まったく堪ったものではないと、ついに二人は顰め面を晒してしまった。
道行く人々の表情も、やはり顰め面ばかりが目立っていた。一様に襟の長いコォトを着ていたり、厚手の長羽織を身に着けたりしていても、寒いものは寒い。
乳白色のモダンなビルヂングと、縦横に空を走る真っ黒な通話通信の電纜も、カンと冷えた空気に当てられてか、どこか寒々しい印象だった。
かつては人々の頭上にあったはずの空が、排煙と煤によって覆われたこともまた、それを助長しているのだろうことは想像に難くない。
「うぅむ。こうも寒ければ、さすがに息も白むか」
「年末にこの寒さは堪えるなぁ」
両の手に吹きかけた息の白さに益々の寒さを覚えながら、二人はちょうど、東京駅ちかくの路面”汽車”駅に止まっていた銀座行きの車両に乗り込んだ。
蒸気機関の発する耳をつんざくような排気音と、狼の遠吠えにも似た汽笛が街に響く。動き出した汽車は緩やかに速度を上げ、そのうち駿馬よりも早く道路を駆け抜けていく。
退勤時間ということもあってか、車窓から見降ろす道路は、歩くのにも苦労するほど人と自動車で溢れている。
神田町でさえこの有様なのだから、日本モダンの中心、銀座のメイン・ストリィトともなれば、その混みようは正しく雲霞の如くだろう。
やがて見えてきたのは、ゴシック・リヴァイヴァル様式の欧米を模したアパルトメントや、乳白色のモダンなビルヂングが建ち並ぶ摩天楼たち。三越百貨店を中心として発展した銀座赤れんが街は、今世の蒸気機関文明を象徴たる光景である。
東京と云えばおそらく人々はこの街か、煌びやかなネオンが集う新宿、あるいは浅草の町を思い浮かべるに違いない。どれも煤で汚れているが、まだまだ観光名所としては現役であろう。もちろん、日本橋もそのひとつだ。
ふと、伊織の脳裏に。思い浮かぶ光景がある。
八年前の、関東大震災の光景だ。
今でこそ絢爛モダンな都として日ノ本中の憧れを集める帝都だが、大正十二年に起こった超が付くほど巨大な地震によって、一時帝都は焼野原もかくやの姿になっていた。
煉瓦造りの建物や古い建築物がおしなべて倒壊するなど、地震の被害自体も大きなものがあったが、もっとも深刻であったのは火事の被害である。
昼時であったために多くの家が火を扱っていたせいで、当時多かった木造建築の家は跡形もなく全焼。さらにここへ機関燃料への引火も相まって、東京は一日と経たずに瓦礫と炎の街と化した。
今でもたまに、伊織はその時の光景を夢に見る。
瓦礫の山、炎の海、人の焼ける臭い、逃げ惑う人々、爆発、悲鳴。死体。死体。死体。
親を亡くした子の絶叫。子を亡くした親の慟哭。
地獄であった。
阿鼻叫喚であった。
過去にすることも、忘れることもできぬ、悪夢であった
「伊織」
「うん?」
不意に、凛ノ介が声をかけてきた。
何かと顔を向けてみれば、彼は悲しげな顔をしていて。伊織は心臓を掴まれたみたいに、言葉を失ってしまう。
「大丈夫か。酷い顔をしているが」
「そう、かな」
伊織は喉に詰まった息を吐きだすと、一瞬だけ目を逸らしてから、すぐにいつもの人好きする笑顔を作った。見る人から見れば、それは何かを堪えているような痛々しい笑みだった。
「ごめんごめん、これからだっていうのにね」
「まったくだ。先が思いやられるぞ」
これ見よがしな嘆息を吐きながら、凛ノ介はあえて軽薄に肩を竦めて話を切る。
伊織の笑顔の裏にあるものを知っているがゆえに、自身も似たような経験をしているがゆえに、あえて触れることもせず話を終わらせたのだ。
「暗くなっていては味もわからぬ。これから美味いものを食うのだから、精々明るく振る舞うのが肝要であろう」
「はいはい、わかってるって」
「はいは一回だ馬鹿者」
「はーい」
そうして、二〇分ほど汽車で揺られた後に銀座の駅で降りると、凛ノ介の案内に従って人波を進んでいく。
