スチームパンクなラノベ的クトゥルフ神話モノ   作:四十九院暁美

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chapter1

 空を覆う曇天は更に暗い色となり、ネオンの灯りはいっそうの強さで輝きを放っている。管理の甘い機関街灯が明滅を繰り返しながら、スポットライトめいて照らし出すのは、ポン引きや立ちんぼが道行く人々に声をかける姿ばかり。

 大通りに出ると銀座の街は、昼間とは打って変わり、モボ、モガの行き交うエロと酒精の坩堝となっていた。山高帽のモボはガァル・ハントに勤しみ、パトロンと連れ添うモガは新橋の色茶屋へと足を向け、ダンス・ホゥルからは陽気なスウィング・ジャズの音楽が漏れ出している。

 眠らぬ街と噂の銀座は、これからが本番と云った様子だ。

 

「今日はありがとう、凛。おかげでうんといい思いさせてもらったよ」

 

「いつも世話になっているからな。これくらいせねば、罰が当たるというものだ」

 

「そうかい? なら、今度は僕がお返ししなきゃだね」

 

「礼なら、俺の婿入りの時にでもしてくれ。祝辞と一緒にな」

 

 トロリィに輝くサイケデリックな色のネオンを横切り、路面汽車に乗り込んで後ろの奥まった席に腰を下ろす。

 束の間、発進を知らせる汽笛が鳴り、それから少し遅れて、汽車全体がクンと揺れた。

 天井から吊るされた機関ランプの灯が一斉に、ひときわ強く燃え上がり、乗り合わせた客の顔が照らし出す。

 紳士面をした貧者に、上衣に酒をこぼした酔っ払い。煙草を燻らせるモガ。

 それに奇妙な顔をした外人の聖職者がひとり。

 彼は無言でじぃっと、そのぎょろりとした目でモガを見つめていた。

 

「……無気味だ」

 

「ん? 何が?」

 

「あの聖職者、何かおかしい」

 

 怯えたような訝しむような、複雑な表情を浮かべた凛ノ介が、強張った小声で云う。

 はてと聖職者を見やるが、伊織からは何か変ったところがあるようには見えなかった。

 強いて云うならば”鼻は平べったくて、額と顎は異様に狭く、耳は子供よりも小さいまま。首周りの皮膚は不自然にたるみ、皮膚は病に侵されたように調和がとれておらず、ここらでは見ない外人めいた顔立ちをしている”くらいか。

 だが、それだって地域差や個人差があるだろう。何か病気を患っている可能性だってある。

 無気味ではあるが、それ以上は何も感じない。 

 指摘するほどでもない人物、伊織にはそう思えた。

 

「何がかしいのさ?」

 

「見ろ。神父めいた格好をしているが、十字架を首から下げていない」

 

 云われて、改めて注意深く観察してみれば、確かに耶蘇教めいた格好をしていながら十字架を身に着けていない。単にカソックの下にしまっているだけのようにも見えるが、凛ノ介はそうではないと確信を持って首を振った。

 

「それに……それにあれは、邪気を纏っている……」

 

「えっと、どういうこと?」

 

「わからぬ、自分でもわからぬのだ……ただ漠然と、アレに嫌なものを感じる……汚れ穢れた海を眺めるような、邪気としか云えぬ異様な不快感を……」

 

 威嚇するみたいに目を細めた凛ノ介は、絞り出したような声でそう云うと、額に浮かんだ脂汗を袖で拭った。

 伊織には云っていることがよくわからなかった。彼が人に対してこうまで嫌悪を示すのは珍しい上に、その様子がまるで”気付いてはいけない何かに気付いてしまった”みたいだったから、余計に意味がわからなかった。

 

「大丈夫かい?」

 

「うぅ……」

 

「こ、困ったなぁ」

 

 ついには青い顔で身体を震わせるまでになったものだから、さすがにこのまま汽車に乗り続けるのは良くないと、次の駅で降りることにした。

 三越前で汽車が止まると、凛ノ介を負ぶって席を立つ。

 その時。

 ふと、不快とすら云えるくらいに強烈で、未知なる怖気を駆り立てるような、ひどい磯の香りが伊織の鼻を刺戟した。

 

(うっ……な、なんだこれは……浮浪者でもここまでひどい臭いはしないぞ……) 

 

 通路を進むほどにその臭いは濃くなり、聖職者モドキの傍を通った瞬間には、もはや一息吸うだけで胸が悪くなるくらいに異常な臭いになっていた。

 

(この人は……いや、そもそも人なのか……?)

 

 さしもの伊織も、おかしいことに気が付く。

 この聖職者モドキは、何か異様だ。すぐにでも憲兵に突き出して、牢屋にぶち込んでもらうべきだとまで直感してしまう。

 しかし今は気にする余裕がない。

 

(何かよくわからないけれど、凛ノ介が怖がっているんだし、下手に関わるのは良くないだろうな……)

 

 伊織は聖職者モドキを訝しむだけして、そのまま汽車を降りた。

 その時、聖職者モドキの視線が、いつの間にか凛ノ介に固定されていたのには、ついぞ気付くことはできなかった。

 

「う、おぇっ……」

 

「わわっ、だ、大丈夫!?」

 

 外に出るなり、凛ん宗家は道端に蹲ってえずいた。嘔吐するまではいかないようだが、相当に気分が悪くて堪らないらしい。

 背中を擦っている間に少しでも回復してくれればとは思うのだが、この調子では、はたして今日中に回復するかどうか。医学の知識がない伊織でもわかってしまうくらいに、凛ノ介の体調は悪かった。

 

(なんとかしてあげたいけれど……)

 

 本当ならすぐにでも街医者に診せられたら良かったのだが、時刻はもう十八時を過ぎている。

 よほど大きな病院でもない限りは、すでに明りが消えているだろうから、どうすることもできない。歯痒い状況だった。

 汽車から降りてしばらく、慮って背をさすり続けた。

 すると献身が功を奏したか。凛ノ介はなんとか肩を借りて立ち上がれるくらいにはなっていた。

 

「……悪い……時間を取ったな……」

 

「ううん。それより、大丈夫? 歩けそう?」

 

「馬鹿にするな……歩くくらい、どうということは……」

 

 口調に反して顔は青白く、足元も震えて覚束かない。歩くなんてできそうにない様子だが、これ以上の心配はかけまいと強がっているらしい。

 しかし、やはりと云うべきか、その強がりも長くは続かなかった。

 

「無理しないで。ほら、背中貸すから」

 

「ああ……そう、だな……」

 

 しゃがみ込んで背中を見せると、二の句を告げずに寄りかかった。よほど苦しかったのだろう。呼吸は荒く乱れて、顔には冷や汗が滲んでいた。

 こんな状態でよくもまあ、あんな強がりを云えたものである。伊織は思わず、呆れと心配で溜め息を吐いてしまった。

 

「無茶するんだから。辛くなったら云うんだよ?」

 

「うん……すまない……」  

 

 凛ノ介を背負ってヨイショと立ち上がると、三越の円タク駐車場に向けて歩き始める。

 すぐ近くに地下鉄道の駅があったが、使おうとは微塵も思わなかった。

 帝都の地下を縦横無尽に張り巡らされた地下鉄は、路面汽車なんか目ではないほどの速さで走るのだが、構内の空気は一呼吸で胸が苦しくなるほど汚れていて、口を布か何かで覆わなければまともに息を吸うのさえ難しい。

 円タクや蒸気バスよりはずっと速くて料金も安いが、逆に云えばそれだけしか良い点がなく、利用するのはもっぱら健康を気にしない貧乏人ばかりだ。

 新聞”アラン・タイムズ”によれば、政府が中央区のトンネルに設置した排気口によって、地下鉄の空気は以前に比べると非常に良くなったそうだが、しかし、高名な機関技術者の本田総一郎曰く、この排気ファンの設置はまだ実験段階であり、帝都各区画に設置するには性能不足も甚だしいとのこと。

 つまるところ、何をどう繕ったとて常人が乗るには適さないのである。

 そんなものに、こんな体調の悪い凛ノ介を乗せるわけにはいかない。一円──現代価値に換算すると二千円から三千円──という少なくない出費になってしまうが、円タクを使ったほうがよっぽどましだった。

「どうも、ノッポの学生さん。病人かい?」

 手近な円タクに乗り込むと、運転手の男が驚いた声を上げた。

 こんな時間に学生が二人、それも片方はひどく具合が悪そうと来れば、驚くのも無理はない。

 