銀座でも随一の活気を誇るこの地区は、一本の大きな通りを中心にたくさんの店が並んでいて、見ているだけでも随分と楽しい。とりわけ有名なカフェーにレストラン、国内でも高級で知られる銘柄の店や、諸外国の輸入品店が多く入っていて、冷やかす店には困らない。夜となれば娯楽施設、つまりダンス・ホゥルや居酒屋なんかも開き始めるから、銀座で遊ぶとなれば大抵の人々はここへ来る。モダン・ボゥイ、モダン・ガァルならば、特にここは外せないだろう。
そんな、当世風を極めたモダンの街を横切って数分ほど歩くと、座った猫を模している黒い釣り看板と、いかにも洋風な趣ある建物が二人の前に姿を現した。
これなるは凛ノ介が推す甘味処たるカフェー”黒猫の円舞曲”である。
「ここだ」
得意げに胸を張る凛ノ介。
しかし伊織の反応は、引きつり僅かに赤らんだ笑顔と、あまりに対照的であった。
「あの、さ……一応訊くけど、ここって大丈夫なの?」
「どういう意味だ」
「いや、ほら……カフェーと云えば、その……エロで有名だろ?」
「は……ぁぁあああああッ?!」
恐る恐ると訊いてみれば、凛ノ介は一瞬で茹蛸みたいになったあと、怒りやら恥ずかしさやらを吐き出すようにガァガァと伊織にまくし立てた。
「ななな何を勘違いしているのだこの助兵衛! 誰が白昼堂々とエ、エロ・カフェーに親友を連れて行くものか! ここは至極真っ当な甘味処だ! まかり間違ってもそのような場所ではない! そもそも俺が”あれ”を差し引いてそこらの得体の知れぬ女に現を抜かすわけなかろうがこの馬鹿、アホ、間抜けッ!」
「そ、そうなの?」
「当たり前だろうが!?」
大正当時、カフェーには多くの種類があった。
現代と同じく軽食と珈琲を売りにした店もあれば、家族で入ることのできるレストランテめいた店もあり……そしてその中には、女給が客に媚びを売りチップをねだるという過激な店、すなわち”エロ・カフェー”と呼ばれる店もあった。
当世を満たす世相のひとつたる、エロ。
これを象徴するエロ・カフェーとは、化粧を施して派手な着物に身を包んだ女給が、客に身体を擦り寄せて話を聞いたり、時には遊郭もかくやのサァビスを行う店のことだ。現代で云うところの、キャバレヱや風俗店めいた場所と云えば、わかりやすいだろうか。
ようは盛り場なのだ。エロ・カフェーとは。
エロ・カフェーでは、今を生きるモダン・ボゥイたちが、ひと時の頽廃と快楽を求めて集まる。甘美な背徳に身は蕩け、甘く爛れた薫りに心は惑う。ここでは誰もが、淫らに痴れるのである。
とはいえ、二人はまだ未成年。そんないかがわしい場所に行けるはずもない。そもそも凛ノ介には”心に決めた人間”が既にいる。まさかエロ・カフェーに女漁りなど、口調と同じくらい硬派な彼にはあり得ないことだ。
「みだりがわしい勘違いをするな! まったく心外だぞ!」
がるると犬みたいに威嚇する凛ノ介は、まさしく怒り心頭と云った様子である。さしもの伊織も、これには頭を下げる他にない。
「ご、ごめん、ごめんってば! その、銀座で、しかもカフェーに案内されたから、ついさ……」
必死に謝り倒して宥めすかすと、ひとまず怒りの矛先を収めたのか、凛ノ介は不満げに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「フンッ、まったく助兵衛なヤツめ! 図体ばかりに栄養がいっているから、そんな淫らなことを考えるのだ」
「す、助兵衛って……」
なんとも酷い云われように反論を試みるが、スゴイ失礼な勘違いをした手前、そう簡単に思いつくはずもない。結局、伊織は肩を落として苦い顔をするしかで
きなかった。
しかし、いつまでも店の前で騒いでいては迷惑である。ちょっとだけ不機嫌な凛ノ介に引き摺られるように、伊織もまた店へ足を踏み入れた。
ドアを引けばカランコロンと鈴が鳴り、まず強い珈琲の香りが二人の鼻腔をくすぐった。暖房の利いた室内に入れば、香りはさらに強く、そして芳醇になって、全身を包み込んでくる。
店内は、洋風のレストランを思わせる作りをしていた。
天井から吊るされたシャンデリアの輝きもさることながら、飾り硝子のはめ込まれた仕切りの煌めきと、ならの木で作られた机や椅子の艶やかさは、まるで英國に迷い込んだみたいな印象さえ受けてしまう。
ジューク・ボックスから流れるジャズのスタンダァド・ナンバァもまた趣がある。ダンス・ホゥルにでも流れて良そうな軽快な音楽は、異国情緒に溢れたこの店の雰囲気によくあっていた。
「おお、すごくいいところだね」
「だろう? ここを見つけた時、自分でも良い場所を見つけたと思うのだ」
「いや、本当にそうだよ。やっぱりセンスってやつが良いんだろうなあ」
「ふふん、もっと褒めても良いぞ?」
軽く談笑をしながら奥に進むと、カウンタァの奥にいた初老の男が「いらっしゃいませ」と、しわがれた優しい声をかけてくれた。タキシィド姿で、見た目通り渋い声をした、実にダンディな姿の白髪の男である。
「お品書きをどうぞ」
店主に手渡されたお品書きを開くと、見慣れた軽食や菓子類に加えて、モダンなトォストや聞いたこともない西洋菓子の名前が載っている。飲み物も知っているものから知らないものまでたくさんあり、伊織はとにかく目移りして決められばくなってしまった。
「うーん、こんなにたくさんあると迷っちゃうなあ。うーん、どうしよう」
「それほど迷うならば、俺と同じのを頼むか?」
「そう、だね。うん、凛に任せるよ」
「決まりだな。店主、ストロベリィ・サンデイと、カフェー・ラ・テを二つずつ頼む」
「畏まりました」
凛ノ介が聞きなれない西洋菓子と飲み物を注文すると、店主は恭しく頭を下げてから奥の調理場へと消えていった。
曰く、出来るには十分十五分かかるらしい。それまで手持ち無沙汰になった二人は、菓子が来るまで適当に暇をつぶすことにした。
「それにしても、どうやってこんな店を見つけたんだい?」
「知り合いに教えてもらったのだ。休日にカフェーを巡りをしているモダン趣味なヤツでな。その縁でここを教えてもらったのだ」
「ふぅん……もしかして、医療関係の人かい?」
「そうだが。よくわかったな?」
「当たり前だろう? 學校でも真面目一辺倒で通っている君が、そんなモダン趣味の友人を作れるはずがないじゃないか。そもそも友人自体が少ないわけだし」
「……お前、時々辛辣になるのはなんなのだ……」
「それだけ壁がないってことだよ。遠慮なく云い合える関係ってことだね」
「微妙に納得いかぬが、まあ、そういうことにしておこう」
「それより、そのモダン趣味はどんな人なんだい?」
「医者関係……正確には看護婦だ。タヱというヤツでな。会うとキヤラメルやらカステイラやらをくれたりと、何かと俺を気にかけてくれるのだ。それはまあ、嬉しいのだが……そのたびに猫でも愛でるみたいに頭も撫でてくる困った奴でもあるから、実のところ、俺はちょっとあれが苦手なのだ」
(露骨に子供扱いされてるなぁ)
などと談笑しながら待っていると、ついに店主がサンデイとカフェー・ラ・テを銀色の盆に乗せて持ってきた。
サンデイを見た瞬間、伊織は思わず感嘆の声を上げてしまった。それほどまでにそのサンデイは、あまりにも蠱惑的だった。
小洒落た硝子の器に山と盛られたアイス・クリィムに、これでもかと毒々しい赤色の苺シロップをかけ、さらにトッピングとして小さな円形のワッフルと、贅沢にも苺を丸々一個を乗せたそれは、正しく当世風を極めた菓子と云っても過言ではない。
隣に置かれたカフェー・ラ・テは、香ばしくも優しげな匂いを湯気と共に燻らせていて、ますますの食欲を沸き起こす。