「はい。すみませんが、虎ノ門の赤城家前までお願いします」

 

「ははぁ、なるほど。畏まりました」

 

 後部座席に凛ノ介を寝かせると、伊織は助手席に乗り込みながら行先を告げた。すぐに事情を察した運転手は、多くを聞かず穏やかに車を発進させた。

 残念ながら凛ノ介は、道中でもいっこうに回復の兆しを見せなかった。

 体調が良くなってくれればと祈ったが、どうにもそう簡単にはいかないらしい。

 赤城家の邸宅に着いてから、下女連中に事情を説明して床に就かせてやったが、相も変わらず顔は青いままで、震えも治まる様子もない。

 

「同じものを食べた貴方が健常なら、食中毒の線は薄いでしょう。何か、他に原因らしいことに心当たりはありませんか」

 

「ええと……そうだ、聖職者!」

 

「聖職者?」

 

「はい。汽車に乗った時に、磯の臭いがする無気味な聖職者がいまして。そいつを見た途端どんどん体調を崩して、いつのまにやらこんなに……」

 

「うぅむ……すみませんが、それだけではさっぱりですな」

 

「そ、そうですか……」

 

 赤城家のかかりつけ医に診せても体調は変わらず、しまいには、とんでもなく質の悪い風邪にでも罹ったのかと疑われたほどだった。

 宜なるかな。伊織とて磯臭い聖職者のせいでこうなったと云われれば、偶然でそう見えただけの与太話であると断じていただろう。

 結局のところ、凛ノ介が体調を崩した原因はわからないままであった。

 ここまで来るとさすがに伊織も気が気ではなくなって、枕元で彼の右手を握りながら「大丈夫だ」「すぐに良くなる」などと必死に声をかけ続けるまでになっていた。さながら、瀕死の兵士を看取る戦友の気分である。

 だが。

 

「うるさい」

 

「アッハイ」

 

 相手は瀕死の兵士ではなくただの病人。そう耳元でうるさくされては、気分も休まらぬというもので、部屋から追い出されてしまった。当然の結果である。

 そうしてあえなく手持ち無沙汰になった伊織は、客間に戻る途中、やはりあの聖職者のことが気になって、さてもどうして怪しい輩かと思案に耽った。

 よくよく思い返してみれば、あの聖職者モドキ、なにやら不可思議である。

 まずかように無気味な輩は、帝都でも滅多に見たことがない。ただ単に聖職者というだけならば、耶蘇教の信徒がその辺にうじゃうじゃといるが、不細工どころか人に擬態した化け物めいた姿は見かけない。

 これに加えて、鼻の曲がる磯の臭いまで発しているとなれば、いよいよ不審者である。通報されていてもおかしくはないだろう。

 ところが奇妙なことには、汽車では凛ノ介を除いた乗客の誰ひとりとして、もちろん伊織も含めて、一切あれの存在を気にしていなかった。先に乗っていた乗客たちに至っては、あの鼻の曲がるような磯の臭いに気付いた節すらなかったのだ。

 特に不躾なまでの視線を向けられていたモガなんかは、すぐにでも汽車を止めて警察を呼ぶのが普通だろうに、こうまで不自然だとまったくもって意味不明である。まるで妖術を使って姿形を偽っているようで、まったくもの恐ろしい。

 

「あっ、南条さん。良がった、ちょうど探すとったんです」

 

 我知らずぶるると身体を震わせていると、不意に廊下の曲がり角から飛び出して来たまだ少女くらいの若い下女に、訛りが入った口調で声をかけられた。

 この家に来ると、必ずと云っていいほど見かける下女だ。名前は聞いたことないが、あのもじゃもじゃの頭はよくよく印象に残っている。

 

「凛ノ介様のお部屋行ったっきゃいねんで、慌てて探すたんですよ」

 

「あっ、それはとんだ迷惑をおかけしました」

 

 そういえば凛ノ介の部屋を出る時、誰にも何も云わずにいたのを思い出した伊織は、いらぬ手間をかけさせてしまったと頭を下げた。

 すると下女は、口元を抑えてくすくす笑いながら「やあ、迷惑だなんて」と首を振ってから「何が悩んでら様子ですたばって、やっぱ凛ノ介様だが?」

 

「まあ、はい。急に体調を崩したもんですから、さすがに心配でして」

 