「よ、予想以上にすごい見た目だね……これ結構高いんじゃない?」
「馬鹿なことを気にする前に、まずは喰え。はやくしないと溶けるぞ」
感動とも罪悪感ともつかない気持ちで、目の前に置かれたサンデイを四方八方から眺めていると、凛ノ介が足をぶらつかせて、呆れたような笑顔で促した。
確かに氷菓ならば、早く食べなければ損である。ごくりと唾を飲み込んだ伊織は、恐る恐ると細長いスプーンでアイス・クリィムを掬い取って、ぱくりと一口。
「……!」
束の間、蕩けるようなアイスの冷たさ、バニラの芳醇な香り、わざとらしい苺の味が口いっぱいに広がった。ワッフルと共に二口目を食べると、今度はワッフルの素朴な甘さが加わって、もう甘露と云う他に表現が見つからない。
カフェー・ラ・テも美味だった。エスプレツソの香ばしさを中和するミルクのまろやかさもさることながら、その温かさがアイスで冷えた口には筆舌にし難くて、ついに伊織は言葉も忘れて、忙しなく手と口を動かすしかできなくなってしまった。
「美味しかった、美味しかった……こんなにおいしいものを食べたのは、本当に久しぶりだよ……」
あっという間にストロベリィ・サンデイとカフェー・ラ・テを平らげた伊織は、おいおいと泣くような口調で呟いた。
いまだに貧乏学生である彼が、こんなに美味しいものを食べられるなんて、年に一度あるかないか。いや、ないほうが多いくらいだ。それを思えば、このストロベリィ・サンデイが彼にとってどれほどの御馳走であるか、察することもできよう。
「ふふっ、お気に召したようで何よりだ」
そんな彼の姿を見て、同じくサンデイを食べ終えた凛ノ介は、穏やかな笑みを浮かべながらカフェー・ラ・テを一口飲む。
ここまで良い反応を見せてくれるならば、奢ってやった甲斐もあったというもので、声色には隠し切れない喜色が混じっていた。
「嗚呼……こんなおいしいものを食べられるなんて、本当にありがとうねぇ……でも、僕は君の懐が心配だよ……」
「気にするなと云っているだろう? これでも金持ちの息子なのだ。親友に奢る程度、どうということはない」
「うっ、うっ、僕は本当に良い親友を持ったなぁ。もう君と盃を交わすのもやぶさかじゃないよ、結婚式にはぜひとも呼んでね」
「こ、これくらいでそんな大げさに云うな、まったく……ほら、もうすぐ門限だろう。そろそろ店を出るぞ」
照れを隠すように、凛ノ介がひょいと革張りの丸椅子から飛び降りる。どうやら伊織がサンデイにがっついている間に、金を払ってしまったようだ。
云われて時計を見れば、時刻は既に十七時半を回った頃。寄宿舎の門限が十九時だから、彼の云う通り、そろそろ店を出なければならないだろう。
「あ、待ってよ、凛。店主さん、御馳走様でした、すごく美味しかったです!」
「はい、お粗末様でした。またのご来店をお待ちしていますよ」
伊織も続いて丸椅子から降りると、店主に丁寧な礼をしてから店を出るのだった。
◇
同刻。
花の大帝都東京は、日本経済の中心地たる丸の内。その中でもいっとう高く聳える高層ビルヂングの屋上にて、硝子窓に反射して輝く華やかなネオンの海を、一人の浮世離れした風貌の少女が見下ろしていた。
排煙と煤に汚れたそよ風に靡く白い髪の隙間から、宝石めいた美麗さの碧眼が覘く。深い群青色の外套に隠された白いフリル・ドレスは汚れのひとつもなく、鋼鉄とブリキで作られた右腕は金属らしい光沢を纏い、右の耳には燃ゆる焔を模ったような黒いイヤ・カフが着けられている。
超然とした神秘を宿した女。
少女の風貌は、見る者にそう思わせる。
『ロンドンほどじゃないけれど、ここからの眺めも悪くないわね』
ふと少女が、流暢な英語で呟いた。
その言葉は誰かに話しかけるようでもあるし、独り言のようでもある。実に不思議な口調だった。