「そう、ですよね……わあもあんつどごです。あの人にゃあ良ぐすてもらってらはんで、早ぐあんべいよなって欲すいです」

 

「……えぇと」

 

「アッ! そ、その……あの人には、良くしてもらってるので、早く良くなって欲しい、です」

 

「そ、そうですね。僕もあの子にはいっつも世話になりっぱなしで。今日なんて、カフェーに連れてってもらったんですよ」

 

「マァ、カフェーさ? それは羨ましだ。わあはじゃいごからではで来たばっかで、そったはいからなとこ行ったことねぐて……いつかわあも行ってみてと思うてらんだばですよ」

 

「……訛りからして出稼ぎですよね? どちらからいらしたんです?」

 

「北の方です。りんごど一緒の汽車でかみ来たんず。顔こばしいがったはんで、実家に仕送りすっために……」

 

 思わずといった様子で眉尻を下げて俯く下女だったが、すぐに用事を思い出したのか、ハッと顔を上げて両手を打つと慌てた声で云った。

 

「あっ! そ、そういえばだね! 南条様は寮さ住んでらど窺ったんばって、門限は大丈夫だが?」

 

 云われて壁の時計を見れば、途端にサッと顔が青くなった。

 

(門限を一時間も過ぎてる!?)

 

 女月神の寮監はとにかく怖い人で、門限や規則を破るとものすごく痛い拳骨を落とすと評判である。伊織も一度だけ喰らったことがあるのだが、あれだけ痛い思いをするは一生に一度で十分と思ったほどだ。

 そんなものを喰らいかねない事態とあっては、伊織もすっかり慌ててしまった。

 

「わ、忘れてた……! すみません、通信機を貸してくれませんか!?」

 

「はい、こったら部屋に御座いますよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 下女の案内で通信機のある部屋に行くと、伊織はすぐに波長を寄宿舎へと合わせて連絡を取った。

 

『何の用だ、南条伊織』

 

 二度の呼び出し音と通信交換手を経て受話器から聞こえてきたのは、いかにも厳格そうな老人の声……云わずもがな、寮監である。即座に伊織の名前を出してきたあたり、通話をかけてくるのは予想していたようだ。

 

「あ、あのですね寮監! これには少し、いやかなり深い事情がありまして……」

 

『ほう、事情か。いいだろう、云ってみろ』

 

 促された途端に、伊織はわずかに尻込みしてしまった。

 寮監の声は明らかに怒気を孕んいて、きちんと事情を説明しない限りは大変な目に遭わせてやる、という気迫が受話器越しでも感じ取れた。

 非常にマズイ状況である。このままではあの拳骨を受ける羽目になってしまう、それだけは嫌だった。

 

「放課後に凛……あーと、赤城と一緒に銀座へ出かけたのですが、その時にですね。汽車に乗った時に赤城が体調を崩してしまって、ええ……それで一向に直る気配がなくて、家に送ったあともしばらく看病をしていたら、こんな時間に……はい」

 

『どこが深い事情だ、阿呆』

 

「あぅ……お、おっしゃる通りで……」

 

 伊織はなるべく寮監を刺戟しないように、努めて反省の色をにじませながら事情を説明したが、残念なことには、空しくも寮監にぴしゃりと一蹴されてしまった。

 

『患者に医者でもないお前が付いて何になる。送り届けたのなら、さっさと連絡を寄越せ。そもそも赤城が体調を崩した時、まず最初に家の者を呼ぶのべきだろうが。何をぐずぐずぐずぐず、看病などと無駄なことを。だからお前は阿呆なのだぞ』

 

「はい、はいぃ……申し訳ありません、申し訳ありません……!」

 

 懇々とした叱責である。

 しかしながら、寮監の声にはもう怒気が含まれていない。ボコボコに殴りつけているような云い草だが、とりあえずは許してくれたようだ。

 

『まあ良い。こちらとて貴様らの仲は承知している。許してやるとは云わんが、寛大な処置はくれてやろう。それと、外泊するならせいぜい粗相をしないようにするんだな。もし赤城の家から苦情が来たら……わかるよな?』

 

「き、肝に命じておきます……」

 

 受話器越しに、ぺこぺこと頭を下げる。

 なんとか拳骨だけは回避できたみたいで、伊織はもう安堵の気持ちでいっぱいだった。それから二、三言ほど話してから受話器を置くと、ついに溜め息となって口から漏れ出てきたほどだった。

 心臓に悪いやり取りを終えて部屋を出ると、外で控えていた下女がくすくすと笑っていた。どうにも、決まりが悪いところを見られてしまったらしい。

 

「わ、笑うことないでしょ?」

 

「だ、だって南条さん、サラリィマンみだいにぺごぺごすんで、もうおもさって、くふふふっ、かにな」

 

 最初は怒っていた伊織だけれど、年近い少女のコロコロとした笑い声には勝てず、誤魔化すみたいに指先で赤くなった頬を掻くしかできなくなった。可愛い女の笑顔に勝てないのは、男の性である。

 

「はふぅ、失礼いだすました」

 

 ひとしきり笑ってあと下女はこほんと咳払いして気を取り直すと、悪戯娘みたいな笑みを引っ込めて恭しい態度に戻った。

 

「まましたぐ……じゃねぐて、夕餉が整ってますが、いかがなさいますか」

 

「ご、ご飯までいただくなんて、さすがに迷惑なんじゃ」

 

 さすがにそこまでしてもらうのは悪いと固辞するが、下女は引き下がらずに続ける。

 

「御客人さ何もお返すせず、このままお帰りいただぐのは、赤城の名折れです。こごはわねどの顔こ立てると思い、せめてお食事ばしでも」

 

「うっ、そう云われると弱っちゃうなぁ」

 

 おそらくは上女連中の受け売りなのだろうが、ここまで云われてはさすがに断り辛い。ほんのちょっとだけ悩んだあと、伊織は頷いて了承の意を示した。

 ますます帰るのが遅くなってしまうが、すでに散々怒られた後なのだから、まったくもって今さらな話であろう。

 

「ここさございます」

 

「どうも」

 

 下女に案内されて茶の間に入ると、すでに膳椀が準備されていた。白米、みそ汁、煮物、焼き魚、そして香の物。未成年であるため酒類はないが、由緒正しき懐石料理の一汁三菜だった。

 普段は寄宿舎の一汁一菜で、飯も麦飯しか食べていない伊織からしてみれば、白米をお腹いっぱい食べられる料理は高級の極みだ。

「あれ、僕だけですか?」

「はい」

 それだけならば伊織も素直に喜べたのだが、しかし、用意された膳椀がひとつしかないところが気になった。さっきから下女ばかりに出会う様子からして、おそらく両親は家にいないのだろう。

 とはいえ、さすがに家人を差し置いて夕餉を摂るのはよろしくない。

 

「凛ノ介の御両親は?」

 

「その、今日は家ぇ空げどります」

 

 ご両親は何処かと訊けば、下女はちょっとだけ云い難そう答えた。

 そういえばと思い出すのは、學校での定期健診が云々という会話だった。それに関連した何かで家を空けているのであれば、確かに両親の不在にも納得は出来る。どうして云い難そうにしていたのかは、少しばかり疑問だが。

 

「……なるほど。なら、しかたないですね」

 

 他家の事情にあまり踏み込むのは、礼儀としてもよろしくない。これ以上は何も聞かずにおこうと決めて、伊織は勧められるまま箸を持った。

 食事は美味であった。

 良家とあって食材はどれも一級品。加えてこれを調理する板前の腕も一級品となれば、それはもう美味い以上の感想もない。勢い余って、みそ汁は二杯、白米は三杯もお代わりしてしまったほどだ。

 

「ふはぁ、食べた食べた! 御馳走様でした!」

 

「はい、お粗末様ですた。お気さ召すて何よりです」

 

「いやぁ、美味しすぎてついつい食べ過ぎちゃいましたよ! さすが良家の板前さんは違いますねえ!」

 

「ふふっ、みなさんにあとで伝えでおぐますね。そうそう、湯の準備ができてらばって、いかがですが?」

 

「エッ、湯の準備ですか?」

 

「はい! 入るがか?」

 

 食事が終ったら今度は湯の準備と来たものだから、伊織は思わず訊き返してしまった。

 この調子だと、風呂から上がったら布団の用意がされていそうで、なんだか怖くなってくる。もし泊ったとして、明日になったら何が出て来るやら。朝食に牛肉なんて出てきた日には、申し訳なさで蚤より肩身が狭くなりそうだ。