見た目からして外人であるこの少女は、はたして英國(エゲレス)人だった。
彼女は自らを”東洋のシャーロック”と称して憚らない。今はまだしがない私立探偵であるが、いつしかきっと大成するのだと信じて止まず、己を信じて疑わない。自信過剰、あるいは、傲岸不遜めいた性格をしたこの不思議な風貌の少女は、名をアルタフィシャル・ハーミーズ・ブロンテと云う。
もっとも。彼女の名を口にする者は、そう多くはない。
そもそもが売れない私立探偵なのだから、当然のことではあるのだが。この事実を差し引いてもなお、彼女という存在を語る者は少なかった。
もし、語る者があるとすれば。
それはきっと。
未知なる異形の神を崇める悪辣な宗教集団だとか。
暗き海原の底に沈みし神殿を守護する深き者だとか。
現世と夢幻の世界を股に掛ける不浄なりし種族だとか。
恐怖の湖にて邪心を祭る緑石の都市に住まう民族だとか。
あるいは。
冒涜的な神々が産み落とした邪悪なる子供たちであるとか。
邪教の儀式によって現界した悍ましき神の現身であるとか。
とにかく、そういう”この世ならざる者共の眷属”だけが、恐怖と憤怒と共に呪わしくも彼女の名を語るだろう。
もし、外なる存在を敬うのならば。決して彼女の名を口にしてはいけない。
もし、旧き神性を崇めているのならば。決して彼女に知られてはいけない。
見つかったが最後、彼女は流星の如く現れ、その悉くを打ち砕くに違いないのだから。
『……っくちゅん! ……いいえ、きっと誰かが噂してるのよ』
ビュウと吹いた冷たい風に、ひとつ大きなくしゃみをしたアルは、鼻をすすると質問に答えるふうに呟く。
分厚い曇天に届かんばかりに伸びた、ビルヂングの屋上。少女以外の人影はないはずのこの場所には、確かに、街を見下ろす彼女の他に”誰か”がいた。
『まあ、そんなことはどうでも良いわ。それより、今はあの腥い魚人どもよ。まさか、遠路遥々こんな極東の島国まで来るとはね。いよいよ本腰入れたって感じかしら』
彼女は肩を竦めると、眉をひそめてそんなことを云う。
深海の者、と呼ばれる者たちがいる。
ここより遥か遠き地、新大陸たるアメリカの田舎。因習の港町インスマスに根を張っていたはずの魚人は、今、その悍ましき魔手をここ帝都にまで伸ばしていた。
はたして、何が目的なのか。良からぬことを企んでいるのは確かであろうが、音沙汰もなく雌伏の時を過ごす彼の眷属どもは、まったく無気味であった。
『……さてね。侵略目的にしては、ちょっと性急な気もするけれど……ま、煮ても焼いても食えない魚の事情なんか、気にしててもしょうがないわ。』
再び肩を竦めてから片足を縁に乗せると、好戦的な表情で舌なめずりをする。そして次の瞬間には、眼下の輝きに向かって飛び出していた。
ビルヂングの壁面に沿って、頭から真っ逆さまに落ちていく彼女は、普通ならば死ぬ運命にある。次の瞬間には地面に激突して、柘榴のように弾け散るだろう。
しかし彼女は、おおよそ普通ではない。
着地。轟音と共に。
下水道より這い上がって来た深き者たちの目の前で、路地裏を覆い隠すように汚泥の霧が吹き上がる。
すわ何事か。
突如として轟音と共に現れた何者かを前に、彼らは一様に動きを止めて警戒の色を露わにした。だが、対応は悪手であった。
『こんばんわ、不細工な魚人さんたち』
不意に聞こえた声に、魚人が身構える。
束の間。鈍色と風が奔り、ひとりの魚人が飛び出して来た楔に貫かれて絶命した。
はたと全員が死体を見やる。
刹那の静寂。そして。
「Have you ever danced with the devil in the dark night?」
凄絶な笑みを浮かべたアルタフィシャルが、汚泥の霧から姿を現した。
スチームパンクはいいぞ(いいぞ)