 だがまあ、夕餉をたらふく食っておいて今さらな話である。外泊の許可も貰っているのだし、どうせなら最後までお世話になってしまったほうが後腐れもないだろう。

 

「えぇと、じゃあ言葉に甘えさせていただきます」

 

 結局のところ、伊織は湯までいただくことにした。

 赤城家の風呂は、はたしてこれを家風呂と形容しても良いものか。下流の庶民である伊織にしてみれば浴場と見違うほどに広かった。

 目測でもおおよそ二丈はあろうかという浴室はタイル張りで、どこもカビひとつ見当たらないくらいピカピカに磨かれている。

 壁側にいくつもある合金製の蓮口──シャワーヘッドのこと──にも水垢ひとつ見当たらず、清掃の手間を考えれば手放して称賛できるほどに手入れが行き届いていた。

 浴槽は白木作りの箱型で底は深く、横幅に至っては伊織が足を伸ばしてもまだ余る。透き通るほど透明な湯からは、木の柔らかな香りが漂っていて、寄宿舎の使い古された蒸し風呂とは全然違う。

 

(さすが良家は風呂も豪華だなあ)

 

 全身をぐっと伸ばして、深い溜め息を吐く。

 風呂は心の洗濯だと誰ぞが云っていたが、正しくその通り。全身から疲れが悩みがすっかり溶け落ちていくみたいな感覚は、寄宿舎の蒸し風呂なんかでは到底味わえない歓楽で、ともすれば伊織はこのままポックリと寝入ってしまいそうだった。

 

(っ、これはまずい。シャキッとしなきゃ)

 

 うつらうつらとしかけたところで、頭を振って睡魔を追い出す。

 親友の家で溺死なんて、まったく洒落にもならない末代までの恥である。そんなことにはなりたくない。

 ほどほどにして湯から上がると、寝巻が用意されていた。それに着替えて客間に戻れば、はたして布団が、しかも寄宿舎のせんべい布団とは比べ物にならないくらい柔らかそうなものが、そこにはきちんと敷かれている。

 

(なんだか至れり尽くせりだなぁ)

 

 若干の罪悪感を覚えつつもいそいそと布団に入ってみれば、これもまた上質で、雲に包まれているかのような心地である。十秒も経てば、彼は自分でも気づかぬ間に、すっと深い眠りの世界へと落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 夜半、尿意で目を覚ました。

 寝惚け眼を擦りながら厠から出てきた伊織は、ふと妙な気配を覚えて当たりを見回した。さっきまで入っていた厠、手入れの行き届いた渡り廊下、夜露に煌めく中庭の花々。どこにも、何もおかしなところはない。

 どうも、寝惚けて風を間違えたか。そんなふうに片付けた伊織は、欠伸をひとつして部屋に戻ろうかと床の木目を横切った。

 その時。

 

「……?」

 

 不意に視界の端で、動くものがあった。

 凛ノ介である。

 気分悪く寝込んでいたはずの彼が、何故だがふらふら歩いているのだ。どうやら歩けるくらいには良くなったらしい。

 

「凛、凛! 歩いて大丈夫なのかい?」

 

 しかし声をかけてみるが、何故だか返がない。聞こえなかったのかともう一度だけ声を賭けてみたが、やはり何の反応も示さずにふらふらと歩くばかり。その様はまるで、夢遊病患者のようだった。

 そして夢遊病とは、極度の疲労や精神的疲労によって引き起こされるものだと、伊織は聞いたことがあった。となると彼の徘徊は、体調不良が原因で起きた可能性がある。歩けるまで回復した身体が、無意識のうちに足りなくなった水分や塩分を求めた結果、このようになっているのかもしれない。

 

「けど……」

 

 ところが伊織の予想に反して、凛ノ介は台所へ向かう気配がなく、むしろ遠ざかってすらいるように思えた。

 彼はどこへ向かおうというのだろうか。

 不審に思った伊織が後を追ってみると、どうも玄関へ向かっているらしい。だが病人である彼が向かう先とは、はたしてどこであろうか。心当たりはなくもないが、しかしこんなに夜更けに向かうところではない。

 ならば、向かう先はどこか。

 伊織が考えこんでいるうちにも、凛ノ介はふらふらと頼りなく歩き続けて、ついには玄関から出て行ってしまった。

 これはいよいよ止めなければ、事故になりかねない。

 

「凛、凛!」 

 

 慌ててどてらを羽織ってから凛ノ介に駆け寄ると、彼はうっすらと白目を開けて、何か変なことをぶつぶつと云っているようだった。何を云っているのかと耳を澄ませてみれば、彼はなにやら言葉と云うにはいささか形がないことを呟いていた。

 

「いあ……いあ……」

 

「いあ?」

 

 いあ。いあ。いあ。いあ。

 何度も何度も、繰り返し繰り返し紡がれるのは言葉のみ。

 夢遊病者の言葉なぞ形がなくて当たり前だが、それにしては同じことをこうまで同じことを云うのは奇妙である。

 寝言でも同じことは三度と呟かないというに、ここまで来ると云い知れぬ怖気を思い起こさせる。

 家に戻そうとしても効かず、頑なに前に進もうとするのも気がかりだった。

 いくら夢遊病でも、所詮は無意識であれば誘導には素直に従うはず。にもかかわらず、凛ノ介はまるで、どこかへ導かれるように動いているのだから無気味であった。

 

「導かれてる?」

 

 呟いて、馬鹿な考えだと伊織は頭を振る。

 夢に干渉して人を操作するなど、いくらなんでも荒唐無稽にすぎる。妖怪とか、妖術とかのせいだと云われたほうがまだ納得できるだろう。

 あり得ない。

 あり得ないはずなのだ、そんなことは。

 しかし現実に、凛ノ介は延々と「いあ、いあ」なんて繰り返しながら、ふらつきはあれど澱みなく、見慣れぬ道にも迷うことなく、誘蛾灯に集まる羽蟲が如く、導かれるように進み続けている。それこそ、操られているみたいに。

 

「凛、凛! あぁもう、どうしちゃったんだよ……!」

 

 どれだけ大声で呼び止めて、身体を張って押すも引くも、歩みを止めること叶わず。

 ついにはもうにっちもさっちもいかなくなって、ほとほと困り果ててしまった伊織は、せめて凛ノ介が危ない目に合わないように、傍を歩くしかできなくなってしまった。

 ひた、ひた。

 てく、てく。

 二人分の足音が響く。

 街灯の明りも頼りなく、人影すらない闇色の世界は、どうにも不安を煽り立てる嫌な雰囲気を醸している。辺りに広がる暗黒は音を飲み込み、静寂は耳鳴りのように金切り声を上げて、きりきりと伊織の孤独を苛んだ。

 無意識に、凛ノ介の手を握る。

 伊織はとにかく恐ろしい気持ちでいっぱいだった。こんなに雲が黒い夜は何かよくないことが起こりそうで、彼の手を握らないと正気ではいられなかった。もうここらで止まってほしいと、切に願った。

 けれど凛ノ介は、進み続けた。止まることも、鑑みることもなく、ただ進み続けた。

 そうして。

 家を出てからどれくらいだっただろう。

 家を出てからどれくらい歩いただろう。

 もう時間の感覚もなくなってきた頃、やっと凛ノ介が、うらぶれた路地の真ん中で立ち止まった。

 

「……おっとと」

 

 それと同時に、凛ノ介の身体がまるで役目を終えたと云わんばかりに、かっくりと膝から崩れ落ちた。片腕で抱き留めてやると、瞳を閉じて静かな寝息だけを発しているのがわかる。夢遊病もここでお終いのようだ。

 着いた途端に寝入ったところを見るに、どうやらここが目的地で間違いないらしい。一応は辺りを注意深く見回してみる。だが、はたして妖術師めいた影があるはずもなく、生ごみの腐臭と真っ暗闇が広がるばかりで何もない。

 どうしてこんな、街灯の灯りも届かぬビルヂングの谷底を目指していたのやら。まったくもって謎である。

 

「帰るよ、凛」

 

 何がともあれ、夢遊病が直ったなら早く帰るべきだ。こんな寒い夜に薄着で、しかも不衛生なところに長居すべきではない。

 恐々とした気持ちと一緒に凛ノ介を抱えると、伊織は来た道を戻ろうと踵を返す。

 束の間。

 強烈な磯の臭いが過って。

 そして左右と正面の道から、否、音もなく開いた潜孔から”人らしき何か”が数十人、ぬるりと目の前に姿を現した。

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